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中華民国が尖閣諸島を日本領と認めている感謝状
産經Web96.9.23

産經Web 1996年9月23日

感謝状の中で魚釣島のことを「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
日本名で記し、救助した島民を
「日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。
中華民国八年(大正八年)の冬、
中国の福建省恵安県(現、泉州付近)の漁民、郭合順氏ら三十一人が遭難。
尖閣列島(和洋島=魚釣島)に漂着した。
石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)が熱心に看病し、
全員を生還させたことへの感謝状で、玉代氏の子孫がこれを保存していた。
感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、
与那国島出身の通訳で女性の松葉ロブナストさんら計七人に贈られた。
現存するのは、玉代勢氏あてのものだけで、同氏の長男、冨田孫秀氏が
今年一月、自宅に飾っていたものを石垣市に寄贈した。

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サピオに掲載された公電

サピオは平成17年の10月12日号・10月26日号・11月9日号の3回に渡り、
「尖閣諸島は日本の領土」決定的歴史文書掴んだ、を連載した。

書庫の奥で埃をかぶっていた39枚の「手書き公電」

ここに1枚の「感謝状」がある。
贈り主は「中華民国駐長崎領事 馮冕」とあり、
公印も押されている(87ページ参照)。
日付は中華民国9年(1920年、大正9年)5月20日。
原文はもちろん漢文だが、大意は次の通りだ。

《中華民国八年冬、福建省恵安県の漁民、郭合順ら31人が嵐で遭難、
漂流して、日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島内の和洋島(※魚釣島の別名)
に漂着。
日本帝国八重山郡石垣村雇用(※後の助役)・玉代勢孫伴君は親切に救護し、
故国に生還させてくれた。まことに義を見てめらわないものであり、
深く感服し、この書状の贈呈をもって感謝の気持ちを表すこととする》
(傍点は筆者)
同様の感謝状は、玉代勢孫伴のほか、当時の石垣村長・豊川善佐、
通訳の松葉ロブナスト、そして郭合順ら31名を救出した古賀善次に
それぞれ贈られたと言い伝えられている。(※1)
1996年1月、それまで私蔵されていた感謝状を玉代勢の子息が
石垣市に寄贈したもので、現存するのは、この玉代勢宛ての1枚だけである。

-中略-

遭難救助の状況、当時の魚釣島になぜ古賀善次らが住み着いていたのか、
漂着した31名の福建省の漁民たちはどういう運命を辿ったのか、
次々と疑問が湧いてきた。
何よりも、当時の中華民国とはいえ、中国が「尖閣諸島は日本領」と
認めている公文書の背景を探ることは、現在でも日中両国で論争が続く
尖閣領有問題に重要な一石を投じることになると考えた。

以来、筆者は尖閣諸島に関係する資料が多く保存されている石垣島や
与那国島に足繁ぐ通うことになったのだ。
思いがけぬ機会で、重要な資料を手にすることができたのは今年7月だった。
何度目かの石垣市役所を訪れ、文書課に保存されている古い資料を
あさりまくった末のことだ。

棚の奥から埃を被った39枚に及ぶ
(大正九年一月 遭難支那人救助●●●(※この3文字読解不能)ノ件
(福州人)》と筆書きされた外務省用箋ひと綴りが見つかったのだ。
文書課長も「20数年の市役所勤務のなかでこの一件綴りを見るのは初めて」
と驚いた。全て手書き、それもほとんどが筆書き。
遭難者の調書を始め、救出から保護、本国送還に至るまでの数か月間、
内務省、外務省、沖縄県知事、中国駐長崎総領事、在中国日本公使らの間で
頻繁にやり取りされた公電の記録であった。





-中略-

詳細に記された「救護費用」の内訳

救助された郭合順ら31名が古賀善次の所有船で
魚釣島から石垣島に向かったのは、1920年1月10日のことである。
石垣村長の豊川善佐は慌てて浜に向かった。
先ほど漁師のひとりが、尖閣から漂流民が到着したことを
知らせてきたからだ。

浜に着くと旧知の古賀善次が困惑顔をして豊川に一部始終を話し始めた。
日頃のんびりとした石垣村に衝撃が走り、
豊川は俄然多忙を極めることになった。
沖縄縣知車宛に事情を報告しなければならないし、
そのためには郭合順らの事情聴取もしなくてはならない。
幸いにも与那国島には白系ロシア人との混血で、
中国語に堪能な松葉ロブナストが住んでいた。
早速呼び出して通訳兼世話係とした。

