正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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南京安全区、国際委員会

『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P38~44 より

南京安全区は、南京の中心地域に設けられていたが、
何ら自然の障害物もなければ、境界も判然としていなかった。

南京安全区国際委員会 … 外国人15名による自治組織

南京市長の馬超俊は、昭和12(1937)年12月1日、市民に布告して、
市民は食糧および身の回り品を持参して「安全区」(難民区のこと)
に移住するよう命じ、
当時設立した「南京安全区国際委員会」(以下「国際委員会」と略称)に、
米3万担(3000トン)、麦1万担(1000トン)、金10万両を委託し、
警察官450名を残して、市民の保護を依頼した。

国際委員会は、かつて上海戦のとき、仏人宣教師ジャキーノ神父が、
日本軍の承認する「難民地区」を上海南市に設立して
良民の保護に当たった先例にならい、
南京市の西北方にあたる地区――南は漢中路、東北は中山北路を境とし、
北は山西路、西は西康路に区切られた
約3.8平方キロ(南京総面積の約8分の1)の地区を区切って「南京安全区」
を設定(上の南京略図参照)し、
ここに市民全員を収容してその保護にあたった。

「南京安全区国際委員会」とは何か、
南京事件を解く重要なカギを握っているこの委員会について説明したい。

戦前から南京に在住していた第三国人は相当多数いたが、
最後まで踏みとどまったのは40名前後
(国際委員会の委員15名、新聞記者5名若干の公館員など20数名を
残すほかは、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している)で、
そのうちの15名が委員会を編成し、前述の地域を区切って、
ここを「安全区」と称し、馬南京市長の申し入れを受けて、
南京市民の安全を守り、生活を保障するシステムをつくったのが
この委員会である。

委員会の事務局は寧海路5号にあり、
事務所開設は12月1日と記録されている。
委員長はドイツのシーメンス会社支店長ジョン・H・D・ラーベで、
書記長は米人の金陵大学社会学教授ルイズ・S・C・スミス博士。
メンバーは、
米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名の計15名である。


日本軍の南京占領後の状況を、12月13日から翌年の2月9日まで、
その間ありとあらゆる事件を、
伝聞や噂話や憶測までまじえて報告した公文書がある。

前記の「国際委員会」の61通の文書がそれである。

この日本軍非行の告発書ともいうべき公文書の背景には、
次の4つの要素があることを留意しておく必要がある。

1、前述したように、この委員会を構成する15人の第三国人は、
いずれも当時の言葉で言う「敵性国人」で、
日本の中国進攻に憎悪と敵意を抱き、
中国に軍事援助その他物心両面の支援をしている国の国民であるということ。
(これについては1937年南京の状況「南京安全区委員会」を参照して欲しい)

2、彼らの作成した多くの資料は、
ほとんど伝聞ないし噂話によるものであるということ。

3、日本軍の非行に関しての監視は、
単に安全区だけではなく、城内全般に及んでいること。

4、国際委員15人を中核とし、その輩下に紅卍字会やYMCA
および中国側の第5列の抗日宣伝部第2庁康沢(こうたく)の
別動隊の青年が活動の網を張り巡らしていたこと。

国際委員会は、これらの蝶報網によってもたらされる日本軍の
あらゆる非行情報を、寧海路5番地の事務局に集めた。

委員会は即刻これをタイプして、日本大使館その他に手交した。
連日、あるいは1日に2回も文書が発刊された。

その中には、日本軍の非行告発以外に、
食糧補給や治安に関する訴えや要求等もある。
かれらの数名はいつも一つ屋根の下で寝食を共にし、情報収集とともに、
こうした要求その他を協議してこれをタイプした。
日本軍の非行に関しては、なんら検証することなく、
すべてを事実と認定してこれを記録した。


こうした要望や告発の日本側の窓口は、
当時外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏である。

福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、
行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、
筆者ともに昵墾(じっこん)の間柄である(東京・千代田区在住)。

福田氏は当時を回顧してこう語っている。
「当時ぼくは役目がら毎日のように、
外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。
出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。

「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。
あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。

その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、
ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに
それをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。
時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。
住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。


ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。
「下関(シャーカン)にある米国所有の木材を、
日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。
何とかしてくれ」という。

それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、
本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、
副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。

朝の9時頃である。

現場についてみると、人っ子一人もおらず、
倉庫はカギがかかっており、盗難の形跡もない。

「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意したが、
とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。

テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、
フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして
上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている」。

ちなみに、国際委員会書記長スミス博士も、
「ここに記された事件(日本軍非行425件)は検証したものではない」
と述べている。

前記したように、この61通の書簡の中に日本軍の非行行為425件が
記録されており、
この文章は、ティンパーリーの
『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』と、
徐淑希の『南京安全区當案』に分けておさめられている。

