正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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私の村は地獄になった
----ベトナム戦争、もうひとつの戦争犯罪(韓国軍による虐殺)

タイガーフォースの存在は聞いたことがあったが、
こういう虐殺をしていたとは初耳である。
そこでタイガー「虎」にまつわる韓国軍部隊の
ベトナムでの悪逆ぶりも思い出してしまった。

ベトナムにおけるもうひとつの「隠された」虐殺。
韓国軍は焼く延べ30万名(最大兵力5万人)もの「猛虎」部隊を
ベトナムに派遣して米軍の侵略に肩入れしていた。
朴正キ大統領軍事独裁政権(米国の傀儡)のもと、
空手などに長けた部隊が派遣され、狂気の民間人殺戮が繰り返された。


ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24 WORLD AFFAIRS◇証言
http://kankoku-020115.tripod.com/vietnam_war/miscellany/watasinomura.html

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、
ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。

当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。
韓国兵は農民を力ずくで追い立て、
南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
だが、多くの村人は移住を嫌がった。
トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、
先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。

トイが農作業を続けていると、
いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。
音がしたのはビンスアン村の方角。
トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。

村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。
家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。
多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。
生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。
4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。

ここが、そのまま墓になった。
トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」
犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。
こうした残虐行為のねらいは、
ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)
から農民を移住させて人口を減らし、
ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。

現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、
韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。
しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、
勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が
行った調査のおかげだ。
彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を
記録したベトナム政府の文書を発見した。

生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、
多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、
アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。

当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。
近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、
母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、
防空壕に追い込んだ。

残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。
次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、
手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。
トアイは急いで家族がいた場所へ行った。

防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。
防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。
トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。
戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

見つかったのは肉片だけ

「みんな、村を離れたくなかった。
私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。
トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。
連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。

67年、16歳のときに父親を韓国軍に
殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。
韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、
すぐに手榴弾を投げ入れた。

チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、
「肉片しか見つからなかった」という。
それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、
山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。
「父を殺した奴らに復讐したかった。

韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。
67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で
農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。

そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。
大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、
村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。
犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、
助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。
チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、

チャウは言う。
「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。
アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、
68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、
米兵の評判は必ずしも悪くない。

地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、
米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーを
もらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。
それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、

サンは語る。
「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、
今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。
韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、
殺すケースが多かったからだ。

こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、
ベトナム政府は神経をとがらせている。
虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。
だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が
国内で発表されることは望んでいない。
友好関係にある韓国政府はもちろん、
ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、
三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が
増えている状況に水を差したくないという思いもある。
だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、
観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。

地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。
たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、
両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。
犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、
フーイェン省のある当局者は言う。
「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。
それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。
犠牲者が過去を忘れられるように」
韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、
なんとささやかな要求だろう。

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ベトナム戦争での韓国軍の極悪非道
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm

ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号
ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員

ああ, 震撼の韓国軍

ベトナム戦 24周年にして見た、
私たちの恥部,ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録

ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が
大量虐殺を正当化した。

戦争はこんな所でも起きたのだろうか.
丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し,
椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹….
窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている.
太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように
田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけが
ちらほらと島のように動いている.

真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、
腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの
真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う.
果して、わたしたちはあのとき、
このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか.
理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場,
その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を
知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を
果てしなく走った.

生き残った老僧の証言

"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、
韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって
銃器を振り回す事件が発生した.
サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に
戯れようとして住持僧に追出されると、
これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった.
この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等
4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.
(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"

筆者は2年前, ベトナム政治局から出された
‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’
という資料の一部をようやく手に入れることができた.
私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書,

しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった.
それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’
韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった
‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、
ベトナムを訪問した韓国市民団体
‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した.
‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画した
ピースボート(Peace Boat)に乗り込み、
韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある.

“日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”
という彼らは、これからは‘韓国人の力で’
ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである.
筆者は初めて寄着時から同行することにした.

ベトナム南部海岸に位置したパンランは、
観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ.
最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず,
歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった.

ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、
生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった.
私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した.

しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた.
蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら
8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという
焦燥感を感じながらも,
一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.

翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から
急な知らせがきた.
元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は
戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺が
また建てられたということだ.

わたしたちはすぐさまそちらへ走った.
そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者の
ウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた.
ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が,
認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.

子供も妊婦も容赦なく…

忘れたい戦争'. 韓国軍に殺されたベトナム人の数は
公式統計だけでも 4万1450名だ.

“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました.
続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました.

そして、屍体を皆燃やしました.
”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は
恐ろしさで真っ青になり、
叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する.
リンソン寺には、五人の僧侶が住んでいた.

その時、プフ僧侶は住持僧より先に村におりて行き、
喪家で読経を行っていた.
証言の大部分はユエンハンを通じてなされ,
その寺で唯一の生存者のプフ僧侶は口数が少ない.
当時の話をしながらも、
人々はその時の虐殺の主人公の後裔に配慮してくれた.

冷たいお茶を持ってきて, 果物の皮をむいて薦めてくれ,
パパイヤを食べて汚れた口をすすぎなさいと、
水まで汲んできてくれた時には、涙が溢れ出た.

