正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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日米開戦前 日本の和平努力

満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
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不戦条約と自衛権
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門戸開放主義
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日米抗争の始まり

◆満洲に於ける鉄道争覇 ルーズヴェルトの親日感情

日露戦争を境に安政以来50年に亙って良好であった日米関係が変質してゆく。
それを述べるに先立って、日露戦争中の日米の親密な有様を
セオドア・ルーズヴェルトの言動を通してみておこう。

既述の如く、対露開戦決定するや、政府は直ちにハーバード大学で
セオドア・ルーズヴェルトと同窓だった金子堅太郎男爵を派米し、
親日世論形成に努力せしめた。
この努力が功を奏し、日露戦争で米国は日本を支持した。

金子の広報活動について興味ある逸話を、一、二摘記してみる。

3月27日、米国に着いてから金子がはじめてルーズヴェルト大統領を
訪問した時、ルーズヴェルト大統領は
「今度の戦さは日本が勝つ」と云ひ、更に「日本に勝たせなければならない」
と述べた。
その理由は「日本は正義人道のために戦ってゐるが、
ロシアは各国に悪虐無道の振舞をして居る。
特に日本に対しての処置は甚だ人道に背き正義に反した行為である。
…そこで我輩は影になり、日向になり、日本のために働く。
これは君と僕との内輪話で、新聞に公けにしては困る」と打明けたと云ふ。

同28日、ルーズヴェルト大統領と二回目の懇談の時、
ルーズヴェルトは「予は日本を敬愛すゐこと、
決して他人に譲らざることを信ず」と述べ、
日本の事柄に関心を抱くに至ったのは
フェノロサの説話を契機とする旨を語り、
日本人の性格や精神教育面での原動力について
知るべき書物があれば教へてほしいと語った。

そこで金子は、新渡戸稲造の『武士道』(Bushido,The soul of Japan)と、
日清戦争に於ける日本軍の組織や行動について詳述した英国人
イーストレイキ(F.W.Eastlake)の著書『勇敢なる日本』(Heroic Japan)
を大統領に贈呈することを約した。

その後、6月6日、金子がホワイト・ハウスから招待を受けた時、
ルーズヴェルト大統領は、『武士道』を読んで始めて日本国民の徳性を知悉
し得たこと、直ちに30部を求めて知友に頒布すると共に、
5人の子供に各一部を配布し、
「日常この書を熟読して日本人の如く高尚優美なる性格と誠実剛毅なる
精神とを涵養すべしと申し付けたり。

而して書中、日本人が尊信する天皇陛下に代るべきもの、
我が共和国に之れなきが故に、先づ北米合衆国の国旗を以て
之に充つべしと談じおきたり」と語った(松村前掲書)。
金子は間違ひなく、ルーズヴェルトの心情を、
その深奥に於て把握したのであった。

明治38年4月2日、金子はニューヨークのカーネギーホールで
「日本人の性質及び理想」といふ題で単独講演し、
その中で、日本精神を形成したものとして教育勅語と軍人勅諭の二つを上げ、
英訳して紹介したところ、大きな反響を呼び、
各方面からその英訳をもらひに来た。

例へば、ウェスト・ポイントの教官は陸軍士官学校の教材にするからとて、
又アナポリスの海軍大学校の教官は海軍大学校の教材にするからとて、
軍人勅諭の英訳を貰ひに来た。

また、かつての大統領グラント将軍の長男たる東部都督のグラント中将も、
「自分の統轄内の兵卒に読ませて、日本の陸軍のやうに
強くなるやう兵隊を訓練したいから」と云って、
やはり軍人勅諭の英訳を持ち帰ったと云ふ。

日本海海戦で我が聯合艦隊がバルチック艦隊を撃滅した時、
米国民の歓喜は最高潮に達した。
金子は「米国人は日本海の大勝利を以て世界未曾有となし、狂喜雀躍」
と天皇陛下に宛てて祝電を打った。
とりわけ喜んだのはルーズヴェルトであった。
彼は5月30日付で金子に親書を送り
「かのトラファルガーの戦勝もしくはスペインの『無敵艦隊』
(Invincible Armada)の撃破も這般の大勝には遠く及ばずと愚考仕候」
と述べ、手紙の最後に「万歳」と大書したのであった。

戦争も終結期に入った明治38年7月、
金子がオイスターベイの大統領私邸に招かれた際、
大統領は日露戦争について次の如く語った。

「東洋の有様を見ると、独立の勢力のあるのは日本のみである。
そこで日本がアジアのモンロー主義をとって、アジアの盟主となり、
アジアの諸国を統率して各々が独立するやう尽力することが急要である。
それには日本がアジア・モンロー主義を世界に声明して、欧米諸国が
アジアの土地を取ったり、かれこれすることを断然止めさせることだ。
そうして西はスエズ運河から東はカムチャッカまで
日本のアジア・モンロー主義の範囲内として欧米諸国には
干渉させないやうにして欲しい」と。
この重大なことを、「大統領をしてゐる間は公表してくれるな。
併し自分が大統領を辞めて一個のルーズヴェルトになった時には
自ら進んでこの意見を発表する」と断った上で、金子に語ったと云ふ。
(金子前掲書)
ルーズヴェルトの日本に対する信頼の大きかったことを
物語る秘話である。
ルーズヴェルトをして、斯くまで日本に傾倒せしめたものは、
かつて英訳忠臣蔵(斉藤修一郎訳)を読んだ時、
日本人の忠義に厚いことを知り、
以後、日本贔屓になったのであると伝へられる。
(信夫淳平『二大外交の真相』)。

◆日本恐るべし ルーズヴェルトの不安

開戦早々、ルーズヴェルト大統領は独仏に対し、
もし露独仏が三国干渉の時のやうに日本に対して連合するならば、
米国は即刻日本側に立って日本を支援すると警告してゐるし、
また彼が「日本は我々のために戦ってゐる」
と述べたこともよく知られてゐる。

「日本は米国のために戦ってゐる。」
この言葉は米国の外交史家ベイリーが評するやうに、
いささか自己満足で近視眼的であったかも知れない。
といふのは、日本の連戦連勝を見るルーズヴェルトの胸中には、
次第に日本に対する不安が兆しはじめたからである。

日露戦争も末期の明治38年(1905年)6月、
彼はロッヂ上院議員に宛てた親書の中で「間違ひなく日本の陸海軍は
恐るべき敵であることを示した。全世界にこれ以上危険な敵はあり得ない」
と述べてゐるが、あれほど親日的であった彼にして、
これは一体どうしたことなのであらうか。
外交史家デンネットは云ふ。
「ルーズヴェルトは日本を賞讃してはゐたが、同時に日本を恐れてもゐた。
それ故に、嫌ひな露国を、
余りにも完全な潰滅から救ひ出さうとしたのである」と。

以て、日露戦争終局の頃を境にして米国の対日観に微妙だが
紛れやうのない変化の生じはしめた様を窺ふことができよう。
然り、幕末安政の開国期以来、半世紀にわたって
あれほど友誼的であった日米関係は、日露戦争を契機に、
いつしか対立・抗争へと変質しはじめて行ったのだ。
この日米抗争は、一つは満洲の鉄道争覇として、
もう一つは日本移民排斥問題として展開し、深刻化して行くことになる。

◆大東亜戦争の名称と性格

大東亜戦争とは何か。
先づ大東亜戦争といふ呼称は、日米開戦2日後の昭和16年12月10日に、
当時国家意思決定の実質的最高機関であった大本営政府連絡会議が
「今次の対米英戦争及び今後情勢の推移に伴ひ生起することあるべき戦争は
支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」として決定したもので、
翌々12日、この呼称は閣議で正式に決定された。

こういう訳で、当時の全日本人はあの戦争を「大東亜戦争」と呼んで
戦ったのであり、それは戦争の行なはれた地域的拡がりからしても、
またその戦争が東洋と西洋の対立という契機を含む歴史的経緯からしても、
極めて自然な名称として受け容れられたのであった。

戦後盛んに使用されてゐる「太平洋戦争」「十五年戦争」などの呼び方は、
歴史的には存在しなかったものであり、
それ故、歴史用語として用ゐるのは不適当である。

では大東亜戦争とはどのやうな性格の戦争であったのか。
その性格規定を筆者なりに行なってみよう。

大東亜戦争は二つの大きな歴史的潮流の合流し、
激し合ふ所に生起した戦争であると云ってよい。
一つの流れは19世紀末以来の門戸開放主義を理念とする米国極東政策と、
特に満蒙との特殊関係維持を主張する我が大陸政策との
相剋であり争覇戦である。これが主流である。

ロシア革命以後は、共産主義から日本と東亜を守る
防共の戦ひといふ流れが合流してくることになる。
日米大陸政策のせめぎ合ひと共産主義との戦ひ―――
この二つが大東亜戦争の基本的性格であると考へられる。

◆ハリマン計画の挫折―――日米抗争序曲

この戦争の主流をなす日米対立の本質は、詮じ詰める所、
中国・満洲との特殊関係を主張する我が大陸政策と、
門戸開放主義に立つ米国の極東政策の抗争であったと云へる。

では大東亜戦争を終曲とするこの日米抗争は、いつ始ったのであろうか。

筆者は日露戦争直後の時期を以てその起点と考へたい。
即ち満洲に於ける日米の鉄道争覇戦の中に「大陸政策をめぐる日米抗争」
といふ大東亜戦争の原型を認め得るのではないかと思ふ。

林房雄は『大東亜戦争肯定論』の中で、
大東亜戦争は幕末弘化の頃に始った「東亜百年戦争の終曲」であると説いた。
それはそれとして間違っていないが、
大東亜戦争の本質を前記のやうに規定するなら、
そのような抗争は日露戦争以前には存在しなかった。
それ故、以下に述べる満洲鉄道をめぐる争覇戦こそ、
大東亜戦争に発展する日米抗争史序曲と考へてよからうと思ふ。

手短に書こう。
満洲の鉄道に対する米国の介入は、日露戦争終結前後、
鉄道王E・H・ハリマンの満鉄買収計画に始った。
米国、太平洋、日本、満洲、シベリア、欧洲、大西洋を結ぶ世界一周交通路
の建設を夢見るハリマンは、手始めに南満洲鉄道、
次に東支鉄道を買収せんと、機敏にも明治38年(1905年)8月、
ポーツマス講和会議開始と共に米国を発って来日し、
やがて日本が獲得するであらう南満洲鉄道を日米で共同管理する案を
朝野有力者に説き、大方の賛同を得た。

そして10月12日、桂首相との間に満鉄共同管理に関する予備協定を取交し、
意気揚々と帰国したが、すれ違ひにポーツマス会議から帰朝した小村外相は、
ハリマン協定に驚き、その破棄を説いて回った。
小村の論は、満鉄移譲について清国の承諾を得る以前にかかる契約を
なすことは不当であり、また10万の同胞の命と20億円の国帑を犠牲にして得た
満鉄を結局は米人に売却し、南満の権益を放棄するのはポーツマス条約の
真髄に反すると云ふにあった。

小村の主張は通り、ハリマンがサンフランシスコに入港すると同時に
我が国は予備協定の中止を伝へ、これを破棄した。

斯くして米国資本の最初の満洲鉄道介入は、
小村の果断によって阻止し得たのであった。
ハリマン協定は日露戦争後、米国がはじめて門戸開放主義を満洲に実践せんと
試みたものとして注目に価しよう。

◆満洲善後条約と満鉄併行線禁止

夷を以て夷を制するは中国の伝統的政策だ。
ロシアが満洲を占領するや、清国は自力でこれを排除できず、
漸く日本の力によって露軍を放逐することができた(日露戦争)。

その結果、日本がロシアの在満権益を継承すると
今度は英米を誘って日本を排除せんと策するに至った。

これが大きな紛議の原因になるのだが、
それを理解するに先立って「満洲善後条約」を知っておく必要がある。

ポーツマス条約で我が国が遼東半島租借権と東支鉄道南満洲支線(後の満鉄)
をロシアから移譲されたことは既述した。

ところで、このロシア権益の移譲については
ロシアとの原締約国である清国の承諾が必要であり、
そのことはポ条約にも明記してあった。

そこでポーツマス条約調印後の同年12月、北京で日清間に条約が結ばれ、
右の権益移譲について我が国は清国の承諾を得た。
これを「満洲善後条約」とも云う。

後年中国は、所謂ナショナリズムの高揚に乗じて
日本の在満権益一切を否認し、旅順・大運や南満洲鉄道まで
一方的に実力で回収せんとして「革命外交」なるものを展開し、
これが日華間に紛議を生じ、満洲事変の一因となったが、
右諸権益は、露国及び清国が条約によって日本に譲渡したもので
あることを忘れてはならない。

いづれ書くことにならうが、
日米開戦前夜、米国が我方に突きつけてきたハル・ノー卜の中には
右のポーツマス及び満洲善後条約で日本が合法的に取得した遼東半島租借権や
満鉄さへ否認し、その撤廃を要求する項目を含んでゐた。

それは米国が仲介したポーツマス条約を米国自身が否認し、
日本に日露戦争以前の状態に戻ることを要求するに等しかった。
このやうなハルーノートを突きっけられた日本が開戦を決意したのは
是非もない次第だったと云へよう。

さて、この日清満洲善後条約に関して重大な一点は、
条約の付属議定書で、満鉄の利益を保護するため、
満鉄と併行する幹線や満鉄の利益を害する支線を建設しないことを
清国が承諾したことだ。

この「満鉄併行線建設禁止」条項もまた、
後年中国側が次々と侵犯を重ねたため、
満洲事変に連なる日支間の重大争点を形成して行ったのである。

これは中国の約束違反だ。
今更嘆じても詮ないことだが、右の満洲善後条約だけでも
清国側か誠実に遵守してゐたならば、
その後の日本と中国は定めし静謐なる関係を保ち得たであらうと思ふ。

日露戦争での日本の勝利は、露国によって占領閉鎖されてゐた満洲を、
再び自由なる天地として回復した。
ところが清国は、自らば回復できなかった満洲が
日本の力によって再び自己の領有に復帰するや、
今度は英米の力を借りて日本を満洲から排斥せんと試みたため、
満洲は再び騒然たる抗争角逐の場と化したのである。

◆ドル外交の満洲割込み

この新たなる以夷制夷政策の「最も露骨な現はれ」
(前出ポール・クライド)は新法(新民屯・法庫門)鉄道建設問題であった。

即ち清国は明治40年(1907年)春以来、奉天西方の新民屯より、
その北方50マイルの法庫門までの鉄道建設を「絶対秘密裡」に計画して
英国ポーリング会社との間に交渉を開始した。
ところが新法鉄道は満鉄本線と併行するため「満洲善後条約」付属議定書に
明白に違反する(ポーリング会社はこのことを知らなかった)。

この計画を知った我が国は数度にわたって清国に抗議したが、
清国はこれを無視してポーリング会社との間に秘密契約まで締結した。
新法鉄道はやがて北方チチハルまで延長し、
満鉄と併行する一大幹線たるべく計画されたのであった。

この問題で、幸ひ英国政府に日本に対する理解かあったこともあって、
明治42年(1909年)「清国は新法鉄道建設に当っては予め日本と協議」
すべき旨の協約が日清間に成立し、清の策謀は挫折した。

一方に於て満鉄併行線を建設せざる約を日本と結び、
他方でこの約を破って恬然として恥ぢることなき清国、
斯かる背信と表裏ある政策が、中国に対する不信と軽侮の念を
我が国民に抱かせる結果になったとしても不思議はない。

新法鉄道問題を皮切りに俄かに紛糾激化した満洲鉄道をめぐる
国際争覇の中でも、とりわけ注目すべき事件は、
新法鉄道問題が決着した二ヵ月後の1909年11月、
ノックス米国務長官による全満洲鉄道の中立化提案であった。それは、

1.満洲の全鉄道を国際シンジケートで買収して所有権を清国に移し、
借款継続中は国際シンジケートで運営する。

2.これが不可能ならば、列国共同で錦愛鉄道を建設し、
満洲の中立化を実現する、

といふものであった。
因に錦愛鉄道とは南満の錦州より北満の愛璋に至る満洲縦貫鉄道で
満鉄に重大脅威を与へる併行線となるべきものであった。

先のハリマンは一企業家であったが、
ノックスは国務長官として満洲に介入せんとしたのである。
ルーズヴェルトの後を継いだタフト大統領の対外政策はドル外交と呼ばれる。

ノックス国務長官の満洲中立化案はドルの力を以て
満洲に門戸開放主義の実現を試みたものと評すべく、
極東に於ける米国ドル外交の象徴的表現であった。

だが満洲の現実を無視して身勝手な理念を
押しつけようとする政策が成功する筈はない。
満洲に最も切実な利害をもつ日露が結束して反対したのは勿論、
英仏とも日露の立場を優先すべしとして同意を差控へたため、
「日本を満洲より燻し出さんとする」ノックス提案は葬り去られてしまった。

しかしながら、満洲の歴史と現実に立脚する我が大陸政策と
観念的門戸開放主義を中心軸とする米国極東政策の公然たる軋轢と抗争は、
ここに端を発したと云ふべく、広義に於ける大東亜戦争、
即ち日米東亜抗争史は、この時に幕を切って落されたのであった。

他方、米国の満洲介入は皮肉にも日露の接近を促す結果となった。
日露戦争のあと両国は、再び戦ふよりは協調する方を選んだのである。

かくて1907年に第一回日露協約を結んで
満洲に於ける互ひの勢力範囲を設定した両国は、
ノックス提案の翌1910年には第二回協約を結び、
それぞれの勢力範囲に一層固い線を引くに至った。

この状況を外交史家グリスウォルドは、
ノックスは満洲に門戸開放の扉を開く代りに
「自分は外へ取り残されたまま、その扉を釘で打ちつけてしまった」
と評したが、云ひ得て妙である。

1913年、前大統領セオドア・ルーズヴェルトはタフトの満洲介入政策を
「不幸にして余の退任後、日本に対して徒らに刺激多く効果少なき、
極めて不賢明で誤れる政策が採られるに至った」と嘆じたが、
正しくその言葉通り、タフトの対満ドル外交は、
日露戦争まであれほど親密だった日米を、
戦争終結と共に満洲をめぐって嫉視抗争する関係に追込んで行ったのである。

◆対米関係悪化と我が対策

支那事変勃発後、在支米国権益の侵害や米国の蒋介石援助などの
問題をめぐって日米関係に緊張が生れ、
やがて第二次欧洲大戦の勃発は極東に於ける我が国の
対英米仏蘭関係にまで波紋を生ずることになる。

米を主とするこれら列強の対日経済圧迫の強化、
我が国の支那事変解決への焦慮と南方資源地帯への関心、
三国同盟締結等の諸問題は相乗効果を広げつつ、
日米関係悪化の局面へ導いてゆく。

本章は、一国の意思ではどうにもならぬ巨大な運動量で
推移して行った複雑な極東政局を概観する。

◆米の海軍拡張 『日米海軍、「必争性」の段階へ』

米国は19世紀に東にモンロー主義、西に門戸開放主義を唱へ、
戦略的には東に防御作戦を、西に対しては攻勢作戦を取るに至ったが、
やがて第一次大戦からワシントン会議以降になると、
一層太平洋方面への関心を強め、門戸開放主義を護るためには
攻勢的海車力が必要であるとの立場に立ち、
日米間に仮想敵国の関係を作り出すことになった。

門戸開放主義擁護のためのこのような海軍強化政策は、
満支との特殊関係を軸とする我が大陸政策と必然的に衝突する結果を生む。

満洲事変から支那事変にかけて日米関係が緊迫の様相を呈し始めるや、
日米海軍の想敵関係は「戦うかどうか」ではなく「いつ戦ふか」
の段階に入っだ観があった。

◆「米国は誇りを持つが故に戦う」

アルフレッド・セイヤー・マハンに始まる米国の大海軍主義は
ルーズヴェルト政権(1933年発足)にも継承された。
国務省極東部長スタンレー・ホーンベックは、
1936年1月、日本がロンドン軍縮会議を脱退すると、
これで無制限の建艦競争が再びできるやうになったとして、
これを歓迎した。

日本には米国との建艦競争に参加する余裕はないと彼は信じていたのである。
(William L.Neumann:America Encounters Japan,from Perry to MacArthur)
海軍部内の拡張論者のみならず、国務長官コーデル・ハルも
ホーンベックを支持した。
ハルは軍縮によっては平和は達成できないと確信し、
米国の大海軍建設を主張した。

例へば彼は1935年1月、大統領に送った覚書の中でこう述べている。
「我々は強い海軍を持つ努力を促進して、
他国が本気で我々の国を攻撃することなど考えないようにせねばならない。
米国民は『誇りを持っているから戦争をしない』国民ではなく、
ある条件の下では、誇りを持つからこそ戦はずにはいられない国民だ、
ということをはっきり知らせる必要がある」と(ハル『回想録』)。

このやうな対日強硬論に対して良識派も無論居た。
前極東部長マクマレーは、同じ年に作成した覚書の中で
「日米戦争で米国が勝った場合、利益を得るのはソ連だけである」
と結論づけていたし、英国の学者G・F・ハドソンは1937年(昭和12年)に、
日本の勢力を破壊することはロシアを復活させ、
また日本の行動は地理的に限定されているのに反して、
中国に於ける共産主義の勝利は、
あらゆる国家の革命勢力を新たに刺戟するであろうと論じたが、
これらは何れも、日本こそが極東で共産主義の防波堤の役割を
果している事実を鋭く認識した議論であった。

◆史上最大の海軍を目指したルーズヴェルト

この間、我が国ではナショナリズムの高揚にも拘らず、海軍拡張は進まず、
昭和5年以来の建艦計画は11年7月に至って漸く2.6%伸び86万6千トン
に達しただけであった。

他方、ルーズヴェルトは口では海軍軍縮への希望を表明しながら、
事実に於て建艦計画を支持していた。

昭和11年春、米国政府が平時に於て史上最高額の500億ドルを
超える海軍予算を要求したことが、これを立証する。
この年、米国の建艦計画はすでに136万8千トンに達していた。

同年末には、空母3、巡洋艦11、駆逐艦63、潜水艦18が建造中であり、
これは「比類を絶した海軍の再生」と称されたほどであった。

このやうな大海軍計画が我が国に危機感を与へたのは当然で、
永野修身海相によれば、日本が建艦計画を拡張しなければ
対米戦闘力は80%から60%以下に低下する計算であった。

昭和12年1月には英国で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
及びレパルス2隻の建造が開始されるや、
これに対抗して米国でも戦艦2隻が建造されることになった。

そして同年、我が国でも世界最大級の戦艦2隻「大和」及び「武蔵」の
建造が起工されたのであり、かくしてワシントン会議以来
抑制されてきた海軍競争が再開されたのである。

◆隔離演説とパネー号事件 米の「中道政策」

支那事変の勃発は、直ちに日米関係を悪化せしめた訳ではなかった。
基本的な対立点はありながら、
日米双方とも太平洋の静謐を希望してゐたと云へる。

当時、米国の極東政策の基調は、
ルーズヴェルト自ら命名せる「善隣政策」であるかの如く、
支那事変に対しても米国は、ハルの所謂「中道政策」を採用した。
(註)米国が「中道政策」を採用した理由は

1.満洲事変で米国は東亜に於ける無力を自覚したこと。
2.支那事変は局部的に終るものと予想したこと。
3.米国内の孤立主義によって積極行動が抑止されたこと。
4.列国が米国と共同行動する見込みがなかったこと。
5.対日貿易が対華貿易よりも米国にとって有利であったこと。

等であったと考へられる(清沢洌論文「日米関係史」)。

蘆溝橋事件勃発後間もない7月16日、ハル国務長官は事件について声明し、
1.武力行使の抑制
2.内政不干渉
3.国際協定の遵守
4.他国の権利の尊重
5.通商上の機会均等
6.軍備制限

など米国伝統の外交原則を表明したが、
事件そのものには触れず原則論に終始した。

これに対して8月13日、我が国はハル声明の諸原則には賛同するが、
それらの適用に際しては、支那に発生しつつある「特殊事態」
についての現実的認識が必要である旨を回答したのであったが、
これが以後、我が国の支那事変をめぐる対米姿勢の基調となってゆく。

◆我が国も欧米との衝突回避を望む

支那事変は我が国の予期せざる、また欲せざる事変であったため、
その速かな解決を求めたのは云ふまでもなく、
これが原因で第三国との関係が悪化することは
我が国の最も希望せぬ所であった。

その一端を伝へていると思はれるのは、
例えば事変発生後間もない昭和12年9月、
広田外相が植田(謙吉)駐満大使宛に発した電訓で、
列国に次の諸点を徹底させるやう指示している。

1.事変の原因は支那側抗日政策にあり、
その発端と拡大は常に支那側の挑戦的行動によること。
2.支那側背後にコミンテルンの策動のあること。
3.我が国には領土的意図はなく、また列国の権益を尊重すること。
4.我が国は速かな事変解決と東亜の平和確立を希望していること。

