正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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いわゆる「南京大虐殺」関連_2_東京裁判関係

以下の東京裁判の資料が、いわゆる「南京大虐殺」とされるものです。
いま現在も中国の公式見解は変わっていません。
よって、それ以外は「あった派」が編み出したものに過ぎません。
いわゆる「南京大虐殺」の期間は、
南京陥落日から6週間と書かれていますので、
1937年(昭和12年)年12月13日から翌1938年(昭和13年)年1月24日あたり
までというのが中国側の公式な主張になります。
―――――――――――――――――
第376号(昭和23年2月18日)(抄)
E「検察側最終論告」(1)
(略)
南京強姦事件 J-61

1937年12月13日、南京が陥落した時、
同市内に在る中国軍隊の凡ての抵抗は停止しました。
同市に入城した日本兵は街路にいた民間人たちを無差別に射撃しました。
一度、日本軍が同市を完全に支配するや、
強姦、殺戮、拷問及び掠奪への耽溺が始まり、それが6週間続きました。
最初の2~3日間に2万人以上の人々が
日本軍により即座に死刑に処せられました。

6週間に南京市内とその周りで殺害された概数は、26万ないし30万で、
全部が裁判なしで残虐に殺害されたのであります。

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再審「南京大虐殺」 より引用
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/alleged/chapter2-1.html

東京裁判に提出された「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告[六]」
によれば、
第二次大戦後、日本の「戦争犯罪」を裁くため連合国が
開廷した「東京裁判」に備え、
中国国民政府は一九四五年十一月七日「南京敵人罪行調査委員会」を設置し、
中国人に南京における日本軍の犯罪を申告するよう呼びかけた。

ところが、日本軍の残虐行為を申告する者が「甚だ少なき」ばかりか、
聞き取り調査を行うと唖然として「口を噤みて語らざる者」や
虐殺を「否認する者」までいたという。

やむなく中国政府は暫定的な報告を一九四六年一月二十日、
東京裁判に提出したが、
「日本軍による大量虐殺」の証拠は埋葬記録を除けば、
魯甦という人物の「目撃証言」ただ一件であった。

その後も調査を進め、ようやく「五百件の調査事実」を発掘したが、
「資料を獲得する毎々一々これを審査」した結果、
新規に採用できたのは僅か四件であった。

―――――――

『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』
東中野修道著 P222~224 より引用

1946年2月付で東京裁判に提出された、
南京地方裁判所付き検察官の「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」は、
日本軍の虐殺行為を申告する者が「甚だ少なき」と記している。

南京の大残虐事件の聞き取り調査を受けた市民のなかには、
「冬の蝉の如く口を噤みて語らざる者」がいた。
また、そんなものはなかったと「否認する者」すらいたと報告していた。

◆東京裁判に出廷すべき「証人たち」が出廷しなかった
そのような状況のなか、
連合国はいったい誰を証人にして「2万の男女子供」が
殺害されたという確証を得たのであろうか。

連合国が南京大虐殺の「証人」として東京裁判に出廷させたのは、
ベイツ教授、ウィルソン医師、マギー師であった。

南京市民の中からは、許伝音、尚徳義、伍長徳、
陳福宝、梁廷芳の各氏であった。

ここで読者は、おやっと思われないだろうか。

連合国が「証人」として真っ先に立てるべきは次の5人ではないか、と。

まず世界初の「南京大虐殺物語」を報じたスティール記者や
ダーディン記者である。
連合国が彼らの新聞に目を通していなかったことはないであろう。

次に30万人虐殺を電報で打とうとした『戦争とは何か』の編者
ティンパーリ記者と、そこに分担執筆したベイツ教授やフィッチ師であった。

ところが、この5人のうち出廷したのはベイツ教授だけであった。

ダーディン記者、スティール記者、ティンパーリ記者、フィッチ師は、
なぜ東京裁判に出廷しなかったのか。

彼らにとって東京裁判は、当時の記事や報告を改めて国際的に
認知させるうえで、またとないチャンスであった。
彼らが当時書いたことは正当だったという自負があれば、
歴史的な舞台で証言する好機到来と受け取られたはずだ。
ところが彼らは出廷しなかった。

なぜなのか。まず考えられることは、
彼らはみずからの記述を目撃証言として法廷で述べるだけの自信がなかった、
つまりみずから虚報と認めていたのではないか。

2番目に考えられることは、
彼らの記事や報告が中央宣伝部の宣伝戦上にあると露呈することを
恐れたからかもしれない。
スティール記者、ダーディン記者は、
アメリカの新聞に南京大虐殺の記事を書いた特派員として
知られていたのだが、
特にダーディン記者が中央宣伝部の董顕光副部長と旧友であったことは、
知る人ぞ知るであった。

フィッチ師は広東の呉鉄城省主席たちとも交流があり、
アメリカで南京大虐殺を講演して回っていることも日本側に察知されていた。
彼の妻が蒋介石の妻の「親友」であったことも知られていたであろう。
ティンパーリ記者は、同盟通信の松本重治上海支局長が
回想しているように『戦争とは何か』の編者として知られていた。

こうしてみてくると、連合国はあたかも、当時南京大虐殺を知らせめた人、
あるいは中央宣伝部と関わりがあった人を証人に喚問することを、
あたかも避けていたかのようだ。

しかし連合国としては、
当時南京大虐殺を主張した人を出廷させることがどうしても必要であった。
それは5人のうちでベイツ教授しかいなかった。
ベイツ教授は蒋介石政府との関係を知られていなかった。
ベイツ教授は『戦争とは何か』の分担執筆者であったが、
それが判明したのは最近になってのことである。
匿名の執筆であったから、当時はまったく知られていなかった。

―――――――――――――――――

蒋介石による南京軍事法廷における谷寿夫中将の申弁書
http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/tani-sinbensho.html
http://megalodon.jp/2013-0503-1244-19/www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/tani-sinbensho.html

(途中から)

被告は此等の暴行ありしを、見たことも聴きたることもなく、
また目認目許せしこともなく、況や命令を下せしことも、
報告を受けたることもなし。

また住民よりの訴へも、陳情を受けたることもなし。

この事実は被告の率ゆる部隊が、専ら迅速なる作戦行動に忙はしく、
暴行等を為すの余裕なかりしに依るの外、
被告の部下指導の方針に依るものなり。

即ち元来被告は中日親善の信念に基づき、
内地出発当時の部下に与へたる訓示にも

・・・・・・・・・・

「兄弟国たる中国住民には骨肉の愛情を以てし、
戦闘の必要以外、極力之を愛撫し俘虜には親切を旨とし、
略奪、暴行等の過誤を厳に戒めたる」

に依る外、
各戦闘の前後には機会を求めて隷下部隊に厳重に非違行為を戒め、
常に軍紀風紀の厳正を要求し、犯すものには厳罰を加へたるに原因す。

故に被告は被告の部隊に関する限り
此等提示せられたる戦犯行為なきを確信す。

尚起訴書には被告を日本侵略運動中の一急進軍人なりと記述せられあるも、
被告の経歴其他に依り該当せざること明瞭なり。

(以下略)

―――――――――――――――――

『東京裁判 日本の弁明』小堀桂一郎編 講談社学術文庫(解説P25~28)

東京裁判に於ける南京問題と「検閲」

連日新聞紙上に報じられて全国民の注視を集めた各段階の審理過程の中、
殊に印象深かったのが、
満州国建国事情めぐっての審理で検察側証人として
出廷した廃帝溥儀(ふぎ)氏の錯乱した言動(八月の後半)、

そしてその少し前七月下旬に突如として法廷に登場し
九月始めまで尾を曳(ひ)くことになる「南京問題」である。

これは全ての日本国民にとって寝耳に水の衝撃だった。
南京問題の証言に法廷に呼び出された検察側証人達は、
簡単に言へばそこで思ふ存分に法螺(ほら)を吹きまくり、
見て来た様な嘘をつき放題に言ひ散らす。

新聞報道を通じて唯一方的にその虚構を耳に吹き込まれる一般の市民、
法廷内で直接それを聞かされる弁護人、記者、傍聴人達、
いづれも遺憾(いかん)ながらそれに反駁(はんばく)する力も手段も
持ち合わせてゐない。

凡そ或る事実が「あった」といふ証明は証拠さへあれば誰にもできるが、
「なかった」といふ証明は極めて困難である。
それは汝が「知らなかった」だけのこと、と言はれればそれまでだからだ。

かくてこの巨大な「うそ」が世界の眼を欺く
「まこと」に仕立て上げてゆくからくりは
それ自体極東国際軍事裁判所が抱へこんだ大醜聞(だいしゅうぶん)であり、
永く歴史に残る不名誉な失策となった。

南京問題が全く検察側証人達の虚言(きょげん)から捏造(ねつぞう)された
架空の事件であるとの実証的及び文献的研究は数多くあるが、
その虚構が成立することになった現場としての東京裁判法廷内部の経過に
焦点を絞った研究としては冨士信夫氏の『「南京大虐殺」はこうして作られた
-東京裁判の欺瞞(ぎまん)』(平成七年四月、展転社刊)が
始めてのものであると言ってよい。

