正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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北清事変 日本軍の軍紀厳正 ロシアの南侵

◆義和団の乱(北清事変)

日清戦争の原因が東学党の乱にあったように、
日露戦争の背景を準備したのは義和団事変であった。

義和団事変は団匪事変、拳匪事変、北清事変ともいう。

義和団は元朝以来の白蓮教の流れをくむ宗教的な秘密結社で、
団徒は義和拳といふ拳法を習ひ、熟達すれば
弾丸・刀剣の危難を防ぐことができると信じる程の迷信徒であった。

1899年、義和団徒は「扶清滅洋」を高唱して山東省に排外運動を起こし、
1900年(明治33年)に入ると、その活動は直隷省(河北省)、
山西省、更に満洲にまで波及した。

彼等はキリスト教徒を殺害し、教会、鉄道、電線など、
すべて西洋伝来のものを破壊したが、中でも鉄道破壊は内外を聳動させた。

四月下旬、義和団は北京に入ったが、西太后は彼等を義民とみなし、
かえって彼等によって国権を回復せんと図ったため、
暴徒はいよいよ猖獗をきわめ、六月に入ると日本公使館書記生・杉山彬と
ドイツ公使ケテラーの殺害事件が発生した。
杉山は遺体を切断され、心臓をえぐり出されるという、
又しても支那流の虐殺であった。

またこの月、北京公使館区域が義和団に包囲されると共に、
清帝は列国に対して宣戦の上諭を発するに至った。

翌七月に入ると、義和団と清国官兵合せて数万の兵力に
包囲された公使館区域の籠城も限界に近づき、
絶望的状況に陥った四千名以上の各国外交官、居留民、護衛兵、
キリスト教徒達を救出するため、
現場に最も近い、我が国の出兵は列国の希望と注視の的となった。

当時、日本公使館二等書記官として北京籠城を
経験した石井菊次郎の回想によると、ロシアは満洲占領の口実を得るため、
籠城者が殲滅されることを望んで居たので、
日本に対する救援要請を事ごとに妨害したと云う(『日本外交秘録』)。

他国の疑惑を招かざるよう慎重な態度を持してきた我が国であったが、
英国から四回にわたって出兵要請がなされるに及んで、
遂に列国の希望と承認の下に第五師団を派兵し、
これを主力とする八ヵ国連合軍は八月十四日、
北京公使館区域を義和団・清兵の包囲から救出した。

連合軍の総兵力は約二万、その半分は日本車であった。
翌十五日、西太后と光緒帝は北京を脱出、西安に蒙塵した。

義和団事変最終議定書は1901年9月、
連合11ヵ国と清国との間で調印され、事変は落着した。
この議定書で清は賠償金四億五千万両(約六億三千万円)の支払いの他、
「北京・海兵間の自由交通を維持」するため、各国が郎房、天津、塘沽、
芦台、山海関など12ヵ所の地点を占領する権利を承認した。

実は、これが後年、重大な意味を帯びることになる。
というのは、この駐兵権によって我が国は
諸外国と共に支那駐屯軍を置くことになったのであり、
昭和12年、蘆溝橋で中国側から不法射撃を受けた我が部隊も
この条約による駐兵権に基づいて駐屯していた部隊だったからである。

◆称賛を博した我が軍紀の厳正

日本軍が外国軍隊と共に戦ったのはこれが最初であったが、
本事変を通じて日本軍の軍紀厳正と勇敢なことが
列国の均しく称賛する所となった。

例へば七月前半の天津城攻撃で我が軍の損害は頗る大きく、
連合軍死傷者総数約六百名のうち、我兵の死傷は二百五十余名、
死者に至っては五十一名中五十名であった。

だが天津陥落後、列国兵は掠奪、放火、強姦の限りを尽したが、
我兵に暴虐行為を働く者は殆ど見られず、
天津の清国人は「大日本順民」と書いた日章旗を掲げて
日本軍に感謝の意を表明したと云はれる。
(ウッドハウス瑛子『北京燃ゆ/義和団事変とモリソン』)。

