正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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元ニューヨーク・タイムズ、ティルマン・ダーティン記者の矛盾

●ニューヨーク・タイムズ 1937年12月18日付
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。
彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、
高さ六フィートの小山を築いていた。
水曜日(十五日)遅くなっても日本軍は死骸を片付けず、
さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、
人間や犬や馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。

●『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』 P571 青木書店
南京事件調査研究会・編訳  F・T・ダーディンからの聞き書き(2)
(※1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子)
この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が邑江門から脱出しようとして、
お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。
前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、
この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。
この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。
中国兵はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、
これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。
この地域で戦闘はありませんでした。

■ニューヨーク・タイムズ 1938年1月9日付
南京を掌握するにあたり、日本軍は、
これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より
野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。

■文藝春秋 1989年10月
【ジャーナリスト:古森義久】
上海から南京近郊に到達するまでの過程で、
日本軍が中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは
当時あったのですか?

【ダーディン】
いや、それはありませんでした。
(中略)
虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、
聞いたこともありません。

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支那国民党は南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの約1年間に
約300回も外国人記者などに記者会見をして日本の悪事を宣伝しましたが、
1回も南京で虐殺があったとは言いませんでした。
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国共合作下の支那国民党は南京戦直前の1937年11月、
中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。
国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、
南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までの間に、
国際宣伝処は漢口において約300回の記者会見を行い、
参加した外国人記者・外国公館職員は毎回平均35名と記録されています。
しかし、この約300回の記者会見において、ただの一度として
「南京で日本軍が市民虐殺を行なった」とか「捕虜の不法殺害があった」
などという発表はされたことがありませんし、外国人記者から
「南京大虐殺」に関する質問があったという記録も全くありません。

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第166回国会 外務委員会 第15号(平成19年5月25日(金曜日))
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000516620070525015.htm
http://www.youtube.com/watch?v=2erg8qm5GpI
(一部抜粋)
松原委員
(略)
一つは、この中で書いてある、毛沢東が南京戦に触れているのは、
南京戦の半年後の延安で講義された「持久戦論」にまとめられた、
その中で、日本軍は包囲は多いがせん滅が少ないと。
これは、前後の文脈を、私は中国語を読めませんが、話を聞きますと、
何で日本はせん滅をしないんだ、
我々だったらせん滅するのにというニュアンスで、
日本軍は包囲戦はするがせん滅はしないと。
せん滅をしないということは、いわゆる虐殺等をしないというのが日本軍で、
恐らく私は、当時の毛沢東さんが延安でこれを言ったときの状況を考えると、
彼らは国民党軍とドンパチやっている最中でありますから、
日本軍が国民党軍をそのように完膚なきまでにせん滅をするならば、
それはメリットがあるというニュアンスもあったのかもしれない。
(略)
二つ目の、これが一番の肝の一つになるわけでありますが、
1937年11月に、
国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置した。
国際宣伝処の極秘文書「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」によると、
ここには、この後でも書いてありますが、
ティンパーリが「戦争とは何か」という書物を出して、
これが南京大虐殺と言われるものの一番先端になった事件であります。
この「戦争とは何か」というのを南京の近くで出さないで、
アメリカで出したというあたりが極めて意図的でありまして、
簡単に言うと、現場で出せば、それはうそだよとみんなわかってしまう、
うそであることが確認できないような海を渡った向こうで出せば
うそだとわからないというのは、これは情報戦の当然のやり方だと思うので、
ティンパーリはそうしたんだろうと私は思いますが、これも憶測であります。

私が申し上げたいのは、少なくとも、
この南京戦を挟む1937年の12月1日から38年、翌年の10月24日、
300回、毎日のように記者会見をやった。
参加した外国人記者、外国公館職員は平均35名。
何を言ったかというと、日本軍はけしからぬと。
これは毛沢東とは違う、国民党の立場ですから、
けしからぬ、こんなことをやった、あんなことをやったと針小棒大に、
けしからぬ、けしからぬと国際社会に対してのアピールを、
だから、例えば外国人記者ですよ、外国人の皆さん、
日本軍はこんなひどいことをやっているんだ、
だから国際世論で日本はけしからぬと言ってください、
外国公館の職員に対して、こんなことをやっているから言ってくれと、
南京は12月ですから、ちょうどその前後から翌年の10月24日まで
300回、細かいことまで彼らは言っている。

