正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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東京裁判 裁いた者たちの悔恨

『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P238~242 より

日本では、東京裁判に関する判決は、GHQの厳しい言論統制によって、
7年間にわたる占領期間中厳禁されてきた。

(私がパール博士の判決文抄訳を『日本無罪論=真理の裁き』と題して
太平洋出版社から初めて上梓したのは、
日本がサンフランシスコ条約に基づき占領が解除され、
独立した昭和27年4月28日のことである)

しかし日本を裁いた側の米英のマスコミや権威ある国際法学者や裁判官は、
裁判の判決がおりた直後から、
ニュルンベルクと東京裁判に対する批判をおこなわれた。

ニューヨークタイムズは東京裁判の直後、この裁判を無効とし、
全員無罪を判決したパール判事の少数意見を一面トップで大きく取り上げ
これを評価した。

ロンドンタイムズは1952年6月から7月にかけて約1ヶ月間にわたって、
この2つの裁判に対する論争を連載した。
イギリスの国際法の権威であるハンキー卿はその著『戦犯裁判の錯誤』
(Politicstrials and errors)の中で、
「パール判事の所論は全く正しい」という立場に立って、
パールの判決文を縦横に引用しながら戦後連合国が
行った戦犯裁判(軍事裁判)を徹底批判している。

米の連邦最高裁判所のW・O・ダグラス判事は
「極東国際軍事裁判所は、国際法に基づいて審理できる自由
かつ独立の裁判所でなく、パール判事が述べたように、
同裁判所は司法的な法廷ではなく、政治権力の道具にすぎなかった」
と述べた。

米の国際法学者マイニア教授は
「東京裁判の判決は、国際法、法手続、史実の
いずれから見ても誤りであった。
結局〈勝者の裁き〉にすぎない」として
『勝者の裁き』という著書を世に問うた。

同じくアメリカ最高裁のフレッド・M・ヴィンソン判事は、
パール判決を支持し、多数判決を糾弾した。

ドイツの哲学者ヤスパースも別の角度から、
この2つの裁判を行った連合国の思い上がった
ごう慢な行為を痛烈に批判した。

何よりも刮目すべきことは、この裁判の総轄的主宰者であり、
判検事の任免権をもち、自ら戦犯憲章(チャーター)を起草した
連合軍総司令官マッカーサー元帥が、1951年5月3日、
米上院の軍事外交合同委員会の聴問会で
「日本が第二次世界大戦におもむいた目的は、
そのほとんどが安全保障のためであった」と、
東京裁判で裁いた“日本の侵略”を全面的に否定し、
日本が行った戦争は自衛のための戦争であったことを認めたのである。

傲岸多弁の裁判長といわれ、
天皇の責任追及に熱心であったオーストラリアのウェッブ裁判長は、
ディヴィッド・バーガミニ(DavidBergamini)の
『天皇の陰謀』(Japan’sImperialConspiracy)
という本に序文を寄せてこう述べている。
「私が東京で判事席に座っていた30ヶ月の間に
私は証人たちの日本君主に対する懸念と崇敬の念と、
天皇の立場を説明する際の熱心さと厳正さにしばしば打たれた。
私は日本が1941年に戦争に訴えたことを非難する
いかなる権利をもっているのかと自問することが時折あった。
私は日本が9千万人の住む小さな土地で耕作できる面積は
そのうち15パーセントにすぎず、
外部から激しい貿易制限や規制を受けていたとの弁護士の論述に
多くの正論と酌量の余地を認めた。
私は米国なり英国なりが同じ様な状況におかれたらどのように反応したか、
それどころか国民がどのような反応をすることを望んだかを考えてみた。
米国も英国も日本が1941年におかれたような状況におかれれば、
戦争に訴えていたかも知れないのである。」

日本の大東亜戦争が決して侵略戦争でなかったということを、
このような文章ではっきり表現しているのである。

さらにこの裁判の基本的な問題にふれて、
「パリ条約(〈注〉パリ不戦条約とも、ケロッグ・ブリアン条約ともいわれ、
日本はこの条約に違反したと称して侵略者の烙印をおして裁いた)は
調印国がこの条約を破った場合その国の戦争指導者が
個々に責任を問われることは明記していない。
有力な国際法学者の中には、この条約が個人に対して責任を
おわせているわけではないとの見解をとるものもある」

東京裁判があやまりであったことを、
ウエッブはこういう形で表現しているのである。

マッカーサーも裁判から3年後の1951年四月、
ウェーキ島でトルーマン大統領と会談したとき、
「東京裁判は平和のため何ら役に立たなかった」という表現で、
この裁判のあやまりを認め、

キーナン首席検事も、ファーネス弁護人への書簡の中で、
重光葵のような人物を被告にしたことは、誤りであったと告白している。

およそ今日、権威ある世界法学者で、東京裁判の合法性を認め、
これを支持するような学者は皆無と言っても過言ではない。
2009/08/25 09:00|年表リンク用資料
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