福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味して
その内容の多くがでたらめであることを知っているが、
毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議を
受け取った当時の外務相東亜局の驚きはどんなであったか。

東亜局長石射猪太郎氏は、回顧録『外交官の一生』(読売新聞社出版部)
の中で次のように書いている。
昭和13年1月6日の日記にいう。

上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。
掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。
日本国民民心の頽廃(たいはい)であろう。大きな社会問題だ。
(中略)
これが聖戦と呼ばれ皇軍と呼ばれるものの姿であった。
私はその当時からこの事件を南京アトロシティと呼びならわしていた
(前掲同書305~6ページ)。

この文章は虐殺派がよく利用する。

石射氏がこのようなでたらめ抗議を信用し、
軍に反感を抱くにいたったには、それなりの原因がある。

昭和12年12月14日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」で、
軍と激突し、次のように憤激している。

「こうなれば案文などどうでもよし、日本は行く処まで行って、
行き詰まらねば駄目と見切りをつける(同日の『日記』より)。
私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味さえ感じた」
(前掲同書300~303ページ)。

このように「反逆的快味」すら感じていた石射氏にとって、
南京における陸軍の失敗は反撃のチャンスでありザマミロということになる。

「南京アトロシティー」は石射氏にとって
陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ。

石射氏の陸軍に対する憎しみは反日的情念にまで結びついた感がある。

なにしろ、石射氏のこの回顧録を見ると、始めから終わりまで、
日本と中国の関係を「日中」ではなくて「中日」と記述しているのである。
すなわち中国を主として、日本を従とする思考様式である。

日本国天皇からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(同459ページ)
が、
中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(同460ページ)
などと臆面もなく書いている。

このような人物が当時の日本外務省の東亜局長だったのである。

脇道にそれたが、最近、一橋大学教授藤原彰氏が
「南京大虐殺」(岩波ブックレット)という本を書いているが、
その論拠に石射氏の回顧録を何よりの証拠としているので、
あえて石射氏の思想的背景を紹介した次第である。

さて、国際委員会が抗議した425件の日本軍非行の中には、
非行でも何でもない事件もあり、
前述のように伝聞、噂話、憶測が大部分であるが、
これらをすべてクロとみて分類すると次の通りである。

殺人 49件
傷害 44件
強姦 361件 (多数3件 数名6件)
連行 390件 (多数1件 数名2件)
掠奪その他 170件

大虐殺などどこにも見られないのである。

渡辺昇一教授によると、
「“南京大虐殺”は英文の文献によると、
Rape of Nanking(南京強姦)となっているのが普通であり、
Massacre(大虐殺)という単語を使っている例はまず見当たらない」
(渡辺昇一著「萬犬虚に吠える」173ページ)という。

ともあれ左記の数字が、12月13日(占領日)から2月9日までの
約2ヶ月間にわたる南京における日本軍非行を記録した
国際委員会の総トータルである。

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「南京事件」(国民党極秘文書から読み解く) 東中野修道著 より引用

・・・・略・・・
東京裁判から四半世紀あまりのちの昭和四十七年(1972)、
日中国交回復の年に、本多勝一『中国の旅』が出版されたことである。

これは朝日新聞記者の本多氏が前年に中国に行って取材し、
「中国の旅」と題して同紙に連載した記事をまとめたもので、
ベストセラーとなって大きな反響を呼んだ。
・・・略・・・
それから一年後の昭和四十八年(1973)に、
大虐殺はあったのだと主張する人々によって英語版の『戦争とは何か、
中国における日本軍の暴虐』が発掘され、大虐殺の根拠として提示される。

この本は上海にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙
中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が
南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集して、
昭和十三年(1938)七月にニューヨークや
ロンドンで出版したものであった。

戦争の悲惨さを訴えるとした趣旨のもと、日中戦争、
とりわけ南京の日本軍の暴行を取り上げたという構成になっていた。
まさに第三者的立場の欧米人が、独自に出版した本と読者の目には映った。
・・・略・・・
この『戦争とは何か』の評価が一躍高まったのは、
その後になって匿名の執筆者がマイナー・ベイツ教授と
宣教師のジョージ・フィッチ師であると判明したことからであった。
・・・略・・・
戦後出版された『曽虚白自伝』には、中央宣伝部がティンパーリ記者に
「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」
したという曽虚白(南京大学教授、
のちに中央宣伝部国際宣伝処処長)の証言が記されている。

さらに次のことも判明した。
『戦争とは何か』に執筆し、東京裁判でも証言していたベイツ教授は、
実は中華民国政府の「顧問」であった。

もう一人の執筆者ジョージ・フィッチ師も、
『チャイナ・マンスリー』一九四〇年一月号の『編集者ノート』によれば、
彼の妻が蒋介石夫人の宋美齢と「親友」の間柄であった。