にもかかわらず、そこで1回も南京で虐殺があったと言っていない。
極めて不思議であります。
簡単に言えば、なかったから言わなかったのであります。
また、そこで言ってしまうと、南京近郊での記者会見でありますから、
うそだというのが一瞬にしてばれてしまう。
ニューヨークか何かで記者会見をやっていれば
それは言えるだろうけれども、しかし、うそだというのがばれてしまうから
言わなかったんだろうと考えるのが普通なんであります。

そのことで、この公開質問状では、この中で、南京の市民虐殺があった、
もしくは捕虜の不法殺害があったというのは一切述べていない、
本当に虐殺が行われたなら、これは極めて不可解であろうと思うが、
温家宝さん、どう思いますか、こういう質問であります。
(略)

松原委員

この質問の趣旨は、300回のまさに宣伝戦、
プア・チャイナ、貧しい中国ということを彼らは成功した。
その宣伝戦をやっている、そのときに、南京において多少でも、
私に言わせると、多少でも虐殺があれば触れないはずがないんですよ。
針小棒大に触れるに決まっているんですよ。
一行も南京で市民虐殺があったということを言っていない。
30万とかというロットじゃありません。
300回の外国人記者、外国公館職員の記者会見で1回も言っていない。
南京大虐殺があったそのときも含めて。
五人殺された、10人の市民虐殺があったと言っていないんですよ、
そういうロットまで。30万なんという話じゃないんですよ。
私は、これはどういうことかと。
やはり、それは言えない、いや、事実がなかった、
30万なんという話じゃないし、3万という話でもないし、
3000という話でもない。なかったんですよ。
そういうふうに解釈するのが当たり前だということであります。

大臣にこれをもう1回聞いたところで、そういうふうな質問があったんですか
ぐらいで終わってしまうと思うんですが、しかし私は、このことをきちっと、
30万と言わなくなったからいいという議論じゃない。
大虐殺があったなら、何でこのとき言わなかったんだと。
言えなかった、なかったから。
そして、大虐殺を触れたのは、
ニューヨークか何か海外の出版で、英語の本で触れ始める。
(略)
三つ目。南京安全区。
御案内のとおり、安全区を設定しました。
これは、当時の宣教師なんかが頑張ってやった。
私、何回も外務委員会で質問しております。
この問題に関して、
「ドキュメンツ・オブ・ザ・ナンキン・セーフティー・ゾーン」として、
国民政府国際問題研究所によって、
1939年、戦前に上海から出版されている。
このデータだと、南京の人口は日本軍占領直前20万、
その後も20万、占領1ヵ月後は25万、
こういうふうなデータが、1939年の
「ドキュメンツ・オブ・ザ・ナンキン・セーフティー・ゾーン」、
国民政府国際問題研究所のデータであるということであります。

これを見ると、日本軍の占領直前に20万。
直前です。
占領の前が20万、その後20万、占領1ヵ月後25万。
大虐殺があったらこういうことはあり得ないし、
小さな虐殺があっても厳しいんじゃないかな、私はこう思うんでありますが、
このデータに関して御所見はいかがでしょうか。
(略)
ほかに減ったというデータがなくて、
減っていないというデータしかないということは、
これはやはりきちっと押さえるべきであって、
私は、こういったことを考えると、
30万人という数値を中国が言ってこないなんというのは当たり前であって、
1万人も1000人も100人も含めて、つまり、極端なことを言えば、
南京市民の虐殺が5人でもあったら宣伝をしたと私は思う。

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★安全区内に便衣兵が侵入していた。

『南京事件』秦郁彦著 P301

この数十年、乱立したままの内外諸情報を
争点別にデータベース化した上で再検分する手法を考案したのは、
『南京事件の核心』(2003)の著者 富沢繁信である。

画期的な新資料が見つかったわけではないが、
既存の情報を数量化しただけでも、
定着したイメージがかなり変わることをこの作業は立証した。

たとえば中国軍が実施した清野作戦(焼却、破壊など)に関する
海外報道が38件、ラーベ日記に16件あること、中国人便衣兵などの
難民区への潜伏を報じる外国文献が75件もあることがわかった。

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証言による『南京戦史』
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shougen_kaikosha.html
14日の掃蕩について戦車長 村門氏、榎氏の証言
(1)
中山路の十字路に停車して警戒中、脇屋か上野上等兵か(共に比島で戦死)
記憶がはっきりしないが、下車して付近にあった講堂のような建物に入ると、
敗残兵らしき者数十名がおり、
銃撃を受け急いで乗車したが、大目玉を食らった。

