●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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1940年(昭和15年)3月30日、汪兆銘、南京政府を樹立。
1938年(昭和13年)12月18日、汪兆銘は飛行機で重慶を脱出、 昆明(こんめい)を経て19日、仏印のハノイへ到着した。 重慶で頑張っているだけでは、支那の多くの地域が 日本軍に占領されたままであり、支那人のための政府がない。 これは支那人にとって不幸なことだと考えた汪兆銘は蒋介石と絶縁し、 命がけで重慶を脱出した。そして新しい政府を作り、 日本との協調を通して日本軍を支那大陸から引かせようとした。 汪兆銘は1938年(昭和13年)12月29日、 重慶の国民政府に対して対日和平を提議する通電を発した。 この通電要旨は、支那の主権と独立を尊重すると明言している 「第三次近衛声明」に信頼して日華和平の交渉に入るべきと述べ、 「支那の交戦の目的は国家の生存と独立にある。 正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、 国家の生存と独立は保持できるのであるから、 抗戦目的はすでに達成されたことになる」 と説いて日華永久平和の確立を訴えた。 長年の日支抗争を思うとき、汪兆銘の和平提言は率直にして寛容、 正義感と勇気に充ちた歴史的決断というべきものであったが、 重慶の国民党は汪を売国奴として党籍永久剥奪を決議した。 汪兆銘の最も憂慮したことは、 「抗日戦争」を利用して支那共産党が勢力を伸ばすことだった。 事変の継続で国民政府軍の戦力が消耗し、共産軍が増強されることになれば、 たとえ日本に勝っても国家は赤化という恐るべき事態に 直面すること間違いない。 汪はそれを恐れた。汪のこの憂慮が戦後、支那大陸で事実となる。 さらに、汪に呼応して決起するものと目論んでいた雲南や四川の将領たちも、 蒋介石の中央軍に牽制されて動くことができなかった。 重慶政府が和平提議に応じない場合は、自分の出身地の広東をはじめ、 広西、雲南、貴州、四川など日本軍占領地区以外の諸省に 和平政府を樹立するのが汪の構想だった。 日本の占領地域で生まれた政権では支持が得られにくいためである。 しかし、これらの諸省の軍隊は一兵も動かず、 汪の目論見に重大な誤算が生じたのであった。 のみならず、仏印滞在さえ危険になるに及んで、 汪は遂に日本占領下の上海に脱出した(5月6日上海着)。 上海に着いた汪は、直ちに、和平政府樹立によって 抗日の無意義であることを実証したいこと、 日本は第三次近衛声明を額面どおりに実行すべきこと、 将来、重慶政府と和平政府が合流したときには 自分は下野すること等の意向を表明した。 翌6月、汪兆銘は日本を訪問した。 彼は平沼首相や各大臣、近衛前首相らと会見して、 日本側が支那の主権と独立を尊重するよう改めて釘を打った後、 上海に帰って新政府樹立運動に乗り出した。 そして南京で政府を樹立することになった。 ●1940年(昭和15年)3月30日、汪兆銘、南京政府を樹立。 汪兆銘はハノイで暗殺されそうになり、 また、雲南、貴州、四川などの諸省の軍隊が動かずに 目論見が外れたため、上海で新政府樹立運動に乗り出した。 当時、日本軍占領下の 北支(おおむね河北、山東、山西省)には中華民国臨時政府、 中支(おおむね江蘇、安徽省)には中華民国維新政府 が存在したが、汪兆銘はこの両政権と協議を遂げた上、 1940年(昭和15年)3月30日、日本との「善隣友好、共同防共、経済提携」 を掲げ、南京に中華民国国民政府(新政府)を樹立した。 新政府の創設ではなく国民政府の「南京への遷都」の形をとり、 国旗も重慶国民政府と同じ「青天白日旗」に 「和平・反共・建国」の六文字を記した黄布をつけたものとした。 中華民国臨時・維新両政府はこの中央政府に吸収された。 もちろん日本は汪兆銘政権を支持したが、汪兆銘も日本政府も、 蒋介石を主席として迎える余地を残すために 汪兆銘を主席ではなく主席代理とし、重慶政府との和平工作の努力を続けた。 新政府は北は万里の長城から南は広東、広西に至る 支那本部(中原)を統治することになった。 新政府が樹立されたその日、 アメリカの国務長官・コーデル・ハルは汪政権樹立を非難し、 アメリカは依然として重慶政府を支那政府と認める旨の声明を発表した。 重慶国民政府との交渉は成立せず、 ●1940年(昭和15年)11月30日、日本は汪兆銘の南京政府との間に 『日華基本条約』を調印して汪兆銘政権を正式に承認した。 ◆日華基本条約 日本は汪兆銘・南京国民政府成立前後から、 重慶政府との和平工作の努力をひそかに継続していた。 参謀本部及び支那派遣軍総司令部は宋子良と自称する人物との接触に 望みをつなぎ、1940年(昭和15年)2月からこの男を通じて 日華和平工作を進めたが、成果は思わしくなく、 東条新陸相の反対もあって9月に打ち切った(宋子良は偽物だった)。 