正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変はじまる。

■張作霖爆死事件
蒋介石の率いる国民党軍(北伐軍)に敗れ、
北京から満洲の奉天に引き上げる列車に乗っていた張作霖は、
1928(昭和3)年6月4日、ソ連特務機関の謀略によって爆殺されました。

※張作霖爆殺は、一般的には日本軍が実行したとされていましたが、
『マオ』ユン・チアン著 によれば、実際にはスターリンの命令にもとづき、
ナウム・エイティンゴン(後にトロッキー暗殺に関与した人物) が計画し、
日本軍の仕業に見せかけたものだということがソ連情報機関の資料から
明らかになっています。

1928年6月4日、張作霖爆殺事件 【ドミトリー・プロホロフ】
張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であった[桜H21/12/7]


日本の田中義一首相は、支那は国民党の蒋介石にまかせ、
満洲は張作霖に支配させて、
張作霖を通して満洲における日本の権益を守ろうと考えていました。

以後、満洲は張作霖の息子の張学良が支配するようになり、
国民党と手を組み、満洲に国民党の「晴天白日旗」を掲げます。

■柳条湖事件(柳条溝事件)
1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満洲鉄道が爆破されました。
これは関東軍の石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が
中心となって計画された事件で、
関東軍はこの満鉄爆破事件を張学良の仕業であるとして、
その本拠地を攻撃し、翌19日には満鉄沿線の諸都市を占領し、
張学良はほとんど無抵抗で退却。わずか2ヵ月で全満洲を占領しました。

日本政府は不拡大方針を掲げていましたが、
現地の軍部を抑えることはできず戦線は拡大し、
結局既成事実として事後承認となります。
これを柳条湖事件、または柳条溝事件といいます。

簡単に満洲が占領された原因は、
関東軍の1万数千人に対して張学良軍は30万人とも45万人とも言われましたが、
彼らは馬賊(騎馬の群盗)・匪賊(盗賊)の寄せ集めであり、
張作霖、張学良時代、当時3000万といわれた満洲の民衆の支持を
得ていなかったことで、満洲の民衆は悪政に苦しめられ、
国家予算の85%が軍事費で、
税金は数年先まで前払いさせるような有様でした。

■満洲事変以前の満洲の実態

1.そもそも、満洲は清国の領土であったが、支那の領土ではなく、
辛亥革命で支那人(漢民族)が清朝を倒して独立したのだから、
清朝を建てた満洲人(女真族)は満洲へ帰ればよいのです。
同時に、清朝に征服されていた蒙古民族・チベット民族・ウイグル族・苗族も
同様に独立すればよい。

2.満洲は元来「封禁の地」として立ち入ることを禁じられていました。
それは満洲族の故地として、満洲族が支那にこぞって移住した後、
満洲族に万が一のことがあった場合に戻れるよう確保しておいたのです。
したがって満洲は近代産業といわれるようなものは
何一つない荒れ果てた地でした。

3.それを日本が、ロシアの南進を阻止するため日露戦争を戦い、
インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、
支那の内乱が及ばない別天地にしたのです。

4.そのため大量の漢民族が、
内乱に明け暮れる支那から安定した満洲へと流入してきたのです。
日露戦争(1904年)の頃は1000万人、
辛亥革命(1911年)の頃は1800万人であった人口が、
満洲事変後には3000万人に達していました。

■当時の諸外国の状況
1.満洲に最も関心を持つソ連は、第一次経済開発5カ年計画の真っ最中で、
中立不干渉を表明し、国内の経済政策に忙殺され、対外的な余裕がなかった。

2.蒋介石の国民党政府は、国内統一を優先し共産党掃討に没頭していたため、
張学良の応援には一兵も送らなかった。

3.イギリス・フランスは、大恐慌が猛威を振るっている最中であり、
恐慌対策に必死で、日本の行動を黙認していた。
イギリスなどは、支那の中央部にある大きな権益が保証されるなら、
日本の満洲占領を認めてもよいという立場だった。