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増田六助伍長 第16師団 歩兵第20連隊

明くれば14日、
今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行くのである。
昨日まで必死で抵抗していた数万の敗残兵は、
八方より包囲されて唯一人も逃げていない。
結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。
今日こそ虱潰しに、草の根分けても探し出し、
亡き戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置に付いた。
各小隊分かれて、それぞれ複雑な支那屋敷を一々捜して男は全部取り調べた。
その中にある大きな建物の中に数百名の敗残兵が軍服を脱いで便服と
着替えつつあるところを第2小隊の連絡係前原伍長等が見つけた。
それというので飛び込んでみると、なんのそのそうそうたる敗残兵だ。
傍らに小銃、拳銃。青竜刀など兵器が山ほど積んであるではないか。

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★安全区内での摘発は現行犯であり捕虜の資格はない。

『正論』扶桑社 2001年3月号 P317 『南京事件と戦時国際法』佐藤和男著

一般に武器を捨てても(機会があれば自軍に合流しようとして)
逃走する敵兵は、投降したとは認められないので、攻撃できるのである。
安全区に逃げ込んだ支那兵は、投降して捕虜になることもできたのに、
それをしなかったのであり、残敵掃討が諸国の軍隊にとって
むしろ普通の行動であることを考えると、敗残兵と確認される限り、
便衣の潜伏支那兵への攻撃は合法と考えられるが、
安全区の存在とその特性を考慮に入れるならば、
出入を禁止されている区域である安全区に逃げ込むことは、
軍律審判の対象たるに値する戦争犯罪行為(対敵有害行為)を構成すると
認められ、安全区内での摘発は現行犯の逮捕に等しく、
彼らに正当な捕虜の資格がないことは既に歴然としている。

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1937年、南京安全区国際委員会が中国軍を安全区から追い出しを図る。
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ラーベの日記 12月5日

やっとのことで車に乗り込んだとたん、今度は空襲警報だ。
爆弾が落ちた。
だが今は許可証を持っているので、2度目のサイレンの後なら外に出られる。
それにあまりにやることが多くて爆弾などかまっていられない。
こういうと、ひどく勇ましく聞こえるが、
幸い爆弾はいつもどこかよそに落ちている。

アメリカ大使館の仲介で、
ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。
やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって
先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。
つまり、日本政府はまた拒否してはきたものの、
できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。

ベイツ、シュペアリングといっしょに、唐司令長官を訪ねた。
なんとしても軍人と軍の施設を
すぐに安全区から残らず引き揚げる約束をとりつけなければならない。
それにしてもヤツの返事を聞いたときのわれわれの驚きを
いったいどう言えばいいのだろう!
「とうてい無理だ。どんなに早くても二週間後になる」だと?
そんなばかなことがあるか!
それでは、中国人兵士を入れないという条件が満たせないではないか。
そうなったら当面、「安全区」の名を付けることなど考えられない。
せいぜい「難民区」だ。

委員会のメンバーで、とことん話し合った結果、新聞に載せる文句を決めた。
なにもかも水の泡にならないようにするためには、
本当のことを知らせるわけにはいかない……。
その間にも爆弾は、ひっきりなしに落ちてくる。
音があまりに大きい時は、椅子を少し窓から遠ざける。
あらゆる防空壕のなかで一番立派なやつが庭にあるのに。
ただそれを使う時間がないのだ。

城門は壁土で塗りこめられる。
三つの門のうち、開いているのは一つだけだ。
といっても扉の半分だけだが。

われわれは必死で米や小麦粉を運びこんだ。
安全区を示す旗や、外にいる人たちに
安全区のことを知らせる貼り紙もできている。
だが、肝心の安全性については最低の保証すら与えられないのだ!

ローゼンはカンカンになっている。
中国軍が安全区のなかに隠れているというのだ。
ドイツの旗がある空き家がたくさんあり、
その近くにいる方がずっと安全だと思っているからだという。
そのとおりだと言い切る自信はない。
しかし、今日、唐司令長官と会った家も
安全区の中だったというのは確かである。

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ミニー・ヴォートリンの日記

12月9日 木曜日(夜)

南京市南西隅の空全体が火炎で照し出されている。
午後は殆ど、北西以外の方角から濛々と煙が立ち昇る。
中華軍の狙いは、総ての銃撃の邪魔や、日本兵に役立つ物を取り除く事。

マクダニエル特派員は、中華兵が灯油を家に掛けて火をつけている所を
目撃したと言う。この2日間、焼け出された人達が城内に大挙避難した。
人々にこれ程の苦難を与えて迄もする価値があるのか疑問。

12月10日 金曜日

日本軍、光華門のすぐ近くに。
市街周辺各所で、殆ど一日中火災。
夜は西の空が真っ赤。
城壁のすぐ外側の貧しい人々の家が焼かれた。
マギーによると、彼の邸宅は燻る焼跡の海に浮かぶ孤島のようだとか。