プフ僧侶が村に帰ってきた時、寺は既に修羅場と化していた.
プフ僧侶は火にくべられていた五人の僧侶の死体を近隣の
小屋へと移した. 死体奪取に対する不安からあった.

このことが伝えられると, パンラン地域全域の学校が休学を決議して,
学生達と仏教徒たちが一斉に蜂起した.
“ベトナム政府は良民虐殺を即刻中断しなさい!”
“人殺しはベトナムを出て行け”等等、
凄まじい叫び声がパンランを巻きこんで,
僧侶たちの死体は12日を過ぎてやっと火葬できた.

“火葬をしても、僧たちを安息させられなかった.
僧たちを祭る寺が消えたからですよ.
僧たちの骨を壷に納めていたのですが、やっと昨年、
この寺に安置してあげましたよ.

”プフ僧侶がやや低めな声で話を続けた.
韓国軍人たちの銃器乱射事件で廃虚になった寺は、
その後また再び爆撃を受けて跡形もなく消えた.
そして、昨年、仏教徒の在米ベトナム同胞の援助でまた寺が建てられた.
プフ僧侶は30年ぶりに住持僧としてこの寺に帰ってくることができた.
寺の前に当時死んだ僧侶たちの遺骨が納められた三重塔がある.
私たち一行はその前に頭を下げて、僧侶たちの冥福を祈った.

どちらかというと、私達がリンソン寺で聞かなければならなかった話は、
今から会う、数多くの証言の中でも最も安らかな話になるかもしれない.
大雄宝殿の席から見下ろすと,
空と海と野原がひと目で見渡せた.

どこに目を向けても、限りなく平和なだけの,
限りなく懐かしいだけの風景,
しかしその中には、まだどれくらい多くの話が隠されているのだろうか?.
‘私と私たち’一行は、韓国軍の軍事作戦が最も熾烈に展開された
中部地方にまた再び旅立ち, 筆者はリンソン寺を振り返りながら、
振り払えない重い歩みでホーチミンに帰ってきた.

"女性たちを強姦した後、殺害"

韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、
できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる.
前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの
根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない
虐殺行為を正当化させた.

筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、
詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが,
その一部をここに紹介する.

1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊が
ビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、
“きれいに殺して, きれいに燃やして,
きれいに破壊する”というスローガンの下、捜索掃討作戦を繰広げた.
彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦,
70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.

"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました.
彼女の子供は軍靴で踏み潰され、
まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました.
妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり,
子宮が外に出ていました.

韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して,
子供の頭を切り取って地面に放り投げ,
あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.

彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し,ある子供のからだを持ち上げて、
樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました.
そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…"

パンランで別れて二日ぶりにクィニョン市を調査中の
‘私と私たち’一行から電話がきた.
“見つけました! 当時調べた、現人民委員会 主席の話です.”
1966年 3月19日と20日の二日間にわたった
‘ベトナム中部各地の戦争犯罪調査会議’で
韓国軍の罪悪性を毎々に明らかにした話だ.
“手にしている、この資料がますます 恐ろしくなりますね.
ひょっとすると、わたしたちはこの資料をもっと補充しなければならない
かもしれません.

ビンディンソンを中心にこの資料に紹介された4地域だけでなく、
韓国軍の虐殺現場が他にももっとあるというのです.”

当時の報告によれば、66年 1月23日から 2月26日までの約一ケ月間、
猛虎隊 3個小隊, 2個保安大隊, 3個民間自衛隊により、
この地域だけで、計1200名の住民が虐殺されて,
そのなかにはひとり残らず抹殺された家族が8世帯にもなった.
また、1535軒の家屋と850万tに達する食料が焼き払われ,
649頭に達する水牛が銃弾によって死んだり焼き殺された.

このような捜索掃討作戦は、
一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して,
韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを
即決処分した後、
家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した.
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射,
大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ.
生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、
いくつかの共通した類型が現れる.

-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、
あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、
家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.

-子供の頭を割ったり首をはね,
脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.

-女性を強姦した後、殺害して,
妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.

韓国軍の大量虐殺が強行された所では、
子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた.
老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった.
恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか

私たちにもベトナム戦は忘れたい戦争だ.
韓国は1964年、医療支援団とテックォンド教官等、
270余名をサイゴンの南のプンタウに派遣することによって
ベトナム戦に軍事的な介入を始めた.

以後、65年から73年まで、約30万名の戦闘部隊を
‘ベトナム政府の要請’という美名の下、ベトナム戦線に投入した.
この過程で韓国軍も4960余名が戦死して、10余万名が負傷した.

しかし、韓国軍はまた、敵軍のベトナム人を4万1450名も殺す全勝(?)
をおさめもした.
我が軍の死者数の10倍に達する敵軍を戦死させたのである.
それも、公式的な統計上でだけ!

そして戦争は終わった.
しかし、終戦24年を迎える、
この瞬間にも地球上のあちらこちらからは新しい銃声が響いている.
韓国ではコソボでの人権を叫ぶ声も高い.