この南京問題の場合に典型的に表れてきたことだが、
検察側の立証に八箇月も日時を費し、
その間に提出される個々の事項について
弁護側の反駁立証を即座に行ふ機会が与へられてゐない、
といふ構造は非常な問題である。

(中略)

何分事件全体が虚構なのであるから、
事件の不存在を直接証明する形の証拠資料もあり得ないわけで、
弁護側の提出した南京問題に関係する反証は、
その様な事が起り得るはずがない、そんな事実を見た人はゐない、
といった形の消極的なものばかりで、且つ点数も少ない。

従って却下されたり未提出に終ったものも点数からいへば僅少であり、
本書原本の資料集も、
その点では別段の新しい論拠を提出するものとはなってゐない。

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南京攻略戦に参加した日本軍、松井司令官の横には、
国際法の権威であった齋藤良衛博士が必ずいました。

松井大将は南京攻略を前に齋藤博士の助言を受け、
「南京攻略要項」を指令していました。

その内容は、7項目からなり、

「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」

「中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス」

「外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ」

「略奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス」

など、不法行為の厳禁を松井大将みずからも厳命していました。

さらに松井大将は、南京城攻撃を前にして
上海派遣軍と第10軍の末端兵士に対しても訓戒を次のように述べています。

「南京ハ中国ノ首都テアル之カ攻略ハ世界的事件テアル故ニ慎重ニ研究シテ
日本ノ名誉ヲ一層発揮シ中国民衆ノ信頼ヲ増ス様ニセヨ
特ニ敵軍ト雖モ抗戦意志ヲ失ヒタル者
及一般官民ニ対シテハ寛容慈悲ノ態度ヲ取リ之ヲ宣撫愛護セヨ」

―――――――

南京城壁を取り囲んだ日本軍は攻め込む前の12月9日、
空から手紙を散布して中国側に降伏を促しました。

回答期限の12月10日の正午までに返事が得られなかったので、
残念ながら攻め込む結果になってしまいましたが、それでも
南京安全委員会から要請があった避難区と重要歴史物への攻撃は避けました。

下記は、防守都市で無差別攻撃が可能であった安全区に対し、
日本軍が砲撃による無差別攻撃を自制した事を証明する重要な文書です。
それは同時に、南京城内で数万人規模の虐殺が
行われ得ないことの状況証拠でもあります。
なぜなら、手っ取り早く虐殺するには、一か所に集まっている安全区に
砲弾で無差別攻撃を仕掛ければ済むからです。
いわゆる大虐殺をするのなら、
便衣兵の摘出(兵民分離作業)をする必要などなかったのです。
南京城内中山路に集められた中国軍投降兵たち。

国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、
国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送りました。

「法廷証」323号=検察番号1744号抜粋で弁護人が朗読。
(極東国際軍事裁判速記録210号)

「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという
美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する
将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るように
なりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」

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松井石根大将が認識していた「南京事件」とは、
興奮した一部の若年将兵が忌むべき暴行を行なったという
「ウワサ」を聞いただけだと証言しています。

↓↓↓

『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』冨士信夫著
P148~201より抜粋

東京裁判 弁護側立証

■中山寧人

本証人は昭和12年(1937年)11月から翌13年3月まで
中支那方面軍参謀(当時、陸軍少佐)として勤務し、
情報収集を主務としていた人物であった。

従って以下紹介するように、その宣誓供述書の内容は、
中支那方面軍の任務、松井軍司令官の旗下部隊に発した命令の内容、
南京城攻撃前に執られた措置、南京攻略の模様、
南京入城後に執られた措置等詳細に亘るものであった…

(略)

南京事件のことを私が聞いたのは、実は終戦後である。
私は南京事件なるものは、次の4つに区分して考える必要があると思う。

第1、市民に対する虐殺事件。
これは絶対にそういうことはないと信じている。

第2、俘虜の虐殺。先述したような誤り伝えられた外に、
これもないと考える。

第3、外国権益、特に財産に対する侵害。これは一部にあったと思う。
ただし、これは中国兵がやったのか日本兵がやったのか、
その点は今に至るまではっきりしない。

第4、婦女子に対する不法行為および掠奪。
これは小規模においてはあったと考え、はなはだ遺憾に思う。

―――――

■松井石根

当時、自分が我軍将兵の軍紀風紀の粛正、
その他右目的達成のため執った諸般の処置については、
先に証人中山寧人が詳細に証言しているので、再説はしない。
自分の南京占領に対する周到な配慮に拘らず、
占領当時のこうそうたる状態における、
興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行った者があったらしく、
これは自分のはなはだ遺憾とするところである。

ちなみに南京陥落当時、自分は南京を去ること
略々140マイルの蘇州で病臥中で、
自分の命令に拘らずこれら暴行が行われたことは知らず、
また何等の報告に接せず、
17日南京入城後初めて憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて、
即刻厳格な調査と処罰をなさしめた。

ただし、戦時における支那兵および一部不逞の民衆が、
戦乱に乗じて常習的ノ暴行掠奪を行うことは周知の事実であって、
南京陥落当時の暴行掠奪も支那軍民の冒したものも、また少なくなかった。
これを全部日本軍将兵の責任に帰そうとするのは、事実を誣いるものである。

(略)

要するに、自分は南京陥落後昭和13年2月まで上海に在住したが、
その間、12月下旬南京で若干の不祥事件があったとの噂を
聞いただけであって、
何等このような事実について公的報告を受けたことなく、
当法廷で検察側の主張するような大規模な虐殺事件に関しては、
1945年終戦後東京での米軍放送によって、
初めて聞き知ったものであることをここに確言する。

自分は右放送を聞いた後、
我軍の南京占領後の行動について調査を試みたけれども、
当時の責任者は既に死亡し、または外国で抑留処罰され、
諸書類はことごとく焼けてしまったため、
10年前の過去に遡って当時の真相を仔細に
吟味証明することは出来なかった。

しかし、自分は南京攻略戦闘に際して、支那軍民が爆撃、銃砲火等によって
多数死傷したことはあっただろうけれども、
検察側が主張するような、
計画的または集団的虐殺を行った事実は断じてないと信じる。
日本軍幹部がこれを命じ、またはこれを黙認した、というようなことは、
はなはだしく事実を誣いるものである。

(略)

自分は上海帰還後、南京での暴行事件の噂を聞き、
特に12月下旬部下参謀を南京に派遣し、重ねて南京滞在将兵に戒告を発し、
事件の厳重な調査と違反者の処罰励行を命じた。
しかし、自分の離任まで格別重要な報告には接しなかった。

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ちなみに、第11軍司令官、北支那方面軍司令官、
第6方面軍司令官、支那派遣軍総司令官を歴任した
岡村寧次大将の『岡村寧次大将回想録』にみられる
岡村寧次大将が考えていた「軍紀の乱れ」の程度とは、

―――――引用はじめ―――――――
昭和一三、一一、二〇 A

漢口占領当時支那人及外人は南京攻略時の我軍大暴虐より推察して
我軍の暴行を予期せしが案外に軍紀厳粛なりしかは民心大に安定せり。
然るに入城后二、三日にして第六師団其の他に
強姦事件二、三発生し謡言次で起り、
市中不安を招きたるは遺憾とする所なり。
予は武漢入城に際しては極力兵力を減少し漢口に入れたるは
第六師団の二大隊のみ又第六師団も入城前随分厳格に訓諭するありしも
一年以来の悪習は容易に将兵全部を改悛せしむるに至らず、
燦然たる戦功を樹てたる部隊が遂に一汚点を印するに至りたるは遺憾なり。
被害者の多くは外人宣教師の許に遁れて再難を防きたる為是等外人より
我憲兵に告訴し来り事件は世界的に喧伝せらるへし。
予は本日軍の宣撫規定を発布するに臨み改めて是等非行厳戒の旨を訓示せり。
―――――引用おわり―――――――

このように2、3件の強姦事件を非常に嘆いています。
さらにその「二、三件」の強姦事件が判明した経緯は、
被害者を保護した外人宣教師の告訴によるものだったことも窺われます。
このやり方は南京安全区国際委員会による日本大使館宛抗議と同じもので、
事件の多くは外国人宣教師の主張の中にのみ存在するものだったのです。

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『南京事件』秦郁彦著 P35

(東京裁判で)
ブルックス弁護人とマギー証人の次のような遣り取りを記している。

概要

ブルックス弁護人がマギー証人に、

「それでは、只今のお話になった不法行為
もしくは殺人行為と言うものの現行犯を、
あなたご自身幾らぐらいご覧になりましたか?」

と問い詰めたところ、マギー証人は、

「一人の事件だけは自分で目撃致しました」

と述べ、証人が二日間にわたって証言した百件以上もの日本軍による虐殺、
暴行、掠奪、強姦等の数々は、ほとんど伝聞に属するという証言を得た。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

「兵に国際法を教えていなかったのではないか」という指摘に対して。

どこの軍隊でも、下っ端の兵に国際法は教えません。
自軍の規則を戦時国際法に合致するよう作成し、
兵への教育の中でその規則を教えます。

士官教育では国際法(慣習法)、戦時国際法(成文法)も
教えているようです。

現実問題として兵は出来の良い者ばかりではなく、
法理論など教えても皆が理解することは困難です。
普段、法を扱わない普通の人に
難解な法理論を言っても理解できない人が多いでしょう。

ですから、やって良い事、いけない事という規則で教育するのです。
だれでも覚えられ、理解でき、
守ることができるように考えられているのです。

したがって、兵に国際法(正確には戦時国際法陸戦法規)
を教えていなくても国際法の遵守は可能なのです。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

●金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記からの抜粋

法廷証第309号=検察番号246号。
松井大将の弁護人伊藤清氏が東京裁判の弁護側立証段階で抜粋朗読。
極東国際軍事(東京)裁判速記録・第210号

1、(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、
また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。

2、12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を
横断して集まるのを目撃しました。
あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を
携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。

3、(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。
私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。
私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。
われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、
これらの贈り物は大いに歓迎されました。
彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。

―――――――

秦郁彦著『南京事件』84ページ
マギー牧師、「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」

スミス博士も調査報告書の中で、
「難民区内には火災もなく平穏であった」
「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べています。

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★日本軍は自軍の兵を、ちゃんと処罰していた。

『日中戦争史資料8』P192

東京裁判における塚本浩次(事件当時陸軍省法務官)の証言

「私は松井軍司令官の命令を帯し、作戦要務令の指示する処に従い、
軍紀・風紀を破る者に対しては厳重にこれを処断し
余す所はなかったと考えて居ります。
各部隊としては上海派遣軍法務部が、余り厳罰を科し、
微細な罪をも究明する態度を非難することもあった程でありました。」

「罪種は主として略奪・強姦であり、傷害・窃盗は少なく、
それに起因する致死は極めて少なかったと記憶して居ります。
殺人も2、3件あったと思います。但し放火犯を処断した記憶はありません。
又集団的虐殺犯を取り扱ったこともありません。」

「兎に角、上海派遣軍の法務部が取扱った事件・人名・処罰は
全て陸軍省法務局に報告しましたから、
それによれば判明するはずであります。
私の記憶では少なくとも120件位は確実に処断したと思います。」

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「続・現代史資料6:軍事警察」(みすず書房) P112~117

「第10軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」 「被告事件既決/未決一覧表」
1937年10月12日から翌年2月23日までの記録

既決部分のみを数えると、
殺人では29人が、強姦では21人が処分を受けています。
(2名は罪名が強姦殺人で重複、
また同一の事件で複数名が処分を受けていることがある)。

総数が55件100名ほど、件数にして殺人が7件、強姦が16件。

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★ソ連軍、アメリカ軍、日本軍の犯罪を比較

ベルリンが陥落した際、ソ連兵によって強姦事件が多発した。
「シャリテ病院産婦人科受診簿」によると、
当時ベルリンには140万人の女性・少女が在住し、
「少なくとも11万人の少女・女性」が強姦され、
そのうち出産可能な年齢であったのは5万7800人で、
1万1000人強は妊娠し、1100人以上の子供が生まれたことになる。

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「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)というものがある。
これはマッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日
(特別高等警察)解散命令までの米軍の不法行為を
特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたもの。

これによれば1945年8月30日~9月10日の12日間分だけでも
強姦事件9、ワイセツ事件6、警官に対する事件77、
一般人に対する強盗・略奪など424件。

全ファイル約1か月間で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、
その他の不法行為945件。

他にも昭和27年から翌28年4月までの
1年間における「進駐」軍の犯罪(国家警察発表)は
殺人6件、強盗窃盗229件、強姦43件など計3882件。

それから、米軍が厚木と横須賀に進駐後10月末までの約2ヵ月間に
横浜の警察に届けられた記録によれば
殺人4、強姦29、傷害 殴打40、金銭強奪235、
時計、その他552、自動車32、警官サーベル53、その他12、合計957。

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「続・現代史資料6:軍事警察」(みすず書房) P112~117

「第10軍(柳川兵団)法務部陣中日誌」 「被告事件既決/未決一覧表」
1937年10月12日から翌年2月23日までの記録

既決部分のみを数えると、
殺人では29人が、強姦では21人が処分を受けています。
(2名は罪名が強姦殺人で重複、
また同一の事件で複数名が処分を受けていることがある)。

総数が55件100名ほど、件数にして殺人が7件、強姦が16件。

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起訴状に対する意見

松井石根 昭和21年4月30日

1、日本の政策全般に対する誤解

日本の政界の全般、殊に対支思想の根本を誤解している。

尚日本の戦争を凡(すべ)て頭下しに侵略戦争と極めているが、
先ず其誤れる観念を除く事必要なり。

日本は其生存上已(や)むに已(や)まれず
国家の存亡を賭して戦ひたること日露戦争以来今回も同じである。

先に英・米・ソ等が間断なく支那を使嗾(しそう)し、
精神的、物質的援助を与ふる事なかりしならば、
日支問題は疾く解決し、従って大東亜戦争も起らざりしならん。

又、日本が漸次国力を発展せしめ、多数人口の捌(さば)きを求め、
生活水準を引揚げて欧米並みに比肩せしめんと欲するは当然なり。

要は現状を維持せんとする欧米と、
必然的に国力を進展せしめんとするものとの衝突と見るも可ならん。

2、南京攻撃に関して

一、南京攻撃は上海戦の継続にして予告を与ふべき性質のものにあらず。
尚予は、特に南京の平和的占領のため勧降文(注・降伏勧告文)を
飛行機にて撒布し余猶を与へし次第にて、十二分の措置を講じたり。

二、人的物質の損害については、戦争の実際上已むなき事なり。
但し予は終始之を最小限に止むることに努力せしことは勿論なり、
殊に諸外国の権益や人的物的保護の為めには、
自己を犠牲にして之を防止するに努めたり。

検察側の所謂「虐殺事件」については予は全然知らず。
もっともは予は十二月十七日の南京入城式後数日南京にありしのみにて、
上海に帰りたるを以て、特に参謀を遣はして調査せしめたるも、
予の二月下旬帰還までには斯かる報告は受け居らざるなり。

予が虐殺事件なるものを始めて耳にしたるは、終戦後米国側の放送なり、
予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも、
南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、
そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たるも、
之も責任者の報告にあらざるを以て、
其詳細不明にして、而(し)かも予は之を確言する事能はず。
尚支那兵が軍服を便服に代ふるにより人民との区別不明なりし為め、
自然人民の不幸を招きたる事あるべし。

三、日本兵の強姦、掠奪等については、当時得る限り厳密に調査せしめ、
被害者に賠償せしめ、又犯行者は厳罰に処したり。

但し掠奪に関しては、遁走の支那兵及び暴民化した支那人の為めによるもの
大多数なりしこと疑ひをいれず。

四、南京入城前城外の孫中山陵を始め、
重要なる歴史的建築物や遺跡等の場所を記入せる地図を各部隊に分配して、
南京の歴史的文化的建築物の損害なからしむ事に特に注意を払ひたる位にて、
不当に不必要に損害を加へたる如き事は絶対になし。

3、起訴事項について

各貢に関する予の関係は前記の如し。

要するに予は、昭和3~4年(注・1928~29年)の間
参謀本部第二部長の職に在りたるも、此職は情報の収集が専門にして、
直接作戦又は政略実行に責任も関係もなき処なり。

又(注・昭和)4年より約半年間欧米を視察旅行し、
帰国と共に四国の師団長に転じたるを以て、
満州事変の勃発も其後の進展も全然無関係にて知らず。

尚(注・昭和)7年12月より軍縮会議の陸軍全権として
ジュネーブに約8ヶ月滞在し、帰還後は軍事参議官となるも、
その間須臾(すゆ)にして、台湾軍司令官に転じたるを以て、
此間中央部の事は何も関係なし。

昭和9(注・1934)年10月東京に帰任、10年8月予備役となりたるを以て、
此間の時機も短く、且つ軍事参議官なるものは、
形式的の隠居役なれば、何等責任なき地位なり。

予備になりたる翌年召集せられ、
昭和12(注・1937)年8月上海軍司令官となり、
思想、文化を通じて亜細亜諸民族の協和と復興に尽力せるものにして、
其目的とする処は、速に戦争を終息し、
東亜の平和と繁栄を招来せしめんことを冀(注・ねが)ひたるものなり。

http://history.gr.jp/~koa_kan_non/5_03.html

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キーナン主席検事の冒頭陳述に対する意見

松井石根 昭和21年6月15日 記

1、近代における東洋戦争の性質

過去一世紀に於ける東洋の戦乱は、欧米諸国の東洋侵略の歴史なり。

東西インドに於ける欧人の侵略は勿論、
その後に続く英国の支那に対する阿片(アヘン)戦争、仏国の対支戦争、
米国のスペイン戦争とフィリピンに於ける戦乱領有皆然りである。

