●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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昭和12年11月6日、日本軍将校からキャラメルをもらう中国人の子供
![]() 南京入城者の証言 『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P114~123 より 阿羅健一氏は、雑誌「正論」に61(1986)年5月号から 「日本人の見た南京陥落」を連載している。 南京戦に参加した新聞記者、カメラマン、将兵等を訪ね、 占領後の南京の模様について克明にインタビューし、 それをそのまま記録した連載ものである。 61年5月号から12月号にいたる8回の登場者とその所見は次の通りである。 ●上海派遣軍 参謀 大西一 大尉の証言 同大尉は2課の情報参謀で、最年少。 引き続き南京特務機関長に就任、約1年在勤。 「私は長参謀の下にいましたが、 長参謀が命令(筆者注・やっちまえという虐殺命令のこと) を出したということは、見たことも聞いたこともありません(中略)。 また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしな話です」 ―――第16師団の中島(今朝吾)師団長の日記に 「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、 これが捕虜虐殺の証拠と言われていますが? 「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。 中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 ―――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はありませんでしたか? 「話題になったことはない。第2課も南京に入ってからは、 軍紀、風紀の取り締まりで城内を回っていました。私も城内を回った」 ―――何も見ていませんか? 「一度強姦を見た」 ●松井軍司令官付陸軍通訳官 岡田尚(おかだたかし)氏の証言。 降伏勧告文を翻訳し、軍使に加わる。 「城内には死体はありませんでした。 ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」 「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」 「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして(中略) その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」 ●上海派遣軍特務部員 岡田酉次(おかだゆうじ)少佐の証言 「あの南京攻略戦を見てますと、中国軍の中には女がいました。 私も女の中国兵が倒れているのを見ています。 また敗残兵といっても抵抗するのもいたし、便衣兵というものもいて、 これらがやられるのを見ました。 これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか。」 ●東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言 ―― 虐殺があったといわれてますが……。 「見ていません。虐殺があったといわれますが、十六、七日頃になると、 小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。 また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて 日本兵のところに集まっていましたから、 とても残虐な殺しなどがあったとは信じられません。」 ―― 南京事件を聞いたのはいつですか。 「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、 昭和二十一年か二十二年頃だったと思います。 NHKに『真相箱』という番組があって、 そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。」 ●同盟通信映画部 浅井達三カメラマンの証言 同盟通信の中で虐殺というようなことが話題にならなかったのですか。 「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、 それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから・・・」 ●報知新聞従軍記者 田口利介氏の証言 ―― 南京で虐殺があったといわれますが? 「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」 ●同盟通信 無電技師 細波孝氏の証言 「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。 中には針金で縛ってつないでいたのもありました。」 ―――死体の数はどのくらいですか。 「さあ、どのくらいか。百人くらいでしょうか。 湯山にいた捕虜をやったのでしょう。」 ●都新聞記者 小池秋羊氏(12月13日入城)の証言 「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。 犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、 街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、 びっくりしてしまいました」 ―――その他の難民区の様子はどうでした? 「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。 また食糧が無く飢餓状態で、 食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。 私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、 難民区のリーダーを宿舎に連れていき、 米や副食品などを大八車2台分やりました。 難民区には6、7万人いたので、これだけでは九牛の一毛だったと思います」 ―――南京では虐殺があったといわれますが、そういう死体を見ていますか? 「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、 中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、 この地下に数体の死体がありました(中略)。 それと、把江門だったと思いますが軍のトラックでここに行った時、 車に何度もひかれてせんべいのようになっていた死体が 一体ありました(中略)。 下関にあるドック、 それはグラウンド・スタンドのような円形の造船所ですが、 そこに累々たる死体が投げ込まれているのも目撃しました」 ―――ドックの死体はどのくらいですか? 「5体や10体じゃなかったと思います。何10体かあったと思います。 これは戦死体だと思います」 ―――その他に死体はありませんでしたか? 「ありませんでした」 ―――南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか? 