20世紀の傷が癒える前に、21世紀のまた違う傷ひとつを産んでいるのだ.
加害者も被害者も傷ついた‘今日’を治癒する過程なしでは、
私たちに未来はないだろう.
たとえ、それが良心にメスを入れる痛みを通じてだけ可能になるとしても.

歴史は私たちに疑問符ひとつを投げかけている.

果して、あなたたちに真の反省はあるのか.

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『SAPIO』2013年12月号  特集【韓国が背負う「嘘の代償」】

“強姦したら必ず殺せ”が戦地の合言葉だった
ベトナム女性を輪姦後に焼き殺し
混血児「ライダイハン」を残した韓国軍の蛮行

旧日本軍による「慰安婦強制連行」を捏造した韓国は、
もともと売春婦であるはずの慰安婦を
「Sex Slave」として国際社会に浸透させた。

その傍らで、ベトナム戦争(1960~75年)に参戦した韓国軍による
現地婦女子への性的暴虐は史実から消し去ろうとしている。

2000年6月27日、韓国・ソウルの『ハンギョレ新聞』本社が
2000人を超える迷彩服姿のデモ隊に包囲された。
社屋に侵入したデモ隊の一部は暴徒化し、同社幹部らを監禁、暴行を加え、
オフィスや地下駐車場の車を破壊した。
デモ隊は「大韓民国枯葉剤後遺症戦友会」のメンバー、
つまり退役ベトナム参戦軍人である。

発端は、同社発行の週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)
に掲載されたベトナムにおける韓国軍の民間人虐殺特集だった。
「通信員」として記事を書いたのは、
当時、ベトナム留学中だった大学院生の具秀妺(ク・スジョン)氏。
ベトナム当局から虐殺の資料を入手し、
徹底した現地取材と生存者へのインタビューを重ね、
韓国軍による無差別殺戮の実態を白日の下に晒したのである。
記事は、ベトナム中部のビンディン省の村々で起きた
凄惨な虐殺事件を生々しく伝えている。

 <1966年1月23日から2月26日までの1か月間、猛虎部隊3個小隊、
2個保安大隊、3個民間自衛隊によってこの地域だけで
計1200人の住民が虐殺され、
その中には1人残らず皆殺しにされた家族が8世帯もあった。
(中略)
生存者の証言を元に韓国軍の民間人虐殺方式を整理してみると、
いくつかの共通したパターンが見られた。
●子供たちの頭や首を切り落とし、手足を切断して火に投げ込む
●住民をトンネルに追い詰め毒ガスで窒息死させる
●女性たちを次々に強姦したあと殺害
●妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける>―――。

韓国史のタブーに踏み込んだこの特集を皮切りに、
同誌は韓国軍の戦争犯罪を糾弾する「ベトナムキャンペーン」を
継続的に展開。冒頭の事件はそれに猛反発する退役軍人の凶行だった。

しかし、ベトナム戦を経験した退役軍人の中には
当時の非人道的行為を悔いる者もいた。元韓国海兵隊員の金栄萬氏は、
『戦争の記憶 記憶の戦争-韓国人のベトナム戦争』
(金賢娥(キム・ヒョナ)著・三元社刊)でこう証言している。

「越南に到着して、私が聞いた話は、
『強姦をしたら必ず殺せ、殺さなかったら面倒が起きる、
子供もベトコンだからみな殺さねばならない』といったものでした」

韓国は1964年から73年まで延べ32万人を南ベトナムに派兵。
ダナンに海兵隊第2旅団(青龍部隊)、
クイニョンに首都ソウル防衛師団(猛虎部隊)、
ニンホアに第9師団(白馬部隊)が駐屯した。
白馬部隊の連隊長には後に大統領となった全斗煥、
猛虎部隊の大隊長には盧泰愚が就いていた。

前出・具氏の調査によると、韓国軍によるベトナム民間人の虐殺被害者は
少なくとも9000人以上と見られている。
村人65人が犠牲になったビンディン省・タイビン村では、
韓国兵士に輪姦された女性が焼き殺される惨たらしい事件も起きている。
そうした史実は国際的には知られているが、
韓国の教科書にはもちろん載っていない。

かわりに日本の軍隊が、慰安婦として若い朝鮮人女性を
無理矢理連れ去ったという証拠のない話が大々的に書かれている。

韓国兵によるレイプなどでベトナム女性との間に生まれた子供は
「ライダイハン」と呼ばれた。ベトナム語で「ライ」は混血、
「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称だ。
韓国『釜山日報』によると、現在、ベトナムにいるライダイハンは
最大3万人と推計される(諸説あり、数千人とする指摘もある)。

その多くは戦争終結後、ベトナムに流入した韓国人ビジネスマンと
現地女性の間に生まれた子供と言われているが、
韓国兵のレイプにより生まれたライダイハンが少なからずいるのは事実だ。
レイプされた被害者数はその何百倍、何千倍にも及ぶ可能性がある。

ベトナム問題に詳しいフォトジャーナリスト・村山康文氏が語る。

「09年9月、ビンディン省に住むライダイハンの家族を初めて取材しました。
母親のマイ・ディンさんは17~18歳で韓国兵に輪姦され、
男の子を身ごもりました。それが、現在43歳の息子・テオさんです」
(略)


