●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1934年(昭和9年)10月、共産軍が『長征(=大西遷)』(実態は逃避行)。
1930年(昭和5年)に共産軍掃討作戦を開始した蒋介石は、 着実に支那共産党勢力を追い詰めていった。 そして1933年の第5次掃共作戦では約100万の大軍で 共産党の根拠地を包囲した。 国民政府軍に包囲された共産軍は、 1934年10月、瑞金を捨てて1万4000キロを敗走し、 1935年、山奥の延安に逃げ込んで新たな革命根拠地を作った。 この逃避行・大逃走を支那共産党は、 「長征」、「大西遷」という美名で呼ばれているが実態は「逃避行」だった。 ◆共産軍、延安着~ 蒋介石の掃共戦によって「長征」を続けていた共産軍は ソ連に近い山奥の延安に落ち延びた。 長征(逃避行)を開始したとき10万いた軍隊は 延安に着いたときにはわずか6千にまで激減していた。 あまりにも奥地まで逃げたので、 日本軍ともほとんど遭遇したことがなかったほどである。 その延安に落ち延びる途中で、 1935年(昭和10年)8月1日、民族統一戦線(八・一宣言)が打ち出された。 ◆1935年(昭和10年)8月1日、八・一宣言(救国運動) コミンテルン第7回大会で反ファシスト人民統一戦線の方針が出されると、 1935年8月1日、蒋介石の掃共戦により逃避行中の支那共産党は、さっそく 八・一宣言(正式名は「抗日救国のために全同胞に告ぐる書」)を発表した。 これは日本と協調するような姿勢のある国民党の有力者達を 売国奴などと罵りながら、一方で内戦をやめて 抗日救国の戦いをしようと呼びかけるものだった。 資本主義者の国民政府は共産党がまず潰すべき相手だったのに、 それはとりあえず横に置き、ナショナリスティックな面を訴えて、 協力して日本と戦おうという方針に転じた。 それはスターリンがドイツとの戦争を始め、 不利な状況になるとたちまち「祖国ロシア」を振り回し、 「万国の労働者よ団結せよ」がどこかへ行ってしまったのと同じである。 ここで救国戦線といって各界救国戦線という運動をやった。 つまり、婦人も商工業者も学生もみんな救国連盟をつくるようになった。 救国とは、ひとつは内戦停止、それから一致抗日。 内戦停止とは、要するに国民党は共産党を討つのをやめろというわけ。 つまり、蒋介石は毛沢東の軍隊を討つのはやめろということ。 そして、一致して日本と戦おうというのが内戦停止・一致抗日であった。 これが救国戦線のスローガンで、これが非常に大きな影響を与えていく。 この救国戦線に大きな影響を受けたのが、 満州事変によって満州に戻れなくなってしまった張学良である。 この男が有名な西安事件を起こし、第二次国共合作を生んでいく。 この救国運動と西安事件というのは、 まさに共産党にとっては起死回生のチャンスだった。 共産党は本来、国境をなくして世界政府を作るはずであるのに、 きわめてナショナリスティックになる傾向がある。 ソ連も支那もどこでも共産主義国はそうなった。 このころ支那は「救国」という言葉に 誰も反対できないような雰囲気になっていき、親日論は急速に影を潜めた。 八・一宣言が出されて以降、抗日組織があちこちで生まれ、 支那事変が始まる一年前の昭和11年(1936)には、 支那全土各界の救国連合会が上海で作られた。 全抗日勢力はここに大同団結した。 抗日救国は支那版の人民戦線運動であり、共産主義運動だった。 人民戦線運動は決して世界の人民と提携するためのものではなく、 ナショナリズムを煽るものであり、支那の場合は そのナショナリズムを日本に向けるためのコミンテルンの大政策だったのだ。 実際、1935(昭和10)年から翌1936(昭和11)年にかけて 発生した日本人に対する主なテロ事件は、 中山水兵射殺事件、日比野洋行襲撃事件、スワトー事件、菅生事件、 長沙事件、成都事件、北海事件、漢口、上海事件、 上海の第二邦人射殺事件などなど、抗日テロが続々と起こっている。 ――――――― 国民党の掃討戦の前に支那共産党の命運は「最後の5分間」と言われた。 ところがそんなとき、 1936年(昭和11年)12月12日、「西安事件」という重大事件が起こり、 共産党は息を吹き返すことになる。 |
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