また「列国との関係を悪化せざるため他国を刺戟する言動を慎み、
極力事端の発生を避け、事端発生の場合には
速かに穏便解決方に努力すること」を指示し、

米国に関しては一項を設け
「事変勃発以来、比較的公正な態度を持し居るも、
ややもすれば親支的傾向を示し、また米ソ接近の兆しなしとせず」
との警戒的判断を示した上で、
殊に前記 3 の方針を十分説明するやう促してゐる。
(昭和12年9月1日、植田駐満大使宛広田外相電報
「日支事変に関する帝国の対欧米外交方針に関する件」)。

右の事情を考へ合せてみる時、支那事変勃発当初に於ては、
日米双方とも、それぞれの基本的立場は主張しつつも、
事変をして両国関係を悪化せしめざるよう、
その言動に於て慎重な配慮を施し、
相手を刺戟せぬやう極力努めてゐたと云ひ得るであらう。

◆挑戦的な「隔離演説」

昭和12年10月5日、ルーズヴェルトはシカゴに於て演説し、
世界人口の9割の平和と自由と安全が国際法と秩序を踏みにじる一割の
人間に脅かされてゐるとし、
「不幸にも世界の無秩序といふ病気が拡がってゐるやうだ。
身体の病気が拡がりたしから、社会はその健康を守るため
病人を隔離するものだ」と述べた。これは「隔離演説」と呼ばれ、
支那事変勃発後、米国政府指導者による最初の明白な日本非難であった。

国務省が作成した演説原案には「隔離」云々の部分はなく、
演説直前にルーズヴェルト白身が入れたものだった。
「隔離演説」は激しい反応を誘発し、演説の後、六つの平和主義団体が、
大統領は米国民を世界大戦の道に連れて行こうとしているとの声明を出し、
米国労働総同盟は「米国の労働者は欧洲、アジアの戦争に介入することを
欲しない」との決議を行なった。

また世論調査では、議員は2対1で国際連盟と協力して
極東に対して行動することに反対であり、
「米国を参戦させない」ための請願に2500万人の署名を求める運動も始った。

「隔離演説」の挑戦的な調子が、
米国民の間に戦争に対する危惧と反撥を招いたものと云へよう。
ハルによれば、この演説は国際的協力へ向けての
世論形成の努力を6ヵ月は逆戻りさせたと云ふ。

◆パネー号事件の発生

南京攻略の際に起きたパネー号事件について一言しておこう。

我が国は南京攻略に先立って各国に対し、
揚子江に停泊中の艦船を上流の安全地帯に退避させるよう勧告していた。

攻略当日の昭和12年12月12日、
我が海軍航空隊は遁走する支那軍の船とおぼしき船団を爆撃したが、
実はこれは米国の砲艦パネー号と
同艦に誘導された米スタンダード石油会社の2隻のタンカーだった。
パネー号は沈没し、他の3隻も沈没あるいは大破、米人死者3名を出した。

我が国は直ちに米側に対し、パネー号爆撃は過誤による事件であることを
説明して遺憾の意を表すると共に賠償の意思を伝へた。

また我が海軍も現地調査の結果を米側に報告するなど
誠意ある対応を示したため、米側も満足し、事件は短時日で解決をみた。

パネー号事件の背景を考へてみるとき、
先づ我が国の退避勧告を無視して日支両軍の激戦地区へ船団を進入させ、
事件を惹起した米側の責任を指摘せざるを得ない。

次にパネー号が米国艦船の標識をつけていたとしても、
支那軍に外国旗を遁走に利用する習癖のあることが、
日本軍に米国旗への不信の念を抱かせたであろうことだ。

不利な時には外国旗の下に逃げ込む支那軍の戦争方法には、
国際法的にも重大な責任があるだらう。

更に、パネー号が護送していた米国タンカーが支那空軍基地へ送るための
ガソリンを積載していたと云はれる点だ。
事実上の戦場に於て交戦国の一方の軍需品を堂々と輸送する神経は
異常と云ふ他ない。
米国が、これをも門戸開放主義に基づく正当な権利であると
主張するのであれば、それは日支交戦といふ眼前の現実を
故意に無視する常軌を逸脱した行動と断ずるのが至当であらう。

◆対日戦争を望まぬ米世論

パネー号事件に続いて南京が陥落すると米国の危機感は更に深まり、
米国内に極東政策再検討の声が高まった。

パネー号事件後の世論調査では、米国民の70%が在支米国人と米国軍隊の
引揚げを求めて居り、識者の中には、19世紀末以来、米国極東政策の
柱となってきた門戸開放政策すら放棄すべしとの論さえ現はれた。
(Neu-mann 前掲書)。
昭和12年から13年当時、
米国の在華権益を守るために対日戦争に訴へることを是認する世論は
米国内には殆ど存在しなかった。

パネー号事件の折、日本が支那事変にはまり込んでいる今こそ、
日本を撃つ最好機であるとして対日戦争を要求する声が
米海軍部内にあったが、当時、米政府にはモーゲンソー財務長官以外に
対日戦争を支持する閣僚は居なかった。

米国内に於ける日本商品不買や対日経済制裁の運動は
米国内の共産分子や支那国民党工作員によって火がつけられたとも云われる。

だが対日経済圧迫の一手段としての日貨排斥は、
米国にとって決して得なことではなかった。

事変当時、我が国は米国から南米12ヵ国を合わせたほどの
物資を購大していた(約2億9千ドル)。
世界で日本以上に米国から購大していた国は英国とカナダだけで、
日本の米国からの輸入量は、日本以外の全アジア
(支那・フィリピン・ジャワ・スマトラ・ボルネオを含む)よりも多かった。

昭和12年前後、米国は対日輸出超過、対支輸入超過だったのであり、
日本との経済関係悪化は、米国にとっても
決して望ましいことではなかったのである。

◆門戸開放をめぐる日米の相剋 対日共同作戦の検討

昭和13年は、支那事変拡大につれて当然ながら在華米国権益の損害が増え、
門戸開放主義をめぐる日米の対立が表面化するに至った年と云へよう。

由来、ルーズヴェルトの日本に対する猜疑心は青年時代からの
根深い感情であり、パネー号事件は日本の誠意ある対応で解決したものの、
ルーズヴェルトの対日不信は深まる一方であった。

彼が日本に対抗するため英国との協調に着想したのはパネー号事件のあと、
昭和12年12月末の頃であった。
翌13年1月、ルーズヴェルトはインガソル提督を英国に派遣した。
目的は太平洋で対日開戦した場合の
米英共同作戦の可能性についての調査だった。

インガソルは英海軍の戦争計画部関係者と幅広く話合ったが、
明確な協定を生むまでには至らなかった。

しかしながら重要なことは、英米合同作戦の可能性が、
早くもこの時期に検討されてゐた事実である。
1946年(昭和21年)2月12日、真珠湾攻撃調査合同委員会で
インガソルは証言している。
1938年の私の訪英が示すように、早晩我々はオランダ、
そして多分支那、それにソ連、英国そしてわが米国自身が
参加する戦争に捲き込まれるであろうといふこと、
また各国相互の連絡方法を調整するために
事前打合せをしておかねばならぬといふことは、
すべての人に分かつてゐた」。

右のインガソル証言の如く
「もしルーズヴェルト周辺の『すべての人』が
米国は早晩参戦するであろうということを知っていたとすれば、
1940年(昭和15年)にルーズヴェルトが米国の不参戦を
国民に断言したことは、ルーズヴェルトが
いかに嘘の名人になったかを示すものである」
と歴史学者タンシルは批判する。

ともかく、我が国が支那事変の解決と東亜の平和確立、
そして対米親善関係維持に腐心していた頃、
米国が対日共同作戦の研究を開始していたとは
驚くべきことと云はねばならない。

ルーズヴェルトの念頭にあったのは対日平和よりは
戦争の可能性であったと断じて間違いなかろう。

◆我が国、遂に「門戸開放主義」を否認す

昭和13年秋、我が軍は漢口、南支両作戦を進め、
作戦の必要から揚子江及び珠江を封鎖した結果、
第三国の在支権益をめぐる軋轢は避け難い状況となった。

日支が事実上、交戦状態にある以上、
米英の在支権益との抵触事例が急増したのは致し方ないことである。

斯かる状況が進展中の10月6日、
ハル国務長官は頗る長文の覚書を日本に突きつけてきた。

それは、日本軍占領地域に於て差別的な為替管理、
専断的な関税改正が行われ、また特殊会社の設立で門戸開放主義が破壊され、
米国民から機会均等主義が剥奪されているとして
我が国を非難する内容であった。

米国伝統の門戸開放主義に立つ
最初の具体的な対日抗議として注目すべき覚書である。

これに対して有田(八郎)外相は11月18日、これまた長文を以て回答した。
それは米国の非難を逐一反駁したものであるが、
この回答の中心思想は、目下東亜で大規模な軍事行動が
行われつつあるが故に、時として米国権益尊重に支障が生ずるのは
已むを得ぬことであると論じ、
「今や東亜の天地に於て新たなる情勢(支那事変を指す筆―――筆者註)
の展開しつつあるの秋に当り、事変前の事態に適用ありたる観念ないし原則
(門戸開放主義を指す―――筆者註)
を以て、そのまま現在及び今後の事態を律せんとすることは
何等当面の問題の解決をもたらす所以にあらざるのみならず、

また東亜恒久平和の確立に資するものにあらざることを信ずる次第」
云々と述べた条であった。

要するに支那事変といふ非常事態に於ては、
門戸開放主義と云った観念的原則を文字通りに
遵守することは出来ないと主張したわけであり、
それは即ち9力国条約(既出)とワシントン体制そのものを
公式に否認したに等しいのであった。

19世紀末以来、米国極東政策の基本理念たる門戸開放主義が、
従来とかく日米の東洋政策に於ける
齟齬を生んできたことは既述した通りである。

にも拘らず、我が国は原則的には右主義を承認してきたのであるが、
事態ここに至って、遂に明言を以て門戸開放主義を公式に否認したのであり、
正に画期的な声明であった。

◆ブロック経済が強制した「新秩序」

これに先立って、広東、武漢三鎮が陥落した直後の11月3日、
近衛首相は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」が
日本の戦争目的であるとの声明を発した(第十六章 第二節参照)。

この「東亜新秩序」声明と有田外相の対米回答が米国に強い衝撃を
与えたことは間違いなく、
日米の対立は妥協の極めて困難な段階に入ることになった。

「東亜新秩序」声明に対しては翌11月4日、
ハル長官が「米国の対アジア姿勢は国際法諸原則と諸条約の規定
及び国家間の公正な取引の原則に従ふ」との声明を出して反論したが、
それは観念的な門戸開放主義と形骸化した9力国条約の尊重を
空しく繰返したに過ぎず、支那事変という動かすべからざる現実に対して
殊更に目をふさぎ、耳を掩はんとするものでしかなかった。

日本のワシントン体制批判に直面した米国務省は、日米通商航海条約破棄、
特別高関税賦課、クレヂット供与禁止などの対日経済制裁を検討したが、
結局12月15日、米国は対支クレヂット2500万ドル供与を発表して
日本の対支政策への反対を表明した。

一方、有田外相は12月19日、東京の外国特派員に対して声明を発表し、
日満支ブロックは共産主義に対する防衛として政治的に必要であり、
また世界列国が経済的自給自足に向けて関税障壁を益々高くしている現状では
経済的にも必要であること、東亜新秋序に於て日満支3国は
それぞれの独立と個性を保持するであろうこと、

更に、国防と経済的安定の必要上、
日本が第三国の活動にある種の制限を課す必要が生ずるかも知れないが、
新秩序は決して欧米諸国の経済活動を東亜から排除することを
目的とするものではないこと等を強調した。

有田は「世界各国は自分の都合次第で
いつでも経済障壁を設けることができる。
これでは相手に生殺与奪の権を握られているのに等しいのであるから、
日本も最小限度の自給自足圏の確立が必要であると考えるようになった。

国際情勢の変化は私をして日満支の経済ブロックの必要を感ぜしめ、
またそのためには9ヵ国条約に、いわゆる門戸開放、機会均等はそのまま、
無条件には認め得ないと考えせしめるに至った」と述懐しているが
(前出『馬鹿八と人はいう』)、
世界列国が排他的経済ブロックを確立しつつある中で、
「持たざる国」日本が自存の道を確保してゆくには
是非とも日満支の自給自足経済ブロックの建設が必要であり、
そのためには米国の主張する門戸開放主義も無条件、
字義通りには適用し難い―――

これが我が国をして9ヵ国条約と門戸開放主義を
否認せしめた思想的背景であった。

右の門戸開放否認声明に対してハルは、12月31日、
「米国はいかなる第三国の要請や特殊目的があるにせよ、
長年にわたって確立されてきた機会均等と公正な待遇を受ける権利を
専断的に奪うやうな体制の樹立には同意できない」
との声明を発して応酬した。

要するに門戸開放主義をいささかでも制限するが如き新秩序は
承認できぬと反論したのである。

我が国にとって、東亜新秩序とは何だったのか。
これこそ、我が日本の自存自衛達成の方途と深く関はりながら、
大アジア主義実現へ向けて第一歩を踏出さんとする構想で、
その中には謂はば明治以来の歴史的課題解決への期待が、
明確に意識されてはいなかったにせよ、
込められていたと云えるのであった。

やがて情勢の推移と共に、南方諸地域を包含するまでに
この構想を拡大したのが「大東亜共栄圏」の思想であったと考えてよい。

◆反日煽った宣教師達

米国は支那事変が門戸開放主義に違反すると我が国を非難しながら、
実は米国の対支貿易は事変にも拘らず増え続け、

また一方、日本は満洲事変以来、
米国にとっては英国、カナダに次ぐ貿易上の顧客なのであった。

それ故、通商上からは支那事変は決して
日米開戦の十分な理由にはなり得なかった。

米商工業界が禁輸などの強硬な対日経済圧迫に
消極的だったのは当然であらう。

タンシル教授によれば、米国の反日世論形成に努力したのは、
むしろ支那で布教するプロテスタント宣教師とその関係団体であり、
彼等の支那びいきと日本非難が対日経済制裁を
引出す世論環境を用意したと云へる。

更に昭和15年7月から陸軍長官となるスチムソン―――
満洲事変で不承認主義を唱へたあのスチムソン国務長官であるが、
対日経済報復を主張する有力な圧力団体の長であったことは、
両国の不幸な前途を予兆するものであった。

◆対日経済制裁と中立法改正 道義的禁輸の実施

米国が対日経済制裁を検討するに至ったのは
昭和13年(1938年)末頃からと見てよい。

国務省政治問題担当顧問ホーンベックがハル長官に、
米国民は今や思い切った行動を歓迎しているとして
日米通商航海条約の廃棄通告を提案したのはこの年の12月であった。

当時英国からも対日経済制裁論が提唱された。
例へば同年12月31日、クレーギー駐日英国大使はグルー駐日米国大使に、
日本からの輸入制限と対日クレヂットと借款の停止による
対日経済制裁についての覚書を送っている。
だがグルー大使自身はこの提案に反対であった。

グルーによれば
「日本人は頑健な民族で、個人的また国家的犠牲に慣れている。
彼等は歴史を通じて惨事や災害との遭遇に慣れて居り、
『命懸け』の精神は他のいかなる民族よりも
深く日本民族の中に染み込んでいる。
支那に於てこれだけ多くの血と財貨を投じたいま、
日本が今事変での敗北を認めるというが如きは、
当大使館としては頗る考へ難い仮説である」
と云ふものであった。

だがグルーの意見にも拘らず、米国当局は昭和14年1月、
日本に対して航空機及び部品の道義的禁輸(モラル・エンバーゴー)、
続いて翌2月にはクレヂット禁止という対日経済制裁を実施した。
(註)ハル国務長官はグルー駐日大使とホーンベックなどの
対日経済制裁主義者の中間的立場を取っていたが、
日本に対しては限りない敵意を抱いて居り、
独伊はともかく
「日本のことになるとサーベルをガチャガチャ鳴らさんばかり」
であったと云ふ(前出 ニューマン)。

◆天津英租界の封鎖

支那事変拡大と共に、支那に於ける日英間の軋轢も増大したが、
昭和14年(1939年)4月、中華民国臨時政府(前出)によって
新たに任命された海関監督・程錫庚が
天津の英租界内で暗殺される事件が発生、
その犯人の引渡しを英国側か拒否したため、
我が現地軍は6月14日から英仏租界を封鎖する事態となった。
(註)天津の英仏租界は、藍衣社やC・C団など国民党特殊工作機関
及び共産党抗日分子の隠れ処となっていた。

この背景には、支那事変勃発以来、英国が陰に陽に支那を援護し、
日本を過度に非難する傾向があり、それが我が作戦に多大の不利を与え、
我が軍の対英感情も相当悪化していた事情があった。
(軍令部「対英感情は何故に悪化したか」昭和13年9月1日)。

この天津英租界封鎖をめぐって、
7月に入り2回の有田・クレーギー会談が聞かれた結果、
英国側か支那に於ける日支交戦の現実を承認し、
日本軍に対する利敵行為を排除する必要を認める旨の協定が成立して
(7月22日)、この問題は結着した。

◆日米通商航海条約を一方的に廃棄

だが、天津問題での英国の対日宥和姿勢に不満をもつ米国は、
有田・クレーギー協定成立4日後の7月26日1939年)、
突如、1911年に締結された日米通商航海条約の廃棄を我方に通告してきた。

支那事変勃発以後、原油、精銅、機械類、飛行機生産原料、屑鉄などの
生産材が輸入総額の4割を占め、
米国をその主要供給源としていた我が国にとっては重大な衝撃であった。

何となれば、右条約廃棄後は、米国はいつでも好む時に、
合法的に対日貿易を制限あるいは停止できることになるからである。

この日本の憂慮に関はりなく、6ヵ月後の昭和15年1940年)1月26日、
安政5年以来、日米友好の絆となってきた日米通商航海条約は廃棄された。

そして、それに代る新条約締結の可能性もないまま、
日米は無条約時代に入ることとなった。

支那は無論、この事態を歓迎した。
米国が日米通商航海条約廃棄通告を行なった直後の昭和14年7月30日、
重慶の蒋介石はジョンソン米国大使に対し、
米国の廃棄通告が日英(有田・クレーギー)協定成立直後に行われたので、
中国の危機を救うのに役立ったと謝意を表明したのであった。

米国政府が太平洋に於て日本と対決する姿勢を明確ならしめるに至ったのも、
この時期と考えてよかろう。

即ちこの年(1940年)5月、
ルーズヴェルトは米主力艦隊を突如、大西洋からハワイヘ移駐させたが、
これは対日経済圧迫強化に備えての布石と考える他なかった。

米国はまたフィリピンの海空軍勢力を増強しつつ、
600件に上ると称する在支米人権益の侵害事件の解決を
我が国に追ってくるなど、
米政府の対日姿勢は一段と強硬の度を加えてきたのである。
(蘆野弘 論文「支那事変を中心として観たるアメリカの東亜政策」)。

◆中立法の欺瞞

昭和12年5月改正の米中立法は戦略物資については
交戦国による「現金・自国船」条項
(現金で支払い、自国船で輸送する国には販売を認める)を含み、
日本など制海権を持つ交戦国に有利(逆に中国には不利)であったため、
ルーズヴェルトは支那事変を「戦争」とは認定せず、
従って中立法の適用も拒否した。

その結果、米国は対支軍事経済援助は自由にできるが、
他方、日本に対しても商業ペースで大量の軍需品・戦略物資を
輸出せざるを得ない立場に立たされた。

斯かるジレンマは米当局に対日経済圧迫の必要を
益々痛感させずにはおかなかった。

(註)支那事変は「戦争」だったのか。
支那にとって不利な中立法の適用を避けるため、
米国は支那事変を「戦争」とは認定しなかったが、
戦後の東京裁判では
支那事変は日本の支那に対する侵略戦争として裁判の対象とされた。
もし支那事変が「戦争」であったとするならば、
米国は中立法を適用すべきだったのであり、
支那にのみ軍事援助を与え、
日本に対して軍事物資の輸出制限や禁止を行なったことは、
明白に中立法違反となる筈である。
米国の犯した重大な矛盾がここにある。

因にルーズヴェルトは、昭和14年9月3日、
第二次欧洲大戦が勃発するや直ちに中立を宣言すると共に、
議会に対して中立法改正を求めた。
彼は侵略に対抗する民主主義国を援助するために、
もっとも彼はそのような思い切った表現を使ったわけではないが、
交戦国への武器輸出禁止を撤廃するよう議会に勧告し、
「米国を紛争から隔離しておくために」
その年の5月に、すでに期限の切れていた「現金・自国船」条項の
再制定を要請したのであった。

孤立主義者は、武器禁輸撤廃は一方(英仏側)に味方するために
試合が開始されてからルールを変更するものであるが故に
反中立的であると批判し、
他方撤廃論者は、現行中立法は却って“侵略者”を利するもので、
もしポーランドが米国から武器援助を受けることができると
ヒットラーが知っていたら、
彼は決してポーランドに侵入しなかったであろうと主張した。
(Bailey 前掲書)。

11月4日、交戦国への戦略物資のみならず
武器の「現金・自国船」条項を含む新(第4次)中立法が成立した。
制海権が英国の手中にあったため、
この方式で武器を購入できるのは事実上英仏のみで、
ドイツは不可能であった。

それ故、右の中立法改正は、
実質は中立法の廃棄と呼ぶべきものであった。

このような矛盾と欺瞞に満ちたやり方で、
ルーズヴェルト政権は昭和14年後半には、大西洋では英仏援助、
太平洋では対支援助と対日制裁を強化する姿勢をあらはにしつつあった。

◆北部仏印へ協定進駐 南進、二つの原因

英米の対支援助と対日経済圧迫は、
必然的に我が国の方策を援蒋ルート遮断と
自給自足の経済体制確立の方向へ向けさせることになった。

我が国の南方政策、
いわゆる「南進」は右の2つの性格を包蔵するものであった。

だが両政策とも、
我が国の「自存自衛の最高措置」(『東條英機 宣誓供述書』)として
平和的外交手段により達成すべく努力が尽くされたにも拘らず、
米英蘭の日本敵視と裏面の反日策動のため、
我が国は多大の困難に逢着することになった。

首都南京陥落後、奥地の重慶に退いて
抗日戦争を継続する蒋介石政権を支へたのは、
米英仏ソなどによる軍事経済援助であった。

中国の沿岸を我が海軍が封鎖したため、
これらの援助は仏印やビルマや支那西北方から重慶へ通じる
いわゆる「援蒋ルート」によって行なはれた。
この援蒋行為が続けられる限り、支那事変は決して解決しないことは明白だ。

しかも右列国は事変解決のための居中調停をするにあらず、
援蒋行為で中国の抗日戦意を煽り、
日支の抗争を徒らに長引かせるに過ぎなかった。
我国が援蒋ルート遮断を考えたのは事変解決を希望する以上、
当然と云へよう。

仏印ルート、ビルマールート、西北ルート及び南支ルートの
四本の援蒋ルートのうち最も重要なのは仏印ルートで、
全援蒋ルートの輸送量のほぼ半分がこのルートを通じて送られていた。

仏印ルートには海防から河内、老開を経て雲南省昆明に至る雲南鉄道と、
海防からランソンを経て広西省・南寧に至る二つの路線があり、
殊に雲南鉄道が主要ルートだった。

支那事変勃発以後、我が国は仏印ルートによる援蒋行為禁止を
しばしばフランス政府に申人れたが、
フランスが様々な口実で援蒋行為をやめないため、
昭和14年末から翌15年初めにかけて、
雲南鉄道の鉄橋を爆撃したこともあった。

フランスはこれに対して抗議してきたが、
我が国は対支援助に雲南鉄道が使はれている以上、
鉄道への爆撃は国際法上正当なりとして、損害賠償を拒否した。

我が国は説得により問題を解決すべく、
一切の援蒋物資の輸送停止が困難であるならば、
少なくともフランスでも戦時禁制品とされている武器弾薬、飛行機、
トラック、ガソリン、金属類と機械など数品目の輸送停止を求めたが、
フランス側は鉄道爆破個所を修理すると再び援蒋輸送を開始し、
かくして我が軍はまたしても雲南鉄道の爆撃を余儀なくされるのであった
(昭和15年4月下旬)。

◆北部仏印進駐と米の対日禁輸強化

然るに欧洲戦局が独軍有利に展開し、
6月中旬フランスがドイツに降伏するや、仏印総督カトルーは、
ようやく仏印ルートによる援蒋物資の輸送を停止し、
日本監視団の派遣も承諾した。

6月末、西原一策少将を団長とする我が監視団が仏印に到着すると、
カトルー総督は支那に対して共同防衛する目的で
日本と仏印が防守同盟を結ぶことを提議した上、
支那事変を解決するために昆明攻略作戦を日本側に進言し、
その際は仏印内から側面援助しようとまで提言したので、
我が陸海軍中央は監視団を通じて、仏印共同防衛のために
我が軍の仏印通過と航空基地利用を要求することになった。