「ありません」 筆者注 なお小池氏は13日、中正路で火事を見たが、 そのとき2台の自動車に分乗した外人記者が街を縦横に疾駆して、 パチパチとカメラのシャッターを切っていた、と重要な証言をしている。 ●読売新聞 技師 樋口哲雄氏の証言 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」 ―――その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが? 「どこで何があったのか知りません」 ―――見たり聞いたりしませんか? 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。 あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。 中山陵など荒らされていないし、きれいでした。 やらなきゃこっちがやられるからやったのを 虐殺といっているのだと思います。」 ●東京日々新聞カメラマン 金沢善雄氏の証言 「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、 不思議でしようがないのです。 私は南京をやたら歩いていますが、 虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」 「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、 戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。 ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。 松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」 ●読売新聞 上海特派員 森博氏の証言 「住民は敵意を持っていなかったし、 日本兵を怖がってもいなかったと思います。 逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました。」 「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない。 放してもまた兵隊になる。 それで困ってやったと言っていました・・・ 下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」 ●報知新聞カメラマン 二村次郎氏の証言 ―――南京虐殺ということが言われていますが。 「南京にいる間見たことがありません。 戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、 どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。 逆に人が書いたものを見たりしています。 アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね。 私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」 ●第10軍参謀 谷勇大佐の証言 「14日の11時30分頃でした。 中華門から入ったが付近に死体はほとんど無かった。 3時頃になり私は後方課長として占領地が どんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵1個分隊を伴い、 乗用車で城内一帯を巡回した。 下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。 この岸辺に相当数の死体があった。 千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。 軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」 ―――戦死体と違いますか? 「城内から逃げたのを第16師団が追いつめて撃ったものと思う。 これが後日虐殺と称されているものではないか?」 ―――把江門にも死体があったと言いますが、ご覧になりましたか? 「ものの本には把江門もだいぶ(死体が)あるように書いてあるようだ。 14日午後通ったが、その時は無かったね」 こう言いながら又アルバムを開く。 14日の悒江門の写真である。 写真は3つの入り口を持った悒江門全体が写っているが、 周辺一帯に死体らしきものは見当たらない。 「雨花台でもやったと書かれたものがあるが、 そういう死体は全然なかった」 ●第10軍作戦参謀 吉永朴少佐の証言 「13日早朝、中華門から入りました」 ―――その時の南京の様子はどうでしたか? 「儲備銀行に行く途中、身分いやしからぬ中国人の家族に会いました。 そこで私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、 と書いて渡しました。 当日(13日)家族が歩ける位ですから、 城内が落ち着いていることが解ると思います」 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。 揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体がありました ――数千はあったと思います。 第10軍は南京の南側からだけ攻めたのではなく、 国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います。」 ●第10軍参謀 金子倫介大尉の証言 「南京に入ったのは13日か14日だと思います。 城内では一人の死体も見ませんし、一発の銃声も聞きませんでした」 ―――それでは、そのころ南京事件は聞いたことがなかったのですか? 「ええ聞いたことはありませんでした。 戦後東京裁判で聞いてびっくりしました。 何か隠しているとか、言い渋っているとか言うことではなく、 本当に南京では何も見ていません。 南京では印象に残るようなことはなかったのでしょう」 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『「南京事件」 日本人48人の証言』 阿羅健一著 小学館文庫 ■領次官補・粕谷孝夫氏の証言 ◆南京の様子はどうでした? 「普通でした。特別なことはありませんでした。 店は開いていますし、日本の商人もいました。 虐殺とかそういうことはありませんでした」 ――――――― ■松井軍司令官付陸軍通訳官・岡田尚の証言 「城内には死体はありませんでした。 ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」 「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」 「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」 「虐殺したということはありえません」 ――――――― ■第10軍参謀・谷田勇大佐の証言 「14日の11時30分頃でした。 中華門から入ったが付近に死体はほとんど無かった。 3時頃になり私は後方課長として 占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、 司令部衛兵1個分隊を伴い、乗用車で城内一帯を巡回した。 下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。 この岸辺に相当数の死体があった。 千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。 軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」 ◆戦死体と違いますか? 「城内から逃げたのを第16師団が追いつめて撃ったものと思う。 これが後日虐殺と称されているものではないか?」 ◆把江門にも死体があったと言いますが、ご覧になりましたか? 「ものの本には把江門もだいぶ(死体が)あるように書いてあるようだ。 14日午後通ったが、その時は無かったね」 こう言いながら又アルバムを開く。14日の把江門の写真である。 写真は3つの入り口を持った把江門全体が写っているが、 周辺一帯に死体らしきものは見当たらない。 「雨花台でもやったと書かれたものがあるが、 そういう死体は全然なかった」 「19日までなら広く南京周辺を加えても、死体数は数千ないし一万程度で、 まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。 しがたって、中国側が終戦後の極東軍事裁判で主張した何十万人という数字は 誇大意図的な誇張であると確信いたしております」 ――――――― ■第10軍作戦参謀・吉永朴少佐の証言 「13日早朝、中華門から入りました」 ◆その時の南京の様子はどうでしたか? 「儲備銀行に行く途中、身分いやしからぬ中国人の家族に会いました。 そこで私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、 と書いて渡しました。 当日(13日)家族が歩ける位ですから、 城内が落ち着いていることが解ると思います」 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。 揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体がありました。 数千はあったと思います。第10軍は南京の南側からだけ攻めたのではなく、 国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います。」 ◆南京では大虐殺があったと言われていますが? 「私は南京大虐殺はなかったという信念をもっています。 中国市民は逃げ足が速く、ほとんど逃げています。 残っていたのはわずかです。 また、中国軍を何万人も何十万人もやったとするなら、 並べて機関銃で掃射するとしても、とてもできないことです。 何十万人といったら押し合いへし合いで、歩けはしない人数です。 しかし、南京にそんなに人はいませんでした。 南京大虐殺は白髪三千丈式に、後で中国人が言っていることです。 私の判決は、虐殺はなかったということです」 ――――――― ■東京朝日新聞・橋本登美三郎・上海支局長の証言 「南京での事件ねえ。私は全然聞いてない。 もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ。 記者は少しでも話題になりそうな事は話をするし、それが仕事だからね。 噂としても聞いた事もない。 朝日新聞は現地で座談会もやっているが、あったのなら、 露骨ではないにしても抵抗があったとかそんな話が出るはずだが。 南京事件はなかったんだろう」 ――――――― ■大阪朝日新聞・山本治・上海支局員の証言 ◆虐殺があったと言われてますが? 「全然見たことも聞いたこともありません。 夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。 誰もそういうことを言ったことがありません。 朝日新聞では話題になったこともありません。 事件というようなものはなかったと思います。 私も見ていませんし、朝日でも話題になってません。 また、あの市民の数と中国軍の動きで そういうことが起きるはずがありません。 ――――――― ■東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言 ◆虐殺があったといわれてますが……? 「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、 小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。 また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに 集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。」 ◆南京事件を聞いたのはいつですか? 「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、 昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、 NHKに『真相箱』という番組があって、 ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。 たまたま聞いてましてね。 テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、 機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、 ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。 これを聞いてびっくりしましてね。 嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります。 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、 南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、 その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。 何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。 当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。(略)」 ――――――― ■同盟通信・前田雄二記者の証言 「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。 ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、 日本の警備司令部によって保護されていた。 私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。 入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、 ここに寝泊まりして取材活動をしていた。 つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、 露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。 この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。 こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの 虐殺など行われようはずがない。もしあれば、私たちが見逃すはずがない。」 ――――――― ■報知新聞従軍記者・田口利介氏の証言 ◆南京で虐殺があったといわれますが? 「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません。」 ――――――― ■読売新聞技師・樋口哲雄氏の証言 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」 ◆その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが? 「どこで何があったのか知りません」 ◆見たり聞いたりしませんか? 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。 あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。 中山陵など荒らされていないし、きれいでした。 やらなきゃこっちがやられるからやったのを 虐殺といっているのだと思います。 ――――――― ■東京日々新聞カメラマン 金沢善雄氏の証言 「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、 不思議でしようがないのです。私は南京をやたら歩いていますが、 虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません。」 「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、 戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。 ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。 松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです。」 ――――――― ■西本願寺・大谷光照法主の証言 完全占領の翌日の14日夕刻、南京に着き、 城内に宿営しつつ四日間滞在し、城内にも数回入りましたが、 もちろん虐殺など見ておりませんし、噂も聞きませんでした。 もうその時は戦闘は全く終息していて、市内は平静で、 市民の姿もほとんど見かけず、虐殺の起るような環境ではありませんでした。 日本軍は城内外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました。 ――――――― ■当時の第6師団に従軍していた大阪毎日新聞・五島広作記者の証言 五島氏は当時、大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)の記者として熊本支局に 勤めており、第6師団の北支派遣とともに第6師団に従軍することになった。 だから第6師団の従軍記者であり、南京攻略戦だけでなく、 北支の保定・正定戦、さらに杭州湾上陸作戦にも従軍している。 ◆五島さんは第6師団のどの辺で従軍取材していましたか? 「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、 谷師団長にかわいがられまして、作戦会議もみておけ、と 谷中将の命令で藤原武参謀が呼びに来ることもありました」 ◆崑山前後、軍の方から、中国人は女・子供にかかわらずすべて殺すべし、 という命令があったといいますが……? 「そんなことはありません。私は師団の司令部にいて、 師団長と行動を共にすることが多かったのですが、聞いたことはありません。 東京裁判があってからの作り話ではないでしょうか」 ◆第6師団は北支で感謝状をもらってないから、 中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……? 「はじめて聞いた話です。第6師団でそんなことはありませんでした。 先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。 戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」 ◆南京陥落後の第6師団の行動はどうでした? 「13日、14日は城内掃蕩で、残虐行為などありません」 (中略) ◆五島さんはいつまで南京にいましたか? 「翌年の1月10日頃までいました。この間、南京のあちこちに行きましたが、 虐殺といわれることは見ていません。また、強姦もあったといわれますが、 すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。」 (後略) 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 畠中秀夫氏の『聞き書き 昭和十二年十二月 南京』での足立和雄氏の証言。 私は南京大虐殺なんて見ていません。 あなた(畠中)がどういう立場の人か存じませんが、 南京大虐殺の証言はできませんョ 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 以下、『「南京「事件」研究の最前線」平成19年版』 より引用 ■西住小次郎 中尉 の手紙 第一信 西住千代様 軍事郵便 親展 上海派遣軍司令部付 細見部隊高橋隊 歩中尉 12月26日 西住小次郎 当地も大分寒くなり、朝など真白に霜が置く様になりました。 其の後、皆様、御変わりありませんか、御尋ね致します。 年内も後数日となり、ご多忙の事と存じます。 今、明日は餅搗き位かも知れんと想像致して居ります。 当地に居るとさっぱり年末の様な気が致しません。 猛烈な迫撃戦で手紙とか小包とか、一向遅れて到着しません。 何時か腹巻、靴下を送ったとの事でしたが、まだ到着して居りません。 其の内に手紙などもどんどん来るようになりましょう。 12月12日、南京に到着以来ずっと南京城内に居ります。 南京は敵の首都だけに、東京程はありませんが立派な町です。 建物と云い、道路と言い、立派です。 又、附近には所謂紫金山、其の他の山々、 玄武湖等もあり、風光も仲々いい様です。住むのにもよさそうな所です。 今、我々の居る所は中央大学とて排日教育最も盛んだった大学です。 立派な建物です。一部爆撃された所もありますが、部屋など立派です。 今は内地の兵営以上にきちんとした生活をやって居ります。 私の部屋も机、椅子、其の他寝台、調度品、 総てきれいに飾り、内地では出来ぬ様式にして居ります。 全員寝台に寝、ストーブ等もあります。 只、電燈と水道が今のところこわれてありません。ローソクばかりです。 近い内に汽車も通じ、電燈もつきましょう。 町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です。 正月は南京で迎える様になる事と存じます。 此の手紙も恐らく正月の5、6日頃しか着かぬと存じます。 既に小包等御送りになって居るかも知れませんが、 今度送られる時は「塩から」の様なおかずになるもの、 褌等を御願いします。 宛名は手紙の裏面の通り願います。 12月26日 小次郎 母上様 膝下 第二信 新年御目出度うございます。 皆様一同御元気で新年を迎えられた事と存じます。 私も御蔭で極めて元気です。 南京に於いて正月を迎えました。 南京の町も次第に清潔になり、避難民も帰って参ります。 町には兵隊の為に酒保も出来、 シルコ屋、オデン屋の簡単なものが出来たそうです。 上海―南京間の汽車も通い始めて居ります。 