正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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満州国建国と国際連盟脱退

日本は満州事変に至った事情について欧米諸国から理解を得ようと、
国際連盟の満州事変調査団の派遣を進んで提案しました。

ところがアメリカ(スチムソン国務長官)は「世界の脅威である」といい、
国際連盟派遣のリットン調査団も満州事変を日本の自衛行動とは認めず、
満州国の独立を否定した報告書をまとめました。

日本は満州国を承認して国際連盟を脱退するか、
もしくはリットン報告書を受け入れて満州国を否認するか、
の選択を迫られ、最終的に満州国承認の選択をしました。

アメリカや国際連盟の主張を否定し、欧米協調路線を捨ててまでも
日本が「満州国の承認」という独自の道を歩むことを選択した理由は、

【1】日本では幣原(しではら)外相の欧米協調外交の方針のもと、
欧米諸国及び中国との友好関係を維持しながら満州権益も守ろうとしました。

ところが中国は、こうした日本の態度を弱腰と判断し、
中国で最大の権益を持っていたイギリスよりも
日本を権益回収のターゲットにして外国排斥運動の目標とするようになり、
他の列強国も、この中国の動きを支援しました。

日本が生命線と考えていた満州権益は中国と英米ソによる攻撃を受けました。

こういう状況のなかにあって欧米協調路線では、
日本は満州権益防衛の有効な手段が打てない事が明らかとなったのです。

【2】そもそも満州権益に対する様々な攻撃を阻止し、
平和安定を確保できなかった原因の1つは、
満州で責任ある政権の所在が不明確であることでした。

なぜならば中国本土には、南京に国民党の蒋政権があり、
満州をも含めた中国全土の支配権を唱えてはいましたが、
一方、満州は軍閥の1つである張政権が事実上支配するところでした。

このため日本は、中国の排日運動を取り締まり、
満州権益を守るためには国民党政府と張政権の
両方を交渉相手にしなければなりませんでした。

両者とも満州における日本人へのテロ攻撃や、劣悪な治安を取り締まって、
民衆の生活を安定させようという統治者としての責任を
果たす事には熱意を持たず、責任を互いになすりつけていました。

それゆえに、満州において責任ある政府を確立して治安の安定や、
経済混乱の解消をはかるために、
新しい国家のシステムを確立することが急がれていたのです。

【3】満州と中国本土は満州人の王朝であった清国が、
中国本土を支配した結果、あたかも一体であるかのようなイメージが
ありましたが、歴史的には万里の長城で隔てられた別々の国でした。

ところが満州を地盤としていた張作霖が中国本土をも
支配しようという野望から、中国本土をめぐる政争に介入したり、
逆に中国本土を支配する国民党と張作霖の子の学良が接近して、
満州に国民党の勢力を浸透させるなどの結果、
満州は中国本土の政治情勢と無関係ではあり得なくなり、
満州の平和と安定が損なわれるようになりました。

これを阻止し満州を安定させるには、
中国本土から満州を政治的に分離独立させる必要がありました。

これは満州人が強く望むところだったので、満州事変の勃発後、
各地の満州人有力者から独立を求める声明が発せられたのです。

【4】また、当時ソ連がシベリア鉄道の複線化などによって、
着々と極東ソ連軍の軍備を強大化させていました。
ソ連コミンテルンによる満州の共産化を阻止し、
ソ連の南下侵略の防波堤にすべく、
満州を守る国家システムを早急に作り上げようとしていました。

こうして満州事変は、独立した新しい国家システムを満州において
確立する運動、つまり満州国建国を構想したものとなったのです。

そして日本政府は日本の立場に無理解な欧米との協調路線よりも、
現実の満州情勢に最も適合していると
判断された満州国承認の道を選択したのです。

日本の外交路線に対抗して、アメリカは、それまで国家として承認することを
拒否してきたソ連との国交を樹立しました。
ルーズベルト政権は日本を牽制するための手段として、
日本と国境を接するソ連との提携強化に乗り出したのです。

これ以降、満州問題をめぐって、
欧米の理解と支持のもとに満州国を維持発展させることを断念した日本は、
「日本帝国は他国が認めると否とに拘(かか)わらず、
自己の東亜における使命を守るために、全力を尽くさざるを得ざるに至れり」
(広田外相)、
「日本は諸外国に対しては、常に友好関係の維持増進につとめているのは
いうまでもないが、東亜における平和及び秩序を維持するためには、
日本の責任において単独になすことは、当然の帰結」
(天羽外務省情報部長のいわゆる天羽声明の一節)であるとして、
東アジアの政治情勢においてアジア問題を
日本独自で解決しようとする独自路線を歩むこととなりました。

この結果、中国・ソ連との提携によって日本を封じ込めようとするアメリカ
との対立構図が、ますます明確になっていったのです。
ここに日本の外交路線の変化、
つまり欧米協調路線からアジア独自路線への展開が始まったのです。
2009/06/03 09:00|年表リンク用資料
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