また我軍が主力となって北京公使館区域の籠城者を
救出したことは広く世界の知る所となり、称賛を博した。
『北京燃ゆ』によれば、八月二十八日付ロンドンタイムス社説は
「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。
列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれえたのは、
ひとへに日本のお蔭である。
日本は欧米列強の伴侶たるにふさはしい国である」と書き、
同十八日付スタンダード紙社説は
「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。
日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは
真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない」
と論ずるなど、英紙はこぞって我が国を絶賛した。
日英同盟はすでにこの時に決定されたと云っでも過言ではないだろう。

公使館区域救出後、連合軍は北京城内を国別に分割管理した。
その中で日本区域は治安維持が殊にすぐれて居り、
「イギリスやアメリカの管轄区域はフランスやロシアの区域よりは良かった。
しかし、日本軍のそれと比べると遠く及ばなかった」
(ジョージ・リンチ『文明の戦争』)と評される程であった。

ひどかったのはロシア地区で、軍紀紊乱のため、露兵は暴徒と化し、
虐殺・放火・強姦など蛮行の限りを尽した。
その結果ロシア地区では
「死よりも甚しきこと毎日くり返され、階上から飛び下りて死を図るもの、
水に投じて死ぬもの、縊死するもの、
御用済みの後で殺されたり・・・・・悲運の婦女子あり。
ここから日本地区へ避難する者まるで洪水の如く」であったと云ふ。
(『文明の戦争』)。

たまりかねた聯芳・北京市長は八月十九日、
マクドナルド英公使に苦情を訴え、ロシア兵の残虐行為の実例を列挙して
「男は殺され、女は暴行されている。強姦の屈辱を免れるために
婦女子の自殺する家庭が続出している。
この地区を日本に受け持ってもらえるよう、是非取計らって欲しい」
と哀願したことが記録されている(『北京燃ゆ』)。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったのは我が国であったが、
賠償金の要求に於ては殆ど物質的利益を主張しなかった。

最も多額の賠償金を要求したのは、籠城者救出を妨害しようとした上、
救出には日本の4割しか出兵しなかったロシア(29%。1億8千万円)であった。
次は、北京救出に一兵も参加しなかったドイツ(20%。1億3千万円)、
第3位は日本の50分の1の出兵しか行わなかったフランス26%。1位6百万円)、
第4位はイギリス31%。6千5百万円)。
我が国は第5位(7・7%。5千万円)の要求で甘んじた。

ロシアとドイツが獅子の分け前を求めて醜い争いをしたのとは対照的に、
我が国がその功績にも拘らず賠償金要求で謙抑自制したことは
清国の人心に日本への感謝と信頼を生み、
我が国に留学する清国学生の急増を見るに至ったのである。

◆黒竜江上の悲劇

義和団の乱が満洲に波及するや、
ロシアは建設中の東支鉄道保護に名を借りて
シベリア方面と旅順から大兵を満洲に送り、
1900年7月から侵攻を開始し、10月には全満洲を占領した。

満洲での露軍の行動は横暴を極め、鉄道保護に無関係の市邑をも攻撃占領し、
無辜の民を虐殺すること万を算した。

東亜の血史に残るかの
「江東六十四屯虐殺事件」が発生したのはこの折である。

以下、主として和田清教授の論文「『江東六十四屯』の問題について」
に依拠して事件を略述しよう。

江東六十四屯―――それは北満・愛琿の黒竜江対岸、
ブラゴヴェシチェンスクの南方に広がる南北90km、東西50kmの地域を指す。
ここはゼーア河の下流が黒竜江に会合する黒竜江沿岸随一の沃土であり、
満漢人が六十四ヵ村を営んで居り、それが黒竜江東岸にあることから、
この一帯を江東六十四屯と呼んできた。