12月11日 土曜日

マギーは、下関一部地域も今夜きっと焼き払われるだろう、と言う。
4時、南山公寓の大切な品物を出来る限り屋根裏に運び上げた。
キャサリンのピアノは1927年南京事件の略奪時に破損、
また同じ運命に見舞われるかも。

12月12日

中華軍、終日ひっきりなしに安全区通過。
夜の記者会見では、唐防衛司令官の統制力不足で城内殆どの場所で
掠奪が行われているとか。
犠牲が殆ど効果無しだとすると、
「城壁外側のすべての家屋、それに内側の多くの家屋をも焼き払った事は、
とんでもない誤算であったと確信する。」
南京を破壊しないまま引渡した方が良かったのでは。

洗濯夫と農民の二人は、若い娘がいる為、
撤退して行く中国兵を怖がっている。市南部と下関が依然として燃えている。

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ドイツのリリー・アベック記者「南京脱出記」「文芸春秋」(昭和13年・2)

12月7日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、
焼け出された市民が難民となって城内に流入、
商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。

支那軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。

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『南京戦史』P273

東京日日新開 上海1937年12月8日発

南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて
7日朝来市内警備を一層厳重にして
少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺し、
すでにその数、100名に及んでいると支那紙は報じている。

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『南京虐殺の徹底検証』P394 東中野修道著 展転社

他方、飯沼少将の陣中日記(1月4日)が「88師副師長」を逮捕と記す
当の第88師副師長馬包香(マアポーシャン 音訳)中将は、
安全地帯で「反日撹乱工作の扇動」を指揮していた。

そのような舞台裏を、安全地帯の避難民が垣間見ていたのであろう。
掠奪、放火、強姦は支那軍の犯行という者すら現れる。

≪支那人ノ或ル者ハ容易ニ掠奪・強姦及ビ焼打チ等ハ支那軍ガヤッタノデ
日本軍ガヤッタノデハナイト立証スラ致シマス≫

これは東京裁判に提出されながら
朗読されなかったマッカラムの日記(1938年1月8日)の一説である。

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1938年1月3日上海発の『ニューヨーク・タイムズ』の記事(1月4日付)

元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状 南京の犯罪を日本軍のせいに

南京の金陵女子大学に、
避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、
逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、
心底から当惑した。

実のところ教授たちは、
この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、
それから女子大の建物に住んでいて発見された。

彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、
砲台からはずした機関銃1丁に、弾薬をも隠していたが、
それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪した事と、
ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、
その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、
アメリカ人や他の外国人たちのいる前で自白した。
この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。

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『ドイツ外交官の見た南京事件』 P44~P50

資料13

添付書類
1938年1月6日付駐華ドイツ大使館報告代11号に添付
1938年1月1日ドイツ通信社(漢口)より入手
文書番号2722/1106/38

12月13日の朝になっても城内にはまだ日本軍の姿はまったく見られなかった。
城内南部は依然として中国軍の手中にあった。
中華門の付近で夜中に激戦がおこなわれ、1000名以上の中国人が戦死した。

12月12日から13日にかけての夜、中国兵や民間人が略奪を始めた。
食料品店がまっ先に略奪され、
民家から食料品を持った中国兵が出てくる姿も見られた。
しかし、中国軍が組織的な略奪を企図したと主張するのは誤りである。

この間の事情をよく説明しているのは、
城内南部の中国人衣料品店の前で繰り広げられた次の光景である。

何百人もの兵士が店の前に押し寄せ、
あらゆる種類の平服が「飛ぶように」売れていった。
兵士たちは有り金をはたいて平服を手に入れ、
路上で着替え、軍服を投げ捨て、市民に紛れて立ち去ったのである。
こうした何百人もの民間人はその後、軍官学校や国際クラブに集まった。

13日正午近くになって、
マクダニエル氏は城内南部で最初の日本軍の警邏隊を見かけた。

かれらは、6人から12人の集団をつくり、大通りを注意深く進んだ。
散発的に銃声が聞こえたが、道端にはあちこちに
(日本軍が言うには)逃走中に撃たれた市民が倒れていた。

それでも、日本兵の出現で、
中国市民の間にはある種の安堵感が生まれたようである。
もし日本兵が人間的なふるまいをしてくれれば、
かれらを受け入れる心づもりはできていたのである。

