正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変

東中野修道は、日中戦争は日本が土足で侵略したのでなく、
第二次上海事変で中国が先に日本人居住の租界地を襲撃した事で
全面戦争となった事についてあまり知られていない事を批判し、
また、日本人租界区を警護した少数の日本兵が
その何十倍もの中国軍に襲撃される事を
『横須賀の米軍が過激派に襲われたら反撃する』と解説。

自衛隊の元航空幕僚長・田母神俊雄は演説のなかで
この事件を触れていない風潮を批判しており、
蒋介石軍の攻撃を『米軍基地に自衛隊が攻撃を仕掛け、
アメリカ兵及びその家族などを暴行、惨殺するようもの』と述べている。
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以上、BIGLOBE百科事典 『第二次上海事変』 「評価と解説」 より
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/5c/26/66/cf06df30037976dc9335437cfe89006b.htm

当時の上海
当時の上海



支那軍機の航跡
航跡

下記の図で黒い部分は第二次上海事変での消失地域。
赤は1937年8月14日の中国軍の爆弾の着弾地点。
一番左の2つ赤印が大世界(ダスカ)交差点の2発。
左から3,4つ目の赤印がキャセイ、パレス両ホテル、
5つめの赤印の近くの黒い艦影が出雲。
一番左の黄色は8月23日南京路のデパート街に落ちた。
その右の黄色は米軍倉庫に落ちた。川は黄浦江(こうほこう)。
出典「Institut d'Asie Orientale」
黒い部分は第二次上海事変での消失地域。

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1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。

もともと蒋介石は日本に留学経験もあり対日戦には消極的で
共産軍を攻撃していた。
蒋介石は陝西省の延安に追い詰めた壊滅寸前の共産軍に総攻撃をかけるため、
彼の部下である張学良(東北軍)を陝西省の省都・西安に送り込んだのだが、
張学良は共産軍との戦いに消極的であったため、
あとから蒋介石も西安に督戦(監視)に行ったのだが、
すでに共産党に寝返っていた張学良に捕らえられ
共産軍の捕虜となってしまった。

蒋介石は助命の代わりに共産党掃討をやめ、
一緒に日本と戦う事を約束して第二次国共合作が成立し、
絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまった。

※「国共合作」とは国民党と共産党が協力すること。
※「第一次国共合作」は1924年1月20日~1927年。

これにより蒋介石の本隊が上海共同租界の日本軍・日本人を攻撃したが
(第二次上海事変)
蒋介石は日本軍に返り討ちにされ南京に逃げた。
日本軍は追撃して南京を陥落。蒋介石は武漢に逃げた。
日本軍は追撃して武漢も攻略。
蒋介石は重慶に逃げたので日本軍は重慶爆撃を行なった。

これが支那事変であるが、
支那事変の始まりが盧溝橋事件であれ第二次上海事変であれ、
どっちにしても支那側から攻撃して来たのである。
これに対し米英は日本に経済制裁を仕掛け、
蒋介石に軍事援助を続けたのである。

1938年10月26日の武漢三鎮((武昌、漢口、漢陽))陥落により
支那事変の本格的な戦闘は終了し、以後、
米国が支援する蒋介石の重慶政府、
日本が支援する汪兆銘の南京政府、
ソ連が支援する毛沢東の延安政府
による三つ巴の抗争が主流となった。

汪兆銘は1944(昭和19)年3月、南京で病に倒れ、名古屋で治療を受けたが
11月10日、帰らぬ人となった。翌年、日本は敗れ南京政府は瓦解。戦後、
米国は蒋介石への支援をやめたため毛沢東が勝ち、蒋介石は台湾へ逃げた。

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「第二次上海事変」直前の1937年(昭和12年)8月9日、大山事件も御参照ください。

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通州事件(1937年7月29日)直後の上海は非常に不穏な空気に包まれていた。
1932年の第一次上海事変の上海停戦協定に違反して、
支那側は以前から非武装地帯に軍隊を配置し、
ドイツから軍事顧問を呼び、
クリークや2万個以上のトーチカを作るなどして要塞化を進めていた。
盧溝橋事件以来、蒋介石はさらに増派し、
非武装地帯にもかかわらず10個師団と多数の偽装保安隊を配備した。
このほかに、抗日団体、左翼団体が数多くあり、非常に不安が高まった。
そのため、一般の支那人たちは避難のために租界へ流入し始めていた。
上海とその周辺には日本の工場がたくさんあり、大勢の日本人がいる。
通州事件があったばかりで、再び殺戮されかねない状況になっていた。
上海に日本陸軍はおらず、海軍陸戦隊のみであった。

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1937年、支那事変の発端である第二次上海事変の前、
1935年頃から支那側は1932年の第一次上海事変の上海休戦協定を無視し、
呉淞と真茹を結ぶ線の北側の非武装地帯に
軍事要塞線(ゼークト・ライン)を築いて軍隊を配置していた。

支那にいたドイツ軍事顧問団の最高責任者
アレクザンダー・フォン・ファルケンハウゼンが保存していた内部文書。
(ドイツ、フライブルク連邦軍事資料館所蔵)
ファルケンハウゼンが保存していた内部文書_年代

ファルケンハウゼンが保存していた内部文書_地名

ファルケンハウゼンはドイツが国民党軍に武器を供給する際、
その取引可否を決裁する権限を持っていた。

この人物と家族ぐるみで親しかったのが
南京安全区国際委員長でナチ党員のジョン・ラーベで、
ラーベはシーメンス社の武器部門責任者だった。

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国民政府は上海停戦協定違反を認めている。
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『抗戦簡史』中華民国国防部史政処編
和訳は防衛庁防衛研究所戦史室篇「戦史叢書 支那事変陸軍作戦」P280より
━─━─━引用開始━─━―━―━―━―━
民国二十四年(1935年)冬、
張治中にひそかに命じて南京、上海方面の抗戦工事を準備させ、
戦争を避けることができなくなったとき、
わが方は優勢な兵力をもって敵の不意に出て、
上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、
爾後、敵の増援を不可能にしようと企図した。
このため呉淞・上海周辺の各要点にひそかに堅固な工事を築き、
わが大軍の集中を掩護させ、
更に常熟、呉県において洋澄湖・澱山湖を利用し、
堅強の主陣地帯(呉福陣地)を、
また江陰-無錫間に後方陣地帯(錫澄陣地)を構築した。
民国二十五年(1936年)、
幹部参謀旅行演習を実施するとともに、龍華、徐家匯、紅橋、北新涇、真茹、
閘北停車場、江湾、大場江湾、大場の各要点に
包囲攻撃陣地を構築し、呉福〔呉江-福山〕陣地の増強、
京滬〔南京-上海〕鉄道の改築、後方自動車道路の建設、
長江防備及び交通通信の改善、民衆の組織訓練等を実施した。
敵は、わが方がひそかに工事を実施しているのを察知すると、
六カ国共同委員会の開催を要求し各国の同情を得ようとしたが、
わが代表の反対により何の結論もなく散会した。
━─━─━引用終了━―━―━―━―━─━
※閘北停車場-江湾-大場江湾ラインは上海共同租界の目の前
※上海前面の攻囲陣地+常熟~呉県ラインの主陣地+江陰-無錫間の後方陣地
という配列はファルケンハウゼンの資料と完全に一致する。
http://ameblo.jp/26680221/entry-10114586078.html

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1932年5月5日、第1次上海事変の戦後処理の上海停戦協定。

第2条

中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て
追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。
前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。