この交渉はカトルーが更迭され、新総督ドクーに代ってから難航したが、
7月22日、第二次近衛内閣が成立すると、
松岡(洋右)外相とアンリ駐日フランス大使の間に交渉が行なはれ、
8月30日、両者間に協定が成立した(松岡・アンリ協定)。

この協定で我方は、

1.仏印の領土保全と仏印に対するフランスの主権を尊重すること。

2.日本への軍事的便宜の供与は支那事変解決のための臨時的なもので、
事変終結と共に消滅すべきものであること。

3.右便宜供与は支那に隣接するトンキン州にのみ限られること。

4.右便宜供与はフランス軍の監理下に行われること。
(即ち軍事占領の性質を有しない)

5.日本軍の存在や行為で仏印が敵軍から損害を受けた場合は

日本政府が賠償をすることを約し(外務省『主要文書』下)、
ここに2ヵ月に及んだ日仏交渉は妥結した。

松岡・アンリ協定に基づき、現地で軍事細目協定が調印され(9月22日)、
翌23日より日本軍の仏印進駐が開始された。

この軍事細目協定の骨子は
1.日本軍が使う飛行場はトンキン州で4ヵ所。
2.日本軍駐屯の目的は飛行場の警備と補給で、兵力は6千人以下。
3.駐屯地区は飛行場周辺。但しハノイは除く。

等、多くの制約を日本軍に課するものであった。

このようにフランスの主権も仏印の領土保全も尊重することを約し、
対支作戦のための暫定的なものでしかない日・仏印協定さえ米国は敵視し、
9月23日、ハルは現状を破壊し、
かつ威圧により達成された行為を認めずという日・仏印協定不承認声明を
発した上、9月26日には、すでに実施されていた屑鉄の輸出許可制を
一歩進めて、10月16日以降、
全等級の屑鉄・屑鋼の対日輸出を禁止する方針を発表した。

◆ビルマールートの再開

ビルマールートとはビルマ(現ミャンマー)から
支那・雲南省に達する道路で、漢の時代からこの道を経て
東西文化の交流が行われていたらしい。

その後は廃れたが、時代が下って支那事変中、
支那沿岸が我が軍によって封鎖されると
ビルマールートは軍需物資補給路として再び注目され、
中国政府は昭和14年に道路を完成させた。

ラングーンからラシオ・昆明を経て重慶まで全長3400キロあり、
援蒋ルートとして利用された。

しかし、欧洲の戦局が急変し、英国が危機に陥った昭和15年6月、
我が国はビルマールートによる援蒋武器輸送の停止を英国に求め、
折衝の末、英国はこれに同意し、
7月17日、ビルマ・ルート3ヵ月間停止のための協定が日英間に結ばれた。

英国のこの決定に不満であったハルは、
ビルマ・ルート閉鎖は世界貿易に対する不当な妨害であり、
米国は独自の政策を遂行するとの所見を述べた。
中立義務違反に等しい援蒋行為さえもが、
通商の自由であるとのハルの臆面もなき主張には辟易する他ない。
門戸開放主義の悪用も極まった観がある。

だが一方、我が国に譲歩した英国も、
我が北部仏印進駐と三国同盟締結(9月27日)を理由として、
ビルマ・ルート一時閉鎖の協定を更新することを拒否し、
10月18日より公然とビルマ・ルートによる援蒋輸送を再開したのであった。

◆日本より早く英米ソも他国へ進駐

我が軍の北部仏印進駐に際して、日仏両軍間に衝突が発生した。
これは遺憾なことではあったが、この局部的衝突は北部仏印進駐に対する
我が国の基本的態度とは関はりのない事件であった。

さて東京裁判以来、この北部仏印進駐を以て
日本の侵略行為と論ずるのが定説であるが、
英米両国でさえ他国に同様な軍事進駐を行なっていた事実がある。

仏印進駐と同じ昭和15年の春、
ノルウェーとデンマークが独軍に占領されるや、
これら両国の属領たるアイスランドとグリーンランドが
ドイツの手に陥るのを予防するため、
英国は機先を制して5月にまず2万の兵力を以てアイスランドを占領し、
同島のノルウェー自治政府はこれを承認した。
我が軍の北部仏印進駐の実に4ヵ月前のことであった。

一方、グリーンランドには自治政府がなかったので
合法的な進駐は困難であった。
だが北大西洋でのドイツ潜水艦の活動が活発になると、
昭和16年4月、米国は駐米デンマーク公使との間にグリーンランドに
空軍基地を設定する協定を結んだ。
ドイツの支配下にあったデンマーク本国政府は直ちに右協定を取消し、
公使の召還命令を発したが、米国は意に介せず、
グリーンランドに基地を設定した。
日本の南部仏印進駐(後述)3ヵ月前のことであった。

また同年5月、アイスランドが独立を宣言するや、
その承認の下に米軍は7月、英軍に代って米軍を同島に進駐させた。

斯かる英米の他国への軍事進駐を不問に付し、
我が国の仏印進駐のみ侵略と非難されるのは甚だ不公正と云うほかない。

東京裁判でブレークニー弁護人は、日本を不戦条約違反の罪に問ふならば、
戦勝国にも同様に不戦条約違反行為があったとして、
ポーランド、バルト三国、フィンランド、ルーマニヤ及びイランに対する
ソ連の侵略、英国のアイスランド侵入、
米国のアイスランドとグリーンランド進駐、
豪洲とオランダによるチモール島占領等の
侵略行為を立証する文書を提出したが、

ウェッブ裁判長は東京裁判は
日本の侵略戦争以外の戦争を裁く権限はないと却下した。
「同じ行為をしておりながら日本は有罪とされ、
他の国々は無罪であるとするのは裁判基準が二つあることになる」
とブレークニー弁護人は、東京裁判のダブルースタンダードを
鋭く批判したのであったが、
結局、ソ連・米・英など戦勝5ヵ国の侵略行為は裁判に関連なしとして、
それらに関する弁護側の証拠は却下されてしまった。

◆バルト三国併合との比較

北部仏印進駐を、
それより3ヵ月も早く行なはれたソ連のバルト三国進駐と比較してみよう。

ソ連は三国政府と何の交渉も行うことなく、突如、最後通牒を突きつけ、
殆ど即日これを受諾させ、
バルト三国全土にソ連軍の自由進駐を認めさせた上、
親ソ政権まで樹立した。
バルト三国の主権尊重などソ連の眼中にもなかった。

これに比べて、同じく欧洲政局の急展開に対応したものとはいへ、
我が仏印進駐の何と紳士的であったことか。
2ヵ月に及ぶ辛抱強い外交交渉の末に結んだ協定では、
仏印に対するフランスの主権と仏印の領土保全の尊重を約束した。

ソ連が僅か17万平方キロのバルト三国に10万もの軍隊を
自由進駐させたのに比べて、我が国が75万平方キロという広大な仏印に
進駐させたのは6千以下の軍隊である。
駐屯地域もトンキン州の4ヵ所の飛行場周辺に厳しく制限されていた。

しかも、この駐屯は支那事変解決までの
臨時措置であることを我が国は明文を以て約したのに対し、
ソ連はバルト三国を忽ち併呑し、以後今日まで五十年に及んでいる。
いまだにソ連はバルト三国の独立を拒否しているのだ。

これ以上のあからさまな侵略、他国に対する政治犯罪はあるまい。
これに口を緘して日本の北部仏印進駐を侵略と論じ立てるのは、
いやしくも良心ある者のよくなし得ぬ所であろう。

◆日蘭会商と米英の圧力 自存自衛体制の確立へ

支那事変の長期化に伴って、我が国が英米依存の経済体制から脱却するため
蘭印(蘭領東印度。現在のインドネシア)資源に
関心を向けはじめたのは自然なことだった。

殊に昭和15年(1940年)1月の日米通商航海条約失効以後は、
自存自衛体制確立のため、遅滞なく蘭印物資の買付けをする
必要に迫られたのであった。

この南進政策は軍部のみの主張ではなく、
外務当局も見解を同じくしていた。

例へばこの年3月3日外務省が作成した覚書は
「日本が早急にとるべき方策は、現在の如き極端な米国依存を排し、
米国の態度によって脅かされないような経済機構の確立である。
このやうな機構を確立すること自体が、米国の再考を促すのに
大いに役立つことは疑う余地がない」と
やはり自存自衛体制の確立を勧告してをり
(デビッド・J・ルー『太平洋戦争への道程』)、
南方政策推進による自存自衛体制の確立は、
米国の対日経済圧迫が我が国に課した不可避の選択であったと云える。

◆米、対日経済圧迫を強化

その米国は欧洲情勢の急転回と共に、一段と輸出制限を強化してきた。
即ち7月2日、ルーズヴェルトは国防強化促進法に署名し、
軍需資材輸出許可制を布き、その結果、兵器、弾薬、軍用器具、
主要原料26種、化学製品11種、工作機械等が輸出許可制となった。

但し、屑鉄と石油は適用品目から除かれた。
しかし工作機械の殆どを独米に依存し、
欧洲戦争によってドイツからの輸入を閉ざされていた我が国が、
米国のこの措置で大きな打撃を受けた事は云うまでもない。
(板垣与一 論文「太平洋戦争と石油問題」)。

その後、米国の対日経済圧迫は更に強まり、7月25日、
ルーズヴェルトは大統領令を以て石油と屑鉄を
輸出許可制適用品目に追加した。
この措置に対する我が国の反響は頗る大きく、
新聞はこれは経済的対日挑戦であると論じ、
我が堀内駐米大使は8月2日、正式抗議を申入れた。

この屑鉄の輸出許可制は、我が北部仏印進駐の結果、
10月16日以後は対日輸出禁止となったが(既述)、
9月27日、三国同盟が成立するや、
米国は屑鉄の禁輸を鉄及び屑銅にまで拡張し、
かくて10月16日以後は鉄及び屑銅の対日輸出も完全に禁止されたのである。

これら一連の経済圧迫はいよいよ我が国に米国依存の経済体制からの
離脱を決意せしめ、当時すでに計画中の日蘭経済交渉のための使節派遣の
具体化を急がせることとなった。

◆対日石油禁輸を米英が謀議

昭和15年の夏頃、米英とも日本を屈伏させる決定的手段が
石油禁輸であることを認識し、石油を中心とした対日経済圧迫を
いかに効果あらしめるかに苦慮していた。

その鳩首凝議の様子が記録されている。
即ち7月18日、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、
モーゲンソー財務長官は駐米英国大使
及び駐米オーストラリア公使と会食したが、
スチムソンは英国が対日宥和政策を更に進めるのではないかと案じていた。

この席でスチムソンが、対日石油供給停止に関する新立法
(7月25日の石油輸出許可制措置)について打明けたところ、
ロシアン英大使は英国は蘭印の油井を破壊することができること、
そしてもしこの両方の措置が取られたなら、
日本は油の欠乏のため事実上動きが取れなくなるであろうという意見を述べ、
モーゲンソーはこの考えに感心した、
とスチムソンはその日記に書いている。

ロシアンの提案に感銘したモーゲンソーは翌日大統領に手紙を出して、
その中で次のような計画を具申した。

1.米国は国防の理由で石油を全面禁輸する。
2.英国はカリビア地域から一切の石油を獲得する。
3.英米両国はカリビア地域の余剰生産の石油を全て買上げる。
4.英国は蘭印の油井を破壊すべくオランダ政府と打合はせる。
そして最後に、
5.ドイツの合成石油工場に爆撃を集中する。

こうすれば、一体どこから、またどのようにして日本とドイツは
戦争用の石油を得るであろうか。
(Herbert Feis: The Road to Pearl Harbor)。

英米指導者が対日独石油供給停止について
いかに腐心していたかを示す記録である。

◆米英蘭の策謀で会商不調に終わる

斯かる状況下の7月27日、大本営政府連絡会議は我が対南方政策の基本方針
「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。
それによれば、支那事変が未解決の段階に於ては
「第三国と開戦に至らざる限度に於て」対南方施策を行ない、
蘭印に対しては当面「外交的措置により」
その重要資源確保に努めるという趣旨であった。

かくして政府は8月27日、商工大臣・小林一三を蘭印特派使節として任命、
小林使節は同30日、蘭印へ出発したのであった。

この間、米英は我が国の蘭印石油買付けを阻止し、
日蘭会商の円滑な進展を妨害せんがため、活発な策動を開始した。

即ち7月25日、ハミルトン米国務省極東部長は
米系のスタンダード石油会社に対して、
日本は米国からの石油輸入を蘭印に肩代りさせようとしているとして、
日本に大量の石油を取得させないよう要望し、
8月初旬には日蘭石油会談を妨害するため、
マニラで米・英・蘭三国会議が聞かれたのであった。

因に当時、蘭印全産油量の74%を英国系資本が、
残余の26%を米国系資本が支配していた。

英米蘭の対日策謀のポイントは、

1.米英両国は蘭印に対日石油交渉を遷延させ、
かつ契約の量と期間を制限させること。
2.蘭印は日本軍進入の際は全ての石油ストックと精油所・油井を
完全に破壊すること。

であり、
これについて英米蘭の間には緊密な協調体制が出来上がっていたのである。

オランダ側は欧洲大戦に於ける英国の最終的勝利を信じて居り、
また米国依存の念が強く、米国の力で日本を牽制せんとして、
米・英・豪の共同防衛にも秘密裡に参加していた。

それ故、米英が健在である限り、
蘭印には日本との会商を成功させる意思はなかったのである。
されば9月の三国同盟成立以後は、蘭印は殊更に我国を猜疑し、
加えて米英の妨害や圧力もあり、日蘭石油交渉は暗礁に乗上げ、
11月末日、小林使節は日本へ召還されたのであった。

その後、芳沢謙吉(元外交官)が特派使節に任命され、
翌昭和16年1月より日蘭会商に入ったが、
米英蘭三者の結託による遷延策謀のため交渉は進捗せず、
遂に芳沢代表も、蘭印問題打開のためには
実力解決以外にないとの意見を洩らすに至った。
(長岡新次郎 論文「南方施策の外交的展開/1937年~1941年」、
『太平洋戦争への道』第六巻所収)。

蘭印側は、日本側の石油・ゴム・錫等の戦略物資の輸入要求は
対独再輸出のためであると猜疑した。
これに対して我方は、日本の国土狭小と支那事変の二点を
要求の理由として挙げ、将来の衝突を避けるため協調的態度を求めたが、
オランダ側は、いざとなれば対日一戦も辞さぬと大見得を切り、
頑な態度を変へようとしなかった(板垣前掲論文)。

オランダ側は我方が要求する物資、
特にゴムと錫がドイツに再輸出されることを惧れたので、
我方は交渉条件を緩和して譲歩妥協したのであったが、
蘭側はゴム・錫がタイ・仏印より対日輸出される場合は、
その数量(オランダが認定する)によって蘭印産品の対日輸出量を
減少させることを主張した。
これこそ自由貿易への干渉妨害であり、
我が国家主権の侵犯とも云うべき無礼極まる要求であった。

のみならず、蘭印からの対日輸出量は、
オランダが必要と認める時は
いつでも一方的に削減できることを条件として要求してきたが、
これこそ日蘭会商を決裂に至らしめた決定点であった(板垣)。

6月中旬、芳沢代表は蘭印側に対し、我方の妥協的精神を説明して、
蘭印側も譲歩するよう再考を促したが、
蘭印側は再考の余地なしと回答してきたため、
芳沢代表は会商打切りを通告し、前後10ヵ月余の
長きにわたった日蘭会商に終止符が打たれたのであった。

◆汪政権の承認 国民政府の南京還都

既述したように、昭和15年3月30日、
汪精衛を首席代理として南京に国民政府が樹立された。
新政府の創設ではなく、国民政府の「南京還都」という形式が取られた。
(第十六章第二節参照)。

この日、ハル国務長官は、重慶政府を支那政府として
承認し続けてゆく旨を声明し、汪政権を否認した。

これに対して我が国は須磨・外務省情報局長談話を以て反論したが(既述)、
支那事変をめぐって日米両国が根本理念に於て
相容れないことは今や明らかであった。

米国が「重慶政府を使嗾・援助し、日米関係改善のための
我が国の誠意ある努力を無視」する態度を続けている(須磨局長談)
と我が国が感ずる以上、これに対抗して国際的地位を強化すべく
我が国が枢軸側との提携の方向へ傾斜して行ったのは、
その当時からすれば自然の成行きだったと云うべきであらう。

◆和平工作不調に終り、汪政権承認

我国の一部には、汪政権支持が逆に和平の妨げになるとの考へもあり、
汪政権樹立工作が行われる一方で、
絶えず重慶との和平工作の方途が模索されていた。

参謀本部及び支那派遣軍総司令部は宗子良(宗子文の弟)と自称する人物との
接触に望みをつなぎ、昭和15年2月からこの男を通じて
日華和平工作(桐工作と呼ばれた)を進めたが、成果は思わしくなく、
東條新陸相の反対もあって9月に打切った。
宗子良は偽者であった。

7月に第二次近衛内閣が成立すると、外相に就任した松岡(洋右)は、
従来軍民によってバラバラに行われてきた対重慶和平工作を
外務省の統制下におくこととし、
この方針は11月13日御前会議で決定された「支那事変処理要綱」の中で
次の如く明文化された。

1.軍民による和平工作は一切中止し、帝国政府が行なう。
2.和平工作に当っては我が国の真意を明らかにし信義を恪守すること。
3.和平交渉は汪蒋合作を建前とし、日支直接交渉を原則とするも、
これを容易ならしむるためドイツを仲介させると共に
対ソ国交調整をも利用する。
4.新中央政府(汪政権)の承認は11月末までに完了する。

即ち11月末までに対重慶和平工作が成功しない場合は、
我が国は汪政権を中華民国の正式政府として
承認することになったのである。

松岡の和平工作は浙江財閥の巨頭銭永銘を通じて行われ、
11月20日頃、重慶から松岡の手許に

1.汪政権の承認延期

2.まず全面撤兵、しかるのちに駐兵交渉という趣旨の回答が届いた。

これは非常に強硬な要求で、我が国の到底承諾し得るものではなかったが、
四相会議は一応これを承認した。
席上東條陸相は、撤兵と駐兵の問題には触れず、
12月5日までに然るべき人物を重慶から派遣するよう
返答することを要望したと云はれるが(種村佐孝『大本営機密日誌』)、
これらのことは、我が国が
いかに重慶との和平交渉の開始を急いでいたかを示すものと云ってよい。
(臼井勝美『日中戦争』)。

汪政権承認か承認延期かの議が混沌として定まらぬうち、
11月28日、大本営政府連絡懇談会で松岡外相自ら、
重慶からの汪政権承認延期申入れは
謀略の範囲を出ないと考へられると説明し、
予定通り汪政権を承認することを決定した。

因に同日夜(一説では29日夜)、重慶側は前駐日大使・許世英を
和平交渉委員として派遣する旨の通知があったと云はれる(臼井前掲書)。

斯くして11月30日、我が国は南京国民政府との間に
「日華基本条約」を調印し、汪政権を正式に承認した。

◆米、重慶援助強化で我が国に対抗

我が国が汪政権を承認するや、米国務長官ハルはまたしても即日、
日華基本条約否認を声明し、また同日、大統領ルーズヴェエルトは
蒋介石の懇請に応へて対支1億ドルの借款供与を発表した。
(12月2日、米議会可決)。
米国はこの借款の代償として支那の錫、ウォルフラム、アンチモニー等の
軍需金属を得る筈と発表したが、真の目的が、我が国の南京国民政府承認に
対する反対の意思表示にあることは何人にも明白だった。

対支援助は軍事面にも及んだ。
50機の追撃機が直ちに重慶側に引渡されることとなり、
更にできるだけ多くの追撃機の追加供与が約束された。

飛行士または飛行教官として支那に渡航を希望する米国市民に対しては
旅券が発行されることにもなった。
のみならず、東京を報復爆撃するため、支那に長距離爆撃機を提供する計画
(ルーズヴェルトの着想と云はれる)が、
米英支三者間で興奮して論じられたのであった(Feis 前掲書)。

12月4日、ルーズヴェルトは工作機械41種目を12月10日以後、
輸出許可制にすると宣言、
同10日にはあらゆる鉄製品を同30日以後、輸出許可制品とする旨発表した。

なほ英国も12月10日、支那に1千万ポンドの借款を供与した。

そして12月29日、ルーズヴェルトは炉辺談話で、米国を英国のみならず、
独裁国の侵略に抗して戦うあらゆる民主主義国の
「兵器廠」たらしめる旨を宣言したのである。

◆我が国の情勢判断

当時、我が国の情勢判断によれば、
重慶側の総兵力は200万、260数個師団を有していたが、
その装備は逐次低下し、弾薬も欠乏しつつあり、
第一線用航空機は合計40数機を残すのみであった。

だが蒋介石の統制力は衰へず、英国のビルマ・ルート閉鎖や
我が仏印進駐で重慶内部は動揺し、一時は和平気運も擡頭したが、
英国のビルマ・ルート再開や米国の対支援助で
再び抗戦気運が支配的になってきていた。

また国共の関係は、裏面での暗闘と相剋は深刻化しつつあるものの、
共産党の実力はまだ不十分で、重慶政権が抗戦を継続する限り、
共産党は露骨な反蒋行為に出ることはあるまいと見られていた。

他方、汪精衛新政権の武力は、主に三角地帯、中支及び北支の北部に各数万、
蒙疆に8千、その他武漢、南支に若干を有していたが、
素質訓練はまだ不十分で、我が軍の常駐しない遠隔地では依然として
共産匪や土匪が活動を続けていた。

米英が今後とも対支援助を強化してゆくのは疑ひないものと判断されたが、
重慶と提携して積極的な対日共同作戦を行なう決心には至っていないものと
我が軍中央は観測していたのである。
(大本営陸海軍部「支那事変処理要綱に関する質疑応答資料」)。

◆三国同盟の選択 防共協定強化の議論

日独防共協定は昭和12年(1937年)11月にイタリアが加わり、
三国防共協定となったが、翌13年に入ってからは満州国とハンガリー(2月)、
そしてスペイン(3月)が加盟し、枢軸陣営はますます強化されつつあった。

かかる状況下の昭和13年1月、独外相リッベントロップから
大島(浩)駐独武官に防共協定の強化が提案されたのであった。

我が国に於ても支那事変解決を促進する見地から
日独伊の提携強化が陸軍と外務省の一部で主張され、
この年5月には陸海外三省事務当局に於て、その研究が着手されたが、
11月にはドイツから正式に三国同盟草案が提示され、
我が国はその検討を迫られることになった。

そして、ソ連の他に英仏をも同盟の対象とするドイツ案を支持する陸軍と、
対象をソ連に限るとする陸軍以外の意見が大きく対立することになった。

当時、防共協定強化問題について近衛首相は、
いかなる見解を抱懐していたのか。
昭和13年8月下旬、近衛は白鳥敏夫(同年9月22日、駐伊大使に任命)に
こう語っている。

「自分としては枢軸強化の案に余り感心しないのだが、
蒋介石との直接交渉が殆ど無益と分った以上、
支那事変を片づけるには外交手段が必要だ。
そのため英米の好都合な交渉が望ましいのだが、
英米は日本がまかり間違へば枢軸と
手を握るかも知れぬといふのでない限り、
反日的態度を変更することはあるまい」

これを聞いた白鳥は
「近衛公が実際に欲していたのは、独伊との接近そのものよりは、
日本側のかかるゼスチュアが英米の極東政策に
及ぼす影響にあることを知った」
と後に述懐している(東京裁判に於ける『白鳥口供書』)。

これによって分かる通り、近衛首相には防共協定強化、
即ち枢軸側との提携が英米側を動かし、
支那事変解決を促進するであろうとの期待があったのであり、
これはやがて外相として三国同盟締結に
邁進することになった松岡洋右の心事とも一致するものであった。

枢軸強化には、支那事変解決のため我が国の国際的地位を強化しようとする
窮余の一策としての一面があったことを見落してはなるまい。

◆国家意思の定まらぬ日本

だが三国同盟の基本性格をめぐって、
日本の国家意思は容易に決まらず、ドイツは日本の回答遷延に焦慮した。

様々なレペルでの意見の対立を調整させながら、
最終的な国家意思を形成してゆく我が国の政策決定過程は、
独伊のような独裁的ファシスト国家のそれとは全く異質のものであった。

イタリアは、かく徒らに逡巡して意思の決まらぬ日本に嫌気を催していた。
例へば伊外相チアノはその頃の日記に記している。
「日本大使と会談す。・・・多くの留保並びに協定の性格を
対ソ協定に限定せんとの意図。回答は頗る不満足にして
本協定締結の可能性に関して幾多の疑惑を惹起す。
・・・日本の躊躇逡巡並びにその全般的態度は余をして果して
この怯惰遅鈍なる日本人とダイナミックなるファシスト
及びナチス党員が実際に協力し得るやを疑はしむ」(1939年3月8日)

同じ枢軸側にありながら、日本がその外交的決断に於ける慎重さの故に、
ナチス・ドイツやファシスト・イタリアとは趣の異なる国家として
眺められていた事情をよく伝える一文である。

5月22日、日本抜きで独伊同盟(鉄鋼同盟)が締結された。
イタリアは日本の如く国家意思の動揺する国との同盟を、
有害とさえ考えるに至ったようである。

このような状況下の8月23日(昭和14年)、
突如、独ソ不可侵条約が締結され、我が国政府当局をして愕然たらしめた。

政府はこれをドイツの背信と断じて防共協定強化交渉の
打切りを決定(8月25日)すると共に、ドイツに抗議を申入れた。
8月28日、平沼内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」
云々の声明を発して総辞職した。

◆「氷点に達した」日独関係

対独不信ムードの中で成立した阿部(信行)内閣は大命降下の際、
陛下より「外交は英米と協調する方針をとること」
といふ御沙汰を受けたこともあり、
ここに枢軸外交は「中道外交」へ修正された。

具体的には親米派の野村吉三郎海軍大将を外相に起用、
枢軸派の大島駐独、白鳥駐伊両大使を更迭し、
代って来栖三郎、天羽英二両大使を、それぞれ任命したのであった。

野村外相はまた、廃棄された日米通商航海条約に代る新通商条約
あるいは暫定協定の締結を希望し、
グルー大使と日米改善のための会談に入った。
野村は新通商条約あるいは暫定協定の締結と引き換えに
米国の在華権益の尊重と揚子江下流の
開放の意図のあることを申出たのであったが、
米側から好意的な反応は得られなかった。

それは米国政府が阿部内閣に対しても
「陸軍と比べてより慎重ではあっても、より野心的でないとはいえない」
と見ており(Feis 前掲書)、基本的に対日不信感を抱いていたからである。
当然ながら、野村の通商航海条約更新の申出も米国は拒否したのであった。

翌昭和15年1月に成立した米内(光政)内閣の外相には
枢軸強化反対の有田八郎が任命された。
有田は「中道外交」を継承しつつ、対英米国交調整の途を求めた。

ドイツは日本の対独不信を解消せんと図ったが、
我が国の対独姿勢は甚だ消極的で、この時期、
日独関係の冷却状況は三国干渉後の両国関係の冷たさに匹敵する
(テオーゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』)と評される程で、
オット駐日大使によれば「日独関係の温度は氷点に達した」のであった。

◆三国同盟成立す

このやうな折も折、欧洲の戦局はドイツの電撃作戦の勝利によって急転し、
それは当然のことながら、米国を宥和せんとして成功せず、
米国の対日重圧のいよいよ加わりゆく時機であっただけに、
我が国の親枢軸世論を一挙に高め、
米内内閣を総辞職に追込む結果をもたらした。

そして7月22日、第二次近衛内閣が発足、
日独提携論者の松岡洋右が外相に就任した。この時は
「反英米熱と日独伊三国同盟締結の要望が沸騰点に達した」時期だった。
(近衛文麿手記『平和への努力』)。

米国の参戦を防止するため、ドイツが日本に接近してくることを
見抜いていた松岡は、
内心は枢軸との接近を急ぎながらも決して焦りを見せず、
時には米国と結びかねないポーズを装ひつつ、
一種の偽装外交によって慎重に対独打診を試みた。
(植田捷雄 論文「日独伊三国同盟」)。

ドイツの英本土上陸作戦が停頓し、対英戦長期化の公算が大となるや、
果然、ドイツは焦燥し、対日接近が開始された。
即ちこの年9月初旬、独外相の特使としてスターマーが来日、
松岡外相と日独同盟をめぐる会談が行われることになった。

ドイツの三国同盟に対する態度は、

1.ドイツは対英戦に日本の援助を求めない。
2.日本が米国の参戦を牽制、防止すること。
3.日独伊三国の毅然たる態度のみが有効に米国を抑制することができる。
4.日独伊三国同盟締結ののちソ連に接近するに然かず。
ドイツは日ソ親善のための「正直な仲買人」となる用意がある。

等であった。

米国の対独参戦の場合、我が国が自動的に参戦義務を負ふことに
強く反対していた海軍も、
「ドイツは日本の欧洲戦争参加を希望してをらず、
また参戦の決定は日本が自主的に行うことを諒解した」
との松岡の説明に接して反対する理由を失い、
またこれ以上国内対立を深めることを惧れたこともあり、
遂に同盟賛成に踏切った。

9月27日、ペルリンに於て来栖駐独大使、リッベントロップ独外相、
チアノ伊外相の間で三国同盟が調印された。

第一、二条で日本は独伊の、独伊は日本の、
欧洲及び大東亜に於ける新秩序建設の指導的地位を認め合ひ、
第三条で、「いづれか一国が現に欧洲戦争または日支紛争に
参入し居らざる一国によって攻撃された時は、三国はあらゆる政治的、
経済的及び軍事的方法で相互に援助する」ことを約した。

また同日、東京で松岡外相とオッ卜大使の間に
「締結国が攻撃されたか否かは三国間の協議によって決定する」
旨の秘密の公文が交換され、これによって相互援助義務の自動性を制限し、
我が国の参戦について自主的解釈の余地を残したのであった。
(註)我が国の自主参戦の主張にドイツ側か譲歩したことになるが、
この譲歩は本国政府の事前もしくは事後の了解を得ることなしに
スターマー及びオットが独断で行なったものとも云はれる
(細谷千博 論文「三国同盟と日ソ中立条約」、
『太平洋戦争への道』第五巻)。

もし、そうであれば、我が国は自主参戦について
ドイツの諒解が得られたものと信じ、またドイツ政府は
あくまで自動参戦という立場で同盟を結んだことになるが、
実際は米国が参戦する前に日本が対米宣戦し、
独伊はその後に三国同盟の義務に従って自動的に対米宣戦するという、
予期とは反対の結果になった。

◆目的は対米関係改善と支那事変解決

三国同盟を推進した当事者の動機と目的は何処にあったのか。
当時、首相であった近衛公の手記によれば、

「……日米関係は悪化し、殊に支那事変以来両国国交は極度に行詰った。
かかる形勢では松岡外相の云へる如く
最早礼譲や親善希求のみでは国交改善の余地はない。
歴代の外相、殊に有田、野村両外相は対米交渉で
日米間最大の問題たる支那問題について了解に達せんと
惨澹たる努力を重ねたが何らの効なく、
最早米国相手の話合いによっては解決は絶望視されるに至った。
ここに於て唯一の打開策は独伊、
更にソ連と結んで米国を反省させる外なくなった。
即ち日独ソの連携も最後の狙いは対米国交調整であり、
その結果としての支那事変解決であった。
余は対ソ警戒論者であった。
対ソ接近を好まざる余が日独ソの連携に賛成したのは、
これが米国との了解に達する唯一の途と考へられたのみならず、
ソ連の危険は日独が東西よりソ連を牽制することで緩和し得ると
信じたからである」(前掲『平和への努力』)

三国同盟に踏切った我が国当事者の真意は
ほぼここに尽されていると思はれる。

戦後、三国同盟推進者としての松岡に対しては
仮借ない批判が浴せられてきたが、
彼の真意図はあくまで米国を説いて支那事変を終局せしむる点にあった。
昭和16年4月、日ソ中立条約の調印を終えてモスクワから
帰朝の途にあった松岡の胸中にはすでに壮大な和平構想が描かれていた。

彼は帰国後、6月27日に重慶へ赴き蒋介石と差しで話合って説得する。
直ちにチャイナ・クリッパー機で一緒に米国へ飛んで
ルーズヴェルトを交へた三人で膝をつき合わせて
支那事変解決の話をつける。
事変解決の条件としては満洲国の承認と冀東地区の中立化だけとし、
ただこれだけの約束で日本は支那と仏印から一兵も残さず撤兵する―――
これが松岡の東亜和平の構想だった。
(岡村ニ一「回想の松岡洋右」、『正論』昭和52年1月号所収)。

この対支和平案は昭和12年の船津工作案(既出)と
殆ど変らぬもののやうに見える。
これを誇大妄想と片付けるのは間違ひだらう。

独ソ戦といふ事態が発生しなかったならば、
この和平構想が実行に移されてゐなかったとは云ひ切れないからである。

日米開戦の報を病床で聞いた松岡は流沸してかう語ったと云ふ。

「三国同盟は僕一生の不覚だった。……
三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、
世界 の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、
事ことごとく志と違ひ、今度のやうな不祥事件の遠因と考へられるに至った。
これを思ふと、死んでも死にきれない。
陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し何ともお詫びの仕様がない」

結果から見れば確かに松岡は誤算を犯したことになる。
だが、我方の宥和政策を以てしても、
或いは三国同盟を含む松岡の和平構想を以てしても
何ら反省も改善も見られなかった硬直した米極東政策は、
歴史の大局から見て正しかったと云へるだらうか。
誤算をしたのは松岡だったのか、それとも米国だったのか。

◆評価と責任

三国同盟は日米開戦を惹起した大失策と一般に云はれてゐる。
三国同盟に対する評価と責任について再考してみよう。

再び近衛の手記を引用するなら、

「余は今以て三国同盟締結は当時の国際情勢下では
止むを得ない妥当の政策であったと考へて居る。
当時独ソは親善関係にあり、欧洲の殆ど全部はドイツの掌握に帰し、
英国は窮境にあり、米国は未だ参戦せず、
かかる状勢下で日独ソ連携によって英米に対する
我が国の地歩を強化することは支那事変を解決し、対英米戦をも回避し、
太平洋の平和に貢献し得るのである。
したがって昭和15年秋の状勢の下に於てドイツと結びしことは
親英米論者のいふ如く、必ずしも我が国にとりて
危険な政策なりとは考へられぬ。
これを強ひて危険なりといふは感情論である。
感情論にあらざればドイツの敗退を見て後からつけた理屈である。
……しかしながら昭和15年秋に於て妥当なりし政策も、
16年夏には危険なる政策となった。
何となれば独ソ戦勃発で日独ソ連携の望みは絶たれ、
ソ連は否応なしに英米の陣営に追込まれてしまったからである」

三国同盟が論議された頃、ドイツ不信論、対米衝突を危惧する意見などが
一部にあったことは事実だが、それらは近衛が指摘する通り、
ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の明に基づく
冷静な判断とは云ひ難く、国際的な政治力学に拠る三国同盟論に
対抗するだけの力はなかったのである。

三国同盟を推進したのは決して一部の政治家や軍人だけではない。
前々たる親独世論を形成するのに与って最も力あったのは新聞だった。

デビッド・J・ルーはこう書いている。
「もし1940年9月27日に世論調査が行なはれたとすれば、
おそらく日本国民の圧倒的大多数が最近の政府の『外交の勝利』
つまり三国同盟の締結に拍手を送ったであらう。
新聞は連日ドイツの勝利を報じ、
その間、イギリスが優勢であっても全く取り上げないか、
ごく小さく報じるだけであった」と。

もし三国同盟の責任を論ずるならば、
世を挙げての親独世論を作り上げた新聞にこそ
最も重大な責任があったと云ふべきである。

近衛白身、三国同盟について全く後悔していない訳ではない。
近衛手記の最初の草稿で彼は
「今少しく慎重な態度を採るべきであった」と述べ、
当時陛下が近衛に対し
「今暫く独ソの関係を見究めた上で締結しても遅くはないではないか」
と仰せられたことにつき、
「陛下の御思慮深きに今更ながら敬服し奉る」と記し、
ドイツを信じて「早急に事を運んだ不明」を後悔している。
(矢部貞治『近衛文麿』下)。

たしかに、独ソ関係の帰趨について、
これほど明確に危惧の念を表明されたのは、
陛下おひとりではなかっただらうか。

だが、それにしても阿部、米内内閣の対米宥和外交が失敗に終り、
蘭印との外交交渉も米国の策動で進捗せぬ以上
「高姿勢の政策やドイツとの同盟が賢明であったかどうかを
疑ふ人がかりにあっても、
やはりそれが日本にとって唯一の残された途であり、
希望であったことは認めざるを得ないであらう」
と云ふデビッド・ルーの見解に結局は落着く他ないやうに思はれる。

◆米国の大きな誤解

タンシル教授(前出)は、日本が三国同盟を締結したのは
第一に米国の参戦を抑止するためであったとし、
米国との友好関係を維持するために独伊と結んだ日本の立場を、
当時、米国が正しく理解するのは困難だったと述べている。

ニューマン教授(前出)も三国同盟は米国の参戦防止を目的とする
防衛的な同盟であったとの立場である。
同教授によれば、日独伊は不可分の一単位で、
欧洲戦争と支那事変は二つの戦場で戦はれる一つの世界戦争であると
ルーズヴェルトはみなしてゐたと云ふ。

だが戦後の調査は、日独のイデオロギー的結合は米国が考へていたのより
遥かに脆弱であったことを示してゐる、と同教授は述べてゐる。
(註)東京裁判に弁護側証人として出廷したスターマーも
「日独の政治的協力は緊密でなく、(三国同盟成立後の両国の)会合は
実効を伴はぬ見せかけに過ぎなかった。
日独間には軍事作戦上の協力も私の知る限り存在しなかった。
ドイツはソ連と戦ってゐたのに日本は対米戦に全力を傾け、
ソ連は中立を守ってゐたからだ。
更に両国は地理的に非常に遠く離れて居り、
時たま潜水艦の訪問があった以外何らの関係はなかった」と証言してゐる。

ニューマン教授の指摘するやうに、米国が支那事変と欧洲戦争を
同一視して最高国策を立ててゐたのであれば、
三国同盟をめぐって日米の見解が遂に一致を見なかつたのは当然である。
米国が三国同盟を故意に曲解したとは云はぬ迄も、
同盟についての認識が甚しく不十分であり、
かつ同盟の真意を正しく理解するための
誠実な努力を怠ったことは争はれぬであらう。

◆交渉の開始と停頓 米国の戦争準備

三国同盟締結、汪政権成立以後、
日米関係は好転よりは悪化の一途を辿るかの如くであった。
我が国を極度の窮迫状況に追込んで行った米英の対日軍事経済攻勢の推移を、
三国同盟の成立した昭和15年(1940年)秋から
日米交渉の開始される昭和16年春にかけての期間に限って概観してみよう。

昭和15年(1940年)
9月25日、三国同盟締結を目前に、米国は重慶に二千五百万ドルの借款を供与。
9月26日、米国は屑鉄の全面禁輸を発表、10月16日から実施(既出)。
10月8日、米国は東亜在住婦女子の引揚げを勧告(戦争を予期した措置)。
10月16日、米国で選抜徴兵法が成立。
最初の兵員抽籤式は10月19日に行なはれ、
陸軍に徴集される最初の80万人が決定。
10月18日、英国はビルマ・ルートによる援蒋輸送を再開(既出)。
10月19日、米国が名古屋領事館を閉鎖。
10月23日、米海軍長官がフィリピン海軍を強化する用意ありと言明。
10月30日、大統領選挙戦中のルーズヴェルトは演説で対外戦争を
せぬ旨公約したが、同じ演説の中で航空機2万6千機を含む大規模な
対英武器援助を行なふ決意を表明した。
(註)第3期大統領を目指して選挙戦中のルーズヴェルトはボストンでの
演説でかう述べた。「あなた方、お母さんやお父さん方にお話してゐる今、
私は皆さんにもう一つお約束をいたします。この事は前にも申しましたが、
私はそれを二度でも三度でも繰返して申しませう。あなた方の息子さん達は、
いかなる外国の戦争にも送られることはありません」と―――
(ロバート・シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』)。
11月6日、ルーズヴェルトが大統領に三選される。
11月8日、ルーズヴェルトが「今後、生産軍需品の約半分を
英国に提供するであらう」と言明。
11月13日、英国がシンガポールに極東軍総司令部を新設。
11月30日、米国は日華基本条約を否認し、
対重慶1億ドルの借款供与を発表(既出)。
12月2日、米陸軍長官と作戦部長は米陸軍の装備を優先させた上で
昭和16年7月~9月の間に英10個師団の装備を供給する
「米英共同軍需品供給政策」を承認。
12月4日、ルーズヴェルトは工作機械41種目を
同10日以後輸出許可制にする旨宣言(既出)。
12月10日 ルーズヴェルトはあらゆる鉄鋼製品を
同30日以後輸出許可制にすると発表(既出)。
この日、英国は重慶に1000万ポンドの借款を供与。
12月29日、ルーズヴェルトは炉辺談話で「米国は民主主義の大兵器廠」
になると述べる(既出)。
昭和16年(1941年)
1月10日、武器貸与法が米議会に提出される。
(註)「英国を最も有効に防衛することが米国を最も有効に防衛することに
なる」といふ発想が武器貸与法の出発点だった。ルーズヴェルトは右法案を
「火事になった隣家の人に水撒きホースを貸すこと」に例へ、
「火事が消えたら隣人はそのホースを返すか、もし破損されてゐたら
新しいのと取替へて返せばいいのだ」と説明。
1月29日、米英参謀会議(ABC)開始(3月29日まで)。
3月11日、米国で武器貸与法が成立。これによって米型兵器の
対英無償供与が可能になった上、あらゆる軍需品、食料その他が
反枢軸側に無償供与されることになった。

斯くして米国は、支那事変に対しても欧州戦争に対しても、
何ら調停や和平解決の努力を試みることなく、ただ枢軸側を非難し、
他方、反枢軸側に対しては軍事経済両面の支援を増強することによって、
戦火の継続拡大に貢献しつつあった。

そうしたなか、
悪化した日米関係を好転させ、支那事変解決を促進する目的で、
昭和16年春から日米交渉が開始されたのである。

◆「日米諒解案」に政府沸く

行詰まった状況を打開すべく、松岡外相はルーズヴェルトと多年知己の
関係にある野村吉三郎海軍大将を新たに駐米大使に起用した。
野村は昭和16年1月下旬、東京を出発、2月中旬着任した。

話は前後するが、
昭和15年11月末、米国からウォルシュ司教、ドラウト神父といふ2名の
カトリック僧侶が来日し、
井川忠雄・産業組合中央金庫理事(元大蔵省官吏)の紹介で
各界要人と会って日米関係打開について画策する所があった。

野村の東京出発後、井川も渡米、右の両神父等と連絡して工作を開始し、
結局4月16日、中国問題に精通した陸軍将校として野村大使の許に
派遣された岩畔豪雄大佐、井川、ドラウトの3名は日米の主張を折衷して
「日米諒解案」と呼ばれる一案を作成した。

同日、野村大使がこれをハル国務長官に提案したところ、
ハルは「4原則」なるものを手交し、日本側がこの4原則を受諾し、
諒解案を正式に提案するなら会談を始める基礎としてもよいと述べた。
(註)ハルの「4原則」とは、
1.あらゆる国家の領土保全と主権尊重。
2.内政不干渉。
3.機会均等。
4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状不変更。

この日米諒解案が我が国に打電されるや(4月18日)、
近衛首相は直ちに政府統帥部連絡会議を招集し、協議したところ、
大勢は受諾に傾いた。

諒解案は、日本軍の支那撤兵、支那領土の非併合、非賠償、
門戸開放方針の復活等を挙げてゐる一方、
蒋・汪両政権の合流、満洲国の承認、日米通商関係の回復、
日米首脳会談等を提案してゐたのであるから
我方が歓迎したのは当然だった。

東條陸相も武藤軍務局長も喜んではしゃいだ程で、
陸海軍とも諒解案に「飛びついた」と云ふのが真情であったと云ふ。
(矢部前掲書)。
東條は後に「連絡会議の空気はこの案を見て、問題解決の一の曙光を認め、
ある気軽さを感じました」と述懐してゐるが(『束條英機宣誓供述書』)、
出席した誰しも同じ気持だったに違ひない。

陸海軍と外務省は直ちに諒解案の検討に着手、
米側への「主義上賛成」の返電は訪欧の途にある松岡外相の帰京を待って
打つことになり、松岡に対しては速かに帰国を促すことになった。
(註)「日米諒解案」については、実は大きな誤解かあった。
それは日本側が、同案は米国政府の作成した案であると
受取ったことである。岩畔によれば、諒解案に関する電報を起草したのは
若杉公使で、同公使は諒解案は米側の起案であるやうに改変した方が
本国政府の意見をまとめるのに好都合であらうと判断して、
そのやうに電文を改めたと云ふ(加瀬俊一『日米交渉』)。

◆「悪意七分で善意三分」

松岡外相が訪欧に出発したのは3月12日であった。
途中モスクワでモロトフ外相、スターリン書記長と会談した後、
ドイツに赴き、ヒトラー、リッベントロップと会見した。

この時、ドイツ側は独ソ関係悪化を告白し、
日独伊ソ4国協商案にも日ソ国交改善の斡旋にも全く関心なく、
日本の対英戦争参加、特にシンガポール攻撃をすすめたのであった。

松岡は個人的にはシンガポール攻撃に賛同したが、
政府代表としての言質は与へなかったと云はれる。

松岡はその後、ローマでムッソリーニ首相、チアノ外相と会ひ、
再びベルリンに戻ったのち、モスクワに向った。

そしてモスクワ滞在4日目の4月12日、松岡・スターリン会談が行なはれ、
翌13日、日ソ中立条約(5年間有効)が調印されたのであった。

かくして意気揚々と帰国の途についた松岡が近衛からの電話で
米国から提案が来ていることを知ったのは、
大連に着いた4月12日であった。

彼の帰京後、直ちに連絡会議が聞かれたが、
松岡は諒解案については甚だ不機嫌冷淡であった。

松岡は「米国は第一次大戦中、石井・ランシング協定(第五章第二節参照)
を結んでおきながら、戦争が終るとこれを破棄した。
これが米国の常套手段であり、諒解案も悪意が七分善意が三分だ」
と弁じて諒解案を非難し、退席してしまひ、
他の出席者を甚だしく失望させた。

東條陸相も武藤(章)陸軍軍務局長も即時受諾の返電をすべしといふ意見で、
松岡の態度にひどく憤慨したと云ふ。
陸海軍の間には松岡への反感が高まり、外相更迭論まで出た。
陸海軍は速やかに米側に回答すべく外相を説いたが無駄であった。

しかしながら、日米諒解案は松岡の主張を取り入れて
大修正されて米側へ返電された。

これに対して5月31日には、米国側修正案が提示され、
翌6月21日には、この5月31日案の訂正案が野村大使にハルから手交された。

だが翌22日には、独ソ戦が勃発し、全世界を震憾させた。
独ソ開戦は松岡の和平構想にとって一大衝撃であったことは云ふ迄もない。
独ソ戦をめぐって連続して連日会議が開かれ、
ドイツがらは我が国に対して正式に参戦申入れがなされた(6月30日)が、
結局7月2日の御前会議で決定された「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」は
独ソ戦不介入の方針を採択したのであった。

右「国策要綱」は「自存自衛のため南方に対する外交交渉を続行」すると共に
「(南方進出の)目的達成のため、対英米戦を辞せず」と謳ってゐるが、
「対英米戦を辞せず」は独ソ戦不介入の決定に対する
代償的意味をもつ「御題目」に過ぎず、本気で考へられた訳ではなく、
「国策要綱」の中心は対ソ態度の決定であったと云われる(矢部前掲書)。

◆松岡外交の終焉

独ソ戦への方策が決まると、ようやく6月21日、
米側修正案の検討に入ったが、ここに於て日米双方の主張の対立は
俄然明確になってきた。

更にこの米国案には松岡を暗に非難するオーラル・ステートメント(口述書)
が付随して居り、これがまた松岡を激怒させることになった。

なほこの頃、米側はすでに陸海軍情報班によって
我が国の外交暗号の解読に成功して居り、
対米交渉に関する我方の電報は悉く傍受解読されてゐた。

米側には、我が政府内部の内情や意見の対立を含めて、
重要情報が筒抜けになってゐたのである(ハル前掲『回想録』)。

さて米修正案に対する対応の仕方をめぐっても
松岡外相は近衛首相や陸海軍と対立し、
首相、陸海単側もかくては外相更迭か内閣総辞職以外に途なしと結論、
7月16日、近衛内閣は総辞職した。
これはまた、松岡枢軸外交の終焉でもあった。

◆南部仏印進駐 米はすでにアイスランドを占領

7月18日に成立した第三次近衛内閣の特色は、
日米衝突回避を主張してきた豊田貞次郎海軍大将の外相就任であった。

我が国はこのやうに、米国の忌避する松岡外相を更迭してまで
米国の意に沿はんとしたが、この屈辱的な譲歩の意味も、
米国は必ずしも十分に理解しなかったのである。

所で1月から芳沢使節によって行なはれてゐた蘭印との交渉は難航し、
6月17日、芳沢使節は遂に交渉打切りを蘭印側に伝達するに至った。
(前章第六節)。
すでに我が国では6月10日頃に交渉決裂が判明してゐたため、
6月13日、連絡会議は「南方施策促進に関する件」を議定、
25日に上奏し御裁可を得た。

