正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1937年(昭和12年)8月9日、船津和平交渉(工作)。

盧溝橋事件の後、日本は北平(北京)・天津地域を平定したが、
その時点ですぐに和平へ動き出した。

支那側からも信頼されていた元外交官、
実業家の船津振一郎を通して蒋介石政府に和平を働きかけた。

その際、陸軍、海軍、外務省が一緒になって作りあげた案は、
日本が大きく譲歩するものだった。日本の和平案は以下の通りだった。

◆塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定など、
日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する。

◆非武装地帯を作る。

◆冀察・冀東政権を解消し、南京政府の下に置く。

◆日本駐屯軍の兵隊は以前と同じ状況に戻す。

この案は要するに、満州事変以後、日本が北支那で得た権益のほとんどを
放棄しようという寛大極まりないものだった。
日本軍が占領した北平(北京)・天津地域を放棄するというのだから、
支那側にとって好条件だった。

支那側への要求は満州国黙認、
反日運動を取り締まりであり日本が大きく譲歩するものだった。

これをもってすれば、支那と日本との紛争が即日止むことは明らかで、
この第一回の話し合いが8月9日に上海で行われる予定だったが、
当日に大山大尉虐殺事件が起こり、この工作は交渉初日で頓挫してしまう。

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my日本・佐藤卓
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『船津和平工作』

盧溝橋事変発生後、日本は即座に和平工作に動く。
同事変は現地とは停戦決定したものの、蒋介石中央の介入で拗れる。
盧溝橋事変も満州事変と同様、支那軍による日本への侵略攻撃なので、
無論その処理協定は支那が懲らしめられる内容でなくてはならない。
しかし陸海外三省が合同で草案し、
元駐支領事船津辰一郎が根回しを担当した
「船津和平工作」の内容は、廊坊事件などの後にも関わらず
満州事変以降の支那を膺懲する協定を解消。非武装地帯設置。
冀察・冀東を解消し同地は蒋介石政府麾下に。
駐屯日本軍は満州事変以前の状態へ(増派引揚げ)。
反日やめろ、一緒に防共、満州国承認。
という、言うなればあれだけ散々反日武力闘争事件を起こした輩を
満州国承認だけで許してやるという寛大極まりない大譲歩案。
この第1回交渉が昭和12年の今日8月9日に行われたが、
同日大山中尉惨殺事件が起こり、この工作は頓挫する。

■第1次トラウトマン工作
第1次トラウトマン工作と船津和平工作は
内容的には同じものだが性格は大分変わる。
なぜかと言うと同工作は船津和平工作を
ドイツ経由で11月に行ったものだから。
つまり既に大譲歩の船津和平工作を上海事変など数々の反日侵略攻撃以降も
条件加重せずに同じ内容で呑ませてやろうってのだから
さらに大大譲歩ということ。
「上海事変咎めないよ」と言ってるようなもの。
ここまで来ると日本国民から
「陸海軍は売国奴!」と罵られそうなものである。
この時、広田外相は「呑まずに戦争継続したら条件加重しますよ」
と警告してる。

にも関わらず蒋介石は呑まなかった。
どうやらブリュッセル会議(3日~15日)の結果待ちをしたようで、
同会議で三国干渉のような反日決議を期待したのだろうと思われる。
日本は英米に「譲歩案なのだから蒋に呑ませるよう働きかけてくれ」
と言ったが英米は消極的。
(余談だがこの時日本は大本営を設置してないし南京攻略も考えていない)
しかし会議結果は彼奴の納得の行くようなものではなかったらしい。
5千京歩譲ってブリュッセル決議待ちだったとしても
決議終わったならば呑めばいい。
にも関わらず蒋はまたまた呑まず戦争継続、南京徹底抗戦を決心した。
つまりトラウトマン和平案をここで蹴ったということ。
この後呑むとか言い出しても条件加重されるということ。

蒋介石が呑まないので20日大本営設置。12月1日南京攻略決定。
この翌日に怖気づいた蒋介石が第1次トラウトマン工作案を呑もうとしやがる。
この「呑もうとしやがってる情報」が日本に伝わるのは7日。
だが、皆は知っての通り13日には南京は陥落し日本軍は南京入城する。
日本側被害は甚大。
つまり7日ってのはそんな状況。
和平案(しかも譲歩)を無視され上海攻撃され、
それでも条件加重してやらないで「継戦したら条件加重」の警告も出したのに
無視して戦争継続してきやがって、この期に及んで
「継戦前の条件呑もうかな」なんて常識的に通用するわけない。
ここで呑ませたら日本の泣き寝入り。
占領憲法9条並の馬鹿である。
冒頭でも述べたが基本、支那の侵略攻撃から始まった紛争なので
痛い目に遭うのは支那でなくてはならない。
これを「蒋介石が呑もうとしたら日本は条件重くした」
と日本を批判する奴がいるってんだから驚きだ。

■第2次トラウトマン工作
ということで、本来「は?今頃何言ってんだよ」
と無視して徹底攻撃しても良いものの、またまた器の大きい日本は
条件を加重しただけで和平交渉を続けさせてあげる。
これが第2次トラウトマン工作。
加重と言っても損害賠償などの追加であって、
支那の横暴から考えれば大譲歩に変わりない。
回答期限は年末までとしたが回答してこなかった。
それでも日本は諦めることなく、翌年1月「答えろ」と催促してやる。
にも関わらず蒋介石はまたまたまた呑もうとはしなかった。
いくら寛大な日本とはいえ我慢の限界。
数日後「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ對手トセス」 当然の結果。普通。

■援蒋
首都を陥落され窮地に陥った蒋介石なのに、
第2次案を即座に呑まなかった理由、
そもそも上海や南京という大都市を失い、
というか大都市持ってた時でさえ
日本軍にコテンパンにされた弱小支那軍が何もない重慶に逃げ込んだのに
瞬殺されなかったのは英米からの支援があったから。
英米がテロ支援をしたせいで戦争長引くわ和平案不毛になるわ、
結果として共産が拡大する。
英も米もましてや蒋介石なんか台湾に逃げて何も得してない。
この和平工作経緯見ても
まだ日本が侵略戦争だとか軍国主義だとか言い張るのかね。
2009/05/31 09:00|年表リンク用資料
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