第一附属書

本協定第二条に定むる中国軍隊の地点左の如し

付属縮尺十五万分の一郵政地図上海地方参照

安亭鎮の正南方蘇州河上の一点より
北方安亭鎮の直ぐ東方のクリークの西岸に沿ひ望仙橋に至り、
次て北方にクリークを越え沙頭の東方四キロメートルの一点に至り、
次て西北揚子江上の滸浦口に至り且之を含む。

右に関し疑を生するときは問題の地点は共同委員会の請求に依り
共同委員会の委員たる参加友好国の代表者により確めらるへし。

上海停戦協定 境界図

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【1937年8月13日~10月26日、第二次上海事変】

1937年8月12日未明、蒋介石軍3万人が
1932年の上海休戦協定に違反して協定線内に侵入し、
上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。

日本領事は1932年・上海休戦協定の締約国である米英仏などで組織する
協定共同委員会を招集し、中国軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行なったが、
反日・親蒋介石で固まっていた列国は全く取り上げようとしなかった。

上海市長は「中国は既に侵略を受けている」との声明を発表し、
最後に喩市長は、「中国軍は攻撃されない限りは攻撃しない、
中国政府として認められるのは、せいぜいそれ位だ」と断言した。

もし米英仏が日本と協力して『1932年(昭和7年)上海停戦協定』の順守に
努力していたなら、上海租界の人々の生命財産は保護され、
第二次上海事変は未然に防止できた可能性は高い。

米英仏は上海停戦協定を中国側に順守させる義務を怠ったどころか、
逆に中国側を教唆煽動し、日本との戦争を助長したのである。

当時、上海の日本海軍陸戦隊は4,000名のみであったため、
海軍は改めて陸軍の派遣を要請した。

翌8月13日午前9時半頃、商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し、
突然、機関銃による射撃を開始した。
日本海軍陸戦隊は応戦したが不拡大方針に基づいて可能な限りの
交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、
防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は
対空砲火を行わなかった。列強各国の調停の申し出を期待したためである。

午後4時54分には、八字橋方面の中国軍が
西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を開始し、日本軍は応戦した。
午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、
戦闘が開始された。

この日には英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、
上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。
また、回避案として以下を提案した。
この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。

・中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
・日本軍は国際租界から撤退する。
・中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊長谷川清海軍中将
(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、
7月からの華北での戦火拡大から考えて、
中国軍はすでに開戦を意図していると察した。

そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。
しかし政府は華北の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。

13日午後9時頃から中国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し攻撃を開始し
小規模な戦闘に突入した。
同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している。

8月14日には日本艦艇をねらった国民党軍機による空襲が開始された。
この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、
民間人2000人ほどの死傷者が出た事に対し、
国民党政府は遺憾の意を表明した。
しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。

又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると
謝った内容の報道をしたこともあった一方、
前日の渡洋爆撃命令を受け、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばし、
杭州や広徳を爆撃している。
九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、
九州の天候が悪かったため延期された。

同じく14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が
国民党軍の攻撃にさらされる。
しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった
(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。
重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。

日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、
さらには日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから
14日夜から緊急閣議を開き、
それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、
8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。
上海派遣軍が編成され、松井石根大将が司令官となった。

日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による
渡洋爆撃をこの日より開始し、
戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、
上海周辺の制空権を掌握していった。

8月18日、英政府が日中両国に対し、
「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を
外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力する
という条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。
仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。

しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。
国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、
日本はそれと対決する以外ないと判断し、
日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。

このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、
各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、
中国軍も列強と戦争を行うつもりはなかったので、
日本以外の租界への侵入は行わなかった。
日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国は
この事件において中立を表明した。

8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で中ソ不可侵条約が締結された。

8月22日、上海派遣軍の3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、
上陸に成功し、
9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐した。
同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、
日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。

10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、
2日後には各所で突破に成功した。

10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、
国民党上海攻囲軍は以後、南京への全面壊走に入った。

【中国軍退却】
10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。中国軍は南京方面へ敗走。
中国軍の退却時には堅壁清野と呼ばれる焦土作戦が行われる事が多く、
この時も中国側の敗残兵により掠奪、破壊、放火などが行なわれた。

上海フランス租界の重要機関は放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵
(民間人の服装をした兵士)とフランス租界の警官との間で銃撃戦も起きた。
上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは
認めながらも残念なことであるとし、一方、中国軍の撤退により上海に
居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして
日本軍に感謝すべきとの論評がなされた。

10倍近い中国軍を壊走させた日本の上海派遣軍は、
10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。

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【海外メディアの報道】
ニューヨークタイムズ 1937年8月30日
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地域的な敵対行動の勃発を回避する試みにより、
ここで開催された様々の会議に
参加した多くの外国政府の代表や
外国の正式なオブザーバーたちは皆、
次の点に同意するであろう。
すなわち日本軍は敵の挑発のもとで
最大限に抑制した態度を示し、
数日間の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を
兵営の中から一歩も外出させなかった。
ただし、それによって日本人の生命と財産を
幾分危険にさらしたのではあるが。
8月13日以前に上海で開催された会議に
参加した1人の外国代表は次のように観ている。
7月はじめに北京の近郊で
始まった戦闘状態の責任は誰にあるのか、
ということに関しては意見が分かれるかもしれないが、
上海の戦闘状態に関する限り
記録の証明している事実は唯一しかない。
日本軍は、ここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、
我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために
出来る限りの全てのことをした。
だが日本軍はChina軍によって文字通り衝突へと
無理やり追い込まれてしまったのである。
China軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、
この衝突のなかに巻き込もうとする意図が
あるかのように思えた。
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ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙 1937年9月16日
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北Chinaでの戦闘に外国列強諸国が
ほとんど注意を払わないでいた間に、
China軍が上海地域で戦闘を
無理強いしてきたのは疑う余地がない。
上海で最後の抵抗をすることによって、
おそらく何らかの形での仲裁なり、
あるいは少なくとも
Chinaの側に立った警告がなされるであろう、
という期待があったのである。
そのうえ、上海北部の地形は
北Chinaの地形よりも防衛行動を行なうのに、
はるかに適していたのである。
さらにChina軍の最精鋭部隊もまた、
この地域に駐留していた。

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【督戦隊に監視される中国軍部隊】
中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた。
このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には
督戦隊との衝突が何度も起きた。
特に10月13日午後楊行鎮方面呉淞クリーク南方に
陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は
数度の激しい同士討ちを行った。

これは戦場に到着した第十九師の部隊が
直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、
そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に
後方にあった督戦隊と衝突したものである。

日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、
督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している。
10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方に
さらに死刑の権限を持った督察官を派遣して
前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている

※当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の
三行政区域に分かれていた。
自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、
仏軍2050人、伊軍770人がいた。

国民党軍機から爆撃を受けたキャセイホテル前の惨状
国民党軍機から爆撃を受けたキャセイホテル前の惨状

誤爆されたキャセイホテル前

昭和12年(1937年)8月14日 東京朝日新聞 号外
昭和12年(1937年)8月14日 東京朝日新聞 号外

昭和12年(1937年)8月15日 東京朝日新聞
昭和12年(1937年)8月15日 東京朝日新聞

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【上海1937年8月14日(昭和12年)発同盟】
午後四時半支那側の連続的空爆でバンド北京路先の埠頭に落下した爆弾は、
折柄午前中の空爆で虹口、楊樹浦方面から
殺到した数万の避難民の真中に落下し、死傷者無数、
上海随一の華麗街南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、

