正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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マレー沖海戦と戦艦大和・・・命をかけて守った日本

日本軍機の攻撃を受け回避行動を行うプリンス・オブ・ウェールズとレパルス
プリンス・オブ・ウェールズとレパルス

沈み行くプリンス・オブ・ウェールズを退去し、接舷した駆逐艦に移乗する乗組員。
沈み行くプリンス・オブ・ウェールズを退去し、接舷した駆逐艦に移乗する乗組員。

よく、戦艦大和は、航空機によって沈められた。
時代は航空機主体の時代に変わっていたのに、
日本は空母を作らず大艦巨砲主義の巨大戦艦大和を作り、
結局、米航空体によって大和は沈められた、といった話を耳にします。

ボクも学生時代、学校の先生から、
要するに大本営がアホだったのだ、と教わりました。

しかし、これは違う。

そこで今日は、
なぜ大和は、単艦で出撃したのか。
なぜ大和は、航空機の援護を受けなかったのか、
を書いてみようと思います。

【世界で最初に航空機で艦隊を叩いた日本】

このお話を語るには、その前に、
日本軍が英国艦隊を打ち破ったマレー沖海戦のことを述べる必要があります。

マレー沖海戦は、
大東亜戦争開戦の2日後である1941年12月10日にマレー半島東方沖で、
日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)と
イギリス東洋艦隊の間で行われた戦闘です。

この戦闘で、日本軍は航空兵力をもって、イギリス海軍が
東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈しました。

飛行機で戦艦を沈めた先例としては、
他にタラント空襲、真珠湾空襲などもありますが、
それらは停泊中の艦船を飛行機で叩く例があったのみで、
それまで作戦行動中の戦艦を航空機で沈めるたという事例はなかった。
「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めことはできない」
というのがそれまでの世界の常識だったのです。

この常識をくつがえし、航空機をもって艦隊を叩くという戦術を、
世界ではじめて行ったのが日本だった。

(ちなみに、世界の戦史上、航空部隊で艦隊を叩いた事例は、
このマレー沖海戦の他には、終戦間際に圧倒的な航空機をもって
戦艦大和(1945年4月7日)を撃沈した例と、
大多数の航空機をもって武蔵(1944年10月24日)を
撃沈した戦闘の3例しかありません)

マレー沖海戦は、日本がシンガポール上陸作戦を実施する上での
海上補給路を確保するために、
どうしても勝たなければならない戦闘でした。

イギリス軍は、これを事前に察知し、開戦の6日前である12月2日に、
イギリス最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、
その他駆逐艦4隻からなるG艦隊を
シンガポールのセレター軍港に入港させました。

そしてイギリス東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス海軍大将は、
日本軍マレー上陸部隊の輸送船団攻撃のため、
Z部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航ます。

対する日本の艦隊は金剛と榛名。
両艦とも近代化の改装こそ受けていたものの、艦齢は27年を越えており、
また兵装・装甲の厚さも元は巡洋艦程度の実力しかなかった。

対するプリンス・オブ・ウェールズは、14インチ(35.56cm)砲を10門装備。
搭載するポムポム砲は、
1分間に6000発の弾丸を発射するというすさまじい対空兵器。
イギリスの艦艇は2年も前からヨーロッパ戦線で
ドイツ・イタリアの航空機に空襲されており、
充分に対空戦の経験を積んでいたのです。

そしてこの大英帝国誇る不沈戦艦は、当時の国王ジョージ6世の兄王である、
エドワード8世の即位前の王太子プリンス・オブ・ウェールズの称号を
冠している最新鋭戦艦でもあった。

もうひとつの戦艦レパルスも、建造年月はウエールズより古いものの、
装備はウエールズと同じ。
それまで航空機による爆撃を完全に撃破してきている経験豊富な戦艦だった。

圧倒的な英国海軍力を前に、
日本軍が勝てる可能性は、限りなくゼロに近かった。

この艦隊を前に、日本はサイゴン(いまのホーチミン)にある航空基地から、
航空機(九六式陸攻59機、一式陸攻26機、計85機)を発進させます。

各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。

日本軍の被害は、陸上攻撃機未帰還3、帰投時の不時着大破1、
偵察機未帰還2、その他30機以上が深刻な被害を受けた。

イギリスは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズと、巡洋戦艦レパルスが沈没。

この戦いで、ウエールズ撃沈の報告を聞いた英国チャーチル首相は、
「あの艦が!」と絶句し、
「戦争全体で(その報告以外、)私に直接的な衝撃を与えたことはなかった」
と著書の第二次世界大戦回顧録で語っています。