韓国軍基地でメイドをしていたマイ・ディンさん。
複数の韓国兵に性的暴行を受け、子供を身ごもった。
左上はマイ・ディンさんと韓国兵の間に生まれたテオさん。
「ライダイハン」として虐めを受けることもあった。
(略)
戦争難民の美少女が韓国軍高官の慰み者に

当然、ベトナムでは戦時中から韓国への憎悪が燃え盛った。
元朝日新聞サイゴン支局長の井川一久氏が振り返る。

「72年にサイゴンに赴任した直後、
私の車がベトナム人青年のオートバイと接触事故を起こし、
100人近い群衆に取り囲まれるハプニングがありました。
興奮した群衆は『ダイハン!』と口々に叫びながら、
憎悪に満ちた眼でこちらを睨んでいる。
私を韓国人と勘違いしたのです。
パスポートと記者証を見せて難を逃れましたが、
現地でどれほど韓国人が嫌われているかを痛感する出来事でした」

サイゴン(現ホーチミン)など旧南ベトナム地域では、
韓国は友軍だったはずだ。
しかし、韓国軍による同胞の虐殺、婦女子への暴行、凌辱は
ベトナム国民なら誰もが知るところであり、
むしろそれらの地域で反韓感情は強かったようだ。

「韓国軍のベトコン掃討作戦で破壊された村の女性たちは、
運良く逃げ出しても戦争難民になるしかなかった。
そうした女性を売春ビジネスに送り込んだのが、
民間の韓国人業者だったのです」(井川氏)

ベトナム戦争では、軍属の技術者や建設、運送業者のほか、
特需に肖(あやか)ろうとする商人や暴力団など
総計1万5000人の民間韓国人がベトナムに渡った。
そうした者たちがサイゴンやダナンなど軍事基地周辺で、
韓国兵や米兵相手の売春クラブを経営していたのだという。
井川氏が続ける。

「親しくしていた在ベトナム韓国軍高官の公邸で開かれた夕食会では、
アオザイ姿の美しいベトナム人少女数人が甲斐甲斐しく給仕してくれました。
少女をどこで集めたのか訊くと、高官は答えをはぐらかし、
『気に入った娘がいたら持ち帰って構わない』と笑うのです。
少女たちが戦争難民なのは明らかでした。
軍民一体の管理売春が公然と行なわれていたのは間違いない。
ニンホアの白馬部隊の基地には慰安所もあった」

韓国教育省は先ごろ、既に検定を通過している高校歴史教科書の一部に
ベトナム派兵における「民間人虐殺」の記述があることを問題視し、
「民間人の被害」に書き換えるよう勧告した。
都合の悪い史実を改竄する露骨な歴史修正主義であり、
そのような国が日本に「過去を直視せよ」と迫っても、
世界で眉をひそめられるのは当然である。
(以下略)

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韓国サイト 韓国軍人に暴行されたベトナム人女性の証言掲載

NEWSポストセブン 2014.03.20 07:00
http://www.news-postseven.com/archives/20140320_246384.html

韓国ではベトナム戦争に参戦した韓国軍の蛮行が、
ここに来て問題視され始めている。
3月7日、かつて日本軍の慰安婦だったという女性と
その支援団体代表がソウルで会見を開き、
ベトナム戦争に参戦した韓国軍による
「ベトナム人女性に対する性暴力や民間人虐殺」について、
「韓国政府が真相を究明し、公式謝罪と法的責任をとるように」
と訴えたのである。

韓国がベトナム戦争に参戦したのは1964年のこと。
1973年まで、のべ32万人もの兵士を南ベトナムに派遣している。

実は、ベトナムでの韓国軍による蛮行を、
当事者である韓国人が知ったのは1999年で、
戦争終結からかなりの年月を要していた。
発端は週刊誌『ハンギョレ21』(1999年5月6日号)
が始めた1年以上にわたる連載記事だった。
記者がベトナム当局から資料を入手し、現地取材と生存者への接触を重ね、
韓国軍による殺戮の実態を白日の下に晒した。
とくに殺害方法に触れた箇所は凄惨を極める。

生存者の証言を元に韓国軍の民間人虐殺方式を整理してみると、
いくつかの共通したパターンが見られた。

●子供たちの頭を切り落とし、手足を切断して火に投げ込む
●住民をトンネルに追い詰め毒ガスで窒息死させる
●女性たちを次々に強姦したあと殺害
●妊婦の腹から胎児が飛び出すまで軍靴で踏みつける

まさに韓国史のタブーに初めて切り込んだ記事だった。
しかし、長く封印されてきた蛮行を暴いたことに、
政権は怒り、元軍人たちも大反発した。
同誌を発行する本社の幹部が、
退役ベトナム参戦軍人らに監禁、暴行される事件まで起こった。

それから10年以上を経て、ようやく同誌に追随する動きが出始めた。
先の市民団体の声明の前日、
韓国の市民参加型ニュースサイト『オーマイニュース』に、
韓国軍人に集団輪姦されたベトナム人女性の証言が掲載されたのである。

