正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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中国軍の清野作戦(=三光作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)掃討作戦)

中国軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、
民家から食糧など奪える物を奪ったあと、家屋を全て焼払う
「三光作戦」(=清野作戦、焦土作戦、燼滅(じんめつ)作戦)を行なっていた。
(逆らう者は殺害された)

三光とは、搶光・焼光・殺光をさし、
奪い尽くす・焼き尽くす・殺し尽くすの意味である。

井戸には毒を入れる事もあったため、
日本軍は井戸に「ぼうふら」が浮いているかどうかで
毒が混入されているかどうかを判断することもあった。

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「満州」と「支那」を区別するために「中国」表記はしていません。
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支那軍は、上海~南京、
また、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と
南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。
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●ラーベ
1937年11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、
ひどい略奪が行われたという。
済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。
日本人の進攻を防ぐため。

●第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、
沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、
また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し・ホ・破壊した、
支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。

●第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、
蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、
蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、
住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める。

●第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、
稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、
それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。

●ミニー・ヴォートリン(南京)
1937年12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、
きのう句容へ行ってみたが、
人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。
中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、
そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
1937年12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、
これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。
軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

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1937年12月7日、中国の焦土作戦
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『南京大虐殺の徹底検証』 東中野修道著 P45~46

蒋介石は焼き払い(清野)作戦を徹底的に遂行した。
南京の東の鎮江はかつて人口20万人を数えた江蘇省の旧省都であった。
しかし日本軍の迫るや、鎮江は支那軍の放火により、炎と包まれた。
12月8日付の『ニューヨーク・タイムズ』は鎮江が「廃墟」となったと記す。
この自暴自棄的な清野作戦を、
12月8日南京発のダーディンの特電は次のように伝えた。
―――――――
防衛地帯内の障碍物が支那軍に焼かれ続けた。
昨夕焼かれたものの一つに中山陵園地区内の支那高官の高級住宅があった。
南京の周りは立ちのぼる黒煙に包まれた。
半径16キロ以内の建物や障碍物もまた昨日支那軍に焼かれ続けたからだ。
車で前線に行くと、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを、
本紙特派員は見た。

中山陵沿いの幹線道路を走って孝陵衛に行くと、
そこの村は焼け落ちて、燻(くすぶ)る廃墟であった。
この数日間に避難しなかったそこの住民たちが、
哀れにも僅かばかりの物を持って、ぞろぞろ南京へと歩いていた。
そして時々立ち止まっては、かつての我が家を今一度見るため
悲しそうに振り返っていた。

焼かれたのは南京の東だけではなかった。
南京は、西と北に揚子江が流れる。日本軍は上海から南京に向かっていた。
従って、南京の東と南で戦闘が起こるとは、衆目の一致するところであった。
そこで、住民の強制退去後に、
南の人口密集区域の中華門(南門)周辺が焼かれた。

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『報道戦線から見た「日中戦争」』 西岡香織著 P118~119

陥落前後の南京市の内外が大混乱に陥ったのである。
その模様を『南京戦史』収録の内外の新聞記事等で見ておきたい。

ニューヨーク特電 7日

「首都陥落を前にして、支那軍は7日も南京市外10マイルの地域内にある
全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は
全て焼払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。

記者(ダーディン)は自動車を駆って南京市東部の戦線へ視察に赴いたが、
中山門を出ると総理陵苑の彼方の低地は一面猛火の海と化しており、
焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、
僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、
よろめきながら城内指して逃げ込んで来る」

―――引用おわり―――――

この焼け出された人たちは中国政府によって焼け出されたのであり、
日本軍の仕業ではない。しかし狡猾な連中はこういう場面の一部分を
切り取り、あたかも日本軍が行なったかのように宣伝する。

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『南京大虐殺の徹底検証』 東中野修道著 P45

『ニューヨーク・タイムズ』 1937年(昭和12年)12月7日 南京発 特電
テイルマン・ダーディン記者
―――――――
湯山と南京の間、公路沿いに、
だいたい1マイルおきに堡塁 (ほうるい) が設けられている。
首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。
敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。
ある谷では一村が丸々焼けていた。
(略)
湯山地区では少年雑役兵が数多くいた。
少年たちは年齢10歳から12歳、軍服姿の正規兵で、
伝令、運搬、炊事といった仕事をしている。
ときには最前線で戦争をゲームのように楽しんでいるように見える。
―――引用おわり―――――

少年兵が軍服を着用している限り、それは戦時国際法違反ではなかった。
下記動画に、投降してくる中国少年兵が映っている。(1:30~)
なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?