4.例によってアメリカのみが反対で、
国務長官スチムソンは満洲事変に関するすべての結果に
「不承認」であることを宣言した。
しかしアメリカも不況対策で忙しく、単独で日本に干渉する余裕がなかった。
 
支那の条約違反
1.日露戦争で日本は南満洲鉄道(東支鉄道の南支線)の敷設権を得、
それと同時にこの支線と競合する鉄道建設禁止を約束していた、
にもかかわらず張作霖・張学良は満鉄の東西に二大併行線を敷設し(1929年)、
これがために満鉄は衰微してしまった。

2.1915年の日華条約で、南満洲での日本人の土地商租権
(商工業、農業を営むために外国人が支那の土地を租借する権利)を認めたが、
同時に国内で日本人に土地を貸した者を死刑にする法令を発布している。

3.排日教育により反日感情を煽る。

■満洲国建国
満洲人・支那人・蒙古人よりなる「東北行政委員会」は
1932(昭和7)年2月、満洲の独立を宣言し、
清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀が全会一致で元首に選ばれている。

3月1日満洲国政府は建国を宣言し、9日には溥儀が執政に就任しました。
日本国内では満洲国を承認するか否か議論が沸騰しましたが、
早期承認の声が高まり、6月衆議院が全会一致で承認促進決議を行い、
9月正式に承認しました。

■リットン報告書
1932(昭和7)年、国際連盟は「満洲事変」に関する調査団を派遣し、
『リットン報告書』が作成されます。
1933(昭和8)年、『リットン報告書』に基づき、
国際連盟で満洲国の主権は支那に属するとされ、
日本軍の撤収が勧告されます。

「分裂内戦支那」「複数政府支那」の
どこに主権があったというのでしょうか。

同報告書は「満洲国建国」を否定しましたが、
「満洲事変」を「極度に複雑な事件」として、
当時の日本の置かれた状況を的確に掴んではいます。
「日本は共産主義及び排日宣伝に染まざる満洲を
介在せしめんとする希望を感ずるに至れり」・・・・

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『近現代史の必須知識』より抜粋

満州事変
http://www.nicovideo.jp/watch/1346407047

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満州善後条約
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-672.html
満州事変 関連議論
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-675.html
清室優待条件(協定)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-647.html
満州地域における日本人や日本関係施設の被害
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html
満洲事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-334.html
隠蔽が続く大東亜戦争の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-633.html
★もっと超簡単に!大東亜戦争にいたる流れの説明
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-553.html
支那事変(日中戦争)の発端
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
日露戦争後の「アメリカの反日政策」と「日本の歩み」年表
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-510.html
満州事変前~満州事変~支那事変まで
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-465.html
満州事変を生んだ内外要因 ブロック経済から生き延びるために
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-291.html
『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-387.html
門戸解放宣言(通牒)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-200.html
もう一つのアメリカ合衆国 『満州』
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-22.html
不戦条約と自衛権
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-287.html
大東亜戦争までの内閣
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-524.html
日米開戦前 日本の和平努力
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-285.html
ハル・ノートに対する日本の回答入電「これは戦争を意味する」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html

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my日本の佐藤卓さんの見解

満州事変

日本の満州権益は、1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。

1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。

このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態なのです。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。

1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。

支那側が1931.6.27.中村大尉殺害事件の回答を9月18日にしてきましたが、
その事件の回答を送って来ようが来まいが、
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動です。

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満州事変の発端となった1931年9月18日の柳条湖事件は、
大東亜戦争の戦中戦前までは「犯人は支那軍」が通説だった。
爆音を聞いた守備兵が北大営近くで発砲されて交戦になった。
その後リットンなどが調査したが結論は出ないまま、
戦後の「検証しようのない証言」で、
なぜか通説が引っ繰り返されて常態化している状況。
仮に前通説に確たる証拠がなくとも、
それを引っ繰り返せる「確たる証拠がある論説」でない限り、
前通説は引っ繰り返されてはいないのである。