いわゆる安全区では流れ弾と榴弾によって
約100人の中国人が死亡し、さらにもう100人ほどが負傷した。

12月13日午後、日本軍戦車隊が先遣部隊を従えて入城した。
部隊は疲労困憊の様子をしていた。
中山門と光華門の付近での戦闘はもはやなかった。
中山門に損傷はなく、光華門も軽微な損傷ですんだ。
この2つの門近くに死者はいなかった。

夜になると、日本軍が安全区にも入ってきた。
安全区の管理下には、約7000人の武装解除された中国兵がいた。
かれらは軍官学校やその他の建物に収容されていた。

城内南部から数百人の中国人警官が逃げてきたため、
安全区の警察は増員されていた。

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1938年1月24日、日本軍は、
憲兵隊が便衣兵などを捕まえて調査した報告書を公表した。

会見では1937年12月28日までに安全区内で捕まえた人数などが発表された。
捕まえた便衣兵などの中には、
前第88師の副師長の馬(マー)・ポウシャン中将のように、
反日攪乱行為を扇動していた者もいた。

この1月24日の日本軍の発表をチャイナプレスやNYタイムズが採り上げ、
翌日1月25日付で報道した

■1938年1月25日付 チャイナ・プレス
(一部抜粋)
報告書によれば、支那軍の高級将校らが、
職員が退去したあとの外国大使館などに隠れていた。

12月28日までに、23人の支那軍将校、54人の下士官、1498人の兵士が、
安全区内のさまざまな建物内から日本軍によって発見された。

これまでに発見されているそのような者の中には、
南京保安隊長の王(ワン)・シンロンがおり、
チェン・ミと名乗って国際安全区の第4分隊を指揮していた。

また、前第88師の副師長の馬(マー)・ポーシャン中将や、
南京警察の高官ミ・シンシもいた。

馬(マー)中将は、国際安全区内で反日撹乱工作の扇動を活発に行っており、
国際安全区ではファン・アン大尉とライフル17丁も隠れていた。
王シンロンと3人の元部下は掠奪、脅迫、強姦をしていた。

the China Press in Shanghai, 25 January (Excerpt)

It was ascertained, the report claimed ,
the high officers of the Chinese armywere evacuated by their staffs.
Up to December 28 , it said, 23 chinese officers,
54 non-commissioned officers, and 1,498 privates were seized
by the Japanese in the various building in the zone. Among them,
it was claimed, was the commander of the Nanking peace
preservation corps, Wang Hsianglao,
"who masqueraded as Chen Mi" and was in command of the forth branch
detachment of the International Safety Zone,
Lieutenant General Ma Poushang, former adjutant of the 88th Division,
and high official of the Nanking police, Mi Shinshi.

General Ma, it is claimed, was active in instigating
anti-Japanese disorders within the zone,
which also sheltered Captain Huan An and 17 rifles,
while the report states that Wang Hsianglao and three former
subordinates were engaged in looting, intimidating and raping.

■『南京戦史資料集』P232
 飯沼守(少将、上海派遣軍参謀課長)日記
1月4日(快晴)
憲兵は南京難民区区域或いは外国大使館に
潜伏しある不逞徒を捕らえつつあり。八八師副師長など主なる者なり。

■1938年1月25日付 NY・タイムス特電
ハレット・アベンド
(一部抜粋)
難民キャンプおよび非軍事化されたはずの安全区に支那人将校23名、
下士官54名、兵士1498名が隠れていた、
その内の一部は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。

これらの高級将校の一部は、大使館、領事館、
その他中立国旗を掲げた建物に避難している事が、強調された。

これらの平服の支那軍将校及び副官は、
明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。
某国大使館近くと特に曖昧に言及された一防空壕の捜索では、
軽砲1、機関銃34、小銃弾42.000、手榴弾7000、砲弾500、
迫撃砲2.000が発見された

―――――――――――――――――

『南京戦史』二七三頁

十二月七日、中国軍は南京周辺を徹底的に焼き払い、
焼け出された市民が難民となって城内に流入、
商品流通が麻痺し食料難が加速、一部では暴動が起こった。

中国軍は治安維持のため少しでも怪しいものは手当たり次第に銃殺した。

上海一九三七年十二月八日発「東京日日新開」は次のように報じている。
「南京衛戌司令唐生智はどさくさに乗ずる市民の暴動を恐れて
七日朝来市内警備を一層厳重にして少しでも怪しいものは
手当たり次第に銃殺し、
すでにその数、百名に及んでいると支那紙は報じている」

―――――――

南京アメリカ大使館通信、エスピー報告、
三八年一月二十五日『南京事件資料集 第一巻』二三八頁

「日本軍入城前の最後の数日間には、
疑いもなく彼ら自身の手によって市民と財産に村する
侵犯が行われたのであった。

気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ棄て
市民の着物に着替えようとした際には、
事件をたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」

