正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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便衣兵数千が難民区に遁入 … 違法行為を行った中国兵

『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P155~160 より

南京虐殺のデマゴギーの一つに難民区からの便衣隊の摘出問題がある。
そもそもこのような問題が生起したのは、
便衣戦術をとった当時の国民党軍と、
難民区を管理した国際委員会の責任であって、
上海の南市における難民区(ジャキーノ・ゾーン)のように、
管理者が厳然と、兵器を取り上げ、常民と区別して名簿を作成するなり、
あるいは一所に拘置しておけば問題はなかったのである。
南京陥落寸前、中国軍が便衣に着替えて、
難民区に潜入するさまをダーディン記者は次のように報道している。
 
「日曜日(12月12日)の正午(中略)、
侵略軍(日本軍)が西門(水西門)付近から城壁をよじのぼると
(筆者〈注〉第6師団三明部隊の一番乗り)、中国軍の崩壊が始まった。

第八八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。
夕方までには大軍が下関(シャーカン)の方へあふれ出たが、
下関門(把江門)はまだ中国軍の手中にあった
(筆者〈注〉このとき把江門でパニック状態が起き、
人なだれとなって多くの中国人が死傷している)。

将校たちは(この)状況に対処することもしなかった。
一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。
記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、
一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、
それは滑稽と言ってもよいほどの光景であった。
多くの兵士は下関(シャーカン)へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。
小路に入り込んで便衣に着替えてくる者もあった。
中には素っ裸となって
一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた…」(AII282ページ)
 
「日曜日の夕方には中国軍は安全区全体にひろがり、多数の者が、
一般市民から便衣を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。
“一般人”が一人もいない時は、
それでも兵士達は軍服を脱いで下着一枚になっていた。
軍服とともに武器も遺棄されて、街は小銃・手榴弾・剣・背のう・軍服
・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。
下関付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった。

交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車
・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場のように積み重ねてあった。」
「日曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部
および西北地区で日本軍と戦闘を続けた。

しかし袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力もなかった。
何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。
委員会はその時は日本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思ったので、
降伏してくるものを受け入れるほかなかった。
中国軍の多くの集団が個々の外国人に身をまかせ、
子供のように庇護をもとめた。」(AII290~1ページ)。
 
米南京副領事館エスピー氏は本国政府に次のように報告している。
 
「・・・・市民の大部分は南京国際委員会の計画設定する
いわゆる『安全地帯』に避難しおり、
相当数の支那兵を巧みに捕捉するはずなりしが比較的少数なりしなり、
実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、
数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、
常民に混り市内のどこか都合良き処に隠れたるに相違なきなり」。

また氏の東京裁判への提出書類は次の通りである。
「・・・・ここに一言注意しおかざるべからざるは、
支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。
最後の数日間は疑なく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が
行われたるなり。
支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、
種々の事件を生じ、
その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。

また退却する軍人及び常民にても、
計画的ならざる掠奪をなせしこと明らかなり。
すべての公の施設の機能停止による市役所の完全なる逼塞(ひっそく)と
支那人と大部分の支那住民の退却とにより市に発生したる
完全なる混乱と無秩序とは、
市をいかなる不法行為をも行い得らるる場所となし終われるなり。

これがため残留せる住民には、
日本人来たれば待望の秩序と統制との回復あるべしとの意味にて、
日本人を歓迎する気分さえもありたることは想像せらるるところなり。」
(法廷証第328号=検察番号1906号中の一部を弁護人が朗読したもの
=速記録210号)
 
私が前に述べたるごとく、また米副領事の報告ごとく、
数千の敗残兵が安全区内に遁入し、身を隠したが、
日本軍がこれを14日と16日の2回にわたって摘出し処断している。
本格的に便衣兵の摘出をはじめたのは、12月24日以降のことである。
この時は憲兵が、治安維持会の中国人立ち会いのもとに行われ、
約2千人が摘出された。
が、この約2千人はすべて外交部に送られ捕虜としての待遇をうけている
(佐々木到一少将回顧録)。

この便衣兵摘出事件が、
安全区における最大のトラブルであったといってよかろう。
「東京日々新聞」は、12月20日の夕刊に、〔18日志村特派員発〕として、
戦前から南京にとどまっていた某外国人(特に匿名)の日誌を抜粋して、
外人の見た戦慄の南京最後の模様を報道している。

それによると、7日早朝、蒋委員長が飛行機で南京を脱出したが、
「この蒋委員長の都落ちが伝わるや、全市民は家財を抱えて
難民区へなだれ込んだ」とある。
つまり市民は一人残らず難民区へ逃避したとみてよかろう。

また8日には「馬南京市長らもまた市民を置き去りにして逃げだし、
郊外の支那軍は民家に火を放ち、南京付近は四方に炎々たる火焔起こり、
市内また火災あり、逃げ迷ふ市民の姿はこの世のものとは思われぬ」
と記述している。
支那兵特有の敗走時の掠奪はそのころ極限に達したことは容易に想像できる。
私がさきに述べたように、電信、電話はもとより、電気も水道も途絶え、
市内が掠奪・放火の無政府状態に陥ったのはこの頃からである。
日誌にはこうある。
 
「12日、城外の支那軍総崩れとなり、87師、88師、教導総隊は、
学生抗日軍を残して市内に雪崩れ込み、
唐生智は激怒して彼が指揮する36師に命じ、
これら敗残兵を片っ端から銃殺するも、大勢如何ともする能はず、
唐生智もまた憲兵と共に夜8時ころ何処ともなく落ちのぶ。
敗残兵の放火、掠奪なさざるはなく、恐怖に陥る。
電灯は消え、月光淡く、この世の末すと疑はる。
電話全く不通となる・・・・」(「東京日々新聞」12・20)

これを裏付けるように、南京に入城した日本兵は正規兵が
便衣に着替えるため脱ぎ捨てた軍衣袴や軍靴、軍帽、兵器類等の
おびただしい散乱を見ている。

16日午後、中山門から郵便車で入城した佐々木元勝氏は、
城内で見た情景を次のように述べている。
 
「本通り、軍政部から海軍部にかけ数町の間は、
真に驚くべき阿鼻叫喚の跡と思われる。
死体はすでに片ずけられたのか少ないが、小銃や鉄兜や衣服が狼藉を極め、
ここで一、二万の支那兵が掃射されたかと思われるばかりである。
これは支那兵が軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えたものらしくあった」
(佐々木元勝著「野戦郵便旗」216ページ)。

軍司令部付岡田尚通訳官は、13日、
入城時の南京城内の様子を次のごとく語る。
「市内じゅう軍服、ゲートル、帽子が散乱していました。
これはすごい数で一番目に付きました。
中国兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのです。
中国兵にしてみれば、
軍服を着ていると日本軍にやられますから当然とおもいます」
松井大将は『陣中日誌』の中で「難民区に遁入せる便衣兵数千…」
と述べている。
とにかくこの数千とみられる便衣兵を、
国際委員会は何らのチェック手段も取らず、無条件で潜入せしめたのである。
2009/08/23 09:00|年表リンク用資料
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