正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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いわゆる南京大虐殺 捕虜の釈放

『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P52~57 より

南京事件で一番問題になるのは、捕虜の殺害である。

戦友がバタバタやられる苛烈な戦闘の最中、形勢不利とみるや、
白兵戦のさなか、銃を捨てて手をあげ、
「オレを捕虜として取り扱え」といっても、
それは許されることではあるまい。

「ヤッチマエ!」といって、
「激昴せる兵は、片はしより殺戮す」と
佐々木少将や島田中隊長の回想録に出てくるが、これは当然の戦闘行為で、
逃亡する敗残兵を掃射するのと同様の行為とみてよい。

戦闘中の捕虜は、これを「とる」「とらぬ」は
その時の部隊長の意志によるというのが陸戦法規の考え方で、違法ではない。

ともあれ、生か死かの戦場の極限状態にあって、敗残兵か、捕虜か、
国際法に違反するか、否か、そんな思考をめぐらして、
殺す、殺さないを決めるというような事が出来ようはずがない。

それが戦争というものである。

陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法ノ研究」(1933年1月)の中の
「捕虜ノ処置」について、藤原彰氏は前掲の『南京大虐殺』の中で、
この研究は
「ロシア兵やドイツ兵と違って中国兵の場合は殺しても
かまわないという研究」(28~9ページ)と決めつけているが、
原文は次の通り。

「捕虜は他列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して
戦局を待つを要せず、特別の場合の外
之れを現地又は地方に移送し釈放して可なり。

どこにも殺してかまわないなどとは言っていないのである。
「特別の場合」とは便衣兵を意味するものと思われる。
なにしろ中国兵はドイツやロシア兵と違い、たとえ本隊が降伏しても、
一部はゲリラ化し、
民間人に化けてテロをやるのが当時一般化していたのである。

「便衣兵」の処刑は、国際法に照らしても決して不法でないことは
当時一般化していたのである。
「便衣兵」の処刑は、
国際法に照らしても不法でないことは前項で詳論した通りである。
便衣兵は戦時国際法の違反
便衣兵数千が難民区に遁入 … 違法行為を行った中国兵
平時ならともかく、武器を秘匿して潜伏している便衣兵を
裁判にかけることなく処刑したと虐殺派は非難するが、それは机上論である。
現にちょっとした油断で便衣兵に秘匿武器で殺された例はいくらでもある。

いずれにせよ、先の「資料」は、そのような「場合ノ外」は
釈放してもかまわないといっているのである。
たしかに当時の日本軍は、全般的に国際法に関する研究不足というか、
指揮官にその観念が薄く、その為南京において、
意外に多数の捕虜に遭遇してその処置に窮し、
その取り扱いに若干問題があったことも事実であろう。

しかし、戦争というものが、いかに過酷なものであるか、
ヨーロッパ戦線の例を一つ上げよう。

ドイツが全面降伏したのは1945年5月7日であるが、この直後、
つまり終戦になってからユーゴスラビアにいた17万5000の
ドイツ軍が捕虜になり、アルプス越えの途中、
8万余名が集団虐殺されるという事件が起きているのである。
捕虜収容所に収容されたのは約半数に過ぎなかったという。

西ドイツ発行の『第二次世界大戦史』(著者パウル・カレル)によれば、
このような例はその他にもたくさんある。
戦争というものがいかに苛烈・非情なものであるかを知る一例である。

洞氏は『南京大虐殺の証明』の中で、第16師団長中島今朝吾中将の日誌に、
「大体捕虜はせぬ方針なれば」とあるのを、
捕虜の集団処刑が軍命令、師団命令によってなされていたのではないかと
推測している(藤原彰著「南京大虐殺」304ページ)。

洞氏にかぎらず虐殺派はおしなべてこの中島中将の「捕虜はせぬ方針」
というのを一般に誤解して、
南京の捕虜はかたっぱしから殺害したかのごとく主張するが、
決してそうではない。