或は片手を奪われ或は頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り
上海一の国際社交場カセイ、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等が
めちゃめちゃに粉砕された窓ガラスに傷ついて狂気のように泣きわめいて、
道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして
踏み殺された小児等、思わず目を蔽わしめる惨状である。
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【上海1937年8月14日(昭和12年)発同盟】
支那軍の空爆によって最も惨劇を呈しているのは上海目抜きのカセイホテル、
パレスホテル一帯で、南京路カセイホテル玄関前に二発落下し、
避難民殺到中だったため死者百数十名負傷者百名を出し、
街道は死の山、数十台の自動車は粉砕され名状すべからざる惨状である。

未曾有の惨事といっても過言にあらず、その惨劇は語るに絶するものあり。
目下各国の救護班が出動、死傷者を収容中である(以上、14日 朝日 号外)。
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【上海1937年8月14日(昭和12年)発同盟】
血迷った支那軍は上海全市にところかまわず無数の爆弾を投下、
外国人、支那人多数を殺傷しつつあり、
この残虐行為に各国領事団は早くも活動を開始し、
不法極まる支那の責任を厳重に問わんとしつつあり。
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【上海読売特電14日発至急報】

14日午前10時支那空軍重爆機3機編隊でわが陸戦隊本部を襲撃し、
わが方は高射砲、高射機関銃で猛撃、同15分虹口地帯に飛来、
居留民密集地帯に爆弾投下、更に同20分8八機編成で虹口に飛来爆弾投下、
目下高射砲で一斉射撃を加えている。

支那飛行機の投下せる爆弾の一つは
わが総領事館に隣接せる招商局碼頭付近に落下、
目下火災中、右は総領事館○○を狙ったものである。

支那空軍の爆弾投下の報に○○○○に待機中の我が空軍は
直ちにこれを撃滅すべく出動し敵陣めがけて
盛に爆弾を投下し北支事変以来最初の壮烈なる空中戦は茲に愈よ展開された。

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爆音渦巻く上海!
【上海1937年8月14日(昭和12年)発・都特派員 原 勝】
在留邦人3万は日本人小学校、東本願寺に避難して、
不安と恐怖の中に13日の夜を迎えた。

夜来台風のあおりを受けて雲行き怪しく、
今暁四時ごろからは本格的の暴風雨と化した。
籠城している避難の邦人は刻々の情勢に一喜一憂、
蒼醒めた顔を見合って全く生きた心持もしない有様だ。

我軍の猛攻撃を受けて、一旦静まりかえった支那軍が
午前2時ごろから再び逆襲して来て
海軍武官室横浜橋地区には盛んに砲声が聞え、
陸戦隊の断乎応戦、閘北虹口路や北四川路アイシス劇場付近等にも
執拗な敵の襲来に皇軍が撃退しているなど戦況は夜通し続いた。

かなり遠いのであろうが地響きのような砲声は間断なく続き、
青雲路付近や東部工業地帯北方に起った火災は
物凄い火焔を雨中の空に冲している。

日本刀を携えた我自警団員がずぶぬれになって
★【便衣隊】の警戒に当っているのが、
この明かりの中にほの赤く見えるのも悲壮の限りだ。

夜がほのぼのと明けそめる頃から新公園、八字橋方面の砲声は
益々加って壮烈な払暁戦が開かれているのが手にとる様に判る。

8時半頃北停車場付近に又も猛烈な戦闘が始まったとの報が入った。
僅か○○○位の寡兵で我陸戦隊の果敢な此応戦には
全く感謝と昂奮ですぐ涙ッぽくなる。

北停車場に我方の一弾が命中した時は物凄い黒煙の中に
支那兵の体が中空へ吹きあげられているのがはっきり見えた。
とこれは自警団員の避難民への報告だ。

一同万歳を叫び、ボロボロ涙をこぼしているのもある。
泣き叫ぶ子供を抱えて汗にまみれた浴衣振り乱れた髪の婦人が
絶えず窓を震わせる砲声におののいている姿は、
数日前北平籠城当時記者が自ら体験した情景にも増して凄惨だ。
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カセイ・ホテル修羅場化す
【上海1937年8月14日(昭和12年)発同盟】
支那軍のノースロップ爆撃機四台は午後4時過ぎ再び上海上空に飛来したが、
敵はバンドの税関碼頭に4発の爆弾を投下した。

爆弾は税関前の河中に落下し
その反響で税関家屋の窓ガラスは滅茶滅茶に破壊された。

我軍の猛撃手強しと見た支那機は倉皇として機首を西方に転じて遁走した。
血迷える支那機は次で英人経営のバレス・ホテル並に
カセイ・ホテルに爆弾3発を投下しうち一発はパレス・ホテルに命中、
屋根を貫いて地階に達しホテルの被害は甚大である。

南京路に面したホテルの壁は破壊され、直ちに消防隊の出動を見た。
更に爆弾2発は同じく英人経営のカセイ・ホテルに命中、
南京路、四川路に面した一帯数百枚の窓硝子は悉く破壊された。
内1発はホテル七階の窓硝子を貫き他の1発は表玄関の庇を貫き地下に達した。

バンド一帯に密集した支那民衆は爆撃機現わるると見るや
安全地帯を求めて南京路に移動カセイ・ホテル、パレス・ホテルの一帯に
密集していたが爆弾の投下で
二百余名の支那人避難民並に外人8名は惨死した。

内1名は妙齢のダンサーで爆弾のため頭蓋骨を削られ「水を飲まして呉れ」
と絶叫しながら縡切れた。
更に米国人はギャング物で有名な小説「ピアース・ツウ・クライム」
を手に握ったまま街上に斃れた。

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『再審「南京大虐殺」』竹本忠雄・大原康男より

1931年9月に満州事変が起こり、翌32年3月に満州国が建国された後も、
中国本土との境界である長城線を挟んで日中両軍は何度も交戦した。

しかし日本が国際連盟から脱退してから2ヶ月たった1933年5月、
塘沽で停戦協定が結ばれ、華北に非武装地帯が設けられて
両軍が撤退したことで、1年8ヶ月ほど断続的に繰り返された両国間の戦闘も
ようやく終息した。

以後、盧溝橋事件までの4年余の間には日中間に本格的な戦闘はなく、
一種の戦間期ともいうべき平和が保たれた時期である。

蒋介石が領導する中国の国民政府は塘沽協定前後から準備してきた
第五次掃共作戦
(1930年頃から敵対関係にあった中国共産党軍を討伐する軍事作戦)
を1933年10月に発動、35年には中共軍を辺境の延安に追い込んだ。

しかし、翌36年12月の西安事件によって国民政府は中国共産党との間に
「抗日民族統一戦線」を結成する第二次国共合作
(中国国民党と中国共産党の合作)へと方向転換をし始めた。

このように日中間が再び緊迫化してきた中で盧溝橋事件が勃発したのである。

ところで、1899年に起こった義和団事件を契機に、
英米仏伊日の五ヶ国は1901年、
清国政府との間に「北清事変最終議定書」を結んでいた。
この議定書に基づき、米国などとともに
日本も居留民を保護するために北京近郊に軍隊を駐留させていた。

そして1937年7月7日、日本軍の駐屯部隊が北京西郊の盧溝橋付近で
夜間演習を行っていたところ、
突然、中国軍と見られる方向から数発の銃撃を受けた。
これをきっかけに日中両軍が衝突した。これが運命の盧溝橋事件である。

当時の日本は中国との戦争を望んでいなかった。
昭和天皇も事変不拡大を強く希望されていた。
そこでただちに現地軍に「不拡大・局地解決」を命じ、
4日後には現地で停戦協定が結ばれたが、
その停戦協定を中国側は守らなかった。

その危険に直面して日本は7月27日に
内地の三個師団を華北に送ったのである。
その二日後の29日には中国の保安隊が
日本人居留民二百数十名を虐殺する"通州事件"が起こっている。

