●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
||
すばらしい日本
正統史観年表 内 検索 慰安婦と強制連行 南京大虐殺ネット最強の論客 いわゆる南京大虐殺 竹島・尖閣諸島・北方領土 おすすめリンク 1
当ブログのリンク先について
当ブログが紹介しているリンク先の
他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
ホームページよりもブログのほうが
簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1938年(昭和13年)12月18日、汪兆銘、重慶脱出
汪兆銘は『日華協議記録(1938年11月20日)』 の約に従って決死の和平工作に踏み切った。 事情で予定は狂ったが、1938年(昭和13年)12月18日、 飛行機で重慶を脱出、昆明(こんめい)を経て 19日、仏印のハノイへ到着した。 重慶で頑張っているだけでは、 支那の多くの地域が日本軍に占領されたままであり、 支那人のための政府がない。 これは支那人にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、 命がけで重慶を脱出した。 そして新しい政府を作り、 日本との協調を通して日本軍を支那大陸から引かせようとした。 日本はこれに合わせて、1940年12月22日、第三次近衛声明を発表した。 この「第三次近衛声明」に呼応して汪兆銘は12月29日、 重慶の国民政府に対して対日和平を提議する通電を発した。 この通電要旨は、支那の主権と独立を尊重すると明言している 「第三次近衛声明」に信頼して日華和平の交渉に入るべきと述べ、 「支那の交戦と目的は国家の生存と独立にある。 正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、 国家の生存と独立は保持できるのであるから、 抗戦目的はすでに達成されたことになる」 と説いて日華永久平和の確立を訴えた。 長年の日支抗争を思うとき、汪兆銘の和平提言は率直にして寛容、正義漢と 勇気に充ちた歴史的決断というべきものであったが、 重慶の国民党は汪を売国奴として党籍永久剥奪を決議した。 汪兆銘の最も憂慮したことは、 「抗日戦争」を利用して支那共産党が勢力を伸ばすことだった。 事変の継続で国民政府軍の戦力が消耗し、共産軍が増強されることになれば、 たとえ日本に勝っても国家は赤化という 恐るべき事態に直面すること間違いない・・・汪はそれを恐れた。 汪のこの憂慮が戦後、支那大陸で事実となる。 1939年5月6日、汪兆銘、上海へ脱出 |
誇りある日本 論点 チャンネル桜 英語で世界に発信! 距離を置くべきアメリカ ときどきニコ生放送! アフィリエイトやってない!
当ブログはアフィリエイトをして
いませんし、どのランキングにも 参加しておりません。このブログ で何の収入も得ておりません。 管理人へのメールフォーム
|
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦. |