●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
◆満洲の現状を知らない政治家の責任
よく満洲事変は「軍部の独走」によって起こったと言われる。 軍部の暴走あるいは銃剣の力の前には 政治が如何に無力であったかを示すものだとも言われる。 だが、このような見解は、責任を不当に軍部に押しつける危険があり、 決して全面的な真実を言い得てはいない。 ある面では時流を鋭く洞察し、 時代を抜きん出る識見をもっていた近衛文麿は、 前出の「元老重臣と余」の中でこう述べている。 「当時の知識階級の人々の多くは、満洲事変を起こしたものは軍部であって、 国民にはむしろ迷惑であると思って居た。 この考えが外国人、殊に英米人に伝わり、それ以来彼等は、 日本の外交は軍部に引きずられて居ると信ずるようになった。 勿論表面から見れば満洲事変以来の日本外交の推進力は軍部であり、 而してその軍部の行動には非難すべきことが多々あることは事実である。 米国人等が軍部の横暴さへ抑えれば、 日本の外交は軌道に乗るであろうと考え、 彼等の所謂自由主義政府の台頭に期待をかけたのも無理はない。 然しながらかかる考へ方は、表面だけを見た皮相浅薄の見解であって、 その根本を流れている国民的運命を見逃して居るものと余は考へていた。 余は西園寺公に 『今日本の進む方向は世界の情勢がそうさせているのである。 軍人が起とうと起つまいと、満洲事変が起こると起こるまいと、 これは国民が当然辿るべき運命である。 政治家にしてこの国民の運命に対する認識を欠ける以上…… 軍人が推進力となって益々この方向に突進するに違いない。…… 政治を軍人の手から取り戻すために、先づ政治家がこの運命の道を認識し、 軍人に先手を打って、この運命を打開するに 必要なる諸種の革新を実行する外はない。……』と説いたのである」 と述べ、「また近衛の先手か」と言って西園寺によく笑われたと書いている。 近衛は同じ趣旨のことを、これより早く昭和11年に以下の如く書いてもいる。 軍事と政治の関係について彼の所見を知る上で参考になるので引用する。 「国策ということが近頃やかましく唱えられている。 国策は本来、政治家が樹てるべきもので、 軍部はこの国策に基いて国防計画を樹てるというのが本筋だ。 しかるに今までの政治家は党利党略に没頭し過ぎて、 大きな国策を顧みる暇がなかった様だ。 ……外交面また然り。 外務省には語学に堪能な、外交事務に練達な人は少くない様だが、 真に大局を把握している人はどれだけあるか。 大戦後より満洲事変までの我が国の外交は、大体、協調一点張りであった。 協調もとより結構なのだが、 しかしこの協調たるや当方には何ら方針もプランもなく、 ただ列強の言うことは、これ世界の大勢でやむを得ないとばかりに、 ただこれに順応し追随して行くというのであっては、 軍部や国民が憤慨するのも無理はないと思う。 ……目下、軍部の力が強いのは、軍部には、とにも角にも この日本をどこへ持って行くという、 はっきりした目標とプランがあるからだと思う。 ……今日、内外の諸政悉く軍部に引きずられるという憤慨の声を聞くが、 プランのあるものとないものとが出会へば、 どうしてもプランのあるものが引きずるのは当然である。 徒らに憤慨だけすることをやめて、 政治家ももっと勉強しなければならぬと思う」 政治家が眼前の些事に捉われ、 あるいは政争に明け暮れし、国の前途を憂うる心なく、 根本国策もなきとき、国防を担う軍部が独走するのは当然だとして 政治家の無為傍観を戒しめているのである。 この点で、事変当時、外相たりし幣原の責任は如何であらうか。 昭和3年から7年まで奉天総領事たりし林久治郎は、 幣原に積極的対満政策の欠如していたことを、 その手記の随所で指摘している。 例へば、昭和4年、林は軍部と外務の対支方針を一致せしむるために 在満機関統一の必要を痛感し、一私案を作成した。 彼の素志は、統帥権独立を主張する軍部を完全にコントロールし、 対支外交の確立発展を図るにあった。 だが幣原外相はこれについて反対はしないまでも積極的意思を有せず、 外務省も同様であった。 「幣原外相は頭脳明晰なるも機略を欠くの嫌ひあり」と林は評している。 林は更に、満洲事変の直前の昭和6年7月1日、 幣原と会見して、日支の衝突の避け難いことを述べ (すでに万宝山事件が発生していた)、 その場合、無鉄砲な行動をすれば国際世論の反対を受ける恐れがあるので、 先づ満洲に於ける日本官民の統制を実現せねばならず、 そのためにかねて具申した。 「満洲機関の統一は一日も忽(ゆるがせ)にすべからざる状態にある。 願くは閣下国家百年の大計のため大英断に出られたし」 と約一時間にわたって陳情したが幣原外相は 「鉄道交渉の弁明等を往々として語り、 遺憾ながら要点に対する反響を示さなかった」と言う。 