正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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◆満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために

資源小国日本は、いうまでもなく貿易立国に民族生存の道を見出してきた。
これは現在も満洲事変当時も変らない。

ところが、事変前後、世界は欧洲各国を中心に
自由貿易から閉鎖経済に移行しつつあった。
すなわち1929年に始まる世界恐慌と慢性的不況に対処し、
特にドイツ・日本等の新興資本主義国との経済競争から
既存の権益を守るため、
1932年、英国はオタワでイギリス帝国経済会議を開き、
英本国とその属領との間に特恵関税を設けたが、
その後、米国を中心とした汎アメリカ・ブロック、フランス・ブロックなど、
持てる国々は植民地の支配市場を排他的に支配するため
ブロック経済体制を布いたのである。

当時、日本を取り囲む国際環境が、
いかなるものであったかを、三人の政治家、外交官の手記によって一瞥する。

■重光葵(事変当時、駐華公使)は手記『昭和の動乱』上巻にいう。

「当時日本人は国家及び民族の将来に対して非常に神経質になっていた。
日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、
その他の鉱物資源も言うに足るものはない。

日清戦争時代に三千万余りを数えた人口は、
その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。
この莫大なる人口を如何にして養うかが、
日本国策の基底を揺り動かす問題である。

海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、
更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、
また解決しつつあった。

もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、
これは相手あってのことで、そう思うようには行かぬ。

満洲問題は、日本人の生活上、日に日に重要性を加えて行った。
日本人の勤勉は、単に生きんがためであって、
生活水準を引き上げるためではなかった。

国際連盟は戦争を否認し、各国の軍備の縮少を実現せんとした。
しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、
単に自由主義を空論するのみで、
世界は、欧洲各国を中心として事実上、閉鎖経済に逆転してしまった。

……かくの如くして、
第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、
全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。
国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられていた。

日本は増加する人口を養うためには、
その汗水の働きによる海外貿易の発展に依頼することが出来なくなって、
遂に生活水準の引き下げを強要せらるるようになった。

この問題について日本が特に密接なる関係をもつのは支那との関係である。
対支貿易と支那の排日運動のため重大なる打撃を受け、
……日本の権益は支那本土においてのみならず、
満洲においても張学良の手によって甚しく迫害せられる運命におかれた。

日本がこれらの権益を排日の嵐の中で、
現地に於いて防衛することは、もとより容易の業ではない。
しかも日本が、経済的に支那本土より排斥せられるのみならず、
更に満洲より駆逐せられることは、
日本人自身の生活そのものが脅かされる次第であった」

■近衛文麿は満洲事変の原因を
手記「元老重臣と余」の中で次の如く記している。

「思ふに満洲事変の有無に拘らず、日本の周辺には列国の経済ブロックによる
経済封鎖の態勢が、すでに動きつつあったのである。
英帝国中心のブロック、米ブロック、ソ連ブロック等で、
世界の購買力の大半は日本に対して封鎖の状態になろうとしていた。

人口からいえば英帝国の四億五千万、米国一億二千万、ソ連一億六千万、
合計七億以上であるから世界総人口の三分の一である。

しかもこれは文化の最も発達した国々を含んでいるから、
その購買力たる三分の一に止まらず、
恐らく半分以上、あるいは三分の二以上にも上るだろう。

これだけのものが満洲事変の有無にかかわらず、
また国際連盟脱退の如何に拘らず、
日本に対して閉ざされんとする情勢にあった。

……かく列国の経済ブロックの暗雲が、
次第に日本の周辺を蔽はんとしつつある時に、
この暗雲を貫く稲妻の如く起こったのが満洲事変である。

たとえ満洲事変があの時あの形で起こらなくとも、
晩かれ速かれ、この暗雲を払いのけて、
日本の運命の道を切り拓かんとする何等かの企ては、
必ず試みられたに違いない。
満洲事変に続く支那事変が遂に、
大東亜共栄圏にまで発展せねばならなかったのも、
同じ運命の軌道を辿っていたのである。……」
(矢部貞治『近衛文麿』上巻より引用)

■また、大東亜戦争勃発時と終戦時に外相を勤めた東郷茂徳は、
その手記『時代の一面』に於いて、
やはりブロック経済が日本を追いつめたとして、次のように論じている。

「世上よく日本が日清日露以来、殊に満洲事変以来、
軍国主義的侵略の途を一図に突進したように考え、また説くものがあるが、
日本内部の動きもしかく単純ではなく………
日本の例に反し英米は常に正義の権化として
戦争回避に努めたるが如く唱導するものがあるが、
これもまた正確なる見方とは言えない。

すなわち日本に於いても戦争回避を企てている間に
1932年、オタワに於いて英連邦は各邦相互間の特恵関税制度を協定し、
外部特に日本を目指して高率関税を賦課して輸入の防圧を図った。

これ、1929年以来の世界経済恐慌に伴い、
また安価な日本品に対抗するための自衛方法とも言い得るのであるが、
英連邦以外の諸国に於いても、これに倣うものが頻出したので、
工業原料の大部分を輸入に仰ぎ、
生産の三〇パーセント以上を輸出していた日本は大きなる打撃を受け、
失業者は激増し、農産物は暴落し、国内の不安著しく増大した。

その結果、原料と国外市場を確保する必要を痛感し、
まず満洲に着目したのであるから、日本側から見ればオタワ協定のような
関税防壁が満洲事変その他を惹起する原因になったと言い得るのである」

上三人いずれもが列強の閉鎖的なブロック経済を
満洲事変の原因とみているのである。

第一次大戦後、平和主義、国際協調主義が高唱される中で、
それとはウラハラに列強は排他的なブロック経済で自らの門戸を
「持たざる国」に対して閉じつつあった。

日本に対して「支那の門戸開放」をあれほど執拗に求めた米国自身が、
日本に対しては米大陸の門戸を閉鎖したのである。

「持たざる国」日本は、この様な国際的圧迫の下で、
その矛盾した国際的枠組を打破して生存の道を求める他なかった。

満洲事変は、このような国際環境の中で起きた事件であった。

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『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P316~319 より

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満州事変前~満州事変~支那事変まで
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満州地域における日本人や日本関係施設の被害
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満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
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門戸解放宣言(通牒)
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2009/07/18 09:00|年表リンク用資料
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