正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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トラウトマン和平交渉(工作)

●1937年(昭和12年)11月2日~、第一次トラウトマン和平交渉(工作)。

図らずも盧溝橋事件によって対支交戦状態に入った日本は、
速やかに戦闘を終結して東洋平和を実現せんとの念願より、
様々な対支和平交渉(工作)を事変当初から試みた。
実に昭和20年終戦直前に至るまで
様々な形の対支和平の努力が試みられては挫折していった。

1937年(昭和12年)8月9日の船津和平交渉(工作)の後、
上海戦から南京戦への展開と並行して行われたのが
トラウトマン和平交渉(工作)である。

日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えたいとの気持ちから、
第三国の公正な斡旋の申し出があった場合は
船津和平交渉(工作)案の範囲内で受諾するとの方針を
外務省と陸海軍三者間で決め、広田外相より10月27日、
イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアに対して、
日支交渉のための第三国の好意的斡旋を受諾する用意のあることを伝えた。

和平の仲介は結局ドイツに依頼することになり、
11月2日(ブリュッセル会議前日)、日本は正式に日本の和平条件7項目を
ディルクセン駐日ドイツ大使に通知した。
条件は船津和平交渉(工作)案と同じで非常に寛大なものだった。

この報告を受けたドイツ政府も、日本側の和平条件を妥当なものと判断し、
11月5日、トラウトマン駐華大使を通じて
蒋介石に日本側の和平条件を通知した。

しかし、蒋介石は、国際連盟に訴えて開かれることになった
ブリュッセルでの九ヵ国条約国会議に期待し、アメリカやイギリスに頼って
日本を牽制しようという気持ちが強いため、日本の提案に乗ってこなかった。

だが日本はなお和平への望みをあきらめず、
ブリュッセル会議最終日の11月15日、広田外相はグルー米国大使に
「日本軍の上海での作戦は順調だがこれ以上支那軍を追撃する必要はない。
この時期に平和解決を図るのは支那自身のためになり、
支那政府が南京を放棄するのは非常に愚かなことだ」等を述べ、

現在ならば日本の講和条件は穏当なものであるので、
アメリカが蒋介石に対し和平交渉に応ずうよう説得してほしいと希望し、
もし支那側に和平の意思があるなら、
日本は代表者を上海に派遣しようとまで語った。

このときには、日本はまだ大本営も設置しておらず(11月20日設置)、
南京攻略も策定されていなかった。このような時期に日本が再度、
日支和平斡旋の努力をアメリカに求めたことの意味はすこぶる大きい。
南京陥落を誰も予想していなかったこの時期ならば、
支那側も面子を失うことなく和平交渉できたはずである。

しかしアメリカ、イギリスとも積極的な斡旋の努力をしなかった。
やがて南京が陥落する。

●1937年(昭和12年)12月21日~、第二次トラウトマン和平交渉(工作)。

蒋介石がブリュッセル会議にかけていた期待は裏切られた。
また、戦局も支那側にとってかなり不利に展開するに至った。
蒋介石の時局の見通しはあまりに楽観的に過ぎたのだ。
日支和平交渉も、
こうなっては蒋介石の思惑どおりに運ばなくなったのは当然である。
やがて南京は陥落した。

その翌日、北支に親日的「中華民国臨時政府」が成立するなど、
北支・中支の情勢が著しく日本に有利に展開した状況下、
1937年(昭和12年)12月26日、
新たな和平条件をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えた。

このときは南京攻略後であり、
南京が落ちたときには日本側にも何万という死傷者が出ている。
そうなると、以前のような寛大な案では済まなくなる。
日本に対する損害賠償などが追加されることになり、
やや厳しくなってくるわけである。

ドイツのトラウトマン駐華大使は12月26日、
新しい和平条件を支那側に伝えた。

日本は回答期限を年末までと希望していたが、
年が明けても支那側は回答を遅らせ続けたため、
翌、1938年(昭和13年)1月12日、
日本はトラウトマンを通じて支那側に即刻回答するよう催促した。
その結果、1月13日、支那側は王寵恵・外交部長を通じて
トラウトマンに回答を寄せたが、それは
「日本側条件は範囲が広すぎるので、秦城健の性質と内容を知りたい」
というものだった。

トラウトマンは「この回答は言い逃れと解釈される」
「この回答では和平への希望が表れていない」との懸念を表明した。
支那側は曖昧な回答を送ってきて回答期限を延ばし続け、
催促に対してきちんとした対応を示さなかった。
トラウトマンが危惧したとおり、
広田外相はあいまいな支那側回答に憤激した。

このとき陸軍は戦争をやめたがっていた。
頑強に戦争継続を主張していたのは尾崎秀実(ほつみ)など、
近衛文麿首相を取り巻く「進歩的な」連中であった。

尾崎秀美はゾルゲ事件で明らかになったようにコミンテルンのスパイだった。
支那国民党と日本との戦争を続けさせて、ソ連への軍事的脅威を弱め、
支那の共産化を進める足がかりにしようと考えたスターリンの意図を
受けていたと考えられる。

また、日本には戦争を続けている限り社会主義立法が
スムーズに行くことを知って、戦争継続を支持する軍人・官僚もいた。
近衛首相はそういった者の意見に動かされた。

陸軍内よりも近衛内閣で平和交渉打ち切り派が強く、
しかも支那が乗ってこなかったこともあって、
トラウトマン交渉(工作)は両国の会談まで至らなかった。

そして、1938年(昭和13年)1月16日、
近衛内閣は国民政府を相手としない声明を発することになる。

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上記に対しての佐藤卓さん(「my日本」会員)の御意見。

日本が避戦に尽力してたのは事実ですが、
仮に開戦に前向きだったとしても日本は批判されないんですよ。
自衛ですから。

尾崎秀美については異論があってもいいですが、
共産スパイでなくたって、むしろ帝国臣民の多くが開戦を主張していました。
あれだけ支那から挑発攻撃を受ければ当然です。

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支那事変(日中戦争)の発端
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2009/05/29 09:00|年表リンク用資料
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