また帰満した後の7月末、 新たに満鉄総裁に就任した内田康哉を大連に往訪し、 強硬手段を主張する軍部の形勢を説き、 直ちにこれを制止せねば国家の一大事を招致する恐れありと述べ 「現政府は因循にして頼むに足らず、閣下は霞ヶ関の大先輩にして 宮中において前官の礼遇を受くる重臣なり、 直ちに帰朝し、闕下に伏奏して実情を明らかにし、 大命によって大事を未発に防がれたし」と切言したが 「伯は遂にこれに聴く所なく……予の去った後に、 林は大分神径質になって居ると語られたとか言う様な次第で、 誠に遺憾至極であった」と書き記している。 東郷茂徳は昭和4年、満洲視察のあと内大臣・牧野伸顕に対して 満洲の実状を詳細に伝え「このままに放置すれば 何時でも爆発し得べき状況にあることを説明した」ところ、 牧野伯は「一驚を喫した模様で、そんなに悪化した状態か」と言ったという。 幣原は言うまでもなく、内田伯と言い牧野伯と言い、 元老重臣達の満洲の実状に対する 認識不足と楽観論を如実に伝へる話ではないか。 されば、スモール・シデハラと言われた重光葵さえ 「幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは 疑う余地はなかったが、その弱点は、満洲問題のような 日本の死活問題について、国民の納得する解決案を持たないことであった。 政府が国家の危機を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの 勇気と能力とに欠けておったことは、悲劇の序幕であり、 日本自由主義破綻の一大原因であった」 と遂には幣原外交を批判せざるを得なくなったのであった。 この様な満洲の現実に対する政府並びに外交当局者の認識と対策の欠如を、 外交史家・清沢洌は、 「外交が事実から離れたと言ってもいいし、 事実が外交から逸脱したと言ってもいいであろう。 どう形容しても、日本が有機的一体として活勤していなかった事は疑えない。 これは幕末において外交が実勢力を代表しなかった以来、 最初の出来事であって、政治力の不足がまづ対外的に現れたのである」 (『日本外交史』下巻) と叙述している。 以上を考察すれば、満洲事変の責任 (もし我方の何人かに責任があるとすればだが)は、 軍部と政治家の何れにあるかは明らかであらう。 為政者が国家の命運を憂えず、眼前の利と保身の術に走る時、 国民が憤激し、軍隊が決起することは往時も今も変らないのである。 ◆事実を没却した連盟勧告 既に述べたように、昭和8年3月、 我が国はリットン報告に基づく連盟総会の勧告に対し、 「東洋平和確立の根本方針につき連盟と所信を異にする」 との立場から連盟を脱退したが、リットン報告書と我が国論の対立について 蝋山政道は次の諸点を指摘かつ批判する(『日満関係の研究』) 1.満洲事変とその原因の調査事項として、 「支那そのものの調査が重要な部分たるべし」と言うのが 日本側の要求かつ期待したところであったが、 リットン調査団は結局、華府会議に於ける九ヵ国条約締結当時の 欧米諸国の支那認識を踏襲して、一定の条件が与えられるならば、 支那は「自ら統一国家としての発達の途上にある」べしと断定している。 この点が、報告書が日本の国論と背馳することになった重大な一点である。 2.調査団が結論として満洲国を否認したのは、 一定の「政策的価値判断」であって、事変を生み出した原因と 事変の生み出した事実とのディアレクティークの 発展関係に盲目であると言わなければならない。 3.調査団の顧慮した最大の点は、九ヵ国条約、不戦条約等の 国際平和機構に触れた領土の変更を避けんとしたことで、 既存の自治的状態を合法化し、 改めて自治区域となすに止めんとしたことである。 しかし、国際平和機構との関係が問題であるならば、 自衛行動についても、あのような狭義の軍事行動に限って批判し、 広く政治的行動の範囲を認めず、 また満洲国政府を支持せる要人、諸団体の指導者並びに 住民の保境安民の主張を全く無視して顧みず、 日満両国民の協和は如何なる意味に於ても成立しないように断定したのは 不当の観察であるのみならず、国際平和機構との衝突を故意仁認め、 解決の道を杜絶するものである。 4.要するに、調査団は事実の調査と評価に当って、 常に日本の主張を念頭に置き、それを批評的に 反駁すると言う心理に導かれていたと推測し得るのである。 また当時の駐日米国大使ジョセフ・グルーは 決して日本の同情者ではなかったが、それでも平和維持機構についての疑問を 1933年2月23日の日記に次のように書き記している(『滞日十年』)。 「この日記で最近私は、日華紛争に関する国際連盟の 報告と勧告に同調するといった。 しかし私はこの記述を変更しなくてはならない。 ……勧告は理論的にはいいかも知れないが、困ったことに、 事実に即さないので実際的の効果がなく、少くとも現在では実行できない。 ……全問題について考えれば考えるほど、全世界がここ14年間、 かくも熱心に、苦労して設立しようとしてきた平和機構が、 根本的に正しいものであるか、 根本的に実際的であるかどうか、疑ひたくなる」 と。 