正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日韓併合の前後

歴史を捏造する韓国の主張を日本人はいつまで受け入れ続けるのか。

次の文は、韓国で常識として考えられている歴史認識である。

「日本の植民地政策は韓国の近代化に何の助けにもならなかった」

日本が韓国を近代化したという事実すら妄言の一言で片付ける韓国。

逆に日本については「昔も今もその発展は韓国のおかげ」と強調している有様だ。

韓国の歴史歪曲をあげれぱキリがないが今回は韓国の近代化を考える。

■朝鮮人を飢餓と内乱から救った日本

劇的Before After! 
 
日本統治前と統治中

韓国でソウル大教授の主張が、またまた物議をかもしているそうです。

http://bit.ly/gmbKW6

>ソウル大教授「日本による収奪論は作られた神話」
>日本による植民地時代に韓国が土地と食糧を収奪されたという
>韓国史教科書の著述は歪曲されたものだという主張が提起されている。

日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-130.html
「日帝が朝鮮の米を収奪した」???
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-581.html

韓国人はよく、
「日帝の支配は人類史上類例を見ない残虐非道な支配」
「日本は搾取の限りを尽くした」
みたいな事を主張しますが、
日韓併合後の韓国は経済的にも文化的にも、
とても豊かになっていったというのが事実です。

違うというのならば、1910年の人口1313万人が、1942年には2553万人へと、
倍増した理由を説明してください。32年間で倍の人口になっています。
搾取されて人口が増えますか?

ちなみにイギリスのアイルランド統治ではアイルランドの人口は
1841年の820万人が、1911年には444万人と半分になっています。
(ほとんどの植民地では現地人は酷使され人口は激減)。

また、一人当たりの国内総支出も1910年の58円が1938年には119円と、
これも二倍になっています。

また、朝鮮は日本の支配下に置かれてから1937年の日中戦争勃発前まで、
国内生産及び支出が年間約4%の高い成長率を
記録していたことも韓国の研究により判明しました。

日韓併合(1910)~終戦(1945)までの間に、教育など無きに等しかったのに、
近代教育システムを導入し小学校を5、213校作り、就学率61%(1944)までにし、
お人よしにもハングルまで普及してやり、
一つもなかった鉄道を3、847kmも敷き、禿山だった山に、
実に5億9千万本の植林をし、不潔な衛生環境は改善され、
食事情も安定し人口が1、313万人→2、512万人へと二倍近く増え、
鉄道や工場などのインフラ面の整備により
朝鮮は急速に代産業化を遂げ、経済面でも飛躍を遂げ、
不正政治支配もなくなり…
それでも彼らは「人類史上類例を見ない残虐な植民地政策」
などと主張しています。

韓国人がよく口にする、日本は無理やり非合法的に朝鮮を植民地化した(※)、
名前を強制的に奪われた(創氏改名)、ハングルを奪われた、強制連行された、
などの主張もデッチあげられたものばかりです。

しかし、搾取、搾取と言いますが、
併合前の韓国がどれほど貧しかったかご存知ないのでしょうか?
当時の朝鮮は文化も経済も何もあったもんじゃない、
つまり搾取出来る程の資源も何もない世界の最貧国だったのです。

(補足)

英の学者ら「日韓併合不法論」支持せず=韓国主張崩れる (2001年)
http://www.sankei.co.jp/paper/today/itimen/27iti003.htm

日韓の歴史認識問題で大きな争点になっている日韓併合条約(1910年)について
合法だったか不法だったかの問題をめぐり、
このほど米ハーバード大で開かれた国際学術会議で
第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、
国際舞台で不法論を確定させようとした韓国側の
もくろみは失敗に終わったという。

会議参加者によると、
合法論は国際法専門のJ・クロフォード英ケンブリッジ大教授らから出され
「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点から
その国を取り込むということは当時よくあったことで、
日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」と述べた。

また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても
「強制されたから不法という議論は
第一次世界大戦(1914~18年)以降のもので
当時としては問題になるものではない」と主張した。

―――――――

この学術会議は米ハーバード大アジア・センター主催で16~17日開かれたが、
韓国政府傘下の国際交流財団が
財政的に支援し韓国の学者の主導で準備された。
これまでハワイと東京で二回の討論会を開き、
今回は韓日米のほか英独の学者も加え、
いわば結論を出す総合学術会議だった。

日本からは海野福寿・明大教授や笹川紀勝・国際基督教大教授、
原田環・広島女子大教授ら五人が参加したが、
海野教授の「不当だが合法」論や笹川教授の不法論など見解が分かれた。

韓国側は「条約に国王の署名がない」ことなどを理由に
不法論を主導している李泰鎮・ソウル大教授はじめ
全員が不法論で、会議をリードしようとした。

しかし日本の原田教授は併合条約に先立ち日本が外交権を掌握し
韓国を保護国にした日韓保護条約(1905年)について、
皇帝(国王)の日記など
韓国側資料の「日省録」や「承政院日記」などを分析し、
高宗皇帝は条約に賛成し批判的だった大臣たちの
意見を却下していた事実を紹介し注目された。

併合条約に国王の署名や批准がなかったことについても、
国際法上必ずしも必要なものではないとする見解が
英国の学者らから出されたという。

日韓併合条約については韓国や北朝鮮からは
いまなお執ように不法論が出され謝罪や補償要求の根拠になってきた。
日韓国交正常化の際も激しく対立したが、
合法・不法の結論は出さず、
「今や無効」との表現で国交正常化(1965年)にこぎつけた経緯がある。
http://www.sankei.co.jp/paper/today/itimen/27iti003.htm

―――――――

1920~30年代の成長率4.1%
http://www.chosunonline.com/article/20040303000075

―――――――

『日本、財産請求権行使なら北朝鮮に6兆円請求』 産経新聞 2002年9月13日

「日本、北朝鮮に8兆円の資産」

◆財産請求権行使なら北の支払い超過「経済協力」転換の要因か

日本が1945年当時、朝鮮半島の北朝鮮地域に残した資産総額は、
現在の価格に換算して約8兆7800億円に上ることが12日、分かった。

日朝双方がサンフランシスコ講和条約の財産請求権を行使した場合、
日本が北朝鮮に支払う額より、
北朝鮮が日本に支払う額の方が約5、6兆円超過し、
北朝鮮側が大幅に不利になるとされる。

現体制維持のために不可欠な巨額資金が必要とされる北朝鮮が
「補償」要求から一転して「経済協力方式」に
応じる構えをみせ始めた最大の理由には、
そうした不利を回避するねらいがあるとみられる。

戦前に日本が朝鮮半島(北朝鮮と韓国)に残した総資産は、
連合国軍総司令部(GHQ)や日本銀行、旧大蔵・外務両省が
それぞれ調査を実施している。

GHQの試算では1945年8月15日時点で1ドル=15円で総資産891億2000万円。
総合卸売物価指数(190)をもとに現在の価格に換算すると、
16兆9300億円に相当する。

このうち、政府、個人資産と港湾など軍関連施設以外の資産は、
鴨緑江の水豊ダムなど北朝鮮に残したものが
当時の価格で445億7000万円。軍関連資産は16億5000万円となり、
非軍事と軍事の両方で462億2000万円。
総合卸売物価指数の190を掛けると現在価格で8兆7800億円相当となる。

逆に北朝鮮の日本に対する財産請求額を推定する材料として、
韓国政府が49年3月に米国務省に提出した「対日賠償要求調書」がある。
金や美術品など現物返還要求分を除き、
要求総額は3百14億円(1ドル=15円)で現在に換算して5兆9600億円。
これは北朝鮮地域の財産も一部含めた額とみられる。

このため、サンフランシスコ講和条約に基づく北朝鮮の国際法上の
請求額はこれをさらに下回り、
「日本との差額は5兆~6兆円になると推定される」(政府関係者)。

北朝鮮側は、91年に始まった日朝国交正常化交渉から、日本政府に対し、
数千億円から約一兆円に上る「補償」を要求してきたとされる。

だが、日本政府は講和条約という国際法上の権利と
65年の韓国との国交正常化とのバランスを考慮。
現実的な解決策として、メンツよりも実利を優先させた「経済協力方式」
による資金提供には応じられるとの方針を伝えてきた。

拉致問題やミサイル開発・輸出、核査察問題が
クリアされることが条件となるが、
日本政府としては、
法的権利として日本も財産請求権を持つことをさきの局長級協議で通告。