水道も全部来る様になり、便利になりました。 まだ電燈は町の一部分しかつきませんが、近い内にくる様になりましょう。 今の気候は内地と同じ位か少し寒い位ですが、寒いと云う事はありません。 只今、次の戦の準備をして居ります。 日用品、菓子類等も手に入ります。ミルクやコーヒーなども持って居ります。 1月6日、小次郎 母上様 ※西住小次郎中尉は、久留米の戦車第一連隊の小隊長として支那事変に従軍。 1938年(昭和13年)5月7日、徐州会戦で戦死。 ――――――― ■山田博治 伍長 の手紙 俺は健在だから、先ず安心してくれ。今は南京の城門を守備して居る。 我が脇坂部隊は遂に全軍の先頭を切って、 敵の最後の堅陣たる南京に名誉ある一番乗りを決行し、 光華門城頭高く、へんぽんと日の丸を打ち立てたのだ。 万歳万歳の叫びあるのみ。遂に我等は勝ったのだ。感極まって涙が溢れ出る。 しかしながら、我が第3中隊も残った者は僅か9名だけ。 中隊長以下、数多くの戦友が、或いは戦死し、或いは負傷し、 遂に我が大隊長殿も壮烈な戦死を致されてしまったのだ。 それもその筈、聨隊長殿の命令は厳然たるもの。 「第一大隊は全滅を期して光華門に突入すべし」 恐らく生きて帰る等と思った者は一人もないであろう。 敵はタンクを使い、毒瓦斯を撒き、鉄条網を張り、深い水濠を控え、 地雷火に、手榴弾に、迫撃砲の集中射撃に、機関銃、小銃は勿論、 あらゆる武器を用いて、最後の頑強なる抵抗をしたのだ。 俺は大隊が突入の時には、後方連絡任務の為、 これに参加できなかったのは、返す返すも残念でならない。 昨日は軍司令官、朝香宮殿下が態々光華門に来られて、 我が脇坂聯隊長殿より当時の戦況を実地に着いて、 一々細かく御聴取遊ばされた。 我が36聯隊は先に蘇州川の渡河作戦に一番乗りを決行し、 今また敵国の首都、南京に一番乗りを博す。 どこまでも輝かしき聯隊だ。昨日は祝い酒とタバコが我等に給与された。 去る17日は方面軍司令官松井大将を迎えて、 華やかな入城式、十八日は戦死者の慰霊祭が挙行され、参加した。 今日(21日)は南京市内の見学をした。 国民政府、参謀本部、外国の大使館等々を視察した。 今日は久し振りで頭の散髪をし、顔のひげを剃った。 去る9月12日、福井の重久床屋で散髪して以来、今日で百日目、 今まで一度も刈らないのだから、長い髪の毛とひげと、 又、今まで上陸以来、一度も入浴もせず、顔は垢で真っ黒だ。 鏡を見たら、まるで熊の様だ。ハハハ・・・。 此の世の人間とは思われないね。 この顔で、もし家へ帰ったならば、誰も俺だと思う者はないだろう。 何処かの気狂乞食と間違うよ。 今日は散髪をし、湯を使い、やっと人間らしい気持ちになった。晴々した。 昭和12年12月21日夜、南京にて 博治より ※山田博治伍長は福井県生まれで、南京一番乗りの脇坂部隊に従軍したあと、 1938年(昭和13年)8月27日「江西省瑞昌県君山」の戦闘において 頭部に銃弾を受け、26歳で戦死。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著 昭和十三年十二月 新潮社 ◆南京への途、クリーク突破 工兵隊が架橋材料をもってクリーク岸の私たちのところへ這って来た。 廣徳を出て山岳地帯を抜けた部落の端のクリークで、 私たちは追いかけていた敵の尻尾をつかまえてしまったのだ。 南京へ、と気は焦ったが、クリークがあってどうしても突撃できない。 結局工兵の架橋を待つよりほかはないことになった。 私たちは工兵の到着を見てその架橋の掩護のため、 岸からクリークの中の三角州へ飛び出して行った。 三角州には一ぱい葦が生えている。 この葦の中へ踊り込む私たちを見て、 対岸の敵は強行渡河されるものと思ったのか、 対岸の一切の火器を動員して慌ててこの三角州を射ちまくった。 それを見て真裸になった工兵が 三角州から離れた下手へ材木をもって飛び出して行った。 友軍の重機が岸から対岸めがけて猛烈に唸った。 私たちは対岸の敵を全部三角州へ牽制して、ここから射ちまくった。 弾は葦に当ってサ、ササササと大雨のような音をたてた。 葦が切れて射たれた矢のように私たちの顔に刺さった。 「ヨイ、ソレ、ヨイショ!」という勇ましい工兵の気合いが聞えて来る。 射って射って射ちまくる友軍重機の音で、 空気がすっかり熱くなったような感じだった。 「いいか、大丈夫か!」と叫んで衛生兵の小林伍長が 三角州と土手の間を走り廻っている。 まだ「小林ッ、衛生兵!」とよぶ声は一つも聞えて来ない。 「伝令!」と呼ばれて私は荒木准尉のところへ駆けよった。 私は○隊本部との伝令もやることになっている。 葦の中で命令を復誦していると、 その声が弾の音で吹き飛んで自分の耳にも聞えないほどだった。 三角州を出て土手に登る。 土手のところに小林伍長が伏せていて、私を見てニッコリうなづいた。 「本部へ行ってみい、兄さんが御馳走しているぞ」といった。 『兄さん』の石原上等兵は、きょうは本部にいるらしい。 弾の中でも食物の話だけは忘れなかった。・・・ 本部に飛び込んで命令を復誦して伝えると坂本大尉が、 「よろしい、御苦労だった。 あそこで何か温かいものでも喰って行け」といわれた。 隣室で石原上等兵が上着を脱いで鉢巻をしていた。 「サァサァサァ」と手を叩いて、 「ゼンザイ、支那酒、御飯にニワトリ、菜ッパはお汁で、 ガチョウの漬物なぞいかが・・・」といった。 満腹して、「架橋完了次第強行渡河して前進」の命令を受けて 本部を飛び出そうとすると、裸の工兵が一人戦友に担がれて入って来た。 工兵の裸の右腕は付け根でしっかりと血まみれの手拭でゆわえられて、 腕から下は膚の色がなかった。 工兵は入ってくるなり、「オイ、煙草を一本喫わせてくれませんか」 としっかりした口調でいった。 煙草に火をつけてもらうと、立ったまま さもうまそうに深々と吸ってプーッと輪を作って煙を吹き出した。 石原上等兵が、「御苦労やのう。まあ坐んなよ」 といって石油箱を持って来ると、 「いや、もう一つ尻ッぺたへも弾めが入っていやがって、 坐るなァ駄目ですたい」といって工兵は笑った。 私が三角州へ駆けつけると、 すぐ私たちの○隊は三角州を出て土手を架橋されたばかりの橋の方へ走った。 月が沈もうとしている。葦がキラキラと光って銃剣もキラキラと光った。 「それッ、歩兵は出ろ!」と工兵が声をかけたので、 一斉に橋の上へ躍り出した。ダダダダダダと機銃が狂い出す。 対岸で月の光をうけてチェコ機銃の筒先きが左右にチカチカと光ながら、 首を振るのがはっきり橋の上から目に入った。 橋はガタガタと足の下で音をたてた。 工兵が水の中へ入って、「歩兵、出ろ出ろ!」と下から叫んでいる。 「すまん!」と叫んでドーッと渡河橋の上を走った。・・・ 追いに追いまくって気がつくと、朝がほのぼのと明けていた。 下り坂を走り出した機関車のようにどうにも止まらないさかんな気持だった。 「集結ッ!」と分隊長が呼んでいる――。・・・・・ 敵がバタバタと逃げだした。 山を半分も登ると、またどうしても進めなくなってしまった。 ズラリと列んだトーチカが突っ込んでも突っ込んでも抜けない。 私たちは岩の間に転がった。 そして、そのまま眠ってしまった。 ふと目を覚ましてみると、 坂本大尉も荒木准尉もみんなグーグーと鼾をかいて寝ていられた。 三時間も突撃のままで眠ると「前進」といって叩き起された。 目を擦って夢中で山を前進する。敵は一せいに退却していた。 頂上を乗り越えて、逃げる敵を追って山を下ると ほのぼのと夜が明けてきた。 轟々と山に響く爆音――山の下の大きな道を、 幾十台という戦車が一列に呻って走っていた。 日章旗がはたはたと朝風にひらめいている。 私たちは一気に山を駆け下りた。 