正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

ホーム 全記事一覧 << カンボジアPKO 欧米の植民地支配 >>
『女性天皇問題』は歴史の知恵に学べ

国際派日本人養成講座 Japan On the Globe(416) より転載
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog416.html

■1.「愛子様、おかわいそう」ケース1■

21世紀の最初の年にお生まれになった愛子様も、
世紀末が近づく頃には80代の老境に入られていた。
うら若き頃から女性皇太子となり、
第127代天皇になられる事が決まっていたため、
妙齢になっても配偶者に恵まれず、子も孫もいない寂しい毎日だった。

愛子天皇の前には8人10代の女性天皇がいたが、
天皇が亡くなられた後に皇后が即位された場合(*1)か、
生涯独身を通された場合(*2)のみで、
女性天皇として夫を持たれた例は日本史上、一人もいない。
愛子・天皇も自らが望んだわけではなかったが、配偶者には恵まれなかった。

*1 第33代・推古天皇、第35代・皇極天皇(第37代斉明天皇)
*2 第44代・元正天皇、第46代・孝謙天皇(第48代・称徳天皇)、
第109代・明正天皇、第117代・後桜町天皇

父・天皇が皇太子の時代に、
皇太子妃として母を選んだ際にも大変だったと聞いている。
まして、史上初の「女性天皇の夫」などという立場には、
まともな男性はみな尻込みしてしまった。

秋篠宮の眞子(まこ)様、佳子(かこ)様は、皇室を去られて、
民間人男性と結ばれ、孫達に囲まれて幸福な晩年を過ごしている。
それが皇室に生まれた女性の定めなのだ。
私もその定めに従っていれば、同じように幸せに暮らせたはずなのだ。

愛子天皇はそんな不満も口には出さずに、日々の宮中祭祀や、
重要行事への臨席、外国からの賓客のもてなし、
そして年に何回もの海外公式訪問と、
息つく暇もないほどのお勤めを果たされていたが、
すでに80代のお体には大変な負担だった。

■2.老女性天皇の孤独■

しかし、最大の悲しみは次代天皇となるべき皇太子がいないことだった。
現在の皇室には、愛子天皇ただ一人しかいない。
127代も続いた皇室が自分の代で断絶してしまう、と思うと、
日の本の民の幸福を祈り続けてきた歴代の天皇様方に
なんとお詫びしてよいのか分からなかった。

どうしてこのような事になってしまったのか、他に道はなかったのか。
愛子様が生まれた後、他に男子の世継ぎが生まれなかった事から、
政府は皇室典範を改定して、女性も天皇になれるようにした。

しかし、その女性天皇が配偶者を持てない場合、
あるいは、持ったとしても皇子に恵まれなかったら、
後継問題を一代先送りしただけに過ぎない。
そこまできちんと考える人がいなかったのである。

老女性天皇が覚束ない足取りで、
海外公式訪問の飛行機のタラップを登られるその背中に、
そんな深い苦しみ、悲しみがにじみ出ていた。

多くの国民もそれを感じ取って、「愛子様、お可愛そう」と感じたが、
ことここに至ってはなすすべもなかった。

そしてただ一人皇室を守る老女性天皇に象徴されるかのように、
日本全体も高齢化が進み、活力を失っていった。

■3.「愛子様、おかわいそう」ケース2■

21世紀の末期、80代の愛子天皇は思いやりの深い夫と、
お子様達、お孫様達に恵まれ、多忙な公務をこなしながらも、
充実した日々を送られていた。

それも学習院時代の同級生と結ばれるという幸運のおかげだった。
お相手は立派な人格と見識を持った青年で、
裕福な一族からは「財産も十分あるのに、
何を好きこのんで『天皇の夫』などという不自由な身分になるのか」
と猛反対されたが、当時皇太子だった愛子様との愛を貫き通して、
ついに結婚にまでこぎつけたのである。

愛子天皇のご長男はすでに50代。
皇太子として、時に老境の母天皇に替わって、
外国公式訪問などの公務を担われていた。
いかにも篤実な風貌と思いやりに満ちた言動は、
海外でも"Prince of Japan"として人気を集めていた。

しかし愛子天皇の悩みは国内にあった。
一部の国内勢力は、今の皇太子は「女系の男子」で、天皇になる資格はない、
というのである。

■4.「男系」と「女系」■

「男系」とは、父親か、あるいは父親の父親というように、
男親を辿っていくと天皇につながる家系を言う。
愛子天皇は父・先帝陛下の娘なので「男系の女子」である。
前章で言及した8代10人の女性天皇もいずれも父親が天皇であるから
「男系の女子」である。