首脳会談ではこうした実態を踏まえたうえで、
「経済協力方式」による解決を北朝鮮側に促していく考えだ。

【財産請求権】定めたサンフランシスコ講和条約(1952年発効)で、
日本が整備した鉄道、港湾や預貯金、保険などの財産について、
日本と韓国(北朝鮮)が互いに請求できる権利が認められた。

具体的処理は、
第4条(財産)で日本と「特別な取り決め」を結び解決すると規定。
日韓国交正常化交渉では、日本が財産請求権を放棄、
日本が5億ドルの資金提供をする経済協力方式で合意した。

―――――まとめ―――――――――

■日本が朝鮮半島に残した資産

戦前に日本が朝鮮半島(北朝鮮と韓国)に残した総資産は、
連合国軍総司令部(GHQ)や日本銀行、旧大蔵・外務両省が
それぞれ調査を実施している。

GHQの試算では1945年8月15日時点で
1ドル=15円で総資産891億2000万円。
総合卸売物価指数(190)をもとに現在の価格に換算すると、
16兆9300億円に相当する。

●戦前に日本が朝鮮半島(北朝鮮と韓国)に残した総資産は、16兆9000億円。

その内、日本が韓国に残してきた資産は8兆1500億円。
韓国政府が1949年3月に米国務省に提出した「対日賠償要求調書」によると、
金や美術品など現物返還要求分を除いた要求総額は314億円(1ドル=15円)で、
現在の価値に換算すると5兆9600億円。(北朝鮮地域の財産も一部含めた額)
8兆1500億円-5兆9600億円=2兆1900億円。
請求権を行使してしまうと
韓国側が2兆1900億円も支払い超過になってしまう。

●さらに、日本人が朝鮮半島に残してきた個人資産は4兆9000億円。

■朝鮮半島に残した日本の資産■(GHQ資料など/1ドル=15円)

【昭和20年8月15日時点】
朝鮮半島全体…891.2億円
北朝鮮…………462.2億円
韓国……………429.0億円

【現在の価格】
朝鮮半島全体…891.2×190=16兆9300億円
北朝鮮…………462.2×190= 8兆7800億円
韓国……………429.0×190= 8兆1500億円

(注)「190」は国内外の企業間取引の価格を
測るモノサシである総合卸売物価指数。
昭和9年から11年までの平均を「1」とした場合、平成13年は「666」。
これを昭和20年の「3.5」で割った数値(日銀調べ)

―――――――――――――――――

2005年3月3日付・読売社説

[盧武鉉演説]「日韓関係を阻害する発言だ」

韓国の盧武鉉大統領が、植民地時代の独立運動を記念した式典で、
日本に、「謝罪」と「賠償」を求めた。
看過できない問題だ。日韓関係を阻害する発言である。

盧大統領は、日韓関係の発展には
「日本政府と国民の真摯な努力が必要だ」と前置きし、
「過去の真実を糾明し、心から謝罪し、賠償するものがあれば賠償して、
和解せねばならない」と述べた。

「謝罪」について言えば、日本は、歴代の首相が
「痛切な反省と心からのお詫び」を表明してきた。
大統領は、村山首相談話などに触れ、
「相当な進展があった」と述べているが、まだ足りないということなのか。
理解に苦しむ。

昨年7月、大統領は日韓首脳会談後の記者会見で、過去の歴史問題は
「任期中には公式に争点として提起しない」と明言した。
その際、「韓国政府が取り上げれば、日本国民の間に
『何回謝罪すればいいのか』と反発を招く可能性がある」と述べた。
この説明と全く矛盾する。

さらに問題なのは、今回、謝罪に続いて「賠償」を求めた点だ。
賠償は、交戦国間の損害への補償問題で使われる用語だ。
植民地時代の被害への、いわゆる過去の補償には、あてはまらない。

そのため、両国の国会が批准した日韓条約にも使われていない。
韓国の元首である大統領が今ごろ、なぜ、いかなる意図から発言したのか。
過去の補償問題で、追加の支払いを日本に求めたのだとすれば、論外である。

補償問題は、40年前の国交正常化の際に決着済みだ。
日本政府が5億ドルの経済協力をすることで、請求権問題は、
「完全かつ最終的に解決された」ことが日韓条約で確認されている。
韓国人への被害補償の支払いは、韓国政府が責任を持つことは、
先に公開された韓国の外交文書でも再確認された。

解決ずみの話を蒸し返すような発言はきわめて遺憾だ。
日本政府も、きちんと反論すべきである。

日本人拉致事件に関する大統領の発言も疑問だ。
「日本国民の怒りを十分に理解する」としながらも、
「日本も相手の立場で考えるべきだ」と述べ、
「日帝36年間に、数千、数万倍の
苦痛を受けた韓国民の怒りを理解すべきだ」とした。

北朝鮮を糾弾するどころか、北朝鮮のすりかえ論法に通じる言い方だ。
日韓離間工作にも利用されかねない。

韓国では、植民地時代の「反民族行為の真相糾明」のための
特別法が施行されて、過去の追及が盛んだ。
その矛先が日本に向けば、日韓関係に影響する。
盧政権の政治姿勢は危惧せざるを得ない。

―――――――――――――――――

『日本支配36年 「植民地朝鮮」の研究 謝罪するいわれは何もない』
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/shazai/index.html

日本国は世界でただ一国、植民地に対して国家予算を持ち出した国
※文字化けの場合:何もない所を右クリック→エンコード→日本語 自動選択
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4792/senzai.html

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【朝鮮総督府政策一覧】

併合時(1910)

終戦時(1945)

●教育の普及 無いに等しい

●小学校5,213校、生徒数2,389,135人、就学率61%(1944)、
京城帝国大学創設(1924)

●耕地面積 246万町歩 → 449万町歩

●水田面積 84万町歩 → 162万町歩(1928)

●石高(米の生産量)約1千万石 → 2千万石(1930)

●鉄道 無かった → 3,827Km

●人口 1,313万人 → 2,512万人(1944)

●植林 禿山 → 30年間で5億9千万本

●反当たり収量 0.49石 → 1.49(3倍)

●平均寿命 24歳 → 56歳

●朝鮮半島の強盗件数

昭和2年:1771件

昭和フ年:1261件

昭和12年:727件

昭和17年:394件

強盗件数:朝鮮総督府『統計年報』より

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【日帝が朝鮮人からハングルを奪った、の嘘】

併合した当時は朝鮮人が作った辞書は全くありませんでした。
19世紀末に仏露英によって簡易的な朝鮮語辞典は作られましたが、
本格的な『朝鮮語辞典』は1920年に日本人(朝鮮総督府)が作りました。

国立国会図書館所蔵『朝鮮語辞典』
朝鮮総督府編(大正9年〔1920年〕3月30日発行)の初版



【朝鮮日報】現存する最古の国語辞典
http://www.chosunonline.com/article/20040227000088

▼国内で発行された国語辞典。
「普通学校朝鮮語辞典」第三版 (1930年4月10日出版)
国内で発行された国語辞典の中で最古となる1930年4月10日出版の「普通学校朝鮮語辞典」第三版

▼朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書
▼朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書

朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書_2

朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書_3

朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書_4

朝鮮総督府発行の朝鮮語教科書_5

日韓併合時代の朝鮮語の教科書 『高等朝鮮語及漢文読本』




(補足)

【最近気になる朝鮮半島】"ハングル"の正体
http://chosonnews.txt-nifty.com/han/2004/10/post_8.html

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、
日帝時代になってからのことである。

韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、総督府によって
朝鮮教育令が施行され、初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、
ハングルを必修科目とすることが決められた。

もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、
忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。
私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、
朝鮮語がよくできる日本人教師は、月2円の加俸があった。

当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。
もっとも、昭和10年(1935年)代に入ってから「皇民化教育」が強められると、
日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。

だがハングルを初めて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。

【韓国初代大統領 朴正煕の証言】

『自分は非常に貧しい農村の子供で、学校にも行けなかったのに、
日本人が来て、義務教育を受けさせない親は処罰する、と命令したので、
学校へ行く事が出来た。
すると成績が良かったので、日本人の先生が師範学校へ行けと勧めてくれた。
さらに軍官学校を経て、東京の陸軍士官学校に進学し、
主席で卒業する事が出来た。
日本の教育は、わりと公平だったと思うし、私は評価している。』

