正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1796年~1805年、白蓮教徒の乱

白蓮教とは仏教系のカルト宗教結社である。
支那帝国の歴代王朝末期に出現するのは
いつもこのような農民や宗教結社の反乱だった。

河南省での蜂起以来、支那各地で教徒が呼応し、
延べ数百万人がこの大乱に参加したといわれる。

この乱を鎮圧するのに十年かかり、清王朝が受けた打撃は大きかった。
当時清国の財政収入は年間8千万両とされているときに、
この乱の鎮圧に1億2千万両もの費用を費やしたとも言われ、
国庫は空っぽになった。

白蓮教に続くのはいわゆる「教党」の反乱である。
その後、太平天国の乱、捻匪(ねんひ)の乱などがあり、
死者5000万人とも、人口の五分の一が死んだとも言われる。

マルクスは西欧列強の侵略が19世紀支那の内戦を
引き起こしたと主張しているが、
それは東洋史への無知からくる誤解にすぎない。
アヘン戦争の半世紀も前に、内乱はすでに開始されていたのである。

●1850年~1864年、太平天国の乱

1850年から14年間に渡って南支那で繰り広げられたこの乱は
世界史上最大規模の内戦である。

死亡者数は推定で5000万人、支那全人口の5分の1とも言われる。

太平天国軍は従来の農民反乱と違い、新興宗教団体だった。
キリスト教プロテスタント系と道教的な土俗信仰が
結合したカルト集団である。

教祖の洪秀全(こうしゅうぜん)は科挙試験に4回落ちた
読書人(知識階層)だった。
失意のうちに広東に帰郷し、病中に見た幻覚を”天からの啓示”と
受け取って拝上帝会を作ったという。

自分をキリストの弟と称して、
天父=神の意向を伝えるという形で信仰を広げた。
1850年、広西省で蜂起した洪秀全は、みずから「天王」に即位して、
”太平天国”の樹立を目指した。

1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、みごと”天国”を樹立した。
その兵力は百万とも号された。
これはまた北京の満州人王朝に対抗する
支那人(漢人)政権=興漢でもあった。
その後、精鋭を集めて北伐軍を作り、黄河を渡って天津付近まで迫ったが、
1855年、北伐軍は各個撃破され敗退、
太平天国自体も守勢に向かうことになった。

なお、太平天国は内部分裂を重ね、
揚子江以南を支配していたが清朝の征伐軍に敗れ、
1864年、洪秀全は毒を仰いで自殺、南京も陥落した。
太平天国の乱に際しては、各地の会党、教党、匪団も蜂起した。

●支那の内乱

支那の19世紀は討伐、裏切り、略奪に満ち満ちた内乱と虐殺の世紀だった。
白蓮教徒の乱や太平天国の乱だけでなく、
捻軍の乱、天地会の乱、回教徒の乱、ミャオ族・トン族の乱もある。

反乱軍が正規軍を駆逐して小王国が樹立され、
一地方を支配したこともあれば、
流れ流れて数省を荒らしまわった流賊の反乱もあった。

支那の武術集団は日本の剣術の流派などと違い、匪賊集団に他ならない。
宗教結社は、自衛集団からやがて武装反乱集団へと変身してゆく。
宗教結社、秘密会党、匪賊組織は各地で蜂起と掠奪を繰り返し、
支那全土の治安は急速に悪化し、匪賊社会に変貌した。

匪賊が各地の山林湖沢で暗躍する一方、
政府軍もこの混乱のなかで公然と掠奪を働いた。

現在、支那政府は、アヘン戦争、英仏連合軍の北京攻略(アロー戦争)、
義和団の乱、などを取り上げ、外国軍隊の略奪を強調して非難する。
しかし、実際は支那の正規軍やその敗残兵による略奪のほうが激しかった。
2010/03/25 06:00|年表リンク用資料
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