※7月25日廊坊事件、7月26日広安門事件

それにもかかわらず日本政府はあくまで平和的解決を求め、
和平案を策定した。
その和平案というのは、満州事変以降の日本の在華権益を
すべて白紙に返すというもので、日本側の大幅な譲歩であった。
この和平案に基づく最初の日中交渉が8月9日に上海で行われた。

しかし、その日に上海で、日本の海軍特別陸戦隊の
大山勇夫中尉と斉藤嶼蔵一等水兵が中国軍によって惨殺され、
この平和交渉はたちまち瓦解したのである。
※8月9日大山事件

しかも中国国民政府は、
日本人居留民が多数いた上海に三十個師団もの軍隊を集中させ、
8月13日、上海の海軍陸戦隊本部を攻撃した
(最終的に七十個師団もの兵力を上海に集中させた)。
かくして戦火は華北から上海へと飛び火したのである。
当時、上海の居留民を守る日本の兵力は、
わずか4千人の海軍陸戦隊だけだった。陸軍は一兵も存在しなかった。

そこで、日本は上海派遣軍の編成を下令、
これを上海に派遣し、従来からの不拡大方針を放棄したのである。

蒋介石はドイツ軍事顧問団の協力によって訓練された最精鋭の部隊が
集中している上海に日本軍を引き込む作戦を採り、
そして成功したのである(第二次上海事変)。

上海では日本軍の苦戦が続いたため、
11月5日、日本は新たに第10軍を杭州湾北岸に上陸させ、
上海の中国軍を包囲する作戦に出た。
この作戦が功を奏して中国軍は敗退し、
9日、その一部は首都南京に向けて退却を始めた。

その2日前の7日には上海派遣軍と第10軍を統一指揮するために、
松井石根大将を軍司令官とする中支那方面軍が編成されていたが、
この部隊が南京攻略を担当することになる。

この間、日本政府は早期停戦を望み、ドイツに和平仲介を依頼した。
トラウトマン駐華大使が本国政府の指示を受けて交渉を行ったが、
結果的にはこの斡旋の努力は実らなかった。

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『マオ~誰も知らなかった毛沢東』ユン・チアン&ジョン・ハリディより

第二次上海事変

ニューヨーク・タイムズの特派員で消息通のH・アーベンドは、
後にこう回想している。

『一般には・・・日本が上海を攻撃したとされている。
が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。
日本は長江流域における交戦を望まなかったし予期もしていなかった。
8月13日の時点でさえ、日本は・・・この地域に非常に少ない兵力しか
配置しておらず・・・18,19日には長江のほとりまで追い詰められて
河に転落しかねない状況だった。』

アーベンドは、
「交戦地域を河北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」
の存在に気づいた。確かに、そうした計画が存在したという点について、
アーベンドの読みは当たっていた。アーベンドが読み切れなかったのは、
計画の首謀者が蒋介石(アーベンドはそう思っていた)ではなく、
ほぼ間違いなくスターリンだった、という点である。
(中略)
張治中は回想録の中で「1925年夏、私は共産党に心から共鳴し・・・
『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた・・・
わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」
と書いている。

周恩来は張治中に対し、国民党の中にとどまって
「ひそかに」中国共産党と合作して欲しい、と要請した。
(中略)
8月9日、張治中は蒋介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。
張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の
中尉と一等兵を射殺したのである。
さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、
飛行場の門外で射殺された。
日本側が先に発砲したように見せかける工作である。
日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、
張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻め立てた。
(中略)
張治中は、「本軍は本日午後5時を持って
敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次の通り・・・」
と蒋介石に迫った。
14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、
さらに日本海軍陸戦隊及び地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃を行った。
張治中は総攻撃を命じた。

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阿羅健一 歴史通2011年3月号より

ここで登場するのが、ドイツ軍再建にあたったゼークト大将である。
ヴェッツェルのすすめで中国を訪れたゼークトは北支の実地調査を行い、
蒋介石に対して意見書を提出した。

そのなかに、すでに
「日本一国だけを敵として、ほかの国とは親善政策をとること」
という注目すべき指摘がある。

蒋介石はゼークトの顧問就任を強く要請し、
ヒンデンブルグ大統領とマッケンゼン元帥の勧めもあって、
昭和9年(1934年)、ゼークトは、
顧問団団長・中国軍事委員会の総顧問に就任した。
蒋介石に代わって軍と政府に命令を発する権限まで与えられたのである。

ヴェルサイユ条約で、外国の軍事援助に関わることは禁止されていたから、
これまで顧問団員は個人の立場で中国政府と契約し、
ドイツ政府は関与していないことになっていたが、
この頃から国家として公然と援助を行うようになった。

ゼークトは中国軍の改革を推し進め、中央士官学校、陸軍大学校、
歩兵学校をはじめ数多くの教育機関を南京に設立した。
さらに杭州には航空士官学校、福建省には海軍兵学校が作られた。
中国軍の士気は高まった。

ゼークトの指導の下で掃共戦は順調に進み、
中国軍増強三カ年計画が終了すると、ゼークト大将は病気治療のため帰国。
アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将があとを引き継ぎ、
さらに中国軍の近代化を推し進めた。

バウアー大佐訪中以来、ドイツ軍事顧問団は中国軍を訓練し、
装備を近代化し、軍閥と中国共産党との戦いでは作戦を指導した。
三十名ではじまった顧問団は
昭和12年(1937年)5月には百名を超えるまでになった。
もちろん、これらは世界に公表されなかった。
そしてドイツ顧問団は日本軍との戦いも指導することになる。

昭和7年(1932)1月に勃発した第一次上海事変では、
中国軍はヴェルツェル中将ら軍事顧問団が訓練していた
第87師と第88師を投入した。
直接ではないにしろ、これが日本軍との戦いに
ドイツ顧問団がかかわった最初の事例である。
続くゼークト大将とファルケンハウゼン中将は、戦術だけでなく、
戦争指導にまで関わるようになった。
対日敵視政策、対日強硬策を進言したのも彼らだった。
「いま中国がやらねばならぬことは、
中国の軍隊に対して日本への敵愾心を養うことだ」というゼークトの進言は、
蒋介石だけではなく中国の軍人の思想を貫き、それが核となって、
やがて中国人全体の反日感情へと発展していった。

さらに、ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、
昭和10年(1935年)10月には、
漢口と上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案した。

蒋介石は直ちに日本と戦うというファルケンハウゼンの考えに反対だった。
それでも、ファルケンハウゼンは執拗に対日戦を主張した。

昭和11年4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した。
「ヨーロッパに第二次世界大戦が起こって、
英米が中国の争いに介入する余裕が無くなる前に、
中国から日本に戦争を仕掛けるべきである」というのである。

日独防共協定のおよそ半年前に、
ドイツ軍人はこのような画策を行っていたのである。

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中国空軍機によるキャセイホテル前の爆撃直後の写真。
イギリス軍が被害状況を調査している。
当初、中国側は日本軍による爆撃だと発表したが、
イタリア製の爆弾が使われていたことが判明し、
イタリア製の爆弾を使用していたのは中国空軍だったので、
中国空軍による誤爆であることがバレた。
中国空軍機によるキャセイホテル前の爆撃直後の写真。

南京路
南京路



惨状

キャセイ・ホテルに隣接するパレス・ホテル前。
前面の道はバンドで、見物人が多く、もっとも被害者が出た。
この日早朝から、国府機が『出雲』を爆撃するという噂が流れており、
バンドのビルの屋上や路上は大量の見物人であふれていた。
Palace Hotel

