正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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人種平等への戦い

■1.人種差別撤廃への日本の宿命■

虐待をこうむっている有色人種のなかで
ただ一国だけが発言に耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。

すなわち日本である。

日本は唯一の非白人一等国である。
人種以外のすべての点で日本は世界の支配的大国と肩を並べている。

しかし、日本がいかに軍事力で強大になろうとも、
白人は日本を対等とは認めることはしないだろう。

第一次大戦後にイギリスの外務省がまとめた「人種差別と移民」
という報告書の一節である。

日清・日露戦争、第一次大戦の勝利を通じて、
日本は世界の強国の仲間入りをしたが、
それは非白色人種による唯一の近代国家という前例のない、
孤独な地位であった。

当時は「科学的人種主義」が花盛りの頃で、西洋の一流の学者は、
日本人の人種的劣等性は経験的に実証できると論じていた。
「日本人は身長5フィート(150cm)、肌は褐色、吊り目をしていて、
生の魚を食べる」といったあからさまな差別的記述が
ごく当然のようにされていた。

米国カリフォルニア州では、様々な法律で日系移民の土地所有を禁止し、
その子供を公立小学校から追放していた。
オーストラリアのウィリアム・ヒューズ首相は、
選挙演説の中で次のような一節を述べている。

我々の主たる綱領は、もちろん白いオーストラリアだ。
これに関しては妥協の余地はない。
働き者の有色人種の兄弟は去れ。戻ってくるな。

日本は有色人種の先頭に立って、
世界の人種差別撤廃を目指さねばならない宿命にあった。

■2.国際連盟への期待■

1919年、第一次大戦後のパリ講和会議においては、
米国ウッドロー・ウィルソン大統領は、永続的な平和の基礎として、
国家の平等、権利の平等を唱えていた。

ウィルソン大統領の提唱する国際連盟の構築こそ、
人種平等の原則を確立する絶好の機会であると日本は考えた。

このパリ講和会議に日本は、最高のメンバーを全権団として送り込んだ。
かつての首相であり、当代の指導的政治家、西園寺公望公爵、
外務大臣を務めた牧野伸顕男爵の両名である。

朝日新聞は、パリに向かう全権団に、次のような言葉を贈った。

我全権が最も注意と努力を要するものを問はば、
(中略)
人種的均等待遇に在ると答ふるならん。
(中略)
蓋し国際平和を害し、四海兄弟主義を打破する重大なる要素は、
人種の不均等待遇若しくは人種的軋轢たり。
(中略)
世界人口14億5千万中9億即ち6割2分を占める有色人種の為めにも
(中略)
真実なる実現を期せず可からず。

■3.人種平等条項提案■

しかし、日本側はパリで欧米諸国の代表と接触して、
人種平等に対する反発の激しさに直面する。

大英帝国代表ロバート・セシル卿は人種平等に関する日本案には
「いかなる形式のものであろうとも、
イギリスは絶対に同意しないであろう」と語った。

またアメリカに関しても、
「こんな危険な(人種平等)条項を含んでいる規約を
批准しようという夢を見るような州はアメリカには一つもないだろう」
と言われていた。

友邦だと思っていた欧米諸国の激しい抵抗を目の当たりにして、
日本側は直接、国際連盟委員会に訴えることにした。

アメリカ代表のハウス大佐は「ジャップには絶対に喋らせない」
と策略をめぐらせていたが、2月13日の国際連盟委員会において、
牧野男爵は起立して日本側の提案を正式に表明した。

牧野は先の大戦において、異なる人種がともに戦い、
互いに助け合える事を証明し、
この「同情感謝の念が相互の連鎖を固めた」として、
新しい国際連盟の規約に次の条項を加えることを提案した。

各国民均等の主権は国際連盟の基本的綱領なるにより、
締結国はなるべく速やかに連盟員たる国家における一切の外国人た対し、
如何なる点についても均等公正の待遇を与え、
人種あるいは国籍の如何により、
法律上あるいは事実上何ら差別を設けざる事を約す。

イギリスのセシル卿は、これは「極度に深刻な難題」を生むので、
討議をいっさい延期すべきだと語った。
中国代表の顧維鈞は、自分はこの問題に「深い関心」を持っており、
日本の提案に「全幅の同情」を表明すると述べた。

■4.ウィルソン大統領の逃亡■

ウィルソン大統領は、自ら重大な困難を招いた事を悟り、
会議を延期して、翌日ワシントンに帰ってしまった。

そして日本案を無視した形で、連盟規約案を印刷して配布した。
この案文を見たものは、
人種平等に関する日本の提案が行われたことなど、知る由もなかった。

日本とその支持グループは、ペテン師的な手口に激怒したが、
牧野男爵は怒りを押さえて、
日本は人種問題を世界にとって基本的な重要事項と考えるがゆえに、
最も早い機会に修正案を提出する、と発表した。

■5.国民平等の原則を■

日本代表団は、原案ではとうてい採択の見込みはないとして、
「人種」という言葉を削除して、「国家平等の原則と国民の公正な処遇」
の支持を求める修正案を作成した。

この提案に関する最終決定は、4月11日の国際連盟委員会において、
ワシントンから戻ったウィルソン大統領を議長として行われた。

日本代表は、今回文言を緩和した修正案は、
国民の平等と各人の公正な待遇の原則を正式に確認する以外の
事を求めてはいない、とし、移民制限の問題とは関係のない事を表明した。

そしてこの原則を拒否することは、
「連盟加盟国の平等が認められないこと」を示すと主張した。
「問題提起は見事に行われ、満場の支持を得たように思われた」
とアメリカ代表の一人は記録している。
その他の参加者も、「説得力があり」「威厳に富み」「賞賛に値し」
などと記している。

フランス代表のレオン・ブルジョワ上院議員は
「正義という論争の余地のない原則」を具現するこの案を
拒否することは不可能であろうと主張し、
さらに中国、ギリシア、チェコスロバキアの代表が強力な賛成演説を行った。

■6.葬られた賛成決議■

日本全権団の要求により投票が行われ、
日本案は16票中11票の圧倒的賛成を得た。

しかし、議長席のウィルソンは、
全会一致の賛成が得られなかったので採択されない、
と宣言して、参加者を驚かせた。

それまでの2回の票決は全会一致の規則は適用されていなかったのに、
とフランスの代表団は抗議を行った。

しかしウィルソンは、
「われわれの一部にとってはあまりにも障害があるので、
規約にそれを挿入する事はできない」、と言った。

そして急いで次の議題に進もうとしたが、牧野男爵はそれをさえぎって、
大いに遺憾であるが、この会議で過半数の賛成票があったことを
議事録に明確に記述するよう要求した。

■7.激化する人種紛争■

日本の人種平等条項の提案とその失敗は、インドネシア、インド、
エジプト、チュニジアなど世界各地における独立運動を刺激した。

アメリカでは特に第一次大戦に参加した黒人兵たちが
完全な市民権を要求していたが、
自国の政府が人種平等の原則を支持しなかったことに怒った。

この年の6月から9月にかけて、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、
それに首都ワシントンで大規模な黒人暴動が発生した。
警察、陸軍、州兵が動員され、100人以上の死亡、数万人の負傷者が出た。

報知新聞は次のように述べた。

アメリカの人種紛争は文明世界にとって不名誉なことであり、
もしもアメリカが他の国々に正義と人道の原則を説教したいのならば、
まず自国内の人種問題を解決しなければならない。

■8.世界的混乱が予想される■

ウィルソン大統領自身が提唱した国際連盟にアメリカは参加しなかった。
その主たる理由が国家主権と人種差別との関係だった。

「日本人や中国人やインド人の労働力が洪水のように
アメリカに流れ込むのを他国の決定にゆだねる用意が
われわれにあるのだろうか」ということであった。

1922年には連邦最高裁判所は、
日本からの移民はアメリカの市民となる資格がないと判断し、
翌年には日本人移民がアメリカの土地を
所有することを禁止する判決を下した。

続いて議会も、1924年移民法を制定して、
アジア人と大部分の非白人に対して門を閉ざし、日系移民を禁止した。

現代アメリカの著名な生物学者スティーブン・ジェイ・グールドは
これを「アメリカの歴史における科学的人種主義の最大の勝利」と呼んだ。

この移民法こそ日米間の摩擦を引き起こした最初の動きであった。
オーストラリアの政府高官は次のような予言をしている。

白人が自発的に有色人種を対等の者として
受け入れることは決してないのだから、
人種的劣等という憎むべき汚名を除去するためには力によるほかはない。
(中略)
潜在的な世界的混乱が予想されるし、
やがて欧米世界に重大な結果を招来するおそれがある。

この予言は、やがて大東亜戦争として現実のものとなっていく。

―――――――――――――――――

国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(53) 平成10年9月12日 より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog053.html




米国黒人社会の日本観

「20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観 1900-1945」
レジナルド・カーニー、五月書房、H7.8

人種平等への旗手、米国黒人社会の日本観

■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■

全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを見守っている。
1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことのないよう、
国際連盟創設のための議論が進められていた。
米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平等の原則」を
入れるという提案を掲げて参加した日本であった。

日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った時には、
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、
黒人社会の指導者4人が、
「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、
と嘆願書を出した。
自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役をするというのに、
それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に嘆願したのである。

われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問題」について
激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。

全米黒人新聞協会が発表したコメントである。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、
有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、
人種平等への旗手と見なしていた。
[1,p71-76]

しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16カ国中、
11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソンの
「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。
ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、
米国南部や西部の議員たちの反対で、
批准されるはずのない事を知っていたのだ。

アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、
全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。

■2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■

アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったのは、
日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が独立をかけて、
果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。

米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人解放運動の
指導者W・E・B・デュボイスは、
ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性の
もっも高い国として、日本を支持した。

日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を
声高に叫ぶ日が来るだろう。
それは、彼らの母なる大地アフリカに同じような声が
こだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たちは考えた。
黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次のような社説を掲載した。

東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている。
事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、
セコンドは今にもタオルを投げ入れようとしている。
有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。
長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。

日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、
というヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を
事実として否定してみせたのである。[1,p53-66]

■3.黒人と日系移民の「連帯意識と共感的理解」■

1920年代に本格化したアメリカへの日系移民に対して、
黒人たちは温かく接した。
「フィラデルフィア・トリビューン」紙は、次のように述べた。
黒人たちは日本人を心から尊敬している。
同じ『抑圧された民族』であるのもかかわらず、
「自分たちのために一生懸命努力する」日本人の態度は
見習うべきものである、と。

カリフォルニアのオークランドでは、
黒人発行の新聞に日系人がよく広告を出した。
「ミカド・クリーニング」、「大阪シルク工業」等々。
逆に日系人の新聞には、
黒人への差別やリンチを非難する記事がたびたび登場した。

ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、
「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べている。

ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、
日系人の病院がどの人種にも、
門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。
同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を
患者は得ることができるのだから。

黒人を差別しない日本人というイメージは、
このようなメディアを通じて、またたく間に西海岸に広まった。
「連帯意識と共感的理解」、この言葉が両者のつながりを
示すのによく用いられた。[1,p82-89]

■4.日本人を救え■

1923年の関東大震災の報に接したある黒人は
「シカゴ・ディフェンダー」紙に
「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、
同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書し、
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。

たしかに我々は貧しい。
しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。

同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していった。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に
深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。

「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、
長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、
飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、
震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、
と分析した。
日本人は「それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」
だったからだという。[1,p82-86]

■5.日本のエチオピア支援■

1936年のイタリアによるエチオピア侵略に対して、
アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として
支援しようとした。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、
日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事は、
アメリカの黒人たちの心を動かした。

「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、
「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」
「エチオピアの同胞を助けるためには、
いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」
と明言したことを伝えている。

「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、
エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、
戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じた。

そして何よりも黒人たちを感激させたのは、
エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、
アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の
結婚の計画であった。
これは実現には至らなかったが、
日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠であった。
シカゴ・ディフェンダー紙は
「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じた。
[1,p96-103]

■6.日本での「忘れがたい経験」■

1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、
満州に1週間、中国に10日間、日本に2週間滞在して、
「ピッツバーグ・クリア」紙に「忘れがたい経験」
と題したコラムを連載した。

デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、
「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、
さも当然であるかのように、彼の前に割り込んだ。

ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、
デュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をし、
それからやっと、その厚かましいアメリカ女性の方を向いたのだった。
フロント係の毅然とした態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、
新しい世界の幕開けを予感させた。

「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個人を、
日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が
「同じ有色人種であり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」
ことを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]

さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを悟った。
上海での出来事だった。
デュボイスの目の前で4歳くらいの白人の子どもが、
中国人の大人3人に向かって、どくように言った。
すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。
これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。

上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、
なぜか白人の国によって支配され、統治されている。」
それに対して、日本は、
「有色人種による、有色人種の、有色人種のための国」である。

■7.日本人と戦う理由はない■

日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。
「人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、
「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、
さらには「黒人を差別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」
という意見まで。

デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、
「アメリカが日本人の権利を認めてさえいれば、
戦争は起こらなかったはずだ」とした。

黒人たちは、
白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色い嫌な奴)」、
「イエロー・モンキー(黄色い猿)」
「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと
蔑称をさかんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。

アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、
「未開人」という日本人イメージを広めようとやっきになっていた。
それに対して、「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、
アメリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、
波間に漂っていた多くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、
本土爆撃ではわざわざ人の多く住んでいる場所を選んで、
大人から赤ん坊まで無差別に殺した、
さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、
何万という人間が一瞬にして殺された。
これを残忍と言わずして、何を残忍と言おう」と主張した。

軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、
白人のために、同じ有色人種である日本人と
戦わなければならない理由は見いだせなかった。
ある黒人部隊の白人指揮官は、隊の95%は戦う気力がまったくない、
と判断を下した。
黒人兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。

墓石にはこう刻んでくれ。
白人を守ろうと、黄色人種と戦って命を落とした黒人、
ここに眠ると。[1,p120-140]

■8.日系人強制収容を黙って見過ごすのか?■

大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも、
強制収容所に入れられた。米国の黒人は大きな衝撃を受けた。

第一に、日系アメリカ人だけが収容され、
ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、
あきらかに人種偏見のせいではないか、という点。
第二に、アメリカの市民権を持っている日系人さえもが
強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、
という点であった。

11万5千人もの人々(日系人)が、
一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、
われわれ黒人は黙って見過ごすというのか。

ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストが
全米黒人向上協会に呼びかけ、協会の代表はそれを受けて、
次のような決議文を提出した。

われわれは人種や肌の色によって差別され、
アメリカ人としての当然の権利を侵害されることには
断固として反対していかねばならない。

戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、
温かく迎えた。
彼らは、日系人のために仕事を探したり、
教会に招いたりしてくれた。[1,p140-152]

■9.歴史上、日本人が持ち得たもっとも、親しい友人■

[1]の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は
次のように我々日本人に呼びかけている。

歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、
それがアメリカ黒人だった。
・・・この本を読んでいただければ、
日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、
なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、
心から理解してもらえるはずである。

かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本人。
そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を取り戻せることを、
私は心から祈って止まない。
おごりのない、謙虚な日本人-それが私の願いである。[1,p26]

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人種平等への旗手、米国黒人社会の日本観
http://konn.seesaa.net/article/4799156.html

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真珠湾攻撃と人種差別
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2009/08/06 09:00|年表リンク用資料
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