彼ら漂流民の健康状態も気にかかった。恐るべきは「風気」である。
現代でいうマラリアのことで、当時八重山地域の風土病だった。
豊川は玉代勢孫伴
(たままよせそんばん、前号で触れた「感謝状」の受取人の1人)ら、
役場の人々を走らせた。
31名を収容する家の手配、健康診断を行なう医者。
腹を減らした彼らに提供する米飯の準備は、
豊川ら役場職員の妻たちが駆り出された。

こうして漂流民の石垣滞在は10日間に及んだ。
その間、福州漁民遭難の一件は沖縄転知事から内務大臣、外務大臣、
そして引き受け方である中華民国長崎総領事の間で
公電が飛び交うことになる。
最終的に郭合順ら31名が大阪商船八重山丸で台湾の基隆に向けて
帰国の途についたのは1月21日のことであった。

その後の2月26日、豊川善佐は外務省宛に
「漂着支那人救護費用請求書」を提出している。
諸費計算書の総額は《六百弐拾七圓六拾七銭也》。
公電にはその内訳も詳細に記載されている
(読みやすさを考慮してアラビア数字表記)。

◆旅館宿泊料2日分 62円(1人1日当たり1円)
◆食料28食分 130円20銭
(大正8年1月12日朝~21日朝まで。1人1食につき15銭)
◆借家料 29円
◆八重山・基隆問3等汽船賃および通行税 139円56銭
◆尖閣諸島におけ11日間分の食費136円40銭(1人1日40銭)
◆魚釣島から石垣島への護送費 124円(I人4円)

ちなみに、筆者が魚釣島上陸の際にチャーターした舟代は往復で50万円。
124円の護送費は現代の貨幣価値でいえば片道約60万円。
少々高額に思えるが、この金額を石垣村に請求した古賀善次も
父・辰四郎同様になかなかの商売人だったのかもしれない。

だが、当時の石垣村にとって600円余りの立て替え払いは
村財政に大きな負担となったことは否めない。
現在でこそ観光収入で潤う石垣市だが、
当時の状況は豊かどころか、貧困状態にあった。
豊川善佐は止むに止まれぬ思いで日本政府に支払いを請求したのであろう。

だが、この救護費用の支払いを巡って日中両国政府の間で事態は紛糾する。
次回は、発掘された39枚の公電記録に記された「事件の?末」を
解き明かしていく。(平成17年の10月12日号)

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1920年(大正9年)5月、中華民国駐長崎領事が日本に感謝状を贈る。

産経ニュース 2010.11.29 09:00
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/101129/trd1011290901000-n1.htm

「尖閣は日本領」記述 中華民国からの感謝状 石垣村長あても現存

中国が戦前から沖縄・尖閣諸島の日本領有を認めていた証拠となる「感謝状」
の完全版が28日、石垣市内に現存していることが分かった。

感謝状は、1920(大正9)年5月、中華民国駐長崎領事が、
前年に遭難して尖閣諸島に避難した中国・福建省の漁民31人を
日本の住民が救助したことに対して贈ったもの。

文中に尖閣諸島を「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」
と記述している部分があり、
当時の中国が尖閣諸島を日本の領土として認識していたことが分かる。

石垣市によると、感謝状は関係者7人に出された。
このうち、1通は石垣市立八重山博物館に保管されているが、
掛け軸にするため上下左右が切り取られている。

今回発見されたのは、当時の石垣村長、豊川善佐氏に贈られたもの。
尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をきっかけに、
同博物館が豊川氏のひ孫の女性に調査を依頼したところ、
今月12日、自宅で発見された。