―――――――

■日本の植民地時代を顧みて

韓国、元 仁荷大学教授 朴贊雄

『朝鮮は日本の植民地になったお陰で生活水準がみるみる向上した』
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi41_text02.html

日本の植民地時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、
この世を去る前に、率直な心情を書き残したい気持でこの短文をつづる。

◆合併当時の事情

「日本人は平和愛好の弱小民族である韓国を銃剣で踏みにじって植民地化し、
36年間、虐政を施しながら土地と農産物を呵責なく収奪した。
南北すべての朝鮮人は当時の亡国の辛さを思い浮かべると、
今でも身の毛のよだつのを覚える」

これが今の南北朝鮮人の決まり文句になっている。
だから、日本は韓国に対して多大な賠償金を
支払わなくてはならないというわけで、
日本は南の大韓民国に対して戦後賠償金を支払って国交を正常化した。

ところが、北朝鮮は北朝鮮なりに戦後賠償を当然のこととして期待しており、
日本も、当面の拉致問題が解決され次第、
国交正常化して多大な賠償金を支払うことに同意している状態だ。

僕はこのスジガキに対して少なからぬ憤怒感を抱く。
朝鮮が日本の植民地に陥る1905~1910年当時の世界は弱肉強食の時代で、
経済力や軍事力のひ弱な国は植民地獲得戦に
乗り出している列強が競ってこれを食い物にした。

韓国の当時の経済力や軍事力は列強に比べればゼロに等しいから、
当然に日・清・露三国の勢力角逐の場となった。
そこを日本は、日清・日露の両戦役を
勝ち取った余勢を駆って朝鮮を手に入れた。

これに対して、
現代人が今の国際規約や国際慣習の尺度で当時を裁くのは不当である。

当時、日本の海軍はロシアのバルチック艦隊を
日本海に迎えて全滅させている。
日露戦役当時、仁川の沖合いには日本やアメリカ、ロシア等の
軍艦が常時出没していたが、
韓国には海軍もなければ軍艦もなかったとのことである。

もし韓国が中国やロシアの植民地になったと仮定するとき、
韓国の政治や経済の発展は今の中国吉林省内の朝鮮族自治州、
あるいは中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンに在住する高麗族の
水準にしか達し得なかったであろうと思われる。

それよりは日本の植民地になった方がよかった、
というのが僕の歴史認識である。

今なら世界のいかなる強大国家でも、
いかなる弱小国家をも植民地化することは夢想できないばかりか、
植民地化したが最後、
そこの住民の生活を保障しなければならない羽目に陥ること必然である。
故に、ある弱小国家が願ったとしても、
まともな民主国家なら
おいそれとこれを引き受けるわけにはいかないであろう。

◆植民地当時の状況

では植民地当時の状況では、
植民地化された朝鮮の政治的・経済的・社会的・文化的状況は
いかなるものであったのか。

日本の植民地期間は1910年(明治43年)8月29日から
1945年(昭和20年)8月15日までの35年間である。
保護国になった1905年11月17日からは40年になる。

合併当初から1919年(大正8年)3月1日に起こった全国的な
独立万歳デモ事件に至るまでは朝鮮民衆による散発的な抵抗運動が続くが、
同デモ事件以後、
日本政府は同年8月に朝鮮総督を長谷川好道から齋藤實にかえ、
朝鮮統治の原則を武断政治から
文化政治に変更してから後は朝鮮民衆による抵抗はとみに衰えた。

軍事力も経済力も組織もない状態で、
感情的な抵抗を試みたところで得るところが何もなかろうことは、
誰の目にもはっきりと見えていたのだ。

当時の朝鮮は日本の植民地になったお陰で、文明開化が急速に進み、
国民の生活水準がみるみるうちに向上した。

学校が建ち、道路、橋梁、堤防、鉄道、電信・電話等が建設され、
僕が小学校に入るころ(昭和8年)の京城は
おちついた穏やかな文明国のカタチを一応整えていた。

日本による植民地化は、
朝鮮人の日常の生活になんら束縛や脅威を与えなかった。
これは何でもないことのように見えるかもしれないが、
独立後の南韓や、北朝鮮における思想統制とそこからくる国民一般の
恐怖感とを比べればよく分かる。

南北朝鮮人は終戦後の独立によって、
娑婆の世界から地獄に落ち込んだも同然であった。

僕のこのような事実描写に対して「非国民」
あるいは「売国奴」呼ばわりする同胞も多かろうが、
そういう彼らに対し、僕は一つの質間を投げかけたい。

日政時代に日本の官憲に捕えられて拷問され、
裁判にかけられて投獄された人数及びその刑期と、
独立後に、南韓または北朝鮮でそういう目に遭った人数とその刑期の、
どちらが多く長かったであろうか、と。

◆当時の学校教育

僕の父(1903~69)によれば、
当時日本の教師達が学齢期の子供のある家を訪ね回りながら、
その父母に小学校に入れるよう頼み込んだそうである。

日本と合併して、
日本人の建てた学校に送るのを躊躇した父兄が大分あったらしい。
だがそれも束の間、父より七つ下の叔父の時になると、
中学校はもとより小学校も入学試験で受験生を選抜した。

寺内総督当時は日本の官吏は文官も含めて、
すべて軍服にサーベルを下げていたというが、
1919年、齋藤総督に代ってからは
文官の佩刀<はいとう>が廃され平服になったという。

僕は1926年(大正15年)10月に京城で生まれ、数え年二十で終戦を迎えた。
小学校から中学校の教育をほとんど日本人教師から受けており、
終戦当時は京城高等工業の学生として日本人学生と共に学んでいた。
だから、植民地時代の朝鮮の有り様については
一応総合的な構図を捉えているつもりでいる。

僕の場合、6歳で京城師範学校附属小学校に入学した時、
初めて日本人と出会った。
一年から四年までは緒方篤三郎先生、
五年と六年は朝岡寛一郎先生が受け持たれた。

お二方は親切誠実なうえ大らかで、
曲ったことは決して受け入れない性格であられた。
このお二方は僕の恩人であり、僕の人格形成に影響を与えられた。
特に朝岡先生には、僕らが六年になってからは
放課後の課外授業もしていただき、
そのお陰もあって、僕は名門の京畿中に受かった。

当時、朝鮮内の中学校には朝鮮人だけ、日本人だけ、
また、少数ながら韓日共学の学校があった。

京畿中は朝鮮人だけの中学校であった。
当時、小学校にしろ中学校にしろ、日本人と朝鮮人の学生間には、
お互いによそ者という感情はあったものの、
敵対感情はほとんどみられなかった。

僕が通った師範附属には日本人専用の第一小学校と
朝鮮人専用の第二小学校があって、
それぞれ別の運動場を中にして隔たっていた。

しかし、僕らは六年間を通して、
第一附属の日本人学生と反目やいさかいに及んだ覚えはない。

京畿中の教師は三分の二以上が日本人で、
残りの三分の一が日本で教育を受けた朝鮮人教師であった。

だから、朝鮮のすべての「教育の淵源」は日本ということになる。
僕の祖父、朴勝彬も、合併三年前の中央大学出身で、
合併前に大韓帝国の検事を勤めた後に弁護士、
それから普成専門の校長を七年間勤めている。

当時の朝鮮人は日本人に対して尊敬はしないものの、
軽蔑や敵愾心もほとんどなかった。
歴史的事実として、植民地化されている現実を認めて生業を
営んでいるカタチであった。
だから、親は子供らに対して、学校でよく勉強していい大学を出て、
いい職場にありつくことを願うばかりであった。

このような朝鮮人の強烈な、
そして通俗的あるいは利己的な親心は今もって変わりがない。
独立運動をする親もなければ、
子に独立運動をそそのかす親など、ただの一人もいなかった。

◆著しい人ロの増加

日本植民地時代の35年間に、
朝鮮の人口は確実な足取りでほぼ二倍に膨れ上がっている。
これは何を意味するのか。

1910年 (明治43年) 13,128,780人
1922年 (大正11年) 17,208,139人
1934年 (昭和09年) 20,513,804人
1942年 (昭和17年) 25,525,409人
1945年 (昭和20年) 29,000,000人(推定)

これにはいろいろな要因が考えられる。

(1)疾病の予防並びに医療制度の向上、
(2)豊富とは言わぬまでも食糧の普遍的供給、
(3)総督府の誠実な農村振興並びに治山治水政策の奏効、
(4)産業化への離陸、