そして満洲事変を1898年の米西戦争と比較して 「もしキューバの危機がケロッグ(不戦)条約締結の後に起り、 軍艦メイン号がハヴァナ湾で爆破された結果、 戦争熱が燎原の火のように米国中に広がり、 老幼男女のことごとくが『米艦メイン号を忘れるな』と叫んだとしたら、 合衆国政府はスペインとの戦争を防ぐことが出来たろうか。 時の大統領マッキンレイは1898年戦争を避けようとしたが、避け得なかった。 よしんばケロッグ条約がその時存在していたとしても、 合衆国もまた、自衛の立場に立ち、世論に押されて宣戦布告なしに キューバを占領しなかったろうか?」 と不戦粂約では戦争防止に効果のないことを述べたのち、 平和機構について 「そこで、吾人の平和機構なるものが、理論的には壮大だが、 実際的には無効であることは明白である。 それは表面的なるが故に無効なのである。 それは癌が十分発達してしまった後で、 医者が処方する罨法みたいなものである。 ……世界の将来の平和機構は……病気が起こるずっと前に 手当をせねばならぬのである。 ……一言でいえば、世界の平和機構は、戦争撲滅に役立つためには 今日のものよりも遥かに急進的で、見識あり、理論よりも事実、条件、状況に 遥かに多くの関心を待ったものでなくてはならぬ」 と書き、連盟の不備と欠点を指摘している。 ◆満洲事変を称えた我が国世論 ドイツの一新聞は「日本の連盟脱退は欧米とアジアとの決裂の始りである」 と評したと言われる。 国内に於てもこの頃から「アジア人のアジア」とか 「東洋に還れ」とかの言葉が叫ばれるようになった。 連盟脱退を宣言した松岡代表は、 日本国民の熱狂的歓迎の裡に帰国したのであった。 アメリカ経由の浅間丸で4月27日(昭和8年)、 横浜に着いた松岡全権を歓迎する人波は横浜埠頭を埋め、 東京駅頭には日章旗を手に手に学童が整列した。 新聞は「正義のために雄々しく戦った自主外交の勇将」と書き立て、 ラジオは帰国の模様を逐一全国に中継した。 さながら凱旋将軍の帰国風景であった。 この情景に感嘆したグルー米大使は 「日本国民は、松岡を見ること、あたかも世界の猛攻から 自分たちを守った現代のホレイシャス(ローマ伝説上の勇士)の如くである。 その帰国に際して発揚された日本国民の愛国心の高まりは、 この国でまれに見るほどのものであった」 と本国に報告したと言う(細谷千博『日本外交の座標』)。 満洲事変の勃発に快哉を叫び、 感動して筆をとったのは独り新聞に限らなかった。 柳条溝事件の翌昭和7年1月、戦火は上海に飛火し、 第一次上海事変が勃発したことは前述した。 余談めくが、有名な爆弾三勇士の出現はこの折、 廟行鎮の戦いにおいてであった。 破壊筒を抱えて敵の鉄条網を突破した三勇士は 日本全国で美談となり、いくつかの歌にもなった。 それらの中で最も有名なのは「廟行鎮の敵の陣/われの友隊すでに攻む……」 で始まる『爆弾三勇士』の歌であらうが、 この作詞者は歌人・与謝野鉄幹である。 鉄幹はよほど爆弾三勇士の行為に感奮したのに違いないが、 実はその妻・与謝野晶子もまた三勇士の散華に感激した一人なのであった。 三勇士の殉国の行動に甚しく心を動かされた彼女は、 その直後、「優勝者となれ」と題する論文を書き、 「日本軍人の強さは世界一であるが、国民も職業や学問に於て軍人同様、 勇敢に奮発せねばならない。殊に青年男女は爆弾三勇士の突撃の如く 大胆に生活意力を実現して欲しい。勝つ者は軍人ばかりであってはならない。 国民が各自に優勝者たらんとする奮発が必要である」と説いた。 彼女の気持は更に高揚し、同年6月には別巻『日本女性』に 「日本国民朝の歌」を発表して、再び爆弾三勇士に続けと歌い上げた。 その歌は爆弾三勇士の玉砕を賛美したあと、 「武人にあらぬ国民も……命を断えず小刻みに、国に尽すは変り無し/ たとえば我れの此歌も、破壊筒をば抱きながら、鉄条網にわしり寄り、 投ぐる心に通えかし/無力の女われさえも、かくの如くに思うなり。 いわんや、すべて秀でたる、父祖の美風を継げる民」 と三勇士の精神を範とするよう国民に訴えている。 日露戦争中に「君死にたまふこと勿れ」の歌を発表し、 我が国の歴史教科書がいづれも反戦歌人の如く扱っている、 あの閏秀歌人・与謝野晶子が、である。 長年、中国の排日侮日に耐え抜いたあと、 遂に「暗雲を貫く稲妻の如く起こった満洲事変」(近衛文麿の言) に感奮した当時の日本人の国民感情を幾分かでも知ってもらうため、 この有名女流歌人の歌を紹介した。 これも我が国の教科書が決して書かない部分なのである。 ――――――――――――――――― 『大東亜戦争への道』中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P321~328 |
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