その要点は、

1.日蘭交渉の不調に関連して、速やかに東亜安定と領土の防衛のため
日・仏印軍事提携を行なふ。
.2そのために外交交渉を行なふ。
3.仏印が応じない時は武力を以て目的を貫徹する。

といふものであった。

仏印に対する我が要求は
1.仏印の共同防衛を目的とする軍事協力。
2.必要数の日本陸海軍部隊の南部仏印への派遣。
3.サイゴン以下8ヵ所の空軍基地の使用。
4.サイゴン、カムラン湾の海軍基地としての使用。

などであった。

米英は、日本への回答を遷延するやうフランスに圧力をかけ、
妨害を図つたが、フランス(ヴィシー政府)は7月21日、日本軍の駐屯が
一時的なものであること、フランスの主権を尊重することを
日本が公約すること等を条件として我が国の要望を受諾し、
かくて、現地では南部仏印進駐についての細目話合ひが成立し(23日)、
28日から29日にかけて日本軍部隊は
平和裡に南部仏印に上陸を開始したのであった。

これに先立って、国務省のハミルトン極東部長とバランタイン参事官が
野村大使を訪ね、ハルの命によるとして仏印進駐の情報の真相を訊ねた時、
野村は「英米の重慶援助強化や英米蘭及び米ソの協力で
日本は漸次包囲されつつあり、この際右の如き噂があっても自分は驚かない。
現に米国はアイスランドを占領し、またダカール、アゾレス諸島に
手を着けるなどの噂があるのに比べれば、
日本が仏印に海空軍基地を設けたとしても不思議はない」と反論した。

野村の指摘した通り、
米軍はすでに英軍に代ってアイスランドに進駐して居り、
また日本の南部仏印進駐より3ヵ月も早い4月、
グリーンランドに空軍基地を設けてゐた(第十八章 第五節)のであり、
我が南部仏印進駐を非難する資格は米国になかった筈である。
(註)米軍のアイスランド進駐は7月7日。作戦当初数ヵ月間は
米海兵隊4千と英国部隊2万が駐在した。スターク海軍作戦部長は、
この派兵についてルーズヴェルトの秘書・ホプキンズに
「私はこれが実際には戦争行為であるのを悟ってゐる」と語ってゐる
(シャーウッド『ルーズヴェルトとホプキンズ』)。

7月23日にウェルズ国務次官がハルを代行して野村に仏印進駐について
警告してきた時、野村は日本の南部仏印進駐は国家の安全と
経済上必要不可欠の理由に基づくもので、
各国が対日通商を停止しつつある状況で、
日本がひとり坐して滅びるわけにはゆかぬと反駁した。

翌24日、野村大使はルーズヴェルト大統領に会見し、
仏印進駐が日本の自存と安全の上から已むを得ざる措置であることを
説明したが、ルーズヴェルトは南部仏印進駐はドイツの圧迫によるものと
猜疑してゐたのであつた(野村吉三郎『米国に使して』)。

南部仏印進駐が日本独自の行動であり、
独ソ戦とも無関係であることは、南部仏印進駐の決定が
独ソ開戦の10日も前に行なはれてゐた事実からして明らかであらう。

◆日本が進駐しなければ米英が……

我が国は、なぜ南部仏印に進駐する必要があったのか。

その理由は、
1.支那事変解決のため、重慶と米英蘭の提携を南方に於て分断する。
2.米英蘭の南方諸地域に於ける戦備の拡大と対日包囲陣の結成。
3.対日経済圧迫の加重。
4.米英の策動による仏印・タイの敵性化。
5.日蘭会商の決裂。

等の諸事情であった。

特に対日包囲陣構成上、仏印は重要地域であり、
いつ米英側から仏印進駐が行なはれるかも知れず、
我が国はこれに対して自衛措置を講ずる必要があった。

この憂慮は決して根拠がない訳ではなく、
昭和15年以来、タイ・仏印は米英勢力と結託して我が国の生存上必要な
米とゴムの入手を妨害してきてゐた。

英国は昭和16年5月中旬、
日本及び円ブロック向けゴムの全面禁輸を行なったし、
米国は同6月中旬、仏印生産ゴムの最大量買付けを行なひ、
我が国のゴム取得を妨害した。
(それは仏印の年産額6万トンのうち僅か1万5千トンに過ぎなかったが)

我が国の南部仏印進駐に対して米国がかくも神経をとがらせたのは何故か。
それは南洋が戦略物資の宝庫で、
特に米国(英国も同様だが)が最も必要とするゴムは
世界総生産額の90%を、また錫はマレー、蘭印、タイを主産地として
世界の60%を占めてゐた事情による。

昭和15年中に米国は約62万トンのゴムを消費し、
世界ゴム消費の約57%を占めてゐたが、国内生産は皆無であった。

また昭和14年、米国の錫輸入高は6万5千トンで、
その中4万7千トンを英領マレーから、5千トンを蘭印から、
4千トンを支那と香港から輸入し、
その輸入額の約80%を東亜に依存してゐたのであり、
この東亜供給路が日本の進出によって断たれることが、
米国にとって甚大な打撃であることは確かであった。

この死活的地域を日本に抑へられるとなれば、
従来米国が日本に加へてきた経済圧迫の手段を逆に日本が握ることになり、
米国は対日政策の決め手を失ふことになるのであった。
これが米国が仏印を含む南洋に格段の関心を有する所以であった。
(鈴木修二論文「大東亜共栄圏と米国」)。

当時、仏印の本国たるフランスはドイツに降服し、
フランスの二つの政権のうちドゴール政権は英国にあったのであるから、
ドゴールが仏印の管理を英米に依頼する可能性は十分にあった。

即ち米英側が先手を打って仏印を占領しないという保障は
どこにもなかったのである。
(東條前掲書。佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』)。
経済圧迫に堪へかねた資源なき日本が、
自存自衛の手段である米とゴムの供給地たる仏印が敵の手に陥る前に、
これを確保する行動に出たとしても、それは当時の国際通念上、
自衛措置の限度を逸脱するものでは決してなかったのである。

◆対日戦争を予期した石油全面禁輸

米英側は南部仏印進駐に対して時を移さず報復した。
7月25日、米国は在米日本資産凍結を声明した。
我が国も直ちに米国資産凍結を以て応じた。
英国も26日、米国に追随して在英日本資産凍結を発表した他、
日英通商航海条約、日印通商条約、日緬(ビルマ)通商条約の
廃棄を通告してきた。

翌27日にはニュージーランドが対日通商関係の廃案を通告、
28日には蘭印も日本資産凍結令、
日本との金融協定、日蘭石油民間協定の停止を公表、
いよいよ敵性国家たることを顕はにしたのであった。

8月1日、ルーズヴェルトは石油禁輸強化を発令、
日本を対象として発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出禁止を発令した。

これによって我が国は、
すでに禁輸されてゐた高オクタン価ガソリンのみならず、
オクタン価の低い石油も禁輸措置を受け、
我が国への石油輸出は全く停止されることになった。

これら米英蘭の日本に対する報復的制裁措置によって
対日ABCD包囲陣は一段と強化され、
日米関係は重大局面を迎へることになった。

ルーズヴェルトは対日石油禁輸が
極めて危険度の高い制裁手段であることを承知してゐた。
当時、海軍作戦部長であったスタークは大統領から
対日石油禁輸について意見を求められ、
「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、
直ちに米国を戦争に捲込む結果にならう」との意見を提出してゐたことが、
昭和21年、真珠湾に関する議会委員会の聴聞会で明らかとなってゐる。
(Charles A.Beard:President Roosevelt and the Coming of the War 1941)

同じスターク提督は戦争中の昭和19年、海軍軍事法廷での証言で
「石油禁輸の後は、日本はどこかへ進出して
石油を取得する他なかったのであり、
自分が日本人だったとしてもそうしたであらう」と述べたのであった。

ビアード教授は
「ルーズヴェルト大統領は1941年夏、海軍の専門家達から
対日経済制裁は延期すべきであり、そのような行動をとれば、
かなり早い時期に日本の攻撃を招くであろうとの忠告を予め受けてゐたのだ」
と述べ、対日石油禁輸を批判する。

1941年(昭和16年)7月24日、
ルーズベルトは南部仏印進駐について説明に訪れた野村吉三郎・駐米大使に、

「これまで、日本に石油を供給するのは太平洋の平和のために必要だと
米国民を説得してきたが、この状況では、私は従来の論拠を失い、
もはや太平洋を平和的に使用できなくなる。」

と述べたのであるが、この言葉は裏を返せば、
対日石油禁輸が日米戦争を誘発する公算が極めて高いことを
ルーズヴェルトが充分に予測していたことを物語るものと言ってよかろう。

◆東條英機陸相、武力行使に不賛成

このように米国側が戦争を明確に予想して対日政策を講じつつあった頃、
我が国の戦争意思は決して確定していたわけではなかった。

たとえば、在米日本資産凍結後、まもなく、
佐藤軍務課長が東條英機陸相に、
交渉をやめて武力で対日封鎖を打開するほかに道はなく、
そのため秘かに武力準備を進めることを提案した時、
東條英機陸相は
「準備はよいが戦争決意はまだ早い。尽くすべき手段は尽くすのだ。」
と、武力行使に賛成しなかった。(佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』)

大体、東條は、すでに1941年(昭和16年)1月、
大本営政府連絡会議が「対仏印・泰施策要綱」を作成した頃から、
武力行使を希望せず、仏印に対する軍事的要求の提案も
あまり急ごうとはしなかったといわれる。

東條は「要綱」の中に武力行使の発動は「別に決する」とあるのを
「別に廟議をもって決定する」と修正するよう要求したが、
それは統帥部が勝手に武力行使を発動するのを押さえようとの
気持ちからであった。(鹿児島平和研究所『南進問題』)

やがて戦争に突入したという結果のみを見て、
東條を好戦的武断主義者と決め付けることは、
はなはだしく公正を欠く危険がある。

◆日米首脳会談への努力 陛下も嘉された首脳会談の決意

南部仏印進駐、米国の日本資産凍結、対日石油禁輸等の諸事態は
日米関係を著しく険悪化させることになった。

この間、近衛文麿首相は危局打開に腐心していたが、
1941年(昭和16年)8月に入るや、
ついに自ら米大統領と会見する決意を固め、陸海軍の賛同も得た。
危機一髪の時に、大統領と会見し、日本の真意を率直に披瀝して、
先方の了解を得ようとの意図からであった。
天皇陛下も近衛の決断を嘉され、
すみやかに会見を実現させるよう催促された。

日米首脳会談の提案は8月8日、野村大使より米側に伝達されたが、
折りしも大統領はチャーチル英首相との洋上会談のため不在で、
伝達はハル長官になされた。
だがハルは、
「日本の政策に変更のない限り、これを大統領に取り次ぐ自信がない」
という冷ややかな応対ぶりであった。

◆大西洋会談 ~ 対日戦争への協力

では、我が国が、このように和平の方途を必死で探索しつつあった時、
ルーズヴェルトとチャーチルは大西洋で何を協議していたのであろうか。
大西洋会議は1941年(昭和16年)8月9日から8月14日まで、
ニューファンドランドのアージエンシア港に碇泊する英国新鋭戦艦
プリンス・オブ・ウェールズ艦上において行われた。

ちなみにアージエンシアは、前年、米国が陸海空軍の基地として
99ヵ年の期限で租借していたのである。

この会談の結果として発表されたのが、戦後世界の構想を謳った
英米共同宣言「大西洋憲章」である。
だが実はチャーチルが期待していた協定は
「大西洋憲章ではなく、日本の攻撃に対する共同対抗策の樹立」であった。

有名な「大西洋憲章」は大西洋会議の表向きの成果にすぎず、
チャーチルが会談に期待したのは対日戦争に米国を引き込むことであった。
そして彼はルーズヴェルトから対日戦への協力の言質を取り付けるのに
成功している。

チャーチルは、そのことを、開戦後の1942年(昭和17年)1月27日、
英下院での演説の中で自ら公表した。
彼は言う。
「大西洋会談以来、たとえ米国自身が攻撃されなくても、
米国は極東で戦争に入り、最後の勝利を確実にするであろうという公算が、
これらの不安(英国が単独で日本に対処することについての)の一部を
軽減するように思われた。
時が経つにつれて、もし日本が太平洋で暴れたら、
我々は単独で戦うことにはならないとの確信を、ますます強めたのである」
と。

我が国が日米交渉打開のため首脳会談を米側に申し入れつつあった時、
大西洋では米英首脳が以上の如き対日戦争での協力を協議し、
約し合っていた訳である。
ルーズヴェルトは大西洋会談で自分は英国に何も新しい約束はしていない、

会談の結果、米国は少しも戦争に近づいていない、
と公言していたが(Beard)、
チャーチル演説は、それが嘘であったことを
端なくも暴露してしまったのである。

対米国交改善に苦慮していた日本と対日戦争を想定して協力体制を
組みつつあった米英。
これでは日米交渉が進歩しないのも道理であった。

◆米の「戦争警告」と近衛書簡

洋上会談から戻ったルーズヴェルトは野村大使に二種の文書を手交わした。
(1941年・昭和16年・8月17日)
第一の文書は、
「もし日本が隣接諸国に対して、このうえ侵略的政策を取るならば、
米国政府は米国の権益と安全のため必要な、あらゆる手段を取る」
旨の通告書で、大西洋会談の申し合わせを実行したものであった。

ビアードによれば、この通告は歴史的慣行からみて、たった一つのこと、
すなわち、「戦争警告」の意味しかなかった。

もう一つの文書は、首脳会談に原則的に賛成するとの回答であり、
大統領は野村との会談では終始上機嫌で、
会見場所としてアラスカのジュノーを提案したり、
期日として1941年(昭和16年)10月中旬を示唆するほど話が進んだ。

翌18日、豊田貞次郎外相はグルー大使に首脳会談への協力を要請したところ、
グルーは豊田の真率な態度に感動し、
即刻、コーデル・ハル国務長官に、
「日本の提案は深い祈念を込めた検討なしに片付けるべきではない。
最高の政治的手腕を発揮すべき機会がここに提起された。
これにより太平洋の平和にとって
一見乗り越え難き障害も克服できる公算がある。」
と、言葉の限りを尽くして打電した。(8月18日グルー覚書)

米大統領の1941年8月17日通告への回答は26日の連絡会議で決定した。
その骨子は、
【1】米国は自己の原則信念に立って他国を非難するが、
現在の国際的混乱の中で原因と結果を一方的に判断するのは危険である。

【2】一国の生存条件が脅かされた時、対応措置や防衛手段を取るのは当然で
それを批判する前に、その原因を究明すべきである。

【3】仏印共同防衛は支那事変解決の促進と必要物資取得のための
自衛措置であり、支那事変が解決するか極東に公平な平和が確立されれば
直ちに仏印より撤兵する。
またソ連を含め隣接諸国に進んで武力行使する意思はない。

これらの諸点を明記したあと、
最後に、米国の言う「原則」や「プログラム」は太平洋地域にのみ
局限されるべきではなく、全世界に適用されるべきこと、
またその実施に当たっては持てる国が資源の公正な配分に努力すべきことを
提言しており、冷静で説得力のある名論であった。

また同日の連絡会議は近衛首相からルーズヴェルト大統領宛ての
メッセージをも採択したが、それは従来の事務的商議に拘泥せず、
大所高所より日米間の重要問題を討議し、時局救済の可能性を
検討することを提案したもので、細目は会談後、
事務当局に任せればよいとして、一日も早い首脳会談を希望し、
会見場所にハワイを提案したものであった。

右の両文書は1941年(昭和16年)8月28日、野村が大統領に手交わしたが、
ルーズヴェルトは近衛のメッセージを「非常に立派なもの」と称賛したのち、
首脳会談は三日くらいを希望すると言い、大いに乗り気の様子を見せた。
「この時が日米の一番近寄った時であったかもしれない」と近衛は述懐する。

だが同席していたハルは、首脳会談は事前に、まとまった話を
確認するだけのものにしたいと繰り返し主張し、
我が方の意図と根本的に背馳する態度であった。

◆ハルの邪推で会談遠のく

1941年(昭和16年)9月3日、ルーズヴェルト大統領は近衛メッセージに対する
回答とオーラル・ステートメントを野村大使に手交わした。

回答は、首脳会談に同意する明確な表現を避け、
その前提条件として基本問題に関して合意するための予備会談が
必要であるというもので、ハルの意見が支配的になったことを示していた。

またオーラル・ステートメントに至っては、四ヵ月も前に日米了解案の
基礎としてハルが提起した「四原則」を再び埃を払って持ち出し、
「四原則」によってのみ太平洋における平和が達成できると
念を押してきたのである。

のるか反るかの、この重大な時期に、日本側の不意を突くかのように
四ヵ月も前の「四原則」を提示してきたのは、
国務省当局の対日不信の表れであり、首脳会談の遷延と阻止を狙った
ハル一味の策謀と見るのが妥当であろう。

事実、ファイスは、
「ハルの結論は、日米首脳会談は見せかけの平和をもたらすだけに
過ぎないと言うことだった。
この判断は・・・・・日本の真の意図についての不信によって強く
色づけられていた。スチムソン陸軍長官は8月9日の日記に
『日本の提案は米国に断固たる行動を取らせないでおくための
単なる偽計に過ぎない』と記したが、ハルもまた同意見なのであった」
と書いている。

我が国では、日米首脳会談のため、重光駐英大使が首席随員に内定、
陸海軍の各大将(海軍は山本五十六 連合艦隊司令長官)、
両統帥部次長が参加する予定で、
期日は1941年(昭和16年)9月21日から25日、
場所は公海上の軍艦とする方針を概定、
海軍は特別な無線装置を施した新田丸を極秘裏に徴傭し、
護衛の五戦隊を待機させた。

米側は、我が国がここまで準備していることも知っていた。
にもかかわらず、会談を提案した日本側の意図を疑い続けたのだ。

再びファイスを引用するなら、

「大統領は・・・・・首脳会談が米国の外交政策全体を混乱に
陥れることを恐れて、拒絶も受諾もしないままにしておいた。
大統領は、近衛と同じく自分も会談を希望するが、
他の仕事のために、それができないでいる、
という印象を与え続けたのであった」。
最初は首脳会談に乗り気であった大統領が、
やがてハルの硬直した原則論に制せられていった事情について
「近衛文麿首相と豊田貞次郎外相は大統領の『政治的なやり方』が
ハルの『理論外交』に勝つと期待していたが、
今や大統領も原則論を信奉し始めたのだ。
そればかりか、大統領もハルも、日米間のいかなる協定に対しても
英蘭支の同意が必要である旨を一段と強調するようになり、
かくして内外ともに近衛の計画は四面を拒否で包囲されることになった」

とファイスは述べている。

この時期、米側にとって交渉はすでに終わったも同然であった。

◆「帝国国策遂行要領」の採択

このような情勢の中で、ついに我が国は、
いつでも米国と当てのない交渉を続けるべきか、
それともいい加減に見切りをつけるべきか、
しかも見切りをつけて開戦すべきか、
という重大決断を迫られるに至った。

斯くして1941年(昭和16年)9月3日、
連絡会議は和戦に関する重大決定、「帝国国策遂行要領」を承認し、
9月6日、御前会議においてこれを採択したのである。

要点は、

【1】自存自衛のため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に
十月下旬を目途として戦争準備を完整する。

【2】同時に外交手段を尽くす。

【3】十月上旬に至るも交渉成立の目途なき場合は
直ちに対米(英蘭)開戦を決意する。

このうち【2】に関連して我が最小限度の要求として、

1.米英は日華基本条約と日満支共同宣言に基づく
支那事変処理を妨害しないこと。

2.ビルマ・ルートによる援蒋行為の停止。

3.米英は極東の兵力を、これ以上増強しないこと。

4.米英は我が国との通商を回復すること等を、

また我が国の約諾し得る限度として、前記の要求が応諾されるならば、

1.仏印から支那以外の近接地域に武力進出しないこと。

2.公正な極東平和確立後、仏印より撤兵する。

3.フィリピンの中立を保障する。

4.米の対独参戦の場合、三国同盟は自主的に解釈する。

などを決定した。

我が国が、戦争の決意と準備を含む重大な「帝国国策遂行要領」を
決定するに至ったについては、次のような窮迫した理由と背景があった。

【1】米英蘭の対日経済封鎖により、我が国は満州、支那、仏印、タイ以外の
地域との貿易が完全に杜絶し、日本の経済生活が破綻に直面した。

【2】ABCD包囲陣が強化され、米英が軍備を増強した。

例えば、1941年(昭和16年)、

1、6月、シンガポールで英・将軍事会議が開かれ、
英支軍事同盟ができたと伝えられた。

2、7月4日、重慶外交部は米英支の結束の必要を放送した。

3、同月、米大統領は太平洋諸島防備強化のため
三億ドルの支出を議会に要求した。

4、7月10日、米大統領は議会に
150億ドルの国防費と武器貸与予算の支出を求めた。

5、同26日、米国はフィリピンに極東米陸軍司令部を創設、
マッカーサー将軍の指揮下におく旨を発表した。

6、同30日、米下院軍事委員会は徴集兵、護国軍および予備兵の
在営期間延長の権限を大統領に与える決議案を軍部はABCD包囲陣が、
海軍を除き、グァム、フィリピン、マレー、蘭印に
展開していた総兵力は陸軍34万、空軍600機、
さらに南方外郭地域(インド、豪州、ニュージーランド、ビルマ)には
陸軍89万、空軍600機が布陣しているものと推算していた。

◆無視されたグルーの重大電報

日米交渉が進まないのは我が国の真意が充分に伝わらないためであると考えた
近衛文麿首相は、御前会議が開かれた1941年(昭和16年)9月6日、
陸海外三相了解の下にグルー大使と会見し、
現内閣は陸海軍一致して交渉成立を希望しており、
この内閣をおいてほかに機会があるとは思えないと強調し、

「今この機会を逃せば我々の生涯の間には、
ついにその機会が来ないであろう」
と述べ、すみやかに首脳会談を行う必要を申し述べた。
グルーは首脳会談に対する近衛文麿首相の自信に動かされ、
直接、大統領あてに、この会談内容を報告することを約束し、
「この報告は自分が外交官生活を始めて以来、
最も重要な電報になるであろう」

と感慨を込めて述べたという。

9月27日には豊田貞次郎外相が野村吉三郎駐米大使に首脳会談の
急速実現を期すよう訓令し、「時」こそ重要な要素であると電報した。
随員もいつでも出発できる用意をし、
海軍も新田丸を待機させて万全の準備を整えていたが、
交渉は遅々として進まなかった。

首脳会談が実現しないのを木戸内府は、
日本が二階に上がって美しい景色を見ようと誘うと、
米国は、あらかじめ、どんな景色か言えと言う。
日本はとにかく上がったら分かると主張する。
それで話ができなかったようなものだと評したが、巧みな比喩と言えよう。

この頃、グルー大使からはハルとルーズヴェルト宛てに彼の
「外交官生活で最も重大な電報」が発信されていた。

それは要旨

【1】日本は真剣に日米首脳会談の実現に努力している。

【2】対日経済圧迫より、建設的な融和政策のほうが米国にとって賢明な
選択であり、この機会を逃したなら戦争の公算は大きくなるであろう。

【3】米国が予備会談で、満足のいく約束を日本側から期待するなら会談は
遅々として進まず、日本側は米国は遷延を策していると結論し、
近衛内閣は信用を失墜して瓦解し、軍部独裁内閣が生まれるであろう。

【4】日本は米国と正式交渉に入る意思があることを示して、
事実上、三国同盟を死文化する用意があることを示している。

【5】日本側の真摯さと誠意に米国が合理的な量の信頼を
寄せるのでなければ、戦争回避への方向転換は日本に起こらないだろう。
英知と政治的手腕で日米関係改善と戦争回避は可能であり、
それは今やるか、さもなければ永久にできないことなのである。

と述べて、日本の誠意を信じて首脳会談を
実現する必要を切言したのである。

この間、豊田貞次郎外相はクレーギー英国大使にも日米首脳会談への
協力を求めたのに対して、クレーギーは9月30日、
本国政府に次のような意見を打電した。

「日米会談の難関は・・・・・米国が引き伸ばし政策を取って、
合意のためには不可欠の前提であるとの理由で、
一字一句について議論しているところである。
もしも本使着任以来の最良の極東問題解決の機会が
このようにして失われるとすれば、まことに遺憾である。
首脳会談が流れたり、交渉が不当に長引けば内閣は瓦解するであろう。
駐日米国大使も本使も、不当に疑い深い態度を取ることによって、
この最高の機会を逸するのは愚策であると確信する。」