「女系」とは母親や祖母など女親を介して天皇につながる家系を言う。
愛子天皇の長男は「女系の男子」である。
過去、8代10人の女性天皇はいたが、
それらの方々が皇室外の人間と結婚して、子をなし、
その女系の人間が皇位についた先例はない。

また天皇の娘が皇室外の人間と結婚した場合は、皇族からは離れられる。
「万世一系の皇統」とは、このように実に126代に渡って、
「男系による継承」が一度の例外もなく忠実に守られてきた事実を言う。

愛子様のご長男が即位すれば、その伝統が破壊されるのである。
「女系で天皇に即位した例はない」と「女系反対」の主張は
マスコミを賑わした。史実に基づく主張だけに、保守派も反論できなかった。

すでに次代の男系が絶えた今、女系の即位が認められなければ、
次の天皇はいない。天皇制は自然消滅となる。国民はようやく気づいた。
21世紀初頭にマスコミは女性天皇賛成論で賑わい、
その勢いで皇室典範が改定されて
愛子様が皇太子から女性天皇となるレールが敷かれた。

その上で、今度は「女系反対論」である。
女性天皇を二階に上げておいて、梯子をはずしてしまう戦術である。
「女性天皇賛成論」とは本音では天皇制廃止を目論む左翼や
フェミニスト達の戦術だったのか。

いずれにせよ、愛子天皇のご長男をめぐる論争で、
皇室の権威は深く傷つけられ、国民の一体感も失われていった。

■5.「女性天皇」論議には、その次の天皇を議論する必要■

畏れ多い事ながら、現在論議されている「女性天皇」が実現した結果として
起こりうる未来をシミュレーションしたのが、上記二つのシナリオである。
国民の間には「過去にも女性天皇がいらっしゃったのだから、
愛子様が即位されてもおかしくない」「男女平等の時代ではないか」
という事から、女性天皇を容認するムードが強い。

しかし、愛子天皇の後継者を考えておかなければ、
単に問題を先送りしただけに終わってしまう。

過去の8代10人の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者が存在し、
その中継ぎとして即位されたものである。
たとえば、歴史上最も近い時代の女性天皇は、
江戸時代中期の第117代・後桜町天皇(在位 1762~1770)である。

第115代桜町天皇の皇女としてお生まれになったが、
異母弟であった第116代桃園天皇がわずか21歳で病没された時、
その皇子がまだ4歳であったため、
成長されるまでの中継ぎとして伯母にあたる後桜町天皇が即位された。

「女性天皇がいらっしゃった」という史実から
「女性天皇で良い」と結論するのは早急に過ぎる。
「女性天皇はいずれも男系男子の後継者がいらっしゃった」
という点を踏まえて、愛子天皇の後継者はどうなるのか、
という点も考えておく必要がある。
それを考えると、上記の二つのシミュレーションのように、
いずれも暗い結果が予想されてしまう。

■6.皇統の「安全装置」■

史実を踏まえるなら、現在のように、愛子様の世代で男系男子がいない場合、
我々の先人はどうしたのか、という事も調べておく必要がある。
さすがに125代も続いている皇室の歴史には、
このような危機が何度もあり、実はそれに対する「安全装置」は
すでに皇統に組み込まれているのである。

前節で紹介した後桜町天皇は、
甥の後桃園天皇が12歳になられた時に譲位された。
しかし、後桃園天皇がこれまた21歳で病没されしまい、
その年にお生まれになった皇女・欣子(よしこ)内親王しか
残されていなかった。

この時に、第113代東山天皇の曾孫(ひまご)にあたる
閑院宮家のまだ8歳の祐宮(さちのみや)殿下を迎えて、世継ぎとした。
第114代・光格天皇である。
光格天皇は欣子(よしこ)内親王を皇后に迎えられている。

光格天皇と先代・後桃園天皇とは7親等もの隔たりがあり、
家系は約百年も前に分かれている。現代の感覚で言えば赤の他人である。
しかし、何親等離れようと、男系である以上、皇統はつながっており、
皇位につくことができる、というのが、わが国の伝統的な考え方であった。