戦車はつづき、そして○砲はいくつもいくつも、 すさまじい響きをあげて猛烈な速さで前進していた。 砲車は轟々と軋み、馬は鬣を乱して大道路に蹄を鳴らす。 「それっ! それっ!」と鞭打って進む砲兵の掛け声が、 戦車と砲車の轟音の中に響き渡る。まさに大軍は南京に殺到するのだ。 私たちは食事もなにも忘れて一斉に進撃した。 道の両側の民家は全部火が放たれて燃えあがっていた。 燃え上がる民家は、中に弾薬を隠していたものか、 轟然たる大音響をあげて空に噴きあがったり、 或は焔の中で幾万という小銃弾が次々に炸裂して花火のような綺麗さだった。 私たちはこの中を走って進軍する。進軍しながら石原上等兵が、 「おい、さっきの山のトーチカを見たか」といった。 「そんなもの見とれるかい」 「いやわしは見たがな、どれだけわしらがトーチカを抜いて 後へ廻っていても射ちつづけていやがったろ。 その筈だ。奴ら三人足を鎖で結わえられていたぞ。 弾薬をトーチカ一杯につめられてなァ――」 憮然たるものがあった。 「射つより他に仕方なしさァ」 大軍は南京へ、南京へ! と驀進する。 ◆南京への途、中華門めがけて殺到 「南京中華門まで一里!」 と声がかかった。ただひた押しの進撃だった。・・・・ 十二月十一日朝、私たちは南京城の大城門を 二千メートル目前にみて敵と対峙した。 敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを射ってくる。 友軍の○砲も一せいに雨花台砲台に向って放列を敷き、 彼我の○砲による大砲戦がつづけられた。晴れてはいたが寒かった。・・・ すでに中華門は五百メートルの近きに聳えていた。南京城に夜が来る。 城内から射ちだす敵の迫撃砲はいよいよ猛烈をきわめて、 軍工路といわず、畑といわず、一面に灼熱した鉄片の花火が散りつづけた。 砲撃の目標となるので火は絶対に焚けない。星が満天に散っていた。 「こごでは死ねねェなァ」と石原上等兵がいう。 「五百メートルづつ走って、あの城壁の上でなら死ねる」 「そうよ、だからここでは死んでも死ねねェ」 にもかかわらず、間断なく射ち下される砲の弾片をかむって 隣の○隊からは数名の戦友が倒れていった。 黒々と目前におおいかぶさる大城壁の上には間断なく パッ、パッ、パッと一列に火が噴いている。 シュルシュルシュルシュルと迫撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、 「衛生兵ッ!」と呼ぶカン高い声は遠く近くに夜を裂いて、 大城壁の銃火のように私たちの感情を明滅させた。 大南京の敵はただ私たちだけに戦争を挑まれ、 ただ私たちだけに戦いかかっているかのようであった。 おれたちが南京城を攻めている。おれたちが南京城を陥す。 そして、おれたちだけを敵は射ちに射って この大城壁を盾に叩き伏せようとしている―― そう考えられるほど私たちの戦いは激烈だった。 夜が明けるまでにこの大城壁の前に幾人の戦友が残るだろうか、 と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ちつづける。 やがて夜が東の空から白々と明けてきた。 南京城に朝が来た。 ふと、周囲を見廻してアッと驚いてしまった。 私たちだけが戦争をしている、と思っていたのに、夜が明けて見たら、 広い軍工路一ぱいに友軍の戦車と○砲が ひしめきたって城壁に喰いついていた。 当然のことだが、いまさら目を瞠る気持だった。 戦車も、○砲も、もしできたら城壁を乗り越しかねまじい勢いで ピッタリ一線に喰いついている。まったく「犇めきたつ」という感じだった。 夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。 前方には城壁をとり巻いて幅三十メートルほどのクリークがあった。 クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。 城門はすでにピッタリ閉されて、泥や砂が一杯積んである。 クリークの土手の敵は、城内に逃げ込む道はなかった。 堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、 片っ端から友軍の重機に薙ぎ倒されて、山のように重なって倒れて行く。 友軍の工兵が、材木に板をならべた筏のような渡架橋をもって走った。 城壁の上から手榴弾と機銃弾が降ってくる。 渡架橋は水煙をあげてクリークに投げ込まれた。 城壁が轟然と音をたてて爆破される。 大きな坂が出来たように土砂がザーッと崩れ流れた。 ドーッと隣の○隊が飛び出したようだった。 やがて城門を埋めた小山のような泥の坂のところで 日章旗がしきりと打ち振られた。 戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一せいに進軍した。 「十二時十二分!」と小林伍長が叫ぶ。 ただ敵の死体と散乱する軍需品の海だった。・・・・ 中華門を抜いたが、通りや広場にはところきらわず地雷が埋めてあったので、 うっかり歩めなかった。 逃げおくれた敵兵が四人、五人とヒョロヒョロどこからともなく現れて、 私たちの前で両手をあげた。 私たちはこの連中を次々と捕え、さっそく地雷堀りに使ってやった。 敗残兵たちは、得々とした顔をして、己が埋めた地雷を掘りかえした。 私たちは地雷を掘ったり、敗敵を捕えたりしながら清涼山に登った。 清涼山には二段、三段と傾斜面を利用して壕がかさねて掘られてあった。 壕と壕との間には小亭などがいくつもあって、 僅かに戦前の面影をとどめていた。 壕の中には銃を捨て、帯剣も捨て、フラフラになった敵が あちこちに無表情な顔でうずくまっていた。 壕を次々と掃蕩して山頂に登った。・・・・ 中正路と漢中路の交叉する広場には日の丸の旗をかかげた戦車の 蜿蜒たる列を先頭に、軍旗をかかげた部隊が、 次から次へと、堂々たる行進で集っていた。ラッパの音が聞えている。 この戦線に来てはじめて聞いたラッパだった。 この列を抜けて荒木准尉と中華門へ引きかえして行くと、 ここに○○以来の新しい兵○○名が私たちを待っていた。 この兵たちは私たちよりぐっと年はとっていたが、 日夜私たちを急追したため新しい服もすっかり泥と埃でよごれていた。 ズラリとならんだこの新しい兵隊たちを見て、 「ああ、これだけ古い戦友が死んだり一線を退ったりして行ったのか」 と思った。 門の上で大日章旗がハタハタと風にはためく。しみじみとした感慨だった。 その翌日、私たちに「前進!」の命令が出た。 太平から蕪湖に行くという。名残り惜しい南京だった。 「もっとここにいたいなァ!」とみんなが考えた。 それも離れる瞬間の名残惜しさだった。 動き出すと、すぐ私たちは南京を忘れてしまう。 当面した新しい事態が全部を支配して、 戦場は私たちをただその瞬間瞬間へ生き生きさせた。 私たちの部隊が宿舎をたって 思い出の中華門をまさに出ようとしたときだった。 突然、だしぬけに「気をつけ!」の号令がかかった。 冗談ばかり云い合って歩いていた私たちにはほとんど予期しないものだった。 行軍をはじめてこんな号令がかかることは戦場へ来ては滅多になかった。 ハッとして歩調をとる。城門の脇に○○部隊長と○○部隊長と 岡本部隊長の三人が立って私たちの方へ敬礼していられた。 ◆逃げ場を失った敵大軍 銃も捨て、帯剣もなく、青や黄色の軍服だけの着の身着のままの敵兵が 百人、二百人と、軍靴もなく裸足で次から次へと道を進んできた。 この場合「進んで来た」という言葉は当てはまらない。 