正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1937年(昭和12年)8月9日、大山事件。

1937年(昭和12年)8月9日、上海において、
日本海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と
運転手の斉藤要蔵一等水兵が車に乗って
支那の軍用空港だった上海虹橋飛行場に視察に向かったところ、
共同租界用の自由通行路上で支那の保安隊に包囲され、
機関銃で撃たれ殺害された。

大山中尉は自動車のわきに多数の機関銃弾を浴びて殺された上に、
頭を青竜刀で割られていた。

斉藤一等水兵は運転台で多数の弾を受けて死んでいた。

支那保安隊の隊員とされる一名も死亡していた。

同日、日本と支那の間で外交交渉が始まり、支那側は
大山中尉がピストルで支那保安隊員一名を殺害したので反撃したと主張。

しかし大山中尉にピストルで射殺されたとする支那人の遺体を
病院で解剖したところ、体内からピストルの弾ではなく
小銃弾が出てきたのでウソがばれた。

また、日中合同調査の報告を受けた海軍省の発表では、
そもそも事件当時、大山中尉は武器を所持しておらず、
斎藤水兵も拳銃をホルスターに入れて
肩に掛けながら自動車を運転していた。

支那人が支那人を殺して死体を大山中尉殺害現場に置いたことが証明された。

日本は船津和平交渉で同日、最初の会談が行なわれたのだが、
その最中にこの事件が起きたのである。
これにより船津和平交渉は交渉初日に頓挫してしまった。

日本総領事は上海市長に対し、国際租界とフランス特権区域の
隣接区域からの支那保安隊の一時撤退を提案した。

しかし同月12日、
蒋介石の支那正規軍が上海国際共同租界の日本人居住区域を包囲し、
翌13日、午前9時半頃、商務印書館付近の支那軍(蒋介石軍)が
日本軍陣地に対し突如、機関銃による射撃を開始して
日本軍との間で戦闘状態となり第二次上海事変が始まった。

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『支那事変は日本の侵略戦争ではない』 鈴木正男著 より引用

上海で支那保安隊に殺害された大山勇夫海軍中尉(右)と斉藤與蔵一等水兵(左)
上海で支那保安隊に殺害された(昭和12年8月8日)大山勇夫海軍中尉(右)と斉藤與蔵一等水兵(左)

◆船津和平工作

昭和十二年七月二十九日、天皇陛下は近衛首相を召され
外交交渉による平和解決を熱望遊ばされた。

この聖旨を体し、通州事件に動ずることなく
外務省及び陸海軍首脳は根本的全面的対支国交調整案を作成した。

参謀本部次長多田駿中将、同第一部長石原莞爾少将もこれに深く参画した。

この案は実に寛大無比な驚くべき日本軍の譲歩を示すものであった。

折柄滞京中の在華紡績同業界理事長・船津辰一郎を通して南京政府に接触し、
平和交渉の糸口を開かんとした。
船津は上海総領事を勤めた支那通で、
その温厚な人柄で日支双方の信用を得ていた。

それではその日支和平提案はどのような物であったか。
骨子は凡そ次の通りである。

(一) 塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定
その他、華北に存する従来の軍事協定一切を解消する。

(二) 特定範囲の非武装地帯を設ける。

(三) 冀東・冀察両政府を解消する。

(四) 日本駐屯軍の兵力を事変前に戻す。

国交調整案

(一) 支那は満州国を承認あるいは黙認すること。

(二) 日支防共協定を締結する。

(三) 排日取締りを徹底させる。

(四) 上海停戦協定を解消する。

(五) 日本機の自由飛行を廃止する。

(六) 冀東特殊貿易(低関税貿易)を廃止し、
非武装地帯海面での支那側密輸取締りの自由を回復する。

この案は要するに、満洲事変以後、我国が獲得した前述の既成権益の
殆ど一切を放棄しようとする寛大極まるものであった。

日本の近衛首相以下軍をも含めての最高指導者は、
これならば必ず平和が到来すると感じていたであろう。

この日支交渉の妥結を最も恐れたのは中共である。
あわてて中共の毛沢東と周恩来が八月九日に南京にかけつけた。

◆大山海軍中尉虐殺と旗艦「出雲」への爆撃

この交渉の第一回目の八月九日に
上海で起きたのが大山海軍中尉事件であった。

この日午後六時半頃、
上海海軍特別陸戦隊西部派遣隊長・海軍中尉(のち大尉)大山勇夫は
斎藤海軍一等水兵の運転する陸戦隊自動車で視察中、
今でも飛行場がある虹橋付近、上海西部のモニュメント路上で
支那保安隊によって斎藤水兵と共に虐殺されたのであった。