石垣市の中山義隆市長は産経新聞の取材に
「村長あての感謝状で、保存状態も非常によい。
尖閣諸島が日本の領土であることの証明がより強固になった」と話している。


石垣市内で新たに見つかった中華民国からの感謝状
石垣市内で新たに見つかった中華民国からの感謝状

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外務省資料 高規第200号

大正9年1月31日 沖縄県知事・川越壮介

内務大臣・床次竹二郎殿

支那人漂着に関する件

本月16日、電報致置候支那福州漁民、海難に関する状況
左記の通に有之候條此段及び報告候也。



一 遭難者住所氏名

支那国福建省泉洲府恵安県白奇郷

船主並船長・郭 合順 38歳
舵手・郭 得勝 50歳
郭 綉琉 16歳
郭 心法 14歳
郭 細喝 16歳
張 細模 16歳
郭 豚頭 11歳
郭 圓目 20歳
郭 草鞋 38歳
郭 鳥匏 18歳
郭 矮棟 41歳
郭 和 42歳
郭 主直 22歳
鄭 馬送 52歳
郭 夭夫 54歳
郭 鵠 11歳
郭 細北 42歳
郭 喝成 20歳
郭 細棟 36歳
郭 馬腰 11歳
郭 扁頭 40歳
郭 細候 35歳
郭 秋挿 11歳
郭 凹鼻 46歳
江 頭 45歳
郭 承老 48歳
郭 童大 55歳
郭 九六 60歳
郭 実法 11歳
郭 某 11歳

二 遭難及び救護の状況

前項三十一名の者は客年十一月下旬、
船名・金合丸(長さ52尺、幅18尺)帆船に乗組み、
福建省を発し浙江省方面に出稼ぎ漁業中、
客年十二月二十六日、暴風雨に遭遇し船体風波の為め動揺激しく
転覆の恐れあるより之を避ける為め、
帆柱を切断せしにより全く航行の自由を失し、
唯自然に任せ波涛に翻弄せられ漂流しつつありしが、
同月三十日夕刻に至り、管内八重山郡石垣村掛尖閣列島の内、
和平島と称する小孤島に漂着したるを以って、
搭載せる短艇三隻を下し全員分乗して上陸することを得たりしが、
一同は既に食糧盡き飢餓に迫り居りたるも、
幸いに同島には古賀善次なるものの漁業事務所ありて
漁夫其の他三十余名の居留民ありしがは、その貯えある食料を分與せられ、
救護を受け続けて天候不良なる為めその侭事務所の救助を受け滞在し、
本月10日に至り天候漸く回復せしを以って、
古賀の所有漁船に依り遭難者全員を石垣村役場へ輸送し来り。
爾来同村に於いて旅舎に収容保護中なり。
而して彼等の乗組み船は和平島上陸後風波の為め破壊せられ、
船具・船体共全部流失したりと云う。

三 遭難者の処置

遭難者は目下石垣村役場に於いて救護を為し、
一面在長崎支那領事の取引方交渉中なり。

―――――引用終了―――――――

<解説>

沖縄県知事は内務大臣に再び公電を打っているが、
時間が経過しているだけに公電の内容は実に詳細になっている。
以下時系列。

◆1919年11月下旬、福建省泉洲府を出航し、浙江省方面に出稼ぎ漁業。

◆1919年12月26日、暴風雨に遭遇し、転覆回避のため帆柱を切断。
その後4日間漂流。

◆1919年12月30日、魚釣島に漂着し、魚釣島の島民によって救護される。

◆1920年01月10日、漂流中国人を古賀の所有漁船に乗船させ、
魚釣島から石垣村役場へ輸送。

この公電に出てくる「和平島」とは現在の「魚釣島」のことである。
そして事の重大性から警務課長や警保局長が閲覧していたことも確認できる。
遭難者は31名となっているが、実際の名簿を数えると30名なので
恐らく記載漏れなのであろう。
http://bit.ly/142hAVZ

沖縄県知事から内務大臣へ1

沖縄県知事から内務大臣へ2

沖縄県知事から内務大臣へ3

沖縄県知事から内務大臣へ4

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明の上奏文に「尖閣は琉球」と明記 中国主張の根拠崩れる

産経ニュース 2012.7.17 08:38
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120717/plc12071708420009-n1.htm

中国・明代の『石泉山房文集』。赤線を引いた一節に赤嶼(大正島)が
「琉球の境」と記されている=「四庫全書存目叢書」(荘厳文化公司)から
中国・明代の『石泉山房文集』。赤線を引いた一節に赤嶼(大正島)が「琉球の境」と記されている=「四庫全書存目叢書」(荘厳文化公司)から

尖閣諸島(沖縄県石垣市)のひとつ、大正島について、
中国・明から1561年に琉球王朝(沖縄)へ派遣された使節、
郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に
「琉球」と明記されていたことが、
石井望・長崎純心大准教授(漢文学)の調査で分かった。

