正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日韓併合_関連資料

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全般
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◆◆◆李氏朝鮮時代◆◆◆
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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

首都の第一印象(李氏朝鮮時代)

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。
礼節上2階建ての家は建てられず、
したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。

路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、
荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、
おまけにその幅は家々から出た個体
および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。

悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、
土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、
犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。

路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めた
けばけばしい色の飴を売る行商人もいて、
溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。

こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、
通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓が
あって人間の住まいだと分かる…
かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、
通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。
在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある…
おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ…
大量の干した海藻と干しきのこといったもので、
その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった
外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、
どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。

黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品には
ときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、
デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
(中略)
南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。
周囲の山々は松の木立が点在するものの、
大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。

こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。
城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、
林も広場もなく、単調きわまりない。

この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と
灰色花崗岩の王宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。

東の城門から西の城門へと広い通りが市街を貫き、
この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。
中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。

常にじゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、
ほかの街路は屋台店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない…

しかし何百本とある、もっと狭くてしかもその幅が
軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違うがやっとだ。

何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、
黒ずんだ排気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、
動くものはあまりない。

どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。
よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。
犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。
また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。
朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。
夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。
飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。
若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。

昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、
全員が下層階級の人々である。
朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。

おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。
ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。

8時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、
女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。
私が到着したのもそんな時間帯であり、まっ暗な通りにあるのは、
もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけという
異様な光景であった。

ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、
そして処方箋を持って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。
投獄を免れるためにこういった肩書をかたる場合は多く、
長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。

12時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、
男たちはまた自由に外出できる。
ある地位の高い女牲は、
昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。

夜間の静けさはきわめて印象的である。
鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人の気配がない。

通りに面していて、
なおかつ明かりのともった窓というのがほとんどないので、
暗さも徹底して暗い。
静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音には、
不吉ともいえる響きがある。

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◆◆◆日本統治時代◆◆◆
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『京城ローカル・春の巻』 1938年 京城ローカル社
(『ソウル都市物語』 川村湊 2000年 平凡社新書より)

街の表情(京城)三越前から

カールもあざやかなモガ(モダンガール)が
足をのばしてぺーブメントを踏む、水々しい高島田を真白い顔に乗せて
ゲイシャガールが人力車に乗つて悠々と行く、
チマをスカート風にきりつとさせて、
ハイヒールの朝鮮の娘さんが颯爽と行く、
白いツルマキを着込んだオモニーがゐる支那人がゐる、
アメリカ人がゆくそしてまた、彼氏彼女がゐる。

まこと本町は流れる人の波に明けて暮れる。
あの狭い、ウナギの寝床みたいな街といふなかれ、
大阪なら心斎橋通りといつた感じではないか。

先づ本町をブラブラしやうといふ者は、
定石に従へば電車も自動車も鮮銀と三越と郵便局とに囲まれた広場に降りる、
この辺りは京城のセンターである。
ビルディングがずらりと南大門通りの街をつくつて、
近代的文化都市らしい香ひを発散、南大門方面から来た電車は、
黄金町から東大門行と鍾路から東大門行とがチャンポンにチンチンいはせる、
北へは長谷川町が大平通りに抜ける。
(中略)
「デパート」といふ言葉は現代人の感覚に快い響きを伝へて魅惑的である。
数百といふ美しい結婚適齢期のショップガールが、
明るい照明の売り場に水々しいフルーツのやうな新鮮さで
溌剌と商品の渦の中を泳いでゐる。
丘のやうに積まれ、手際よく飾られた商品のモードが
それぞれ媚態的ポーズで演じ出すデモンストレーション…

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アメリカ人による日本の朝鮮統治の評価
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「日本・アメリカ人にとっての鏡」 ヘレン・ミアズ 1948年
(「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)

1894年7月29日に、韓国におけるわが代表であったシル氏は、
次のように書いている。

日本は韓国に対して非常に親切に行動したいと思っているように見える。
日本は断乎、中国の統治権の軸を解き放って、弱小な隣国を援け、
その独立国としての立場を強化することのみを希望しているように見える。

即ち日本は、韓国国民に平和と繁栄と開化をもたらすような
諸改革の実行を支援しようとしている。

この動機は知識層の韓国官吏の多くを喜ばせているし、
また、アメリカでも不賛成なことはなかろうと私は思う。
(中略)
今日、日本による朝鮮『隷属化』を非難するのにあたって、
われわれは朝鮮において日本政府は、
例外的なぐらいにひどい植民地統治をやったという。

しかし、病院、学校、朝鮮人の政治への参与(地方行政の場合)、
通信、産業の発達、資源の開発など、
通常『進歩的』発達の標準として認容されている基準から判断すれば、
日本の記録は、通常の植民地母国の標準、
いや、はるかにそれに、立ち勝っていた。

今日、日本の朝鮮統治を非難する者はその根拠を、
日本の主要な目的が朝鮮大衆の福祉よりも、
日本自身の国家の安全の確保と経済的財政的福祉にあった、
ということに置くのだ。

しかし、そのような状態は、すべての西ヨーロッパ植民地母国によって、
当然なことと容認されているのである。

朝鮮において悪かったことは、日本の統治ではない。
植民地制度そのものであった。
1894年当時、アメリカ人のシル氏が日本の改革計画に賛同して、
『国民に平和と繁栄と啓発をもたらすもの』と評価したとき、
おそらく氏はこの人道主義的な言葉をまじめに書いたことだろう。
日本人は、朝鮮国民の『指導』の責任が
日本にあるとする理由を説明するのにあたって、
朝鮮のように長年の虐政でひどく痛めつけられた国民には、
『独立』などは不可能であるといった。
おそらく日本人はそのとき、今日、われわれが同様なことを口にしているのと
同程度に、真剣なことだったろう。

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「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社

李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。
統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生は
ほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、
港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。

それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)
ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、
地方の古老にも接して今昔を比較し、
天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。

朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、
産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。

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「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
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著者の鎌田澤(沢)一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、
京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、
6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、
農村振興運動の推進に大いに貢献し、
朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、
セマウル運動(新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの)
の指導のために何度も韓国に招かれている。
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カイロ会談やヤルタ秘密協定に於て、
台湾や朝鮮は日本の領土から離れては行ったが…
(中略)
永年の施政の歩み方が、スペイン、ポルトガル、オランダ等に
その端を発する西欧式植民政策のごとき、搾取弾圧にあらずして
培養と融和にあつたことをこの機会に於て事実を基礎とし、
数字の上に於て、科学的に認めるべきであると思ふのだ。
(中略)
生蕃(国家に服属しようとしない台湾原住民)と
マラリア蚊の棲む南海の小島台湾に、蕃民の宥和宣撫に成功して、
治安を確立し、電源を開発して生産を起し、
二期作の進歩的米作技術によって、莫大な米を増産するに至り、
尨大(ぼうだい)な砂糖産業を起して、一億に近い人口の砂糖自給を完成し、
樟脳、薬品その他の輸出物資の科学的造成に成功、
現住島民の生活水準を著しく高め、
往年の瘴癘(しょうれい=熱病や皮膚病)悪疾の小島変じて宝島となり、
遂には蒋介石並びにその尨大なる国民軍を養ひ得、
中国共産党垂涎の的になっている台湾は、
トルーマンの後進国の未開発地を開拓して生産を起し、
当該住民の生活水準を上げて人類の福祉を増進すること
を半世紀の昔からすでに日本が実践して来てゐることの実証になるのだ。

台湾所属の決定がもし住民の自由意思による投票となるならば、
恐らくはその八割五分が日本へ投票するであらうと心ある台湾人が
言ってゐることは決して故なしとしないのである。

朝鮮は歴史的立場が根本から異なる為に、
決して台湾に於ける本島人(台湾人)の如き感情をもつことは
出来ないであらう。

しかし事態を公平に認める良心をもつ人々は、
併合前のあの混乱と貧窶(ひんる=貧苦のためにやつれること)な状態とに
比して日華事変勃発前までの平和と繁栄とが、
如何に朝鮮民族の生活を高度に上げたかを認めるに
吝(やぶさ)かでないであらう。

昭和7年国際連盟のリットン調査団一行が、
京城を訪れて宇垣総督と会見したが、
そのとき一行中のアメリカ代表マッコイ少将は、
初対面の宇垣総督の手を握るやいなや、
左の感想を洩らして挨拶に代へたのである。

「自分は昨夜来東洋における一つの驚異を発見した。
それは、今回の長い旅行における大きい収穫であった。
同時に、自分の今日までの研究不足をしみじみと愧(は)ぢている。
何であるかといへば、朝鮮に対する全般的な認識の相違である。
吾々は、朝鮮といふ所は、地理的には大体満州の延長であるから、
相変らず匪賊(盗賊)が横行し、産業も振るはず、
赭土(あかつち)色の禿山の下で、
民衆は懶惰(らんだ)の生活を送ってゐるものとばかり思っていた。
然るに列車が一度鴨緑江の鉄橋を越ゆるや車窓に隠見する事々物々、
皆吾々の予想に反し、見渡す山河は青々として繁茂し、
農民は水田に出て、孜々(しし)として耕作に従事し
平壌その他工業地帯の煙突は活発に煙を吐き、
駅頭に散見する民衆は皆さつぽりした衣服を纏(まと)い、
治安はよく維持せられていて何ら不安はなく、
民衆は極めて秩序正しく行動し、且つその顔に憂色がなく、
満州に比べて実に隔世の観がしたのである。
これはとりもなほさず、貴国の植民政策が妥当であつて、
歴代の総督が熱心に徳政を施された結果であることを
卒直にお歓びすると同時に、
今後における吾々の朝鮮観を根本より改めるであらう。」

とその言を著者はその席で聞いていたのである。

団長のリットンは英国人であるから苦い顔をして、ぢっと見ていたが、
由来率直なアメリカ人気質として、
そんなことにはお構ひなく正直に述べて笑っていた。

マッコイ将軍はその後陸軍をやめ、
極最近までアメリカにおける極東委員会の委員長をしていたのは、
そのころの満州や朝鮮の調査経歴の為であらうと思はれる。

マッコイ将軍の言葉の中の、まづ治安が確立し、
見渡す山河が青くなつたのは寺内(総督)の武断政治と植林政策の為であり、
水田耕作が拡大されて、もとの海中にまで稲が稔るに至つたのは、
斉藤(総督)・下岡の産米増殖企劃(きかく=企画)であり、
そのころ急に工業地の煙突から活発な煙を吐くに至った事実は
宇垣(総督)産業開発政策の為であつた。

併合当時僅か840万石の生産に過ぎなかった米が、
やがて2500万石を算するに至り、毎年平均800万石を日本内地へ移出し、
その代金で朝鮮の人々は安価で豊富な衣料、金物、雑貨
その他の生活物資を整えることが出来た。

又新工場が次々と設立されて行つたから、
世界一の自然増加をもつ人口をも吸収することが出来て行ったのである。

人口の自然増加の比率は、そのころ日本が世界一であったが、
その本土よりも朝鮮の方がやや高率であり、
併合時1300万の人口が、終戦当時3000万近くに殖えていた。

だから、日本にとつて人口問題の解決は、
朝鮮は全然その対象にはならなかったのである。

何故かならば日本人が朝鮮に住んでいる数と、
朝鮮人が日本に入国していた数とは、つねに匹敵し、
時に朝鮮人の方が優勢であったからである。

人口の急激な増加は、未開国に平和と産業を与へ、
衛生施設が上昇したときに起る現象であることは、今更言ふまでもあるまい。

その培養経済政策による生産の上昇は平均して200倍に達し、
鉱工品の如きは物によって500倍、5000倍に達し、
全くの無から有を生む尨大(ぼうだい)な生産品も現はれて来た。

ただ学校の数はいつの時代にも足りなかった。
由来朝鮮人は古い文化をもつことを誇りとする民族だけに、
教育についてはつねに熱心であった。

平和と安定がつづいたために勃然として教育熱が起こって来たが、
予算の関係と、高等遊民の問題とがからまって、
下は小学校から上大学に至るまで、
その拡張が朝鮮人の希望する様に出来なかったことは気の毒であった。

教育の為なら金はいくらでも出すといふ民風であったから、
私立学校を許せばまだまだいくらでも学校の拡張は出来たであらうが、
私学が民族主義と共産主義の温床となることを恐れて、之を極度に制限した。

従って根本的には培養と融和、一視同仁でありながら、
文化政治の基本となるべき学校問題で差別をつけ大学の入学比率を設けたり、
小学校の校舎や教師が足らず折角の向学熱を押へる様な
結果になって了(おわ)ったのだ。

但(ただ)歴代総督の教育方針は、まづ義務教育を一日も早く完成し、
徹底的に文盲退治をやり、その上高等教育を完全平等の域に進めるつもりで、
差別をしたり制限を設ける意図は全然なかったが、辛うじて
補給金で賄って来た予算の関係で漸進主義で行くより外に途がなかつたのだ。

歳入の基礎となるべき税金は、日本人に重く、朝鮮人に軽かった。
昭和12年度において内地における国民一人あたりの
課税額平均6円35銭8厘であったとき、
朝鮮人のそれは、只の88銭5厘であった。