帝政ロシアの満州侵略は其最も顕著なるものであった。

最近に於ける欧米の経済的侵略は、
既往の侵略により獲得した植民地によってもたらされた欧米諸国の富有なる
資力と工業力をもって、東洋にのぞみ、直接東洋を其市場とし、
又はこれを開発して、さらに利益を累増せんとする為めの目的に外ならない。

かくして欧米は、既得の政治的、経済的に優越して現状を維持せんと欲し、
東洋をいつまでも憐れむべき状態におき、
これを搾取し収奪する対象と考えてきた。

然るに日本が欧米と比肩する状態に漸次発展しつつあることに対して、
自然に欧米諸国との抗争を惹起するに至ったものである。

ただ東洋に於ける日本と中国との抗争は、
一面には両国民の自然的発展の衝突とも見るべく、
また両国民思想の角逐とも考えられる。

蓋し支那国民の思想は、最近半世紀間著しく欧米の民主思想
及びソ連の共産思想の感化を受け、東洋本来の思想(儒教・仏教等)に
顕著なる推移を招き、中国国内に於ても既に各思想の混乱粉闘を招致し、
惹いては日本民族との紛争の原因をなせり。

而かも欧米諸国が支那に於ける政治、経済上、更に其思想的地盤を保持して、
いわゆる世界現状維持政策を固執せんが為に、直接間接支那国民を支援し、
日本との闘争を使嗾(しそう)したるため、
日支両国の紛争は年を逐ふて累進拡大せるは遺憾なり。

2、日本の過去における戦争の目的

一、明治二十七年、八年の日清戦役は、専ら朝鮮に於ける支那の不当なる
政治権力を排除して、朝鮮の独立を確保せしめ、
日本の自衛を保持せんとするにあり。

二、日露戦争は帝政ロシアの満州及朝鮮に於ける侵略を防止して、
満州の保全、朝鮮の独立保持を目的とし、
延ては日本の独立を完ふせんとするにあり。

三、満州事変以来数度の支那出兵及び昭和十二年以来の支那事変は
いずれも日支間の条約、協定に対する支那側の違反にその原因がある。

日本は在支那日本人の生命財産又はその既得権益を守るための自衛が
その直接の目的であり、延(ひい)ては欧米諸国の政治的、経済的、
思想的な侵略を控制して、東洋平和の確立を保持せんとするにあった。

かくて日本の対支戦争の目的は、
断じて領土的侵略を目的としたものではない。

朝鮮の併合は、欧米諸国及び支那の誘惑と使嗾による
朝鮮の紊乱に対応するために、
必要已むを得ざる便宜の手段たりしものとして、
今次の支那事変の如きも、当初より一貫して日本は支那国民を相手にせず、
只管(ひたすら)日本に反抗する蒋介石政権
及その軍隊並に一部抗日人民のみ敵としたるものなることは、
?時の宣言に明かなるのみならず、我が政府が本事件の始めに於て、
努めて事件の拡大を防止し、
局地的解決に意を尽くしたることは周知の事実である。

3、共同謀議について

由来戦争の目的は、国家自体に在ること自明のことなり。

自然当時の国政を担当せしものこそ、其責任を負うべきものにして、
たとえ其国家の各地位に職務を有するものといえども、
国策の決定に関する責任なき者に、
その責任を拡張するは、全く不道理である。

況(いわん)や日本の政治組織並びにその実権の発動は、
米国のそれとは顕著に相違するをもって、
米国の習慣や方式をそのまま我が国に適用するは誤りである。

米国は民主共和国であるが、日本は立憲君主国家である。
従ってその憲法も、日本と米国は大いに異なる。
ことに日本軍人は、宣誓により、絶対の服従を要求せられており、
現に軍人の憲法と称せられる宣誓文には、

軍人ハ其事ノ如何を問ハズ必ズ之ニ服従シ、抵抗干犯ノ処分ナキコト

とあり、たとえ国家の政策又は上官の命令に不同意なる場合であっても、
絶対にこれに服従すべき義務がある。

これに背きたる者は、抗命罪として重き刑罰に服すべき規定なるを以って、
直接其決定に責任を有せざる者は、ただ上司上官の命令に従ふ外ない。

従っていわゆる「共同謀議」なるものは、
責任者相互間に於てこそ成立すれども、
之が決定に与(あず)からざる者には及ばさると共に、
其責任を有するものに、況(いわん)や予の如きは、
ある時期中央部の要職にありたりといえど、
示されたる訴因の事実に関し、決定の責任ある地位にありたる事なし。

尚多くの場合は中央部の地位にあらず、他の職務に在りたるを以て、
当時何事が政府又は軍部に於て計画せられ、
謀議せられありたるやも全く覗(うかが)ひ知らざるなり。

殊に昭和十年退職予備役に入りし前は師団長、
又は台湾軍司令官として外地に在り、
其後召集せられて上海総司令官たりし期間、
即ち十二年八月十五日より昭和十三年二月廿八日?の間を除くの外
全然軍部のことに関し無関係、没外漢なりしなり。

4、南京事件に就て

A、上海事件発生の原因

昭和十二年七月の所謂盧溝橋事件の発生の次第は、
予の詳知せざるを以って之を省略す。

十二年八月初以降の上海事件は、
支那軍が1932年の列国間の停戦協定を無視し、
上海租界に接近し来り、我海軍将兵に危害を加へ(編者注・大山事件)
尚我海軍陸戦隊の微力を以てしては
到底居留民の保護に任じ能はざりしのみならず、
海軍自身さへも危殆(きたい)に瀕したりしを以て之を援助するため、
急遽陸軍部隊を派遣したる次第にて、
其開戦機動及び責任共に支那軍に在ること確実なり。

B、南京占領並に占領後の事件に就て

南京攻撃は、上海占領後支那軍を追撃したる最後の戦闘なり。

自然キーナン氏の指摘したる如く、
無警告に南京を攻撃せりといふは誤りなり。

予は南京攻撃の際特に慎重に平和裡に南京の占領を欲したるにより、
特に飛行機上より南京守備の支那軍に対し降伏勧告文を投じ、
平和的手段により南京城を授受すべきことを申出でたり。

特に二十四時間の時間を猶豫したるも支那軍は
之に対し何等の回答を行ふことなく、或は一部を以て我を陽撃し、
或は多数の軍隊を船舶を以て移動する等の処置を講じたるを以て、
遂に我軍は二十四時間後の
昭和十二年十日攻撃実行により之を占領するに至りしなり。

尚上海占領当時、我軍の将兵中少数のものが支那
及び外国官民の家具等を掠奪し、或は支那婦人に対し
暴行を行うものありしことは、遺憾の至りなるが、
之については十分に償還、慰謝その他善後措置を講じたること別冊の如し。
(注・残念ながらこの別冊の行方が分からない)

更にキーナン氏の謂ふが如き俘虜、一般人、婦女子に対し、
組織的且つ残忍なる虐殺・暴行を行へるといふが如きは
全くの誣妄(ぶもう)なり。

又軍事上必要を超えたる家屋財産の破壊等行へりといふが如きも
全くの虚言にして、日本軍は南京の歴史的文化的都市を損傷せしめざる為め、
格別の措置を講じ、孫中山陵その他の重要建造物等に就ては
特に保護を加へるよう命令せり、
即ち各軍隊に対しあらかじめ市中の重要な建造物の所在を
記入せる地図を配布し、その保護を命じた。

事実、砲撃、爆撃により破壊せられたるもの以外
日本軍が特にこれ等を損傷したことなし。

蓋し南京其他、戦闘地区に於て遁亡支那人及び一般人民が
争って避難者の家屋に闖入(ちんにゅう)して掠奪、暴行を行うことは、
古来支那の内乱以来常習の事実にして、
今回の如きも所謂損害の大部分は支那軍民自らに因って
為されたるものと判断するは、決して根拠なきことにあらざるなり。

尚南京のみならず到るところ日本軍の占領したる都市には、
其地方の有力なる残存者を召致して「治安維持会」なるものを編成せしめ、
日本軍と協力して地方の治安維持、避難民の召致、救済、保護等の
でき得る限りの努力を払い、軍自ら物資を供給して之を援助せる等、
地方人民の福利民福の為め可能の手段を講じたることは人の知るところなり。

尚之等の詳細に就ては、別冊の予の回顧録において審かにした通りである。

又パネー号の爆撃、レディバード号に対する砲撃については、
当時外交交渉により解決を逐げたるものにして、
いずれも戦闘倥偬(こうそう)の間に於ける已むを得ざる過誤に
基因するものなることは敢て説明を要せざるべし。