敗戦の打撃と、逃走の焦燥からきた絶望は 一切を観念してふてぶてしさにまで変わって、 逃げるのでもなく、進むのでもなく、 一切の意志を捨てただ浪のまにまに漂う浮草のような動きでしかなかった。 南京から蕪湖への街道はこの絶望的な敗残兵で一ぱいだった。 しかも彼等が戦いの意志を捨てて漂泊するこの街道の左右には、 驚くべき堅固な近代的銃座をもった防禦陣地で一ぱいだった。 街道の両側、畑の中に掘られた蜿蜒たる塹壕、草をかむったトーチカ、 無数に張りめぐらされた鉄条網。 「よくもこの陣地が抜けたもんだなァ!」 と自分たちがやったことではないように思われて、 いまさらながら驚嘆する。 この堅固な陣地はいずれも蕪湖方面に向って構築されてあった。 敵はわれわれの一部が蕪湖方面から 南京へ向って進撃するものと考えていたらしい。 ところが南京は他の側面を衝かれ、とっくの昔に陥落して、 われわれはいま敵の陣地の裏を見ながら蕪湖へと進撃しているのだ。 驚嘆すべきこの堅固な陣地は、一発の銃声を放つこともなくして 街道の上へ武器を捨て困憊に打ちひしがれた敵兵を追い出す『敗残の陣』 となっていた。 自分たちが当面したところにしか戦争を感じない私たちは、 いまここに大きな総合的な戦争というものの 大局の一部を見てとったように思った。・・・ 逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道につづいていた。 私たちもまたこれに一発の銃弾さえ用いる必要はなかった。 二百人、三百人と集団をなした敵を素手で捕えてしまう。 そして――私たちはハタと当惑したのだ。 自分たちでさえ糧食の補給がつかない、 蕪湖への進軍だけで手いっぱいだった。 それだのにこの千に余る敵敗残部隊をどうして養い、 そして処理したらいいのだろうか。 私たちに抵抗した南京城内の幾万と知れぬ敵は、 一瞬にして南京城内外の骸の山を築いてしまった。 それだのにこれは――ハタと当惑したのである。 クリークは生々しい敵の骸で溢れ、 私たちは汚れた手を洗う水さえなくなってしまった。 太平に着いて一夜を明かすと、しとしとと雪が降っていた。 凍った飯盒の南京米はポロポロポロと玉砂利のようにころがって どうしても咽喉をを通ってゆかなかった。 銃は氷よりも冷たく、そして重く霙に濡れて、 どんなに銃把にタオルを巻いても手はすぐ凍えて感覚を失ってしまった。 手はしびれてもこの銃を取り落してはならない。 つい取り落しそうになるのをしっかり握りしめていると、 やがてどこまでが銃でどこからが手かわからなくなってしまう。 休むのが辛かった。 寒風と横なぐりの雪にうたれて休憩するのは堪えられなかった。 どこへでもいいから、せめて歩いていたかった。歩けば足が重かった。 そして背嚢が肩に喰い込んだ。すでに足にも感覚はない。 シャブシャブと雪と氷と水と混じった低地へ入ったり、 横たわった材木にしたたか足の爪を打つ。 それでも――希望はあった。 なにか底の底から烈々と湧き上ってくる希望があった。 勝利の希望だろうか。次に来るものへの期待だろうか。 いや――おそらく日本の国民全部が持っている、なにかはわからぬが、 ほのぼのと押しあがって来るあの希望だった。 これが大和魂といわれるものだろうか、私たちは言葉は知らない・・・が、 この希望のようなものは「エイ! エイ!」と腹の底の方で私たちを叫ばせ、 「畜生、畜生!」と歯を喰いしばらせて、 与えられた当面の任務を遂行させてゆく。・・・ 宿舎に入ると、もう正月が来る戦地で、正月の用意をしなければならない。 命令が出た。 「○隊は餅米を見つけて来い。×隊は石臼を見つけて来いッ」 お正月がくる! まったく忘れていたものが目の前へ突然に飛び出してきたようなものだった。 もちろんお正月を忘れていたのではない。 季節についてはみんな毎日毎日「いまごろ故郷では・・・」 と日にちを繰っては不思議なほど敏感だった。 しかし、ただその季節の行事が、この戦場でも行われる―― ということについては、なんら考えてもみなかったのだ。 唐突として目前に故郷の行事が甦った。 「自分たちにもお正月が来る――」 とみんないまさら思いなおした気持だった。・・・・ 餅つきがはじまった。今日は十二月三十日。 ペタンペタンと向う鉢巻の石原上等兵の指揮下に 威勢のいい杵の音が銃剣の間から聞えて、街へと伝わって行った。 その街々には住民たちが大半帰って来ている。 リンゴや葱など抱えた物売りの子供たちが兵隊にしつこくつきまとっていた。 私たちは子供のようにうれしかった。 正月が来る、お正月が来る! 幾年間か忘れていたあの少年時代のうれしさが、 この戦場に来てはじめてゾクゾクと体の中に甦ってきたのだった。 「オイ、コラコラ、まだ手を触れちゃいかんぞ」 と向う鉢巻の石原の兄さんが、元気のいい声で、 でき上った餅に触れたがる戦友たちに、 子供を叱る親父さんのように怒鳴っている。 その湯気の立ちそうな餅は、 もち米が足らないので普通の米が沢山入っていて、 ブツブツが一ぱいあったが、それでも立派に鏡餅の形をして、 指で押すと靨(えくぼ)のように穴が引っ込んだりした。 夜が明けて正月がきた。 きのう搗かれた小さな鏡餅は部隊全部に配られて、 室々の銃の前に一つずつ飾られた。 するとまた内地からの切餅とリンゴが送られてきて、 一人に切餅二つ、リンゴが一つずつあてがわれた。 敵がいることなどはみんなが忘れてしまっていた。・・・ 晴れの石原上等兵が高々とラッパ『君が代』を吹き鳴らす、 捧げる銃にも陽は映えて銃剣が頭上でキラキラと光った。 「天皇陛下万歳!」腹の底から絶叫した。 祖国よ、祖国よ! じいっと銃を捧げつづけていると、 私たちの顔にはぼろぼろと涙が流れてきた。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 『本当はこうだった南京事件』 板倉由明著 日本図書刊行会 P234 南京事件でもニセ者、ニセ証言者の絶え間がなく、 ハッキリしたものだけでも、古くは田所耕三(兵士)、 秦賢介(新聞記者)などあるが、 昭和五十八年の朝日新聞で紹介された中山重夫氏もその一人であろう。 (略) 中山氏が所属していた戦車第一大隊は中山門正面で戦闘をしており、 全国講演でのサワリの部分「雨花台で実見した大虐殺」は、 場所的にも時間的にも目撃不可能であった。 また、城内で目撃したと語っている死屍累々の光景は、日本軍兵士の誰も、 いや、ほぼ同時に入城して、後に日本軍の虐殺を書いた朝日・今井正剛記者や 東京日日・鈴木二郎記者すら見ていない光景であった。 ――――――― 『本当はこうだった南京事件』 板倉由明著 日本図書刊行会 P237 船橋氏は「講演や日記の発表は、東史郎、下里正樹(赤旗記者)、 吉田保(京都機関紙印刷センター代表)など、 各氏に説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、 旅費は持つから中国へ行こう、と誘われた、と言い、 東氏の推薦は証拠であきらかになっている。 ――――――― 南京戦史の主力編集委員である板倉由明氏は同書で、曽根一夫氏、 東史郎氏、船橋照吉氏らについても実名をあげて検証を行っています。 『東日記』については、既に名誉毀損の裁判で最高裁の判決が確定しており、 虐殺の光景は虚構であり、当時書いたという日記原本も存在せず、 戦後の回想記であることが認定されています。 (板倉氏の著作発表時には係争中) 『曽根一夫』氏については経歴詐称が発覚しています。 曽根氏が行った強姦や虐殺などは、 最前線の歩兵の分隊長としての視点で書かれていますが、 実際の曽根氏は砲兵隊の所属であり、 しかも初年兵で馭者(大砲を馬で引っ張る係) であったことが確認されています。 