―――――――

大阪朝日 1938.2.17

皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る
【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来わが将兵が種々の暴行を行つてゐるとの事実無根の
誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わつてゐるので
在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ
このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。

右は皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を
南京の避難地域で働いてゐた憎むべき支那人一味であるが
憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。

この不逞極まる支那人はかつて京城において洋服仕立を営業、
日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で皇軍入城後
日本人を装ひわが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、
(略)
の三ヶ所を根城に皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し
強盗の被害は総額五万元、
暴行にいたつては無数で襲はれた無辜の支那人らは
いづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れたものであるが

憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである。
一味は主魁呉堯邦のほか……の十名で
いづれも皇軍の入城まで巡警を務めてゐた。

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第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長 大内義秀氏

12月13日、光華門城壁を占領 城壁付近で彼我不明の焼死体を発見、
まだかすかに息をしていた。
これを見た大隊長芳賀少佐は激怒し犯人捜しを命じた。
私の部下に犯人はいなかった。

検死の結果、焼死体は日本兵と判明。
捕虜となった日本兵が、生きたまま焼かれたようだ。

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第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長 大杉浩氏

12月13日、南京の南方の城門から入ると、
彼我の戦死体が転々と散在していた。

その中に、一人の日本兵が手足を立ち木に縛られたまま、
身に数弾を受けて死んでいた。
一見して、捕虜となった日本兵が支那軍によって虐殺されたと感じ、
縄を切って降ろした。

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『「南京大虐殺」のまぼろし』 鈴木明著 P155~156

第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、
日本の愛国婦人会のような格好をした多数の女性が、
手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。

兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、
それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、
次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。

不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。
指揮官の顔は一瞬士気色に変り、
口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。

このことは、日本軍の胸に、
中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。

俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。
このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、
長く憎悪の対象となったようである。

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食糧などの補給と調達

日本軍の食糧は、日本本土からの補給を原則としたが、
輸送などの問題で補給が不如意になり現地調達する際にも、
支那軍のように強奪するのではなく、カネを払って調達した。

調達

●12月1日 第16師団の後方参謀・木佐木久少佐
奔牛鎮で米八百表、小麦1千表、砂糖百袋、小蒸気(発動機船
二杯(隻)を徴発せり。

●12月4日 上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の日記
「無錫に大工場多く且倉庫櫛比す」
「本日、白米、軍の約一か月分、塩大麦燕麦多量徴発せり」

このような大量の食糧が、普通の民家に隠されているわけがないので、
公的機関か商業関係の倉庫にあったもの。
「南京攻撃を前に無錫で大量に食糧を徴発したことで、
主食に関しては輸送の問題を除いてほぼ解決した」(榊原証言)

ただ、南京米はポロポロだというので、不評を買った。
尚、徴発や労役に関しては、原則として現金を支払った。

貨幣は最初、日本銀行券と法幣を使ったが、
当時、日本の国際収支がよくなく、外貨準備も裕福でなかったので、
内地の円に影響が現れ、金融面、為替管理に不都合を生じた。

その為、急遽、10月の閣議で軍票の発行が決まり、
11月の第十軍杭州湾上陸から、軍票支払いに切り替わった。

輸送の問題

食糧自体に心配はなかったが、輸送が隘路だった。
日本軍は上海付近だけで行動する予定だった為、
南京まで物資を輸送する自動車が足りなかった。
鉄道は破壊されて使えない。

●松井石根日記には次のようにある。

11月18日
「軍ノ追撃二伴ヒ蘇州河、劉河及白茆河、
又ハ滸浦河ヲ利用シ主トシテ水運二依リ一部ノ陸路輸送ト相俟テ
概ネ其目的ヲ達成スヘキ見込ミナルヲ知ル。
尤モ太倉其他所在ノ地二相当多量現存セルヲ以テ
一時糧食ノ補給ヲ欠クモ糧秣ハ心配スルヲ要セス」

11月22日
「両軍ノ補給ハ連日ノ追撃前進二伴ハス已ムナク飛行機ヲ以テ
空中ヨリ糧食・弾薬ヲ投下シ其急ヲ救フノ状ナリシカ、
今日ノ晴天御蔭シ今後逐日其状勢ヲ恢復スルコトヲ得ン」

11月27日
「両軍ノ後方補給ハ軍ノ追撃二伴ハス、一時困難の状勢ニアリシカ、
天候の恢復ト地方舟楫ノ整備ニヨリ漸次ニ補給力ヲ増加シツツアリ。
此処旬日ノ間ニハ概ネ両軍共ニ補給ノ整正ヲ得ルニ至ルヘシ」