彼らはいずれも国民党政府と何らかの関係にあり、
『戦争とは何か』は第三者的立場の人たちが独自に出版した本ではなかった。
ここでいよいよ、『戦争とは何か』は中央宣伝部の
「宣伝本」ではなかったのかという疑惑が浮上してきたのである。
・・・略・・・
探し求めていた中央宣伝部の史料は、台北の国民党党史館に眠っていた。
・・・略・・・
それは極秘文書中の「対敵課工作概況」のなかの
「(一)対敵宣伝本の編集製作」の「1,単行本」によってついに判明した。

1,単行本
本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。

A『外人目睹中之日軍暴行』
この本は英国の名記者田伯烈が著した。
内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの
姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、
軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても
等しく詳細に記載している。

「田伯烈」は「ティンパーリ」の漢字表記であり、
『外人目撃中の日軍暴行』は英語版『戦争とは何か』の漢訳版であった。
ティンパーリ編『戦争とは何か』は、
「本処(中央宣伝部国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」
とあるように、中央宣伝部が編集製作した二冊の宣伝本のうちの
一つであった。
・・・略・・・
しかし「本処が編集印刷した」とは、
ただ単に国際宣伝処が英語版を翻訳したということを意味するのではないか、
そのような異論も考えられよう。
そこで念のため付言しておくが、英語版の『戦争とは何か』も、
漢訳版の『外人目撃中の日軍暴行』も、
ともに一九三八年(昭和十三年)七月の出版であった。

同時出版の事実と、先にも引用したように中央宣伝部がティンパーリ記者に
「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版した」
という曽虚白処長の回想を考慮に入れると、
その異論は成り立たないであろう。

以上のことから、『戦争とは何か』は
中央宣伝部の製作した「宣伝本」だったことが確認された。
長いあいだ南京大虐殺の根拠となっていた『戦争とは何か』と
その巻末に収録された資料は、戦争プロパガンダの視点から
見直さねばならなくなったのである。

・・・略・・・

新聞記者を使っての宣伝活動

新聞は書籍や雑誌と比べて発行部数が多く、
最も多くの人の目に触れるものだ。それを宣伝戦に使わない手はない。

極秘文書は「各国新聞記者と連携して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」
と報告して、次のように記している。

「われわれが発表した宣伝文書を外人記者が発信すれば、
最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信頼を得て
初めてわれわれの利用できるところとなる。
この工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない」
・・・略・・
このように中央宣伝部国際宣伝処は
「面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない」重点対策として、
外国特派員への対応に細心の注意を払っていた。

言うまでもなく、宣伝部の思惑に沿って、
彼らに記事を書いてもらうためであった。
『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』は次のように記している。

「外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が
誠心誠意宣伝指導にあたっていることから、
そうとうに打ち解けた感情を持っている。

そのほとんどはわが国に深い同情を寄せてくれているが、
しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録するという
気質を持っているので、噂まで取り上げて打電することにもなりかねない。

含蓄をこめた表現で、検査者の注意を巧みに逃れることにも長けている。
中国駐在記者が発信した電報を各国の新聞が載せれば、
極東情勢に注目している国際人士はそれを重視するものであるから、
厳格に綿密に検査する必要がある。

妥当性に欠けるものは削除または差し止めにしたうえで、
その理由を発信者に説明し、確実に了解を得られるようにして、
その誤った観点を糺した」

外国特派員は中央宣伝部の「厳格」かつ「綿密」な検査に
協力させられていたということである。

―――――――――――――――――

一九三七年(昭和十二年)十一月十二日、
蒋介石は南京死守を決定したものの、十六日には南京放棄をひそかに決定し、
全官庁の撤退を命じた。

蒋介石はそれから南京に二十日間とどまったのち、
ひそかに飛行機で逃亡した。それが南京陥落六日前の十二月七日であった。

十一月十七日、南京放棄決定の翌日、
非戦闘員のための安全地帯を作る目的で、
南京にいた欧米人が国際委員会を結成した。
・・・略・・・
そのメンバーは時期によって多少の異同があるにせよ、アメリカ人六名、
ドイツ人四名、イギリス人五名、デンマーク人一名であった。

十一月二十二日、国際委員会の代表にジョン・ラーベ氏が推された。
・・・略・・・
ラーベ委員長は日本に安全地帯を承認してもらうため、
アメリカ大使館の無線を経由して上海の日本領事館に電報を打った。
その内容をラーベ委員長の十一月二十二日の日記から引用する。

「国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
【1】軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を安全地帯から撤退させ、
非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。
また、その場合、
【2】すべての兵士及びあらゆる身分階級の仕官の立ち入りが禁止される。
国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
・・・略・・・