だが、グルー、クレーギー両大使の進言は本国において全く無視された。

ハルはグルーの意見を採用するには、ほど遠い心境にあり、
「グルーは我々のようにワシントンにあって世界情勢を判断できる」位置に
いるわけではないとハルは考えた。

スチムソン陸軍長官もハルと同意見で、
フィリピンを再武装するまでの三ヵ月間、日本との激突を避けて
交渉を引き延ばすべきこと、
また日米首脳会談には反対である旨を提言していた。

グルーは後年、当時を回想して、自分が心血をそそいだ電報が、
どれほど当局の注意を引いたか疑問だと述懐し、
彼の意見は
「深夜に湖面に小石を投げ込んだようなもので、
その、さざ波さえも見ることができなかった」
と感じたのであった。

◆交渉を終わらせた10月2日、米側覚書

1941年(昭和16年)10月2日、
コーデル・ハル米国務長官より野村吉三郎駐米大使に覚書が交付されたが、
内容は重ねて「ハル四原則」を掲げ、
日本は支那に「不確定期間」駐兵しようとしていると非難し、
さらに「三国同盟」に対する立場を一層、明確にするよう要求するもので、
首脳会談については相変わらず「根本的諸問題」についての
予備会談が必要である旨を述べるに止まっていた。

この10月2日、米側覚書は、それを受け取った野村吉三郎駐米大使をはじめ、
日本側を大いに落胆させた。
悲観説は特に陸軍において著しかった。
「(10月2日の覚書によって)首脳会談が成立しない事が明白となった。
日本は忍び得ざる限度まで譲歩して交渉成立に努力したが、
10月2日の米国案を見ると、交渉開始以来、一歩も譲歩の跡が認められない。
日本は生存上の急迫した問題を解決しようとするのに対し、
米国は当初からの原則論を固執するのみであった。」
と東條は東京裁判の『宣誓供述書』で述べている。

米国の非妥協的態度については、10月3日の野村駐米大使からの情況具申も、
「米国は・・・・・少しも対日経済圧迫も緩めず、既定政策に向かって
進みつつあることは最も注意すべきことであり、
このまま対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるにおいては、
米国は戦わずして対日戦争目的を達成するものである。」
と述べるなど、悲観的調子を深めつつあった。(野村『米国に使して』)

しかしながら、10月4日の連絡会議で米側覚書を検討した際、
永野軍令部総長が、「すでに議論の余地はない」と主張したのに対し、
東條英機陸相は、「この覚書に対する回答は慎重検討すべきである」
と述べたことが記録にあり(『大本営機密日誌』)、
これまた東條再評価の一材料たり得るものである。

ジョセフ・クラーク・グルー米駐日大使の日記によれば、10月7日、
米国大使館参事官ドゥーマンを訪ねた近衛文麿首相の秘書・牛場友彦は

「10月2日の米側覚書を受け取って以来、日本政府部内で、
日本は罠にかかったのだと考える人が多くなった。
右覚書は教訓的で妥協的なところがなく、極端に不愉快なものだ。
米国は日本に約束させたいことの明細書を出すべきである。
もしそれができなければ会談を終了させるべきである。」

という趣旨の意見を述べたという。(『滞日十年』)

ファイスは、

「日米交渉を終局に至らしめたのはハル・ノートよりも
10月2日の覚書であった」

と述べ、

「もし大統領が近衛首相と会談することに同意していたならば、
どんな事態になったであろうかと世界は長い間、考えることであろう。
グルーとドゥーマンは当時もその後も会談を拒否したのは悲しむべき
錯誤であったと感じている。
彼らには、米国政府は日本を平和なやり方に導く絶好の機会を
逃してしまったように思われた。」

と駐日大使館側の失望した様子を記している。

以上が10月2日の米側覚書の各方面に投げかけた波紋であるが、
この一片の覚書は我が国が辛抱強く継続してきた交渉路線を、
大きく戦争路線へ転換させる重大な心理的契機となったものである。

◆和戦決せず、近衛内閣総辞職

1941年(昭和16年)9月6日、御前会議決定によれば、10月上旬に至るも
対米交渉成立の見込みが立たない場合は、
ただちに開戦を決意することになっていた。

だが、その10月上旬にいたっても、首脳会談の話は停頓したままで、
対米交渉打開の目途は全く立たず、
我が政府部内の焦慮と懊悩は深まるばかりであった。

斯かる状況下、近衛文麿首相は50回の誕生日に当たる10月12日、
陸海外三相と鈴木企画院総裁を自宅の荻外荘に招き、
和戦に関する会議を開いた。

会議の劈頭、及川海相から
「和戦のいずれに決するかは総理に一任したい」
との発言があり、

それに対して近衛首相は、
「和戦いずれかに決定すべしというなら、自分は交渉継続に決する」
と述べたところ、

東條陸相より、
「その結論は早すぎる。成立の見込めない交渉を継続して、
ついに戦機を逃がしても一大事である。
外相は交渉成立の見込みありと考えるかどうか」
との質問があった。

外相が
「陸軍が支那駐兵問題で譲歩するならば
交渉成立の見込みはないとは言えない」
と答えたが、

陸相は、
「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」
と主張した。

ちなみに『東條英機 宣誓供述書』によれば、
東條陸相の主張はこうであった。
「仮りに米国の要求通り支那から完全撤兵すれば、
四年有余の支那事変における日本の努力と犠牲は空となるばかりか、
日本が米国の強圧で無条件撤兵すれば支那の侮日思想は益々増長し、
共産党の抗日と相まって日華関係は更に悪化し、
第二、第三の支那事変が発生し日本の威信失墜は
満州と朝鮮にもおよぶであろう。

日米交渉の難点は、このほかに四原則承認、三国同盟の解釈、
通商無差別問題等もあり、日米妥協は困難と思うが、
外相に成功の確信があるなら再考しよう。
また和戦の決定は統帥に重大関係があるので、
総理に一任する訳にはいかない。」

このように会談は意見が一致せず、結局、東條陸相の提案で、
【1】駐兵など支那事変の成果に動揺を与えないことを前提として、
統帥部の希望する時期までに、外交上の成功について確信を得ること。
【2】右確信のうえに外交妥結方針で進むので、
作戦上の諸準備を打ち切ること。
外相は、これができるかどうかを研究すること。

を申し合わせた。(木戸幸一 日記)

この東條提案の趣旨は、支那駐兵は不変更のまま、
外交交渉で一定期間内に妥結できるかどうかを検討しよう、
というものであった。

10月14日の閣議においても、
「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備はやめてもよい」
と陸相が言えば、
外相は「交渉の中心は支那撤兵問題だ」と答える。
陸相は
「総理はすでに中国に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、
せめて駐兵くらいは当然のことだ」
と反論するといったあり様で、ついに閣議は一致しないまま散会した。

そのあと武藤章陸軍軍務局長は、富田書記官長を通して、
「海軍は和戦について『総理一任』と言っているが、
総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。
しかし海軍が『戦争を欲せず』と公式に陸軍に言ってくれるならば
陸軍としては部内を抑えやすい。
何とか海軍のほうから『戦争を欲せず』と言ってくるように
仕向けてもらえないか」

と依頼してきたので、書記官長が岡敬純海軍軍務局長に話したところ、
岡は、
「海軍としては戦争を欲せずということは正式には言えない。
『首相の裁断に一任』と言うのが精一杯だ」
と答えたという。
海軍側の責任ある一言があれば、交渉継続が決定したはずの一瞬だった。

海軍側さえ「戦争を欲せず」と言明すれば、
東條陸相も戦争準備を放棄する用意があった。

対米戦争は海軍の戦争だからである。
このことは、同じ閣議のあった14日の夜、東條陸相の使として
鈴木企画院総裁が近衛を訪ね、
陸相の言として次のごとく伝えたことによっても明らかであろう。

「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それなら何故、
海軍大臣は自分にそれをはっきり言ってくれないのか。
海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。
然るに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、
これはまことに遺憾である。
海軍の腹が決まらなければ、9月6日の御前会議は根本的に覆るのだから、
この際、総辞職してもう一度案を練り直す以外にない」

さらに東條は、陸軍を抑える力のある者は臣下にはいないので、
後継内閣首班は宮様しかないとして、
東久邇宮殿下を後継首相として奏請することに協力してほしいと伝えた。
東條もまた戦争を望んではいなかったのだ。
海軍が、戦争を欲しないと明言したならば、
事態はまるで違っていたであろう。

皇族内閣については木戸内府が反対を表明した。
行き詰まった近衛内閣は10月16日、総辞職した。

◆東條陸相の主張

第三次近衛内閣を崩壊させたのは東條陸相の
強硬な支那撤兵反対論であったと一般には言われている。
だが、東條の説は必ずしも暴論とは言えないようである。

まず第一に、首相と外相は日米交渉の難点は支那撤兵問題で、
これについて譲歩すれば交渉は成立すると主張したが、
交渉の難点は東條の言う通り、
四原則承認、三国同盟の解釈、仏印進駐、通商無差別などもあり、
支那から撤兵すればまとまると考えるのは、あまりに安易であり、
それはやがてハル・ノートによって思い知らされることになる。

第二に、近衛は完全撤兵し、のちに支那との協定で防共駐兵を
認めさせればよいという。
多くの居留民や権益財産のある支那からの完全撤兵が
一時的にせよ可能であろうか。
仮にそれが実現した暁、重慶政府は
改めて日本の防共駐兵を承認するであろうか。
撤兵すれば支那の侮日排日は益々激化して第二、第三の支那事変が
起こるであろうという東條説は、近衛の楽観論より説得力があるようだ。

また佐藤賢了は、及川海相の「総理一任論」に
東條はひどく立腹したと書いている。
政戦略調和の責任を首相になすりつける、
そこに東條陸相の憤慨があったという。

佐藤は東京裁判のあと、この問題の真相について岡敬純から話を聞いた結果、
及川海相は、海軍から「戦争はできない」と持ち出したら陸海軍の正面衝突に
なることを憂慮して、この役目を首相に買ってもらうことにしたようだ、
と推測し、この海相の「総理一任論」の趣意は陸相はじめ陸軍側には
わからなかったようだという。

だが、この重大な時期に、及川海相や岡軍務局長が、陸軍との正面衝突回避
といった、いわば私情のために、和戦の決定を首相に一任したとすれば、
これほどの無責任はあるまい。

これについて東條内閣の外相となった東郷茂徳は1943年(昭和18年)、
近衛と会談した折、近衛が、
「それにしても海軍の無責任なる態度には驚いた。
戦争となれば海軍の問題になるにも関わらず、総理一任を主張した」と
一方ならず憤慨していたと記している(東郷茂徳『時代の一面』)。
「和戦の決定は統帥に重大な関係があるので、
総理に一任するわけにはいかぬ」
とする東條の主張は、それなりに論旨明快であったことは間違いない。

◆東條は開戦論者か

東條英機陸相としては、海軍が「戦争不可」を明言するならば
撤兵問題で譲歩しても戦争回避の方向で進む腹だった。
その点で、東條を単純に開戦論者とみなすのは誤りである。

東條が後継内閣首班として、かねて非戦論者であり、熱心に日米交渉の成立を
期待して来られた東久邇宮殿下を推薦した事実もまた、東條が日米交渉成立
を望んでいた心情の一端を、うかがい知るものとは言えないであろうか。

東條に開戦の責任を負わせる東條悪玉論が大流行である。
左翼偏向図書として有名な『昭●●』(岩●●書)には、
「(後継内閣首班には)近衛内閣を開戦論で倒した
当の責任者である陸相・東條英機が任命された」
とあり、高校用の日本史教科書には、
「そのあとに対米強硬派の陸相・東條英機が組閣」
(昭和59年検定済・学校図書発行)など、
いずれも異口同音に東條非難の文字を並べて事足れりとしている。

いかにも東條陸相が対米即時開戦を迫って近衛を窮地に追い込み、
内閣を崩壊させたかの如くである。

だが東條陸相が近衛内閣総辞職を主張した理由は、
【1】日米交渉で我が要求を貫徹する目途があるかどうかを
断定し得るまでに交渉が充分に詰められていない。
【2】海軍の開戦決意が不確実であることによって、
9月6日の御前会議の決定が不適当となったこと。
また不適当であるにせよ、御前会議の決定が実行できないとすれば、
政府は責任を取って辞職し、新たな政府の責任で
9月6日の御前会議決定をやり直し、
日米交渉に新たな努力をなすべきである。
ということであった。(『宣誓供述書』)

10月12日、荻外荘の会談で豊田貞次郎外相が
「9月6日御前会議決定は軽率であった」と発言したことに、
東條はひどく腹を立てて帰ってきたと佐藤賢了は書いているが、
右の如き御前会議を軽視するかのような閣僚の言と比べる時、
御前会議の責任をあくまで明確にしようとする東條の主張は物事のけじめを
きちんと、わきまえた正論と言うべきであろう。

◆東條内閣の和平努力 白紙還元の御諚(ごじょう)(お言葉)

後継内閣の大命は東條英機陸相に降下した。
これは東條にとって、まことに予期せぬことであった。
そして大命とともに、木戸内府を通じて
「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、
内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加うることを要す」
とのお言葉が伝えられた。

これがいわゆる「白紙還元の御諚」である。
「10月上旬までに交渉が成立しなければ直ちに開戦を決意する」
との9月6日御前会議決定を白紙に戻して対米交渉をやり直せ、
と仰せられたのだ。

「もし白紙還元の御諚がなかったなら、
自分は組閣の大命を受け入れなかったかも知れない」
と東條は述べている(宣誓供述書)。

9月6日御前会議の白紙還元は東條自身が必要と考えていたことでもあり、
必ず実行せねばならぬと決心したのであった。

◆東條英機陸相が後継首相に推された理由

支那撤兵に反対して近衛内閣を瓦解させたと一般に伝えられている東條が
後継首相に奏薦されたのは何故か。

木戸から後継首班について相談を受けたときの近衛の意見は
【1】開戦を避けるには陸軍を掌握している東條を
後継内閣首班とすべきである。
殊にこの数日来の彼の言葉によれば、対米即時開戦論を擁護してはいない。
【2】東條陸相は、海軍の(開戦についての)意向がはっきりせぬ以上は
全部ご破算にして案を練り直すといっている位だから、
首相に就任しても直ちに開戦することはないと考える。

殊に大命降下の際に陛下からお言葉があれば、
一層慎重な態度を取ることと思う。―――というものだった。

東條陸相を奏薦した木戸内府の意見は、
【1】東條は海軍に確信がなければ対米戦はできぬと言っているのだから、
東條が新内閣を組織しても、それは対米開戦を意味することにはならない。
組閣下命の際、陛下から東條に優諚(お言葉)を賜るなら、
それも一つの難局打開策であろう。

【2】東條は海軍が開戦に反対なら戦争はできぬという思慮深い考え方に
なってきている。

【3】東條は特に勅命を遵守する。
彼が9月6日御前会議決定の実行を主張したのもこのためである。
それゆえ、もし陛下が9月6日御前会議決定を反故とされ、
新たな見地での再検討を下命されるなら、
東條は勅命に従って方針を変更するに違いない。

【4】もし主戦派と思われている陸軍が国政を担当し、死力を尽くして
対米関係改善に努力したなら米国の疑惑も解消するであろう。

等であった。

これが東條が後継首班に推された理由で、彼自身全く予期せぬ所だった。
彼が新首相として陸相のほかに内相を兼摂したのは
「もし和と決する場合には相当の国内的混乱が予想されるので、
自ら内務大臣として責任を取る必要がある。」
と考えたからで、いかにも責任感の強い東條らしい判断であった。

◆非戦論が体勢の連絡会議

昭和天皇は
「東條ほど朕の意見を直ちに実行に移したものはいない」
と木下道雄侍従次長に洩らされたことがあるが(木下道雄『側近日誌』)、
まさにその通り、東條は白紙還元の御諚を直ちに実行に移した。

すなわち東條新内閣発足するや、連日、政府・統帥部連絡会議を開き、
日米交渉に臨む基本方針が再検討された。

第一回会議の冒頭、永野修身軍令部総長は、海軍は毎時400トンの油を消費
しており、事は急を要すると述べ、
杉山元参謀総長も時間の空費は許されぬとして廟議の即決を迫った。
石油貯蔵量からして、戦機はすでに秒読みの段階に入っていたのである。

石油の補給は極めて困難であった。
石油消費量は毎年、軍需民需合わせて550万トンになるが、
それは1943年(昭和18年)度までは何とかなるものの、
それ以後は南方石油に頼る他なかった。
11月開戦ならば30ヵ月、3月ならば21ヵ月で
我が国の備蓄石油はゼロになる計算だった。

議論は支那撤兵問題で最高潮に達した。
東條首相は嶋田繁太郎海相に対し
「いまさら後退しては支那事変20万の精霊に対して申し訳なし、
されど日米戦争ともなれば多数の将兵を犠牲とするを要し、
まことに思案に暮れあり」
と内話して、改めて日米不戦の公言を暗に海軍に求めたが、
嶋田海相、岡軍務局長とも、これを黙殺したと言う。
(角田順論文「日本の対米開戦」、『太平洋戦争への道』第七巻)

また塚田参謀次長は支那からの期限付き撤退は絶対に承認できぬ旨を熱心に
主張したが、その論が余りに一本調子で万般の事情を考慮する所がないため、
東條首相は、しばしばこれをたしなめたとも伝えられる。
(山本熊一遺稿『大東亜戦争秘史』)

東京裁判における東郷茂徳(東條内閣の外相)口供書によれば、
10月下旬の連絡会議での海軍の態度は陸軍同様に強硬なので
東郷は少なからず驚いたと述べている。

だが東郷は、陸軍は強硬ではあったが、連絡会議での検討の態度は
真摯なものがあり、
「東條等が組閣当初より一途に戦争を起こそうと
決意していたという見方に賛成することはできない」
とも書き記している。

また佐藤賢了は東條首相は、特に「白紙還元の御諚」以後は
「非戦論の急先鋒」となり、「東條の変節」という声が聞かれるほど
であったと書いている。

ともかく、東條内閣が陛下の御意向を体して、
交渉による打開策を真剣に模索したことは疑いない。

支那駐兵期限については参謀本部側が強硬に反対し、
早期撤兵論の外相と激論数刻に及んだ。
駐兵期限として99年、50年を主張する案もあり、
外相は5年を主張し、結局25年に落ち着いた。

無期限駐兵や長期駐兵は連絡会議で否定されたわけである。

◆甲・乙両案を決定

東條は議論を、
【1】戦争を避け、最後まで現状で行く臥薪嘗胆。
【2】ただちに開戦を決意し、その準備をする。
【3】やむを得ざる場合は開戦する決意のもとに外交交渉を併行する。

の三案にまとめ、1941年(昭和16年)11月1日午前から2日未明にかけて
延々17時間におよぶ白熱の討議を行った。

その結果、「臥薪嘗胆」の第一案は国家を自滅に導くものとして採用されず、
「主戦」の第二案、「和戦両様」の第三案の選択となったが、交渉打ち切り、
戦争決意を主張する参謀本部側に対して東郷茂徳外相は交渉の余地ある間に
戦争に突入するのは国民に対して相済まぬとして反対し、
東條首相もまた外相のこの意見を支持したこともあり、
参謀本部の主戦論は他の全員の反対を受けて成立しなかった。

斯くして第三の「和戦両様」案の論議に入り、外交交渉を打ち切って作戦に
転換する期日をいつにするのかの問題を論ずることとなった。

参謀本部側が「外交は作戦を妨害せぬこと」を主張したのに対し、
東條英機首相と東郷茂徳外相は、
「外交と作戦は併行してやるのであるから、
外交が成功したら戦争発起をやめること」
を強く求めて反論し、統帥部と対立した。

統帥部側は外交交渉の期限を11月30日としたところ、
東條首相は、
「12月1日にはならないか。1日でも長く外交をやることはできぬか。」
と切言したが、塚田参謀次長は東條の懇望を拒否し、
結局、外交交渉は11月30日夜12時までと決定されたのであった。

首相と陸相を兼摂した東條ですら、
統帥部の意向に逆らうことはできなかったのだ。

ここにおいて、右の期限に至るまでの交渉案として
東郷茂徳外相が提示したのが、有名な甲案と乙案である。

甲案は米側の希望をできるだけ取り入れた最終的譲歩案で、
支那における通商無差別、
支那および仏印よりの撤兵の三点について譲歩した案であった。

また乙案は甲案不成立の場合、日本は南部仏印進駐以前の状態に返り、
米国もまた日本資産凍結令の廃止や重要物資取得など
我が国の最小限度の要求を認め、
それによって戦争の発生を未然に防ぐための暫定協定案であった。

11月2日、早暁にまでおよんだ連絡会議は、ここに甲乙両案と
「帝国国策遂行要綱」を決定して散会した。

9月6日御前会議決定は陛下の御諚通り「白紙還元」され、
新しい交渉案がここに生まれたのである。
東條首相は会議の経過と結論を涙を流しつつ委曲内奏したが、
聞き終えられた陛下は、
「事態が謂う如くであれば作戦準備もやむを得なかろうが、
なんとか極力、日米交渉打開を計ってもらいたい」
と沈痛な面持ちで御憂慮の言葉を述べられた。(東條『宣誓供述書』)

宮中から帰庁した東條に佐藤軍務課長が
「乙案まで譲歩すれば開戦の正当性が主張できる。」旨を述べたのに対し、
東條は
「君まで誤解してはいけない。乙案は開戦の口実のためではない。
自分はこの案で何とか妥協を図りたいと神かけて祈っているのだ」
と戒めたという。

陛下の御深憂を拝した東條は、審議に手落ちがないようにと考え、
御前会議に先立って11月4日、陸海軍合同の軍事参議官会議を開いた。

明治36年軍事参議官制度の創設以来、
陸海軍合同の会議は初めてのことであった。

陛下御臨席のこの会議で陸海軍統帥部より説明がなされ、
最悪の事態に備えて戦争準備を促進することが全員一致で承認された。
このような経過と手続きを踏んで、11月5日御前会議が開かれ、
「帝国国策遂行要綱」と甲・乙両案が最終的に決定され、
この案による対米交渉が開始されることになる。

◆参戦を焦る米首脳「米国は攻撃された」

我が国で近衛内閣が崩壊し、東條内閣が対米交渉打開に向けて掉尾の努力を
傾けつつあった1941年(昭和16年)9月から10月にかけての頃、
ルーズヴェルト大統領は対独参戦の意図を益々露骨に現しつつあり、
独米は事実上、大西洋で交戦状態に入ったも同然であった。

独米の敵対関係を象徴するものは、
9月4日、大西洋で米駆逐艦グリーア号が
ドイツ潜水艦に攻撃されたという事件であった。

だが、ドイツが意図的に攻撃をしかけたとのルーズヴェルトの説明に
疑問を抱いた上院海軍委員会が事件についての公聴会を準備し、
スターク海軍作戦部長の報告を求めた結果、
先に攻撃したのは米側であったことが判明した。

6週間後の10月17日、またもや米軍艦カーニー号がドイツ潜水艦から攻撃を
受けたという事件が発生した。
ルーズヴェルトは「米国は攻撃された」と国民に訴え、
反独世論を扇動するのに努めたが、事件の真相が漏洩するにつれ、
カーニー号は魚雷攻撃を受ける前にすでに3時間近く、
一群の潜水艦と交戦していた事実が明白になった。

その後も大西洋でいくつかの発砲・撃沈事件が発生したが、
もはや「米国は攻撃された」という言葉は精彩を失ってしまった。
「もしルーズヴェルトがドイツの"攻撃"を利用して
本当に戦争を求めているのだとしたら、その便法を11月1日までに、
ことごとく使い尽くしてしまったようだ。」
・・・・・これはビアード博士の評言である。

◆中立法の改正

他方ルーズヴェルト大統領は大西洋での連合側援助を強化するため、
中立法改正を企てた。
改正項目は二つあり、一つは米国商船の武装を禁止した条項、他は米国商船
および海軍艦艇の戦闘区域進入を禁止した条項を廃止することだった。
ルーズヴェルトは、この改正が戦争宣言ではないのは武器貸与法が戦争宣言
でないのと同じであり、米国の中立政策に影響を与えるものではない、
と議会に対して陳弁したが、中立法改正は宣戦布告に等しいとして議会の
激しい反対に遭った。

だが改正案は11月7日、50対37で上院を、13日には212対194で下院を通過し、
11月17日、ルーズヴェルトが署名して中立法は改正された。

中立法改正に対する反対票の多さを考えるならば、
11月中旬の頃にルーズヴェルトが対独宣戦を議会に要請したとしても
紛糾することは必至であったし、また議会が宣戦布告を承認したとしても
国民を結束させることは困難であった。

それを一番よく知っていたのは
ルーズヴェルト大統領とハル米国務長官だった。

そして・・・ビアード博士によれば
・・・大西洋での開戦の見込みが立たなくなってくると、
大統領と国務長官は太平洋に目を向け、
日米交渉に対して特別な注意を払うに至ったのである。