中国は尖閣諸島を
「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」
と主張しているが、根拠が大きく崩れることになる。

尖閣の帰属に関しては1895(明治28)年に
日本が正式に領有した後の1920(大正9)年、
魚釣島に漂着した中国漁民を助けてもらったとして
中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」に
「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていたことが明らかになっている。

明代にも琉球側と記していた中国史料の存在が明らかになるのは初めて。

上奏文が収められていたのは、郭が書いた文書を集めた『石泉山房文集』。
このうち、帰国後に琉球への航海中の模様を上奏した文のなかで
「行きて閏(うるう)五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。
界地は赤嶼(せきしょ)(大正島)と名づけらる」と記していた。
現在の中国は大正島を「赤尾嶼(せきびしょ)」と呼んでいる。

石井准教授によると「渉る」は入る、「界地」は境界の意味で、
「分析すると、赤嶼そのものが琉球人の命名した境界で、
明の皇帝の使節団がそれを正式に認めていたことになる」と指摘している。

石井准教授の調査ではこのほか、1683年に派遣された清の琉球使節、
汪楫(おうしゅう)が道中を詠んだ漢詩で

「東沙山(とうささん)を過ぐればこれ●山(びんざん)の
尽くるところなり」

《現在の台湾・馬祖島(ばそとう)を過ぎれば福建省が尽きる》

と中国は大陸から約15キロしか離れていない島までとの
認識を示していたことも分かった。

その後に勅命編纂(へんさん)された清の地理書
『大清一統志(だいしんいっとうし)』も台湾の北東端を
「鶏籠城(けいろうじょう)(現在の基隆(きりゅう)市)」
と定めていたことが、
すでに下條正男・拓殖大教授の調べで明らかになっている。

中国は尖閣周辺の石油資源などが明らかになった1970年ごろから
領有権を主張し始め、71年12月の外務省声明で
「釣魚島などの島嶼(尖閣諸島)は昔から中国の領土。

早くも明代にこれらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域の中に含まれており、
それは琉球(沖縄)に属するものではなく台湾の付属島嶼だった」
と根拠づけていた。

石井准教授は「中国が尖閣を領有していたとする史料が
どこにもないことは判明していたが、さらに少なくとも大正島を
琉球だと認識した史料もあったことが分かり、
中国の主張に歴史的根拠がないことがいっそう明白になった」
と指摘している。

●=門の中に虫

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尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に

読売新聞 2013年01月21日14時36分
http://news.livedoor.com/article/detail/7334119/

明の支配海域と尖閣諸島の位置


中国の明王朝の公式日誌「皇明実録(こうみんじつろく)」の中に、
明の地方長官が日本の使者との間で、
明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より
中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言し、
その外側の海は自由に航行できるとした記述を、
長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、
21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。

中国は現在、尖閣諸島を約600年前の明の時代から
支配してきたと主張しているが、石井氏は記者会見で、
「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、
この史料からわかる」と語った。

石井氏が見つけたのは、
江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。
沿岸を守る長官だった「海道副使(かいどうふくし)」(海防監察長官)が、
長崎からの使者・明石道友(あかしどうゆう)を逮捕・尋問した際の記録で、
皇帝への上奏文として納められていた。

それによると、この海道副使は明石に対し、沿岸から約40キロ・メートルの
「東湧島(とうゆうとう)」(現在の馬祖列島東端・東引島(とういんとう))
などの島々を明示したうえで、
この外側の海を「華夷(かい)の共にする所なり」とし、
中国でも他国でも自由に使える海域だと指摘したという。
魚釣島(うおつりじま)などからなる尖閣諸島は、
中国大陸から約330キロ・メートル離れている。

中国は、明王朝の1530年代に琉球に派遣された使者の記録をもとに、
琉球の支配海域の境界は尖閣諸島の東側にある久米島と同諸島の大正島の間
にあり、魚釣島などは明の領土だったと主張している。
だが、今回の記述により、明の支配海域は
沿岸から約40キロ・メートルまでで、
尖閣諸島はどこの国にも属さない「無主地」だったことが明らかになった、
と石井氏は指摘している。
日本政府は、尖閣諸島が「無主地」であることを調査・確認したうえで、
1895年に日本に編入したとしている。