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南翔堅塁脆くも陥つ 【1937年(昭和12年年)11月12日 朝日、園田特派員】

かつては前敵総司令陳誠が駐在し
江南戦線を指揮した敵の中央根拠地南翔は十二日完全に我が手に帰した。
記者は和知、浅間両部隊の奮戦地である約8キロ余の新戦場を辿り
占領直後南翔駅から鎮内に一番乗りした。

つい先程まで前方で物凄い銃砲声が盛んに起っていたのにぴたりと止んだ、
丁度南翔の南方4キロ余の地点姚家屯の部落に差し掛かった時だ。

この一帯が敵の最後の陣地で頑丈な掩蓋壕と戦車の進行を防ぐ
幅一間余の戦車壕が3キロ余に亙って掘られてある、
それから進むともう陣地らしい陣地はない、

この最後の線を抜かれてから敵は周章し其處此處に敵が陣地を
築き掛けているが我軍の追撃が急なため壕も半分堀り掛けて
潰走している有様で如何に両部隊の追撃が激しかったかが窺われる。

★戦いが終ったというので避難していたこの付近の農民は
「支那兵は恐ろしいが日本兵は無茶をしない」
と三々五々打ち連れ早くも我家に帰って来て進軍する我が将士を
道端に土下座をして迎えていたが、
★中には住家を支那兵のために焼かれたり壊されたりして
大声をあげ号泣しているものもあったのは哀れであった。・・・・・

駅から南翔の市街までは石畳のモダンな並木道路が約100メートル、
南翔の市街は北南2キロ、
その中央より稍北寄りに東西両方に街が伸び飛行機型をなしている。
人口は約五万といわれているところ、
★十字型に流れているクリークの橋は悉く支那兵によって破壊されている。

北南のクリークに沿って鎮内を進めば爆撃と砲撃で
町並の家屋が潰され支那人の姿は一人もない、・・・・
★目抜きの商店街に入れば足の踏場もないほどの乱雑さ、
支那兵が敗走する行きがけの駄賃に手当り次第に掠奪して行ったのだろう、
鎮内はまだ敗残兵が潜伏しているというので我兵が掃蕩に努めていたが
天井や竈の中に潜んでいる敵兵が続々と発見されていた。

鎮内には敵の陣地らしいものは全くないが
一歩東方の街道に踏出すとこれが所謂南翔陣地で、
幅20メートル余のクリークに鉄条網をズラリと張りめぐらし
小南翔までの間は塹壕が三重四重と続いている、文字通り難攻の堅塁である。

―――――――――――――――――

南市・南翔完全に占領
【上海東日大毎特電 1937年(昭和12年年)11月12日発】
南市の敵は左翼分子の小児病的指導に
マドリッドの如く守れと煽動されてなお抵抗するので、
我軍は空軍と共に敢然猛撃を浴せ遂に十二日早暁城内を占領掃討中である。

★支那軍は常套手段により各所に放火したため、火災は各所に起っている。
住民は上海四周の支那軍の敗退により平和裡に南市の明渡しを希望していた
にも拘らずこの混乱を招来したので、
南市死守を豪語した支那軍と警察局長蔡勁軍は全く怨府となっている。

これにより大上海の敵は消滅したが、
この指導に力を注いだ抗日共産分子の多くは租界に遁入したものの
漸次租界内の取締が厳重となるにつれ脅威を感じている。

一方全戦局は日本軍に続々有利に進展し北方にては京滬線の南翔駅を陥れ
次いで南翔鎮も12日早朝我が手に帰するに至った。

西南方面では杭州上陸は長駆青浦を陥れ
更にその北方に進出澱山湖畔に達した模様である。
かくて羅店北方揚子江岸より滬杭甬鉄道嘉善付近まで
蜿蜒50哩に亙る一帯は皇軍の支配下に入った。