又先進国が植民地における唯一の大衆課税であつた人頭税と塩税はとらず、
朝鮮人は本土の日本人よりも1俵1円5銭安い塩を嘗めることが出来ていた。

だから併合以来つねに朝鮮総督府の予算は赤字つづきで、
大体毎年平均1300万円位づつの補給金を出さなければ
均衡予算とはならなかったのだ。
時に3000万円以上の補給金を出したことも珍しくなかつた。

随つて国家予算に於て10数億、
民間投資に於いて50億を本国から持出していた。

かくて朝鮮の経済社会は、容易に資本主義の初期にすら達し得ず、
未だ搾取の対象にさえなっていなかった。
それは資本主義の前提である封建社会をもたなかったからである。

かかる段階に於いて終戦を迎へたのであったが、
国家財政の面と民間投資と民衆課税の実際から判断し、
日本の植民政策は搾取にあらずして、
未だ培養過程にあったと言ふことは出来るとともに、
その教育政策の如きも財政上最高の比率は出しても
せいぜい一面一校の完成位で、
朝鮮人の最も希望する教育方針が漸進主義となって了ったが、
それにしてもソ連や中国、印度、仏印(現ベトナム地域)、ビルマ、タイ、
蘭印(現インドネシア地域)等東欧や東南アジア諸国に比ぶれば、
朝鮮の普通教育は、その就学率に於いても
又文盲退治に於ても遥かに進歩していたということは出来るのである。

教育は漸進主義であつたが、一般の文化水準は急速に上昇した。
何分5000年の歴史を誇り、アジアの先進国を以て任ずる朝鮮民族である。
与ふるに平和と生活の安定を以てすれば、
文化を向上させる能力は充分にもつ素質はある。

その本来の素質を発揮させることが出来て35年間に
その文化水準は非常に高まり、
国際人としても次第にひけをとらぬ状態となりつつあったのだ。

さらに昔日の満州と同じく匪賊横行の朝鮮が、白頭山麓の山の中でも、
人跡未踏の小島に行ってもつねに枕を高うして眠ることが出来、
戸締りの必要も、夜警の必要もなかつた時代が顕現し、
李朝時代の惨酷な刑政に比し、一応人権の自由が尊ばれ、
ほっと安心して真面目に働ける時代が続いたことを回顧するとき、
愚かな総督もあり、失政百出の不満も勿論あるが、
大局より見て、日本の統治と朝鮮民衆の生活の関連性は、
決して搾取弾圧の連続ではなく、
培養と融和のゆとりある史的段階をもち共存共栄の実を挙げて、
マッコイ将軍の語るがごとく、
東洋の驚異が顕現していたことは、間違ひのない事実だ。

今次の動乱(朝鮮戦争)によって、地上の建設物、文化施設等の多くのものが
壊滅したとは言へ、残る有形無形の潜在力は、大きい復興の基底となつて、
その力を発揮すべく、尚今後虚心坦懐な協力によつて、生ずる生産の復興と、
貿易の振興は、必ずや日韓経済繁栄の素を作り、35年間の共苦労は、
決して無駄でなかったことを、
両国民が自然に覚る日が遠からず来るであらう。

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日本は朝鮮近代化のために多額の税金を投入し、その収支は赤字であった。
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「教科書が教えない歴史(4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社

大正時代に、石橋湛山というジャーナリストが調べたところ、
日本国民1人当たりの国家予算の支出は10円45銭であり、
植民地1人当たりの国家予算の支出は9円46銭でした。
両者の間にはほとんど差がありません。

両者の経済格差を考えると、
日本は植民地に大変な国家予算をつぎ込んだことになります。

それに対し、植民地から得られる収益は支出をはるかに下回りました。
つまり、日本は台湾や朝鮮から経済的利益を得ていたとはいえないのです。

むしろ、日本人は植民地を
本国並の水準に引き上げようと懸命に努力をしました。
これは、ヨーロッパ諸国が植民地から大量の富を収奪したのと大違いです。

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「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮の財政を支えつづけていた日本の補充金と公債

朝鮮総督府時代の朝鮮半島経営については、
今日よくいわれているような「日帝36年」の植民地収奪というよりも、
日本人の税金を注ぎ込むことによって、
朝鮮半島の財政をずっと支えてきたというのが歴史的事実である。

朝鮮総督府は、朝鮮人を圧迫したり、搾取したり、収奪したりというよりも、
税金を注ぎ込み、近代国家として育てようと奮い立っていたのである。

朝鮮総督府財政を支える財源については、
朝鮮国内の税金などの取入だけでは足らず、
その一部は公債によって支えられていた。

その公債の98%は、日本の金融市場からのものであった。
朝鮮の公債は、予算上の歳入不足を補填するいわゆる赤字公債ではなく、
原則として事業公債に限定され、
殖産興業に投資する公債であり、産業資金ともいえる。
この公債によって土地、資源の開発、殖産興業が進展した。

朝鮮半島は、海外からの借金によって国民経済を支えるという経済構造が、
終戦後、半世紀以上たって、OECDに加盟した今日に至っても、
ほとんど変わってない。

明治44年には、借金、公債が国家予算に占める割合は22%であった。
昭和5年には、公債の割合が6%まで低下したものの、
昭和20には18.4%となった。
(中略)
日本政府からの財政補充金には、
たとえぱ製鉄奨励金、増炭奨励金などもあり、
朝鮮半島はおんぶにだっこを続けていた。

各種補充金は、
昭和19年までに一般経費の補充金として4億3000万円程度に達していた。
それは朝鮮半島が貧しく、自力で開発ができず、
外債に頼らざるをえなかったからであるが、
今日に至っても、その構造はまったく変わりがないのではないだろうか。

鴨緑江、豆満江の架橋13ヵ所の予算は、じつは満州国から出たのであった。

今日までの「日帝36年」に対する批判は、
ほとんど朝鮮総督府が民度・民力の向上に
懸命な努力を続けてきた歴史的事実に触れることなく、
ひたすら日本人と朝鮮人との物質的な強弱の格差、
支配者と被支配者の関係のみを取り上げることを目的としている。
それはきわめて歪んでおり、歴史歪曲ともいえる。
朝鮮半島は、統監府時代から「保護国」として日本に保護されながら、
総督府時代に入りいっそう過保護にされつづけたのであって、
財政面のみならず、政治、経済、文化のあらゆる面にわたってそうであった。

「日帝36年」とは、植民地搾取という見方とは逆に、
日本国民からの"支援"で支えられてきたのだ。
併合以来、年に千数百万円から二千万円の一般経費補充金が、
朝鮮総督府特別会計に補填されつづけ、財政運営を支えてきた。

それは総督府の財政関係担当者が日夜奔走し、
機会のあるたびに帝国議会や大蔵省に働きかけた賜物である。
その補充金は、ほとんどが朝鮮半島の産業と国土開発、民生安定と
福祉向上に注ぎ込まれており、今日のODA援助以上のものである。

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「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮総督府は今日、「日帝36年」支配の象徴であり、
いわゆる「日帝」の
「七奪(国王、主権、土地、資源、国語、人命、姓名を奪ったこと)」
の先頭に立ったと批判され、
また、朝鮮近現代史研究といえば韓国、朝鮮人が
その「日帝」といかに英雄的な戦いをしてきたか、
という叙述ばかりとなっている。

さらに、朝鮮総督府は、評価すべきものは一つもなく、
「搾取」「迫害」「抑圧」「弾圧」「虐殺」
だけを行なったという批判もある。

朝鮮近現代史学者は、たとえば法治国家を目指した司法制度も、
朝鮮半島土地調査も、治山・治水事業も、鉄道・道路建設も、
朝鮮米増産計画も、ハングル教育政策も直視していないのだ。

朝鮮総督府が全精魂を注ぎ、その目標としてきたものは、
「朝鮮半島の近代化」であった。
朝鮮総督府の土地調査事業も、産米増殖計画も、農山漁村振興運動も、
北朝鮮開拓などもすべて近代化推進のシンボルであった。
朝鮮総督府が李朝末期の体制と弊風、少なくとも土地制度、租税制度の改正、
財政の破綻、官僚腐敗などの病巣を手術し、
ことに階級的身分制度――身分差別の撤廃、公私奴婢の廃止、解放、
女性再婚の自由保障、笞刑(むちうち刑)の廃止、
一族まで罪を被る罪人縁坐法の廃止など、法治社会の確立と個人の独立、
人格の尊重、などなどは、どの一つを取り上げても、
朝鮮総督府の開発独裁が必要であった。

両班に代表される朝鮮の伝統文化は、勤労を蔑視し、
無為徒食で怠惰な生活をもって聖人君子の道と考え、
それを民族性にまでするに至った。

この伝統文化を根絶しなければ、朝鮮半島の近代化は不可能に近かった。
だから、朝鮮総督府は、「弊風」と見なされる伝統文化を否定して、
新しい体制に立て直すことこそが、
新しい時代に生き抜くためになくてはならぬ方法だとした。

日本人は、李朝社会に「近代化」を教えたのだ。
「近代化」という言葉が適切でないなら、
「西洋の衝撃」といってもよいであろう。

明治維新以後の日本の「近代化」は、
日本列島から朝鮮半島を経由して、大陸まで到達したのだ。

ありし日の日本人にとっては、それはむしろ天命であり、
いわゆるその時代の使命感であった。
「善意の悪政」や「悪意の善政」などといわれようと、
その「同化主義」とは、文明開化時代の一つの理想であり、
それを天命として国家、民族の興起とともに、
近隣にも無理やりに押し売りしようとした。

しかし、私はそれをおせっかいだとは見ない。
仮りにそれが相手の意思を尊重していなかった「強制」であったにしても、
私は非難しない。
そういう時代だったのであり、場合によってはそれが必要だったからである。

朝鮮近代史を語る場合には、普遍的な論理ではなく、
一つ一つ個別な史実から論議していかなければならない。
少なくとも日本列島と朝鮮半島の問題に関しては、
時間のスパンをもっと引き延ばして、李朝朝鮮時代から分断後の朝鮮半島の
歴史に至るまでの間で「日帝36年」を振り返らなければならない。

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「親日派のための弁明」 金完燮 荒木和博・荒木信子訳 2002年 草思社

対韓請求権と対日請求権

日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、
朝鮮には60万の日本人が居住しており、
日本にはおよそ200万人の朝鮮人が暮らしていた。

朝鮮半島の38度線を境に北側にはソ連軍が、
南にはアメリカ軍が進駐し日本軍を武装解除させ、
占領地帯として軍政をはじめた。

この過程で米軍は、1945年12月19日に
「米軍政法令第33号=帰属財産処理法」を制定し、
韓国内にある日本の財産をすべてアメリカ軍政庁に帰属させ、
日本人はその財産を没収したのち日本に追放した。
北朝鮮でもおなじ措置がとられた。

日本人は故郷を離れて10年、
長くは30年以上苦労して基盤を築いた朝鮮半島から、
日本出身という理由だけで無一文の乞食となって追い出された。

日本は敗戦国であり、このような措置に抗議できるはずもなく、
1951年に日本の独立を決定したサンフランシスコ講和条約でも、
これについてなにひとつ抗議できなかった。

アメリカ軍政庁とソ連占領軍によって押収された日本人の財産は、
政権の樹立とともに韓国政府と北朝鮮政府に委譲され、
韓国ではこの財産に敵産(敵の財産)という名前をつけて
権力者が分けあった(敵産払下げ)。

敗戦後、朝鮮半島にいた日本人は長い歳月をかけて
築きあげた財産を奪われて日本に追放されただけでなく、
朝鮮人に殺害されることさえあった。
国そのものを喪失し、アメリカ軍の統治を受けていた日本は
こうした犯罪行為にたいして、ひと言も抗弁できず、
1952年にふたたび主権を回復したのち、
ひとつふたつと資料を取集し、ようやく実態を把握できた。

これはいってみれば35年間財産をわけずに
暮らしでいた夫婦が別れることになったのと似ている。
朝鮮が日本から独立するにあたっては、
取り決めるべき点を公正に話しあって合意に達する過程が必要だった。

だが残念ながら日本は発言を封じられた状態だったので、
一方的に日本側に不利な結果になったといえる。

その後、国交樹立のため韓日会談が開かれたとき、
韓国側ではこうした日本の立場に配慮し、
日本人殺害と財産剥奪にたいしては謝罪するか
あるいは最低限、遺憾の意を表明しなければならなかった。

そして私たちを朝鮮王朝の圧政から解放し、
多額の資金と人材を投入し文明開化させてくれたことにたいして、
公式に感謝の気持ちを伝えなければならなかった。

そのあとで日本人が納得できる誤ちを指摘し、また韓国人の誤ちも認めて、
たがいに信頼を築き理解しあってこそまともな交渉が可能なのだ。

しかし韓国側はこれまで自分たちの誤ちをまったく認めず、
朝鮮の文明開化と近代化にたいする日本の貢献と成果を無視したままだ。

むしろ朝鮮が被害者だと一方的な主張を述べたてるだけであり、
こういう状態では韓日関係の緊張が
緩和することを期侍するのは容易ではない。

日本政府はアメリカ軍政下にあった1949年から、
朝鮮、台湾、サハリンなど、奪われた領土の財政処理問題を調べはじめた。
この過程で専門家である鈴木武雄東大教授を呼んで意見を聞いたが、
鈴木教授の見解は日本の立場を公式に代弁するに足るものとして
内外で多くの理解を得て論議を呼んだ。その概略ははつぎのとおりだ。