同様なケースは、第26代継体天皇、第102代・後花園天皇にも見られる。
継体天皇は、先代・武烈天皇が崩御されたとき、皇子も兄弟もなく、
約200年も前の第15代・応神天皇の6世の子孫にあたる57歳の
男大迹尊(おおどのみこと)が越前から迎えられて、即位された。
先代とは10親等も離れている。
後花園天皇も、先代・称光天皇が28歳の若さで崩御されたとき、
二人の皇女しかいなかったので、8親等離れた立場でありながら、
跡継ぎになられた。

■7.「万世一系」のY染色体■

このように直系の男系男子がいない場合は、どれほど離れていようと、
傍系の男系男子を選んで、世継ぎにするというのが、
皇室の伝統的ルールであった。
逆に、男系男子の後継者はいるが、まだ幼いので、
成長するまでの中継ぎをするのが女性天皇の役割であった。

しかし、我々の祖先は、
なぜそれほどまでに男系男子にこだわったのだろうか。
それは血筋とは、男性によって伝えられる、
という信仰があったためであろう。これは迷信だろうか?

現代の遺伝学は、それに相当する法則を発見している。
性染色体はX染色体とY染色体の2種類があり、
男性はXY、女性はXXからなる。
この二人から生まれたこどもは、父親のX、Yのどちらかと、
母親の2種類のXのどちらかの組合せを持つ。

男の子は父親のYと母親のどちらかのXを持つ。
したがって、Y染色体は代々男親から男の子へと
かならず継承されるのである。
女の子はX染色体しか持っていないから、将来他の男子と結婚して、
男の子を産んでも、その子のY染色体は自分の父親のものではない。
だから女系ではY染色体は伝わらないのである。

「万世一系の皇統」とは、今上陛下や皇太子殿下、
秋篠宮殿下が持たれているY染色体が、遠く後醍醐天皇や天智天皇、
聖徳太子や日本武尊、そして初代・神武天皇まで遡ることができる、
という厳然たる事実なのである。

愛子天皇が一般民間人と結婚されて設けられた女系男子が即位したら、
この万世一系のY染色体の系統が断絶してしまう。
2千年もの間、我々の先祖がなんとか維持してきたこの伝統を、
我々の世代が無知ゆえに破壊することは許されるのだろうか?

■8.「安全装置」としての宮家■

現在の皇室に男の子が生まれず、男系男子が途絶えるような場合は、
どうしたらよいのか。
上述したように我々の先祖は解答を示してくれている。
傍系で何親等離れていようと、
同じY染色体を持つ男系男子を探し出して
皇位を継承して貰えばよいのである。

いや、探し出す必要はない。
こういう場合に備えた「安全装置」として戦前は11の宮家があった。
遠く室町時代に創設された伏見宮家の系統であるが、
男系として皇室と同じく神武天皇以来のY染色体を継承されている。
戦後、占領軍の命令で皇籍離脱を強制され、今は民間人となられているが、
現在も8宮家が存続し、久邇(くに)、賀陽(かや)、朝香、東久邇、
竹田の5家に男系男子がおられることが分かっている。

これら男系男子を持つ旧宮家は皇族に復帰していただき、
万一、今後とも皇室に男系男子がお生まれにならない場合は、
旧宮家から男系男子を次々代の天皇としてお迎えする、というのが、
わが国の伝統に沿ったあり方である。
さらに、光格天皇の時のように、
愛子様(かなわなければ、眞子様、佳子様)には、
その方の皇后陛下になっていただければもっと良い。

60年も前に皇籍を離脱した旧宮家の復活などというと
時代錯誤から考える向きもあろうが、
そもそも旧宮家の廃止じたいが皇室弱体化を狙った占領軍の
指導によるものであり、日本の歴史伝統に反した行いであった。

また宮家創設にかかる費用を心配する人もいるが、
現在の国家予算からは宮家当主に3千万円程度、
妃殿下にはその半額が支払われているに過ぎない。
1家5千万程度で5家復活したとしても3億円にも満たない。
せいぜい官僚30人分程度の費用でしかない。

宮様が増えれば、安全装置としての役割以外でも、外国の賓客の応対や、
慈善団体や公共団体の名誉総裁など現在の皇室のご負担を軽減しつつ、
いっそうの充実を図ることができよう。
30人程度の官僚とは比べものにならない効果が期待できる。

■9.愛子皇后と日本の幸せ■

21世紀も暮れようとする頃、ある宮家から迎えられた
第127代天皇と愛子皇后のご一家は、幸福な生活を送られていた。
皇太子殿下はすでに50代になられ、
天皇のご名代としてしばしば外国訪問もされて、国際的にも敬愛されている。