韓国軍の基地で働いていた当時20歳の女性が、
兵士たちに輪姦された挙げ句に妊娠。
「ライダイハン」を出産し、現在に至るまでの苦労の人生を回顧している。

ライダイハン──。ベトナム語で「ライ」は混血、
「ダイハン(大韓)」は韓国を意味する蔑称である。

※週刊ポスト2014年3月28日号

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【痛快!テキサス親父】
韓国軍のベトナム戦争時の蛮行、共闘し世界へ発信 アパ・元谷代表と対談

zakzak 2014.07.04
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140704/dms1407041140005-n1.htm

ハ~イ! みなさん。日本全国を回る講演会ツアーも終盤に入ってきたぜ。
各地でファンの方々から温かい声援をいただいている。
心から感謝している。ありがとう。

今回は、このツアーを後援してくれた、アパグループの元谷外志雄代表との
特別対談を、お届けしよう。
元谷氏は、ホテルやマンション、都市開発まで手がける事業経営と並んで、
日本の誇りを取り戻す言論活動を続けているバイタリティーあふれる人物だ。
私の大切な友人でもある。

元谷氏「講演会ツアーは大成功らしいね。素晴らしい。
マラーノ氏が米国人の立場で『日本の真実』を
発信してくれることに敬意を表したい。
日本人が自ら、慰安婦問題や靖国問題などについて訴えるのと比べて、
100倍、1000倍の効果がある」

マラーノ氏「ありがとう。私は日本に興味を持って調べ、
日本人の友人と触れ合って、日本がどんどん好きになった。
米国の公文書に『慰安婦=戦時売春婦』という決定的証拠がある。
慰安婦問題は、韓国が国内問題から目をそらせて、
日米同盟にクサビを打ち込む狙いだろう。韓国は中国にうまく操られている」

元谷氏「性奴隷なんて真っ赤なウソだ。
そういう真実が広まり、韓国も対日カードとして使えなくなりつつある。
安倍晋三政権は先月末、『河野洋平官房長官談話』の検証結果を公開した。
談話は日韓両政府がすり合わせた政治文書であって、
河野氏が政府見解を無視して『(強制連行が)あった』
と独断で答えていたことも発覚した。彼は国賊だ」

マラーノ氏「河野氏とは、山口市民会館で同じ日(6月21日)に
講演会があった。
関係者は『ぜひ、公開討論会を』と求めたが、残念ながら実現しなかった」

元谷氏「逃げたとしか思えない。河野氏は、慰安婦問題を追及している
産経新聞の取材も拒否していますから(苦笑)。
正々堂々と、参考人招致か証人喚問を受けるべきだ。
そうそう、先日、ベトナム戦争での韓国軍の蛮行について視察してきましたよ」

マラーノ氏「それは興味深い」

元谷氏「ホーチミン(旧サイゴン)から飛行機でクイニョンに飛び車で
ベトナム中部の虐殺現場を数カ所回り、
数百人の被害者名が刻まれた慰霊碑や壁画を確認してきた。
案内してくれた人の話では1万人以上の人々が虐殺されたという。
一般の人々の反韓感情にはすさまじいものがあったが、
なぜか共産党政府が押さえ付けているようにみえた」

《2人で慰霊碑や壁画の写真やデータを見る》

マラーノ氏「この写真やデータを、私の動画サイトで紹介してもいいですか?
『友人の元谷氏が調査してきた』と説明しますよ」

元谷氏「それはいい。世界に向けて発信してください。
先日、朝鮮戦争の休戦後、在韓米軍基地近くの売春街で
米兵相手の売春をしていた韓国人女性ら122人が
『韓国政府の厳しい管理下に置かれ、人権を侵害された』
として国家賠償訴訟を起こした。
米軍慰安婦=ヤンコンジュ(洋公主)のことだ。
韓国が隠し続けてきた真実がどんどん暴露されている」

マラーノ氏「いいアイデアがある。米国にある旧日本軍慰安婦像の隣に、
韓国政府に強制されたという米軍慰安婦の像を建てたらどうか。
これらは米国にも関係がある。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は
『歴史を直視しろ』『元慰安婦のおばあさんはウソをつかない』
と言っている。ベトナム戦争の蛮行も含めて、韓国も歴史を直視すべきだ」

元谷氏「韓国も米国も『いい加減にしてくれ』
となるかもしれないね(苦笑)。これからも連携していきましょう」

◇ 

親愛なるみなさんと日本と米国に神のご加護がありますように。

では、また会おう!