◆我が国、重大譲歩を示す 甲案・乙案

すでに述べたように、「帝国国策遂行要綱」とそれに基づく甲・乙両案は
我が国最後の対米交渉打開案であった。
その「帝国国策遂行要綱」は対米英蘭戦争を決意し、
12月1日午前0時を期限として対米交渉を行い、
右期限までに交渉が成立すれば武力発動を中止するというもので、
その交渉要領が甲・乙両案である。

甲案は日米交渉中の次の四つの争点につき、
新たに我が国の譲歩を示している。

【1】通商無差別問題
従来、我が国は南西太平洋、米国は太平洋全地域(支那を含む)における
通商無差別をそれぞれ主張してきたが、
甲案では、
「無差別原則が全世界に適用されるのであれば太平洋全地域、
すなわち支那においても、その適用を承認する。」
と譲歩した。
要するに米国伝統の門戸開放主義を全世界に適用するのなら、
支那への適用を認めよう、と大きく譲ったのである。

【2】三国同盟
従来我が国が、しばしば説明してきたことだが、三国同盟による参戦義務が
発生したかどうかの解釈は、あくまで自主的に行う
(米国が対独参戦したからといって自動的に対米開戦はしない)ことを
ことを、さらに明らかにすることにした。

【3】支那撤兵
支那に派遣した日本軍は事変解決後、北支・蒙疆の一定地域と海南島に
防共のため所要期間駐屯させるが、他は平和成立と同時に撤兵を開始し、
治安確立とともに二年以内に撤兵を完了する。
「所要期間」につき米国より質問あれば、
「おおむね25年」と答えること、となっている。

これは支那駐兵の地点と期間を明らかにした点で重大な譲歩であり、
妥結の意思を立証するものだった。

【4】仏印撤兵
仏印派遣の日本軍は支那事変の解決あるいは公正な極東平和の確立とともに
ただちに撤兵する。
乙案は甲案不成立の場合、事端の発するのを未然に防ぐための暫定協定案で、
日米の通商関係を資産凍結前の状態に復帰させることを条件に、
南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐すること、
また日支和平が成立するか太平洋地域に公正な平和が確立する上は
日本軍を仏印から撤退することを約束するもので、
要するに南部仏印進駐以来、日米関係の悪化した経緯に照らして、
とりあえず事態を南部仏印進駐以前の状態に復帰させようとする案であった。

◆コーデル・ハル米国務長官、甲案に関心なし

11月7日、野村吉三郎駐米大使はハル米国務長官と会見、
日本の国情は六ヵ月の交渉の後しびれを切らし、
事態重大である旨を告げて甲案を提出した。

ハルはすでにマヂック、すなわち日本側の暗号電報解読によって甲案の内容を
知っていながら、そ知らぬ顔で野村が示した甲案を熟読したが、
支那撤兵については撤兵と駐兵の割合を尋ねただけであった。

野村は「大部分撤兵、駐兵は一部分なるべし」と説明した。
(その後、18日にハルから再び駐兵数について質問があった時、
野村は「九割くらいは撤兵される」と答えている)。
ハルはそれ以上、甲案には大した関心を示さなかった。

日本軍の支那無期限駐留に反対していたハルとしては、
駐留期間について質問することもできたはずだ。
それについて日本側が「25年」と答えることもハルはマヂックで知っていた。
25年が長すぎるなら、それを短縮する交渉もできたはずなのに、
ハルは駐留の「所要期間」について尋ねもしなかったのである。

この折、ハルは自分一個の思いつきとして、
「もし支那の最高権威者が日本に対して支那の誠実な友誼と信任を確信し、
日支友好関係の回復を希望するならば日本はいかに考えるか」
と質問してきたので、
野村と同席していた若杉公使が
「それは支那の意向を確かめた上の話なのか」
と反問したところ、ハルは、
「これは自分一個の考えであるが、かかることが行われるならば
世界に対し好影響もあろう」
と述べたにとどまった。

これは恐らく、支那側の意向を確かめた上での真面目な提案というよりは、
日本側を撹乱させ、時間を稼ぐための術策であったと思われる。
(外務省百年史編纂委員会『外務省の百年』下)。

しかしながら我が方はハルの発言を真面目に受け取り、
本国に請訓したのに対し、東郷茂徳外相は直ちに
「ハルの考案は日支和平促進に資する
有効なる方法と認められ大いに歓迎する」
旨を回電したのであった。
我が国の和平への願望が、いかに切なるものであったかが、
この些事を通じても知られよう。

ともかく、甲案による交渉は不調に終わった。
東郷茂徳外相は交渉を促進するため、
11月10日グルー駐日米国大使に甲案の趣旨を説明し、
交渉の急速妥協方を強く申し入れた。

続いて12日にはクレーギー駐日英国大使にも日米交渉への協力を要請した。
クレーギー英国大使は早速本国に報告したが、本国からは、
原則問題が妥協するまでは交渉は米国に任せてある旨の回訓が来たのみで
クレーギーを痛く失望させた。

もっとも、2日前の11月10日、チャーチルが
「米国が対日戦争に巻き込まれた場合は、
英国は一時間以内に対日宣戦を布告するであろう。」
との演説をしていたことを考えれば、日米交渉に対して
英国がもはや何の関心も有していないことは明らかであった。

◆「乙案に一顧の価値もなし」と米国務省

話は前後するが、政府は野村駐米大使の対米交渉に協力させる目的で、
11月5日、来栖三郎前駐独大使を派米した。

来栖大使は同17日、ハル米国務長官とルーズヴェルト大統領と会見したが、
ハルはその時の印象を
「来栖大使の顔つきにも態度にも信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。
私は始めからこの男は嘘つきだと感じた。」
と感情的な人物評を下し、ゆがみきった先入観で新任の来栖大使を迎えた」
(ハル『回想録』)。

野村・来栖両大使がハルに乙案を提出したのは11月20日であった。
来栖大使の乙案説明に対し、ハルは援将打ち切りの困難を述べ、
三国同盟に対する従来の主張を繰り返した。

ハルは『回想録』で乙案について「非常に極端な内容」であったと述べ、
「それは最後通告だった。日本の提案は途方もないものであった。」
などと極めて非難しているが、一週間後にハル自身が、
それこそ「極端で途方もない最後通告」を日本に突きつけた事実を
都合よく忘れているのであろう。

ともかく、このぎりぎりの暫定協定案である乙案について国務省は
「一顧の価値もない」との判断を下し、
これを黙殺することにしたのであった。

乙案への回答は、やがてハル・ノートという形で返ってくることになる。

◆「三国同盟死文化」提案も握りつぶす

翌11月21日、来栖大使はハル国務長官に単独会見し、
三国同盟には何の秘密条約も存在しないこと、
また米国の対独参戦についての解釈は日本が自主的に行い、
他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを
説明した無署名の書面を提示し、
これによって日米交渉が促進されるものとハル長官が認めるなら、
大使は即座に署名して長官に手交することを申し出た。

だがハルは、これさえ握りつぶした。
(来栖『日米外交秘話』および『泡沫の35年』)。

来栖は三国同盟の調印者だ。
その書簡を米国が公表すれば、三国同盟は即刻一片の死文と化した筈である。
あれほど三国同盟に反対していた米国が、
なぜ来栖のこの思いつめた申し入れに応じなかったのか。

答えは簡単である。
米国は、本当は三国同盟に関心はなく、
ただ交渉引き延ばしの口実として利用していただけなのだ。

現に9月から10月にかけて、大西洋では独米間に
「発砲戦争」が発生していたにも拘らず、
日本は対米攻撃をしておらず、この一事をもっても、
三国同盟が事実上死文化していたことを米国は知っていたはずなのである。

◆甲案は日本の重大譲歩

東京裁判最終弁論でブレークニー弁護人は主張した。
「日本が真に重大なる譲歩を行なったのは東條内閣が交渉の再検討をした
最初の成果、すなわち甲案においてであった。
証拠の分析は、日本があらゆる点において譲歩したに止まらず、
譲歩に譲歩を重ね、ついに譲歩の極に到達したことを証するものである。」
と(『極東国際軍事裁判速記録』第393号)。

ブレークニー氏は三国同盟について次のように論じる。
米国は11月7日、甲案提出以前にすでに欧州枢軸側との
戦争に事実上入っていた。
米海軍は独伊艦船について「発見次第砲撃」を命令し、
大統領はこれを「発砲戦争」と認めていた。
日本がこの事実を充分に知りながら米国を攻撃しなかったのは、
日本が三国同盟を事実上、死文化していたことを明白に示している。

さらに決定的なのは、11月21日、来栖大使が署名してハル国務長官に
手交しようとした書簡である。
ハルはなぜか、これを重要ではないとして片付けたが、
日本側がこの重大書簡の公開に同意を与えたのは事実なのである。

三国同盟の自主解釈を言明したこの書簡を米側が公開したならば、
三国同盟は一片の死文と化し去ったであろう。
日本側は、三国同盟を殆んど破棄するまでに譲歩したのであると・・・。
胸のすくような明快な論である。

通商無差別の問題はどうか。
交渉初期の日米諒解案では、通商無差別は「南西太平洋方面」に
限られていたのだが、6月21日の米側提案では
「太平洋全域」(即ち支那を含む)にまで
拡大適用することを主張するに至った。

その後、日本側提案は再び「南西太平洋」に限定し、
そのまま、交渉は最終局面を迎えた。

交渉の妥結を望む日本は、通商無差別原則を太平洋より更に広く
全世界に適用すべしという、より普遍的立場を打ち出して
米側との一致を求めたのであるが、思いがけず、これがハルの反発を招いた。
ハルが「全世界への適用」に反対したのは、
「米国は管轄外の国について約束をなし得ず」との理由からだが、
通商無差別協定は、世界のためではなく、
日米両国間に締結されるものであることは明白だった。

「日本が、ハル長官の名と同一視されるほどの通商無差別原則に同意するに
至ったにもかかわらず、日本側はいささかも譲歩しなかったと
ハルが主張する所以はは理解しがたい」
とブレークニー氏は弁論する。

通商無差別をめぐる日米の見解と主張の対立は、米国伝統の国策たる
門戸開放主義が所詮は支那のみを対象とした主張であり、
他の地域においては依然閉鎖主義を維持しようとする偏狭な
経済利己主義の主張であることを、改めて顕在化せしめたといえよう。

我が国が通商無差別原則の全世界適用を提案したことは、
全世界の門戸解放を求めたことに他ならぬ。
それは支那地域に局限されていた門戸開放主義の普遍化の提案だった。
してみれば米国がそれを拒否したことは、門戸開放主義が結局は正義公正の
主張にあらざることを自ら告白したことになるのではあるまいか。

「甲案における真に根本的な譲歩は支那撤兵問題であった」
とブレークニー弁護人は言う。

第一点は、従来米側は日支間の平和成立後二年以内に
日本軍が全面撤退することを主張してきたのであるが、
甲案は「日支間平和成立と同時に撤兵を開始し、治安確立とともに
二年以内に撤兵を完了する」としており、
これは「米側要求への完全な譲歩」であると論ずる。

第二点は、日米交渉中、日本は甲案において
初めて駐兵地域を明示したことである。
東京裁判で検察側証人として出廷したバランタイン氏(当時国務省顧問)は、
日本が駐兵地域として北支、蒙疆のほかに海南島という「全く新たな問題」
を提出して交渉を頓挫させたと主張したのに対し、
ブレークニー氏は、米側は傍受電報の解読で海南島については、
すでに知っていたはずで、初耳であったとは言えない。
たとえそれは別にしても、甲案提出後、
米側が海南島について日本側と議論したことは全くない。
それは米側は海南島について、承認していたがゆえに、この提案を
重要視しなかったためであると鋭く反論した。

第三点は撤退時期に関してである。
ハルは駐兵期間の不明確を最も強く論難していた。
10月2日、覚書でもハルは日本軍の不確定期間駐兵に不賛成を示していた。
この故に東條内閣は撤兵時期確定に全力を注いだのであり、
斯くして甲案において初めて撤兵期限を明示したのであった。

しかも政府は統帥部の反対を押し切って
期限付き撤兵に同意させた点が甚だ重要である。
なぜなら近衛内閣は同じ問題で崩壊したからだ。
「日本の政府と統帥部は甲案を承認した際、少なくとも期限付駐兵の原則に
同意したのである。これこそ交渉の最高頂点だった。
日本がこの原則を承認した以上、交渉成立は眼前にあったのである。
・・・・・ブレークニー弁護人はこう主張する。

ただ、駐兵期間を公示すれば駐兵目的自体を損なう恐れがあるため、
野村大使は「所要期間」という抽象的字句で交渉し、
米側より質問あれば「おおむね25年」と応ずることになっていた。
米側は暗号解読で、そのことは全て承知していた。

もし「25年」という期間が長すぎると考えるなら、
米側は交渉によって短くすることもできたはずであるのに、
不可解なことに、無期限駐兵にあれほど強く反対していたハルは駐兵期間の
長さを尋ねることさえしなかったのである。

第四点は駐兵数である。
甲案提出の際、ハルは撤兵と駐兵の割合をただし、
野村は「大部分撤兵」の旨を答えたが、
11月18日に野村は再び駐兵数に関するハルの質問に、
「九割くらいは撤兵されるであろう」と答えたのであった。

一割駐兵が過大であるならば、ハルはそれを折衝すべきであったのである。
だが米側はこの問題を全く論議しなかったのだ。
「日本が初めて駐兵数という具体的な細目まで論議しようとしたことは
譲歩ではなかったであろうか。」
とブレークニー氏は反論する。

◆「米側は詭計で日本を欺いた」(ブレークニー氏)

乙案についてバランタイン証人は、
「南部仏印の日本軍を北部仏印に移動させるという乙案は無意味であった。
なぜなら、移動した軍隊は一日か二日で南部仏印に戻すことができるからだ」
と述べた。

これに対してブレークニー弁護人は

「11月20日(乙案提出日)までに
日米間に生じた危機は日本の南部仏印進駐に由来する係争の結果であった。
それゆえ、日本が南部仏印からの撤兵を申し出たことは時計の針を逆に
引き戻す努力を意味したのである。日本は南部仏印進駐が日米交渉に
与えた損害を元に復さんと努力したのだ。」

と乙案の重大な意味を指摘するとともに、
南部仏印の日本軍を北部へ撤退させても、
すぐに南部に戻し得るとのバランタイン主張に対して、

「もしそうなら、南部仏印進駐の行われた7月以前においても容易に
北部仏印の日本軍は南部に進駐できたはずではなかったか。
7月の南部仏印進駐以前に米国が北部仏印の日本軍に脅威を
感じていなかったとすれば、11月に日本軍が南部仏印から北部へ撤退した
後にも脅威を感ずることはないはずである。」

と論理の矛盾を鋭く衝いた。

バランタインの論は、米側が日本との協定が実行されることを
信じていなかったと言うに等しく、
もしそうなら、なぜ米国は交渉を拒否しなかったのか、
とブレークニー氏は言う。

一方において日本の誠意を猜疑しつつ、しかも交渉の続行を云々するのは、
それこそ米側が日本を非難して言うところの「交渉の継続を偽り装う」
ものであったと・・・・・。

日本側の約束は一切無益であると言うのならば、
たとえ全仏印からの即時撤兵を協定しても、
あるいは三国同盟の死文化を協定しても無価値であっただろう。

二年以内の支那撤兵の誓約も通商無差別を遵守する約束も同様に
無意味であっただろう。

而して日米交渉において米国は詭計を以って日本を欺いたと
なさねばならないのである。
・・・・・ブレークニー氏は、このように論ずるまでに至ったのであった。

そして最後に、
「国務省は乙案について対案を出すこともなく、
日本側の説明に注意を払うこともなかった。
もっぱら傍受電報の解読文を信じていた。【注】
乙案は日本の最初の後退・・・実際に即時、兵を引くのだ。
・・・であり、西洋諸国が日本が不当に獲得したと考えるものを放棄した
最初の事例であり、日本にもなお穏健な精神の残っていることの
明瞭な表示だった。これこそ乙案の重要なる点である。」
と極めて含蓄ある弁論を展開したのであった。

【注】曲訳された傍受電報
米側は日本の外交電報を傍受し、その暗号解読に成功していたのだが、
実は、この解読された電報の英訳文が甚だしい誤訳や曲訳を少なからず
含んでいたことが東京裁判で指摘された。
これは同裁判で東郷茂徳元外相(被告)の弁護人を
務めた西春彦氏(東郷外相の下で外務次官)が発見し
(西春彦『回想の日本外交』)、1948年・昭和23年3月、弁護側最終弁論で、
やはり東郷被告の弁護を担当したブレークニー弁護人が詳細な批判を展開した
問題であった。(『極東国際軍事裁判速記録』第393号)。

パル判事もその判決書で誤訳電報に触れ、
「事態の重大性に対する日本側の認識や自国の運命に対する日本側の深刻な
憂慮や誠実の全部が傍受電報では失われてしまっている。」
と批判したが、時には故意に歪曲されたとも思われる誤訳曲訳された傍受電報
が米側当局者に大きな対日不信を刻み付けたことは充分に考えられよう。



『ハル・ノート』

◆「日本を最初の発砲者にせよ」

我が国が乙案を提出した後、ハルは日本を有利にせず、
かつ米国の同盟国の信頼を裏切ることなく破局を引き延ばすような対案を
考え始めた(Feis)。

ルーズヴェルトも単に遷延を目的とする暫定協定を構想してハルに伝え、
それに基づいてハルは、
【1】日本軍の南部仏印進駐
【2】非常時用石油の対日輸出緩和
を骨子とする三ヵ月の暫定協定案を11月22日にまとめ、英・蘭・豪・支の
各代表に内示した。

だが、この暫定協定には支那が激しく反対した。
「蒋介石は国務省以外の政府高官たちに多数のヒステリックな電報を
送りつけ、時には大統領を無視してまでも、事実を知らないまま、
微妙かつ重大な状況のなかに押し入って来た」
とハルは後に述べている。

「蒋介石はワシントンにいる義弟(宋子文)をして新聞記者その他に
有害な報道をばらまかせた」
とも・・・(Beard)。

ルーズヴェルトは交渉引き延ばしを目的とする暫定協定案を
ハルに作成させる一方、対日戦争を策謀していた。
11月25日の戦争関係閣僚会議でルーズヴェルトが議題としたのは
和平の見通しではなく、
戦争はいかにして開始されるかの問題であった。

出席者の一人であるスチムソン陸軍長官の日記のこの日の項には、
こう記されている。
「出席者はハル国務長官、ノックス海軍長官、マーシャル陸軍参謀総長、
スターク海軍作戦部長、それに自分である。
大統領は対独戦略ではなく、もっぱら対日関係を持ち出した。
彼はたぶん次の日曜日(12月1日)には攻撃される可能性があると述べた。
・・・問題は我々自身に過大な危険をもたらすことなく、
いかに日本を操って最初の発砲をさせるかということであった。」

これについてスチムソンは戦後の1946年、上院委員会で次のように弁明した。
「日本を最初の発砲者にさせるのは危険ではあったが、
だれが侵略者であるかを明らかにし、
米国民の完全な支持を得るには望ましかったのだ。
と(Beard)。

翌26日朝、支那の工作に動かされた英首相チャーチルから大統領宛の
電報が届いたが、それは暫定協定案は支那を不利に追い込むとの立場から
批判するものであった。
このような状況の中で、ハルは遂にこの日の午後、
「ほとんどヒステリー状態になって」(Tansill)
日本との暫定協定構想の一切を放棄し、その代替案として
10項目の提案をまとめ上げた。

この10項目提案の中には、いささかの妥協も譲歩も含まれておらず、
ハルもルーズヴェルトも、日本がこれを拒否するであろうことは
充分に承知していた。

暫定協定案に代わるこの10項目提案、所謂「ハル・ノート」は、
この日の午後5時、ハルを往訪した野村・来栖両大使に手交された。

◆重慶への謝罪に等しい条項

ハル・ノートはオーラル・ステートメントと本体から成っている。

まずオーラル・ステートメントは、乙案を、
「法と正義に基づく平和確保に寄与せず」として拒否する。

次に本体は、
「極秘・試案にして拘束力なし」と書かれ、
「合衆国および日本国間協定の基礎概略」と標記され、二項から成る。

第一項は所謂「四原則」を掲げたもので、重要なのは第二項であった。
これは要旨左の10項目から成っている。
【1】日米両国は英蘭支ソ泰とともに多辺的不可侵条約を締結する。

【2】米英支日蘭および泰政府間に仏印の領土主権尊重に関する
協定を締結する。

【3】日本は支那および仏印より一切の陸海空軍兵力
および警察力を撤退させる。

【4】日米両国は重慶政府以外の、いかなる政権をも軍事的、政治的、
経済的に支持しない。

【5】日米両国は支那における治外法権
(租界および義和団事件議定書に基づく権利を含む)を放棄する。

【6】日米両国は新通商条約締結の交渉に入る。

【7】日米両国は相互に資産凍結令を廃止する。

【8】円ドル為替安定につき協議する。

【9】両国政府が第三国と結んだいかなる協定も本協定の目的、
すなわち太平洋全地域の平和と矛盾するが如く解釈されてはならない。

【10】以上諸原則を他国にも慫慂する。

来栖大使は陸海空軍と警察の支那全面撤退と重慶政権以外不支持の両項は
できない相談で、米国が蒋政権を見殺しにできないのと同様、
日本は汪政権を見殺しにはできないこと、
さらに、重慶に謝罪せよと言わんばかりの絶対不可能な条項を含む
このノートを、このまま本国政府に伝達するのは交渉妥結を祈願する者として
深い疑念がある旨を述べた。

◆タイム・リミットなき最終通牒

日本政府がハル・ノート全文を受け取ったのは、
1941年(昭和16年)11月27日であった。

その時の感想を東郷茂徳外相は、
「目も暗むばかり失望に撃たれた」と手記に書いている。

ハル・ノートの第一項から第五項までは、従来の交渉において
何ら言及されなかった新規かつ法外な要求であり、
ノートはそれまでの交渉経過を全く無視した唐突なものであった。
「日本への挑戦状」であり、「タイム・リミットなき最終通牒」であった、
と東郷が評したのも極論とは言えまい。

同日、ハル・ノートをめぐって直ちに連絡会議が開かれたが、
出席者全員が米側のあまりに強硬な態度に衝撃を受け、落胆した。

東郷茂徳外相は東京裁判の口供書で、その時の我が方の反応を、

「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だったと思う。
米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、
最後通牒を突きつけてきたのだ。

我々は、米側は明らかに平和解決への望みも意思も持っていないと感じた。
蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に
全面降伏することを要求するものであることは我々に明らかであり、
米側にも明らかであったに違いないからだ。

日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、
極東の大国たる国際的地位を捨てることを求められたのである。

これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、
自らを守る唯一の残された道は戦争であった。」

と述べている。
これは軍部の見解ではなく、
文官たる外務大臣の意見であることに注意すべきである。

無論、東條英機首相の宣誓供述書も、ほとんどこれと同趣旨である。
すなわち連絡会議の結論は、

【1】ハル・ノートは明らかに最後通牒であり、

【2】米国は我国が受諾できないことを知りつつ、
しかも関係国との緊密な了解のうえに、これを通知してきており、

【3】米側はすでに対日戦争を決意しているが如くである。

ということだった。

かくして、日米交渉打開の望みはなくなり、
我が国は、ふたたび御前会議で最終的に行動を決することになった。

◆日米確執40年の総決算

なぜ我が国はハル・ノートを受諾できなかったのか。
ハル・ノート諸項目の中でも、殊に我が国にとって衝撃的であったのは、

第三項
「日本の陸海空軍と警察力の支那完全撤退」

第四項
「重慶以外の政権の不支持」
(我が方はこれを「汪精衛の南京政権と満州国の否認」)
と解釈した。

および第五項
「支那における治外法権の完全放棄」

の三項の要求であったといえる。

右三項の要求は、言い換えれば、9ヵ国条約の即時完全履行を迫るもので、
来栖大使の言の如く、「重慶へ謝罪せよ」と求めるに等しかった。

9ヵ国条約は19世紀末の門戸開放宣言に端を発し、
1922年、ワシントン会議で国際条約として成文化され、
以後、日米の基本的争点を形成し、
両国関係悪化の因をなし来った悪縁深きものである。

東郷茂徳外相は、こう指摘する。

「英米諸国は真に平和のため、あるいは支那のために9ヵ国条約を結び、
またこの戦争を遂行したのであろうか。

もしそうなら、米英は9ヵ国条約の趣旨に反して1945年2月、
ヤルタ密約で満州の独占的支配権をソ連に認めたのであるが、
ソ連に認め得る事が、なぜ日本に認めることができなかったのか。

予が当時、米国大使に指摘したように、
日本の支那駐兵を不都合であると言いながら、
ソ連の外蒙駐兵に抗議しないのが不公平であると同じく、
主義の一貫せぬことが余りにも甚だしい。

このように一国の時々の都合次第である以上、
9ヵ国条約は正義や平和のためとは言えず、
かくの如き趣旨の要求を日本が簡単に受諾できなかったのは当然ではないか」

と。(『時代の一面』)