暴戻な支那軍虐殺に上海の中心街は惨又惨、眼を蔽わしむる修羅の巷だ。
カセイ・ホテルの階段は血に染まり花崗岩の四壁には随所に血潮が飛散り、
東洋一といわれた華麗なホテルも今や全く見る影もない。

『各社特派員決死の筆陣「支那事変戦史」』 後編 (昭和13年12月7日発行)

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『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』
(昭和52年)私家版の片山兵二著

以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様。

「どうも油断がならなくてね。
昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、
良民から金品を強奪して行きました。
そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」
(347頁)
大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る、湯山の南の句容の状況。
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、
主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、
火あぶりにしたが、それが丁度、
憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、
今朝二手に分かれて討伐をやったのです。
・・・奴らの残忍性にはあきれます。

農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、
憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、
農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、
そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、
お茶を出して歓待してくれますよ」
(349頁~350頁)

『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著(小学館文庫)より

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戦場手記 『征野千里』
中野部隊上等兵 谷口勝著 新潮社(昭和13年12月発行) より抜粋
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進軍しながら石原上等兵が、
「おい、さっきの山のトーチカを見たか」と言った。
「そんなもの見とれるかい」
「いや、わしは見たがな、どれだけわしらがトーチカを抜いて
後へ廻っていても射ち続けていやがったろ。その筈だ。
奴ら三人足を鎖で結わえられていたぞ。
弾薬をトーチカ一杯につめられてなァ――」
憮然たるものがあった。
「射つより他に仕方なしさァ」
大軍は南京へ、南京へ! と驀進する。

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1938年、両角大佐、「足鎖」の少年兵に激怒

『日中戦争5』 児島襄著 文春文庫 P39~40
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9月2日には、無事に黎家集についた。
苦労したのは第13師団である。
葉家集の中国軍は頑強に抵抗し、第104連隊第2大隊は、
1日から2日朝までかかってようやく部落を占領した。
部落には、師団の「10ヵ月分」の飯米が遺棄されていて、
報告をうけた第103旅団長山田栴二少将は拍手して喜んだ。
第104連隊の左側の第65連隊も開順街を守る約300人の
「犠牲兵」の抵抗にてこずった。
ようやく突破してみると、ひとつのトーチカ陣地に、16、7歳の少年兵が
足を鎖で支柱に結びつけられ、手榴弾で自決している姿が発見された。
捕虜の説明によると、「足鎖」は少年兵自身の希望によるもので、
死守の覚悟が動揺して逃げてはならぬとの自戒のためであった、
上官もその嘆願にしたがって少年兵の足に鎖をまき施錠した、という。
だが第65連隊長両角業作大佐は怒った。
たとえ、少年兵が望み願ったにせよ、そのような異常事を許すのは、
指揮官として欠格である。
「非人道もはなはだしい。鬼畜にもまさる敵軍の将校どもだ」
大佐は怒りと哀悼の意を涙でにじむ双眼で表明しながら、
酸鼻な少年兵の屍体に黙祷した。

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『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著(1938年)P188~P190

1937年8月14日、中国軍は、上海の国際租界を爆撃し、
多くの民間人を殺害した。

中国軍、外国人区域を爆撃

8月14日に中国軍の爆撃機が国際租界のパレスホテル
及びキャセイホテルの近くに爆弾を投下した。
この付近は極東でも最も有名な簡易宿泊街であり、100人以上が死んだ。

8月16日、中国軍は別の通りを爆撃し、
数名の外国人と中国人を死亡させた。

8月23日、中国軍機は再び国際租界を爆撃。
上海最大の商業施設シンシアー及びウイン・オンデパートを直撃し、
200人以上の死者と200人を負傷させた。
ニューヨーク・タイムズの2人の特派員がこの負傷者の中に入っている。

8月30日、中国の爆撃飛行隊が
米の大型定期船プレジデント・フーバー号を爆撃。
5人の水夫と2人の乗客を負傷させ、その中の1人が数日後に死亡。

このような中国軍の爆撃の及ぼす影響があまりにも深刻であったので、
ニューヨーク・タイムズの上海特派員が
8月27日付で次のような声明を発した程であった。

中国軍が無責任な空爆を行って上海の国際租界と仏特権区域の
無力な民間人を殺すのを防ぐための、
武力手段或いは他の抑制措置をとることに、
外国の領事館員及び陸海軍の軍人が合意するならば、
何等かの国際的措置をとることを決議しなければならない。