満洲から見れば黒竜江外の地ではあるが、
黒竜江以北をロシア領とした1858年の愛琿条約でさへも、
この地は清国領として原住の満洲人の永遠居住を認め、
露人の侵犯を禁止したのであった。

だが義和団事変が起きるや、
露軍は満洲侵入に先立って江東六十四屯の万余の住民を銃剣を以て駆逐し、
その約五、六千人の罪なき清国民間人を虐殺、
その死体を黒竜江の濁流に流し去ったのである。

時まさに1900年(明治33年)7月。
世に「江東六十四屯虐殺事件」あるいは「黒竜江上の悲劇」
と呼ばれる世紀の惨劇だった。

当時、参謀本部の命でブラゴヴェシチェンスクに在って、
この虐殺を直接見聞した石光真清は、その手記『曠野の花』の中で
「それは東亜における有史以来最大の虐殺であり、最大の悲劇であった。
この日から大東亜争覇の大仕掛けな血闘史が
幕を切って落されたと云ってよい」と記しているが、
正にこの大虐殺こそ、ロシアの満鮮侵略から
日露戦争へと続く東亜血戦史の序曲となったのである。

この事件は日本人にも大きな衝撃を与え、何篇かの詩歌にさえなった。
例えば詩人・土井晩翠は長詩『黒竜江上の悲劇』を書き、
「大江流れて四千露里、末韃靼の海に入る黒竜の流、万古の波、記せよ―――
西暦一千九百年なんぢの水は墓なりき。
五千の生命罪なくてここに幽冥の鬼となりぬ。
その悽惨の恨みより、この岸永く花なけむ
/万世これより大江の緑、東亜の地図に血を染めむ……」
と事件に対する憤りと悲しみを詠んだ。

江東六十四屯はその後どうなったか。

1902年(明治35年)、露清間に満洲還付協約が結ばれ(後述)、
ロシアに占領された黒竜江以南の満洲が清に返還されることになった時にも
江東六十四屯は返されず、帰心を抱いて
江南の愛琿に集った五、六千もの民は、
空しく望郷の思ひを抱いて対岸の雲烟を眺めるのみであった。

日露戦争でロシアが破れると、清国は度々、六十四屯の返還を求めたが、
ロシアはこれを無視し、却ってロシア軍民を続々とこの地に移住させ、
「清国人がいったんその地を離れ、すでに露人の住地になった以上返せない」
と強弁して返還要求に応じなかった。

ロシア自身が原住民を放逐しておきながら、
原住民が自己の意思で故地を捨てたと臆面もなく主張したわけである。

戦後、北方領土から日本人を強制追放して、
この地のロシア化を進めてきたソ連の厚顔無恥と相通ずるものがあり、
歴史に現れるロシア民族の心性は、
帝政が社会主義に移行しても不変であることを示している。

清朝滅亡後は満洲の張作霖政権も六十四屯の返還を求めた。
殊にロシア革命後、ソビエト政権は1919年と1920年の2回にわたって
「カラハン宣言」を発し、
帝政ロシアが中国から奪った領土の返還を声明したため、
その言を信じた中華民国政府は江東六十四屯の失地回復を期して
ソ連と交渉したがソ連は応ぜず、
遂に六十四屯はソ連邦に併呑されたまま今日に及んでいる。

◆満洲還付協約の不履行

満洲を占領したロシアは、例へば愛琿はポストフリーナイヤ、
斉々哈爾(チチハル)はコンナイヤと云ふ風に市邑の名をロシア風に改名し、
永久占領の意図を明白にした。

義和団事変鎮定後も約に違背して撤兵せず、
満洲保護化の密約を清国との間に三度にわたって結ぼうとしたが、
日英米などの強い抗議にあって失敗した。

折しも日英同盟(後述)の成立(1902年1月)は清国を勇気づけると共に
ロシアをも威圧する効果があり、結局1902年(明治35年)4月、
露清の間に満洲還付協約が調印された。

この協約によれば満洲を占領した露国軍隊の撤退は
3期に分けて行われるものとされ、
最初の6ヵ月には盛京省(後の奉天省、現在の遼寧省)西南部より、
次の6ヵ月には盛京省残部と古林省より、
次の6ヵ月には黒竜江省より撤兵することになっていた。

もしロシアが、この満洲還付協約を誠実に履行していたら日露戦争は起らず、
その後の我が国の満洲進出も韓国併合もあり得なかっただろう。
協約の実行ひとつが、極東の治乱を分け、
その歴史を著しく違ったものとしたことは確かである。

だが正義と平和の愛好者にとっては不幸なことだが、
ロシアがいったん占領した土地を平和的に所有者に返した例は、
帝政ロシア、ソ連邦を通じて一度も存在しない。
満洲還付協約もご多分に洩れず、ロシアの腹中は口約と正反対だった。

ロシアは第一期の撤兵は実行した。
しかし第二期は1903年4月の期限が来ても撤兵しないどころか、
かえって奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、
満洲に加えて蒙古や直隷省(河北省)さえも
ロシアの勢力範囲とする野望を明らさまにしてきた。

◆露国の朝鮮侵入

ロシアが対韓侵略の意図を露骨に表すようになったのもこの頃である。
まずロシアは、森林保護を名として韓国の竜岩浦(鴨緑江河口)
を軍事占領し、続いて7月(1903年)には兵力を以て韓国を圧迫して
竜岩浦租借契約を結ばせた。

我が国はこれについて韓国に強硬に抗議した結果、
韓国政府は、この契約の無効を声明したが、
ロシアはこれを無視したばかりか竜岩浦に要塞工事を起こし、
これをポート・ニコラスとロシア風に改称するなど、
竜岩浦占領の既成事実化を着々と進めた。

もはや韓国の筆舌の弁を以てしては、
ロシアに侵略を翻意させることは不可能であった。

ロシアの冒険主義的な満韓侵略政策に対する危惧と批判は、
ロシア指導層の内部にすら存在した。
例へば蔵相ウィッテは回想記にこう書いている。

「この危険な仕事(朝鮮支配政策のこと)は無論日本人に全部知れ渡り、
日本人はロシアは表面では朝鮮から手を引いたと見せ、
裏では朝鮮占領の野心があるのだと解釈した。
日本人が極度に我々に反抗するようになったのは
極めて自然の成行きと云はねばならぬ。
遼東半島占領と、次いで義和団鎮圧の口実で満洲に軍隊を送り、
その後になって撤兵しないという二つの事実によって
支那は全然ロシアを信用しなくなった。日本も同じであった。
もし我々が日本との協約を正直に遵守して朝鮮で陰謀などやらなかったら、
日本はもっと安心したに違いなく、
我々に対して断然たる決心も取らなかっただらう。
だが我々は、一方では遼東半島から日本を退去させながら自らこれを占領し、
他方ではその代償として日本と(朝鮮に関する)協約を結びながら
陰険な手段でこれを破るようなことをしたのだ。
日本がロシアを信用しなくなったのも、
また当然すぎるほど当然と云はねばならない」

これは、韓国に対するロシアの野心が日露戦争の原因となったことを、
ロシア有数の政治家が証言した極めて重要な史料である。

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『大東亜戦争への道』中村粲(あきら)著1990.12.8(展転社)P88~94より

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義和団の乱
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★★★1900年(明治33年)、ロシアが『義和団の乱』に乗じて満洲を占領。
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義和団の乱~唐突な日英同盟締結の背景
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江東六十四屯虐殺(黒竜江=アムール川の悲劇)
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北清事変 日本軍の軍紀厳正 ロシアの南侵
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2010/04/12 09:00|年表リンク用資料
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