正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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ロシア、朝鮮侵略に着手

甲申事変に於ける独立党の敗北により、
清は日本の進出を一応は阻止したものの、
清国にとって新たな脅威が朝鮮に現われた。

ロシアである。

そもそもロシアの進出は、
清が日本を掣肘するために朝鮮を欧米列強に開放したことが原因であるから、
清自らの以夷制夷政策の報いであると云ってよい。

中国の愚策が極東の政局を混乱させた例は枚挙に遑がない程であるが、
これもその一例と云へよう。

明治17年(1884年)ロシアが朝鮮と通商条約を結んだ後、
駐韓公使となったウェーバーは巧みな術策で韓廷上下に
ロシアの勢力を浸透させるのに成功した。

同時に、前述した如く、天津条約以後、
清が朝鮮の内治外交への干渉を強めてきたことは、
事大党の間にさえ清に対する忌避の感情と、
逆に親露的傾向を生ずるに至った。

清は朝廷の親露的傾向を抑制するため、
抑留していた大院君を帰国させ(明治18年)、
更に朝鮮の税関事務を全く自国の手に掌握すると共に、
朝鮮に派遣したメレンドルフなどの外交顧問がロシアに傾くや、
次々に外交顧問を更迭した。

のみならず、清自ら朝鮮に西洋列国との条約を結ばせておきながら、
明治20年、朝鮮がこれらの国に公使を派遣しようとすると、
異議を唱えて中止させるなど、
前後矛盾も構うことなく宗主国としての地位を保とうとした。

ロシアの進出に脅威を感じたのは、清のみならず英国も同じであった。
当時、英国はアフガニスタンの境界問題でロシアと対立し、
極東では、シペリアを南下して
清韓両国を侵さんとするロシアの勢力を防止する必要があった。

明治18年(1885年)4月、英国艦隊は突如、
ロシア東洋艦隊の要路に当る朝鮮南端の巨文島を占領した。
英国の強硬措置に驚愕したロシアは、清国と朝鮮を介して英国に抗議し、
英国が巨文島を占領するならば
ロシアもまた朝鮮半島の一部を占領すると主張した。

この問題は二年間の交渉ののち、清国がロシアから
「将来朝鮮のいかなる部分をも占領せず」といふ宣言をとりつけ、
これを保証として英国艦隊が巨文鳥を撤退して
(明治20年)解決したのであった。

英艦隊の巨文島占領は、ロシアの朝鮮進出が
いかに極東情勢を緊迫させるかを如実に示す事件であらう。

しかも、このような第三国の進出と抗争に、
朝鮮自身が有効に対処する能力を欠いていたところに、
朝鮮問題の複雑さと悲劇性があったと云えよう。

朝鮮の親露傾向はますます強まり、
明治21年(1888年)には露韓陸路通商条約が結ばれ、
その結果、翌年には朝鮮北東部の慶興が対露貿易のために開かれ、
ロシア人の租借地が設けられた。

更に朝鮮はロシアの豆満江自由航行権を許可したが、
これは30年前、ロシアが満洲への侵略第一歩として
清国との間に愛琿条約を締結した時、
黒竜江・ウスリー江の内河航行権を獲得したやり方とそっくりである。
ロシアが朝鮮侵略に着手しはじめたことは明らかであった。

15年前、征韓論に敗れて下野した西郷は、
鹿児島に彼を訪ねた庄内藩元家老・菅実秀に
「いづれロシアは満洲朝鮮半島を経て日本に迫って来る。
これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題になる」
と語ったことが記録されているが、
征韓論者西郷の最も危惧した状況が、早くも朝鮮に現出したわけである。

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『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 (展転社) P38~39
2009/06/30 09:00|年表リンク用資料
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