というのが僕の推測である。

この中でも、実業家で後に野口財閥を形成する野口遵<したがう>が、
咸興に隣接する興南に建てた朝鮮窒素肥料会社の貢献は特筆に値する。

野口は1925年(大正14年)から五年の歳月を費やし、
咸興の北にある鴨緑江上流を堰き止め、
日本国内にもなかった37万キロワットの巨大発電所をつくる。

さらに、それに続いて白頭山や豆満江などに
各15万キロワット出力の発電所を建設した。

彼はこの電力を利用して空中窒素から硫安をつくるなど、
朝鮮の総合的化学工業化に尽くしたのである。

朝鮮に、このような天下泰平の時代がかつてあっただろうか。

◆終戦後に高まった反日感情

今の若い連中は教科書や小説等の影響を受けて

「当時の朝鮮人は皆、日本を敵国と見做し、
事あるごとに命をなげ出して独立運動をした。
日本の特高が全国的に監視の目をゆるめず、
多くの愛国者が次々と捕えられて処刑された」

という自己陶酔的な瞑想に耽っているが、これはウソである。

今、植民地時代をウスウスながらも思い浮かべることができる年齢層は、
終戦当時15歳に達していた、今は73歳以上の老人達である。
それ以下の朝鮮人は他人から聞いて、
あるいは学校教育を受けて反日感情に走っている。

韓国人にとって、反日感情はいかにも勇ましく愛国的でカッコがいい。
この反日感情が全国を風靡しているので、
老人達がそういう国民的合意に逆らう発言をすれば窮屈な思いをする。
そのうちに多勢に押されて、逆に加勢するようになる。
今や老いも若きも、
日本に対する罵声が高ければ高いほど愛国者と遇されているのである。

◆歴史認識と現実認識

僕が今もっとも憤怒に耐えられないのは、北の金正日政権が日本に対して、
歴史認識をなじり、35年間の悪行に対し謝罪して賠償金を支払えと、
臆面もなく要求している現実である。

今、北朝鮮国民の苦しみは世界に類がない。
飢え死にした者が300万人以上、
脱北して逮捕の脅威におののきながら
旧満州の地をさ迷う者が30万人にものぼるという。
歴史的にもそういう悲惨な例はない。

自国民をなぶり殺す現行犯が、
日本に対して35年間の悪行を弁償しろなどとよくも言えたものである。
あくどい独裁者の圧政の下に喘ぐ国民の恐怖感というものが
どの程度であるかは、体験しない者には分からない。

李承晩や朴正煕独裁の下でなんら罪なき国民、
特に学生が程度の差はあれ、
常に恐怖の中で生きていたことを今の若者達は想像できまい。

そのひしひしと迫る恐怖の手綱が
1987年の国艮抗争以後、緩んできたのは有難いことであった。

ところが、北朝鮮の金日成・正日父子による独裁の苛酷度は、
李承晩や朴正煕の独裁に輪をかけたもので、
金正日の代になってもそれは一向に弱まっていない。

近年、南で金大中、盧武鉉の時代になってからは国全体が大きく左に揺れて、
金正日に吸収されるのではないかという強い懸念が
国民の重大な不安ないし恐怖のタネになっている。
これも見逃せない現実である。

日本は、金正日が当面の拉致問題さえ片付けてくれれば、
戦後賠償を支払うつもりでいる。

だが、そのカネは北朝鮮が民主化する前に渡してはいけない。
今、そのカネが金正日に渡れば、
それは北朝鮮の軍事力の強化に役立って彼の立場を固めることになり、
結果的にその国民は永遠に彼のくびきから抜けきれないであろう。

いや本当のことをいうと、
日本は朝鮮を合併してから朝鮮の文明開化にすごく貢献し、
朝鮮の文化の基礎を日本流に築きあげた。

それゆえに日本が、
これからも西欧の文明を矢継ぎ早に取り入れて日本化していけば、
朝鮮は(他のすべてのアジア国家も同様であるが)
それを別に苦労もせずにタダで直ちに真似ることができる。
これは朝鮮にとってはもっけの幸いである。

神様の目からみれば、日本が韓国に賠償するワケはないのである。
逆に、何十人もの日本人を拉致して、彼らとその家族の人生を蹂躙し、
これによって全ての日本国民に耐えがたい精神的苦痛を与えた金正日こそ、
日本に謝罪し多大な賠償金を支払うべきであろう。

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英国婦人、イザベラ・バードの日・中・韓紀行
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-636.html
ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻
http://norikura.fc2web.com/
http://nikujiru.tripod.com/

日本統治前ソウル南大門通り。
衛生状態は非常に劣悪で市内の大半がスラム街。
日本統治前ソウル南大門通り。衛生状態は非常に劣悪で市内の大半がスラム街。

崇礼門(別名:南大門)
崇礼門(別名:南大門)









ちなみにこれは1860年当時の江戸
1860年当時の江戸

19世紀の日本と朝鮮の写真
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200509120002/

川原で洗濯

川原で洗濯_2

Seoulの男性
Seoulの男性

女性
女性

当時の朝鮮の先端車両
当時の朝鮮の先端車両

罪人達
罪人達

刑罰
刑罰





美化しすぎの韓国歴史教科書
美化しすぎの韓国歴史教科書

↓ 1910日韓併合

仲良くやっていた。
仲良くやっていた。

仲良くやっていた_2

仲が良さそうなのですが、日本が敗戦した瞬間から朝鮮の人々は
自分たちは戦勝国民だと言って日本人に、ありとあらゆる事をしました。
おまえら

韓国の近代化に尽力した昔の日本人たち
韓国の近代化に尽力した昔の日本人たち

日本統治初期のソウル。まず、スラム街の撤去と電車の設置を行なった。
日本統治初期のソウル。まず、スラム街の撤去と電車の設置を行なった。

ソウル大通りの様子。電線と街灯が完備された。
ソウル大通りの様子。電線と街灯が完備された。

平壌 路上には電車が走る。
平壌 路上には電車が走る

次々立つ近代建築物
次々立つ近代建築物

1937年にソウルに開業した丁字屋デパート。
ソウルにはこの他に、三越・平田・和信などの百貨店があり
日本内地の流行を敏感に反映させながら競い合っていた。
1937年にソウルに開業した丁字屋デパート。

1936年の南大門通り。左側が商業銀行。市電は複線になっている。
1936年の南大門通り。左側が商業銀行。市電は複線になっている。

ソウル繁華街、本町2丁目の商店街。
東京の銀座に相当する街筋は、街灯が消える夜半まで人通りが絶えなかった。
ソウル繁華街、本町2丁目の商店街。

女子高等普通学校
女子高等普通学校

京城駅
京城駅

ソウルの朝鮮銀行前
ソウルの朝鮮銀行前

南大門通り
南大門通り

平壌府営業の市内電車。運賃は市内一律5銭。
平壌府営業の市内電車。運賃は市内一律5銭。

平壌の町並み
平壌の町並み

平壌の夕暮れ
平壌の夕暮れ

新興工業都市、興南。
朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの工場が次々に進出した。
新興工業都市、興南。

世界最大級の水力発電所、水豊ダム。
当時、出力世界二位のダムで朝鮮及び満州の電力をまかなった。
世界最大級の水力発電所、水豊ダム。

スキーを楽しむ朝鮮人。
史上類例を見ない残虐な植民地支配の中でスキーを楽しめたとは。
史上類例を見ない残虐な植民地支配の中でスキーを楽しめたとは。

京城神社祭り
京城神社祭り

運動会の様子
運動会の様子

盛況するスケート大会
盛況するスケート大会

1940年、朝鮮ホテルのサンルーム。左端の女性は舞踏家・崔承喜。
1940年、朝鮮ホテルのサンルーム。左端の女性は舞踏家・崔承喜

…朝鮮が中国の属国であったことを認めず、
韓国が併合される前の李氏朝鮮時代を、
まるで「東洋の理想国家」かのように美化し、
その平和な朝鮮を「日本が侵略し、近代化の道を閉ざした」
と捏造している限り、歴史認識で分かり合えることはないと思います。