民間から上がられた妃殿下との間にもうけられた二男一女の皇孫殿下たちは、
それぞれすでに成人されて、
福祉団体や学術団体などの名誉総裁の役職を果たされている。

老壮青三世代そろった賑わしい皇室の動きに刺激され、
国民の各年代層も活発な活動を続けていた。
老人層は学術研究や芸術に精を出して、世界中で活躍していた。

壮年層は最先端の科学技術と洗練されたデザインから生み出される車や
家電製品などを生み出し、"Japan Cool"として、
世界市場で尊敬される地位を築いていた。
若年層は国際的なボランティア活動やスポーツで、
日本の存在感を際だたせていた。

また皇室が参加される自然保護や伝統文化保存の活動も盛んになり、
日本列島は美しい自然の中に豊かな文化を保存する国として、
環境破壊に悩む各国の見習うべきお手本とされていた。

世界の各国民は、改めて2千年もの間、
日本国民が代々の先祖から継承してきた皇室制度という
深い知恵を羨むのだった。

【百地章】女系論を検証する[桜H22/4/1]


皇位継承問題を考える[桜H22/2/25]


皇位継承問題、竹田恒泰氏と語る[桜H22/3/19]


日本人が知らない天皇の価値と役割
http://specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/tennouheika.html

マッカーサー回想記
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist4_5_6.htm
※1964年に出版されたDouglus MacArthur著Reminiscencesの中で
昭和天皇との最初の会見の様子を記したP288を和訳。
訳文は昭和39年1月25日付の朝日新聞より引用。

天皇は落ち着きがなく、
それまでの幾月かの緊張を、はっきり顔に表していた。

天皇の通訳官以外は、全部退席させた後、
私達は、長い迎賓室の端にある暖炉の前に座った。

私が、米国製のタバコを差し出すと、天皇は礼を言って受け取られた。
そのタバコの火をつけて差し上げたとき、
私は、天皇の手が震えているのに気がついた。

私は、できるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、
天皇の感じている屈辱の苦しみが、
いかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた。

私は、天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、
自分の立場を訴え始めるのではないか、という不安を感じた。

連合国の一部、ことにソ連と英国からは、
天皇を戦争犯罪者に含めろと言う声がかなり強くあがっていた。
現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、
天皇が筆頭に記されていたのだ。

私は、そのような不公正な行動が、
いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よく分っていたので、
そう言った動きには強力に抵抗した。

ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、
私は、もしそんな事をすれば、
少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。

天皇が戦争犯罪者として起訴され、
おそらく絞首刑に処せられる事にでもなれば、
日本に軍政をしかねばならなくなり、
ゲリラ戦が始まる事は、まず間違いないと私は見ていた。

結局天皇の名は、リストからはずされたのだが、
こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。

(昭和天皇のお言葉)

「私は、国民が戦争遂行にあたって、
政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負うものとして、
私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした。」

私は、大きい感動にゆすぶられた。
死を伴うほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする。

この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。
私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても、
日本の最上の紳士である事を感じ取ったのである。
(付記)
マッカーサー元帥は、側近のフェラーズ代将に、
「私は天皇にキスしてやりたいほどだった。
あんな誠実な人間をかつて見たことがない」と語ったと言う。
(当時外務大臣であった重光葵氏が、1956年9月2日、
ニューヨークでマッカーサー元帥を尋ねたときの談話による。

他にも、「一言も助けてくれと言わない天皇に、マッカーサーも驚いた。
彼の人間常識では計算されない奥深いものを感じたのだ」
〈中山正男氏、日本秘録98項〉
「この第一回会見が済んでから、元帥に会ったところ、
陛下ほど自然そのままの純真な、善良な方を見た事がない。
実に立派なお人柄である」と言って陛下との会見を非常に喜んでいた」
〈吉田茂、回想十年〉などの記録がある。 

マッカーサー元帥は、陛下がお出での時も、お帰りのときも、
玄関までは出ない予定であった。
しかし、会見後、陛下がお帰りの際には、
思わず玄関までお見送りしてしまい、
慌てて奥に引っ込んだ事が、目撃されている。
〈吉田茂、回想十年104項以降〉。

昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言


昭和天皇とマッカーサーの御会見
(1945年9月27日、東京都港区赤坂のアメリカ大使公邸にて)


昭和天皇の広島巡幸 (昭和22年12月7日)


大日本帝国憲法(明治憲法):天皇の軍隊統帥権の意味


小沢一郎氏は2009年12月に韓国国民大学で公開講演会をした際、
江上波夫(享年96才)元東京大学名誉教授が
戦後まもなく唱えた「騎馬民族征服王朝説」を根拠に
「天皇家は韓国から来た。」という内容の話をしました。

