●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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近衛声明
◆1938年(昭和13年)1月16日、第一次近衛声明 「国民政府を相手にせず」 近衛文麿首相は、 「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するに足る 新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して 再生支那の建設に協力せんとす」 という声明を発出した。 つまり、重慶にあった蒋介石政府とは断交し、国民政府が支配しない地域に できつつあった政権を相手にするということである。 日本としては、何とかして事変を収集したいがため、 抗日姿勢を堅持する蒋介石政権(当時、重慶に遷都)に替えて、 「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」すると考えたのだ。 ◆1938年(昭和13年)11月3日、第二次近衛声明 「東亜新秩序」 この声明は「東亜新秩序」を謳ったもので、 「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」 が支那出兵の目的であると述べ、 「新秩序」とは支那事変後の東アジアのあり方として、 日本・満洲・支那3国の提携により東亜に防共、経済統合を 実現しようとすることであるとした。 「東亜新秩序」という言葉が使われた最初であり、 のちの「大東亜共栄圏」構想の出発点である。 さらに声明は「国民政府といえども従来の指導政策を変更し、 その人的構成を変更して更生の実を挙げ、 新秩序建設に来たり参ずるにおいては、あえてこれを拒否するもあらず」 と述べ、新秩序建設への支那国民政府の参加を呼びかけたのであり、 実はこの部分こそ、第二次近衛声明の主眼点なのであった。 つまり、この声明は1月5日(10ヶ月前)の 第一次近衛声明「国民政府を相手にせず」を修正するものだったのだ。 世界列強がブロック経済体制を確立している中、 日・満・支の経済ブロック建設は日本にとって自存自衛の策だった。 ◆1940年12月22日、第三次近衛声明 第三次の声明は下記の「日華協議記録」の合意事項を骨子とする内容。 ■1938年11月20日、「日華協議記録」調印。 日支和平工作の予備会談が11月中旬、上海のにおいて行われた。 日本側代表は参謀本部支那班長・今井武夫中佐、支那代表は梅思平である。 この会議では支那側提案の和平条件について激論が戦わされた。 支那側はここで「挙事計画」を提案したが、 これが後日、汪兆銘の重慶脱出のための基本計画となった。 1.和平交渉が成立すれば、汪兆銘は即刻、同志とともに重慶を脱出し、 昆明(こんめい)に赴く。 2.汪の昆明到着後、日本政府は日華和平解決条件を公表する。 3.汪は蒋介石との関係断絶を声明し、ハノイ、次いで香港に向かう。 香港で東亜新秩序建設のための日本との協力と反蒋声明を発表する。 4.この声明に呼応して雲南及び四川軍が反蒋独立し、 これに日本軍が協力する。 汪は雲南、四川等、日本軍の未占領地域に新政府を樹立する。 5.新政府は東亜新秩序建設と日華提携の政策を発表し、 平和運動を開始する。 6.新政府の軍隊は5~10師とし、共感は日本より招聘する。 これが実に、支那側が提起した日支和平計画の構想だった。 東亜新秩序建設のための汪政権樹立は、 まさに支那側和平派自身の発想だったのであり、 決して日本が一方的に強制した和平工作ではなかったことを 「挙事計画」は立証している。 会談終了後、今井中佐は直ちに帰国して、 陸軍省及び参謀本部首脳に日華協議内容を報告、熱心な討議の後、陸軍省、 参謀本部とも、この協議内容を基礎に 日支和平工作を推進することに決した。 この結果、影佐軍務課長と今井武夫中佐が上海に向かい、 支那側の高宗武、梅思平両代表と字句の修正など最終的な調整を行い、 11月20日夜、「日華協議記録」と「諒解事項」に調印した。 ■日華協議記録の要点 前文で日華両国が、 「東亜新秩序建設のための善隣友好・共同防共・経済提携」 を推進する旨を述べ、そのための条件として 1.日華防共協定(日本軍の防共駐屯を含む)の締結。 2.支那の満州国承認。 3.支那は支那内地での日本人の居住営業の自由を認め、 日本は在華治外法権の撤廃、租界の返還を考慮する。 4.防共駐屯以外の日本軍は平和回復後、即時撤退を開始し、 支那内地の治安回復とともに二年以内に撤兵を完了する。 等を挙げ、日本政府が上記条件を発表するとともに 汪兆銘は蒋介石と絶縁し、新政権を樹立する、という内容だった。 日本では日華協議記録は陸軍省・参謀本部に報告され、 「日支新関係方針」として決定された。 (第三次近衛声明はこれに基づいて発表されることになる) 支那側も汪と協議の結果、 1.汪が協議記録を承認したこと 2.第三次近衛声明では日本が経済独占と 内政干渉を行わない旨を明示すること 3.汪は12月8日に重慶を離れ、10日昆明到着の予定なので、 12日ごろ近衛声明を発表してほしい との回答を日本に伝えてきた。 そして遂に汪兆銘はこの約に従って決死の和平工作に踏み切る。 しかし、撤兵の項目が省略されていた。 撤兵の条を省略したのは、軍の士気に及ぼす影響などの理由で 陸軍が反対したためであるが、撤兵を重視する汪兆銘を甚だ失望せしめた。 |
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