日本の朝鮮統治が欧米強国の植民統治にも勝って朝鮮人を奴隷的に搾取し、
その幸福を蹂躙したという論告に対しては正当な抗弁の余地があると
私は信ずるのである。
否、強いて言うことを許されるならば、
事志(ことこころざし)と違った多くの失敗もあるが、
日本の朝鮮統治は、理想としては、
いわゆる植民地支配を指向したものではなかったのである。
(鈴木武雄「朝鮮統治の性格と実績――反省と反批判」
大蔵省管理局付属在外財産調査会
『日本人の海外活動に関する歴史的調査(朝鮮編(下))』第11分冊所収)

第一次世界大戦前夜、20世紀初頭の世界情勢並に世界思潮と
その時までおかれて来た朝鮮の状態――
即ち如何なる意味においても完全な独立国として
自立する力を有(ママ)たなかった朝鮮の状態を顧みるとき、
これは必ずしも日本のみが責めらるべき貪婪(どんらん・欲が深い)
なる膨張政策とは言い得ないであらう。(同前)

朝鮮の経済がこのようなミゼラブル(みじめで貧弱)な状態から、
併合後僅か30数年の間に今日見るやうな一大発展を遂げるに至ったことは
慥(たし)かに日本の指導の結果であると言うも過言ではない。(同前)
以上によって明らかな如く、朝鮮財政が臨軍費の一部を負担したことを以って
財政面における朝鮮の搾取を結論することは些(いささ)か早計である。

否、財政面においては、朝鮮に対する日本よりの援助は
差引プラスであることが注目せられねばならぬ。(同前)
(以上、原文はすべて旧字)

先ず指摘したい点は、
日本のこれらの地域に対する施政は決していわゆる植民地に対する
搾取政治と認められるべきでないことである。
逆にこれら地域は日本領有となった当時は
いずれも最もアンダー・デヴェロップト(低開発)な地域であって、
各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化は
もっぱら日本側の貢献によるものであることは、
すでに公平な世界の識者――原住民をも含めて――の認識するところである。

そして日本がこれら地域を開発するに当たっては、
年々国庫よりローカル・バヂェット(地方予算)に対し
多額の補助金をあたえ、又現地人には蓄積資本のない関係上、
多額の公債及び社債を累次内地において募集して資金を注入し、
更に多数の内地会社が、自己の施設を現地に設けたものであって、
一言にしていえば日本のこれら地域の統治は
「持ち出し」になっていたといえる。

……次にこれらの地域において長年にわたって
平和的な生業を営んでいた日本国民は全部放逐され、
日本資産は公有財産のみならず彼らの努力により
平和裏に蓄積された私有財産までがすでに事実上剥奪されており、
平和条約においてそれが確認されるのではないかと思われる点である。
割譲地の居住民及び私有財産にたいする
かかる苛酷な措置は全く国際慣例上、異例のことに属する。

……これらの地域はいずれも当時としては国際法、
国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、
世界各国とも久しく日本領として承認していたものであつて、
日本としてはこれら地域の放棄には異存がないが、
過去におけるこれら地域の取得、保有をもつて国際的犯罪視し、
懲罰的な意図を背景として、
これら地域の分離に関する諸問題解決の指導原則とされることは、
承服し得ないところである。
(外務省平和条約問題研究幹事会
「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」
国立国会図書館憲政資料室所蔵
『対日平和条約関係準備研究関係第五巻』所収、1949年)

鈴木教授の発言は論理性があり、
敗戦国である日本の鬱屈した立場をひとつひとつよく指摘している。
荒地と変わらない未開な土地を譲り受け、長いあいだ情熱をそそぎ、
教育をほどこし、社会体制を整備し、
莫大な金を投資して社会間接資本を構築した。

それなのに感謝の言葉もないどころか、犯罪だと非難されているのだから、
日本人の立場としては憤慨せざるをえない。
鈴木教授の発言は、敗戦後、日本政府の立場が
初めて内外に知られる契機となったが、
いまだに韓国ではこれを「鈴木妄言」と呼んで非難している。

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インフラ整備
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李朝時代の劣悪な道路・交通状況
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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

道はとにかく悪い。
人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、
ならしてない場合は、
でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。

たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行で
どうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。

橋のかかっていない川も多く、
橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、
7月はじめの雨で流されてしまう。
そして10月なかばになるまで修復されない。
地方によっては、川にさしかかったら
浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、
これには必ず危険と遅れがともなう。

首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえに
まず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、
もろい状態であることが多い。

山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に
丸石をばらまいたもの以外のなにものでもなく、
最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦(ソウルの外港)間のように、
ぬかるみの深さが1フィートから3フィートにおよぶ湿地帯がある。
こういったいまわしい乗馬道は、
わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつである。
(中略)
(朝鮮東部の都市元山へ向かう幹線道路を行く)道路が広くなると、
その中央には固まった泥の山がつづき、
両側には同じく固まった泥がうねになっている。
道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。

橋はとりわけ劣悪である。
あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、
どの川もじかに渡ったほどである。

それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所が
すべて悪路だったにもかかわらず、
東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。

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『朝鮮の政治社会』 グレゴリー・ヘンダーソン 鈴木沙雄・大塚喬重訳
1973年 サイマル出版会

英字新聞「コリアン・リポジトリィ」(1892年4月)は
平壌と大邱にはそれぞれ7万5千人が住んでいた
(ソウルに次ぐ人口)ことを報じているが、
ちょうどこの時期に大邱(テグ、慶尚北道中心都市)に住みついた
宣教師アダムス一家は、彼らの輸入した自転車が、
悪路のため思うように乗りまわせなかったことを記している。

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『鎖国の汎パラダイム』 金容雲 1984年 サイマル出版会

「港には桟橋がなく、人の背におぶさって陸にあがるほかない。
馬は跳び下りるため足を折ることが往々にしてある。」(朴斉家「北学議」)

この文の内容から察すると、李朝の末頃に至っても、
港はほとんど原始状態であったことを示している。
1854年、当時の香港総督が本国の外相に送った手紙には
次のような部分がある。
「……韓国は非常に衰退し悲惨な状態にある。
……通信は極悪、航行可能な河川はごく限られている。」

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李氏朝鮮では道路が整備されず交通網が発達しなかった。
そのため物資運搬のための荷車も運行できず、
物資はもっぱら褓負商(ほふしょう)と呼ばれている行商人たちが
チゲという背負子で運んでいた。それはあまりにも過酷な仕事であった。
―――――――――――――――――
『アリラン峠の旅人たち ―聞き書朝鮮民衆の世界―』
安宇植訳編 1982年 平凡社

ある旅行者はこの、歩行にかかわるこの国の交通事情について
次のように書いている。

都会の周辺を脱け出すともう、まったく道路の体裁は整っていない。
ほとんどが山野の自然の状態のままにおかれ、
人々に踏まれて自ずと作られた道路であるため、
道幅がすこぶる狭く、かろうじて牛馬を通すことができる程度しかない。

いわんや河川の状態を見るにいよいよ不便で、
橋梁の架設された所がきわめて稀なため、
やむをえず狭いどぶ川を素足になって渡らねばならない。
広いどぶ川には不安定ながらも飛び石伝いの橋や、
渡し舟があってどうやら素足になることを免れる、
といったていたらくである。

ひとたび夏の長雨にでくわせば、河川は氾濫し、
泥水が丘陵を覆い尽くし、波は矢のごとく広がっていく。

これはとりもなおさず、山村の荒廃したことに起因するもので、
そんな時に河川を渡ることは到底不可能なため、
旅人は虚しく堤防で右往左往し、水のひく日を待ちわびるほかない。
(中略)
彼ら(褓負商)はしばしば、山奥で虎に襲われて食い殺されたり、
堀に落ちて死んだりした…

(褓負商だった)尹求礼老人には左足の小指から3本は跡形もなく。
右足は親指しかの残っていない。
つまり左右合わせて3本というわけである。

けれども歩くことには熟達していたから、
今でも薪をたっぷり担いで運び出すそうである。

足の指は、冬場にしばしば凍てついた雪の道を歩いたうえ、
満足に凍傷の治療が施せないため、
一本また一本ともげてしまうのが普通だと語る。
―――――――――――――――――
朝鮮の冬はソウルあたりでも河川が凍結するほど厳しい。
褓負商は厳冬期だからといって仕事を休めるわけではないのである。

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鉄道の開通
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

李朝時代の朝鮮半島は、そもそも交通、流通が未発達な社会であった。
それも朝鮮の国家安全を守る鎖国攻策の一つであった。

『朝鮮交通史』によれば、主要幹線街道においてさえ、
辛うじて人馬を通しうる個所も少なくなく、
河川には橋梁の架設がなく、徒歩または渡し船に頼った。

道路事情が悪いため、旅行は徒歩、カゴまたは駄馬により、
貨物の輪送もかついだり、駄馬によるほかなく、
駅站の後を受けてできた郵逓局の逓送も駄馬及び歩行の両方法を用いた。
だから大量貨物の遠距離輪送はほとんど不可能であった。

朝鮮半島での日本の鉄道建設は、
「朝鮮人の抵抗を抑え込み、大陸侵略の橋頭堡」とするためとか、
「台湾での鉄道建設は南方侵略の南進基地」
云々という進歩的知識人の告発は多い。

日帝が朝鮮半島で道路建設を行なった真の目的とは、
日本軍の移動と穀物収奪、運搬、そして警備が主眼であった、
という見方もある。

あるいは交通網の拡充は、大陸侵略のための軍事的施設、
植民地収奪を強行するためにつくられたものといわれる。

いわく、鉄道は中国大陸侵略への「幹線」であり、
建設された第一級国道は軍用道路である云々。
日本人の鉄道建設への狂卉は、
それは軍事的考えや軍主導の下で進行されたものとよく指摘されるが、
それはそのとおりであろう。

列強諸国の時代では、鉄道はただの「産業開発」目的というよりも、
多元的な目的を持つことが当然だったわけで、
どの国家もそうであり、シベリア鉄道でもそうであった。

しかし、朝鮮半島では東西南北に貫通する鉄道の出現によって、
政治上、軍事上、社会上だけでなく、
人文地理的にも大きな変化が起こっていた。

それは今までの村社会に閉じ込められている自給自足の
原始的社会から脱却し、産業の発達、単一市場の形成だけではない。

日本から新しい、先進的な技術、資本(ヒト、モノ、カネ)、
さらに情報の流入があった。

近代社会として成長した人的交流と物的流通によって、
国土観も変わり、朝鮮人相互の紐帯を強固にし、
朝鮮人に一つの民族としての自覚をも与えたのである。

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李氏朝鮮の社会資本は無きに等しかった。
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

中央集権体制国家の中華帝国にならって、
さらに極端な中央集権体制を敷いていた「小中華」は、
すべての国富をソウルに一極集中し、牢固たる村国家をつくったものの、
国富のシンボルであるはずのソウルは、決して「栄華の都」ではなかった。
いかに時代の流れに取り残されていたのか、数多くの記録が残されている。

統監府時代に、京城控訴院判事として韓国政府に招耽された山口貞昌氏の
回顧(明治41年6月)によれば、赴任した当時、
「道路は狭隘で、しかも糞尿は至る処道端に満ちて居るという有様でした。
井戸水は混濁していて風呂に入れば茶色の湯で、
かえって体が汚れる様な感を催し、飲料水は石油の空罐一ぱい何銭で買って
使用するという状態で、電燈は未だ一般に普及せず、
我々の借家にはその設備がなくランプを使っておりましたが、
冬になると寒気が烈しいので、石油が凍ってだんだんと光が薄暗くなり、
仕事ができないほどでありました。」
(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会編)だという。

朝鮮総督府は、そのような社会に上下水道をつくり、
道路をつくり、近代都市をつくりあげたのだった。

もっと知らなければならないのは、
朝鮮の都市計画は、総督府の予算からではなく、
すべて日本の国家予算で施行したものであったことである。

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朝鮮半島の山々を甦らせた山林緑化事業
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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

1885年12月6日から86年2月29日にかけて、
ソウルから北部朝鮮をへてポシェートに至るまで
徒歩で踏破したペ・エム・ジェロトケヴィイチは、朝鮮について(李朝時代)

「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、
草も全て撚料のために刈り取られている」、

「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た」、

「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生は殆ど見られない」、

「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。
樹木は殆ど皆無で、燃料には藁と草が使われる」、(「朝鮮旅行記」)

などと記述している。

朝鮮半島の林野状況については、統監府設置当時では、
鴨緑江と豆満江流域などで原生林が見られる以外は、
はげ山が多く荒涼とした景観となっていた。

だから、はげ山といえぱ西にスペイン、東に朝鮮といわれたほどであった。
ではなぜ朝鮮半島が、あれほどの山野荒廃、基岩露出、
土砂流出という山河崩壊の惨状になったかについては、
気侯や地質上の自然原因と人為的原因があったと考えられている。

人為的原因については、乱伐といわれるものが原因で、
冬季の薪材の需要と林政の不備、戦争災害もその原因の一つである。
数百年来にわたる旱魃と洪水による悪循環によって、
いっそう山河と大地は荒廃していった。

