●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1909年10月26日、初代内閣総理大臣 伊藤博文が暗殺される。
伊藤博文を暗殺した安重根の処刑日は1910年3月26日。 2010年に100周年となったため、 韓国では2010年の3月26日から2011年の3月26日まで 1年かけて安重根に関する様々な記念事業を展開した。 安重根の20巻に達する資料集を発刊したり、 全国巡回展示会を開いたり、国際学術大会を開催したり、 アジア全体の平和活動に貢献した個人や団体に 「安重根平和賞」を授与したりしたという。 多くの韓国人にとって伊藤博文は極悪人である。 かつて日本の千円札に伊藤博文の肖像が書かれていることを 韓国人は苦々しく思っていた。 一方、日本ではその伊藤博文を暗殺したテロリストとして 知られる安重根について、 韓国では彼を「義士」と呼びその「業績」を賞賛している。 初代統監であった伊藤博文は、 当時の第二代朝鮮統監、曽祢荒助(日露戦争時の大蔵大臣) らと共に朝鮮併合反対派でった。 ちなみに、このとき朝鮮併合賛成派は 山県有朋や寺内正毅陸軍大臣などであった。 別に朝鮮半島のことを思ってではなく、 「朝鮮併合後の維持には日本の国力を超えた莫大な金が掛かる」 事を伊藤博文らは主張し併合に反対したのである。 実際、伊藤博文らの朝鮮併合反対派の主張は正しかったわけで、 1945年の敗戦までに日本が朝鮮半島につぎ込んだ資本・資産は 現在の価値になおして80兆円以上のとんでもない額になったのだ。 先見の明を持った、というより 常識的な判断が出来た日本の数少ない政治家だったのかも知れない。 結局、伊藤博文の暗殺後、1910年に曽祢統監は胃ガンで倒れ、 同年解任、 そして朝鮮併合賛成派の寺内正毅が第三代朝鮮統監に任命される事となり、 この時点で朝鮮併合が事実上決定したのである。 安重根は伊藤博文という朝鮮併合反対派の重鎮を暗殺することによって、 朝鮮併合への道を加速させただけに過ぎなかった。 朝鮮併合に賛成する多勢の朝鮮人の中でも その筆頭は当時の朝鮮首相、李完用であった。 彼は反日派の群衆に2回も自宅を焼かれながら、 日本の力により、韓国を近代化しなければならないとの信念で 当時の韓国政府をリードしたのである。 又、当時の最大の政治勢力は一進会であり、 ピーク時会員数100万人と称している。 李完用のように朝鮮の未来を考え、 日本との併合を推進した朝鮮の先人達も 多く存在したことを韓国人は忘れるべきではない。 今現在の韓国人がどう思おうと、 彼らは朝鮮の未来のために命を懸けて戦ったのである。 ――――― 伊藤博文 天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909年)10月26日) 日本国の初代内閣総理大臣(当時44歳)。 明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣 および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長を務めた。 1885年12月22日~1888年4月30日 総理大臣 1892年8月8日~1896年8月31日 総理大臣 1895年3月20日~4月17日 下関講和会議における日本全権弁理大臣 同年4月17日 下関条約調印 1900年10月19日~1901年5月10日 総理大臣 1905年 朝鮮初代統監に就任 1909年10月26日 ハルビン駅でテロリスト、安重根の銃撃を受け死亡 1909年11月4日 国葬 ――――― 安 重根 1879年生~1910年3月26日没 朝鮮の独立運動家 カトリック教徒 学校を設立 義兵を組織 1909年10月26日 ハルビン駅で朝鮮初代統監の伊藤博文を射殺。 その場でロシア官憲に逮捕され、 日本政府はこれを関東都督府旅順地方法院に移し死刑判決。 1910年3月26日、旅順監獄で死刑執行。 ――――――――――――――――― ◆高宗(大韓帝国皇帝) 日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、 東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国(韓国)の慈父である。 ◆ロンドン・ディリーメール紙 カナダ人ジャーナリスト:フレデリック・アーサー・マッケンジー 伊藤博文公は世界周知の如く日本の最も偉大かつ、有名な政治家である。 彼の韓国赴任は、たいへんな自己犠牲であった。 伊藤公が、その韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。 そこには改革、公正、斡旋があった。 (李朝朝鮮)が犯したあらゆる誤りがそこには救済されるはずであった。 「私は、自分が韓国国民と日本国民との間に立って、 両者の間に正義がおこなわれるようにすべき立場に立っていると思う」 と公はそう言明したのである。 ◆アメリカ人の朝鮮外交顧問:ドーハム・スティーブンソン 朝鮮の王室と政府は腐敗堕落しきっており、 頑迷な朋党は、人民の財を略奪している。 その上、人民はあまりにも愚昧である。 これでは国家独立の資格はなく、 進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、 ロシアの植民地になるだろう。 伊藤博文総監の施策は、 朝鮮人にとって有益で、人々は反対していない。 ◆宣教師:ラッド博士 韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。 高い政治道徳を重んずる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、 韓国人は暗黒時代から光明世界に導かれ、 未開時代から文明時代に進むべく手をとられて進みつつあり、 旧来の久しい悪政から免れ、彼らの生命財産は確実に保護されつつあって、 あらゆる面において、三年間に二倍の進歩を遂げた。 ◆宣教師:ハリス博士 私の見るところをもってすれば、 伊藤侯の統治は最大なる賞賛に値するべきものであり、 大変満足しております。 韓国国民は今やようやく、彼をもって自分達の友人であると知って、 これを事実の上に現し始めました。 過去三年の間における韓国の進歩の大きいことは、 実に私をして統監政治の最も熱心な支持者であることを告白せしめます。 私は伊藤侯の必ず成功すべきことを信じて疑わないものであり、 また、すべての宣教師 及びその他の韓国における文明開発の義務を知る者は、 等しく伊藤侯の統治を支持しなければならないと思います。 ◆韓国発行:「邦字新聞」 韓国人の安寧と幸福、その生活の向上を図るため、 母国日本の財政負担は三年間に三千万円に達している。 日本及び日本人を益することを少しもやらないで、 韓国及び韓国人のために図りてあまりにも忠実である。 飽くまで韓国の主権を尊重するため、 中央の各部大臣や地方長官はすべて韓国人を任用し、 日本人はその下働きになっているに過ぎない。 利権は韓国人のみに与えて、 日本人には荒蕪地開発の第一号を与えただけではないか。 なおその上、韓国通の大陸浪人を追放するなど、 日本及び日本人から孤立した政策を採ってきた 伊藤総監の心事那辺にあるやを疑わしめるものがある。 ◆「ハルピン・ウェストニツク紙」 東清鉄道長官 ホルワット少将(ロシア) 思えば思うほど情けない限りである。 最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、 もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争も、 ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。 伊藤公爵のハルピン来訪目的は、 わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、 誰もが知っていた。 伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、 一点張りの主張をする人ではない。 尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失ばかりでなく、 わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。 ◆エルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ・医学者) 韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。 何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。 日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、 意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。 その時、武断派及び言論機関は、 高圧手段に訴うべしと絶叫したが 公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。 当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。 公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、 韓国人をして日本統治下に在ることが却って 幸福であることを悟らせようとし、 六十歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。 公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。 ――――――――――――――――― 『伊藤博文と安重根』より一部引用 http://s01.megalodon.jp/2009-0704-0713-58/konrot.at.infoseek.co.jp/rekisi06.htm |
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