この戦いで、世界の戦艦時代は終わりを告げた。

【マレー沖海戦の日本の武士道】

この戦いでは、まず、戦艦レパルズが沈み、
次いで戦艦ウエールズが被弾し、沈没やむなしとなりました。

ウエールズの艦長のトマス・フィリップス海軍大将は、
日本の航空隊に向け、乗員を退官させるので、
30分時間をほしい、と打電します。

ウエールズの乗員たちは、巡視船エクスプレスに乗り移り、
エレクトラとヴァンパイアが沈没したレパルスの乗組員を捜索し、
エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と
従軍記者を含む225名を救助しています。

その間、襲撃体は、空で待機。英国軍の救助活動の間、
いっさいの攻撃行動をせず、空で待機します。

当時の飛行機は、いまの時代にあるような
ハイブリット・タイプでも省エネタイプでもない。
30分という時間は、もし、その間に敵戦闘部隊が急襲してきたら、
日本の航空隊は、帰還するためのガソリンすらなく、
全機、墜落のリスクを負っていた。
それでも攻撃隊隊長は、戦闘休止を決断し、空で待機した。

そして、ウエールズの乗員が全員退艦後、
ひとりデッキに残ったトマス艦長に、日本の航空隊は、全機整列し、
一機ずつデッキ前を通過。トマス艦長に最敬礼をし、別れを惜しみます。

トマス艦長も、それに最敬礼で答えた。。

トマス艦長は、デッキにわが身を縛りつけ、艦とともに沈みます。

その結果、マレー沖海戦におけるプリンスオブウェールズの戦死者は、
艦が轟沈していながら、総員の20%に過ぎませんでした。

これに対し、戦艦大和は乗員3,332名のうち、
90%以上の戦死者を出しています(生存者269名)。

これは米軍が、残存艦隊に対し日没近くまで攻撃をかけ、
さらに漂流者に対しても機銃掃射を加えたことによります。

なお、マレー沖海戦の翌日、日本軍機が、再度飛来し、
機上から沈没現場の海面に花束を投下して
英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表しています。

【大艦巨砲主義の終焉を知悉していた日本】

アメリカ空撃隊に攻撃を受ける大和(アメリカ軍爆撃機から撮影)
大和

このマレー沖海戦のときの日本航空隊の隊長の岳父が、
大和の最後の艦長、有賀幸作中将です。

つまり、戦艦は航空兵力による爆撃攻撃に勝てない、
ということを最もよく知る人物が、大和の艦長でもあった。

その有賀艦長を戦艦大和の艦長に据えて、
日本は、戦艦大和を単騎、片道燃料だけで沖縄に出撃させます。

そして大和は、終戦間際の1945年4月7日、坊ノ岬沖合で、
米軍航空隊386機による波状攻撃を受け、沈没した。

なぜ日本は、このような無謀なことをしたのでしょう。

日本がバカだったから?

大本営がキチガイだったから?

いいえ、違います。

大本営作戦参謀室というのは、
日本の産んだエリート中のエリートの集うところです。
決してアホの集団じゃない。

そして、戦争というものは、ある政治目的を達成するための手段です。
このことは、戦闘においても同じです。

敗色濃厚となった大東亜戦争末期における日本軍の最大の目的は、
なんとかして本土決戦を防ぎ、できる限り有利な条件で、
講和条約を結ぶこと、これに尽きます。

そのために、日本は、どこまでも玉砕覚悟で戦いぬく、
もしその日本とあくまで連合軍が戦いぬくというなら、
連合国側の損傷は計り知れないものとなる・・
というメッセージを、敵に与えようとした。

特攻も、玉砕も、まさに捨て身で軍人さんが死を賭して戦うことで、
米英に日本恐るべしという政治的メッセージを与えるために行われた。

大和も、そのために最後の出撃をした。

考えてみてください。

わずか85機で、大英帝国の誇る戦艦2艘を沈めた日本軍。

386機というとてつもない兵力で大和を空爆した米国。

それとね、これも考えていただきたいのだけど、
冒頭、戦艦ウェールズが沈んだとき、
日本は、帰頭のための燃料に不安がありながら、いっさいの攻撃を停止し、
英国戦艦乗組員の救助を見届けた、という史実を書きました。。