■トニー・マラーノ 評論家。1949年生まれ。
テキサス州在住のイタリア系米国人。
サラリーマンを定年退職後、動画サイト「ユーチューブ」などで
連日、評論活動を行っている。
世界のあらゆる“悪”と戦う「プロパガンダ・バスター」でもある。
大変な親日家であり、日本でも圧倒的ファンを獲得している。
著書に『テキサス親父の「怒れ! 罠にかかった日本人」』(青林堂)など。

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韓国軍ベトナム大虐殺で新事実
神奈川大名誉教授ら現地調査 世界に“告発”へ

zakzak 2014.07.11
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20140711/frn1407111820008-n1.htm

韓国軍が、ベトナム戦争で民間人を虐殺したことを伝える慰霊廟が、
ベトナム国内に多数建てられている。
神奈川大学名誉教授の北岡正敏氏(工学博士)と、
「シンクタンク戦略大学」主宰の北岡俊明氏の兄弟は昨年9月と今年2月、
現地調査を行い、膨大な資料と遺族の恨みと怒りに満ちた証言を持ち帰った。
中部3省だけで2700人を超える犠牲者名を確認したが、
その数倍の犠牲者がいる可能性が高いという。
2人は来週から「韓国の戦争犯罪」を告発するため渡米する。

「慰霊廟の地図はなく、各地の戦争博物館に行き、
写真や証言をもとに探し回った。廟にたどり着くと、
遺族らが次々に集まってきて『親兄弟が皆殺しにされた』
『女性や子供もやられた』『韓国人が憎い』と訴えきた。
ベトナム人が証言した韓国軍の所業は鬼畜そのものだった」

北岡俊明氏は夕刊フジの取材にこう語った。

朴槿恵(パク・クネ)大統領率いる韓国が、
日本の地位を低下させる「ディスカウント・ジャパン運動」を
世界中で展開するなか、日本が情報戦で勝ち抜くために、
北岡兄弟は自費でベトナムにわたった。
調査結果の詳細は、2人の著書
『韓国の大量虐殺事件を告発する-ベトナム戦争「参戦韓国軍」の真実』
(展転社)として先月出版した。

韓国は1964年にベトナム戦争に参戦し、
73年まで8年間で、延べ約32万人を派兵した。
「最精鋭部隊を投入した」と伝えられてきたが、
実態はまったく違ったようだ。

北岡兄弟の調査は、ベトナム南部のビンディン省とクアンガイ省、
クアンナム省を中心に行われ、慰霊廟など19カ所を調べた。
そこには、「憎悪の碑」「恨みの碑」「怒りの碑」などの言葉や、
虐殺を伝える壁画・像とともに、犠牲者名などが刻まれていた。

ビンディン省・ビンアンの大虐殺は1966年1月23日~26日に起き、
1004人が犠牲となった。2006年に建立された慰霊廟には、
韓国軍の虐殺を描いた高さ約3メートル、
長さ約20メートルの壁画が設置されていた。

俊明氏は「火に焼かれる裸の女性。強姦されて横たわる女性。
累々と横たわる死体。まさに壁画は地獄絵図だった。
遺族の証言によると、韓国軍は、女性や子供、老人などの弱者を中心に殺し、
妊婦の腹を裂いたり、子供の手足を切断したケースもあったという。
『韓国人に復讐したい』『世界に伝えてほしい』と迫る人もいた」と語る。

クアンガイ省・フォックビン村の虐殺は
66年10月9日に起き、68人が犠牲となった。
慰霊塔には、犠牲者名と性別、年齢が記してあり、
それによると1歳児から75歳まで殺された。
68人のうち46人が女性(約68%)で、
10歳未満が23人(約34%)いたことが分かったという。

俊明氏は「死体の山に埋もれて助かったグンさんは
『韓国軍は慰霊塔がある場所に住民を集めて、突然、小銃や機関銃、
手榴(しゅりゅう)弾で虐殺を始めた。私の両親と兄弟の8人が殺された』
『韓国軍の行為は子々孫々まで語り伝えていく』と証言した。
話を聞いていて、私も怒りが込み上げてきた。ベトナム政府は韓国との
経済協力を考慮しているようだが、末端の人々の怒りは抑えきれない」
と振り返る。

韓国軍というと、虎のマークをつけた精強な「猛虎部隊」で知られるが、
実際はどうだったのか。北岡兄弟は、複数の元解放軍兵士にも取材している。
その1人、クックさんは、俊明氏の「韓国軍は強かったのか?」との問いに、
「フフン」とせせら笑ったという。

俊明氏は「ほかの元兵士らの反応も同じだった。
『十数人で百数十人の韓国軍を殲滅(せんめつ)させた』
と豪語する人もいた。
そして、異口同音に『米軍は残虐ではなかった』と証言した。
米軍はソンミ事件のイメージがあるが、現地の感覚では違った。
一連の調査から、強い軍隊は虐殺はしない。
韓国軍は弱いから、恐怖にかられて虐殺したのだろう」と分析した。

2回の調査で確認できた犠牲者名は約2700人だが、
3省にはまだ未確認の慰霊廟がある。
さらに、近隣のフーイエン省やカインホア省、ニントゥアン省などでも
韓国軍による虐殺があり、慰霊廟も建てられているという。
現地関係者の証言などを合わせると、韓国軍による虐殺はベトナム全土で
約100カ所、犠牲者は1万人から3万人と推計されるという。

このため、北岡兄弟は調査を続行するとともに、民間人の大量虐殺という
「韓国軍の戦争犯罪」を世界に発信するため、
英訳した資料と証拠写真などを持って、来週15日から渡米する。
米国の軍事関係者や報道関係者、日系人などと接触する予定だ。