又俘虜の虐殺に就ては、予は全然かかることを聞知せしことなし。

勿論上海戦以来各地戦闘にて俘虜を得たるものは、
一部は軍自ら各種の労役に之を使用したるほか、
上海に特設せる俘虜収容所に収容、保護を与へたり。

但し各地とも俘虜が収容設備の不完全の為め、遁走を企てたるもの少からず、
遂に其一部が銃殺の刑に遭ひたるものあるべけれど、
日本軍が自発的に俘虜を虐殺せる事実などは絶対になしと認む。
況や一般民殊に婦女子等に対しては、特に抗命せざる限り、
十分の保護宣撫を旨とせることはいふまでもなき事なり。

5、南京滞在は僅か数日のみ

尚予は南京占領後僅かに数日間同地に在りしのみにて、直に上海に帰還し、
同地に於ける英・米・仏其他外国軍官との接衝
及び一般に江南地方の善後措置に関し、
上海支那官民との協議、臨時政府樹立のことに尽力したれば、
其後に於ける南京方面軍の詳細に於ては直接関与せず。
昭和十三年二月、軍の編成改組と共に、二月廿三日上海出発帰朝したれば、
其後の事は勿論、細目の事については知る所なし。

6、予の対支那観及興亜運動に関する信念と其実行

右は別冊につき承知せられ度く、
ただ終りに臨み、予の言はんとする処は左の如し。

予は支那事変の当初といはず陸軍在職約四十年間一日として
支那との親善提携、興亜の協力のことを忘れたることはない。

予大命を拝し、自ら兵力をもって支那軍を
膺懲(ようちょう)しつつありし間と雖も、
常に支那官民を愛撫し、之を把握することに全力を注ぎ、
南京占領直後、一面上海に臨時政府の設立を企図すると共に、
他面人を香港に遣はして、当時香港に在りし宋子文氏
その他有力なる支那人と連絡せしめて、
蒋介石政権との和平交渉の成立に努力したり、不幸にして事遂に成らず、
支那事変は愈々遂に漢口及長沙方面にまで拡大し、
遂に大東亜戦争まで惹起するに至れるは、誠に遺憾の極みなり。

予は今日敗戦後に於ても尚支那
及支那人に対する愛着の情は依然として変らず、
一日も早く日支両国が我等多年の理想を実現して、
真に東洋百年の平和と幸福の為めに相提携するに
至らんことを冀(ねが)ひてやまず。

この興亜の念願成就せんか、
予の老?の如きは、一身を犠牲にして何等惜しむところなし。

只管(ひたすら)予の信仰する興亜観世音の神通力により、
日支両国衆生を怨親平等に受持し、速に東洋清浄光を発揮して、
東亜は勿論全世界の永久平和を具現せんことを祈念す。

http://history.gr.jp/~koa_kan_non/5_04.html

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南京虐殺・暴行に関する証言に対する抗議

松井石根 昭和21年8月12日 記

予は数度支那及び西伯利亜(シベリア)に於ける戦争に従ひたる経験を
有するものなるが、昭和十二年の上海南京に於ける戦闘ほど
「敵地に於ける戦争」を体験せることなし。

即ち当時の支那軍は、従来経験せざる勇敢さをもって、奮戦し、
屡々(しばしば)日本軍に向って反攻・逆襲を行ひ来りたるが、
一般市民、殊に青年男女の日本軍に対する敵愾(てきがい)心
また頗(すこぶ)る旺盛にして、是等の人民が直接間接に
日本軍に与へたる脅威尠(すく)なからず、又婦女子にて支那軍隊に勤務し、
傷病兵の看護に任ずるの外、直接戦闘に参加せるものさえあり、
日本軍は上海附近の戦闘間、
占拠地区内にある人民の通敵動作の為めに許多の損害を受けたり。

殊に三ヶ月に亘る上海附近の激戦に於て彼我将兵の死傷損害極めて多く、
彼我軍民相互の敵愾心は一層熾烈に赴(おもむ)きたり。

この情勢に鑑み、予は今後に於ける戦闘の継続が
益々両国民相互の反感憎悪を惹起(じゃっき)すべきことを思ひ、
我日本軍出征の本旨が抗日政府及びその軍隊の膺懲と
日本権益の保護に止りあること、及び予個人の多年支那に対する
親善結団の理想信念に基き、篤と爾後の戦闘に於ける
我軍将兵の言動に戒心を加ふべき必要を痛感し、屡々部下軍隊に対し訓諭し、
日本軍の支那軍民に対する寛仁大度の精神を鼓吹するに努めたり。

然るに支那の軍隊は文明諸国の正規軍隊と異なり、
その素質不良なるもの多く、
到底国際法規の慣例に因ってのみ之を遇すること難しく、
殊に所謂「便衣隊」又は「遊撃隊」なる不正規軍隊の使用は
その常習手段にして、便衣隊なるものは、
戦況不利の場合における彼等の唯一の反抗戦闘法にして、
巧にその武器を隠匿して便衣を脱して民服を装ひ、
各処に隠遁)(いんとん)して我軍の後方地域に出没し、
兵備少なき部隊将兵に挑戦し、又は鉄道、交通、通信機等を破壊するなど
種々の損害を我軍に与へたる事例極めて多かりき。

従つて我軍は之等便衣隊と一般良民とを識別すること困難にして、
一般人民といへども、我に敵意を有する者は、
之を支那軍戦闘員と同様に之に対処せざるべからざるを常とせり。

南京攻撃に従ひたる日本軍は、
その東方及び南方地区より包囲攻撃を行ひたる為め、
退却中の支那軍がその退路を失い、自然所謂(いわゆる)便衣隊となりて、
南京城内殊に所謂安全地帯(難民区)内に遁走せるもの
少くも数千人を下らざりしこと疑ひなく、
之れが処置に関し、我軍隊の困厄は想像に余りあり。

予は当時是等の実況につき何等の詳報を得ざりしが、
所謂暴行、掠奪の風評を耳にせるを以て、南京入城直後、各軍隊に対し、
(十二月十八日)更に厳重なる戒告を与へ、善後措置を講すべきを命じたり。

又日本軍将兵の奪掠事件なるものは、当時厳冬の季節に会し、
我将兵が城内の各家屋より、家具・寝具等を徴用せるため
所有家主の遁避不在のものにありては、自然奪掠の事実なりたるものなるが、
是等は十分の取調を行ひ、所有主の帰還後適宜返還
又は賠償の道を講ぜしめたるも、
南京市民の城内帰還迄には相当の時日を経過したるのみならず、
その奪掠の大部分は、支那軍民自ら之を行ひしものなれば、
之れが善後処分は到底徹底する能はざりしは事実なり。

又日本軍隊の南京守備に必要なる最小限の部隊の外は、
すべて城外に移したり。

尚爾余(じよ)の暴行、強姦事件に関しては、厳に之を取調べ、
軍法に附して適正なる処罰を行はしたるも、
これまた戦闘倥惣(こうそう)の間、
必ずしも十分なる調査を遂げ得たりとは認め難きを遺憾とす。

要するに、上海上陸以来南京占領までに、日本軍の受けたる犠牲は、
戦死将兵二万一千三百余名、その他戦病傷五、六万の数にのぼりたり、
従って敗退せる支那軍の損害は相当の数にのぼりたるべく、
今その正確なる数を挙げ得ざりしも、
少くもその戦死傷者は二十万を超えたるべく、
一般市民も爆撃、砲撃その他戦闘一般人民の悪意なきものは
之を宣撫愛護するの方針を取り、特に各軍将兵に之を厳訓しありたるも、

上記の如く支那一般市民の日本軍に対する敵愾心旺盛なりし為め、
相当数の戦禍を蒙りしものの出でたるは想像し得べきところなり。

之を要するに、上海方面総軍司令官として、
上海派遣軍及び第十軍の作戦指導権のみを附与せられしものにして、
一般の軍事、法務、軍紀、経理、衛生等に関しては、
予の実権を以て掌握するにあらざりしを以て、
是等軍隊の実動、給養状態等には何等関与せざりしは已むなき所なり。

尚予は南京滞在一週間にして上海に帰り、
翌年二月、軍の編成改変の為め帰国せしを以て、
この間是等の後始末についても詳細なる報告を得ること能はざりを遺憾とす。

http://history.gr.jp/~koa_kan_non/5_05.html

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The Fake of Nanking Massacre(English and Japanese)












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極東国際軍事裁判(東京裁判)における松井石根大将についての
「検察の訴因」と「裁判官の判定(判決)」について。

―――起訴された訴因項目―――――

『南京大残虐事件資料集』 第1巻 P398

被告松井は、訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二
・第三十五・第三十六・第五十四及び第五十五で訴追されている。

―――訴因の要略―――――――――

『東京裁判』 日暮吉延著(鹿児島大学法文学部教授) P118

第三類 「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」

(訴因53:交戦法規違反の共同謀議)
■訴因54:その実行
■訴因55:違反防止義務を怠ったとする不作為の監督責任


『東京裁判の国際関係』 日暮吉延著 P285~286

第三部は、「通例の戦争犯罪」と「人道に対する罪」にまたがるけれども、
実質的には「通例の戦争犯罪」の起訴であり、
訴因五三が交戦法規違反の共同謀議を告発し、
訴因五四が交戦法規の実行を告発し、
訴因五五が交戦法規遵守の義務を怠ったという不作為の監督責任
を告発している。