これについて大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。
「それは銃器を取り上げ釈放せい、ということです。
中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」
(阿羅健一著「聞き書 南京事件」)。

さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、
捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。

集団捕虜約1万が南京城内の2つの監獄と、
江東門の模範囚収容の小監獄および2つの収容所に収容された。

捕虜取り扱い専任の榊原参謀によると、
「中央監獄の4000人のうち、半分の2000人は、
命令により上海の捕虜収容所に移した。その分類は私がした。」と言う。

さらに同氏は東京裁判で、
「また幾人かは各部隊が労務に使用し、逃亡する者も相当多数いたが、
これはそのまま放置した」(極東国際軍事裁判速記録第310号22・11・7)。
と証言している。

また、一部は釈放されて、昭和13年に創立された維新政府
――のちの汪兆銘政府――の軍隊に起用された。

維新政府創立の立役者であり、行政院長に就任した梁鴻志氏は、
のちに漢奸裁判にかけられて処刑されるが、その裁判の席上こう述べている。
「綏靖軍(すいせいぐん・維新政府の軍隊)の成立は
民国28年(昭和14年)春で、兵士の大部分は投降兵から成り、
応募者は僅少であった。4個師に分けたが、1個師は僅か2、3千人であった」
(益井康一著『漢奸裁判史』110ページ)。

つまり、約1万人の綏靖軍は主として南京戦、武漢作戦における
捕虜を起用したというのである。

のちに北京新民会首都指導部で活躍した劉啓雄少将も
南京戦における捕虜の一人である。

「現地釈放」の例を2つ上げる。

第16師団の歩兵第20連隊(福知山・大野宣明大佐)第1大隊に
所属する衣川武一氏(京都府夜久野町在住)は
筆者への手記の中でこう述べている。

「われわれの取り扱った捕虜約2000人のうち、帰順を申し出る者は、
若干の米麦と白旗を持たせて帰郷させた。
年末頃までに約半数が帰順し、半数は使役として働かせた。
腕章をつけて食糧の運搬や炊飯などさせた。
中山門の内側の土嚢の中に玄米の麻袋があり、我が部隊は大助かりであった。
が、水と燃料には苦労した。
これらは捕虜の使役で補うことができた。
かれらは一日中食糧の準備に終始した。
私はその指揮に当たったが、「衣川先生(イーセンセンション)」と呼ばれ、
捕虜とわれわれとの間に自然に親近感が芽生え、
捕虜殺害などとんでもない話である。
これらの捕虜は、転進する際全部帰郷させた。」

次の例は、歩兵第45連隊の第2大隊は、14日早朝、
下関で白旗をかかげた捕虜約5000と、砲30門、重機、小銃、
弾薬多数及び軍馬10数頭をろかくした。
この捕虜釈放を本多勝一氏は「南京への道」で次のように述べている。

「劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、
帽子を逆にかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。
その数は1万人より少ないが、たぶん「数千人」の単位であった。

一ヶ所に集められたところへ、
日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。
ヒゲが両耳からアゴの下3~4センチまで下がっていた。
日本語で何か訓話したが、こまかいことはわからず、
通訳によれば要点は「お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ」
と言っているらしかった。

一同は白旗を作らされた。
それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、
30センチほどの木の枝にそれを結びつけた。
川岸には住民の捨てた荷や衣類がたくさん散乱していたので、
軍服を脱ぎ捨ててそれを着た。

数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、
それぞれの故郷にばらばらに出発した。」(「南京への道」41~2ページ)。

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便衣兵の摘出

『「南京事件」の総括』 田中正明 著 小学館 P199~201 より

難民区の掃蕩は、北から第3、第1、第2大隊に区分し、
それをさらに中隊ごとに区分して行なわれた。

軍帽による日焼けの線、靴ずれや手に銃ダコのある者、
きわめて姿勢のいい者、目付の鋭い者、広東語のなまりある者、
(南京を守備したのは広東、広西の兵が主力)。

ともかく自ら名乗らざる以上、確たる決め手はないのであるから、
これを摘出する日本軍も困惑したが、したがって良民に少なからず
災厄がおよんだであろうことも事実である。

