正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し第二次欧州(世界)大戦勃発。

ヨーロッパ戦線の概要は以下の通りドイツとソ連が凄まじい侵略を行なった。
しかしそれ以前にイギリスもアメリカも世界中で
ドイツ・ソ連顔負けの侵略を繰り返していたのだからどっちもどっちである。

第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、
1933年(昭和8年)にナチス党のヒトラーが政権の座につき、
ユダヤ人を迫害する一方で、武力による領土回復と拡張を進めた。

●ドイツはソ連と1939年(昭和14年)8月23日にソ連との間に
独ソ不可侵条約を結んだ上で、
9月1日に150万にのぼる機甲部隊をポーランドに侵攻させた。

ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスは
2日後の9月3日にドイツに対し宣戦布告し、
ドイツの軍港などへの攻撃を仕掛け、
ここにおいて第二次欧州(世界)大戦が始まった。

ヒトラーの命を受けたドイツ軍は、圧倒的な力でポーランドを進撃し、
首都ワルシャワを陥落されそうになると、
9月17日には今度はソ連がポーランドを東部から侵攻した。

ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスは
ドイツと同じくポーランドに侵攻したソ連に対しては、
どういうわけだか宣戦布告しない。

侵略をやってもイギリスとフランスが何もしないことに味をしめたソ連は、
11月にはフィンランドにも侵略を開始した。
一連のソ連の侵略に対してソ連は国際連盟から除名処分となっただけである。

ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、
ドイツの占領地域に在住するユダヤ人の強制収容が始まった。

ソ連の占領地域でもカティンの森事件を始め、1939年から1941年にかけて
180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。

翌年1940年4月にはドイツは
中立国だったデンマークとノルウェーに侵攻し占領した。

ソ連に侵略されたフィンランドはカレリア地方を
ソ連に割譲してソ連と講和した。

続いてソ連はバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア )に進駐し、
親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、
バルト3国を併合した。同時にソ連はルーマニアから領土を割譲させた。

ポーランドがドイツとソ連に占領された後は、
ドイツとイギリス・フランスの間には大きな戦闘は行なわれず
小康状態が続いていたが、1940年5月10日、ドイツ軍は
ベルギー、オランダ、ルクセンブルグに向け電撃的な攻撃を開始し、
相次いで占領した。

5月13日には一気にフランス領内にまで攻め込み、
フランス東部を瞬く間に制圧。
6月14日にはドイツ軍はパリに無血入城し、
22日にフランスはドイツ軍に降伏。
フランスでは親ドイツのヴィシー政権が樹立される。

7月10日、枢軸国の一員であるイタリアもイギリスとフランスに対し
宣戦布告をし、北アフリカやバルカン半島へ侵攻を開始した。

ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、
8月頃よりイギリス本土への攻撃を始めるが、イギリス軍もこれに対抗、
ドイツ軍はイギリスへの上陸作戦を断念し、こう着状態となった。

その後、連合国と枢軸国は地中海やアフリカ(自分達の植民地)で
戦闘を行なう。

1940年9月27日に日本とドイツとイタリアの間に日独伊三国同盟が結ばれ、
日独伊とソ連による4ヵ国同盟の構想も生まれたが、
翌1941年6月22日には、
ドイツ軍が独ソ不可侵条約を結んでいたソ連に攻め込んで宣戦布告した。

●1941年6月22日、独ソ戦勃発。

ソ連軍(赤軍)は負け続け、ドイツ軍は瞬く間にソ連領内を進軍した。
連合国側は、ポーランドやフィンランドを侵略したソ連とは
距離をおいていたが、独ソ戦の勃発によりドイツの敵国となったソ連を
連合国の側に受け入れ、ソ連に対する膨大な物資の援助を開始した。

つまり敵の敵となったために味方にしたわけだ。
しかし、年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ね続け、
ドイツ軍は首都・モスクワの近郊にまで迫る。

この独ソ戦勃発によって松岡洋右外相の和平構想が崩壊した。

ドイツから日本に対して正式に参戦の要請がなされた。
日本はドイツを助けてソ連を攻撃するか、
あるいは石油などの資源を確保するために南方に進出するか、
という大きな岐路に立たされたが、結局、日本は独ソ戦不介入を決めた。

日本はドイツとソ連の思惑に翻弄されるだけの結果に終わった。

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独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)の成立が
世界を驚かせたことからもわかるように、
それまでのドイツとソ連は不倶戴天の状態であった。

共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に加入しつつも
やはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。

ヨーロッパを巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソ連は、
イギリス・フランスの煮え切らない態度に対して
ドイツと手を握ることにした。

ドイツがポーランドと戦争を始めるとソ連は、
モロトフ=リッペントロップ協定の秘密議定書に基づき
緩衝地帯の分割を進めた。

1939年9月のポーランド分割によって、
ナチス・ドイツとソ連は緩衝地帯を自らの手で消滅させた。

国境を接したドイツとソ連両列強の戦争は時間の問題であり、
アドルフ・ヒトラーはヨシフ・スターリンが
ドイツに対する戦争準備をしていると考えていた。

また、当時イギリスはソ連とアメリカの参戦をあてにしていたため、
ヒトラーはソ連を倒せばイギリスが講和してくると考えた。

1941年6月22日、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下に
ソ連を奇襲攻撃した(独ソ戦開始)。
この出来事は全世界を震撼させた。