第3類 「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」

●訴因53
1941年12月7日(中国の場合、1931年9月18日)以降の
戦争法規慣例違反の共同謀議。

●訴因54
訴因53と同一期間における戦争法規慣例違反の命令・授権・許可。

●訴因55
訴因53と同一期間における戦争法規慣例違反の防止義務の無視。

―――引用おわり―――――

『不作為』 とは、
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E4%BD%9C%E7%82%BA
路上に倒れている病人を見捨てたまま通り過ぎるとか、
立ち退きを要求されても住み慣れた住居から立ち退かないというように、
現在の事実・事象に対して積極的に働きかける行動をとらず、
それらの事実・事象を放置することを不作為という。
外界に対して積極的に働きかける行動・挙動をいう「作為」とは対語をなす。
[民法]
・・・・
不作為が不法行為となるためには、
権利侵害を回避するための特別の作為義務が存在しなければならない。

―――訴因45(南京大虐殺)については判断を放棄―――――

『南京大残虐事件資料集』 第1巻 P395

極東軍事裁判 『南京暴虐事件』 第ニ章 法

(ハ) 起訴状 (抄)
・・・・・・
これらの理由だけで、そして、このような事情のもとにおいて
殺人の起訴事実の妥当性に関して
どのような意見も表明する必要がないと認めて、
われわれは、訴因第三十九ないし第四十三と【訴因第四十五】
ないし第五十二とについて、判定を与える必要がないと決定した。

―――判定(判決)――――――――

『南京大残虐事件資料集』 第1巻 P398~P399

極東国際軍事裁判『判決』より

第十章 【判定】 (昭和二十三年十一月十二日朗読)

松井石根

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。
それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、
日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。
日本軍人によって、大量の虐殺・個人に対する
殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。

残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、
いろいろな国籍の、また疑いのない、
信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。

この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、
この都市が占拠されたときに始まり、
一九三八年二月の初めまでやまなかった。

この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、
十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、
松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。

自分自身の観察と幕僚の報告とによって、
かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。
憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行が
ある程度あったと聞いたことをかれは認めている。

南京における日本の外交代表者に対して、
これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、
かれらはこれを東京に報告した。

本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという
充分な証拠があると認める。
これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、
何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。

同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、
行動を厳正にせよという命令を確かに出し、
その後さらに同じ趣旨の命令を出した。

現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、
これらの命令はなんの効果もなかった。

かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。
かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を
指導できないというほどのものでもなく、
またこれらの残虐行為が起っている間に、
何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。

これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。
これらの出来事をかれは知っていた。
かれは自分の軍隊を統制し、
南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、
その権限をももっていた。

この義務の履行を怠ったことについて、
かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

本裁判所は、被告松井を【訴因第五十五について有罪】、
訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五
・第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

―――引用おわり―――――

◆訴因45(南京大虐殺の訴追)→判断を放棄。

■訴因54(実行、命令、授権、許可)→無罪。

■訴因55(不作為の監督責任)→有罪
俘虜及び一般人に対する
条約遵守の違反防止義務を怠ったとする不作為の監督責任。

〓〓〓訴因45(南京大虐殺)と訴因55(不作為の監督責任)の内容〓〓〓

『南京大残虐事件資料集』 第1巻 P13

起訴状

第二類 殺人の罪

訴因 第45

被告荒木・橋本・畑・平沼・広田・板垣・賀屋・木戸・松井・武藤・鈴木
及び梅津は、千九百三十七年(昭和十二年)十二月十二日及び其の後引続き、
本件訴因第二記載の条約条項に違背して南京市を攻撃し、
且国際法に反して該住民をおう殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ、
且許すことにより、不法に、目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の
一般人及び武装を解除せられたる軍隊を、殺害し殺戮せり。

第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪

[中略]

訴因 第55

被告土肥原・畑・星野・板垣・賀屋・木戸・木村・小磯・武藤・永野・岡
・大島・佐藤・重光・嶋田・鈴木・東郷・東条及梅津は、
千九百四十一年(昭和十六年)十二月七日より
千九百四十五年(昭和二十年)九月二日に至る迄の期間に於て、
夫々の官職により、亜米利加合衆国・全英聯邦・仏蘭西共和国・和蘭王国
・比律賓国・中華民国こ匍萄牙共和在りし此等諸国の
数万の俘虜及びー般人に関し、
上記条約及ぴ保証並戦争の法規慣例の遵守を確保する責任有するところ、
故意に又不注意に、其の遵守を確保し其の違背を
防止する適当なる手段を執る可き法律上の義務を無視し、
以て戦争法規に違反せり。

中華民国の場合に於ては、
該違反行為は千九百三十一年〈昭和六年〉九月十八日に始まり、
上記指名の者の外、下記被告も之に責任を有す。

荒木・橋本・平沼・広田・松井・松岡・南

―――引用おわり―――――――――

被告の「松岡」=松岡洋右氏、「南」=南次郎氏のことなのだが、
この二人は南京事件とは関係ない。
南京事件とは関係のない被告が混じってる「訴因55」は
「南京事件の罪を裁くためのもの」とは言えない。

訴因55は松井石根大将を含め、計27人すべての訴追を網羅したものであり、
松井石根大将に限定して「数万の俘虜及びー般人」への保護義務履行違反の
不作為の監督責任を追及しているわけではない。

〓〓〓訴因45(南京大虐殺)、訴因55(不作為の監督責任)について〓〓〓

第二類 殺人の罪 訴因 第四十五

・・・且許すことにより、不法に、目下其の氏名及び員数不詳なる
数万の中華民国の一般人及び【武装を解除せられたる軍隊】を、
殺害し殺戮せり。

―――――――

COUNT 45
http://werle.rewi.hu-berlin.de/tokyo.anklageschrift.pdf

・・・ unlawfully killed and murdered many thousands of civilians and
【disarmedsoldiers of the Republic of China】,
whose names and number are at present unknown.

―――――――
※ちなみに和訳では「数万」となっているが、
原文(英文)では、many thousands となっている。
―――――――

武装を解除せられたる軍隊(disarmedsoldiers of the Republic of China)
とは書かれているが「俘虜(prisoners of war)」とは書かれていない。

ハーグ陸戦規約において保護規定が定められているのは
『俘虜=prisoners of war』である。

極東軍事裁判所は【訴因45】においては、幕府山事件などの支那兵が
「prisoners of war (※条約により保護規定が定められた兵士達)」
とは見なしていない。

―――――――――――――――――

対して【訴因55】では「俘虜(prisoners of waw)」と明記されているのだが…
―――――――
訴因 第五十五 第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪

・・・・夫々の官職により、亜米利加合衆国・全英聯邦・仏蘭西共和国
・和蘭王国・比律賓国・中華民国こ匍萄牙共和在りし此等諸国の
数万の【 俘虜 】及びー般人に関し、上記条約及ぴ保証並
戦争の法規慣例の遵守を確保する責任有するところ、故意に又不注意に、
其の遵守を確保し其の違背を防止する適当なる手段を執る可き
法律上の義務を無視し、以て戦争法規に違反せり。
http://werle.rewi.hu-berlin.de/tokyo.anklageschrift.pdf
COUNT 55
・・・・ and Customsof War in respect of the armed forces
in the countries hereinafter named and in respect
of many thousands of 【 prisoners of war 】 and civilians then in
power of Japan belonging to the United States of America,
the British Commonwealth of Nations, ・・・・

―――――――――――――――――

もう一度、松井石根大将への判決の一部を以下に抜粋してみると、

―――抜粋はじめ―――――

南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。
それに続いて起ったのは、【 無力の市民 】に対して、
日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。
日本軍人によって、
大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。
(中略)
これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。
これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、
【南京の不幸な市民を保護する義務】をもっていたとともに、
その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、
かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

本裁判所は、被告松井を【訴因第五十五について有罪】、
訴因第一・第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五
・第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

―――抜粋おわり―――――

―――まとめ―――――――――――

検察の「訴因」と、裁判官の「判決」には違いがある。

■検察の訴因55

・俘虜及び一般人に対する条約遵守の
違反防止義務を怠ったとする不作為の監督責任。

■裁判官の判決

・南京の不幸な市民を保護する義務の履行を怠った監督責任。
・訴因55を有罪とする。

―――――――

松井石根大将への判決文の最後の部分で『訴因55を有罪』とする記述があり、
その『訴因55』には「俘虜及びー般人」と書かれているが、
判決文のなかでは「俘虜や便衣兵」のことは全く書かれておらず、
「南京の不幸な市民を保護する義務の履行を怠った」
と、一般人のほうしか書かれていない。