国際委員会は、すぐにも安全地帯から兵士や軍事施設を
撤去するよう中国軍に要求し、
国民政府側も軍事施設などの撤去を約束している。

ところが、その約束が実行されないばかりか、
逆に軍事施設が拡充されるという憂うべき事態が進行していった。
「ラーベ日記」から引用してみよう。

「十二月三日。防衛軍の責任者である唐が、
軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。
それなのに、安全地帯の三ヶ所に
新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている」

「十二月四日。・・・・兵士たちは引き揚げるどころか、
新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ」

・・・略・・・

南京陥落直前の「ラーベ日記」を見てみよう。

「十二月十一日、八時。
・・・・いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。
いくら追い出そうとしても無駄だった。
これでは、安全地帯は非武装だと
日本軍に知らせたくともできないじゃないか」

「十二月十二日。・・・・これでは安全地帯から軍隊を追い出すことなど、
とうてい無理だ」

・・・略・・・

この中国軍の非協力的態度を、すべての南京の欧米人が、
ラーベ委員長と同じく気にしていたと思われるであろう。
しかし、実はそうではなかった。

国際委員会のメンバーだったジョージ・フィッチ師は、
匿名で『戦争とは何か』に執筆した際、実際とは逆のことを書いていた。
「唐将軍は首都防衛の任を帯び、安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという
非常に困難な仕事に、概して非常によく協力してくれました。

それで、十二日の日曜日に日本人が入城を開始する直前までは、
称賛すべきほどの秩序が維持されていました」

南京にいたダーディン記者も、十二月八日南京発の
『ニューヨーク・タイムズ』に、
「本日、高射砲一個中隊と多数の軍事機関が安全地帯から退去した。
同地帯の非軍事化の約束を実行しょうという中国軍の意志を、
一層はっきりと示すものであろう」と書いている。

以上のことはラーベ委員長が同じ十二月八日に
日記で怒りを表明しているのとは対照的だ。

「われわれは全力を挙げて安全地帯を拡張しているが、
何度も何度も中国軍がくちばしを入れてくる。
未だに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。
・・・・われわれは皆お互い絶望しかけている。
中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。
せっかく掲げた安全地帯の旗をまたもや全部持って行かれてしまった。
安全地帯は縮小されることになったと言うのだ。
大砲や堡塁のために予備の場所が要るからだと言う。
・・・・日本にかぎつけられたらおしまいだ。
おかまいなしに爆撃するだろう。
そうなったら安全地帯どころか場合によっては
大変な危険地帯となってしまう。・・・・こんな汚い手を使われるとは。
・・・略・・・
当時の現行法はハーグ陸戦法規で、
それは「交戦者の資格」として次の四条を定めていた。

【1】部下の為に責任を負う者其の頭にあること
【2】遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること
【3】公然兵器を携帯すること
【4】其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること

日本軍が南京に入ったとき、安全地帯にいた中国兵は
ハーグ陸戦法規の定める上の四条を守っていたであろうか。
そして捕虜と認定されるための法的資格を有していたであろうか。

【1】の指揮官について言えば、南京では
唐生智将軍が数人の将校とともに逃亡し、指揮官は不在であった。
【2】の「遠方より認識し得べき固着の特殊標章」について言えば、
中国兵は軍服を脱ぎ捨てていた。
【3】の「公然兵器を携帯すること」について言えば、
陥落後、彼らは軍服を脱ぎ捨てて市民になりすましながら、
武器を捨てる者もいれば武器を隠し持っている者もいた
(日本軍が摘発した中国兵の隠匿兵器は「南京特務機関報告」によれば、
一九三八年(昭和十三年)二月中に「トラック五十台分」に達していた)。
・・・略・・・
南京は陥落したが、中国軍は降伏して来なかった。
私たちは戦争がまだ終わっていなかったことを
頭に入れておかなければならない。
・・・略・・・
戦闘が続くなか降伏もせず、巨大な城壁に阻まれて
脱出できない中国兵が勝手に軍服を脱いだところで、
日本軍としてはそれを直ちに降伏と認めることはできなかった。
・・・略・・・ 
南京防衛軍司令官は日本軍の降伏勧告を拒否したうえ敵前逃亡し、
中国軍の誰も日本軍との契約を結んでいなかったからである。

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鳴霞先生、本多勝一を叱る!「『中国の旅』は嘘ばっかり!」
https://www.youtube.com/watch?v=enNzL1BPpoU

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便衣兵数千が難民区に遁入 … 違法行為を行った中国兵
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-254.html
いわゆる南京大虐殺・URL図書室
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2009/12/26 07:00|年表リンク用資料
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