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戦後補償と謝罪
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/sengohosyo.html
ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻
http://norikura.fc2web.com/
http://nikujiru.tripod.com/
http://sourenjp.tripod.com/didi/index.html
http://www.angelfire.com/bug/han/jiji/
日本が朝鮮に行った良いこと
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/iiwarui.html
私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/daitoua.html
日本人として戦った朝鮮兵
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/tyousenhei.html
韓国の捏造教科書。そのほんの一例
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/netsuzo_text.html
剣道の起源は韓国にあり!?
http://www.geocities.co.jp/Athlete-Acropolis/6963/

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著者:崔基鎬

韓国史家が、祖国のために、あえて問う、「いまこそ、歴史の真実に目を開け」

李氏朝鮮の統治下にあった518年、朝鮮は両班(ヤンバン)という支配階級が、
国民の大多数を占める農民から搾取をほしいままにし、
民衆は塗炭(とたん)の苦しみを味わっていた。

自力での近代化もできず、国家の体(てい)をまるで成していなかった。
そんな朝鮮を、日本以外の誰が救えただろうか。
日本は国民の血税から巨額の資金を投入し、朝鮮を再興した。
その結果、朝鮮半島の生活は飛躍的に向上し、人口は倍増した。
その事実を無視し、被害者意識に凝り固まる韓国に将来はあるだろうか。

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『歴史捏造国家、韓国』より引用
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200509120003/
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200411150000

日本が朝鮮半島にした恐ろしいこと?
http://www.youtube.com/watch?v=x6TCjtv8Z20

The Korean File of Korea under Japanese rule 日韓併合の真実
http://www.youtube.com/watch?v=EjYqF4O7gSQ


『日韓の植民政策研究は政治やイデオロギーに振り回されてきた』

クリスティン・リー女史

アメリカ・ポートランド州立大学教授。
1960年生まれ。梨花女子大卒業。
米国に留学、ラトガ-ス大学で博士号取得。
教育学を専攻後、教育哲学に転向した。

現代思想が専門。
ポストモダ二ズムや日韓の女性法などについて、多数の論文を書いている。
『滅亡の帝国-日本の朝鮮半島支配』は、欧米の研究書の間で話題を呼んだ。

日本の植民地経営は、世界史的にみてどうだったのか?
植民地主義というキーワードをもとに、
理論的、実践的にこの問題に取り組んだのが、
在米の韓国人女性研究者クリスティン・リー氏である。
リー氏はイデオロギーに振り回され、
学問的方法論に依らないこれまでの研究を厳しく批判する。
(翻訳/重村智計・早稲田大学教授)

―――――――

私は、アメリカの大学院で指導教授たちに言われた次の言葉を、
今なお忘れる事が出来ません。

『日本の植民地は、その後いずれも経済発展したではないか。
そんな結論の出ている問題を今更どうして研究するのか?』

米国の名門ラトガース大学のローデン教授は、私が博士論文の主題に
『日本が朝鮮半島を植民地支配した時代の教育と女性問題』
について研究したいとの計画を説明すると、このように反問しました。

『文明のシステムを、日本の植民地主義は朝鮮半島に導入したのではないか?
スペインやアメリカやイギリスは、
日本のように本国と同じような教育システムを植民地に導入しなかった。
当時の朝鮮半島の人々は文明のシステムを独自の力で導入するのに失敗した。
日本の植民地主義なしで、あれほど早く文明の世界システムに入れただろうか?』

私は、この発言に怒りが込み上げ懸命に反論しようとしたが、
頭の中が真っ白になり感情だけが高ぶったのを覚えています。

「そんな論文を書いたら、韓国に戻れなくなる!」
との不安が一瞬心をよぎりました。

論文の相談をした別の経済学専攻の教授は、
『植民地化された国家の中で韓国と台湾ほどに発展した国家はない。
アメリカやイキリスの植民地で、台湾や韓国ほど発展した国があるか?』
とまで言うのでした。

私の不満そうな表情を見たローデン教授は、次のようにも問いかけました。
『日本の植民地支配を非難する韓国人の留学生の一人が、
自分の父親が東京帝国大学出身であると自慢げに話した。
これは、暗黙のうちに日本が導入した文明のシステムを
評価していることになる。
本来なら、東京帝国大学を卒業した父親を非難すべきではないか?』

こう言われてみると、確かに東京大学はもとより、京都大学、早稲田大学、
慶応大学を卒業した事を誇りにする韓国人は少なくないのです。

当然、韓国の側に立ってくれると思った第三者の
アメリカ人学者の発言は、ショックでした。
こうして私は1997年に『The Doomed Empire : Japan in Colonial Korea 』
(滅亡の帝国:日本の朝鮮半島支配)を、英国で出版しました。
http://www.bookfinder.com/dir/i/The_Doomed_Empire-Japan_in_Colonial_Korea/1859724698/

日本の植民地支配下での女性と教育問題を学問的に整理し、
感情論でなく客観的に理解する素材を提供したいと考えたからです。

当初の意図とは異なり、指導教授の理諭と主張が盛り込まれました。

この本は、韓国で出版するのは、まず不可能でしょう。
韓国では『親日派』と非難されるでしょう。
韓国で生活出来なくなるかもしれません。
それをあえて覚悟したのは、近代史をめぐる日韓の対立を解消し、
友好な関係を築くのに微力ながら貢献したいと考えたからです。

女性解放と女性教育の面では、日本の植民地主義は、
朝鮮半島への近代化の導入に決定的な役割を果たしました。

その一方で、韓国の教育が日本の戦前型の教育から、
今も抜け出せないでいるのも否定できない現実です。

―――――――――――――――――

enjoy korea 2007年1月31日 より引用
http://fujissss.exblog.jp/10764920/

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『The New Korea』1926年
アレン・アイルランド(Alleyne Ireland)著(アメリカの行政学者)

日本の人たちは自負心を持って韓国で道路を作ったこと、
教育施設を大きく拡大させたこと、
最近全国的に盗賊による被害が多かった朝鮮から
人命と財産を効果的に保護したこと、

農業、産業、そして他の産業からも急速な成長を成し遂げたこと、
技術訓練所を作り農漁民、牧畜業者、製造業者などを
助ける実験研究所を作ったこと、
去る15年間全ての分野で生産性がとてつもなく増加したこと、

そしてその事実を内包している朝鮮人雇用増大効果、
および公職に任命された朝鮮人の持続的な増加などを言及する。

上の事実にそう簡単に異議を提起することはできないだろうし、
そんな事実は、これから続く次の章から提示される資料によって
事実であることが証明されるであろう。

多くの資料を集め、調べた結果、筆者は以前の王朝時代や
同じ民族から統治されていたいかなる時よりも、
植民地政府の支配を受けている今の韓国当地のほうが
ずっとよくできていると判断する。

李氏朝鮮の残酷な死刑や拷問に対して、
あるスウェーデン人は、次のように語っている。
―――――――
『悲劇の朝鮮』スウェーデン人 アーソン・グレブスト

こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、
人間存在そのものへの挑戦である。

とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、
異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば、
真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ。
―――――――

李氏朝鮮時代の拷問は酷かったが、
1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると、
朝鮮においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止された。

朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎
(1907年水原の京畿道地方裁判所の法務補佐官)
が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。

1908年の法令改正によって、拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。
これにより、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は事実上廃止となった。
―――――――
この本の感想を韓国のニュースが書評を次のように述べている。
―――――――
著者は、私たちの常識と歴史知識とは違って、
1920年前後に「韓国国民の全般的な生活条件が驚くほど改善しており、
韓国の繁栄ぶりは注目に値する」という主張を展開している。

悪辣な日帝統治について私たちが学んだ歴史的事実から見れば、
著者の主張は真実とは隔たりがあることが分かる。
この本は、果たして私たちの学んだ真実が
どれほど客観的資料によって裏付けうるかを提示している。

今日の我が国社会の基礎となっている行政組職から予算制度に至るまで、
日帝がいかに導入していったかが一つ一つ紹介されている。

一つの興味深い事実は、1918年に466校だった韓国の小学校が、
1922年になると890校に増え、政府(朝鮮総督府)支出も
183万5000円から1330万9000円へと8倍にも増えていることだ。

1918年を基準に見ると、教育費のうち韓国人の負担は10%で、
残りは政府補助金が充当されたという。もちろん、政府補助金が
どこからどのようにして捻出されたのかは確かではない。