ビアード博士によれば、ハル・ノートは米国が当面する死活問題を正面に
出す代わりに、門戸開放や9ヵ国条約の形で歴史的に
表明されてきた米極東政策の諸原則を最も包括的な要求として
提起したものであった。

それは暫定協定ではなく、極東に対する米国最大限度の要求であり、
門戸開放主義をめぐる19世紀末以来、日米四十有余年の確執の総決算を
求める果たし状であった。

◆戦争はハル・ノートによって起きた

ハル・ノートの過酷な要求が戦争を誘発したとの批判は
米英の識者の間に当初からあった。

英国では、戦争中の1944年(昭和19年)6月、保守党内閣の重鎮であった
オリヴァー・リトルトン生産相がロンドン米人商工会議所で、
「米国が戦争に追い込まれたというのは歴史を歪曲するも甚だしい。
米国が余りひどく日本を挑発したので
日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ」
と述べて英米間の問題になり、国務長官弁明まで飛び出す始末であった。

また駐日英国大使クレーギーが1942年(昭和17年)7月に
本国へ引き揚げる前、来訪した加瀬俊一秘書官に、
ハル・ノートなるものは戦争勃発後、新聞で初めて見たが、
あれは日本の国民感情を無視するの甚だしきもので、
交渉決裂も止むを得ざりしことが分かったと述べたという。

帰国したクレーギーは報告書を作成してイーデン外相に提出したが、
(1943年(昭和18年)2月、)
その中で彼は近衛の日米首脳会談提案は天皇の意向を反映したもので、
戦争回避のため真剣に検討すべき値打ちがあったこと、
また米国は日本の乙案を受け入れるか、「建設的な対案」を
出すべきであったと述べている。

彼のもつ情報によれば、米国の暫定協定対案に日本が同意することは
確かであったという。

かくしてクレーギー報告書は、暫定協定によって交渉妥結を図らず、
ハル・ノートを突きつけた米政府を強く批判し、
日本の戦争決断は11月27日であったと述べ、
ハル・ノートが戦争を不可避にしたと主張した。
(細谷千博『日本外交の座標』)

(註)当然ながらクレーギー報告書は英政府部内で強い反発に会った。
なかでも激昂したのはチャーチルで、
「クレーギーは日本との断絶を災厄のように書いているが、
日本の攻撃によって米国が勇躍参戦してきたことは天の恵みで、
英国にとって、これ以上の幸運は、そうざらにはない」
云々の覚書をイーデン宛にしたためたという。

◆中身は古い帝国主義

米国の歴史学者ビアードによれば、開戦後、公表されたハル・ノートで、
はじめてルーズヴェルト大統領やハル国務長官の所謂「諸原則」なるものを
知らされた米国民は、
「これが米国民が血を流し財を費やして守るべき米国の極東政策なのか」
との疑問を抱いたという。

ハル・ノートは新しい"国際道義"を謳ってはいるが、
実は以前の(満州事変の際の)スチムソン主義の継承であり、
それはまるでスチムソン陸軍長官が共同執筆したかと思われるばかり
露骨に表れている、とビアードは言う。
そしてハル・ノートの問題点は次の如くであると指摘する。

【1】ハル・ノートは日本の乙案を全面的に拒否したが、
乙案は戦争回避に役立ったかもしれない。

【2】ハル・ノートの要求項目は、日本がそれを拒否した場合には
正当な開戦理由になるような喫緊の事項に限定されておらず、
したがって外交慣習上、暫定協定と呼ぶことはできない。

【3】米国の東洋外交史上、戦争の危険を冒してまで米国政府が支那からの
全面撤退を日本に求めたことは、かつてなかった。
ハル・ノートの如き大雑把な要求のために
対日戦争をせねばならぬといった考えは、
1900年以来、1941年11月26日にいたるまで米国朝野に存在しなかった。

【4】ハル・ノートはフィリピンや英蘭領土の防衛に必要な最小限度の項目に
限定せず、全東洋に対する米国の最大限の要求に等しいものであった。

【5】ハル・ノートは要するにスチムソンの不承認主義を全支那、仏印、
さらに東洋全域にまで拡大戦とするものであった。

ルーズヴェルトは激烈な経済制裁によって門戸開放という
空疎な標語を擁護し、さらに日米会談では日本に最大限の主張を押し付けて
遂に両面戦争を引き起こしてしまった。

こうビアードは論じ、ハル・ノートが
「新しい用語で身をまとってはいるが、中身は古い帝国主義である」ことは
民主党員も共和党員も容易に看取することができた、と論ずる。

かくしてビアードはハル・ノートに関して二つの結論を出す。

第一は、いかなる日本の内閣も即時崩壊の危機なしに
ハル・ノートを受諾することはできなかったであろうということ、
第二は、国務省高官は一人残らずこの覚書を作成しつつある時に、
日本は決してこれを受諾しないであろうということを
知っていたに違いないこと、である。

またルーズヴェルトもハルも、
日本はハル・ノートを受諾するであろうとか、
この文書の対日交付が戦争への序曲にはなるまいと考えるほど
日本の事情に疎かったとは到底考えられない。
・・・ビアードはこう結論するのである。

東京裁判のインド代表判事であるパル博士が、
その日本無罪判決の中で述べている次のくだりは余りにも有名であるが、
ここに改めて引用しておこう。

「現代の歴史家でさえも次のように考えることができたのである。
すなわち、『今次戦争について言えば、真珠湾攻撃の直前に米国国務長官が
日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、
モナコやルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して矛を取って
起ち上がったであろう』」

◆日本の攻撃を予測したハル

ハル・ノートが日本にとって到底受諾できぬものであるばかりか、
ほとんど開戦通告に等しいものであることは、
ハル長官自身が最もよく承知していた証拠がある。

それはハル・ノート手交の翌11月27日、ハル国務長官はスチムソン陸軍長官に
「自分はすっかり手を引いた。今や問題は貴官とノックス海軍長官、
すなわち陸海軍の手に移った」
と述べた事実である。

しかも彼が同趣旨の発言をしたのは、この時だけではなく、
1931年から1941年までの米外交政策に関する
国務省の公式見解である Peace and War(1943年発行)によれば、
11月25日と28日にもハルは政府高官の集まりで、
対日関係が決定的な状況に至ったことを強調し、
日米合意の可能性は事実上なくなり、
「日本は、いつでも武力行動に出る可能性がある」こと、

そして米国の安全を守る問題は
「陸海軍の手中にある」
と述べ、さらに米国は、
「日本が奇襲戦略で同時に様々な地点を攻撃してくるかもしれない」
ことを想定して防衛計画を立てるべし、と説いたのであった。

11月29日、ハルは英国大使に対し
「対日関係の外交的部分は事実上終わった。
問題は今や陸海軍の手に移ることになろう。」

と述べると共に、やはり前日と同様

「太平洋の状況に関心ある諸国が日本軍の広範囲な
奇襲の可能性を考えることなしに対策を作成することの重大な誤り」

について警告したという。

これによると、ノートを日本に手交する前後、ハルは再三にわたって、
外交交渉が終わったこと、
問題は陸海軍に移ったこと、
および、日本の奇襲がいつ行われるか分からぬことを、
説いていたことになる。

かくしてビアードは、真珠湾攻撃の以前に、
日本はいつなんどき戦争を始めるかわからないとハルが告知していたと
するならば、どうして12月7日の真珠湾攻撃が、翌8日、議会への戦争教書で
ルーズヴェルトが主張したような"奇襲"になるのであろうか、
と真珠湾"奇襲"説への疑問を深めていく。

そしてまた、なぜルーズヴェルトとハルは大西洋でなく太平洋において
最終的行動に訴えたのであろうか。

これこそ、どうして戦争は起こったのか、
の問題と必然的に関連する疑問なのだ。

ビアードは、このように開戦の謎についての推論を展開していく。

◆日米抗争史の到達点

ハル・ノートは歴史の光の中で、いかに眺めるべきであろうか。
筆者はハル・ノートこそ、東亜における日米抗争史の最終到達点として
歴史的に位置づけられるべきものと考える。

ハル覚書の第三、第四項は満州事変、支那事変の完全否認というべく、
満州支那問題をめぐる日本民族の歴史意識と国民感情の完全否定であった。

租界や義和団事件議定書による諸権利を含む在支治外法権の
完全放棄を求める第五項に至っては、満州や旅順・大連を含む関東州までも
放棄せよと要求するもので、それは米国の仲介で結ばれたポーツマス条約の
取り消しに他ならない。

セオドア・ルーズヴェルトの斡旋で成立したポーツマス日露講和条約を、
甥であるフランクリン・ルーズヴェルトがいま否認しようとしている所に、
筆者は少なからず歴史的因縁と興味を感ぜずに入られない。

(以下略)

◆開戦の決定

12月1日、対米英蘭開戦を決定する御前会議が開かれた。
11月5日決定の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉が
遂に不成立に終わったからであった。

席上、東郷茂徳外相はハル覚書について、

「半年を越える交渉経緯を全然無視せる不当なものである。
米国は終始その伝統的理念および原則(門戸開放主義を指す…筆者)
を固執し、東亜の現実を没却し、しかも自らは容易に実行せざる諸原則を
帝国に強要せんとするもので、我国幾多の譲歩にもかかわらず、
7ヵ月余の全交渉を通して当初の主張を一歩も譲らなかった。

ハル提案は到底容認し難きもので、米側がこれを撤回せぬ限り、
交渉を継続しても我が主張を貫徹することは、
ほとんど不可能というほかなし」

と述べた。

東條英機首相はじめ政府と統帥部の各責任者より所管事項の説明がなされ、
また原枢密院議長からも、
「米国の態度は帝国の忍ぶべからずもので、
この上、手を尽くすも無駄なるべし。したがって開戦も致し方なかるべし」
との意見が表明された。

かくして出席者全員の賛成で開戦が決定されたのである。

すでに11月26日、ハワイ作戦のため択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)を
発進して一路、北太平洋を東航中の我が海軍機動部隊に対しては、
12月2日夜、「新高山登れ1208」という隠語電報が発信された。
「開戦日は12月8日と決定せらる。予定通り攻撃を決行せよ」
との命令であった。

真珠湾攻撃は、ここに最終決定されたのである。

◆解決された大統領の「道徳問題」

真珠湾攻撃の日(時差によりアメリカでは12月7日)の午後2時、
ルーズヴェルト大統領はスチムソン陸軍長官に電話で、

「日本はハワイを攻撃した。やつらはハワイを空襲しているところだ。」

と述べた。

そしてスチムソンは、この日の日記にこう書いた。

「それはたまらなく面白いことだった。
・・・いまやジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を
一挙に解決してくれた。
日本の攻撃の報を受けた時、私の最初の気持ちは、不決断の状態が終わり、
全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たという
ほっとした気持ちであった。」

同じ7日夜には閣議が開かれ、ルーズヴェルト大統領は翌日の議会での
公式声明を予示する事件の説明を行なった。
そのなかで彼は、

「大統領として戦争に際会するのは、まことに遺憾であるが、
この状態は全く思いがけなく出現したのである。
我々は攻撃されたのだ。これについては何の疑いもない。
今日、太平洋では撃ち合いの戦争が行なわれているのであり、
我々はその戦争に参入しているのだ。」

と述べた。

だがこの時のルーズヴェルトは、スチムソンと同じく、
米軍に降りかかった悲劇の報にも関わらず、
というよりは、むしろ、そのためにかえって、
ほっとした様子であったといわれる。

当時の労働長官フランシス・パーキンズ女史は戦後の1946年に証言している。

「12月7日夜の閣議で大統領は、
彼の誇りや海軍への信頼や米情報機関への信用に対する大打撃にも関わらず、
また戦争が実際にもたらした惨害にも関わらず、
いつもよりずっと平静な様子であった。
彼の恐ろしい道徳的問題がこの出来事によって解決されたのである。
退出した時、フランク・ウォーカー郵政長官は私に、
『大統領は何週間かぶりに心底からほっとしていることと思う』
と述べた」

と。

ほっとしたのはルーズヴェルトだけではなかった。
この日の夜、大西洋を隔てた英国では、
首相のチャーチルが真珠湾攻撃と日米開戦の報に、

「感激と興奮に満たされ、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた」

(W.S.チャーチル『第二次世界大戦』)

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『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) より抜粋

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ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html

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中村 粲(あきら)
日本の英文学者、近代史研究家、元獨協大学名誉教授。
2010年6月23日、肺癌のため死去。享年76歳。

「あらめて大東亜戦争を思う」

◆我が対外行動の特徴

まず大東亜戦争自体について。
筆者はこの戦争の性格を一言で云へば、結局自存自衛のための戦ひだった、
と考へる。

日本が東亜から太平洋とインド洋、
そして独伊と結託して全世界に対する覇権を求めて起こしたのが
大東亜戦争である、とは東京裁判史観である。
そしてこの荒唐無稽な判決を信奉する現代史家も依然として存在する。

だが日本がかつて世界の覇権を求めようとしたことのないのは
歴史を素直に読む者には直ちに分かることだ。

のみならず、我が国は、戦争を起したくて起したこともなかった。
それは日米交渉の最後まで戦争回避の努力を
傾けた事実を想起すれば十分であらう。

大東亜戦争を、求めて起した戦争の如く言いつのる現代史家が居るとすれば、
それは東京裁判の呪縛からいまだに逃れることのできない
余程の自虐史観の持主であるに違ひない。

そもそも近代史を振返る時、
我が国は領土欲の極めて少ない国であったことに気がつくのであり、
そこに欧米列強と比べて際立った特徴があると云ってよい。

我が国の対外行動は殆どが二つの原理によって動機づけられ、
支配されていた。
それは国防上の安全と民族の生存である。
国家民族の安全確保のために他国へ進出したり、
生存あるいは自存目的のために他国に権益を求めたことはあっても、
領土のための領土を要求したことは殆どない。

国防と生存といふ切実な条件、
云ひ換へれば国家国民としての必要最低限の条件を越えて他国へ進出したり、
権益を主張した例は皆無と云ってよいのだ。

それは、近代に於ける日本の対外行動を一瞥しただけでも明らかであらう。
日露戦争は国防目的の戦争であったし、
それに続く韓国併合も結局は国の安全が目的であった。

第一次世界大戦の際、国防上の理由から接壌地域のシペリアヘは出兵したが、
国の安全と関はりのない欧洲への出兵は、連合国の要請があったにも拘らず、
断じてこれを行なはなかったのである。
山東出兵は居留民の安全保護のためであった。
満洲事変は国防と民族の生存といふ両目的からする
対外行動であったと云へよう。

支那事変は特殊な例であり、国防とも生存とも関係なかった。
それは挑発されて起した軍事行動であり、
挑発した支那側の贋懲が目的であって、
我が国家民族の安全と生存といふ切実な要請から発した対外行動ではなかった。

そうなればこそ、我が国はこの無意味なる事変を速かに
終燎せしめんと百方努力したのであるが、
遂にABCD包囲陣に我が国の生存自体が脅威されるに下ったため、
やむなく自存の道を求めて南方に進出し、
遂には包囲陣を打破して自存自衛を全うせんがため、
対米英蘭開戦に踏切ったのであった。
大東亜戦争は、言はば生きるための鮮血を求めて開始されたのである。

このように近代に於ける我が国の対外行動は殆どの場合、
国家民族としての、ぎりぎり一杯の必要を理由としていたのであり、
それを顧慮せず簡単に“侵略”と呼ぶことは事実に反し、
歴史を歪めることになる。

第二次大戦前、四千万の英国民は
アジアとアフリカで四億五千万の人々を支配していたが、
この植民地支配は英国の安全と生存の上から
絶対不可欠のものであったと言えるであろうか。

英国は中国とのアヘン戦争に勝利して香港を手に入れ、
以来、155年間の長きにわたって租借し続けていたが、(1842年~1997年)
香港に対する英国の必要度は、
南満州に対する日本の必要度に比較し得るであろうか。
香港を失っても英国の安全も生存も脅かされることはない。

だが、南満洲を失う時、日本の安全も生存も忽ち危機に陥るのであった。
いみじくもグレー卿が述べた如く、
日本は南満洲の地に「鮮血を植えた」のであった。

ちなみに中国は、日本の満洲進出を侵略として、
そのために日本と戦争までしながら、
英国の香港支配は阿片戦争以来155年の長きに至るも、
これを承認し続けたではないか。

米国はどうか。
西海岸から4000km以上もの海濤を隔てたハワイを併合するのに、
国防または生存上の絶対的な正当理由があっただろうか。明らかに否だ。
いはんや、13000kmもの遠隔にあるフィリピンを領有するための
いかなる切実な国家的要請もなかった筈である。

フランスの印度支那植民支配しかり、
オランダのジャワ、スマトラ支配も同断である。

広大な欧亜大陸を征服し侵略した帝政ロシアとソビエト・ロシアに至っては、
正に領上欲の権化と評する他ないではないか。

風濤万里の他国領土に兵を進め、
これを植民地として支配し搾取したこれら欧米列強の対外行動と比べる時、
我が国の対外進出たるや、
実に緊切の必要に迫られた行動であったと言わねばならない。

国際社会に於て「自存権」は
全ての義務に優先すると説く学者もいる(Rivier)。
「生存権」は他国の権利を尊重する義務さえ無効にすると・・・。

このように見てくる時、
近代日本の対外行動を簡単に「侵略」と呼び捨てることの
いかに当たらざるかを改めて痛感する。

◆現実を無視した米国東亜政策

大東亜戦争とは、

1.門戸開放主義をめぐる日米抗争。
2.共産主義との戦い。

という二大底流の合する所に生起した戦争であった。

第一の門戸開放主義であるが、
これこそが日米抗争50年の最大争点であった。
一体、19世紀初頭からモンロー主義を宣言し、
欧洲への不関与を国策としてきた米国が、
なぜ東亜に対しては門戸開放という積極的な干渉政策に出たのであろうか。

「米国極東政策の半世紀を顧みる時、
疑いもなく我々の感情的コンプレックスに
起源を有する奇妙な現象に気がつく。
極東と欧洲に対する我が国の政策の間に明白な相違があるのだ。

すなわち、米国が欧洲の諸問題に対処する際の、
あの抑制が、極東への対応では欠如しているのである。

極東の問題については、無視することを喜ばず、
進んで関与しようとするのだ」

これジョージ・F・ケナンの名著 American Diplomacy 1900-1950の一節だが
米国極東政策50年の特異なる面を
洞察した含蓄に富む指摘と言うべきであろう。

米国が欧洲には抑制を以て接し、
東亜に対しては不遠慮なまでに己れの原則を強要せんとしたのは、
ケナンの言うが如く、彼等の感情的コンプレックスの致す所なのであらうか。

その確拠を詳らかにしないが、何れにしても、
米国の積極的な東亜への干与が多くの問題を生み、
また、その解決を困難ならしめたことは事実である。

門戸開放を標榜する米国東亜政策最大の問題点は、
それが極東に於ける自然な力関係を無視し、
徒に観念的かつ道徳的な主義原則を押し付けようとしたことに求められよう。

東亜特有の政治力学に代えるに米国的正義の観念を以てせんとしたのである。
東亜の現実態を無視せるが故に、
米国の提唱せる原則は安定よりは混乱を生んだのであり、
特に我が国との関係に於てそうであった。再びケナンを引用しよう。

「もしも米国が、極東に於ける力関係の現実に立脚し、
また極東情勢の法律的あるいは道徳的斉合性のみならず、
現実の安定と静謐を志向する政策によって
歴史の流れを変え得る可能性があったとしても、米国はその可能性を善用し、
その可能性を現実化するために殆ど何事をもなさなかった」

米国が東亜の問題で我が国に遵守を要求した国際原則の例として、
いわゆる「対支21ヵ条問題」でのブライアン不承認主義、
石井・ランシング協定、ワシントン会議での九ヵ国条約、不戦条約、
満洲事変でのスチムソン不承認主義、
支那事変から日米交渉にかけてのハルの四原則、通商無差別主義、
そしてそれら一切を抱括した最大限の要求としてのハル・ノート。
これらの日米抗争史がケナンの所説の正しさを裏づけている。

支那事変を想起してみよう。
米国は九ヵ国条約を根拠に我が国を非難し、かつ制裁を加へる一方、
重慶政府に対しては吝しみなく軍事経済援助を与へることによって
抗戦を継続せしめ、支那事変の収拾解決を困難ならしめたのではなかったか。

そしてこの間、
米国は支那事変解決については何らの努力も試みなかったのである。

かくして日米確執50年の由って来る所以は、
民族的憎悪や領土争奪にはあらずして、東亜をめぐる我が現実的要求と
彼の観念的道徳主義的主張との衝突であることが理解されよう。
その責任を特定の個人やその政策に負わせるには、
東亜をめぐる日米抗争を生み出した史的背景は
余りに巨大過ぎたと言えるだろう。

◆正しかった日本の歩み

大東亜戦争への第二の流れ。
それはロシア革命以後の共産主義防遏の戦いであった。
大正中期以降の歴史を思い返そう。

シベリア出兵、満洲事変は何れも、いかにして共産主義の危険から
東亜と日本を守るかの問題意識と深く関わっていた。
支那事変発生の背景にコミンテルンの謀略もあった。

更に、日米交渉の最大争点が支那に於ける防共駐兵の問題であったことは、
我が国策が最後まで防共と不可分のものであったことを物語っていよう。
惜しむらくは、米国に、我が国の防共努力に対する
理解の欠けていたことである。

東亜に於ける共産主義の防波堤たらんとする我が日本の立場に対する
正当な認識が米国にあったならば、日米関係と東亜に於ける全事態は、
全く別の展開を遂げたのではあるまいか。

所で昨今、東欧、バルト三国その他世界各地で、
共産主義の思想と体制が人間の自由を抑圧するものとして、
その権威を否認され、その罪過が民衆によって問われるという
注目すべき現象か連鎖的に生起しつつある。

ロシア革命以来、共産主義七十有余年の
政治犯罪史の告発と断罪が始まったのだ。
この澎湃たる反共気運を歴史の光の中に置いて見るならば、
決定的に重大な問題が浮かび上がってくるのに気がつく。

即ち、共産主義が邪悪な反人道的イデオロギーであり、
政治体制であるならば、
その共産主義と一貫して戦った日本は先見の明があり、
基本的には人道の側に立っていたとの結論になるのではないか、
といふことだ。

共産主義の否定が人間回復への道であり、歴史の正しい方向であるならば、
防共への第一線を戦ってきた日本は、
少なくとも歴史の正しい流れに沿って
歩んでいたと結論できるのではないか。
「軍国主義」日本は、人類救済の先導者であったことにはならないか。

もしそうならば、当時は他国領土の侵略と見えた行動も、
大局的には防共という大義のための
一時的な方便であったということにならう。

してみれば、共産主義を民主主義と同一視し、
善なる体制と前提した上で日本の行動を断罪した東京裁判史観は、
その前提が崩れた今日、完令に成立しなくなる。

逆に共産主義の防波堤たらんとして戦った日本は、
基本的には侵略戦争ではなく、
正義と人類救済の戦争を遂行していたことになり、
マクロ的には、正しい歴史の流れに従っていたことになる。

防共戦としての性格をもつ大東亜戦争は、
いまその正当性を事実を以て立証されつつあると言えよう。

共産主義社会の実現を最高善とし、
そのための破壊工作や戦争を民族解放戦争と美化し、
斯かる共産破壊活動か自らを守らんとする陣営を
反動、帝国主義、侵略の道をゆく者として歴史を記述してきた左翼史家達は、
いまや決定的な歴史評価の転換を、
世界の人民大衆によって迫られていると言えよう。

マルキスト及びその同調者達に、彼等の歴史の誤りを率直に認め、
訂正する良心と勇気があるかどうか、厳しく見守ってゆかねばなるまい。

大東亜戦争への長い道。
成る程、あの戦争で多大の血が流され、命が失われ、財産が無となった。
そして、破れたことによって、
明治維新以来の先人達の努力が水泡に帰したことも事実である。

だが、結果論的に敗れた戦争を裁断するのでなく、
戦争に至った明治以来の歴史の流れを、
当時の人々の心を我が心として振返る時、
あの戦争を「愚かな戦争」と傍観者的に冷笑することはできない。
それは、歴史を担った誠実なる人々に対する冒涜のように思われるのだ。
「破滅への道」を願った日本人は一人も居なかった筈だ。
誤算を不誠実と混同してはならぬ。

歴史は皮肉であり、気紛れであり、また過酷である。
その中に於ける個人の善意と努力は、
時として「砂汀に描く」ように空しいことがある。

だが、歴史を考える時、そういう善意や誠実さを
暖かく見つめる気持ちだけは失いたくないと思う。

ともあれ、敗れた日本だけを断罪するには、
大東亜戦争は余りにも複雑で巨人な歴史を背負っていた。

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東條英機 元総理の遺言
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真実はどこに・・・【英語版】Kamikaze, where is the truth?

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2009/07/24 09:00|年表リンク用資料
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