訴因55に書かれている被告の「松岡」=松岡洋右氏、「南」=南次郎氏のこと
なのだが、この二人は南京事件とは関係ない。
南京事件とは関係のない被告が混じってる「訴因55」は
「南京事件の罪を裁くためのもの」とは限定できない。

訴因55は松井石根大将を含め、計27人すべての訴追を網羅したものであり、
松井石根大将に限定して「数万の俘虜及びー般人」への保護義務履行違反の
不作為の監督責任を認める判定を下したというわけではない。

松井石根大将に対する判決は訴因55の一部(一般人)のほうだけを認め、
それに関する不作為の監督責任を有罪にしたと解釈するのが妥当である。

松井石根大将は、
不幸な南京市民を保護する義務の履行を怠った不作為の監督責任
で有罪となった。

しかし一般人の殺害(訴因45)については判断を放棄している。
↓↓↓
「数万の中華民国の一般人
及び武装を解除せられたる軍隊を、殺害し殺戮せり。」
という内容の訴因45(南京大虐殺の訴追)は判断を放棄。

そしてその命令などの訴因54(実行、命令、授権、許可)は無罪。

極東軍事裁判所は松井石根大将について、
「訴因45(南京大虐殺の訴追)」の判断を放棄し、
「訴因54(実行(命令等を含む))」を無罪にしているので、
「南京大虐殺を実行(命令等を含む)していない」と判断したことになり、

直接、手を下したり殺害を命じたりした実行犯が、ほかにいることになるが、
「中国兵や南京市民を殺害した罪」で裁かれた実行犯はいない。

また、松井石根大将は判決のなかでは、
「幕府山事件や便衣兵無裁判処刑」と言われているものについて、
その責任はおろか、不作為すら問われていない。

極東国際軍事裁判において、敵兵(中国兵)の殺害については、
実行、不作為ともに罪を問われていないのである。

敵兵の殺害は罪ではなく、合法だった。

それは下記のように敗残兵などの徹底掃蕩は軍命として出されていて、
東京裁判の検察側も訴因45のなかで敗残兵掃討が松井大将の軍命として
出されていたことを認識していたにも関わらず、
敵側が裁判官であった東京裁判でさえ、
訴因54(実行、命令、授権、許可)が無罪とされたことからも明らかである。

松井石根(最終階級:陸軍大将)
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/biblo/japan/ma/matsui.html

当初は数的に勝る中国軍に対し苦戦するが上海防衛に成功し、
松井大将は上海軍と第10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官に任命され、
南京攻略戦を指揮した。
―――――――
丁集団(第10軍)命令(丁集作命甲号外)12月13日 午前8時30分
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/horyo.htm
一、集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。
一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして
敵を殲滅すべし。これがため要すれば城内を焼却し、
特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す。

―――確認――――――――――――

■以上は極東国際軍事裁判(東京裁判)における松井石根大将への判決を
まとめただけであり、判決が真実かどうかは別問題である。

―――――――

■「南京市民への暴行」のような軍命など出していないし出すはずもない。
「南京市民への暴行」を命令する理由などないし、それは違法である。

■敗残兵の徹底掃蕩は軍命として出された。命令して実行した。
「敗残兵の徹底掃蕩」は違法ではない。

―――――――

■訴因45
1937年12月12日以降の南京戦における戦争犯罪の実行を訴追したもの。

■訴因54
1931年9月18日以降の日中戦争全般における戦争犯罪の実行を訴追したもの。

訴因54は訴因45を含むので、
訴因54が無罪と判定された以上、訴因45が有罪になる事はない。

〓〓〓実行犯について・・・〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

「その国での実行犯は、その国の軍事裁判で裁くというルールがあるから、
実行犯については南京軍事法廷で
谷師団長などが捕虜や非戦闘員の殺害で裁かれた。」

と言う人がいるのだが、

―――――――――――――――――

『戦争犯罪とは何か』 藤田久一著(※国際法学者)

第一次大戦前の、当時戦時犯罪といわれれた戦争犯罪は、
既述のように、戦争法違反をおこなった敵人を捕らえた交戦国が
戦争中に自国の軍事裁判にかけて処罰するのが普通であった。
つまり、戦時犯罪は、戦争犯罪人を捕らえた交戦国の国家国益の侵害
とみなされ、その国の軍刑法や普通刑法にもとづいて
処罰されることになっていた。
このような処罰制度の下では、
戦争犯罪人が偶然敵軍に捕らえられたときにのみ、
かつ戦時中に処罰されうるのであり、
また、敵国が状況判断のなかでその者を処罰せずに
放免することもできたのである。
つまり、この処罰制度は交戦国の任意にゆだねられていたといえる。

―――引用おわり―――――

つまり、
【・・・戦争中に自国の軍事裁判にかけて処罰する・・・】
がポイントである。

【国際慣習】においては、
【このような処罰制度の下では、戦争犯罪人が
偶然敵軍に捕らえられたときにのみ、かつ戦時中に処罰されうる】
ものだったのである。

この点で、南京軍事法廷は、
【戦後】に裁いているので【国際慣習】に反している。

◆上記に対し、第二次大戦では、その認識が変化した。

『戦争犯罪とは何か』 藤田久一著(※国際法学者)

ところが、第一次大戦後の戦争違法化の流れのなかで、
戦時犯罪から国際法上の犯罪へという戦争犯罪観念の転換につれ、
その処罰制度も展開をよぎなくされてきた。
二度の世界大戦、とくに第二次世界大戦を契機とする
あたらしい戦争犯罪(平和に対する罪や人道に対する罪)
の登場とともに、戦後に国際裁判所で戦争犯罪人を処罰するという
傾向があらわれてきたのである。
これは、このあたらしい戦争犯罪が国際犯罪として
国際社会の一般法益を侵害したのだから、国内裁判所ではなく
国際社会が裁くべきであるという一般的考え方にもとづいている。

―――引用おわり―――――

つまり第二次大戦【直後】は【戦後】に戦争犯罪を裁いて処罰するという
傾向があらわれてきたのであり、その代表例が極東国際軍事裁判所である。

この点からも、一国のみで裁いた南京軍事法廷は
第二次大戦直後の傾向に反していたといえる。

※南京軍事法廷意外にも、
オーストラリア等が独自に自国の管轄により裁判を行った。

◆上記認識は、その後、更に変化する。

『戦争犯罪とは何か』 藤田久一著(※国際法学者)

しかし、ニュルンベルクや東京の国際軍事裁判所は
第二次大戦の戦敗国の主要戦争犯罪人に判決を言い渡したのち解散した。
いまだ(注:1995年時点)常設の国際刑事裁判所も存在しない
(注:2003年に設立された)ことから、国際武力紛争が発生した場合、
戦争犯罪人を交戦国のみならず非交戦国をふくむ多数の国が
それぞれの国内裁判にかけるかあるいは処罰する国に引き渡すという、
いわゆる普遍的裁判管轄権をもつという考えが登場してきたのである。

―――引用おわり―――――

第二次大戦後においては、南京軍事裁判と大して変わらないと思われる。
(※アメリカによるフセインの処刑等がその典型例)

―――――――――――――――――

「戦争中に自国の軍事裁判にかけて
処罰するのが普通であった(※国際慣習)」

であり、

「その国での実行犯は、その国の軍事裁判で裁く」

という“ルール”が存在していたわけではない。

◆南京戦当時において唯一適用可能だったハーグ法では
戦争犯罪者を裁く裁判については何ら言及はしていない。

↓↓↓

『戦争犯罪と法』 多谷千香子著
(著者略歴:2001年9月~2004年9月まで旧ユーゴ戦犯法廷判事を務める)

しかし、ハーグ陸戦法規も1929年のジュネーブ条約も、
禁止される行為を掲げてはいるものの、
違反については、前者は締約国の損害賠償義務を定めるだけであり、
後者は話し合い解決を予定しているだけで、
個人の犯罪として処罰すべき旨の規定はない。

〓〓〓さらに・・・〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

『戦争犯罪と法』 多谷千香子著 P113
※著者略歴:東京大学教養学部国際関係論卒業。
東京地検検事、旧ユーゴ戦犯法廷判事を努める。現在、法政大学法学部教授。

第4章 戦犯として処罰されるのは誰か 第2節 コマンド責任
―――引用はじめ―――――
・・・このように、第二次世界大戦当時の国際慣習法は、
指揮・命令した者だけを問題にし、
不作為犯に責任を負わせるまでには至っていなかった。
ところで、国家が戦争を遂行する中で犯される犯罪は、
実際に犯罪を実行する者が末端の兵士であるとしても、
組織の問題であって、組織の上層部の責任が問われるのは当然である。
しかし、これが認められるには時代が下がるのを待たなければならなかった。
つまり、国際条約として初めて、
不作為による戦争犯罪に刑事処分を科す旨を定めたのは、
「戦争犯罪及び人道に反する罪についての時効不適用に関する1968年の条約」
である。・・・
―――引用おわり―――――