ただ、朝鮮総督府が「少なくとも3ヵ村あたり1つの学校を」
という基準で学校増設を推進した点は印象的だ。

こんな断片的な事実だけから、
日本の韓国植民地支配が苛酷ではなかったと主張することは誰もできない。
しかし、「苛酷な日帝統治」という主張と同時に
このような統計資料にも関心を持つ必要がある。

監獄行政に関する資料も興味を引く。李朝政府の監獄をこう評している。

「李朝時代の監獄は、大多数の東洋諸国の監獄と同じく、
説明しがたいほど無残だ。衛生設備は不足で、収監者に対する虐待は
頻繁だったし、すし詰め状態はほとんど信じられないほどだった」

これに対して、日帝統治開始以後の監獄の状況について著者は、

「毎年監獄が増えて条件が改善した結果、少なくとも大型化された監獄は
他の国の監獄に匹敵する状態にあり、アメリカ国内の大部分の監獄より
ずっと良い状態だった」と指摘する。

著者が、日本の初期統治に対し友好的な見方をする主な原因は何だろうか。
李朝末期のような腐敗と無能が持続するかぎり、
韓国人か自らの運命を切り拓くことはできない、と仮定するからだ。

しかし大多数の韓国人は、日本の侵略が無かったならば
朝鮮は自らを変革して近代化の道を歩むことができた筈だと信じている。

この点については、韓国人であれば誰であれ少数意見を述べるのは
困難と思われるが、少数意見があるならおそらく著者の見解と同じになろう。

論争的な主張を記してはいるが、外国人が私たちをどう見ていたのか、
という観点から、推薦に値する本だ。

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韓国の伝統芸能 「病身舞」(ピョンシンチム)。
身体障害者や病人の振りをして、それを見た人の笑いを誘う韓国の伝統芸能。
日本統治時代は禁止されていたが戦後に復活した。
韓国ではこの踊りで地方無形文化財保持者に指定された者もいる。
http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/1615471/

http://www.youtube.com/watch?v=i86fiRjvafk

http://www.youtube.com/watch?v=npLilYxS-7I

http://www.nicovideo.jp/watch/sm13510487

http://www.youtube.com/watch?v=Vek1QREgo1M

http://www.youtube.com/watch?v=QuSS2IyxoCU

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『韓日合邦を要求する声明書』 1909年12月4日 一進会(百万の朝鮮人会員)

日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、
日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。

それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、
あの国にくっつき、この国にくっつきし、
結局は外交権を奪われることになったが、
これは我々が自ら招いたことである。
(中略)
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、
太子を導いて我々韓国のためにご苦労されたことは忘れられない。

にもかかわらずハルピンの事件が起きてしまった以上、
今後いかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。
(中略)
それゆえ劣等国民として保護されるよりは、
いっそ日本と合邦し大帝国を造って世界の1等国民として
日本人とまったく同じ待遇を受けながら暮らしてみよう。

―――――――――――――――――

『李完用侯の心事と日韓和合』 朝鮮全権大使 李成玉 

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助編著
国際企画(日本図書館連盟選定図書)

現在の朝鮮民族の力量をもってすれば、
とても独立国家としての体面をもつことはできない。
亡国は必至である。亡国を救う道は併合しかない。
そして併合相手は日本しかない。

欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違う。
日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、
これは朝鮮人を同類視しているからである。

そして、日本人は朝鮮人を導き、
世界人類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。

それ以外に我が朝鮮民族が豚の境涯から脱して、
人間としての幸福が受けられる道はない。

日韓併合が問題になるのは、変な話だ。
我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察したのだ。

―――――――――――――――――

統治時代の道知事 朴栄

公平無私なる観察を下すときは、
いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、
如何に伊藤(博文)公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、
とはある評者の言であった。

究意するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。

また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。

詮ずるところ、その責任は二千万同胞にあるのである。
思うに韓国自体が独立の要素を欠き、
独力独行することが出来なかったためであって、
古今問わず韓国国民全体が無気無力為す事なかりしの致すところであって、
まことに自ら招ける禍であると云わねばならぬ。

日露戦後、日本は前例に鑑み(日清戦争後の処理を指す)韓国の保護啓発に
努力したるも韓国の上下は少しも日本の誠意を理解せず陰謀を策し、
詭謀を企て陰に陽に敵対行動を取ったので
日本は終に止むを得ず最後の手段として日韓併合を断行するに至った。
・・・今日あるは自業自得であると云わねばならぬ。

―――――――――――――――――

『網も張る前に魚が飛び込んできた』
趙佑石・文化部出版チーム長(2001.08.27 21:58)

「網も張る前に魚が飛び込んできた」。
1910年8月、韓日合邦の前夜の秘史についてこのように語ったのは、
当時の統監府外事局長、小松緑だった。
心痛い証言だ。

…それは決して文学的修辞ではなく、惨めな無能の末、
合邦を決めた91年前の我々の姿だったことの確認であるからだ。

明日、韓国は庚戌(キョンスル)国恥日(韓日合邦)を迎える。
…この経路を振り返るに当たって、
まずは「合邦の魚」の主役から見てみよう。

本音を隠したままの日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。
総理大臣の李完用(イ・ワンヨン)の側近である、新小説『血の涙』で
知られる李人稙(イ・インジック) が密使として動いたのだ。
(以下略)

―――――――――――――――――

『日本よ、自ら信じ自ら運命を切り開け』
東京都知事 石原慎太郎(産経新聞より)

あるとき、向こうの閣僚とお酒を飲んでいて、
みんな日本語がうまい連中で、日本への不満もあるからいろいろ言い出した。

朴さん(朴正煕・元韓国大統領)は雰囲気が険悪になりかけたころ
「まあまあ」と座を制して、

「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。
日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。
もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、
もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。
もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて
半島全体が共産主義国家になっていた。
そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。
日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、
仕方なしに選ばざるを得なかったならば、
セコンド・ベストとして私は評価もしている」

―――――――――――――――――

「戦わざる者は自ら滅ぶ」 韓国学長

私は平素学生に対して、韓国人としての自覚を促している。

日本の韓国併合に抗議する前に、
韓国人自身が考えなければならないことがある。

日本の韓国併合に対してアメリカもイギリスも誰一人反対しなかった。
世界は当然のような顔で受けとめていた。

それは何故か。

清国軍がソウルを占領しても韓国人は戦わなかった。
だから日本軍が戦って清国を追い払った。

ロシアが入ってきたときも我々は戦わなかった。
日本軍が血を流して戦い、朝鮮からロシアを追い出した。

だから日本はこれ以上トラブルはいやだと、朝鮮を併合してしまった。
これに対して世界の列強は、
日本がそうするのも無理はないとして、ひと言も文句を言わなかった。

このことを忘れてはならない。
韓国は自ら滅んだのだ。

日本の悪口を言い、責任を日本に押し付ける前に、
我々は戦わなかったから滅びたことを知らねならない。

http://homepage1.nifty.com/y-kan/hibisiryou.HTM

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淵沢能恵(ふちざわ のえ)

朝鮮における女子教育に生涯を捧げた日本人がいる。

1905年(明治38年)に韓国に渡り、
翌年には明新女学校(のちに淑明女子高等普通学校と改称)を設立。

その女子教育にかける熱意は地元・韓国でも評価され、
李王朝から校地や資金を援助される。

1936年(昭和11年)、87歳で死去。
彼女の創立した学校は、
現在も名門私立学校として多くの人材を輩出している。

3.11運動の際、学校の生徒も官憲に捉えられたが、
淵沢能恵はとくとくと説明し全ての生徒の保護責任者になり、
学校に戻すのに尽力した。

彼女の教えのひとつに、「誇りある朝鮮人女性たれ!」というのがある。
当時の朝鮮での女性の地位は
日本人とは比べ物にならないほど低くかったが、
能恵は教育によって女性の地位向上に力を尽くした日本人である。

この「誇りある朝鮮人女性たれ!」というのは
終戦後この学校の教師が日本に帰国する際、
見送りにきた生徒に改めて伝えられた言葉であるが、
みんな手をとりあって涙を流したという。
釜山港から遠ざかる船には
「また帰ってきてね!」という言葉が投げかけられた。

