●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
||
すばらしい日本
正統史観年表 内 検索 慰安婦と強制連行 南京大虐殺ネット最強の論客 いわゆる南京大虐殺 竹島・尖閣諸島・北方領土 おすすめリンク 1
当ブログのリンク先について
当ブログが紹介しているリンク先の
他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
ホームページよりもブログのほうが
簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1939年(昭和14年)8月23日、独ソ不可侵条約。
日独防共協定後、枢軸陣営はますます強化されつつあった。 ドイツから防共協定の強化が提案され、 さらに日独伊の三国同盟草案が提示され、日本はその検討を迫られていた。 日本では、ソ連の他にイギリス・フランスも同盟の対象とするドイツ案を支持 する陸軍と、対象をソ連に限るとする陸軍以外の意見が大きく対立していた。 三国同盟の基本性格をめぐって、日本の国家意思は容易に決まらず、 ドイツは日本の回答延期に焦慮し、 1939年5月22日、日本抜きで独伊同盟(鉄鋼同盟)を締結した。 このような状況下の1939年(昭和14年)8月23日、 突如独ソ不可侵条約が締結され、日本政府当局を愕然とさせた。 日本政府はこれをドイツの背信と断じて防共協定強化交渉の打ち切りを決定 (8月25日)するとともに、ドイツに抗議を申し入れた。 8月28日、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」 云々の声明を発して総辞職した。この条約以降ドイツとの関係は冷え切った。 ところが、第二次欧州(世界)大戦勃発後、 ドイツは電撃戦でとてつもない強さを見せた。 ドイツと同盟関係を結んでおけば将来は安泰だという気運が高まり、 やがて日本は日独伊三国同盟を結ぶことになる。 独ソ不可侵条約にはポーランドを ドイツとソ連で分割するという密約も入っていた。 要するにドイツ・ソ連間にある地域を 両国で侵略し山分けしようと合意したわけだ。 独ソ不可侵条約が結ばれた時期、日本はノモンハンでソ連と交戦中だった。 |
誇りある日本 論点 チャンネル桜 英語で世界に発信! 距離を置くべきアメリカ ときどきニコ生放送! アフィリエイトやってない!
当ブログはアフィリエイトをして
いませんし、どのランキングにも 参加しておりません。このブログ で何の収入も得ておりません。 管理人へのメールフォーム
|
Copyright(C) 2006 正統史観年表 All Rights Reserved.
Powered by FC2ブログ. template designed by 遥かなるわらしべ長者への挑戦. |