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広東の企業幹部が「尖閣諸島は日本領土」、中国版ツイッターで発言、
人民日報記事など証拠挙げ、賛同広がる

産経ニュース 2012.8.25 01:14
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120825/chn12082501150000-n1.htm

中国広東省の民間企業幹部が24日、中国版ツイッター「微博」で
「1949年から71年まで中国政府は釣魚島(尖閣諸島)を
日本の領土と認めていた」と異例の発言をした。

日本領有を示す53年1月の中国共産党機関紙、
人民日報の記事や、複数の公式地図など根拠を挙げている。

微博では中国国内からの感情的な反論に加え、
「知識のない大衆が中国共産党に踊らされたことが分かった」
などと賛同する見方も広がっている。

発言をしたのは同省広州の電子サービス企業、
広東捷盈電子科技の取締役会副主席との肩書を持つ女性の林凡氏。

林氏は微博の運営会社、新浪微博から「実名」の認証を受けており、
10万人以上の読者をもつ。

林氏の資料によると、人民日報は53年1月8日付の紙面に掲載した記事で
「琉球群島(沖縄)は台湾の東北に点在し、尖閣諸島や先島諸島、沖縄諸島
など7組の島嶼からなる」と表記していた。

中国当局が監修した53年、58年、60年、67年に
発行した地図の画像も示したが、
その多くが「尖閣群島」「魚釣島」などと表記。
日中境界線も明らかに日本領土を示している。

林氏は冷静に証拠を積み重ねた上で
「中国政府はこれでも釣魚島はわれわれの領土だといえるのか」
と疑問を投げかけた。

中国国内からの反応には、
「資料をみて(尖閣諸島が)日本領だったことが明白に分かった」
「(当局に)タダで使われて反日デモを行う連中には困る」
などと、林氏支持の発言が出ている。

一方、25、26の両日も、尖閣諸島の問題を巡る反日デモが、
四川省南充や浙江省諸曁、広東省東莞、海南省海口など、
地方都市で呼びかけられており、混乱は今後も続きそうだ。

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1953年1月8日の人民日報が尖閣諸島は日本の領土と明記(写真クリックで拡大)
http://megalodon.jp/2012-0831-0018-53/www.geocities.jp/oldmouse99/renminribao19530108.jpg
http://megalodon.jp/2012-0831-0019-20/www.geocities.jp/oldmouse99/renminribao19530108_4.jpg
http://megalodon.jp/2012-0831-0019-52/mamorenihon.files.wordpress.com/2010/10/renmin_ribao_jan_8th_1953_p2_s.jpg


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尖閣諸島が中国領ではない5つの理由
http://www.youtube.com/watch?v=05x4iciT_z8
5 Reasons Why the Senkaku (Diaoyu) Islands are NOT Chinese Territory
http://www.youtube.com/watch?v=gnlr_OBN2uw

200 Japanese lived on SENKAKU- Photos . Tokyo slams Beijing "Stop lying" 谷山雄二朗
http://www.youtube.com/watch?v=sK0dPy8L4OU

尖閣諸島はどこに属すの?
http://www.youtube.com/watch?v=T6hdwpH1STk
Where do Senkaku, Diaoyu, or Pinnacle Islands belong to?
http://www.youtube.com/watch?v=V7RQNjiTEuQ
尖閣諸島はどこに属すの?- USCAR
http://www.youtube.com/watch?v=T6hdwpH1STk

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防衛大学校教授・村井友秀 尖閣で中国は法的に勝ち目なし

産経ニュース 2012.7.23 03:19
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120723/plc12072303200005-n1.htm

現在、日中両国民が互いに悪感情を抱く最大の要因は、尖閣諸島問題である。
尖閣諸島について、日中両国政府はともに固有の領土であると主張している。
世界の常識に照らして、日中両国のどちらの方に分があるのであろうか。

≪国境画定の要素を満たさず≫

国際法には、国境線を定めるルールがある。
それによれば、国境線は、
「先占(せんせん)」、「割譲」、「時効」、「添付」などで決まる。

「添付」とは、干拓や海底火山の噴火などによって、
人工的、自然的に新しい土地が生まれ、その土地が領土になることである。

「時効」とは、領有の意思をもって相当の期間、
継続的かつ公然と占有することによって、
その土地が新しい領土になることである。
ただし、国際法では時効の完成期間は明確にされていない。