俊明氏は「人道に対する罪に時効はない。
韓国に日本を批判する資格はない」と語っている。

韓国軍による大量虐殺の犠牲者数


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韓国軍がベトナムで働いた婦女子への性暴行 現地からの報告

NEWSポストセブン 2014.07.12 16:00
http://www.news-postseven.com/archives/20140712_265319.html

韓国軍によるベトナム戦争中の大量虐殺事件は、現代史の一大汚点である。
韓国軍はベトナム全土で、約100か所、
推計1万人から3万人の大量虐殺事件を起こしている。

韓国軍が行なった戦争犯罪は民間人虐殺だけではない。
彼らは行く先々で婦女子への性暴行を働いた。
凌辱の末に殺害された者、韓国兵の子供を身ごもる者もいた。
ベトナムの大地には犠牲となった女性たちの慟哭が埋もれている。

韓国軍が繰り返した蛮行の実態を、
フォトジャーナリストの村山康文氏がレポートする。

* * *

ベトナム南部の大都市・ホーチミンから列車と陸路で16時間。
国道1号線を北上すると、
南シナ海に面したフーイエン省・ドンホア県に到着する。

国道沿いには水田が広がり、水牛が田畑を耕していた。
この長閑な田舎町の風景が地獄絵図と化したのは
1966年、韓国軍の駐留が始まった直後だった。

地元紙『フーイエン新聞』のファン・タン・ビン編集長が語る。

「1966~1968年にかけて、韓国軍はフーイエン省の海側の
ほぼ全域に駐留していました。ドンホア県をはじめ、
フーイエン省には韓国軍による虐殺現場が点在しています」

ビン編集長が纏めた「韓国軍による虐殺の実態調査」報告書には、
韓国軍の蛮行の数々が収録されている。

「ベトナムの旧正月に当たる1966年2月18日、フーイエン省内の基地を
移動する韓国軍が道中にあるホンドア村を襲った。
韓国兵たちは村人30人を1か所に集め、若い女性を強姦した。
その後、村人は銃で皆殺しにされ、井戸に放り込まれた」

「トゥイホア市のホアドン村では、
シエンという名の少女が10人の韓国兵に輪姦された。
彼女はその後殺害され、ナイフでバラバラに切り刻まれた」

本誌が取材を進めると、省内のいたるところに虐殺の爪痕が残されていた。
ドンホア県のホアヒエップナム村では、
1966年1月と5月の2回に亘って韓国軍による殺戮が行なわれた。
当時11歳だったグエン・ティ・マンさんが振り返る。

「1月2日の攻撃では37人の村人が殺されました。
村の男たちは捕まれば確実に殺されるので、ほぼ全員が逃げました。

まさか、残った女と子供に手を出すとは思わなかったのでしょう。
しかし、韓国兵は女と子供ばかりの村人を整列させ、
1人ずつ撃ち殺していったのです」

5月14日の攻撃では村人47人が犠牲となり、
親きょうだい、親戚を皆殺しにされ孤児となった子供もいたという。

SAPIO2014年8月号

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韓国のベトナム派兵は誇りではなく「忘れたい歴史」になった

NEWSポストセブン 2014.07.21 07:00 ※SAPIO2014年8月号
http://www.news-postseven.com/archives/20140721_265483.html

韓国人にとってベトナム戦争は、民間人の大量虐殺事件など
現代史における一大汚点であるため、“忘れたい歴史”になっている。
産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘氏が
ベトナム戦争の韓国での扱われ方について報告する。
* * *
韓国は今年、ベトナム戦争参戦から50年になる。
しかし記念行事はささやかなものだった。

6月10日、ソウルの国立墓地で遺族会などによる慰霊祭が行なわれたが、
政府高官の出席はなかった。
慰霊祭も今年が初めてで、その経費5000万ウォン(約500万円)も
政府の支援はなく自腹だったという。

マスコミ報道は一部新聞に行事の写真が出た程度だった。
同じころ亡くなった元慰安婦の老女(91)の
死亡記事の方がはるかに大きかった。

この慰安婦報道では生前、彼女を慰問し激励した首相と彼女が
手を握り合っている写真がドーンと掲載されていた。
今や韓国ではベトナム戦争の戦死者より元慰安婦の方が
「愛国者」「国家的英雄」として国を挙げて称えられている。

韓国のベトナム派兵はまず1964年、医療・工兵など非戦闘部隊を派遣し
翌1965年から本格的に戦闘部隊を投入した。

1973年まで8年間で延べ約32万人を派兵、
うち約5000人が戦死し1万人が負傷している。
国立墓地の埋葬者数は朝鮮戦争の犠牲者(約19万人)に次ぐ。

韓国軍はベトナムでの米軍支援が目的だったため、
米国の派兵要請によると思われているがそうではない。
実は韓国側の強い要請によるもので、最初は断わられている。

当時の韓国は朴槿恵大統領の父、朴正煕政権時代で反共意識が強く
「北の脅威」下で軍事強化、経済建設に必死だった。
同盟国・米国への軍事協力を通じた韓国軍強化と“戦争特需”による
経済建設という一石二鳥の狙いがあった。