7月に第二次近衛内閣が成立すると、外相に就任した松岡洋右は、 従来軍民によってバラバラに行われてきた対重慶和平工作を 外務省の統制下におくこととし、この方針は11月13日の御前会議で 決定された「支那事変処理要綱」で明文化された。 ここにおいて、11月末までに対重慶和平工作が成功しない場合は、 日本は汪兆銘政権を中華民国の正式政府として承認することとなった。 松岡の和平工作は浙江財閥の巨頭銭永銘(せんえいめい)を通じて行われた。 このように日本は重慶との和平交渉の努力を行っていたのだ。 1940年11月28日の大本営政府連絡懇親会で松岡外相自ら、 重慶からの汪政権承認延期申し入れは謀略の範囲を出ないと 考えられると説明し、予定通り汪政権を承認することを決定した。 そして、1940年(昭和15年)11月30日、汪の南京国民政府との間に 「日華基本条約」を調印して、同政府を正式に承認した。 重慶の蒋介石政権と合流する場合を考慮して 国民政府主席代理だった汪は正式に主席に就任した。 同時にこの日、「日満華共同宣言」が発表された。 ◆日満華共同宣言 「日華基本条約」で汪兆銘の南京国民政府を日本が承認したその日、 「日満華共同宣言」が発表された。 その骨子は、 「日満華三国が本然の特質を尊重し合い、 道義に基づく東亜新秩序建設の共同理想の下に、 東亜及び世界の平和に貢献する」 ことを前文で述べ、三国が相互に主権と領土を尊重すること、 善隣友好・共同防共・経済提携の努力を尽くすことを声明した。 重慶政府は依然抗戦を続けており、多くの問題は残されていたものの、 日満華三国を基軸とした東亜安定の基本的構図は これで実現したものとわが国は理解したのであった。 歴史的に見れば、明治以来の大アジア主義思想が、 曲がりなりにも具現化への端緒を得たということができる。 これはアジア復興への曙光たるべきものだった。 だがこの射し始めたアジアの曙光をかき消すかのごとく勃発したのが 翌1941年(昭和16年)の日米戦争であった。 日米戦争がなければ、東亜の天地はゆるぎない安定へ向けて、 確実に進んだであろう。 ●1945年8月16日、汪兆銘・南京政府解消 汪兆銘の南京政府は終戦翌日の1945年(昭和20年)8月16日をもって解消し、 南京政府に参画した支那人は「漢奸(売国奴)」として 重慶政府に逮捕、処刑された。 汪自身は、1935年に狙撃されたときの傷が悪化したため、 昭和19年3月来日し、名古屋帝大付属病院に入院したが、 同年11月10日他界していた。 南京・中山陵に隣接したコンクリート製の汪の墓地は 支那陸軍空軍総司令・何応欽の密令を受けた部隊によって無残に爆破され、 その上、汪の霊柩は市内に運び出されて焼却された。 終戦時に汪が存命していたならば、 第一級の漢奸として処刑されたことは間違いない。 戦後、汪兆銘は台湾の国民政府からも、 支那大陸の中共政府からも漢奸という不名誉な扱いを受けてきた。 汪兆銘夫人は裁判にかけられたが、そこで次のような主張を堂々と述べ、 傍聴席から激しい拍手が起こった。 「日本軍の進撃の前に国民政府要人が先を争って逃亡し、 汪は決然、対日和平を提唱し、 あえて虎穴に入り虎児を得んとしたのであった。 日本軍の手中におかれた南京・上海地域の支那民衆を 保護する支那側機関としては、汪の南京和平政府しか存在しなかった」 国民にとって自らの国の政府が存在しないことほど悲しいことはない。 実験は日本の軍隊が握っていたとしても、汪兆銘の政権があれば、 充分とまではいかなくても民衆の要望は多く通る。 無政府状態よりははるかにいい。それを裁判の傍聴者は実感していたのだ。 反共平和政府を樹立し、 日華和平の範を示すことによって重慶と国民を啓蒙し、 重慶の交戦政策を翻意せしめんとする。…これが汪の運動の狙いであった。 日米開戦と日本の敗北という予期せぬ事態の展開が、 蒋介石を勝者たらしめ、汪兆銘を敗者たらしめたにすぎない。 汪はかつて国民党左派の領袖であり、 支那共産党と事を共にした経験があるだけに、 共産党の本心と手段をよく見抜いていた。 汪には、蒋介石の交戦が日本に抵抗できぬのみでなく、 共産党を押さえることもできず、 このままでは国家民族は共産党の犠牲になる他ないことがわかっていた。 「抗日戦争」勝利の後、国民党が共産党に裏切られて敗退し、 支那が赤化されるに至った歴史をみると、 共産党の謀略に対する汪の憂慮と警告の的確であったことに 改めて驚嘆する他ない。 共産主義の危険な成長に関する彼の予言は見事に的中した。 ――――――――――――――――― 日本にとっても汪兆銘にとっても大きな誤算は、 日本はアメリカと戦争をしなくてはならなくなったことである。 アメリカとの戦争がなければ、南京政府のみが支那に残り、 そのとき長く続いた日本と支那の戦争が終わっていた。 アメリカとの戦争に日本が負けたため南京政権がつぶれ、 日本が続けてきた和平の努力が無駄になってしまった。 そして、コミンテルンの目論見どおり、 支那は共産党のものとなり今日に至っている。 |
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