西蔵路と愛多亜路の交差点
交差点

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ニューヨークタイムス上海特派員 1937年8月27日 香港発 特電
(Chinaの検閲を避けて事実を伝えるため上海ではなく香港から発信)
↓↓↓
上海の国際租界およびフランス特権区域に
居住する無力な一般市民を、
China軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、
武力手段または他の抑止策をとることについて
何らかの国際的な合意が必要であるということは、
上海在住の外国の領事館員や陸海軍スタッフたちの
一致した見解となっている。
・・・・・
Chinaの検閲官は発信された外電やラジオ通信から
前述の事実や意見を削除した。
そして場合によっては外電のニュースそのものを
変えてしまいさえもした。
その目的は、現地の外国人たちが、あたかも心の中で、
この爆弾は、おそらく日本軍の飛行機から
投下されたものかもしれない、
と疑っているかのように見せかけるためだったのである。
だが しかし これは明らかに真実ではない。
――――――――――
ニューヨークタイムス上海特派員 1937年9月6日 香港発 特電
↓↓↓
China軍は、この爆弾は日本軍の飛行機から投下されたものである、
と宣伝することによって責任を拒否した。
しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも
Chinaがイタリアから購入したイタリア製のもの
であることが判明している。
この判明した事実について、
アメリカとイギリスの現地の海軍調査官の意見は一致している。
そしてイタリア当局も、この爆弾が自国製であることを認めている。
これは決定的な証拠であるように思える。
なぜならばイタリアは、日本がイタリアから、
そのような軍需物資を購入したことは一度もない、と証言しているからだ。
―――――――――――――――――
ワシントンポスト上海特派員マーク・J・ジンスボーグ
↓↓↓
24時間以内に、この宣伝広報局は重大な訂正を発表し、
われわれ特派員スタッフの完璧なる調査によって、
問題の爆撃機は日本軍のものではなくて、
China軍のものであることが判明した、
ということを内外に通告した。

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中国空軍機による爆撃直後の大衆娯楽センター「大世界(ダスカ)」前の交差点
中国空軍機による爆撃直後の大衆娯楽センター「大世界(ダスカ)」前の交差点

南京路の大世界(ダスカ)娯楽センター。
屋根に命中し、中にいた行楽客が多数死亡した。


大世界前


大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への
中国軍機の爆撃による民間人被害者


中国空軍によるフランス租界の大世界(ダスカ)前交差点への誤爆は、
ダスカ周辺の建物、市民に大きな被害を出した。
フランス政府は中国側に抗議した。

イギリス紙 「THE TIMES」 の記事

「フランスの抗議と警告」 パリ発 8月15日(1937年)

フランス政府は、中国南京と上海の政府高官に、
フランス租界への爆撃の抗議を行った。

日本側、中国側双方に対して、フランス租界上空での空中戦は許容できず、
もし停止されない場合は、しかるべき措置を取らざるを得ないと伝えた。

現時点でヨーロッパ人をフランス租界から避難させるつもりはないが、
外務大臣はその可能性はなきにしもあらずだと語った。

中国軍広報は、「昨日の悲劇を後悔している。
爆撃は偶然のアクシデントのようで、今後繰り返されないことが望まれる」
と発表した。
中立を貫くフランス政府は、上海における権利保護のために
あらゆる手段を用いることを決意した。

日本の内閣発表と、土曜日に上海で死亡した外国人の名前は9ページに、
写真は14ページに掲載。

イギリス紙 「THE TIMES」 の記事 「フランスの抗議と警告」 パリ発 8月15日(1937年)

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1937年9月発行の英字月刊誌「THE CHINA JOURNAL」のTALES OF OLD SHANGHAI

別の中国空軍機は、明らかに高射砲の破片が命中しており、
北西方向へ逃げていた。

チベット路(西蔵路)とエドワード二世路(愛多亜路)の交差点、
そこは上海で最も賑やかな場所で、
なおかつその日は避難民の波でぎっしり埋め尽くされていたが、
目撃者は目を疑った。

なんと二発の爆弾が投下されたのだ。
この爆弾はその交差点のほぼ中央に落ちた。
一発目は地面に大きな穴をあけ、
もう一発は地面の数フィート手前の空中で爆発した。

その結果は人類がいまだかつて見たこともない虐殺の光景だった。
数秒後、千人以上の人が死の爆風と破片を浴びた。
多くは交差点を横切る恐怖の一撃により身体を引き裂かれ断片となった。
その他の人は見る影もなく、腕、脚、そして頭部までもが四方に散らばった。

十数台のクルマがスクラップになり、爆弾の破片で穴だらけとなり、
あるいは炎上し運転手は炭になった。
頭上の電線は爆発で切れ、ムチの一振りとなってさらなる被害をもたらした。
ここで亡くなった人以外に数百名が負傷し、
多くは路地裏へ這って逃れた末に息絶えた。外国人も死亡した。

なぜこんなに人でごった返す場所に爆弾が落とされたのか、
意見が分かれている。

中国当局は、爆弾のつり下げ装置が(日本軍の)高射砲によって
破壊されていたと公式発表した。

確かな目撃者達の意見をまとめると、
高射砲が飛行機に当たったためパイロットは我を失い、
爆弾を捨て去ろうとした。
明らかに近くにある競馬場の空地に落とそうとしたようだ。
彼はなんとか中国側エリアまで破損した飛行機を飛ばして着陸した。

しかし着陸と同時に飛行機がつぶれてしまい、
爆弾つり下げ装置が破損していたのかはついに分からずじまいとなった。

One of the other Chinese bombers, apparently hit by shrapnel from
the anti-aircraft guns, turned back and proceeded in a
north-westerly direction.
When it was over the junction of Tibet Road with Avenue Edward VII,
at all times Shanghai's most crowded corner and particularly so at
this moment with the huge influx of refugees,
spectators were horrified to see two bombs released.
These fell almost exactly in the centre of the big street crossing,
the first striking the ground and tearing a huge hole,
the other detonating in mid-air a few feet above ground.

The result was a scene of slaughter that has probably never before
been witnessed by man. In less than a second over a thousand people
had received their death blows, many being torn to pieces by
the terrible blast that swept the square, others mutilated beyond
recognition, arms, legs and even heads being scattered
about in all directions.

Dozens of motor cars were reduced to scrap-iron,
riddled with flying fragments from the bombs or set on fire,
their occupants charred to cinders.
Overhead electrical cables, broken by the explosions,
whipped about causing further destruction.
Besides those killed on the spot hundreds of people were injured,
many of them crawling away to die in side alleys.
Several more foreigners were killed here.

Opinions differ as to just how these bombs came to be loosed over
this crowded area, the Chinese official statement being that
the bomb-rack had been damaged by anti-aircraft fire.
The general opinion of competent observers of the tragic happening
seems to be that the pilot, hit by shrapnel, lost his head and
released the bombs in an endeavour to get rid of them,
apparently trying to drop them on the open space of the nearby
Race Course. He subsequently succeeded in landing his damaged
machine in Chinese occupied territory, where it is reported to have
pancaked on landing, so that it will never be known
whether or not its bomb-rack really was damaged.

