正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1938年(昭和13年)12月18日、汪兆銘、重慶脱出

汪兆銘は『日華協議記録(1938年11月20日)
の約に従って決死の和平工作に踏み切った。

事情で予定は狂ったが、1938年(昭和13年)12月18日、
飛行機で重慶を脱出、昆明(こんめい)を経て
19日、仏印のハノイへ到着した。

重慶で頑張っているだけでは、
支那の多くの地域が日本軍に占領されたままであり、
支那人のための政府がない。

これは支那人にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、
命がけで重慶を脱出した。
そして新しい政府を作り、
日本との協調を通して日本軍を支那大陸から引かせようとした。

日本はこれに合わせて、1940年12月22日、第三次近衛声明を発表した。

この「第三次近衛声明」に呼応して汪兆銘は12月29日、
重慶の国民政府に対して対日和平を提議する通電を発した。

この通電要旨は、支那の主権と独立を尊重すると明言している
「第三次近衛声明」に信頼して日華和平の交渉に入るべきと述べ、

「支那の交戦と目的は国家の生存と独立にある。
正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、
国家の生存と独立は保持できるのであるから、
抗戦目的はすでに達成されたことになる」

と説いて日華永久平和の確立を訴えた。

長年の日支抗争を思うとき、汪兆銘の和平提言は率直にして寛容、正義漢と
勇気に充ちた歴史的決断というべきものであったが、
重慶の国民党は汪を売国奴として党籍永久剥奪を決議した。

汪兆銘の最も憂慮したことは、
「抗日戦争」を利用して支那共産党が勢力を伸ばすことだった。
事変の継続で国民政府軍の戦力が消耗し、共産軍が増強されることになれば、
たとえ日本に勝っても国家は赤化という
恐るべき事態に直面すること間違いない・・・汪はそれを恐れた。
汪のこの憂慮が戦後、支那大陸で事実となる。

1939年5月6日、汪兆銘、上海へ脱出
2009/06/16 09:00|年表リンク用資料
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