だから戦時国際法はこれを禁止しているのである。
その責任は、このような戦術を日本軍の抗議にもかかわらず
敢行した国民党軍にある。

難民区に潜入した便衣兵は、難民区周辺に脱ぎ捨てた
おびただしい軍衣などから推定して5000~6000人とみられた。

14日、歩兵第7連隊に戦車中隊が協力し、
難民区の出入口をふさぎ、摘出を開始した。

この日は便衣兵250人のほかに多数の兵器を難民区内で鹵獲(ろかく)した。
7連隊の「戦闘詳報」によると次の通りである。

・俘虜:250人
・乗用自動車:5
・小銃:230
・軽機関銃:11
・対戦車砲:2
・機関砲:1
・側車付自動二輪車:5
・自動貨車:2

この掃蕩間、反抗の気配があった敗残兵約70~80名を射殺。

難民区にこのような兵器が隠匿されていたということは、
日本軍としては重要視せざるを得ない。
それにしても14日の掃蕩による便衣兵を調査したところ、
ほとんどが下士官兵のみで、将校は認められない。
数も僅少である。

そこで第7連隊の各大隊は16日を期して難民区の掃蕩を
続行することになった。
ことに17日は入城式が挙行されるので摘出は厳重を極めた。
15日夕方発令された歩7の作戦命令には、

1、本15日まで捕獲したる俘虜を調査せし所によれば、
ほとんど下士官のみにして将校は認められざる情況なり。
将校は便衣にかえ難民地区内に潜在したるがごとし。

2、連隊は明16日全力を難民地区に指向し徹底的に敗残兵を掃蕩せんとす。

とある。
しかし、16日に何人が摘出されたか定かなる記録がない。

秦郁彦氏はその著『南京事件』の中で、次のように推測している。
「ピークの16日については、1中隊が百数十、
2中隊が335人を狩り出しているから、
連隊全体(12個中隊)では2~3千人に達したであろう。
このうち下関へ連行されたのは、
1200(水谷日記)、一千~二千(前田雄二同盟記者)、
二千余(佐々木郵便局長)と大差はない」

この16日の難民区から引き立てられた便衣兵や敗残兵の数については、
東京裁判でも幾人かが証言している。

尚徳義証人は、
「千名以上の(一般)男子」、
許伝音証人は、
「婦女子を含む1500人以上」、
梁廷芳証人は、
「約5000の男子」、
マギー証人は、
「1000名ないし3000名」、
フィッチは宣誓口供書で、
「1300名の男子」
と、まちまちであるが、
前出の秦氏の推測と合わせて、ほぼ1000から2000の間とみて間違いなかろう。
これらは下関で処刑されている。

なお歩兵第9連隊の6車欧次郎少尉によると、
「夜半、東方の山中から敗残兵数百名を捕らえた・・・
ところが日本軍が少人数と侮ったのか、手榴弾を投げつけて暴れ出し、
収拾がつかなくなったので、軽機、小銃で弾丸のあるかぎり撃った」
という証言もある。

虐殺派はこのような敗残兵の処置や便衣兵の処刑を"虐殺数"に数えているが、
とんでもない誤りである。

さらに、その後の便衣兵の摘出については、
南京地区警備司令官に任命された佐々木到一少将の回想記によると、
12月24日から1月5日までおこなった中国人立会いの
「良民証」下付に際しての市民の査問調査で、
便衣兵約2000人を摘出している。
「この日までに城内に摘出せし敗残兵約2000、旧外交部に収容す」とあり、
これらは捕虜として扱っており、処刑はしていない。

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いわゆる南京大虐殺・URL図書室
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『便衣兵の「処刑」に裁判は必要だったのか』
http://megalodon.jp/2009-0204-1357-27/1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Law_01.html
2009/08/21 09:00|年表リンク用資料
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