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ニューヨークタイムズ 1937年8月16日

米国の旅行団一行は上海の危険から逃れる

爆弾によって殺されたライシャワー博士の一行はフランス租界へ

8月15日(AP)上海

上海事変に出くわしたアメリカ人の東洋旅行団の10人のメンバーは、
今日木曜日、彼らのリーダー役を務めたプリンストン大学の
ロバートカール・ライシャワー博士なしで帰国する準備を開始した。
彼は昨日、爆弾の破裂によって死亡した。

日本の汽船立田丸で脱出する人は、
ミズーリ州セントルイスのレオDrey、
ミシガン州ハーバービーチのジョージ・スクラントン ニューヨーク市の
ジェーン・ガストンとアンソニー・コーネル。
ミネソタ州ManukatoのウィリアムVerhage。
ボストンのアリス・マクギニス。
ニュージャージー州プリンストンのポール・アモス。
フィラデルフィアのジョン・マスランド。
マサチューセッツ州Harwichportのハーラン・クレランド、
そして現在のリーダーを務めるカルフォルニア州フレスノの
ロバート・ポッター博士。

「今は私たちは皆、大丈夫です。これはかなりの冒険となりましたが、
私は早く家に帰りたいです」と、アモスは言った。

彼は爆撃について説明した。

「旅行団はアスターハウス(注:日本人地区にあるホテル)が
危険であると感じ、パレスホテルに移りました」

「メンバーの大部分は、昨日はブリッジをやっていました。
私は、黄浦江沿いに歩いていました。すると、突然中国軍機が、
戦闘隊形を組んで日本の巡洋艦出雲に向かって来ました」

「出雲が高射砲を撃ち始めました。 私はホテルに向かって走りました。
すると、中国の爆弾が私から40ヤードのところで爆発しました。
すべてがめちゃくちゃでした。爆発はびっくりするほど大きかったです。
ガラスの巨大な砕片が窓から道路に落ちてきました」

「道路には、遺体が多数横たわり、みな引き裂かれて、ゆがんでいました。
ホテルに着くと、電話でライシャワー博士が大けがをしたことを知りました。
われわれ旅行団は、手荷物をアメリカ領事館に移し、
その後、フランス租界のアパートメントホテル移しました」

NY TIMES August 16 1937

U.S. TOURISTS FLEE SHANGHAI DANGERS

Party That Dr. Reischhauer, Killed by Bomb,
Had Headed Is in French Area

SHANGHAI, Aug. 15 (AP). Ten members of an American Oriental
tour party that was caught in the Shanghai fighting prepared today
to depart home Thursday without their leader,
Dr. Robert Karl Reischauer of Princeton University.
He was killed by a bomb explosion yesterday.

Those who will leave aboard the Japanese steamer
Tatsuta Maru are Leo Drey of St. Louis, Mo.;George Scranton of
Harbor Beach, Mich.; Jane Gaston and Anthony Cornell of
New York City; William Verhage of Manukato, Minn.;
Alice McGinnis of Boston; Paul Amos of Princeton,
N.J.; John Masland of Philadelphia; Harlan Cleland of Harwichport,
Mass,, and Dr. Robert Potter of Fresno, Calf., now the leader.

"We are all O.K. and this is a great adventure
but I wish I were home," Amos said.
"The tour party moved to the Palace Hotel believing the Astor
House unsafe," he said, describing the bombing.
"Most of the members were playing bridge yesterday but I was
walking along the Whangpoo-River when I saw Chinese airplane flying
in battle formation toward the Japanese cruiser Izumo.

"The Izumo fired. I ran toward the hotel and a Chinese bomb landed
forty yards from me. Everything was Chaos. The detonation
was stunning. Huge slivers of glass fell to the street from windows.
"The street was lined with bodies, torn and mangled.
"I finally reached the hotel and learned by telephone that
Dr. Reischauer was injured. Our party moved its baggage to the
United States Consulate and later to an Apartment hotel
in the French concession."

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少しずつ細かい点が、資料によって違いますが、
だいたい同じような流れです。

1937年、第二次上海事変の詳細

◆8月9日

大山事件が起こり、船津和平工作が頓挫。

◆8月11日~12日

支那の偽装保安隊1万2000人が第一次上海事変の上海停戦協定を無視して
協定線内に侵入し、陣地構築を開始。上海は俄然緊迫の度を増した。

日本海軍陸戦隊は兵力不足のため支那側の挑発行動に対して
対抗措置を取ることを控えてきたが、一触即発の状況が現出するに及び、
やむを得ず邦人居留者が多い所に警備兵を配置することにした。

◆8月12日

蒋介石軍、日本総領事館と商社の電話線を切断する。

12日夜は陸戦隊の慎重な警備により、事端を発することなく過ぎる。

◆8月13日

蒋介石軍が租界から外に通じる道路を全て遮断する。
日本軍との緩衝用に、多くの支那一般市民も疎開内に閉じ込められる。

9:30、支那便衣隊が日本の陸戦隊に対して、突如、機関銃で銃撃。

午後、再び警備兵に対して機関銃射撃が行われた。

不拡大方針に基づき、日本軍は応射せず。

17:00頃、支那軍は数か所の橋を爆破するとともに砲撃を開始。

上海海軍特別陸戦隊司令官は「全軍戦闘配置につき警戒を厳にせよ」と下令、
日本軍はクリーク対岸の敵拠点を焼き打ちして、その気勢をくじいた。

夜、日本政府・陸軍中央は現地海軍からの要請に基づき、
内地2個師団の上海派遣を決定。

◆8月14日

10:00、支那爆撃機数機が上海上空に飛来、日本の陸戦隊本部、
総領事館、軍艦、船舶の他、市街地にも爆弾を投下。

夕刻、支那の爆撃機十数台は黄浦江に停泊中の日本軍の旗艦「出雲」に
編隊爆撃を試みるが命中せず、日本の高射砲や機関銃の猛射により
一機は撃墜され、他の爆撃機は血迷って共同租界、フランス租界へ
ところ構わず爆弾を投下して逃げた。
このため無辜の市民多数が犠牲になった。

イギリス人経営のパレス・ホテルとカセイ・ホテルも爆撃され、
外国人を含め、2百数十名が殺害される。
この中には後の駐日大使となるライシャワーの弟も含まれていた。

結局、空爆により計3600名あまりが死傷。

日本が欧米からの要請に応じ、撤兵を決定したあとにこの盲爆が行われた。
蒋介石はこの攻撃によって上海における第三国の権益に損害を与え、
対日非難を引き出し、国際問題にしたかったかのようだ。

支那軍の先制攻撃に対し、日本海軍航空隊も
この暴状を懲らしめるため夕刻より各地の敵飛行場を爆撃。

日本政府は二個師団の動員令を下す。

◆8月15日

日本軍は荒天をついて南京・上海方面に対して渡洋爆撃を敢行し、
敵空軍基地に打撃を与えた。

支那は全国総動員令を下し、大本営を設置して
蒋介石が陸・海・空三軍の総司令に就任し、
政治・経済・軍事にわたる広範囲な戦時体制を実施。
かくして日本と支那の全面戦争へ突入することとなった。

日本政府は上海の盲爆を受け、
「上海派遣軍(軍司令官・松井岩根大将)」の編成派遣を下令。
派遣軍の任務は、
「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、
上海並びにその北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」
というものだった。

◆8月24日

当時、陸戦隊は十数倍の支那軍と対峙して苦戦していたため、
上海派遣軍は応急動員のまま出発、
8月24日未明より呉松およびその上流揚子江岸に上陸。

◆9月2日

閣議で「北支事変」を「支那事変」と改称することに決定。
クリークとトーチカによる支那軍15万の抵抗は激しく、
日本軍の攻撃は9月に入ってから停滞し、兵員の損害も急増。
統帥部は台湾から1個師団、内地から3師団、野戦重砲旅団などを増派。

◆10月20日

統帥部は上海戦の膠着状態を打開するために第十軍を編成。

◆10月下旬

激戦の末、支那軍は撤退を開始。
上海派遣軍は進撃に移る。

◆10月26日

日本軍は大場鎮を占領、進んで蘇州河を超える。

◆11月2日~

蒋介石、第一次トラウトマン和平条件を拒絶。

◆11月5日

第十軍、杭州湾上陸作戦を実施。

◆11月7日

上海派遣軍と第十軍を合わせて「中支那方面軍」が編成され、
松井岩根大将が軍司令官となる。
(この中支那方面軍が国民政府の首都南京を目指すことになる)
陸軍中央は、戦闘を上海地区に局限する考えで、
中支那方面軍司令官に対して作戦地区を蘇州~嘉興の線以東と指示する。