第1章 20世紀の戦争と国際刑事裁判 第3節 第二次世界大戦後の戦犯裁判
―――引用はじめ―――――
・・・しかも、東京条例そのものにも、コマンド責任は明記されておらず、
適用すべき事後法すらなかったとも言えるのである。・・・
―――引用おわり―――――

『訴因55』の「違反防止義務を怠ったとする不作為の監督責任」
という不作為の責任を問う概念は、
当時の国際慣習法では認められていなかった。

〓〓〓もう一つ・・・〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

そもそも訴因55だけでなく、
判決の言い渡しは昭和23年(1948年)11月4日から始まっており、
極東軍事裁判所「Judgement」の第8章「通例の戦争犯罪」(11月11日朗読)
のなかで下記のように「捕虜の殺害」が指摘されているから、
11月12日の松井石根大将への判定も「捕虜の殺害」が含まれているとの
指摘があるのだが、

以下、『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P395~P398 より抜粋

第8章 通例の戦争犯罪 昭和23年(1948年)11月11日朗読

「南京暴虐事件」

(前略)
日本軍が占領してから最初の六週間に、
南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、
二十万以上であったことが示されている。
これらの見積りが誇張でないことは、
埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、
十五万五千に及んだ事実によって証明されている。
(後略)

―――抜粋おわり―――――

一般的には1948年11月4日から判決の言い渡しが始まったと言われているが、
極東軍事裁判所「Judgement」は全10章で構成されており、

たとえば、

第1章 法廷の設立と手続き
Chapter I Establishment and Proceedings of the Tribunal

第2章 法
Chapter II The Law

は裁判の手続き等に言及したものであるから、
実際の『判決=Judgment』ではない。

全10章をまとめて「Judgement」と呼称しているが、
そのすべてが判決ではないのである。

『Judgment International Military Tribunal for the Far East』
Chapter I Establishment and Proceedings of the Tribunal
Chapter II The Law
Chapter III Obligations Assumed and Rights Acquired by Japan
Chapter IV The Military Domination of Japan and Preparations for War
Chapter V Japanese Aggression Against China
Chapter VI Japanese Aggression Against the U.S.S.R.
Chapter VII The Pacific War

Chapter VIII Conventional War Crimes (Atrocities)
(※第8章 通例の戦争犯罪)

Chapter IX Findings on Counts of the Indictment
Chapter X Verdicts
http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/index.html#index

―――――――――――――――――

以下、『東京裁判の国際関係』 日暮吉延著 P638~639 より引用

極東国際軍事裁判所憲章(1946年4月26日、一般命令第20号、抄録)

第17条
判決は、公開の法廷において言い渡され、かつ、その理由を付する。・・・・

―――引用おわり―――――

極東軍事裁判所「Judgement」の
第8章「通例の戦争犯罪」昭和23年(1948年)11月11日朗読分には、
言い渡された判決が無く、その理由も書かれていないので判決ではない。

対して、1948年11月12日の松井石根大将への判定では明確に示されている。
■判決は、「訴因第五十五について有罪」
■理由は、「(南京の不幸な市民を保護する)義務の履行を怠った」

よって極東軍事裁判所「Judgement」の
第8章 通例の戦争犯罪
Chapter VIII Conventional War Crimes (Atrocities)
の部分は判決ではないのである。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

『極東国際軍事裁判 速記録 第320号』 昭和22年(1947年)11月24日(月曜日)
東京都内陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷
『極東国際軍事裁判 速記録 第321号』 昭和22年(1947年)11月25日(火曜日)
東京都内陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷
より抜粋

「予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、
占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、
忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。
これ予の甚だ遺憾とするところなり。
因みに南京陥落当時、予は南京を去る40哩の蘇州に於いて病臥中にて、
予の命令に拘わらず、之等非行の行われたることにつき之を知らず、
又、何等の報告に接せず。
17日、南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、
各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。」

(中略)

「予は、南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任せるが、
その間、昭和12年12月下旬、南京において
ただ若干の不法事件ありたりとの噂を聞知したるのみにて、
何等斯る事実につき公的報告を受けたる事無く、
当法廷において検事側の主張するが如き大規模なる虐殺暴行事件に関しては
1945年終戦後における米軍の放送により
初めて之を聞知したるものなることを茲に確言す。」

(以下、現代語訳、要所のみ抜粋)

(残虐行為の調査・処罰について部下の二人の軍司令官から)

「私が翌年二月、上海を離任するまでは何等の報告を受けておりません。」

「中山参謀・日高参事官あたりを南京に派遣して調査させ」

(た報告を) 「口頭でもって」 (受けたのは)

「私はよく記憶しませんが、一月の半ばくらいだろうと思います。」

「事件の起った後に行って調査したのでありますから、
現行犯を調べたのでなし、
何も確実な調査報告を受けることはできなかったのであります。」

(当時、調査報告は)

「受取ってはおりませんけれども、断片の報告は受けておりました。」
「それは憲兵隊の報告です。」
「私は直接受けませんけれども、幕僚が毎日のように受けておりました。」

(各軍の司令官は)

「事実の判明したものは、軍法会議にかけて裁判をいたしました。」
「その当時、まだ戦争中でありまして、軍隊は絶えず移動しておる」

(ため)

「私が受けた報告は、断片的な抽象的なものが多いのであります。」
「いずれも、もう過ぎ去った過去の事実を、人づてに聞いて調査した報告で
ありますし、それを確かめるための方の軍隊は、始終移動しております」

(から)

「具体的な事実を、はっきり私が報告を受けることはできませんでした。」
「主として憲兵隊から聴いたことを根拠として、
私はアーベンド氏に話したのであります。」

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東京裁判 速記録 第320号、第321号から所謂「南京大虐殺」関係部分を抜粋
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-610.html
いわゆる南京大虐殺・URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

『極東国際軍事裁判(東京裁判)』
訴因……訴因の内容
1………侵略戦争遂行の共同謀議
27………対中国侵略戦争遂行
29………対米侵略戦争遂行
31………対英侵略戦争遂行
32………対蘭侵略戦争遂行
33………対仏侵略戦争遂行
35………張鼓峰事件遂行
36………ノモンハン事件遂行
54………違反行為の命令、授権、許可による法規違犯
55………違犯行為防止責任無視による法規違犯
―――――――
◆……有罪と判定された訴因
◇……無罪と判定された訴因
△……判定が下されなかった訴因
―――――――
被告……訴因1…27…29…31…32…33…35…36…54…55…宣告刑
荒木貞夫……◆…◆…◇…◇…◇…◇…◇…◇…◇…◇…終身刑
土肥原賢二…◆…◆…◆…◆…◆…◇…◆…◆…◆…△…絞首刑
橋本欣五郎…◆…◆…◇…◇…◇…………………◇…◇…終身刑
畑 俊六……◆…◆…◆…◆…◆………◇…◇…◇…◆…終身刑
平沼麒一郎…◆…◆…◆…◆…◆…◇…◇…◆…◇…◇…終身刑
廣田弘毅……◆…◆…◇…◇…◇…◇…◇………◇…◆…絞首刑
星野直樹……◆…◆…◆…◆…◆…◇…◇………◇…◇…終身刑
板垣征四郎…◆…◆…◆…◆…◆…◇…◆…◆…◆…△…絞首刑
賀屋興宣……◆…◆…◆…◆…◆…………………◇…◇…終身刑
木戸幸一……◆…◆…◆…◆…◆…◇…◇…◇…◇…◇…終身刑
木村兵太郎…◆…◆…◆…◆…◆…………………◆…◆…絞首刑
小磯国昭……◆…◆…◆…◆…◆……………◇…◇…◆…終身刑
松井岩根……◇…◇…◇…◇…◇………◇…◇…◇…◆…絞首刑
南 次郎……◆…◆…◇…◇…◇…………………◇…◇…終身刑
武藤 章……◆…◆…◆…◆…◆…◇………◇…◆…◆…絞首刑
岡 敬純……◆…◆…◆…◆…◆…………………◇…◇…終身刑
大島 浩……◆…◇…◇…◇…◇…………………◇…◇…終身刑
佐藤賢了……◆…◆…◆…◆…◆…………………◇…◇…終身刑
重光 葵……◇…◆…◆…◆…◆…◆…◇………◇…◆…禁錮7年
嶋田繁太郎…◆…◆…◆…◆…◆…………………◇…◇…終身刑
白鳥敏夫……◆…◇…◇…◇…◇……………………………終身刑
鈴木貞一……◆…◆…◆…◆…◆………◇…◇…◇…◇…終身刑
東郷茂徳……◆…◆…◆…◆……………◇…◇…◇…◇…禁錮20年
東条英機……◆…◆…◆…◆…◆…◆………◇…◆…◇…絞首刑
梅津美治郎…◆…◆…◆…◆…◆……………◇…◇…◇…終身刑
http://wolfdoragon.island.ac/senryaku/hanketsu.htm

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いわゆる「南京大虐殺」関連_2_東京裁判関係
http://bit.ly/1Pw0IPU
2009/12/28 06:00|年表リンク用資料
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