『南京戦史資料集Ⅱ』

以上、板倉由明著『本当はこうだった南京事件』
P355~P361より抜粋要約引用

まとめると、

11月18日、糧食は太倉その他の所在地に相当多量現存、心配する必要ない。

11月22日、前進に追いつけないので飛行機より投下

11月27日、ここ10日以内には補給がまともにできるようになるだろう。

となる。

19日が蘇州陥落で22日が蘇州出発だから、
松井大将の日記はこの時のことを補足している。

つまり、物資はあったけど輸送に限界があったため一時途切れたりはしたが、
補給はちゃんと行なっていたのだ。

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長谷川秋広上等兵の私家版『戦火の揚子江を行く』より引用

●支那軍(不逞支那人)による南京郊外・農村部での食糧掠奪と殺害

日本軍の南京占領後も、支那の盗賊は、
南京の郊外や農村で食糧などを強奪し、殺人までも行なった。

日本軍はちゃんとカネを払って調達したが、
支那軍・不逞支那人はカネを払わず、殺して食糧等を奪った。

■日本軍は金を払った

「1月25日(曇)きょうは、発電所に2名の使役をだす。
分隊は正門から約2キロの部落へ、野菜と食糧の徴発に行った。
しかし、軍票がないので、日本円で払うと、土民は喜び、
鶏卵まで加えてくれた」(46頁)

「2月6日(晴後曇、時々小雪) 分隊の何名かを残して徴発に行く。
土民も段々好意を持つようになった。
軍票がないので、幾らかの日本銭を与えると
『謝謝』と笑顔で送ってくれる。」(49頁)

「4月5日(晴) きょうは勤務はない。
昨日のこと(注:松江付近における敵の急襲)もあるので、
いつ非常出勤があるかも知れない。
野菜不足のため、城外に徴発に行く。

農民は、我々がいつも金を与える関係で喜んで野菜を売ってくれる。
またわれわれのためにすこし備蓄しておいてくれるらしい。」(72頁)

―――――――

日本軍が南京などで行なったこととして虐殺が捏造されるとき、
その虐殺行為が日本人の発想にはない方法であることが多い。

■『蜀碧・嘉定屠城紀略 揚州十日記』彭遵泗他著、松枝茂夫訳
張献忠は、女は人の心をまどわすとして、ことごとく殺すよう命令した。

そして、妊婦の腹を裂いて胎児の性別をしらべた。

また幼い子供数百人ずつを一団として、これを火の城で囲み、
外側から槍や戟を突き刺して、
彼らが悲鳴をあげて逃げまどうのを見て楽しんだ(80頁下)

―――

人を殺す方法には色々名前があった。
「匏奴(ホウド)」というのは、手足を斬り落す方法である。
「辺地(ヘンチ)」というのは、背筋で真二つに斬り離す方法である。
「雪鰍(セツシュウ)」というのは、空中で背中を槍で突き通す方法である。
「貫戯(カンギ)」というのは、
子供たちを火の城で囲んで炙り殺す方法である。

そのほかに、歩行にはなくてはならぬ筋(アキレス腱)を抜いたり、
女の足を斬ったり、人の肝を搗き砕いて馬の飼葉にしたり、
人の皮を剥ぎとって目抜き通りに張りだしたりした。

また、皮を剥ぐときには、頭から尻まで一直線に裂き、
鳥が翼をひろげたような恰好に、前にひろげるのだ。
そうするとたいてい一日以上たってやっと息が絶えるのであった。
もしもすぐに死んだ場合には、刑の執行人も殺された。(85頁上下)

―――

賊は病弱者に遇うと、たいてい鼻を削ぎ手を斬り落した。
手を斬り落すには、男は左、女は右と定められていて、
もしも間違えてさし出すと、左右とも斬られた。
幼児は道ばたに棄てて馬蹄に踏みにじらせるか、
空に投げあげて落ちてくるところを刀で突き通すかした。(91頁上下)

■『支那我観 対支新策支那小遊』松永安左衛門著
然るに此の如き平和的国民も、自己より弱き者に対しては、
如何にも残忍なり。

而して此の残忍を行ふや極めて平気にして、
些かも自己の感情を興奮せしめず、平然として之れを為す。

彼等はその愛撫、飼育せる家畜を屠殺するに
一本の釘を以て容易に之れを仆す事を得べく、
或は之れを肥満せしむる為めには、
睾丸を抜く事も往昔より平気に行はれ居れり。

