正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。

蒋介石の共産軍掃討作戦により共産軍は逃避行を行い、
陝西省の延安に到着した時はわずか6千にまで激減していて壊滅寸前だった。

蒋介石は延安に総攻撃をかけるため、
張学良の東北軍を陝西省の省都・西安に送り込んだ。
ほとんど壊滅間近の共産軍の息の根を止めるためだった。

ところが、督戦のため西安にやってきた蒋介石が、
突如、張学良に捕らえられ、共産軍の捕虜となってしまった。

張学良が共産党に寝返った理由として以下のことが考えられる。

・張が共産軍の抗日救国のスローガンに惹かれた。
・父(張作霖)が日本軍に殺されたと信じていた 。
・満州から日本軍に追われて日本軍が憎かった。

実際にはこのときどのようなやり取りがあったかは不明である。
関係者の発言が食い違い、
張学良も真実を語らずに死んでしまったためである。

しかし、最も考えられるのは、命は助けるから掃共は止めること、
日本と戦え、と蒋介石は命令され、合意したことである。

張学良は、共産党との内戦の停止と抗日を要求する宣言を発表した。

毛沢東は蒋介石を殺したくて仕方がなかったが、
コミンテルンより蒋介石を殺すなという指令が来た。
支那共産党は周恩来を西安に派遣し、
張学良に蒋介石を釈放するよう説得した。

こうして「第二次国共合作」が成立し、
絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまった。
蒋介石は掃共(共産党掃討)を中止し、一致抗日に向かうことになる。

国民政府は軍事費を国家予算の70%まで上げ、ソ連の術策に乗せられ、
支那はとうとう軍国主義と戦争への道を突き進み始めた。

そして、北支那では40万の支那軍が日本の支那駐屯軍5000を包囲し、
徐州あたりでは中央軍35万が待機し、
支那はいつでも日本軍を全滅させる準備を整えた。

ここまでくれば向こうは戦争をしたくてたまらないわけだから、
あとはいつ起こってもおかしくはない。
そして起こったのが盧溝橋事件である。
2009/05/24 09:00|年表リンク用資料
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