韓国軍がベトナムに出向くことで
対北安保体制弱化を懸念していた米国も、やがて派兵にOKした。

韓国にとっては「共産主義から自由を守る正義の戦い」
「朝鮮戦争時の米国の支援に対するお返し」だったが、
結果は米軍撤退と南ベトナム崩壊、
南北共産化統一で“負け戦”になってしまった。
米韓軍を追い出して勝った統一ベトナムからすると米韓軍は侵略者である。

この結果、韓国でのベトナム派兵は“誇るべき歴史”とはならず、
いわゆる民主化時代の1990年代以降は“忘れたい歴史”になってしまった。
派兵50周年の寂しい(?)風景はそのせいである。

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フォンニィ・フォンニャットの虐殺

1968年2月12日、フォンニィ・フォンニャット村を訪れた
韓国海兵隊第2海兵師団(青龍部隊)第1大隊は
婦女子を集めると至近距離から銃殺、刺殺し火を付け立ち去った。
ところが、その日のうちにアメリカ海兵隊員4名、
南ベトナム兵26名からなる部隊が現場に到着してしまった。
アメリカ・ベトナム兵は生存者へ手当を施し、病院へ搬送した。
また、J・ボーン伍長によって事件現場の撮影が行われた。
事件後に生き残った村人たちは犠牲者の遺体を
国道1号線に並べて抗議の意思を示した。

犠牲者を収容するアメリカ海兵隊員
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)


両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。
写真撮影後に病院に徹送されたが「お母さん、お母さん…」と
母を呼びながら妹達の前で息絶えた(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影


至近距離から撃たれ前頭部を吹き飛ばされた2名の妊婦
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)


アメリカ軍の手当を受ける負傷した少女
(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影


殺害された子供(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影撮影)


韓国軍に焼かれた住民(J・ボーンアメリカ海兵隊伍長撮影)


当時のフォンニィ・フォンニャット村はアメリカ海兵隊と友好関係にあり、
村の男たちはアメリカと同盟関係にある南ベトナム軍に参加していた。
続く2月25日には韓国海兵隊によってハミの虐殺が引き起こされ、
ハミ村の婦女子・老人135名が虐殺された。

事件を受けてアメリカ陸軍参謀総長ウィリアム・ウェストモーランド大将が
韓国軍に調査報告を繰り返し求め続けたため、韓国軍は韓国海兵隊の軍服を
着たベトコンによる陰謀であったとアメリカ軍に報告した。
フォンニィ・フォンニャットの虐殺当時の韓国では
韓国政府が行った聞慶虐殺事件、保導連盟事件では
共産主義者に罪を着せることで虐殺事件を闇に葬りさることに成功していた。
韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、
アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、
1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを
明らかにした報告書が提出された。

ロバート・モレヘッド・コックアメリカ陸軍大佐が
監察官として作成した虐殺事件の報告書


韓国軍によって引き起こされた数々の虐殺によって少なくとも
民間人9,000人が殺害されており(朝日新聞)、
あるいは、30万人を超す犠牲者の数だったとも言われている
(『親日派のための弁明』金完燮)。

韓国兵は残忍なやり方で女をレイプしてから殺すケースが多く、
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女にとって恐怖の的だった。
また妊婦や子供は井戸に落とし、
助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだ。
生き残った村人はバラバラになった遺体を井戸から引き上げ、
盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
1969年2月には事件の遺族達によって
南ベトナム議会に賠償を求める請願書が提出されている。

ベトナム議会に補償を求める遺族の嘆願書


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テーマパークオープン ベトナム派兵記念館開場
http://megalodon.jp/2008-1024-0319-47/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&nid=3889635&start_range=3885174&end_range=3889635

文化日報 2008年10月23日

江原華川郡看東面五音里の昔のベトナム派兵将兵訓練場が復元されて
一般に門を開いた。

華川郡は23日昔のベトナム参戦勇士たちの訓練場だった五音里に
‘ベトナム参戦勇士出会い場’ 開場式を開いた。

キム江原道知事と宋華川郡守、ベトナム参戦勇士など2000人余りが参加した。
この日開場式はハン・スンス国務総理の祝辞映像を含めて記念植樹、
テープカットなどの手順で進行され、
参戦部隊旗掲揚と人気歌手の公演などの行事が用意された。

2001年から180億ウォンの事業費をかけて13万9788㎡に立てられた。
できるだけ訓練を受ける当時の姿をたくさん再現した。

残っていた炊事建物をいかして3階建ての参戦記念館と追慕碑、象徴塔、
戦闘機、訓練体験場、内務班などを新たに作った。

またベトナム戦争当時ベトコンが地下に迷路のように
作っていた通路と隠れ処、
‘グッチトンネル’が157mの長さで再現されて
6軒のベトナム伝統家屋と武器製作所なども設置された。

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米国で韓国人が黒人とベトナム人から集団暴行・世界で嫌われる韓国人
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5172.html
2009/07/25 09:00|年表リンク用資料
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