●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1936年(昭和11年)12月12日、西安事件。
蒋介石の共産軍掃討作戦により共産軍は逃避行を行い、 陝西省の延安に到着した時はわずか6千にまで激減していて壊滅寸前だった。 蒋介石は延安に総攻撃をかけるため、 張学良の東北軍を陝西省の省都・西安に送り込んだ。 ほとんど壊滅間近の共産軍の息の根を止めるためだった。 ところが、督戦のため西安にやってきた蒋介石が、 突如、張学良に捕らえられ、共産軍の捕虜となってしまった。 張学良が共産党に寝返った理由として以下のことが考えられる。 ・張が共産軍の抗日救国のスローガンに惹かれた。 ・父(張作霖)が日本軍に殺されたと信じていた 。 ・満州から日本軍に追われて日本軍が憎かった。 実際にはこのときどのようなやり取りがあったかは不明である。 関係者の発言が食い違い、 張学良も真実を語らずに死んでしまったためである。 しかし、最も考えられるのは、命は助けるから掃共は止めること、 日本と戦え、と蒋介石は命令され、合意したことである。 張学良は、共産党との内戦の停止と抗日を要求する宣言を発表した。 毛沢東は蒋介石を殺したくて仕方がなかったが、 コミンテルンより蒋介石を殺すなという指令が来た。 支那共産党は周恩来を西安に派遣し、 張学良に蒋介石を釈放するよう説得した。 こうして「第二次国共合作」が成立し、 絶滅寸前だった支那共産党は生き返ってしまった。 蒋介石は掃共(共産党掃討)を中止し、一致抗日に向かうことになる。 国民政府は軍事費を国家予算の70%まで上げ、ソ連の術策に乗せられ、 支那はとうとう軍国主義と戦争への道を突き進み始めた。 そして、北支那では40万の支那軍が日本の支那駐屯軍5000を包囲し、 徐州あたりでは中央軍35万が待機し、 支那はいつでも日本軍を全滅させる準備を整えた。 ここまでくれば向こうは戦争をしたくてたまらないわけだから、 あとはいつ起こってもおかしくはない。 そして起こったのが盧溝橋事件である。 |
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