人の肝臓が補腎の為めに益ありとしては之を摘出する事も彼等の習慣なり。
街頭に罪人を斬首するや、市人は堵を為して之れを傍観す。
而してその身首を異にするや忽ち携へ来れる瓶子に
其の生血を汲み取り、之れを病人に飲用せしむるの風は、
今日尚大市街に於て行はれつつある所なり。

陰険なる方法を以て常に殺人の行はれ居る事は、
家庭的に政治的に見る所にして、
その愛児を僅少の金銭にて他に売り渡すが如きも亦日常行はるる事実なり。

而して人の子を買ひ受けたる者は、身体を不具にして各種の観せ物となし、
或は曲芸に使役し、或は之を娼婦に得る等恰も普通の商取引の如くに行はる。

故に支那人は強者に対しては従順なれども、弱者に対して残忍酷薄にして、
之れを愛撫誘掖して以て自己と共に発達し向上せんとするの精神は
毫も有せざるものと断ずるを妨げず。

斯の如き支那の国民性は、
彼等をして政治的若くは社会的に発達せしむる上に、
大なる障碍たるは言を俟たざる也。

―――――――――――――――――

支那人ブロガーの李天天氏が、
以前蘇州の友人から聞いた抗日時代の話を発表した。以下はその意訳。
http://www.blackchina.info/archives/4586

抗日戦争時代、彼がまだ幼い頃に兄と遊んでいると、
丁度その村に日本軍がやって来た。
兄はとても怖くなって逃げ出してしまった。

一人の日本兵が彼を抱き上げた。
兄は弟が殺されると思っていたが、
日本兵はリンゴの木から実をもいで、彼と兄に渡してくれた。

老人に聞くと
「日本人は中国と戦争をしても、一般人を殺すのではなく、
軍隊とだけ戦うのだ。
国民党も同じで、戦争は軍人のすることなので、
一般人の助けを必要としない」と言っていた。

しかし共産党はそうではなかった。
共産党は常に一般人の抗日参加を発動し、一般人に日本兵への邪魔をさせ、
不意打ちを仕掛けさせ、日本兵が通る橋を壊させ、地雷をしかけさせた。

常に共産党は一般人を使って日本兵を襲わせた。

その結果、本来一般人を攻撃する気が無い日本兵はとても苦しめられ、
一般人とも戦うようになった。

これは全て共産党が一般人にやらせたことであって、
もし一般人が戦争に加わらなければ、戦争による犠牲はあんなに多く無かった。

地雷によって殺された日本兵は、実のところあまり多く無かった。
それより仕掛けた一般人自らがその犠牲となるのが常であった。
やはり映画のようにはいかないものだ。

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中国有名教育家
「日本は南京を開放したのだ。日本軍は友軍だった!これが真実である」

保守速報 2012.07.08 23:33 より
http://www.hoshusokuhou.com/archives/11050774.html

「日本は南京を解放」…教育家のつぶやきに猛反発=中国

民間の教育機関、信孚教育集団を設立した信力建氏が6月24日、
中国版ツイッターと呼ばれる「微博」で
1937年12月の日本軍による南京占領を「解放」と表現したことで、
中国各地から猛烈な批判が続いた。

南京大屠殺遭難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)の朱成山館長は
「この種の言論は大きな間違いであり、その歴史観には人を震え上がらせる」
として、公開での謝罪を求めた。中国新聞社が報じた。

■「南京大虐殺」に関する他の記事 - サーチナ・ハイライト

信力建氏は評論家としても活動しており、
広東省広州市白雲区の政治協商会議委員でもある。
政治協商会議は、政府や共産党に政策上の提言を行う機関だ。

信力建氏は、当時の満州国軍が南京攻略戦に加わったことを
「英雄的で勇敢な軍隊が、友軍とともに南京を解放した」と表現した。
「友軍」が日本軍を指すことは明らかだ。

朱成山館長は「南京解放」との表現に激しく反発し
「信力建氏が実際の行動をもって、間違った歴史観と決別することと、
真摯(しんし)な態度で歴史の証人
――南京大虐殺で生き残った人と全国の人民
――に公開で謝罪するよう希望する」と主張した。

朱成山館長はこれまでも
「南京大虐殺の歴史は国際社会で早くから、質疑を許さぬ定説になっている」
と主張している。

サーチナ 2012/07/06(金) 12:18
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0706&f=politics_0706_014.shtml

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いわゆる南京大虐殺・URL図書室
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html

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いわゆる「南京大虐殺」関連_3
http://bit.ly/1NKqrVl
2009/12/28 03:00|年表リンク用資料
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