朝鮮では古来、山林は個人所有を認めていなかったので
「無主公山」といわれ、民衆は木を伐り、
根まで掘っていくので荒廃していった。

朝鮮半島の荒廃した山野の復旧造林は、
明治40年代から営林署の設立によって行なわれた。
森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病虫害駆除、
森林組合補助、林業試験場の整備、地方庁職員の増員を行なった。

さらに愛林思想を育成するために、
農林当局は1911年から毎年4月3日に記念植樹を行ない、
それからの30年間で5億9000万本の植林を達成した。

朝鮮半島の山河崩壊を緩和、阻止するために、
禿山への植林と砂防工事が全国的に実施された。

『朝鮮半島の山林』(土井林学振興会出版)によれぱ、
大正7年(1918年)以降から昭和17年までの施工面積は
約17万7300ヘクタール、造林本数は6億622万4000本であった。

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経済
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『韓国人の歴史観』 黒田勝弘 平成11年 文春新書

韓国で「植民地近代化論」あるいは「侵略と開発」論を主導してきた学者に、
安秉直・ソウル大経済学部教授がいる。

安教授は研究者として、日本支配時代の功罪は実証的研究によって
冷静に認識されるべきだとの立場から、
「これまで韓国内で常識とされてきた歴史観の見直しが必要である」
と述べている(『SAPIO』1995年12月20日号)。

安教授によると「植民地時代の朝鮮では農業経済が安定し
工業生産力が拡充するなど、多くの発展があった。
それは自生的なものでなく日本の植民地開発による部分が大きい。
たとえばGDP(国内総生産)は1912年から37年までの
平均で4.15%の成長だった。これは当時の先進国の成長率を上回っていた。
それは植民地化の過程で日本が持ち込んだ貨幣制度、
土地調査などの近代的な諸制度、
そして港湾、鉄道、道路、電信、銀行などの
インフラストラクチャーの拡大によるものだった」という。

そして日本の植民地支配の開発的側面を過小評価してはならないといい、
「従来のような独立連動勢力を特権化する歴史観は、
反日感情への過大な配慮のため常にそういう傾向があった。
その弊害として韓国の世論が歴史の事実から目をそらすことになり、
植民地支配下において韓国人自身が
どれほどの発展潜在力をもっていたのかとか、
現代史における韓国経済の発展が近代史と
どれほどの関連性を持っていたのかなど、
客観的な研究と判断の余地をなくしてしまった」と批判している。

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李朝末、日清戦争の頃の朝鮮旅行記。漢江という川を舟で旅した話ほか。
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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 講談社学術文庫 1998年

通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、
旅程を大きく左右した。
日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。
銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、
しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する
穴あき銭(注*日本の寛永通宝のような貨幣)以外になかった。

この貸幣は数百枚単位でなわに通してあり、
数えるのも運ぶのも厄介だったが、
なけれぱないでまたそれも厄介なのである。

100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1頭がいる。
たった10ポンドなのにである!
わたしが旅行の前半に雇った舟はバラスト
(注*舟を安定させるために船底に積む重し)が穴あき銭で、
わたしは円の銀貨をつめたかぱんを持ち、
自分の運のよさをあてにすることにした。
そして今回の旅では、
それもまんざら役に立たないわけでもなかったのである。
(中略)
銀を穴あき銭に両替しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、
誰も銀など信用してくれないか、そもそも銀というものを知らないかで、
必需品がなにも買えなかった。

さいわい人口1850人の村マギョに着いたときは市の日で、
行商人がいそいそと銀35円を1円対3000枚のレートで
穴あき銭に替えてくれた。

穴あき銭を舟まで運ぶには6人の人手が必要で、
舟はまた重たい荷を積むことになった。
(注*1枚3.75gの中国銭と同じと仮定すると両替した35円分の銭10万5千枚は
394kgにもなる!!(爆笑) 1円銀貨35枚では0.94kgである。)
(中略)
ある大きな村でわたしたちは週に一度立つ市に出くわした。
地域の交易について調べてみるのは毎度のことで、調査の結果、
通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。

つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、
そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、
供給が地元の需要を上回る産業はないのである。

このような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。
平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない。

このような状況をつくった原因は、
朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運ぺないほど
貨幣の価値が低下していること、
清(シナ)西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、
ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないことである。
(中略)
首都ソウルにおいてすら、
最大の商業施設も商店というレベルには達していない。
朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである。

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労働
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儒教は商人や職人を卑しい職業とみなしたため、
李朝も商業や殖産を軽んじ、経済は停滞した。
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『世界の都市物語7 ソウル』 姜在彦 1992年 文藝春秋
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そもそも朝鮮の両班政治のもとで産業政策は農本主義であって、
商業というのは末業として賎視され、
その発展をできるだけ抑制する抑末思想が支配していた。
(末=まつ=大切でないもの、つまらないもの、の意)

商業というのは末利をうるための詐術によって
儒教的な醇風美俗を大いに乱すというのが、抑末思想の理屈である。

だから正当な商業利潤さえいかがわしい詐術による末利といい、
そういう末利をかせぐ商人たちを「謀利之輩」といって賎称していた。

したがってそういう末業を家業とする商人たちが誇りをもって
子々孫々にそれを伝えるよりも、売官買職などあらゆる機会をとらえ、
手段をつくしてでも両班身分への強い上昇志向を持たざるをえなかった。

このことは匠人(チャンイン・手工業者)の場合も同じであって、
チャンインが訛ったチャギは蔑視語になった。
両班政治のもとで匠人は、「身良役賎」といわれた。
身分は良人(常民)であるが、その家業は賎しいということになる。
技術軽視である。
もともと農業というのは、天候に左右され、
したがって天意に逆らうことには限界がある。

ところが商と匠は、そういう自然的制約を受けず、
自分の計算と技能による独立自尊的な生業である。
とりわけ儒教の抑末思想は、
商と匠の活動の障害になりこそすれ、プラスにはならない。

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李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「君子は労せず」と教えており、
額に汗して働く者を卑しんだ。
そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。
労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
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『悲劇の朝鮮』 アーソン・グレブスト
1912年 高演義・河在龍訳 1989年 白帝社

朝鮮の学者(両班)は、誰かうるさい人の目に労働と映りうることなら、
できる限りそれから遠ざかろうとします。

衣服を自分の手で着てはいけないし、
タバコの火も自分で点けてはいけません。

そばに手伝ってくれる者がいない場合は別にして
馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、また荒馬から落ちたとしても、
誰かがやってきて抱き起こすまでは地面に
そのまま倒れていなければならないのです。
両班は個人的な商売はやらないのですが、
その訳は商売というものがまさに労働であり礼に反するからです。

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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、
身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、
妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。

両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。
両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。

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『韓国人、大反省』 1993年 金容雲 徳間書店

李朝末期に韓国を訪れた西洋人がテニスをしている姿を見て、
時の皇帝高宗が、
「なんと哀れなることよ、この暑い日に汗を流して体を動かすとは。
下人にさせればよいものを・・・・』と言ったというエピソードがある。

また、李朝時代の絵画には、
むしろの上に横たわって長いキセルを口にくわえた両班が、
稲穂を片付けて働く農夫の姿をぼんやり眺めている場面がよく見られる。

このように労働を徹底して軽視した指導者たちの導く国の
ありさまはたやすく想像がつく。

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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

(両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。
なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、
彼らのほとんどが極貧におちいり、
強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。
すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。

しかし全ての者がそれを望み、
幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。

ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。
彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって
真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、
貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。

彼らはいつも借金で首がまわらず、
何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと首を長くしており、
それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、
それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。

宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、
厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、
いかなる労働に従事することも最後まで拒絶し通したものであった。

何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、
その代わり両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、
彼らは労働することを拒むのである。

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『30年前の朝鮮』 バード・ビショップ 1925年
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より

読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候(いそうろう)根性、
貧しさをつぶさに観察されたことになるが、
このために朝鮮の独立はきわめて困難で、将来を望むことが難しい。
(中略)
朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、
国民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。
健康な体格を持ちながら、
親族知己に少し富裕な人があればその家に居候して、
終日何一つの仕事もせずに暮らしている。
(中略)
居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。
京城市内の高官、裕福な人の家には、
屈強な大の男が相当の教育がありながら数十人となく寄食している。
三度三度の飯も食わしてもらえぱ、煙草一服も人のものを吹かしている。
見苦しい話だ。

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会社設立
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『韓国・朝鮮と日本人』 若槻泰雄 1989年 原書房

朝鮮総督府は株式会社を届出制でなく許可制としたが、
これは民族資本の活動を抑圧し、
日本資本の進出を容易にしたものとして非難されている。

これは民族資本の活動を抑圧し、
日本資本の進出を容易にしたものと非難されている。

そのような結果をもたらしたことは事実であろうが、
この措置は朝鮮人の経済活動の抑圧のみを目的としたものとは思われない。

他人の資本を広く集め、しかもその出資者は、事実上その経営に
関与できない株式会社は、社会、経済の発展していない所では
しばしば詐欺目的のため設立され、
あるいはそういう結果におちいることが少なくない。

総督府が許可主義をとった理由として
『株式会社の健全な発展を期するため』と述べているのは、
詐欺目的の乱立により、朝鮮民衆が被害を受ける恐れがあることと、
株式会社制度そのものが、信頼を失うことを心配したことにもよろう。

植民地統治は、その社会は未開であり原住民の知識水準は低いというのが
前提であるから、植民地統治の初期において、みだりに株式会社を作らせない
という方針はそれなりに合理性をもっているのである。

明治初年、日本も株式会社制度を導入した際、当初は免許主義をとっており、
1899年の商法制定の折、準則主義、
すなわち用件が整っておれば誰でも設立することができるようになった。

朝鮮でも統治開始10年後の1920年、
許可主義は届出主義となり、経済活動の可能性は法律上は平等化されている。

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

事実上、農耕民族の朝鮮人は、
株式会社組織という伝統も理解も理念もなかった。
今日にいたっても株式会社というより家族会社が主流である。

他人といっしよに会社をつくらないだけでなく、
つくってもすぐ騒動が持ち上がり空中分解してしまうのであった。

当時、財政顧間として農工銀行の株式を整理した関係者によれば、
当時の朝鮮人のほとんどが株式会社とは何たるかを知らなかったし、
民族資本云々という話どころではない社会なのだという。

株式は募集ではなく、各地方の面長(村長)が
それぞれの地方有力者に債券を割り当てて会社をつくったぐらいで、
当時の朝鮮社会では他人といっしょに会社をつくるなどということは
もってのほかであり、朝鮮人で独自の事業計画を立てて、
会社令によって申請した人は一人もいなかった。
(『日本統治下における朝鮮の法制』友邦協会)

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『日韓2000年の真実』 名越二荒之助 平成9年 国際企画

さまざまな政策を実行するための財源として、
日本政府は併合直後から毎年1000万円から1900万円の補充金を
一般会計から朝鮮総督府特別会計に補給し続けた。

日本は産業振興にも力を入れ、
併合後20年にして、工業製品出荷額は約16倍になった。
工業の種類も軽工業中心から重化学工業中心へと徐々に移行し、
昭和15年には工業生産額のうち重化学工業の占める比率は57.8%にも達した。

こうした産業を興すためには資本(資金)が必要であるが、
官民とも疲弊していた朝鮮側はその資本をほとんど準備できなかった。

必然的に産業資本は90%までが日本本土からの投資であり、
朝鮮民族資本の蓄積によるものは僅か10%にも至らなかった。

企業はボランティア団体ではないため、出資者にその利益が廻される。
このため、日本は本土の大会社を進出させて
朝鮮から経済的搾取を行なったと批判されるのだが、
それではどうしたらよかったのか。
日本が資本を投下せず産業を興さなければよかったのか。

どちらにせよ、農業振興や産業育成などによって
朝鮮の人々の生活水準は徐々に上がり、
大正9年には法人所得税をはじめて徴収できるまでになったのである。

(併合時の韓国の国民経済は破綻しており、
朝鮮人から税金を取ることもままならぬ状態にあった。
このため日本は併合後、10年間所得税を免除した。)

このように日本からの多額の投資・援助や指導によって、
朝鮮は飛躍的に近代化し、国民生活も僅かずつながらも豊かになった。

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教育&ハングル
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韓国のネット掲示板に韓国人が日本統治時代の小学校の参考書の画像をアップ
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-642.html

日本人(福沢諭吉)が初めて漢字ハングル混合文を考案して
ハングル活字を作り、日本人(井上角五郎ら)が
1886年に初めて漢字ハングル混じりの新聞『漢城週報』を発行。


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ハングル・朝鮮史教育
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『朝鮮とその隣邦』 イザベラ・ビショップ 1897年
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より

朝鮮人は、自分に固有のハングル文字を軽蔑して、
中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな国民である。

政府の公文書はもちろん、普通の手紙にも、
会話の間にも努めて中国文を模倣して使用し国粋というべき語学上
もっとも発達したハングルは婦人と子供と、
下層階級が使用するものときめ込んでいる。