江上波夫元教授の『騎馬民族征服王朝説』というのは、

日本民族は元来は騎馬民族で大陸から朝鮮半島経由で
日本列島に渡来して征服王朝を建てたという説です。

渡部昇一著『古事記と日本人』によれば、
渡部昇一氏が江上波夫の講演を「日本文化会議」の月例会で聴き、
「古事記や日本書紀に、馬に乗って活躍する英雄が一人も
出てこないのはなぜですか」と質問したところ、
江上波夫は答えることが出来ず、この講演内容は印刷されませんでした。
つまり、江上波夫氏は、『古事記』や『日本書紀』を確認せずに、
「騎馬民族征服王朝説」を唱えていたことになります。

―――――

以下、杉並区長の山田宏氏も公式ホームページより引用
http://www.yamadahiroshi.com/report1_d.shtml?98:0

小沢一郎氏の言う「日本の天皇は、朝鮮半島の南地域の権力者の末裔」説
は、かつて一世を風靡した「騎馬民族征服説」を
あえて紹介したようですが、
これについては、かつて渡部昇一先生からこんなエピソードを
聞いたことがあるのでご紹介して、
この説のいいかげんさを指摘しておきたい。

本説を唱える東京大学の江上教授に渡部昇一先生は講演のあとの質疑で
こう質問されたそうです。
「朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族が日本を征服して大和朝廷をつくった
と言うお話ですが、しかしそれならば、なぜ日本最古の歴史書の
「古事記」や「日本書紀」に馬が全く登場しないのでしょうか」
「えっ?登場しませんか?」と江上教授。
「はい。馬が登場するのは一カ所。天照大神が機を織っているところに、
怒った弟の須佐之男が馬の生皮を投げつける場面だけです」
「そうですか。。。それは困りましたね」

―――――

日本における馬具の出土例を見ると、騎馬の風習は5世紀末以降です。

穴沢和光・馬目順一『武器・武具と馬具』には
馬具革命が
【1】鏡板及び引手付き轡の出現(三世紀ごろ)、鐙の考案(四世紀初頭)
【2】鐙が左右に吊される(五世紀前半)
【3】後輪傾斜鞍の出現(六世紀初頭)の3段階で緩やかな文化受容だったと
述べられています。
日本における馬具革命は、騎馬民族の征服によって一気に
起こったのではなく、段階的で緩やかな発展だったのです。

―――――――――――――――――

日本人に謝りたい
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-374.html

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

男系男子

皇位の継承とは、全ての天皇の父をたどれば最初は神武天皇になるという
2679年も厳然と続いてきた男系維持の伝統である。

これまで皇位継承の危機は4回あった。
全部同じ方法で乗り切ってきた。

1回目は、25代武烈天皇に皇子も男兄弟もなく、
武烈天皇崩御の後しばらく空位が続いた時のこと。
この時、25代武烈天皇とは10親等の隔たりはあるが、
200年以上さかのぼって15代応神天皇を共通の祖先とする
男大迹王(おほどのおおきみ)が即位して継体天皇になられた。
なお、継体天皇は、武烈天皇の姉・手白香皇女を皇后にされた。

2回目の皇統断絶の危機は48代称徳天皇の時で、
この時には8親等隔てた
光仁天皇が皇統(絶対法則である男系継承)を引き継いだ。

3回目の皇統断絶の危機は101代称光天皇の時で、
この時には8親等隔てた102代後花園天皇が皇統を引き継いだ。

4度目の皇統断絶の危機は118代後桃園天皇の時で、
この時には7親等隔てた119代光格天皇が皇統を引き継いだ。

上記の4例は、いかに先人が苦労して
男系維持の伝統を守ってきたかを示す代表例となっている。

したがって、日本の伝統を守るためには、たとえ200年以上さかのぼっても、
たとえ10代さかのぼっても皇統(男系継承)を維持しなければならない。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

明治以降の日本は世界最高水準の自由な民主主義国家であった!
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-261.html
先帝陛下(昭和天皇)に戦争責任はない。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-263.html
大東亜戦争までの内閣
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-524.html
新日本建設に関する詔書 (いわゆる「天皇の人間宣言」)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-620.html
★復興への3万3千キロ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-355.html
『女性天皇問題』は歴史の知恵に学べ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-320.html
2009/06/20 09:00|年表リンク用資料
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦.