正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1941年(昭和16年)4月13日、日ソ中立条約調印。

・本条約は5年間有効で、期間満了の1年前までに廃棄の通告がなければ、
さらに5年間の自動延長がなされることになっていた。

・1941年7月、日本陸軍は「関東軍特別演習」をおこなったが、
演習はあくまでも演習であったし、当時、ソ連からの抗議は一切なかった。

・1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相が佐藤尚武大使を呼び、翌年(1946)4月
に満期になる日ソ中立条約を延長しない旨を通告してきたが、その際、
日ソ中立条約は1946年(昭和21年)4月までは有効であることが確認されていた。

日本政府は1945年(昭和20年)6月22日、ソ連参戦防止の意味もあり、
駐日ソ連大使を通じて終戦のための仲介をソ連に依頼しており、
ソ連からの仲介の返事を待っていたため発表されたポツダム宣言を黙殺した。

なかなかソ連から返事が来ないので、
同年7月10日、特使として近衛文麿をモスクワに派遣することにした。
しかし、ソ連は7月18日に近衛の訪問を拒否してきた。
そしてその約1週間後の7月26日にポツダム宣言が発表された。

実はそのときソ連は既に同年2月4日~11日にクリミア半島で行なわれた米英ソ
ヤルタ会談の密約において、アメリカのルーズヴェルト大統領から、
千島列島をソ連に引き渡す事を条件に、日ソ中立条約を一方的に破棄して
対日参戦する事を提案され、そう決めていたのだが、それを知らない日本は
ムダな依頼をしていた事になり、来るはずもない返事を待っていたのである。
2009/05/15 09:00|年表リンク用資料
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