そこには、武器を持って挑む者には、鉄槌を下すけれど、
無抵抗の人は殺さないという明確なポリシー(武士道精神)がある。

そして日本は、沈んだウェールズとレパルスに、最大限の敬意をも表した。

これに対し、大和が沈んだとき、
米軍は、すでに艦から海上に逃れたすでに抵抗できない日本兵に対して、
情け容赦ない、空からの機銃掃射を行った。
無抵抗の日本兵を皆殺しにした。

これを知った、誇り高き騎士道精神を持った英国海軍将兵は、
どのように感じたのでしょうか。

日本軍を叩くということは、
それだけの兵力を要すると思わせるだけの日本の凄味がそこにあった。

万一、米英がオリンピック作戦(本土決戦)を挑むなら、実際問題として、
どれだけ戦争が長引くかしれない。
どれだけ連合軍側の死傷者がでるか、計り知れない。

先日、硫黄島玉砕戦のことを書きましたが、
その時点で、米国政府も戦費が底をつき、
これ以上の戦争の継続は困難な状況にまできていた。

だからこそ、硫黄島の星条旗の写真をつかい、
そこに映った米国海兵隊員を国民的ヒーローに仕立て上げ、
全米から戦費の寄付を募った。

米国も限界だったのです。
英国も、長引いたドイツとの戦争で、
ロンドンの町も焼かれ、厭戦気運が高まっていた。
英国も限界だった。

あと少し、あと少し、戦いぬく。
そうすることで日本はどこまでも戦い抜くのだぞ、
というメッセージを発信し抜くことで、
日本は、すこしでも有利な条件で講和を図ろうと最後の抵抗をしていた。

大和の最後の出撃は、そういう目的をもった出撃だった。

1945年8月10日、日本はポツタム宣言を受け入れ、連合国に降伏します。

これを「無条件降伏」という人がいます。
それは違う。

ポツタム宣言は、次のようになっています。

五條、吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。

六條、日本を世界征服へと導いた勢力の除去

七條、日本国領域内諸地点の占領

八條、カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、
北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

十條、日本人を民族として奴隷化、国民として滅亡せんとするに非ず。
一切の戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活。
言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし。

十二條、日本国国民の自由に表明せる意志による
平和的傾向の責任ある政府の樹立

十三條、全日本軍の無条件降伏、
右行動に於ける日本国政府の誠意に付、同政府による保障の提供

無条件降伏したのは、「日本軍」であり、
国家として“無条件”降伏したわけではない。
いや、それどころか、国家としての戦費賠償もない。

「さざれ石」というのは、
長い年月の間に、小石がたくさん固まって、岩となったものです。

亡くなられた日本の将兵は、
「さざれ石の巌となりて」大切な命をささげられた。

大東亜戦争における日本の軍人の死亡者 1,740,955人
民間人の死亡者 393,000人(うち広島原爆による者12万人)

忘れてはならないのは、亡くなられたひとりひとりの英霊が、
ひとりひとりそれぞれ人生を持ち、生活や夢や希望を抱えた、
心ある生きた人間であった、ということです。

そのひとりひとりが、命を捧げて守り抜こうとした日本。

こう書くと、
「それだけ多くの人が亡くなったのは、
日本の軍部が勝手に戦争など始めたからだ」という声が聞こえてきそうです。

しかし、もし日本が戦争をしていなかったなら。。。

先日、パラオの記事にも書きましたが、
当時、欧米によって植民地化された東亜諸国は、
いずれの国も、人口の90%前後を失っています。

明治維新当時の日本の人口、3330万人。
大東亜戦争開戦当時の日本の人口、8390万人。

その人口の9割が失われたとするなら、
日本の現在人口は300~800万人程度になっていたといえる。

いま、日本列島に住む日本人の数は、1億2700万人。
日本にいまいる1億2000万人の日本人の「生」が、
いまあるのは、誰のおかげか。
私たちが、いま、こうして生きているのは、いったい誰のおかげか。

現代を生きる私たちは、そのことを、
もういちど真正面から見据えてみるべきだと思うのです。





ブログ『ねずきちの ひとりごと』より転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-531.html
Wikipedia マレー沖海戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
Wikipedia プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
2009/06/26 09:00|年表リンク用資料
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