つまり、曽根氏の強姦や虐殺談は虚構ということになります。 また、曽根氏も「日記」を発表していますが、 曽根氏の所属部隊は南京に入城していないにも関わらず 「十二月十四日、南京到着、敵死体散乱し、死臭甚し」などと書かれており、 史料価値は全く無いことになります。 余談ですが、秦郁彦教授も曽根氏に引っ掛けられた一人で、 著作の中で曽根氏の手記を引用してしまっています。 『船橋照吉』氏については、本人が日記の偽造を認めています。 船橋氏の偽造日記は、京都府教職員組合、日本社会党京都府本部、 部落解放同盟などが主催した平成三年 「石原発言を許さない京都集会実行委員会」が主催した集会で出版された、 『歴史を偽造するのは誰か?』という冊子に収録されました。 『歴史を偽造するのは誰か?』という冊子に、 虐殺を偽造した日記が掲載されるという皮肉な結果となっています。 http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page049.html 『再審「南京大虐殺」』 竹本忠雄・大原康男著 明成社 『ザ・レイプ・オブ・南京』に引用されている田所耕三という人物は、 南京陥落後約十日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べている (『アサヒ芸能』昭和46年1月28日号)。 しかし、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には 南京から転進しており、この人物が10日間も南京に残留できるはずがない。 彼自身、のちに取材に応じて 「記者が何かおもしろいことはないかと開いてきたので、 あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定している。 http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page065.html http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page070.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「文藝春秋」昭和62年(1987年)年5月号より抜粋 http://www.history.gr.jp/~nanking/books_bungeishunju875.html ![]() 『朝日新聞との闘い・われらの場合』 「都城23連隊の戦史を汚すことは断じて許さぬ」 吉川正司(元都城歩兵第23連隊・中隊長) 昭和59(1984)年8月4日、朝日新聞夕刊に5段抜きの大見出しが躍った。 「日記と写真もあった南京大虐殺、悲惨さ写した3枚、 宮崎の元兵士後悔の念をつづる」 と題されたこの記事は、翌5日朝刊の全国版にも掲載され、 一大センセーションを巻き起こす。 問題の写真 ![]() 思えばこれが、朝日新聞との2年5ヶ月におよぶ闘いの幕開けだった。 (略) 支局長 「抗議の公文書、確かに受け取りました。 その事ですが、「お詫び」だけはご勘弁下さいませんか。 その事を記事にすれば、私は首になります」 中山 「首になる。仕方ないじゃありませんか。 嘘の報道を大見出しの記事として全国版に掲載したんですから。 その責任をとって首になるのが当然じゃありませんか」 支局長 「その責任は重々、感じています。しかし首になると私は困ります。 私の家族のために助けて下さい。お願いします。 この通りです(両手をついて頭をさげる)」 中山 「お詫びがないと、私の方が困ります。 亡き戦友の御霊を慰めるのが私ども連隊会の責務ですから」 支局長 「そこのところ何とか」 2人の間で種々のやりとりがあったすえ、 お詫びとか記事取り消しといった言葉は使わないが、 全国版・地方版で連隊は南京大虐殺とは無関係との旨を報道することで、 両者が合意した。 事務局長は帰ってから連隊会の安楽秀雄会長とも相談し、 やむを得ないとの承諾を得たのである。 昭和60(1985)年2月24日、朝日地方版は 「「南京大虐殺と無関係」元都城23連隊の関係者が表明」 として次のように報じた。 (略) いささか不本意ではあったが、ともかくもこの記事で、 およそ半年におよぶ朝日と連隊会の抗争に終止符が打たれるかに見えた。 ところが、同年の6月、7月、10月と、 大阪・名古屋などに住む戦友から相次いで 「連隊は無関係という記事は全国版の何月何日に載ったのか」 との問い合わせが事務局に殺到した。 全国版に載せると言った朝日が約束を破るはずはない。 この種の記事は紙面の片隅に小さく載せるのが新聞社の常道だから、 もう1度よく見て下さい、と照会のたびに事務局は回答していた。 昭和60(1985)年12月20日、 "お詫び"記事から半年たったところで、意外な事実が判明した。 この日、中山事務局長は、朝日宮崎支局に中村支局長を訪ねた。 事件の取材で宮崎に来ていた「世界日報」の 鴨野守社会部記者を伴ってである。 中山氏はさっそく、 「例の無関係の件、全国版の何月何日に載ったのですか」と切り出す。 ところが支局長は言った。 「全国版?全国版には載せてありません」 「載せていない?それじゃ約束が違います」 「約束した覚えはありません」 「冗談をおっしゃってはいけません。 あの日、固く約束されたじゃないですか。」 「いや、地方版に載せるとは言いましたが、全国版とは言いません」 そして中村局長は、 「あの記事はすべて正しい。 朝日新聞宮崎版に載った記事は訂正記事ではない。 連隊会から抗議があった旨を載せたまでだ」と、言い放ったのである。 中山事務局長は、 「今からでもよいから、全国版に載せてくれませんか」と食い下がったが、 支局長は、 「いや、もうこれ以上の事は朝日としては出来ません」と一蹴した。 やむなく中山事務局長は、次のように言い残して席を立った。 「卑怯ですねあなたは。あの時私に、1人で来て下さいと言われた意味が 今になってわかりました。 約束をした、しないは、当事者だけでは押し問答になりますからね」 朝日は都城23連隊との抗争はこうして再燃したのである。 それから1週間ほどたった12月28日、 朝日にとって極めて衝撃的なスクープが「世界日報」の一面トップを飾った。 「朝日、こんどは写真悪用 南京大虐殺をねつ造」と題された記事によれば、 中国人の首が転がっている例の写真、南京大虐殺の動かしがたい証拠であると 朝日が大見得を切った写真は、 旧満州の熱河省で撮影されたもの、と指摘されたのだ。 (その後の報道で、この写真は昭和6年(1931年)、 当時の朝鮮で市販されていたもので、 満州の凌源で中国軍が馬賊を捕らえて処刑したものと判明する) (以下略) ―――抜粋おわり――――― 1985年12月28日の世界日報の一面トップ。 朝日新聞が1984年年8月に「宮崎の元兵士の写真と日記」として 記事にした写真が捏造だったと判明 ![]() ちなみに、いわゆる「南京大虐殺」が行なわれた期間は、 中国側の主張では1937年12月13日から6週間としている。 写真は1931年に市販されていたので、まったく違う写真である。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 いわゆる南京大虐殺・URL図書室 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-518.html |
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