当初支那側は大山中尉が支那兵を拳銃で射殺したので、
これはその報復であったと弁明し、その支那人の屍体を示した。

この偽装工作は直に暴露した。
屍体解剖の結果、偽装屍体から摘出されたのは支那軍の小銃弾であった。

大山中尉の屍体は見るに耐えなかった。
全身に大小十八ヶ所の銃創、刀創を受けていた。
これは屍体を車外に引きずり出し、銃剣で突刺したり、
銃の台尻で乱打したり、或いは刀で斬ったりしたもの、
頭部は二つに割れ、顔面半分は全く潰され、内臓を露出し、
心臓部には拳大の穴をあける等、実に鬼畜も及ばない暴行を加えており、
かつ中尉の所持品は軍刀、靴、時計等一切が掠奪されていた。

十四日午前十時頃支那軍空軍十数機が、
停泊中の日本海軍第三艦隊旗艦「出雲」を爆撃した。

これは陸戦隊本部、総領事館、共同租界、フランス租界にも及び、
多数の市民が犠牲となった。

大衆歓楽ビル大世界にいた千人以上の人々、
英人経営のバレスホテルに投宿中の人々二百数十名が死亡した。

我が国は租界の中立を厳に守り、第三国の在支権益を保護したが、
支那側は反対に損害を与えることにより
第三国の干渉を引き出そうとしたのである。

ここに於て日支和平への道は閉され、
本格的全面戦争へと急転直下したのである。
中共とコミンテルンはここまで日本を引きずり込んだのである。
これが支那事変の真相である。

以上の経過で余りにも明らかな如く、
この大山中尉惨殺に端を発した上海事変は
いずれも中国軍がしかけた本格的戦闘、戦争であった。

日本側は少しでも戦線を拡大せずに収めたいという方針から
兵力を最小限に止めて戦った。
そのために四万人という未曾有の犠牲者を出した。

これが上海での戦いであった。
蒋介石の虎の子最精鋭部隊数万もの部隊もそのためにその大部分を失った。

この間にあって、ほくそ笑んだのは一人中共軍であったのだ。
日本は戦争に止むなく引きずり込まれたのである。

これでも日本がおこした侵略戦争と中華人民共和国の主席以下は叫び続け、
日本側はそれに土下座して許しを乞うているのである。
これが現在の日中両国の倒錯した関係である。



「支那」呼称について
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東京朝日新聞 昭和12年(1937年)8月10日
昭和12年(1937年)8月10日 東京朝日新聞

■上海朝日特電8月(昭和12年)9日発

日本海軍特別陸戦隊 午後9時45分発表

陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる
自動車により本日午後5時頃上海共同租界越界路の
モニュメント路(碑坊路)通行中、
道路上にて多数の保安隊に包囲せられ
次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。

現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、
自動車は前硝子が破壊せられ車体は
数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。

右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり
各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、
支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、

夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても
通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは
明かなる停戦協定無視なるのみならず、
共同租界居住各国人に対する侮辱である、
支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。

なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に
多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。

帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に
厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。
なお同中尉は軍服であったことを付記する。

■上海大毎・東日特電10日発

眼を蔽う暴虐の現場

大山中尉、斉藤水兵の死体引取りの一行は沖野海軍武官、陸戦隊山内参謀、
重村大尉、総領事館服部副総事、工部局警察上原副総監、
憲兵隊長塚本大尉など、支那側は市政府秘書張定栄以下警察局員数名、

これに内外の記者団十数名が従い陸戦隊看護婦10名を乗せた救急車とともに
9日午後11時半わが総領事館を出発、
深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。

大山中尉の死体は虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ
碑坊路(モニュメント路)を北行すること約7、8町
鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い路傍、
血の海の中に横たわっていた。

案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に
死体の上を窺うと立会の支那側代表張定栄市政府秘書、
朱英保安隊参謀主任でさえ見るに堪えず思わず眼を蔽う暴行の跡だ。

午後7時半最初に死体確認のため
現場を視察した陸戦隊重村大尉の談によれば、
最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺傷はなかったというから、
これ等は何れもその後死体に加えられた暴行であることが明かで、
その暴挙を敢てするのは全く鬼畜の仕業だ。

傍に横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。
斉藤一等水兵の死体はそれより東方十数米の豆畑の中に
哀れにも仰向けに放り出されてあった。

斉藤水兵は後から身に数弾を受け
運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、
幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。

四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。
午前4時過ぎようやく詳細な検証を終えた。

■上海10日発同盟

明かに計画的

支那側が事件を拡大せしめんとする意図ありと推察される点は左の如く、
上海四囲にて挑戦的体制をとりつつある。

一、北停車場に集結しつつある支那避難民を
危険区域なりとして駆逐しつつあり。

一、事件現場付近に土嚢を構築し保安隊
及び手榴弾を有する警察官を救援待機せしめている。

一、バスを集結して戦闘拡大の場合の兵力集中輸送に備えている。

一、虹橋付近に一個中隊の正規兵が駐屯し
これ等正規兵が日本軍人を射殺せりと確言宣伝していること。

一、事件発生の現場と見られる虹橋飛行場北方凡そ百メートル附近は
虹橋ゴルフリンク付近より飛行場に至る上海西郊一帯は
忽ち武装保安隊による厳戒が加えられている。

■国民、新愛知

支那無根の主張、実地検証で確認

海軍省では上海の大山事件に関し、
12日午後零時30分副官談の形式を以て左の如く発表した。

■海軍省副官談

大山大尉、斉藤兵曹虐殺事件該地検証の結果は左の通りである。

8月10日正午より約8時間に亘り、我が方よりは田尻駐在武官、
山内陸戦隊参謀、吉岡、福井両領事、東川憲兵少尉、

支那側より周市政府秘書長、趙淞滬警備司令部副官、

上海工部局側よりクローチ特察長(英国人)等立会い、実地検証を行ったが、
支那側は事件の直接関係者及び実見者を出さず
主として趙副官我が方の質問に対応し、その言うところ全然条理を失い
只管真相を糊塗せんとして弁明

これ力めたに過ぎず我が方に射殺せられたりと称する支那兵の死体の如きは
現地付近になく検証を行うことが出来ず、
大山大尉等が飛行場に突入せんとし先に発砲せりの支那側の主張については
10日以来所説3度びも更改せる状況にして我方の反問自動車の実地運転により
実証に対し遂に何等明確なる説明出来ず
自動車付近には撃ち殻薬莢等多数あり、

車体の弾痕は小銃機関銃を以て遠距離近距離より
乱射乱撃を行ったものであって、
結局我方より先に射撃せりというが如き事実は全く無根であり、
支那側は被害者両人を車内より引き出し軍服を着用せる我死体に対して
鬼畜に等しい残酷なる行為を加えたることが確認された。

尚お自動車の機械は完全であって
斉藤兵曹の死亡によって停車したものであることも明瞭となった。

昭和12年(1937年)8月11日 東京朝日新聞
昭和12年(1937年)8月11日 東京朝日新聞
【内容】前日の日中合同調査(後述)を受けた海軍省からの発表を元に、
中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、
中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられている。
―――――――
◆作家ユン・チアンとイギリス人歴史学者ジョン・ハリデイの夫婦による
毛沢東の伝記にも以下の記述がある。

1937年8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を
仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本軍海軍陸戦隊の中尉と
一等兵を射殺したのである。
さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、
飛行場の門外で射殺された。
日本側が先に発砲したように見せかける工作である。
―――――――――――――――――
この事件の報告を受け、兪上海市長は岡本上海総領事に、
周(王玉)外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。

日本側は日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。
なお、事件発生直後、日本人武官が現場に赴き、
保安隊中国人の死体がないことを確認しているため、
その死体は後で運んだことや事件現場も飛行場から300メートルの地点で
あることから飛行場に向う意志のなかったことも明らかであった。

8月10日に日中共同の公式調査が行われた。
日本上海領事および駐在武官・上海特別陸戦隊参謀・上海市政府秘書長
・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。
中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は出来なかった。
その結果次のことが判明した。

・大山、斉藤の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、
大山は全身に30発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、
その他の弾痕を含む外傷は中国側が苛虐的に加えたものであること、

・中国保安隊員の死亡は機銃弾によるもので背中から
2発を打ち込まれて即死していたこと、及び当時大山は拳銃を携帯せず、
斉藤も拳銃を肩に掛けながら陸戦隊自動車を運転していたことから、
中国保安隊員の死亡は中国人同士によることがはっきりした。

・これらのことから中国側が主張した日本側から先に発砲した事実はなく、
中国側が射撃を行い、両名の死体を侮辱する行為をおこなったことが
明らかであること。

なお中国側は使用が禁止されていたダムダム弾を使用し、
この死体検死についても中国側は承認した。

この間、中国側の主張は二転三転したが、
日本側は車体の弾痕が遠距離・近距離入り乱れていることなどからも、
保安隊が待ち伏せをし奇襲を行ったと断定した。

また、大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、
死体に対し頭部・腹部などに刃物・鈍器により損傷を与えたと検分された。
また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたと日本の新聞は報じた。

同日、上海のノルウェー総領事アールは、
在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。
当初、日本総領事岡本は固辞したものの、
再三の要請により出席することになった。

この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、
中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から
一次的に撤退すべきであると提案した。

英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう
日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。

同日、閣議で海軍側より陸軍に派兵要請を行い、
4相会議で派兵が決定したが、
これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、
平静を保つように命令した。
またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令は出されなかった。

上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉と斉藤一等水兵の遺体の発見現場の
実地調査を行う日本軍関係者
上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉と斉藤一等水兵の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者

大山事件

1937年(昭和12年)8月9日の大山事件発生を受けての装甲車の出動(8月10日)
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1937年(昭和12年)日支事変 上海戦線 日本領事館前 警察官の警備
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【参考】 Wikipedia 『第二次上海事変』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
【参考】 『正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現』
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41589864.html
1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
2009/07/29 09:00|年表リンク用資料
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