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『朝鮮の歴史と文化』 姜在彦 1993年 明石書店

民衆や女性にも習いやすいこの文字を諺文(おんもん・俗文)としてさげすみ、
漢字こそが真書であるといって尊重したのは朝鮮の儒者たちの悪弊ですが、
そのような傾向は「訓民正音」(ハングルのこと)が
制定された当初からありました。

集賢殿副提学(王立アカデミー副学長といったところ)
崔万理らの反対上疏がそれです。
そこには六つの反対理由があげられていますが、

その基本は『歴代の中国では、わが国をもって
箕子(伝説的な箕子朝鮮を建国した中国渡来人)の遺風があり、
文物礼楽が中華に比肩するといっているのに、いま別に諺文を作るのは、
中国を捨てて夷狄(野蛮人)と同じくなる。』ことだというものでした。
(中略)
ハングルの受難はその後も続きました。
酷かったのは、この文字が創制されてから50余年が過ぎた
燕山君(在位1494~1506)の時のことです。
彼は李朝第十代の国王ですが、暴君として悪名高く、
その横暴を誹謗した文書がハングルで書かれていたために、
それを教えることも学ぶことも禁止したのです。

またハングル本およびハングルによる訳文も集めて焚書することを命じ、
ハングルを使用した者も、それを告発しない者も、厳しく処罰しています。

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愚民政策社会を変えた日本人の教育熱
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「韓国人の『反日』台湾人の『親日』」黄文雄 1999年 光文社

韓国人は、もともと日本人と同じように
教育水準が高かったと考えている人が多い。

しかし、それは大きな間違いである。
日本は、江戸時代からすでに藩校や寺子屋がかなり発達し、
大衆教育が普及していた。

しかし、朝鮮半島は、書堂も学堂も普及していたと思われがちだが、
そうではない。
李朝時代には、漢文教育が主流で、
ハングルは一顧だにされなかっただけでなく、禁止されていた。
両班以外の庶民の教育は反対されていた。

そもそも漢字漢文は一知半解の文字体系で、
漢学の大家はもっばらその文意の読解に、
なぞなぞを解くようにその、生涯の全精力を費やしていた。

ことに両班階級の場合は、
わざと漢字を煩雑にして、庶民が読めないようにしていた。

漢字が庶民や奴婢にかんたんに読まれたら、
権威がなくなり、たまったものではないからだ。

だから儒教文化圏は、韓国にかぎらず、
その社会構造が基本的に愚民社会を前提にしている。
科挙のための勉強が中心となり、
読み書きできない人びとが多いのが定評である。

二十世紀に入ってから、辛亥革命以後の中国では、
国民学校教育が提唱されたが、真っ向から反対するのが文人であった。
彼らに言わせると、一般大衆まで教育を受けたら、
農民も労働者も文字が読めるようになり、
それこそ「斯文掃地」(文化が地に捨てて掃いたものとなろう)と、
こぞって反対していた。

朝鮮半島の書堂で教えられていたものは、漢字の読み書きだけであった。
ハングルの使用が解禁されてから日は浅く、
文章として体系化されていないので、
漢字・ハングル混じりの文字体系を確立するには、
百年単位の歳月をかけなければならない。

それだけではない。
農民も働き手の子どもが学校にとられるのを極力反対して、
校長が父母を説得するのが大変であった。
それは台湾でも同じであった。
今世紀の初めごろ、朝鮮半島のみでなく、
台湾でも教育を受けたとみられる学齢期の児童は
数パーセントしかいなかった。

李朝朝鮮は、書院、学堂があったが、
教育を受けられるものは、ごく少数でしかなかった。

ことに女性は、小学校に入れただけでもエリート中のエリートであった。
在日朝鮮人1世は、7~8割が読み書きできなかったことについて、
たとえば姜在彦の『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫73ページ)
でも認められている。

教育普及率の数字から比較してみても、
日本の開国維新以後の日本、台湾、朝鮮半島、中国の教育普及の雁行現象は、
一目瞭然である。

しかし、日本人が朝鮮で教育を普及させたことを認めたとしても、
その教有の目的は、「愚民教育」にあると主張するものも少なくない。
なんと非論理的な、ただの言いがかりであろうか。

儒教文化圏の愚民政策社会に教育を普及させたのは、
日本の教育熱であることを忘れてはならない。
それは論理で論じられるものではなく、
数字で語られなければならない問題でもある。

朝鮮語は、東北、西北、中都、西南、東方、済州島の
六つの大方言区分に分かれ、
李朝時代には、言語的にはけっして統一されてはいなかった。
そこで、朝鮮総督府は、朝鮮語を体系化したのだ。

両班は漢文・漢語を中心に、諺文(おんもん)、諺語を排斥、軽蔑していた。
ソウル語を標準語として、漢字、ハングル混じりの文章を体系化したのは、
統監政治以後の日本人言語学者と教育学者を中心とする
専門家の努力によるものだ。

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朝鮮総督府の教育が、ハングルを普及させた。
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『韓国 堕落の2000年史』 崔基鎬 平成13年 詳伝社

初めて民衆に八ングルを替及させたのは、日本だった

ハングルは李朝が滅びるまで、諺文(オンムン)と呼ばれて、
女や子供のための文字として蔑まれていた。
エリートである両班たちは慕華思想に凝り固まっていたので、
漢文しか使わなかっった。

ハングルは1443年に、李朝4代目の世宗王のときに
考案された独自の文字であったにもかかわらず、その後、李朝を通じて、
国字としての正統な地位が与えられることがなかった。

これは日本がカナを公文書にも用いたのと、対照的であった。
もしハングルが日本のカナと同じように使用されたとしたら、
民族として自立的な意識を強めて、
中国という妖怪を崇める慕華思想の呪縛から脱することができただろうが、
そうならなかったのは残念なことである。
日本の独特なカナは、日本の文化的独立を強める役割を果たした。

ハングルが全国民に教えられるようになったのは、
日帝時代になってからのことである。

韓日併合の翌年の1911(明治44)年から、
総督府によって朝鮮教育令が施行され、
初、中、高等学校で朝鮮人、日本人の生徒の区別なく、
ハングルを必修科目とすることに決められた。

もちろん、朝鮮教育令は朝鮮人を、
忠良な日本国民に仕立てることを目的としていた。

私が日帝時代に小学校へ通っていた時は、朝鮮語がよくできる日本人教師は、
月2円の加俸があった。当時の1円は今日の日本円の数万円に相当しただろう。
もっとも、昭和10年代に入ってから「皇民化教育」が強められると、
日本語が強調されて、ハングルが教えられなくなった。
だがハングルをはじめて韓国民に教えた総督府の功績も、忘れてはならない。

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「醜い韓国人 <歴史検証編>」 朴泰赫 加瀬英明 1995年 光文社

◆朴

欧米諸国の植民地で、あれほど多くの学校を建立し、
庶民にまで教育を受ける機会を与えたのは、例がありません。
植民地の民衆に、あれほどの教育の恩恵を与えた国は、
日本しかなかったと思います。
日本が唱えた「内鮮一体」は、まったくの嘘ではなかった、と思いますよ。
もっとも、韓国人のなかには、当時、日本が「内鮮一体」といいながら、
多くの学校を建てたのは、「愚民化政策」のためだった、
という人が多いんです。
しかし、小、中学校から、高等専門学校や、京城帝国大学のどこにも、
「愚民化政策」といえる点は見いだせませんし、
韓国に渡った日本人が、自分たちの子供を同じ学校に入れたんですから、
まさか、「愚民化教育」を受けさせたはずがなかったでしょう。
小、中学校は、日本人と韓国人の子弟向けに分かれていたものの、
同じ教課を学んだのだったし、
私の田舎の小学校にも、日本人の子供たちが通っていましたよ。

◆加瀬 

日本は、台湾にも、韓国にも、多くの小学校をつくりました。
それに、台湾も、韓国も、日本の一部であって、
欧米のいうような植民地だという意識がなかったんですよ。
心ない差別があったことは、事実です。
しかし、「一視同仁」ということが強調されましたし、
同胞という考えかたが、強かったんです。
もっとも、こういった考えかたが行きすぎて、
戦時色が濃くなった1930年代後半から、
上から性急な「皇民化運動」を強いることになってしまったんですね。
韓国をとれば、日韓併合のときには、
公立の普通学校(小学校)は、100校に満たなかった、
総督府のもとで、まず3面に1校というと、
3つの村ごとに1校建設することを計画し、1913年までに実現しています。
当時の朝鮮には、ざっと2500の面(村)がありました。
つぎに、一つの村に小学校一つをつくることを目標にしましたが、
1936年に計画が完成しました。
太平洋戦争が始まった翌年の1942年に、1面2校を自標として掲げました。
そして、全土でおよそ5000校の小学校が、つくられました。

◆朴

教育だけをとっても、日本は植民地時代の他の宗主国と、
まったく違っていました。
今日の韓国の近代国家としての基礎が、
日本統治時代に築かれたことは、否定できません。
これが、もし、ロシアの一共和国となっていたとしたら、
いったい、どうなっていたでしょうか。
かつての旧ソ連の辺境にあった共和国と変わらなかったことでしょう。
今の韓国の若者たちは、わが国の歴史も、
ハングルも書堂で教えていた、と思っています。
李朝時代の韓国は、中国をひたすら崇めて、
自ら「小中華」と称していることを誇りとしていました。
ハングルは、婦人や子供が使う字として、蔑まれていました。
今日でこそ、「ハングル」は発音のまま読み書きができる、
世界でもっとも合理的で、科学的な文字だといって、誇っていますが、
ハングルは日韓併合以前は、公文書にも、祝祭祀文にも、
まったく使われなかったんですよ。

◆加瀬

総督府は、このうえの中学校用の「高等朝鮮語読本』も、発行していました。
これは、5巻です。
私がこの教科書について、新聞に話したら、
横浜市に住んでいるK氏から手紙を貰いました。
K氏は日本人です。
K氏は、昭和10年に全羅南道麗水邑の小学校に通学したが、
「ハングル」の授業があったということでした。
そして、昭和7年に韓国の小学校を卒業した。
知人の当時の通信簿の写しを送ってくれました。
それが、修身、算術、国語、歴史、地理から、
職業まで全課目が「甲」なんですが、
「朝鮮語」という欄だけに「乙」と記されていました。
K氏は手紙のなかで、「日本の教育は朝鮮語抹殺であったとの主張は、
その教育政策を検証すれば、誤りであることはあきらかです。
太平洋戦争下の緊迫した時代のみを取り上げるのは、誤っています。」
と書いています。
また、K氏からの便りによれば、教員を養成する女子師範学校では、
太平洋戦争開戦後も、生徒にチマ、チョゴリをつくることを教えるための課目
があった、ということです。

◆朴

今日、韓国人が、全員、「ハングル」を読み書きできるようになったのは、
日本統治時代に小学校で「ハングル」を教えたことから、始まっています。
これは、客観的な事実であって、否定することはできませんよ。
日韓併合以前には、「ハングル」があったにもかかわらず、
「常人」(サンノム)の9割以上が、読み書きできませんでした。

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『歪められた朝鮮総督府』 黄文雄 1998年 光文社

日本では、「日帝36年」の「7奪」の一つとして、
朝鮮人の言葉を奪ったという批判がずっとまかり通っている。

じつは南総督時代以後、
非常時にさいしての「国語(日本語」)の奨励策はあったが、
朝鮮総督府による朝鮮語使用禁止という政策はなく、
この見方は真っ赤な嘘である。

日本帝国主義による対朝鮮教育侵略の特徴は、韓国民衆を徹底的に日本化、
つまり「愚民化政策」に重点をおいて展開したとか、
「日帝36年」の教育政策によって、戦後の韓国人は、
どうしようもない状態に陥ったなどの見方も歴史歪曲である。

朝鮮人から言語を奪った張本人であると批判されている南次郎総督でさえ、
朝鮮人から朝鮮語廃止の建策に反対したのが、歴史的事実である。

たとえば、「日本人以上の日本人」といわれた玄永燮や、
「3.1独立運動」で33人の民族代表の1人であった朴煕道は
「朝鮮語使用の全廃」を主張していたとき、
南総督は、むしろ極力反対してこう語っている。
「朝鮮語を廃止するのはよくない。可及的に国語を普及するのはいいのだが、
この普及運動も、朝鮮語廃止運動と誤解されることが
しばしばあるくらいであるから、それはできない相談である」
(林鐘国著『親日派』御茶の水書房)

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小学校教育の普及速度は、内地とあまり差がなかった。
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『韓国・朝鮮と日本人』 若槻泰雄 1989年 原書房

総督府は朝鮮人の教育にはかなり力を入れ、
朝鮮に近代学校制度を創設普及させたということができよう。

ことに初等教育では着実に努力をつみ重ね、
「3面(村)1校」「1面1校」というように順次目標をあげながら、
寒村僻地にいたるまでくまなく普通学校(小学校)を設立した。