朝鮮人女性の地位向上には少なくとも淵沢能恵の努力は無視出来ないだろう。

韓国は日帝時代を全て悪と断じ、
多くの日本人と朝鮮人の交流の歴史を無きものとしている。

淵沢能恵が設立した学校も日本人色は全く消され、
正しい歴史を知っている韓国人は少なくなっている。

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1910年の日韓併合までは朝鮮には、ほとんど学校もなく、
読み書き計算ができなかったり、言葉の違いなどがあり、
また、日本本土の莫大な税金を投入してインフラの整備(35年間で65兆円)
を続けていたので、予算の面からも、早い時期から日本人と朝鮮人を、
まったく同じ待遇にはできない面もありました。
しかし徐々に待遇は改善されていく方向だったのです。
http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200411150000

友邦シリーズ第23号 「朝鮮財政余話」 財団法人友邦協会 P99~103

『待遇改善と差別待遇撤廃の問題』 朝鮮総督府 元財務局長 水田直昌

先述の義務教育、これは直ちに実行することはできない。
毎年教室を作るだけでも大変である。

そこで昭和21年を期して義務教育を実施するということを
17年に決定しました。これで朝鮮人は一応納得しました。

それから役人の待遇改善についてでありますが、
加棒は朝鮮人に対してはもともと無理な話であります。

内地人は朝鮮に参りますと、
植民地加棒として高等官は4割、判任官は6割ついている。

朝鮮人にも大学出、専門学校出が追々多くなってきて、
内地人と机を並べていると、
本棒は同じ百円でも内地人は百六十円貰えるから、
明らかに差別待遇であるという。

しかし内地を出て朝鮮まで来ていると、
伝染病の脅威とか病気の点とか子供の教育とかに特別に金が掛かるので、
そのために加棒を支給するのは当然と思われるが、
現実には同じ場所で同じに働いていて、
それだけの差があるのは感情上納得できないとして問題になる。

小磯総督は内地人の加棒をなくするか、
朝鮮人にも内地人同様の待遇をするか、
二者択一の立場に立たされたわけです。

昭和19年は物価騰貴になった年でありますので、
到底内地人の加棒を削ることは思いもよらぬことで、
そうなれば朝鮮人に増してやるほかはない。

これは理論的には無理なことですが、
政治問題として放ってはおけぬということでしょう。

しかし大蔵省の主計局に話して見ますと、
「もってのほかであり、論外のことである。」と大反対です。

しかし何とか彼とか理屈をつけて大蔵省に説明する、
また台湾にも同調して貰うようわたりをつける、
それが我々の役目でありました。

(中略)

結局、朝鮮人に加棒を出す理由の可否について、
一般のものは何がなんだかわからないと言う有様でありました。

要するに全部に加棒をやれば
非常に金がかかる上に却って悪平等にもなるので、
一応、内地人に対しては在来の加棒支給の理屈のとおりにして、
異民族統治に当たるものは非常に苦労が多いからそれによって加棒をやる。

朝鮮人に対しては朝鮮財政に余力があり、
本当に日本人になったならば対等にしてやることに
したらどうかという事に落ち着き、
朝鮮の人もマアマアとうなずくことになりました。

これは昭和19年のことで小磯総督がとられた政治的政策の一つでありました。
朝鮮人加棒問題が片付いたその年の七月に、
東条内閣が瓦解しまして、小磯総督が組閣の大命を拝されて、
日本へ帰られたのであります。

(中略)

次いで、昭和19年七月から20年8月までの安部総督の一年間は、
参政権を朝鮮人に与えよという問題で終始したともいえます。

参政権の内鮮人間の差別を撤廃するということについて、
昭和十九年の九月の臨時議会において、
小磯内閣総理大臣の施政方針演説の中で、
朝鮮及び台湾の人に何等かの形において
参政権を与えるということが発表されました。

そこで貴族院のほうへは朝鮮から七人、衆議院の方へは制限選挙として、
直接国税十五円以上を納めた者が凡そ百万人位いるから、
朝鮮から二十六人の議員を送るという法律が通ったのです。

なお役人の待遇改善については、
先述のように昭和十九年に一部の朝鮮人だけについて
待遇改善を致しましたが、
二十年になりますと、反内地の気分を緩和する一つの手段として、
朝鮮人の官公吏全部に内地人同様に加棒をやってしまうことになりました。
理屈にはならないがやってしまうということで行われました。

また先に定められた教育制度の改革も
二十年に繰り上げてやろうということになりました。

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http://blog.livedoor.jp/tkknrak/archives/50634294.html

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『朝鮮教育要覧 大正8年版』

旧韓国政府が、内地人参画の下に新制度を立て官公立学校を設置するや、
種々の誤解は地方民間に生じたり。
其の著しきもの二三を挙ぐれば大要左の如し。

一、官公立學校に封する誤解

旧政府に於て新に学校を経営し授業を開始するや、
「是れ官學なり。政府の利益の爲に設くる學校なり。
我等の子弟は私學に於て學ばしむべく、
官學に於て學ばしむべきものにあらず」となし、

試[こころみ]に、地方學校経営者に対し、其の校舎を提供せしめ、
補充拡張して設備を整へ、教員を派遣し完全なる教育を施さしめんとするも、
彼等は「美名を借りて自己の學校を掠奪せんとするものなり」
など唱へて容易に応ずるものなかりしが如き。

亦以て地方人民が、從來悪政の結果、
如何に政府を誤解したるかを知るに足るべし。

二、内地人に対する誤解

學校経営の主脳たる内地人教員に対しても、
當初は一般内地人に対すると同一なる嫌悪の念を抱き、
内地人教員に子弟を託するを良しとせざるものあり。

然るに、各教員が生徒に対する懇篤を極め、熱誠職務に忠實なるを見るや、
寧ろ奇異の感を抱き、歳月と共に漸次尊敬と信頼とを払ふに至れり。

三、教科目特に国語に対する誤解

官公立學校の教科目が、從來書堂其の他に於けるものと著しく異り、
読書算術國語(日本語)を始めとし日常必須の教科を授くるや、
漢文の時間少きを難し教授時数少なりと評し、
特に國語(日本語)を以て主要なる一教科目となすや、

「是れ韓国(朝鮮)の言語を変更せんとするものなり。
卒業後日本に拉致して兵卒たらしめ、若くは從僕奴隷たらしむるものなり」
などの風説流布し、
民心の帰向を得ること頗[すこぶ]る困難の状況を呈したり。

以上の如き誤解は、庶政刷新の際、固より免れざる所。
特に日韓當時の關係を喜ばざるものの如きは、力めて此等の訛伝を流布し、
民心の帰趨を誤らしめんとするもの少らず。

此等の誤解の為、地方公立普通学校にありては、
生徒の募集上著しく困難を來し、書籍器具を給与し、
授業料を徴収せざるに拘らず、中流以上の子弟は容易に入學せず。

却て設備整はず、教養の實なき私立學校に入學するもの多く、
「公立普通學校は貧民学校なり」との悪評を受くるに至れり。

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■創氏改名について。

結婚すると苗字が変わるものを「氏名」、
結婚しても苗字が変わらないものを「姓名」と呼び、

日本は「氏名」、朝鮮は「姓名」であったと
説明するのが分かりやすいと思います。

朝鮮では同じ世帯のなかに、いろんな苗字の家族がいたということです。

1910年に朝鮮は日本になったので、日本の法律の手続きに合うように、
結婚したら同じ苗字になってもらうことになりました。

その時点でも、同じ世帯は全員、同じ苗字になってもらいました。

◆設定創氏

その世帯全員が、どういう苗字にするのかを届け出てもらいました。
必ずしも日本風の苗字でなくてはならないということはなく、
「金」でも「朴」でも「李」でも「張」でもよかったし、
日本風の「佐藤」でも「鈴木」でも「田中」でもよかったのです。

◆法定創氏

苗字を届け出なかった世帯は、
その世帯全員が自動的に世帯主の苗字になりました。

―――――――――――――――――

以後、結婚すれば、どちらかの苗字になりました。

また、姓がない人たちも大勢いたので、
その場合は苗字(氏)を創ってもらいました。

強制的に日本風の苗字に変えさせたのではなく、
同じ家族は同じ苗字にしてもらいました。

―――――――――――――――――

「改名」制度とは、日本人式の氏をつけた場合、
従来の下の名が新しい氏と釣り合わない場合に、
改名もできるようにした制度で、改名手数料が必要でした。
(例、作家 李光洙の場合、→香山光洙→香山光郎)

