正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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アメリカのインディアン

ヨーロッパの白人による北米の征服は、中南米より1世紀遅れて始まった。
先住民のインディアンは伝統を守って平和に暮らしていたが、
白人植民者の侵入により運命が一変する。

当時、北米大陸に侵略してきた白人は、
イギリス人、フランス人、スペイン人だったが、
イギリス人と出合ったインディアンの運命が一番悲惨だった。

フランス人は毛皮に、スペイン人は貴金属に、
イギリス人は土地(領土)に関心があったからだ。

フランス人やスペイン人にとって先住民の抹殺はさほど得策ではなかった。
イギリスで食い詰めた移民たちは、
新大陸で広大な土地を入手できるという宣伝を信じこんで
太平洋を渡ってアメリカにやってきた。

そして先住民との土地争奪戦が始まった。
イギリス人はインディアンに無理やり契約書に署名させ、
合法的といって騙し、脅して、次々にインディアンの土地を収奪した。

1789年のアメリカ合衆国建国以来、
土地所有をめぐってインディアンと白人との間に結ばれた条約・協定は
300を超えたが、そのほとんどすべてが反故にされた。

当初の白人移民の飢えと苦難を救ってくれたのは
友好的インディアンたちだったのだが、
白人はその恩を仇で返したわけだ。

1830年、アメリカ大統領のジャクソンは、
野蛮人の一掃のためと称し、強制移住法を制定し、
すべてのインディアンをミシシッピー川以西に立ち退かせた。

ところがミシシッピー川以西に資源があるとわかると
白人の幌馬車はミシシッピー川を超えて西へ殺到した。
インディアンの命綱のバッファローを面白半分に撃ち殺しづけ、
約束違反を繰り返す白人にインディアンは激昂し、
西部を舞台に凄惨なインディアン戦争が繰り広げられる。
インディアンの武力抵抗は、結局、圧倒的に優勢な白人軍(合衆国軍)に
敗退し続けた後、1890年のウンデッド・ニーの虐殺事件で終了した。

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ウンデッド・ニーの虐殺(1890年)

白人はインディアンのスー族を包囲し、銃火を浴びせ、
ビッグ・フット酋長以下のラコタ・スー族の女性や子供を含む
約300名近くを虐殺した。死傷者の半数以上は女と子供であったといわれる。

ここに白人とインディアンの戦いは終わる。1890年12月29日のことであった。
白人の歴史では1890年はフロンティア消滅宣言をした年である。

しかしインディアンにしてみれば1890年は、
アメリカンインディアンが完全に征服された年である。

この虐殺事件について書かれたホームページは少ない。
理由はアメリカが隠し続け、それを公表しないためだろう。

残ったインディアンたちは自由の天地を奪われ、
狭い保留地(リザベーション)に閉じ込められた。
大東亜戦争中、アメリカが日系移民だけを強制収容所に
閉じ込めたのと同じ手法だった。

コロンブス(白人)がアメリカに到達)した頃、
北米の先住民の人口は200万~500万で、
そのうち80~90%が今のアメリカ合衆国に住んでいたと推計されている。

17世紀以降、植民地建設が進むにしたがって、
とくに合衆国での殺戮と、白人がもたらした伝染病などによって、
1890年ごろには35万人まで減ってしまった。
1924年にようやくインディアン市民権法が制定され、
インディアンは初めて人間として認められた。

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フロンティア消滅(1890年)

白人のアメリカ到達以来、
アメリカにはヨーロッパの白人入植者が東海岸から流入した。
白人たちは西へ西へと進みつつ先住民のインディアンを駆逐し、
さらにメキシコから広大な領土を奪った。

アメリカは他の西欧列強のように激しい植民地競争をする必要がなかった。
西には広大な土地があり、
わざわざ外に侵略地を求める必要がなかったからである。

ところが、19世紀末には白人の侵略は西海岸に到達し、
もはや開拓すべき土地がなくなってしまった。

1890年、アメリカの国勢調査局は、「フロンティアの消滅」を宣言、
アメリカの全ての土地に入植者が入ったことを認めた。
このことにアメリカの白人は失望した。
もはや開拓すべき土地がないという落胆はフラストレーションとなった。

そうなると新たなフロンティアを見つけるしかないので、
アメリカは太平洋の島々に進出し始めた。
こうして1897年にはハワイを強奪、
1898年には米西戦争の勝利でグァム島とフィリピンを獲得。
激しいフィリピンの独立運動を鎮圧して
1901年ついに完全な植民地とすることになる。

他の島々は同じ白人国家であるイギリス、フランス、オランダの植民地
であり、アメリカは白人国家に割り込むつもりはなかったので
スペイン以外は戦争をしかけなかった。

こうしてアメリカは支那大陸に進出するのみとなった。
そこでアメリカがやったのが、門戸開放宣言、鉄道王・ハリマンの
南満洲鉄道共同経営提案、
ノックス国務長官の満州鉄道中立化提案などである。
2010/03/28 06:00|年表リンク用資料
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