●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1932年、平頂山事件
1932年9月15日深夜から16日早朝にかけて 1000~2000人の匪賊(武装盗賊)は、 満鉄が経営する撫順炭坑を襲撃し、 日本人5名を殺害、炭鉱施設を破壊・掠奪した。 その日(16日)のうちに日本軍が平頂山村を捜索したところ 平頂山村の住民が炭坑を襲撃した匪賊だったことが判明したため、 日本軍は人口1369人(多くは炭鉱労働者)のうち約400人を掃討した。 襲撃前、満鉄が経営する撫順炭坑は 匪賊襲来の情報を入手し、警備を増強。 守備隊は約80名(200名説あり)しかいなかったため、 炭鉱では施設を鉄条網で囲み、従業員の在郷軍人で防備隊を結成し、 警察団、青年団、中学生なども非常時には応じる体制をとっていた。 9月15日夕方、郊外に匪賊が集結中との情報を得て、 防備隊600名を非常召集、警官約200名を加え、それぞれ配置についた。 15日深夜、1000~2000人と思われる匪賊が撫順炭坑を襲撃し、 早朝まで日本の防備隊と戦闘が繰り広げられた。 匪賊は撫順内部の通匪(スパイ)から警備状況を通報されており、 防備隊の裏をかいて手薄な個所を狙って来た。 日本側に死者5名を含む11名の死傷者が出た。 (社員の渡辺寛一楊柏堡所長以下、殉職4名・重傷2名。 家族の死亡1名・重傷2名、守備隊の負傷2名) また、施設は、破壊・焼却・掠奪され、 その後、炭鉱業務は暫く停止を余儀なくされた。 井上清一中尉は襲撃の足がかりとなった平頂山が 最も通匪の嫌疑が濃厚とにらみ、約40名を率いて調査したところ、 襲撃現場からの盗品が続々と見つかり、 平頂山の住民が匪賊と行動を共にしていたことが明確になった。 平頂山村民の多くが撫順炭坑を襲撃した匪賊の一味だったのだ。 その時「井上中尉の率いる一小隊は、匪賊からの発砲を受け、交戦となった」 と武藤関東軍司令官から内田外務大臣に宛てた電報も残っている。 10月2日付満州日報 「匪賊の再襲来や焼討ち事件のため、 撫順付近の支那住民の3分の1が撫順を離れ、郷里の山東方面へ避難」 10月15日付満州日報 「匪賊の被害者に撫順県公署が救済開始」との記事を掲載し、 平頂山村の人口が1369人で、うち死者は400人とある。 1932年9月17日 「満洲日報」 ![]() |
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