これが「創氏改名」といわれるものです。

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2003年5月31日、麻生太郎・自民党政調会長(当時)が
東大における講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した。
韓国紙がこの発言を大きく取り上げて批判的に報道し、
韓国政府は謝罪を求める談話を発表。
盧武鉉大統領の訪日を直前に控えていたこともあり、麻生は発言を謝罪した。
この件について自民党総務会で野中広務が麻生を批判したが、
その場にいた奥野誠亮が
「野中君、君は若いから知らないかもしれないが、
麻生君が言うことは100%正解だよ。
朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。
そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。
判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」とたしなめた。
野中はそこで中座して出ていってしまった。
横で聞いていた野呂田芳成が、
「いや、奥野先生、今日はホントにいい話を聞かせていただきました」
と言った。


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創氏改名は、おもに満州国やChinaにいてChina人から
虐められていた朝鮮人たちの強い要望で始まった。

創氏改名の受付期間は1940年2月11日から同年8月10日までの6か月間だった。

創氏改名に殺到しているソウル市民

地方役人(殆んど朝鮮人)が仕事をしているように見せるために
強圧的に推奨したことはあったようだ。
学校の先生も将来の就職などを考慮して奨励したといわれている。

結局、79%の朝鮮人が届け出たが、21%の朝鮮人は最後まで届け出なかった。

当時の朝鮮総督だった南次郎は、
「強制してはならない」「強制ではない」ど3回も訓令を発していた。

当時の朝鮮総督だった南次郎は、「強制してはならない」「強制ではない」など3回も訓令を発していた。

創氏改名の届出についての告知ビラ
大邱地方法院『好機を逸さぬよう!即刻届け出しましょう!』
大邱地方法院『好機を逸さぬよう!即刻届け出しましょう!』

【上段】期限は刻々に迫る 八月十日限り 今熟慮断行の時
【下段】認識を誤って悔いを子孫に残さぬよう(朝鮮語)
【右側】好機を逸さぬよう!(朝鮮語)
【左側】即刻届け出しましょう! (朝鮮語)

氏設定について御注意

1.創氏届け出は八月十日までです。その後創氏届けはできません。
名の変更には期限がありません。

2.八月十日までに氏の届けをなさぬ者は従来の戸主の姓が
そのまま氏となる結果、戸主の姓が金なれば、金が氏となり、
妻尹貞姫は戸主の氏に従い金貞姫となり、
子婦の朴南祚は金南祚となり、紛雑するおそれがあります。
この結果は内地式を設定しなかったことを
かえって後悔することになるだろうと思われます。

3.氏と姓とを混同する向きがあるようですが、氏は家の称号であり、
姓は男系の血統を表するもので、両者の性質は全然異なっております。

4.氏を設定すると従来の姓がなくなるという誤解があるようですが、
氏設定後においても姓および本貫は
そのまま戸籍に存置されますから心配ありません。

5.門中または宗中は同一の氏を設定しなければならぬと
考えられている人もありますが、大いなる誤解であります。
氏は家の称号であるがゆえに、各家異なる氏を設定するのが当然であります。

6.氏選定について熟慮中のようですが、考えすぎると
かえって迷うおそれがありますから、
速やかに簡明なものに決定するのがもっとも理想的であります。

7.期限も迫りました。
不審の点は早く府面邑または法院へお問い合わせください。
(府面邑→市町村)
大邱地方法院

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渋沢栄一


韓国初の紙幣肖像画も渋沢栄一
韓国初の紙幣肖像画は渋沢栄一

渋沢栄一は大韓帝国(朝鮮)発展のため多大なる貢献をしたのに、
なんでもかんでも批判する韓国。
―――――――――――――――――
スポーツ報知 2019年4月9日19時43分
渋沢栄一の新紙幣肖像に
「韓国に対する配慮が欠けているのでは」聯合ニュース報じる
https://hochi.news/articles/20190409-OHT1T50116.html
財務省が9日に2024年をめどにデザインを刷新すると発表した紙幣
(日本銀行券)に関し、1万円札の肖像に渋沢栄一が使われることに対して
韓国内で批判が出る可能性があると聯合ニュース(韓国語電子版)が報じた。
聯合は、「朝鮮半島の経済利権を侵略した急先鋒(せんぽう)に
立っていた男が、新紙幣に描かれようとしている」と報道。
韓国内で議論の対象となると予測している。
渋沢が設立した第一国立銀行は、韓国との貿易の便を図るために
1878年に釜山支店を開設。為替と海関税などの取り扱いを行っていた。
その後、1902年に現地で「第一銀行券」として紙幣を発行。
大韓帝国の公認紙幣として1、5、10円の3種類が流通していたが、
その紙幣に渋沢の肖像が描かれており、1904年まで使用されていた。
聯合は「日本政府が渋沢の肖像を1万円札に入れようとしているのは、
安倍政権の歴史修正主義が反映されたと考えられる」と指摘。
「韓国に対する配慮が欠けているのではないかという批判が韓国のみならず、
日本国内でも出て来るのではないだろうか」としている。

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★渋沢栄一の朝鮮観、朝鮮・大韓帝国の評価と政策提言

↓↓↓

慶應義塾大学学術情報リポジトリ

渋沢栄一と朝鮮:その対朝鮮姿勢を中心として

片桐康夫 慶應義塾大学法学部 2008年
file:///C:/Users/jtk7t750/Downloads/BA88455213-00000011-0095.pdf

渋沢栄一と朝鮮

――その対朝鮮姿勢を中心として――

P102~103(PDFの9/32~10/32)

「全く腐敗の極に達し、国士の風あるもの皆無」
『渋沢栄一伝記資料』別巻5
(渋沢青淵記念財団竜門社編、渋沢栄一伝記資料刊行会刊)50ページ

「国君たる御方は如何なる恩考へを持って国を統御しおらるるか、
其政治の傾きは如何であるか、其人と成りが十分に頼むべき力が
あるかと云ふ点になりますと、
是は如何に私が朝鮮を弁護しましても弁護に苦しむ」
同59ページ

半島国民の全体は貨殖蓄積という観念を持ち得ない。
それは無理もないことで、仮に勉励刻苦して貨殖蓄財をなしても、
たちまち郡守に横奪されるという政治的傾向 のために、そうした観念がない。
国王が韓人を待遇する態度には、いにしえの名君の風はない。
国王がそのような有様であれば、その部下である韓国民も始終猪疑心をもって
生活しなければならず、国を愛し、
仕事を大切にする性情を欠き、あたかも闇黒の世界に棲息する状態である。
同48ページ

最近、日本をまねて、日本の風俗に学び、予算の仕組み、
その他の制度上の外形はポツポツと変わり始めたようであるが、
その実態は血液骨肉のない躯体と同然である。
同49ページ

では、渋沢は韓国をどういった手法により
いずれの方向に誘導開発すべきと考えたか。
渋沢には、既述のように、まず日本が韓国の独立を保全し、
その利源を開拓することが日本側の本務であるとの前提がある。
それに基づいて、韓国と国境を接する強国ロシア、中国に利権を有する
イギリスそしてアメリカをはじめとする欧米各国が
独自に商取引等を通じて韓国に関与しており、
その金額は日本と比較すれば少ないとはいえ、
日本国内で一般的に考えらえている以上に大きいことに注意を喚起する。
それらを考慮する時、韓国刷新の方法をめぐって、
国内に政治上の改革を優先すべきとの意見もあることを認めつつも、
それは政治の専門家である政治家の観察に任せたいとし、
実業人は実業の力によって韓国を扶植し、
商工業を中心とした発展を図るべきであると考える。
そして、実をあげるためには、実業、農業、社会資本等の
幅広い分野に於いて棄賦の精神に基づいて
提概することが必要であると考える。

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韓国朝鮮女性を守った日本【日韓併合の朝日報道記録】
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/news-c78b.html
日韓併合
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-101.html
日韓併合_関連資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-323.html
竹島が日本の領土である根拠
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-164.html
慰安婦_資料
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-147.html
250年前の日本を見た朝鮮通信使
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-29.html
日・中・韓紀行 ~ イザベラ・バード
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-211.html
【写真】オーストラリアの宣教師の目に映った1890~1920年の朝鮮
http://www.hoshusokuhou.com/archives/30609593.html
日韓併合時代の新聞記事
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-650.html
日本から見た歴史認識
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-167.html
ブログ『ぼやきくっくり』 「朝鮮總督府官吏 最後の証言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1612.html
2009/06/23 09:00|年表リンク用資料
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