◆11月9日

日本軍が大上海全地域を制圧。
11月8日までの上海戦における日本軍の戦死者は9015名、
負傷者は3万1257名に及んだ。

この戦いは日本にとって
日露戦争の奉天会戦以来の大規模なものとなってしまった。
世界的にも、このような塹壕突破戦は第1次大戦以来のものであった。

ちなみに南京占領までを合算すると、
戦死者は2万1300名、負傷者は5万余に達する大激戦となった。

◆11月19日

蒋介石の南京国民政府が首都を重慶に移すことを決定。

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1937年8月14日、日本海軍航空隊の96式陸上攻撃機が、台湾や九州から
南京、上海、杭州へ、世界初の長距離「渡洋爆撃」を敢行した。
18機が出撃。被撃墜2機。
燃料切れで基隆(きりゅう)港外の社島付近の海上に不時着水1機。
松山飛行場での着陸時に大破1機。
中華民国側は戦闘機2機が不時着。
96式中攻の針路

日本海軍、台北松山飛行場
日本海軍、台北松山飛行場

96式中攻の初出撃を前に訓示

松山飛行場のエプロンから滑走路へ

編隊

日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機。1937年8月、台湾や九州から、南京や上海や杭州へ、世界初の長距離「渡洋爆撃」を敢行。

日本の空母『加賀』からも支那空軍基地を爆撃するために出撃した。
加賀

日本海軍陸戦隊
日本海軍陸戦隊

日本海軍陸戦隊の装甲車
日本海軍陸戦隊の装甲車

上海の日本海軍特別陸戦隊本部
上海の日本海軍特別陸戦隊本部

本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊
本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊

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■Wikipedia 『第二次上海事変』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

◆漢奸狩り

中国では日中戦争が本格化すると漢奸狩りと称して日本軍と通じる者
あるいは日本軍に便宜を与える者と判断された自国民を
銃殺あるいは斬首によって公開処刑することが日常化した。

上海南市においても毎日数十人が漢奸として処刑され、
その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた。

戒厳令下であるため裁判は必要とされず、
宣告を受けたものは直ちに処刑され、
その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。

『上海-支那事変後方記録』にそのナレーションがあった。
中国政府の国民対策であったこのテロの効果を求めた新聞の漢奸処刑記事は
かえって中国民衆に極度の不安をもたらした。

■Wikipedia 『漢奸』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%A5%B8%E7%8B%A9%E3%82%8A

◆日中戦争中の「漢奸狩り」

国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを
恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、
スパイ、漢奸と見なし白昼の公開処刑の場において銃殺したが、
その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、
国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における
漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていたが、
この大量虐殺によるテロ政策を
連日続けていたため暴動の勃発は抑えられていた。
前線に出た中国軍には掠奪など一切の暴虐が正式に許されていたが、
中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県住民は
漢奸として火焙りにより処刑されている。

中国兵が使用した晒し首を入れる箱
箱

◆南京における「漢奸狩り」

日中戦争初期に日本で発行された『画報躍進之日本』の中で
陥落前の南京における「漢奸狩り」が報告されているほか、
『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』、
『ニューヨーク・タイムズ』も「漢奸狩り」について報道をおこなっている。

戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日80人にも及び、
その後は数が減ったものの1937年11月までに約2,000名に達し、
多くは日本留学生であった。

(当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が
漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)。

『画報躍進之日本』では、
「これは何らかの意図をもって特定の者にどさくさを利用して
漢奸というレッテルを付けて葬るという中国一流の愚劣さから出ていた」
との見方を示し、さらに
「南京で颯爽と歩く若者は全部共産党系であり、
彼らによってスパイ狩りが行われるため要人たちは姿を隠して
滅多に表に出ることがなかった」と報告している。
(中略)
親日派をはじめ、日本人と交際していた中国人や
少しでも日本のことを知るように話したり、
「日本軍は強い」などと言うことを根拠として
直ちにスパイと断定され処刑された。

外国人も例えば日本の書籍や日本人の写っている写真を持っているだけで
スパイの嫌疑を受け拘引されたことから、南京を脱出する外国人も出ていた。

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Photos document brutality in Shanghai
上海における残虐行為の写真文書
CNN September 23, 1996
http://edition.cnn.com/WORLD/9609/23/rare.photos/index.html
バンコク、タイ(CNN)

59年前の18枚の粒子の粗い白黒写真によって日本と中国の関係は
さらにほつれ、係争中のチェーンを介して緊張する可能性がある。

1937年に上海付近でスイスのカメラマンが撮影した写真は、
日本人捕虜、日本を支援して中国兵を非難する上海市民に向かっての、
中国兵の残虐行為を描いている。


この写真は、ビジネスで上海に住んでいた Tom Simmen氏が、
中国で死刑執行を目撃して撮影したが、隠れていた中国兵に邪魔をされた。
しかし、彼はそれらを公開するために彼の息子に言った。
「父の願いは私が写真を公開する事だった。」
と John Simmen氏は述べている。


(中略)
John Simmen氏は、グラフィック写真の出版社を見つけようとしている。
彼はこの写真に3,000ドイツマルクを提供されていると述べたが、
彼の最大の関心事は彼の父が上海で起こったことを
人々に知らせるためにあることを確認する。

「彼らはそれを楽しんでいた。」

とSimmen氏は言った。

「切断された頭を待っている彼ら(中国兵)がいた。
 それらは頭を取り、サッカーをした...」

酷いものだったことを意味する斬首されたボディの画像


Simmen氏の父は、
「中国兵が、木の台の枠に首をはめ込み、吊るし、
餓死するまで放置するなど、日本の捕虜に対して様々な拷問を加えていた」
ことを彼に告げた。


(中略)

その他、日本を助けようと非難主に中国の国民は、
カートの中に体の大きい sword.Image で斬首された。
(中略)
彼の父は、中国を離れる前にネガを破壊したが、
当時妊娠中の母親の衣服の下にプリントを隠して
こっそりと持ち出した言った。

写真は Simmen氏によると、
最も可能性が高い1937年に上海への接続を持つ多くの
日本と中国の戦争の傷を再開する。

しかし彼は長い年月が過ぎて、第二次世界大戦の間にドイツのナチスによって
遂行された残虐と異なって何が中国で起こったかを忘れてしまったと言った。

第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)
http://www.youtube.com/watch?v=Nr_eThF6I00
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9884002
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21886153

Red Fox
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-248.html

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上海海軍特別陸戦隊 【略称:上陸(しゃんりく)】
http://wk.tk/afRJIL

欧米列強軍の艦隊が上海の港に常駐し、
上海の黄浦江流域や上海周辺、長江流域などをパトロールをしつつ、
上海共同租界やフランス租界の防衛を担っていたので、
日本も1919年から第一遣外艦隊を上海に常駐させて同様の警備を担当した。

第一遣外艦隊は当初は地上部隊は駐留させていなかったが、
地上部隊が必要な場合は艦隊の乗員で編成した陸戦隊を上陸させ、
それで不十分な場合は日本本土で臨時に編成した特別陸戦隊や
陸軍部隊が派遣されていた。

1927年2月、中国国民党軍の北伐で上海付近で戦闘が始まると、
特別陸戦隊300人が上海に派遣され、
3月上旬には500人を増派し1400人の連合陸戦隊を編成した。
その後も増派され特別陸戦隊2300人、艦船陸戦隊2000人に達した。