東京裁判でも否定されておらず、支那側は反論しなかった。

大東亜戦争後、満州事変の関係者、
本庄繁氏(1945年自決)、
板垣征四郎氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
土肥原賢二氏(1948年A級戦犯で絞首刑)、
石原莞爾氏(1949年病死)
などの関東軍指導者がほとんど逝去されたあと、
下記の秦郁彦氏の本2冊が出版されたことや、
高木清寿氏の本の内容が誤解されて広まったことが大きく影響し、
検証しようのない証言によって日本(関東軍)犯行説が通説になってしまった。

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『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)

秦郁彦氏が23歳の東大生だったときに花谷 正氏に取材をし、
その花谷 正氏の証言を秦郁彦氏が書いた記事が下記の雑誌に掲載されたが、
当時、実際の執筆者であった秦郁彦氏の名前は伏せられて掲載された。

※花谷 正氏は当時、少佐・関東軍司令部付(奉天特務機関補佐官)

『月刊誌 知性 別冊 秘められた昭和史「満州事変はこうして計画された」』
(昭和31年1956年12月号 河出書房)の冒頭部分を抜粋。

当時関東軍参謀であった花谷正が、満洲事変は、関東軍の謀略に
基づくものであったことを、証言している史料。当時の関東軍関係者が、
満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は「自衛」であったとして
関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、
満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない。
(以下略)

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『昭和史の謎を追う(上)P70~74 秦郁彦著 1999年 文春文庫』より抜粋。
・・・
私が昭和の戦争史に重要な役割を果した旧軍人からの
ヒアリング作業を始めたのは、
東大教養学部2年在学中の1953年から翌年にかけてであった。
・・・
すでに関係者の多くが他界していて、会って話が聞けたのは
花谷正、島本正一の両氏であったが、島本は多くを語らず、
東京・代々木に住んでいた花谷(事件当時の奉天特務機関補佐官)に
的をしぼった。
・・・
★私はこの事件が関東軍の陰謀であることを確信していたので、
要は計画と実行の細部をいかに聞き出すかであった。
・・・
1956年秋、河出書房の月刊誌『知性』が別冊の「秘められた昭和史」
を企画したとき、私は花谷談を整理してまとめ、
補充ヒアリングと校閲を受けたのち、
★花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。
柳条湖事件の核心部分が活字で公表されたのは、
この花谷手記が最初で、当時かなりの反響が出たと記憶する。
・・・
花谷証言がほぼ正確であったことは
1958年に三谷清、1962年に川島正からのヒアリング
によって確認され、その成果は、
1963年に刊行された日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』
(全8巻、朝日新聞社)第1巻に紹介された。
・・・
【証言その1 見津(みつ)実上等兵(東京都在住)】
9月18日の夕方、川島中隊長の官舎へ呼ばれ、行ってみると、
中隊長夫妻、河本中尉、それに見知らぬ大尉が応接間にいて
「今田大尉だ」と紹介された。
今田が「そのトランクを開けてみよ」と言った。
小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約20個入っていた。
川島から「これから中隊は演習へ行くが、
お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、
ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって
今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。
30分後にバーンと爆発音が3回聞こえ、火柱が西南方に見えた。
すぐ中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。
戦闘が始まって少しのち兵営内へ入ると、
今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。
そのようすから日本側の謀略だな、と見当をつけた。
その後、特務機関の2階に約1カ月軟禁されたのち、中隊へ帰った。

【証言その2 今野(こんの)褜五郎(いなごろう)上等兵(宮城県在住)】
私はラッパ卒兼伝令として斎藤金市1等兵(故人)とともに、
9月18日夜河本中尉と行動をともにした。
線路の西側を今野、東側を斎藤、河本の順で南下して行った。
問題の地点まで来ると、河本が我々に第14列車(急行)を
今からひっくりかえすと告げ、列車が近づくのを確かめたのち、
1人で図嚢(ずのう)から取り出した爆薬をレールに装置した。
その間我々2人は5メートルぐらい離れ、
反対側に向い警戒するよう命じられたが、
「伏せろ」と河本が叫んだので伏せた。
ところが爆発の直後に列車は無事に通過してしまった。
あの地点はカーブの外側なので、車輪が浮いたのではあるまいか。
河本から「中国軍が鉄道を爆破したと報告せよ」と命じられ、
私は柳条湖分遣隊へ、斎藤は川島中隊長へ伝令に走った。