統治開始後32年たった1942年には、
朝鮮人推定学齢児童数の56%が就学するまでになった。

日本内地が同じ水準に達したのは、
明治政府が発足して25年後(1892年)のことである。

これらの数字は、日本政府が朝鮮における初等数育に対し、
本国におけると同様の、もしくはそれに近い努力を
傾注してきたことを示すものといえよう。

1943年には、朝鮮統治多年の懸案であった初等教育の義務制が
1946年から実施されることが決定した。
総督府は戦時下の資材不足をおかして、学校、学級の一大拡充に乗り出し、
1945年4月からは中等以上の学校に進学しないもののために、
内地同様、青年学校も新設したのである。
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植民地原住民の中でも、朝鮮人がいち早く近代世界に入ることができたのは、
総督府の教育政策により、日本人が咀嚼(そしゃく)した西洋の
学問・近代精神を消化したためである。

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朝鮮語抹殺を提唱したのは朝鮮人
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「日韓共鳴ニ千年史」 名越二荒之助 平成14年 明成社

日本統治時代に朝鮮語は抹殺され、日本語が強制されたと批判する声が強い。
しかし実際は、そうすることを熱心に提唱した朝鮮人がいたのである。
玄永燮(げんえいしょう、日本名天野道夫)は、自分の著書
『朝鮮人の進むべき道』の中に「朝鮮語僕滅論」を書いている。

その一節――

〈朝鮮人は、朝鮮語を忘れてしまわなければならない。
朝鮮人が日本語でものを考えた時こそ、朝鮮人が最も幸福になった時である。
…われわれは頭のてっぺんから足の爪先まで日本人なのである。
…学校で朝鮮語を教える必要は毫(ごう)もない。
朝鮮人を不幸にしようとするならば、朝鮮語を永続させて、
朝鮮的な低級な文化を与え、それ以上の発展を阻止することである〉

彼は日本人になりきるために、朝鮮語を使ってはいけないというのである。
彼としては、「日本人以上の日本人」になることが目標であったし、
「完全に日本人化した朝鮮人から、宰相(首相)が生まれること」が、
彼の願いであった。

この著書の反響はよく、売れ行きも前記したように爆発的であった。
出版した年の昭和13年7月8日、
南次郎総督は朝鮮人の民意を聞くため、面接を行なった。

その時招かれたのは玄永燮ら7人だったが、
彼は総督に対して次のようなことを提唱した。

「朝鮮人が完全な日本人になるためには、従来体験しない神道を通じ、
また朝鮮語使用全廃を通じてでなければ、駄目だと思う」
(毎日申報、昭和13年7月9日)

それを聞いて南総督は面食らった。
総督はこの提案を退け、次のように答えた。

「朝鮮語を排斥することは、不可能なことだ。
できるだけ国語(日本語)を普及するのはよいのだが、この国語普及運動が、
まま朝鮮語廃止運動であるかのように誤解されることがあるが、
これは正しくない」(毎日申報、昭和13年7月9日)
前年の昭和12年1月12日の『毎日申報』に「毎日コクゴ面」が新設され、
一部に日本語が使われるようになっていた。
そして13年の4月から使われる中学校の教科書は、
すべて日本語で書かれるようになった。

しかし総督としては、朝鮮語を廃止するのではなくて、
日本語普及を念願していることを強調したかったのであろう。

その後、昭和14年の1月、純日本語雑誌『東洋之光』が創刊された。
発行者は朴煕道
(3.1独立運動で、独立宣言書に署名した33人のうちの1人)で、
彼は皇道文化樹立の先頭に立っていた。

『東洋之光』発刊の目的は、
「内鮮一体の具現に対する日本精神昂揚の修養道場」にすることであった。

創刊号の「巻頭言」の一節――

〈此際(このさい)、半島2000万同胞の心底に日本精神を昂揚し、
陛下の赤子として、皇国日本の公民として例外なく国体の尊厳を体得し、
皇国日本の大使命を遵奉し、皇道の宣布、国威の宣揚に精進し、
以て東洋の平和は勿論、八紘一宇の大理想を開いて、世界人類文化の発達と
その康寧福祉増進に貢献することを期せねばならないと信じます〉

一つの文章の中に「皇道」や「皇国」が3回も出てくる徹底ぶりであった。

いずれにしても当時、朝鮮人の間から「内鮮一体」のスローガンと共に、
朝鮮語全廃の声を挙げ、それを実践に移した者がいたことは確かである。

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李朝時代、歴史といえば中国史のことであり、
朝鮮史は一顧だにされなかった。
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「韓国近代教育史」 呉天錫 高麗書林
(「近い国ほど、ゆがんで見える」 林建彦 1982年 サイマル出版会より)

旧韓国時代(李朝)の教育は、徹頭徹尾、中国文化を内容としたものであり、
教育の材料は全面的に中国的なもので、
そこに出てくる逸話まで、晏子、諸葛亮
および文天祥のような中国古代の人物に関するものばかりであった。

教育を受ける国民が、自国に関わることを知らず、
外国に関わるものだけに精通しており、それをまた自慢にしていた。

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「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)

「しかし中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において
3つの明確な相違点がある。その1つは、朝鮮における学問は、
全く民族的なものではないという点である。

読む本と言えば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、
歴史に関しても、朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、
大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。

写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べて
かなり見劣りするのは、当然の帰結である。
(中略)
また朝鮮史については、資料不足のため、
真実の、しかも体系だった朝鮮史を記述することは、
たとえ不可能ではないにしても、困難なことである。

漢文で書かれたさまざまな朝鮮史の本は、
それらを一読した人によると、誇張された朗読用のテキストに使われるため、
多かれ少なかれ想像上の事実の雑多な寄せ集めに過ぎないということである。

朝鮮の学者たち自身も、これらの文献に何等の信用もおいておらず、
また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。

時々朝鮮語で書かれた簡略な歴史本に出くわすこともあるが、
それは婦女子の気晴らし用の真偽取り混ぜた奇譚集に過ぎない。

学者達はといえば、それを開いて見ることさえ恥辱だと思っている。
(中略)
したがって、朝鮮史についてある程度正確な知識は、
主に日本や中国の文献を通してはじめて集め得るというわけである。

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朝鮮史研究は総督府から始まった。
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『立ち直れない韓国』 黄文雄 1998年 光文社

◆日本人学者の朝鮮史研究は、どう歴史歪曲されたか

朝鮮の伝統文化の保存と尊重についての、

朝鮮総督府の並々ならぬ努力は、けっして朝鮮歴代王朝以下ではない。

日本人が朝鮮半島に侵入してくると、
すぐ京城の書院を襲い、貴重な文化財を略奪して、日本国内に持ち帰り、
歴史書を没収、焼却したと書かれているが、それはただの作文にすぎない。

総督府は、朝鮮の旧慣と古跡についてくまなく調査し、
朝鮮文化研究について、多くの貴重な文化遣産を残している。

総督府は旧慣民俗に関する調査の結果、膨大な書籍を刊行し、
中枢院は、李朝時代の法典類を編纂刊行している。

たとえば、1915年(大正4年)から1920年にかけて、
『朝鮮古跡図譜』7冊と解説書5冊を会刊した。
その後、1919年から11年間をかけて古跡を再調査し、
12冊にのぼる『古跡調査特別報告』を刊行した。

1925年6月に、勅令で「朝鮮史編集会官制」を公布し、
独立官庁として「朝鮮史編集会」がつくられた。

また総督府は1913年12月、「朝鮮史編集委員会」を設け、
15年の歳月をかけて、
計35巻、2万4000ぺージにのぼる巨著『朝鮮史』を刊行した。

さらに20種、100冊にのぼる『朝鮮史料叢刊』、
および『朝鮮史料写真及びその解説』を刊行した。

日本人学者でつくった「朝鮮古書刊行会」や「朝鮮研究会」の手で、
数多くの朝鮮史書が刊行されている。

しかし、朝鮮人学者によれば、それらは朝鮮統治を合理化し、
朝鮮民族を劣等民族として歪曲するためにまとめられたものであり、
史料蒐集の目的とは、朝鮮人の自国の歴史文化に対する
自主研究を排除するための史料奪取で、大々的な史料蒐集と編史事業は、
朝鮮支配に利用するためでもあるとも主張されている。

朝鮮史研究の目的が、朝鮮民族の劣等性、後進性と日帝の朝鮮侵略の合法性を
立証するための史料捏造、史料歪曲、皇民化遂行への利用を
もくろむものであったとまで歪曲したり、
曲解する必要はどうしてあるのだろうか。

率直のところ、李朝末期にいたるまで、
両班階層が学んだのは支那史だけであって、朝鮮史には一顧だにしなかった。
朝鮮史を直視する歴史学者はいなかったのが史実であった。

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創氏改名
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創氏改名と皇民化政策

朝鮮は男系血族社会で、血統を誇りにし「異姓養わず、同姓娶(めと)らず」
という儒教の教えを厳守していた。
それゆえ姓が違うと養子にできないし同姓同士では結婚もできなかった。
そのため父親の分からない子供や捨て子は悲惨なことになる。
―――――――――――――――――
創氏改名は、日本人風の氏に変更することをを強制するものではなかった。
―――――――――――――――――
『NOといえる教科書』 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社

◆井沢

創氏改名をとっても、韓国人にとっては大屈辱で
憤激の種だったわけですけれども、
日本にしてみればある意味で「親切」なんです。
日本人と同じ待遇にするということですからね。
もし本当に差別したければ、名前ですぐ区別がつくほうがいい。
日本人と韓国人は外見では区別がつかないのですから。

◆藤岡

そうですね。
むしろ基本的には要求に応えて認めたという性格が強いんですね。

◆井沢

仕事の上での不利益や不便を避けるためや、他のいろいろな理由で、
当時も、日本名を希望する人が、実際にいたわけですね。

◆藤岡

ですから、そういう声が強くなって、
希望するなら日本人式に姓を名乗ってもいいよということを、
日本政府が認めたのが、1940年(昭和15年)です。

具体的には2月11日付「朝鮮人氏名に関する件」という通達でした。
当初はけっして強制ではなかった。

そればかりか当時の朝鮮総督だった南次郎も
強制してはならないと訓令を発しているほどです。

ところが地方の末端官僚が創氏改名者の数を増やそうと競争したために、
事実上"強制"に近い形になった。これは愚かなことですよ。

それとは対照的に、同じ日に同様の通達が出された台湾では、
創氏改名者は2パーセントにとどまっています。

◆井沢

まあ役人が成績をあげるために強制するわけですよね。

◆藤岡

ですから強制に見えてしまうわけですが、
法的な強制力があったわけではない。
あえていえば、しつこい勧誘といったらいいでしょうか。
しかも点数稼ぎ競争した地方の面長(日本でいう村長)、
郡主は原則として朝鮮人だったんですから、
日本人のせいばかりとはいえません。

◆井沢

そこのところを、まだ日本でも認識してない人が多い。

◆藤岡

朝鮮ではこの通達の半年後には、
79パーセントの人が改名の届け出をしているわけですが、
逆にいえば強制でなかった証拠に、
改名していない人もたくさんいたわけです。

もっとも有名なところで陸軍中将として
戦犯とされた洪思翊という人がいます。

また数人の道知事は朝鮮名のままで、何ら差別を受けていません。

ですから、名前を奪ったという言い方、
いわゆる侵奪という言い方、これはやはり歴史の事実に反することです。

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創氏改名制度以前に、通称として日本名を名乗る朝鮮人が少なからずいた。
また満州の朝鮮人は、中国人からの圧迫を、
日本人の威を借りてかわす目的で創氏改名を要求した。
―――――――――――――――――
「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年(1928) 南山吟社

回顧二十年前(今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。)

当時表面的ではあるが、鮮人が日本に同化の意を表はす為めに、
吉田権次郎(本名 権丙吉)、伊藤彬(本名 李胄彬)、
吉野柳之助(本名 柳学文)といふ様に、日本人名を付ける事が流行した。

その中、伊藤(統監と同姓)といふ姓が一番多かった。
此等は民籍が出来て後にも、民籍へ日本名で登録されてあった。

或る時、会計が間違へて朝鮮人官吏へ、日本人額の旅費を払ひ渡し。
それが問題になって、
爾来、日本名を付することを禁止した。
寺内総督の時(1910~1916年)である。

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「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」
黄文雄 2002年 徳間書店

創氏改名のきっかけとなった理由のひとつに、
満州へ移住した朝鮮人からの要求や嘆願があったことは、
あまり知られていない。

満州はもともと清国を開いた満州人の祖国であり、
清朝時代には漢人(中国人)の入植が禁じられていた。

19世紀未には入植が解禁されたが、
その少し前から満鮮国境にいた朝鮮農民は、じょじょに入植をはじめていた。

それがもっとも多かったのは
間島地方(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)である。

入植解禁前に漢人はすでに満州に入って盗伐や盗墾を行っていたが、
朝鮮人は盗伐者たちに雇われて働き、だんだんと定着農民となっていった。

朝鮮人の多くが水田、漢人の多くは旱田耕作という棲み分けはあったが、
しばしば衝突もあった。

もっとも大きな衝突は「万宝山事件」(1931年)であり、
それをきっかけに韓国人は
ソウルをはじめとする大都市の支那人へ報復虐殺を行った。

日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。
彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取され、
農奴に近い生活を強いられていた。

やがて朝鮮人狩りが起こる。
朝鮮人をもっとも嫌ったのは張作霖で、
「満州には朝鮮人をひとりも入れさせない」と息巻いていたほどである。

この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。
このような歴史背景下で、朝鮮人にとって唯一の救いは、
当時五強のひとつであった大日本帝国の臣民となることだった。

唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、
朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのである。

日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族の誇りであり、
中国人の跋扈に対抗できるただひとつの勢力だったのだ。

だから満州事変(1931年)以後、関東軍(満州に駐屯した日本陸軍部隊)が
関東州(遼東半島にあった日本の租借地)から北上してきたのを
もっとも喜んだのは朝鮮人だった。

彼らはいたるところで日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、
日本人として集まって日本国民としての誇りと意識を強くもっていた。

日本国民になれば、漢人にいじめられることもない。
満州事変以後は、農民だけでなく、
反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄て日本側へと転向したのだ。

満州国建国当初、協和会に参加していた朝鮮人名士のひとり趙悦は、
「民族協和運動の進展と朝鮮民族、五族協和の理想実現」という一文を、
「大満蒙新聞」と「全満朝鮮人民連合会会報」(16号、1933年8月)
に載せた。

そのなかで「在満州の各民族は支那国民党の国家主義的扇動によって、
激しく対立し、各民族の軋轢(あつれき)は日増しに増大している。
ことに朝鮮民族に対する圧迫や迫害は言語道断であった」と指摘している。

在満の150万人の朝鮮人にとって、
「創氏改名」は迫害を避ける唯一の方法であり、
ワラをもつかむ心情だったことだろう。

よって、皇軍(関東軍)の北満への出動は、
在満朝鮮人にとって積極的な救済保護であり、
兵匪、満州軍閥の圧迫からの解放だと見るべきだ。

満州事変後、朝鮮人の間で、日本国籍を有し「日本帝国の臣民」として、
その権利と義務を果たすべきだとの議論が起こったという事実もある。

そして、「帝国臣民」になりたいという声が高くなり、
漢人の差別に逆襲するために「創氏改名」を強く要求した。

しかし、「創氏改名」を遂げた過激な一部の朝鮮人が、
漢人(支那人)ヘの報復のため満州で跋扈したことから、
日本人は「日本鬼子」、朝鮮人は「二鬼子」と呼ばれ、
嫌韓感情が高まっていった。

在満朝鮮人の「帝国臣民」としての法的地位要求に対して、
当時の朝鮮総督府外事課長の田中武男は、次のような警告をしている。
「在満鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざして驕慢な態度に出、
自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州国人や
その他との間に紛争を引き起こし、
ためにその非難忌避の対象となること甚だ多き」
韓国人は一度優越意識に浸ると、その自信はどこまでも増長するようだ。

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朝鮮総督府の発行した創氏改名の解説書。
日本名への強制の意図はなかったことが分かる。
―――――――――――――――――
「氏制度の解説 ―氏とは何か氏は如何にして定めるか―」
昭和15年(1940年)朝鮮総督府法務局発行

◆第二 氏制度創設の理由

1、半島人の要望

内鮮人(内地人と朝鮮人)は歴史的に論証されておるがごとく
同祖同根の血縁を有するのですから、
精神も形も全く一つに融け合はねばならぬ運命を負ふているのです。
今現に本来の一つの姿に還らんとしております。
そのような時期に際して、半島人の一部に法律上内地人式に
氏を称へ得るやうに途を拓いてもらひたいという要望が起こって来たのです。

つまり通称として内地人式の氏名を称へておったのでは
肝心な場合には名乗れないから、何処へ出ても堂々と
内地人式の氏名が称へられるようにしてもらひたいという訳です。

そのような要望は最初支那その他外国
及び内地に存在している半島人から起こったのですが、
それはもっとも至極な要望といふべきです。

帝国臣民が帝国臣民にふさはしい氏名を名乗りたいというのですから、
これを拒否する理由は毛頭ありません。
(中略)
半島人が内地人式の氏を称え得るやうにするが為には、
朝鮮には元来氏そのものの制度がないのですから、
どうしても氏の制度を定めねばならないのです。

◆第三 氏の制度が布(し)かれても姓は存続する

氏と姓の性質が全然異なることは前に述べた通りであります。
判りよくいへば姓の外に新たに氏の制度が布かれただけの事で、
姓の制度には全然影響がありません。
つまり姓がなくなる事もなければ姓が変はる事もありません。
姓の制度が氏の制度に代はるだとか、氏の創設は改姓だといふものは、
何も知らない人のいふ事です。

◆第四 内地人式の氏を設けることが強制されているのではない

このたび氏の制度が布かれたのですから
何人も必ず氏を設けねばなりませんが、
(もっとも、後に説明するやうに従来の姓を氏に用ふる人は放って置いてよい
(役所に出向いて手続きしなくてもよいということ))
必ず内地人式の氏を設けねばばらないことはありません。

後に述べるやうな制限外では各自の好む所に従って氏を定め得るのです。
内地人式の氏を設けるやうに、強制されているのだと解している人があれば、
それは誤解です。

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「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮総督府は、「創氏改名」政策を行ない、
いかにも朝鮮人が生命以上に大切にしている先祖代々の「姓氏」を奪ったと、
朝鮮近現代史家は厳しく批判する。
「創氏改名」には、絶対反対した人びとが存在したことも事実であろう。

しかし、反対した人びとは、
なぜ「姓氏」差別をした李朝史を直視しないのであろう。

朝鮮半島では有史以来、李朝末期に至るまで、
最下級の「賎民」に姓氏をつけることさえ許さなかった。
そのため白丁(被差別民)の子孫たちは、李朝末期、
あるいは内憂外患の社会混乱期に乗じて適当な姓氏をつけ、
あるいは祖先の墓に従一品等の碑を建てたり、
詞堂、祭室までつくる者も出たりしたのだ。

しかし、新しい姓氏をつける場合でも、馬脚が露われるのを恐れて、
なるべく分家、分流の多い金海金氏とか、
全州李氏などを利用したといわれる。

姓氏を持たなかった者は、白丁奴(パクジョンノム)や
火賊奴(ファジョクノム)と呼ぱれ、虐待、蔑視された。

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「逆説の日本史1 古代黎明編」 井沢元彦 1993年 小学館

なぜ韓国人の姓は『金』や『李』のように全部『中国風』なのだろうか?

つまり日本の『山本』や『田中』のように、
『山の本』や『田んぼの中』といったような、
土着の言語を基調にした姓がないのか? 実はあったのだ。

『韓国も昔は今と違って中国式の姓名ではなかったようで、
これは中国の記録や日本の記録を見るとわかります』

『どんな名ですか』

『日本に来た技術者はといえば、画部・因斬羅我(えかきべ・いすらが)とか
医博士・奈率王有りょう陀(くすし・なりつおうゆうりょうだ)
とかいった名前でしたな。
また有名な医師に、允恭(いんぎょう)天皇3年(414年)に、
天皇の病を癒すために新羅から招聘された
金波鎮漢記武(こんぱちんかんきむ)がいます』

『フーム。すると韓国も中国式の朴(パク)さんや
金(キム)さんじゃなかったんですか』
(「日本人とは何か」 山本七平 PHP 研究所より)

今では、山本氏が実例として挙げているような名はすべて姿を消し、
ほとんどが中国風の一字姓になっている。

どうしてなのか?
合理的に考えれば答えは一つしかない。
古代のある時期に、韓国人は伝統の姓をすべて捨てて
『中国式』に改めたということだろう。

ところが、このことは韓国の歴史書に記録されていない。
そこで、私は韓国の知識人や学者に会うたびに、
それはいつあったことなのかと質問する。

ところが、まともに答えてもらったことがない。
それどころか、『そんなことは有り得ない』と
(中略)

日本は白村江の戦で、唐・新羅連合軍に破れるのだが、
そのとき日本に亡命した百済人の名を見れば、それがわかる。

鬼室集斯(きしつしゅうし)、憶礼福留(おくらいふくる)、
木素貴子(もくそきし)、各那晋首(かくなしんす)……

金さん、鄭さんは一人もいない。

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中国式に創氏改名
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「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社

李光洙は創氏改名に関しても、
「我々在来の姓名は、支那を崇拝していた祖先の遺物」
であると指摘している。

古代朝鮮人の名は、永郎、述郎、初郎、伊宗、黒歯が多かった。
昔の地名も徐羅伐、達久火、斉次巴衣であった。
そうした地名や人名を支那風に統一したのはわずか600~700年前のことだと、
氏は喝破している。

そもそも600年前には、朝鮮人はまだハングルを創っていなかったので、
漢字漢文ばかりを借用したことはやむをえないだろう。
だから、伝統的な人名と地名をことごとく絶やして、
支那風の人名と地名をそっくり借用し、人名でも地名でも、
いったい支那なのか、朝鮮なのかわからなくなってしまうのだ。

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2003年5月31日、麻生太郎・自民党政調会長(当時)が
東大における講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した。
韓国紙がこの発言を大きく取り上げて批判的に報道し、
韓国政府は謝罪を求める談話を発表。
盧武鉉大統領の訪日を直前に控えていたこともあり、麻生は発言を謝罪した。
この件について自民党総務会で野中広務が麻生を批判したが、
その場にいた奥野誠亮が
「野中君、君は若いから知らないかもしれないが、
麻生君が言うことは100%正解だよ。
朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。
そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。
判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」とたしなめた。
野中はそこで中座して出ていってしまった。
横で聞いていた野呂田芳成が、
「いや、奥野先生、今日はホントにいい話を聞かせていただきました」
と言った。


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「社長が朝鮮名使用を強要」 在日韓国人が提訴 静岡
朝日新聞 2013年7月28日5時24分
http://www.asahi.com/national/update/0728/TKY201307270426.html
勤務先で社長に在日韓国人であることを公表され、
日本での通名ではなく本名を使うように繰り返し強要されたため、
精神的苦痛を受けたとして、静岡県中部に住む40代の男性が、
社長に慰謝料300万円を求める訴訟を静岡地裁に起こしたことがわかった。
男性は韓国籍で日本で生まれ育ち、通名を使用。
訴状によると、男性社長から昨年11月と今年1月、勤務先の事務所で
「朝鮮名で名乗ったらどうだ」と言われ、「このままで結構です」と拒否。
2月にも「これからの時代は朝鮮名で生きた方がいい」
といったことを言われ、4月には多くの社員の前で
「この人は在日韓国人だ」と明かされた。
さらに5月、「朝鮮名で名乗るなら呼んでやるぞ」と言われたという。
男性は再三、本名を名乗るよう強要され、
屈辱と精神的苦痛を味わったと訴えている。

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「通名強制された」在日韓国人男性の訴え2審も棄却
「侵害の悪意ない」大阪高裁
産経ニュース 2013.11.26 12:03
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131126/waf13112612040026-n1.htm
在日韓国人の男性(53)が工事現場で働く際に通名(日本名)を使うよう
強制されて精神的苦痛を受けたとして、大手ゼネコンや国などに
100万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が26日、
大阪高裁であった。
林圭介裁判長は「通名使用を強いたことは否定できないが、
社会的に許容できない対応とは認められない」として、
原告側の控訴を棄却した。
判決によると、男性は平成21年9月~22年1月、大阪市内の工事現場で、
大手ゼネコンの下請け建設業者に雇われ働いた。
現場での登録名は通名とされ、ヘルメットにも通名のシールが張られた。
林裁判長は判決理由で「雇用手続きについて業者に誤解があり、
不必要な通名使用を強いたことは否定できない」とする一方、
「業者の対応は男性を速やかに仕事に従事させるためで、
アイデンティティーを侵害するなどの悪意は認められない」と判断した。
男性は判決後、「非常に残念な結果だ」と述べた。
今年1月の1審大阪地裁判決は
「男性が『通名でかまわないのですぐに働きたい』と承諾しており、
強制はなかった」として請求を棄却した。

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健康保険証の通名変更悪用し携帯売りさばく
【2000年9月4日 読売新聞】
外国人登録証の通名が容易に変更できることを悪用して
名前の違う保険証を約30枚取得、
その名義で大量の携帯電話を買って売りさばいていた、
として京都府警は3日、京都市の在日韓国人の男(32)について
詐欺容疑で逮捕状を取った。
男はパチンコ店などで顧客を広げ、
1台5万円程度で売却を繰り返していたとみられる。

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日本創新党 荒川区議会議員・小坂英二の考察・雑感
http://kosakaeiji.seesaa.net/article/92077282.html
2008年03月30日 在日特権を語りました
(一部抜粋)
また、本名とは別に持つことができる通称名、略して通名と言いますが、
の使用も社会を歪めています。
銀行口座の開設なども通称名で行えるのですが、
この通名というものは簡単に変えることができます。
基本的に通名を変更するという申請があれば
それを却下することは有りません。驚くことに回数の制限も有りません。
通名の変更が4回目以上になると東京23区では共通の制度として
「何故変更するのか理由の説明を書いた書類を出す」こととなりますが、
そのような理由など何とでも書けます。
驚くことに調べてみると23区の中である区では
通名の変更を一人の人間が最高で32回行った事例が有るのです。
また荒川区でも調べてみると10回も変更している事例も有ります。
日本人には決して真似できないこうした頻繁な通名変更は
別人に成り済ましてこそできる何かをする為と考えざるを得ません。
このような歪な制度は廃止すべきではないでしょうか。

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外国での報道を、そのまま日本のメディアは報道している。
日本の帰化人も「○○系日本人」で報道してもいいのではないか。

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asahi.com 2009年4月7日11時1分【ニューヨーク=田中光】
米ニューヨーク州ビンガムトンで
3日に移民ら13人が殺害された乱射事件で、
犯人が書いたとみられる手紙が6日、ニューヨークの地元テレビ局に届いた。
(略)
テレビ局によると、手紙は手書きで2枚。乱射後に自殺したベトナム系の
ジバリー・ウォン容疑者(41)を名乗っている。

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産經新聞4月4日15時28分配信
【米乱射は移民の男 13人殺害】
米メディアは、男はベトナム系移民の
ジバリー・ウォン容疑者(42)と伝えた。
AP通信がウォン容疑者の家族に確認したところでは、
米市民権を所持し、30年近くの米国内での居住歴があるという。

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気質
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◆『朝鮮亡滅』 ホーマー・ハルバート
(『醜い韓国人』 朴泰赫 1993年 光文社より)
ホーマー・ハルバートは李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカの
メソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあった。
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朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、
精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、
社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。
自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、
何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で
人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。
朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、
まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。
朝鮮人特有のこの感心できない性向が、
じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、
ごたごたの原因の一つなのである。

◆『朝鮮幽囚記 1666年出版』 ヘンドリック・ハメル
(17世紀、朝鮮に13年間監禁されたオランダ人航海士)
―――――
彼らは盗みをしたり、嘘を吐いたり、騙したりする強い傾向があります。
彼等をあまり信用してはなりません。
"朝鮮の道徳"
彼らはいつでも嘘をつく。それが彼らを信じることができない理由です。
誰かを騙す事を、彼らは誇りに思っています。
そして、彼らはそれが恥ずかしい事でないと考えています。
他方では、朝鮮人は非常に騙され易いです。
私たちは簡単に彼らを騙す事ができました。
その上、彼ら朝鮮人は非常に臆病です。
タルタル人(中国人)が氷を渡って朝鮮をを占領した時、
朝鮮兵のほとんどが戦わずに森に逃げ込んで自殺したと聞きました。
朝鮮人は戦わずに自殺する事が敵から逃る唯一の方法だと思っているのです。

◆『朝鮮教会史序論』 ダブリュイ司教(1866年に漢城で処刑)
韓国人は怯えながら生きてるうちに、感情が安定を失うようになった。
おそらく韓国人ほど、怒ることを好む民族はいまい。
怒ることが不安や焦燥感を解決する代償行為となるとともに、
自尊心を守る手段にもなる。
その自尊心も、外観にこだわるために、
薄い表皮のようなものでしかないので、
ちょっとでも引っかかることがあれば、怒りの引き金がひかれることになる。

◆『『朝鮮事情 朝鮮教会史序論 1874年』 シャルル・ダレ
朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。
それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行われていないし、
キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。
子供たちは成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを
絶え間なく爆発させるようになる。
しかし不思議なことに、にもかかわらず軍隊は概して非常に弱く、
彼らは重大な危機があるとさえ見れば、
武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。

◆『朝鮮の悲劇』 F A マッケンジー
韓国人は、遺伝と教育とに因って、其の大部分が、
おおげさな物言いをする人間か厚顔無恥の嘘吐きかである。
其れで、日本人の非行についての彼らの陳述は、
検証なしに、此れを受け入れることはできない。

◆『悲劇の朝鮮』 アーソン グレブスト
嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたらまったく驚くべきほどです。
自分が正しい場合が殆どないにもかかわらず、悪びれる様子が殆どない。

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両班
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『朝鮮事情』 シャルル・ダレ 1874年 金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫

朝鮮の両班は、いたるところで、
まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。

大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。
その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、
両班の家に連行されて 投獄され、食物もあたえられず、
両班が要求する額を支払うまで笞(むち)打たれる。

両班のなかでもっとも正直な人たちも、
多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、
それに欺かれる者は誰もいない。
なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、
いまだかつてないからである。

彼らが農民から田畑や家を買う時は、
ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。

しかも、この強盗行為を阻止できる守令(郡県の長官)は、一人もいない。

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『朝鮮紀行』 イザベラ・バード 1897年 時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫

搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、
訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。

小金を貯めていると告げ口されようものなら、
官僚がそれを貸せと言ってくる。

貸せばたいがい元金も利子も返済されず、
貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、
本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎりムチで打たれる。

こういった要求が日常茶飯に行われるため、
冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって
2、3千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、
水をそそいで凍らせた上に土をかける。
そうして官僚と盗賊から守るのである。

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キリスト教弾圧
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キリスト教を大弾圧したのは李氏朝鮮
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「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社

たとえぱ、同じ宗教問題の南次郎総督の神社参詣強制と、
大院君の異教徒虐殺とは、まったくその次元が違うとはいえ、
その弾圧を比較するとどうなるだろうか。

李朝は19世紀に入ってから、カソリック教徒への激しい弾圧を続けた。
たとえぱ1801年の「辛酉教獄」で、
清国人宜教師の周文謨をはじめ300余名を処刑した。

1839年の「己亥教獄」では、
アンベールら三人のフランス人宜教師をはじめ200余人を処刑、

1846年の「丙午教獄」では、金大建ら20余人を処刑した。

1866年の「丙寅邪獄」では、ブルマーをはじめとする9人のフランス人宜教師
と南鐘三ら数千人のカソリック教徒を逮捕、処刑した。

また1865年からの3年間、
約8000余人のカソリック教徒を処刑という弾圧政策をとった。

片岡次雄の『李朝滅亡』(新潮社)によれば、
この後の6年間、漢城府では1000人以上の力ソリック教徒が殺害され、
全国では数万人の信徒が殺害もしくは収監された。

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「閔妃暗殺」 角田房子 1988年 新潮社

大院君(高宗国王の父で摂政)は1866年はじめ、
天主教(カトリック)大弾圧を決行するに至る。
(中略)
まず4人の外国人宣教師が刑場にひき出された。
彼らは獄中で受けた拷問のため衰弱しきっていたが、
流暢な朝鮮語で『一般信徒に寛大な処置を』と訴え、
最後の祈りをささげて、従容と刑を受けた。
その刑は、2台の牛車で体を左右に引き裂かれるむごたらしいものであった。
(中略)
弾圧はほぼ6ヶ月にわたり、国内のあらゆる地域で続けられた。
大院君の腹心である捕盗大将李景夏が持ち前の残虐性を発揮し、
5家族を1単位として連帯責任をとらせ、密告を奨励した。

また、一家眷族、近親一族を殲滅する"絶種断族の刑"が実行されたのは、
朝鮮王朝500年を通じてこの時だけであったと伝えられている。

"丙寅教難"と呼ばれるこの天主教大弾圧で、
信者とその家族3万2千人のうち、8千人が殉教したという。
この時期の大院君は捕盗大将李景夏を励まし、世界のキリスト教受難史の
中でも最大の規模の一つといわれる大弾圧を徹底的に遂行した。

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階級
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朝鮮総督府が、朝鮮半島で断行した最大の改革の一つは
「門閥廃止」、「万民平等」という社会改革であった。
それは、朝鮮史上、初めての階級差別の廃止であった。
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「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社

朝鮮の社会革命の難しさの根源は、その伝統的な身分階級制度にある。

甲申改革当時の金玉均ら改革派たちの主張によれば、
朝鮮社会の門閥や封建的身分制度こそ
不平等の根源、国政腐敗、国力衰弱の主因と指摘している。

両班階級は、その能力や才能とは無縁な生まれつきの血縁関係によって
規定される伝統的な身分制度であった。

朝鮮半島は、1894年になって、ようやく「四民平等」を宣言した。
そのときから、賎民(奴婢など)もやっと両班や良人と同じように
戸籍を持つように戸籍法が改正された。

しかし、甲午改革は「三日天下」ですぐに失敗した。
朝鮮総督府は、実質的に法律によって階級差別廃止を行なったのであった。

李朝末期には、奴婢が公賎(官庁に所属した奴婢)と
私賎(両班などに所有された奴婢)に分けられ、
私賎は男子が少なく、女子がほとんどであった。

婢(女の奴隷)は日韓併合当時、まだ一人三十円で売られていた。
婢に特定の夫はおらず、何人かの間で替えていくのが風習であった。

しかし、婢は主人の所有物であったから、
その生まれた子供もまた主人の所有に属し、
その子もまた転売されていくので、婢の子孫は、女子であれば、
ほとんど世々代々奴隷として浮かぶ瀬あらんやといわれた(まさしく性奴隷)
(『朝鮮農業発達史』『同・政策編』小早川九郎編著、友邦協会)。

朝鮮農民は、両班に差別され、白丁(被差別民)がまた農民に差別された。
この階級社会ではトラブルが絶えなかった。
このような朝鮮社会の病弊は、けっして一朝一夕で克服できる問題ではない。
今日の韓国社会に至ってもそういえる。

甲申改革は「三日天下」で失敗に終わったから、
国王の命令によって「甲申政綱」が回収されたために、
その正確な原案を知ることができない。

今日に伝わっている「甲申政綱」の具体的内容は、
資料によってその詳細が多少異なる。
いずれにしても近代国家としての本格的社会改革は、
朝鮮総督府からであったというべきだろう。

また、李朝時代の地域的差別は、西北地方と東北地方の出身者が、
完全に官界から排除され、官吏は中央だけから送られた。
もちろん、国家による地方差別は公然と制度化された。

『経国大典』には、咸鏡道、平安道、黄海道の人は、
官憲への登用はもちろん、鷹師への起用さえ禁止する条項があったほどだ。
平安道人は、平安道奴、西漢、平漢、平奴、避郷奴と蔑視されていた。

朝鮮総督府はこれらの差別を廃止したが、残念ながら、
今日の韓国社会では、地域的な差別が厳然として存在している。
それは朝鮮半島の永遠なる民族的課題とさえいわれている。

このような見捨てられた地方民、つまり東北、西北朝鮮の地方民は、
被差別民だから、門閥を重んじる京城の両班たちは、
ほとんど西北地方の人との婚姻を禁止し、つき合いさえなかった。

というのは、東北、西北の地方民は、ほとんど任官を受けられなかったので、
婚戚関係を持ったところで何の役にも立たないからである。
ましてや京城の人間から見れば、東北、西北地方は、
重罪人の禁固や流配の地にすぎなかった。

咸鏡道人を「水売り」、「咸鏡道奴」、「咸鏡ネギ」と軽蔑し、
敬遠するのは、伝統的な差別意識からくるものであった。

人種差別や地域差別は、朝鮮半島だけではなく、日本人社会にもある。
韓国人、朝鮮人に対して、
優越意識を持っている日本人のいるのは確かであろう。

しかし、李朝社会ほどの人種差別と地方差別を持つ民族は、
ほとんど考えられない。

朝鮮総督府は、日韓合邦後、
「内地延長主義」の原則をずっと堅持しつづけていた。
それは朝鮮半島にとって、まさしく破天荒な政治原則であった。
仮りにそれがしばしば有名無実であっても、
少なくとも李朝以来、あるいは遠く溯れば三韓、三国時代以来の地域差別、
さらに李朝以来の階級差別の歪みを是正する、
一つの大きな契機となっていた。

今日の韓国社会は人種差別にも、地域差別にも、悩みつづけている。
しかし、階級差別を法的に禁止したのは朝鮮総督府時代からである。
朝鮮総督府の時代は、多くの失政もあったことは確かであろうが、
政治的変革以上に大きな社会変革を完遂した。
この事実については、李朝体制を視野に、その延長としての
朝鮮総督府とは何かをその原点から見ることが必要ではないだろうか。

李朝社会は、なぜあれほどしつこく自ら韓民族を
両班、中人、良人(常民)、賎民に分け、厳しく階級差別したのであろうか。
その理由は「礼儀之邦」という考え方にある。
法治社会が確立される前に、階級社会を規定するものは「礼」であった。
中国では周の時代には、だいたい「繁文縟礼」
(こまごまと規定されている規則・礼式など)によって
すべての人間関係が規定されていた。

「法」が「礼」に代わって人間の社会的諸関係を規定するようになったのは、
春秋戦国時代からである。
朝鮮があれほど「朱子家礼」(朱子学による規範)に心酔し、
繁文縟礼にとらわれつづけてきたのは、
その国王、両班を中心とする階級支配を維持するために、
必要だったからである。

近代国民国家の「国民」を創出するために、
朝鮮総督府が断行した「奴婢の解放」は、
もし朝鮮社会の牢固たる階級制度について、多少でも歴史認識があれば、
それはリンカーン大統領の「奴隷解放」以上のものと
驚嘆かつ称賛するに違いない。

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日韓併合の前後
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日韓併合
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日韓併合_関連資料
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慰安婦_資料
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強制連行_資料
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日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認
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「日帝が朝鮮の米を収奪した」???
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韓国のネット掲示板に韓国人が日本統治時代の小学校の参考書の画像をアップ
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250年前の日本を見た朝鮮通信使
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日・中・韓紀行 ~ イザベラ・バード
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日韓併合時代の新聞記事
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日本から見た歴史認識
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ブログ『ぼやきくっくり』 「朝鮮總督府官吏 最後の証言」
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1612.html
2009/06/17 09:00|年表リンク用資料
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