これらはイギリス軍6600人やアメリカ軍2800人、フランス軍500人とともに、
上海周辺での戦闘が終わる9月まで租界の警備を実施。
情勢が安定すると陸戦隊の多くは日本本土に撤収したが、
上海の警備強化のため特別陸戦隊の一部が
第一遣外艦隊隷下に「上海陸戦隊」の名で残されることとなった。
その兵力は1928年6月時点で600人であったが
満州事変後は900人に増強された。
日本人が多く居住する虹口区に上海陸戦隊の本部を置き、
1929年に本部ビルを建設。
輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車7両が配備された。

1932年1月の第一次上海事変では上海市郊外に中国軍3万3千人が現れ、
上海共同租界に「金を出せ!」と強盗のような不当な要求をしてきた。
上海共同租界は英米日仏伊軍が地区ごとに警備分担していたが中国軍は
日本軍のみを攻撃してきて戦闘になり日本軍が応戦して中国軍を追っ払った。
事後処理の上海停戦協定では協定線が設定され、
もう中国軍は これ以上、上海租界に近づくなと約束させられた。

その第一次上海事変の際、上海陸戦隊は直前に増派された2個大隊を
合わせて特別陸戦隊1800人の兵力だった。特別陸戦隊4個大隊の増派、
艦船陸戦隊の揚陸で7個大隊と特科隊、漢口派遣隊1個中隊の兵力で、
それでも中国軍に比べて兵力で大きく劣ったが、航空母艦による航空支援を
受け、本土からの応援の陸軍到着まで持ち応え、租界の防衛に成功した。

1932年10月1日、上海に特別陸戦隊を置く「海軍特別陸戦隊令」が制定され、
上海陸戦隊は正式な常設の「上海海軍特別陸戦隊(2000人)」となった。

1937年1月8日、日本海軍は「海軍対支時局処理方針」を決定し、
上海特別陸戦隊は上海に2000人、漢口に200人が配置された。

1937年8月、第二次上海事変で蒋介石軍が上海共同租界を攻撃してきた際、
上海特別陸戦隊(初期2700名)は、
優勢な中国軍と交戦して苦戦を強いられたが、
日本本土からの陸軍の上海派遣軍(増援軍)到着まで、
かろうじて上海共同租界の防衛に成功した。

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以下『居留民の上海』藤田拓之著 P184~185より引用。
藤田拓之(ひろゆき)同志社大学講師【専攻:イギリス帝国史、上海史】
http://wk.tk/7aqGpw
※1~4行目『NCH,18 August 1937,p.277.』
※5~6行目『上海共同租界誌』上原蕃 著 P162~172
※7~16行目『回想録』上原蕃 著 P817~818
※上原蕃(しげる)氏は上海共同租界 工部局警察 総監補だった人物。
―――――引用はじめ―――――――
(前略)1937年8月に始まった第二次上海事変では、戦闘が始まると早々に、
当時の警視総監代理ボーンが戦闘地域となっていた虹口や楊樹補地区からの
工部局警察の撤退を指示した。その結果、土着派を中心とした
日本人居留民の大半が居住していたこの地域は無警察状態に陥った。
当時日本隊の指揮を執っていた上原は、直ちに日本隊警官を虹口署に招集し、
工部局警察の命令系統から外れた形で、独自に同地域の警察活動を開始した。
(中略)工部局の行動は「反日色彩が濃厚」となり、
「その機能を日本軍作戦妨害と支那支援に集中」しているとみていた。
その事例として、24階建てブロードウェイ・マンションに展望台を設置し、
イギリス人警官が中国軍のために日本軍陣地までの着弾距離を計測したり、
中国軍に電話で戦況を伝えていることや、貯蔵されていた物資を
中国軍に提供しているといったことが挙げられている。(中略)
しかし戦闘の激化にともない、工部局の「利敵行為」が明白なものとなると、
前回事変と異なり、上原は日本隊を日本軍の指揮下におくことは
拒否したものの、「日本軍のために総ゆる努力を傾倒し」、
積極的にその軍事行動に協力したのである。(後略)
―――――引用おわり―――――――

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大東亜戦争発端時(第二次上海事変)の映画

まずは、おさらいです。
↓↓↓

1937年(昭和12年)
●7月7日、盧溝橋事件。→中国側から武力攻撃してきた。
●7月9日深夜2:00、停戦協議成立。12:20撤退完了。
●7月10日、200人以上の中国兵が迫撃砲で攻撃再開。
●7月11日20:00、『松井-秦徳純・停戦協定』成立。
●7月13日、大紅門事件。
支那兵が北平(北京)大紅門で移動中の日本軍トラック2台に
手榴弾を投げ込み日本兵4人が死亡。
●7月14日、中国兵が日本の騎馬兵を惨殺。
●7月19日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明。
●7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける。
●7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける。

たび重なる中国側による停戦協定違反の攻撃が多いので、
とうとう我慢できなくなり、日本政府は不拡大の方針を撤回し、
日本内地から三個師団の派遣を命じた。
中国側に対して最後通告を出し、
7月28日、支那駐屯軍が宗哲元率いる第29軍に総攻撃を開始。
すると、それまで日本を挑発していた中国軍はあっという間に
北京、点新築を放棄して南の方へ逃げたので、
日本軍はわずか1日あまりで北京・天津地区を平定。

●7月29日、日本人居留民約260名が虐殺される通州事件が発生。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html

●1937年(昭和12年)8月9日、大山事件。
船津和平会談の日だったが、中国軍が日本兵2人を惨殺してぶち壊した。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-280.html

●1937年(昭和12年)8月13日~第二次上海事変。

↓↓↓
ここで下記リンク先を読んでいただいて
↓↓↓
大東亜戦争にいたる大きな流れ【2015.4.7版】
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-684.html
↓↓↓
それから下記の第二次上海事変勃発の映画を見ていただくと判りやすいです。
↓↓↓
東宝映画 『上海陸戦隊』 昭和14年(1939年)5月20日 公開
http://www.youtube.com/watch?v=2mivdkntiis
http://www.youtube.com/watch?v=3zWB-kZ2JWs
http://www.youtube.com/watch?v=WHg5IZubl4A
http://www.youtube.com/watch?v=F9vrKghhEV0
http://www.youtube.com/watch?v=0ppxlV2Q5Dw
http://www.youtube.com/watch?v=om-fkTNnt_w

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反日日本人・唯一の論拠 上海事変から南京事変
https://www.youtube.com/watch?v=SH3NJYMhoz0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21244337

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以下、BIGLOBE百科事典 『第二次上海事変』 「補足」 より
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/5c/26/66/cf06df30037976dc9335437cfe89006b.htm#.E8.A3.9C.E8.B6.B3

2010年放送の番組
『池上彰の戦争を考えるSP~戦争はなぜ始まり、どう終わるのか~』
のなかでナレーターが
「盧溝橋の銃声に始まった日中戦争の戦火は拡大。
短期決戦と見ていた日本は早々に上海を攻撃。
そして、国民党政府の首都南京を攻略した。」
と述べた。
━─━─━引用終了━―━―━―━―━─━

盧溝橋事件はボカし、第二次上海事変は、まったく逆、ウソを放送した!

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第一次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-114.html
1937年(昭和12年)8月9日、大山事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-280.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
盧溝橋事件
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-120.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
第二次上海事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-281.html
「支那」呼称について
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-21.html
『大東亜戦争にいたる大まかな流れ』いろいろな説明の試み
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-531.html
rekisisiranaiさんの「大東亜戦争に至るまでの解説」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-654.html
2009/07/28 09:00|年表リンク用資料
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