外国人区域に対する中国軍の度重なる攻撃の目的は一体何なのか?
その問いに対しては唯一の答えが可能である。
即ち中国は日本に対する外国の干渉を
煽り立てようと計画していたのである。

日本は自分から攻撃に出るのを厳しく抑えているのに、
中国は国際租界を自分自身で攻撃することによって
日本に対する国際干渉を引き起こそうと目論んでいる、
というのは一見したところ奇妙なことのように思えるかも知れない。

実際、ニューヨーク・タイムズの特派員が
8月27日付で報じたように、
黄埔上の米、英、仏の戦艦に精密機器を携えて
乗船していた外国の陸海軍の観察者たちは次のように証言している。

日本軍は上海の避難区域の上空に爆撃機を飛ばせたりしない
という自らの誓いを堅く守っているのに対し、
中国軍はそのような誓いを立てるのを拒んでいる。

中国は次のように推論していた。
即ち中国軍によるものであれ日本軍によるものであれ、
この戦争の残忍な性質とそれが外国の権益に及ぼす深刻な影響を
列強諸国に印象付けるような如何なる行動も、
中国に対するよりも寧ろ日本に対する反応を引き起こすであろう、と。

何故ならば南京政府が観察していた通り、
世界の世論は既に日本を敵視する方向に固まっていて、
中国は世界の同情の対象になっていたからである。

第二次上海事変


『シナ大陸の真相』K・カール・カワカミ著 P255~P257

8月15日(ママ、14日)に
中国軍の飛行機が国際租界のキャセイホテルと
パレスホテルを爆撃した時、中国政府の宣伝広報局は、
この爆撃は日本軍のものである、というニュースを流した。

ワシントンポストの上海特派員マーク・J・ジンスボーグ氏は、
「24時間以内にこの宣伝広報局は重大な訂正を発表し、
我々特派員スタッフの完璧なる調査によって、
問題の爆撃機は日本軍のものではなく
中国軍のものであることが判明した、
ということを内外に通告した。」と書いている。

さらにまた8月22日(ママ、23日)、中国軍機は国際租界を爆撃し、
この時にはシンシアーデパートとウィン・オンデパートに被害を与えた。
この時も同様に中国の宣伝広報局は、
この爆弾は日本軍機から投下されたものであると発表した。

ニューヨーク・タイムス上海特派員は
中国側の検閲を避けて真実を伝えるため、
この爆撃に関する特電を上海ではなく香港から発信した。
彼が香港から発信した8月27日付の特電の一部は次のようである。

「上海の国際租界及び仏特権区域に居住する無力な一般市民を、
中国軍が無責任に空爆したり殺害したりするのを防ぐために、
武力手段または他の抑止策をとることについて
何らかの国際的な合意が必要であるということは、
上海在住の外国の領事館員や
陸海軍スタッフ達の一致した見解となっている。」

この特電は中国の検閲の不満を漏らして次のようにも述べている。

「中国の検閲官は発信された外電やラジオ通信から
前述の事実や意見を削除した。
そして場合によっては
外電のニュースそのものを変えてしまいさえもした。

その目的は、現地の外国人達があたかも心の中で、
この爆弾はおそらく日本軍の飛行機から投下されたものかもしれない、
と疑っているかのように見せかけるためだったのである。
だがしかしこれは明らかに真実ではない。」

さらにまた9月6日付香港発信
ニューヨーク・タイムズの特電は同爆撃について、

「中国軍は、この爆弾は日本軍機から投下されたものである、
と宣伝することによって責任を拒否した。
しかしながら今や、これらの爆弾は両方とも中国が伊から
購入したイタリア製のものであることが判明している、
この判明した事実について、
米英の現地の海軍調査官の意見は一致している。

そしてイタリア当局もこの爆弾が自国製であることを認めている。
これは決定的な証拠であるように思える。
何故ならばイタリアは、日本がイタリアから
そのような軍需物資を購入したことは一度も無い、と証言している。」

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中国の便衣兵、督戦隊(とくせんたい)、清野戦術
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1938年(昭和13年)11月13日、長沙焚城(長沙大火)
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非道の中国軍から中国人を守った旧日本軍
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日本人の武士道精神
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