「割譲」は、国家間の合意(領土割譲条約)により
領土の一部の主権が移ることをいう。
領土は国家間の合意(条約)で「譲渡」、「交換」されることもある。
なお、現在では、武力行使により他国領土を
強制的に取得しても領有権が移ったとは認められない。

「先占」は、先に占有した国に土地の領有権を認めるものだ。ただし、
(1)先占の主体が国家である
(2)対象地が無主地である
(3)実効的な占有を伴っている
(4)国家に領有意思がある

-という条件を満たしていなければならない。

日本政府は1895年に尖閣諸島が無主地であることを確認し、
閣議決定により日本領土とした(先占)。

これに対し、中国政府の主張は
先占、割譲、譲渡、交換、時効、添付のいずれでもない。
内容が曖昧で解釈も多様な数百年前の古文書を根拠に、
歴史的権利として尖閣諸島が固有の領土だと主張しているのである。
中国の古文書は日本の「先占」に対抗できない。

さらに、「禁反言(きんはんげん)の法理」が存在する。禁反言の法理とは、
自己の言動に矛盾する主張はできないという法である。
中国共産党機関紙の人民日報(1953年1月8日付)は
「琉球群島人民反対美国占領的闘争」との記事を掲載し、
尖閣諸島が琉球の一部であるとしたことがある。

中国共産党はこの記事に矛盾する主張はできない。
国際法に従って判断する国際司法裁判所に
尖閣諸島問題が付託されれば中国に勝つ見込みはない。

≪共産党体制の正統性かかる≫

それでは、なぜ、中国は尖閣諸島が中国領だと主張するのか。

一般的に中国外交は国内問題の反映であるといわれる。
21年に共産主義政党として生まれた中国共産党は、
30年代には、反共の国民党の攻撃によりほぼ壊滅状態に陥った。

だが、日中戦争の拡大で覚醒した中国人の民族主義が、
共産主義というよりもむしろ民族主義(抗日民族統一戦線)政党に変身し、
当時の中国の政治勢力の中で最も反日的であった共産党を、
政権の座に押し上げたのである。

中国共産党政権の正統性の基礎は反日民族主義である。
したがって、中国共産党にとって、対日関係を緊張させて、
日本軍による侵略の記憶を再生産することは、
政権の正統性強化に繋がるのである。

中国共産党政権は独裁政権でもある。
独裁政権は国民の支持ではなく国民を威嚇することで政権を維持している。

したがって、独裁政権は、権力基盤を強化するためには、
国民を威嚇する軍隊や警察を強化しなければならない。

しかし、軍隊や警察を強化すれば国民の支持は低下する。
ただし、「外敵」が存在すれば、外敵から国民を守るという口実によって、
軍隊を強化することに国民の支持を得ることができる。
独裁政権は「外敵」の存在によって、
政権を安定させることができるのである。

≪領土守る覚悟が問われる≫

一方、中国のインターネットでは、南シナ海問題は軍事力を使って
解決すべきだと主張する意見が大部分を占めている。

ネット世論にみられるように、中国世論は好戦的であり、中国政府にとって、
「日本帝国主義に奪われた固有の領土を奪回」する行動は、
国民の人気を取りやすい政策である。

中国政府の尖閣諸島に対する積極政策は、
中国共産党政権の正統性に由来するのであり、
日中関係を緊張させることを目的にしたものである。

日本の行動に対する反応ではない。
今後も国内の緊張が高まれば、
中国は必ず領土問題を再燃させてくるであろう。

中国に積極政策を再考させるには、それによって中国が得る利益よりも、
被る不利益が大きくなるようにしなければならない。

かつて中国は台湾の総統選挙に圧力をかけようとして
台湾近海にミサイルを発射した結果、
米軍の積極的な介入を招き、大きな不利益を被った。

その後、中国が台湾の選挙に軍事的圧力をかけることはなくなった。
状況の不安定化を防ぎ現状を維持するために、
日本として軍拡が必要になる場合もある。

日本政府は覚悟を決め、尖閣諸島が“日本の核心的利益”であり
日中関係の大局に重大な影響を及ぼすと主張すべきである。

ただし、日本国民に、領土を守るために
大きな犠牲を甘受する覚悟がなければ、日本政府は動けない。

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2009年6月24日 9:55 産経新聞

『中国船出現に米軍機飛来 日本の海上保安の現状』

沖縄の本土復帰後、
日本の南西海域を担当してきた第11管区海上保安本部は
日本の海を守る上で最も厳しい現実に直面してきた。
この海域には中国や台湾が領有を主張する尖閣諸島があり、
さらには東シナ海の海底資源問題などで
領海の最前線は一触即発の危険さえはらみつつある。

第11管区海上保安本部は平成4年3月、
「南西海域の海上保安、20年の歩み」という活動記録を発刊した。
その中に「新海洋時代における領海警備」という記述があった。

「本件は昭和53年(1978年)4月12日午前7時半ごろ、
哨戒中の巡視船『やえやま』が魚釣島の北北西海域に
約100隻の船影をレーダーでとらえたことから始まった…」

わずか21行、1ページに満たない記述は淡々と
漁船による領海侵犯事件を記録しているが、
「五星紅旗(中国国旗)を掲げ、機銃を装備した十数隻の漁船
が退去勧告を受け入れず、領有権を主張した」という表現に目がとまった。
つまり漁船ではなく武装船が事件を起こしていたのである。

「やえやま」は31年前、現場で孤立無援のまま300隻以上の武装船と
対峙(たいじ)した。
当時の海保隊員らの証言を総合すれば第二次大戦後初めて
中国と日本が武力衝突する可能性があった。

「あの日の夜明け前、予定通り石垣島から
尖閣諸島に向った時のことでした。レーダーが異常反応を示したのです。
乗組員全員に緊張が走りました。
最初はレーダーが濃い霧か何かをとらえただけの間違いだろうと
考えたわけですが、現場に到着して目を見張った。
優に300隻を超す漁船や貨物船風の船舶が五星紅旗を掲げ、
自動小銃を抱えた人民服の兵士が乗船していたからです。(中略)」

「われわれには手に負えないと考えた。
午前8時、管区本部に応援を依頼し、
1時間後にはどこからか米軍機が飛来した。
これで助かったと思いましたね。
ところが、米軍機は上空を旋回するばかりで…。
(中略)
そのうち中国船は、どんどん領海内に入り込み、上陸の準備を始めた。
阻止できるのは巡視艇1隻だけ。小型艇に5人ほどの隊員が乗り込み、
退去勧告のため乗り込むことを決意したが、
貨物船と見えた大型船は重機銃を備えつけた武装船とわかり驚いた。
船内のあちこちから軍服を着た兵士とみられる男が自動小銃を構え、
手が震えているのもはっきりと見えた。
われわれはすぐにうつぶせになり、武器のないことを示そうとしたが、
ひとつ間違えれば射殺されていた」

事件の深刻さに気づいた海上保安本部は中国武装船団の発見から2日後に
尖閣諸島警備実施本部を設置、全国から集まった10隻の巡視艇、
4機の航空機で船団を領海外に押し戻したと記述されている。
事件は2カ月後、収束した。

だが、当時の海保隊員らは、
実態は「押し戻したのではなく中国側が断念したからだ」と証言した。

「文化大革命直後の中国軍はまだ近代化にほど遠く、
まともな艦船がなかった。周辺の海図さえなかった。それが断念の背景だ」

さらに武装船が重機銃を装備していたことについて
「(沖縄駐留の)米軍機の反応を確かめる意味があったのでは」と話した。

あれからほぼ30年を経て中国軍の近代化は改革開放による
経済発展とともに急速に進んでいる。
米国防総省が今春、発表した「中国の軍事力に関する年次報告」では、
「中国は2020年までに複数の空母を建造し、
EEZ(排他的経済水域)の権益や領有権の主張を強めるだろう」
と、警告している。

また、中国海洋調査船の活動についても海保幹部は、
「この10年間、中国の調査船の航路に赤線を入れてみると、
東シナ海は真っ赤になってしまった。
沖縄近辺の詳細な海図をすでに持っているはずだ」と、話している。

昨年12月、その調査船2隻が尖閣諸島近くに停泊した。
日本の領海内だ。
だが、退去勧告に対して中国海洋調査船は
「中国領海から退去せよ」と逆に厳しい口調で返答してきたという。
(前田徹)

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尖閣諸島が日本の領土である根拠
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2009/07/30 09:00|年表リンク用資料
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