【証言その3 松尾正二奉天保線区長(東京都在住)】
9月18日朝に、関東軍から有事に備え、
いつでもモーターカーが出せるように準備しておけ、と指示が来ていた。
夜は自宅に帰っていたが、線路方(がた)から
事件が起きたと電話があり出勤、
まず爆破現場を検分して被害の状況を調べる必要があるので、
三宅保線助役(故人)らがモーターカーで出発したが、軍が近づけさせない。
翌朝、切断されたレールを見た。
断面に重いもので叩かれた痕(あと)があり、
列車がこの部分を通過した時に生じた傷、と判断した。
切れた長さは18~20センチで、最弱点である外側カーブの継ぎ目だが、
よく脱線しなかったと話しあった。修理作業は一時間もかからなかった。

【証言その4 前田喬奉天駅助役】
問題の上り第14列車は予定どおり奉天駅についた。
この列車に満鉄の木村理事が乗って大連へ向うので、
当直の私がプラットホームへ見送りに出ているところへ、
軍から電話が入り鉄道爆破を伝えられた。
・・・
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『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
のなかの内容が誤解され、
石原莞爾氏が「自分が戦犯である」と語ったとする伝説が始まった。

『東亜の父 石原莞爾 高木清寿著 昭和29年(1954年)出版 錦文書院』
より抜粋。

「裁判の冒頭、尋問の前に何かいうことはないか」
『ある。満州事変の中心はすべて石原である。事変終末は錦州爆撃である。
この爆撃は石原の命令で行ったもので、責任は石原にある。
しかるに石原が戦犯とされぬことは腑に落ちない。
だから話は少々長くなるかも知れない。』と切り出した。
ところが裁判長も検事も非常に狼狽して、裁判長は、
『ジェネラルは戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ。』
といい、検事は『証人はそんなことをいってはいけない。
証人はこちらで尋ねることを、然り、然らずだけで答えるだけでよい』
と言ってあわてて石原の発言を封じた。さては逃げたなと直感した。」

↓↓↓

これが『秘録 石原莞爾 横山臣平著 昭和46年(1971年)発行』のなかでは、
「満州事変の中心はすべて自分である。
事変終末の錦繍爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。
それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」
となっている。

↓↓↓

さらに、2013年6月22日の読売新聞の特集記事
「昭和時代第3部戦前・戦中期1926~44)」のなかで、
この『秘録 石原莞爾 横山臣平著 昭和46年(1971年)発行』をもとに
石原莞爾氏の「人物抄」で、
『戦後、東京裁判の酒田臨時法廷に証人出廷し、
「満州事変の中心はすべて自分である。
戦犯として連行しないのは腑に落ちない」と裁判を皮肉った』
と紹介された。

しかし、東京裁判の酒田臨時法廷の詳細な記録
『石原莞爾選集 第7巻 酒田法廷記録』のなかに、そのような証言はない。

石原莞爾氏が軍事法廷に提出した際の「宣誓供述書」では事件の発生を
「暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、守備兵を襲い、
我が守備隊と衝突せり」と証言している。

石原莞爾氏の証言
◆柳条湖における鉄道爆破は支那軍隊の仕業。
◆満州事変は武力による解決は希望しておらず、
やむを得ず自衛的に武力発動したが、
それも奉天占領までで、それ以上の占領計画はなかった。
◆錦州爆撃は偵察飛行していたら応射を受けたから爆弾を落とした。
◆満州国建国は東北新政治革命の所産であり、
我が国の軍事行動は、その契機となっただけ。

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『理解する世界史』の「満州事変」に関する資料集(1) http://bit.ly/1QN8UNO
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm
2009/06/06 09:00|年表リンク用資料
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