両国軍による捕虜虐待、虐殺、暴行、強姦、略奪行為は凄まじいもので、
戦場の各地で見られた。

緩衝地帯の国家が枢軸・連合に鞍替えするといった状況の中、
ナチス・ドイツ東部にいたる地域を
ソ連の支配領域とすることにより戦争は終結する。

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●1941年12月7日(現地時間)、日本の真珠湾攻撃やマレー半島上陸などにより
日本とアメリカ・イギリスの間で戦争が勃発したのを受け、
ドイツとイタリアは12月11日にアメリカに宣戦布告。
これにより、これまでヨーロッパ戦線において虎視眈々と参戦の機会を
窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦することが
できるようになった。

参戦しないという公約で大統領に当選していた
フランクリン・ルーズベルトは、日本を戦争に巻き込むことによって
ヨーロッパの戦争に参戦できるようになったのである。

その後、ドイツ軍はスターリングラード攻防戦で
ソ連軍に歴史的な敗北を喫し、
モスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始める。

また北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転する。

1942年7月からはドイツ政府による
ユダヤ人絶滅計画であるホロコーストの実行が本格化した。

翌1943年になるとドイツ軍は、相次いで敗北し、
もう攻勢に出ることはなかった。

イタリアは連合軍に対して完全に劣勢に立たされ、
ムッソリーニは逮捕され、新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、
直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。枢軸国はイタリアに裏切られた。

1944年の4月、ソ連軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、
ほぼ完全に開戦時の領土を奪回。
さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻。

一方で、連合国軍は、6月6日に、
イギリス軍とアメリカ軍を中心にノルマンディー上陸作戦を行い、
ドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、
まもなくフランス全土がドイツの占領から解放された。

親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、
ドイツ軍の占領に協力した者の多くが死刑になったり国外に逃亡した。

東部戦線でもドイツは敗北を重ね続け、
1945年に入ると、ポーランドはソ連軍の支配下に入る。
また、連合国軍はオーストリア、ドイツ領内に進む。
絶望的な状況の中、ヒトラーが自殺、
ドイツが無条件降伏し、ヨーロッパでの戦争は終結した。

●1945年5月7、8日、ドイツ降伏

フランクリン・ルーズベルトは天罰が下ったのか4月12日に死んだが、
その死はドイツの絶望的な状況には何の変化ももたらさなかった。

ヒトラーは、4月30日にベルリンの地下壕内で自殺し、
首都ベルリンがソ連軍によって占領された。

5月7日、ヒトラーの後を継いだドイツ指導者が
まずはソ連を除く連合国に無条件降伏した。
翌5月8日にはソ連に無条件降伏した。
ここにおいてヨーロッパでの戦争は終結した。

日本もこの3ヵ月後に降伏する(ポツダム宣言受諾)わけだが、
ドイツと日本は降伏の仕方が決定的に異なることに注意する必要がある。

ドイツは最後まで抵抗してヒトラーも自殺し、
ゲーリングも戦列を離れ、
ついに崩壊して、まったく文字通りの無条件降伏をした。

ドイツ降伏の直前から、ナチス指導者の逮捕が本格化した。
連合軍が各地で逮捕したナチス指導者は23人で、
彼らの身柄はいったん仮拘置所に移送された後、
ドイツ東南部のニュルンベルグに送られた。

ニュルンベルグは戦前、
ナチス・ドイツがユダヤ人弾圧を宣言した都市であり、
そこで10月からニュルンベルク裁判が開始される。

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●1945年11月20日~1946年10月1日、ニュルンベルク裁判。

1945年11月20日~1946年10月1日に、
第二次世界大戦中にドイツによって行われたとされた
「戦争犯罪」を裁く「国際軍事裁判」が開かれた。

「裁判」という名が付けられてはいるが、
これは後の東京裁判と同じように戦勝国による
復讐の儀式、茶番劇に過ぎないシロモノだった。

戦勝国が敗戦国を裁くなどということは人類史上まれに見る暴挙であった。
戦争は国際法上認められた行為で、国家間の利害が対立して起こる。
互いの言い分は当然あり、
どちらが正しくどちらが間違っているというものではない。

この「裁判」ではナチス、ゲシュタポ(秘密警察)、ナチ親衛隊、保安隊が
犯罪団体として指定されていたが、ドイツ国家そのものは対象外だった。
ナチスなどの犯罪団体が行なったユダヤ人大虐殺(ホロコースト)など
のみをC級犯罪「人道に対する罪」で裁いた。

判決は以下の通り

・死刑:12人
・終身禁固刑:7人
・無罪:3人

※無罪は犯罪団体の構成員ではなく、
ホロコーストに加担していなかったとの理由。

しかし、この12人を除けば、裁判はドイツみずからの手にゆだねられ、
結局、戦後約200万人のナチ協力者がリストアップされたにもかかわらず、
ほぼ全員が何の罪も与えられず、社会復帰を果たしている。

東京裁判では、連合国の一方的な裁きがまかり通り、
ナチス戦犯に対しては、西ドイツによって裁判も処罰も行なわれた。

■「復讐の儀式、茶番劇」に過ぎないと言われるのは以下の理由からである。

●戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けたものにすぎない。

●法的には全く根拠を欠いたもので、
本当は「裁判」ではなく単なる戦勝国の政治行動である。

●裁判官がすべてアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという
戦勝国だけから出ていて、裁判の中立性を全く欠いていた。

●第二次欧州大戦の全ての責任をドイツに負わせようとした。

●ドイツ側の「犯罪(戦勝国の憶測によるものも含む)」を一方的に断罪
したが、戦勝国側が犯した犯罪、行為はすべて不問、免責された。

それには以下のものが含まれる。

・フランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告。
(戦争を始めたのが「犯罪」とすれば、
ドイツに宣戦布告したフランスとイギリスは犯罪国である。)

・ソ連のポーランド、フィンランド、バルト三国などの侵略
(ソ連はドイツに勝るとも劣らない卑劣な侵略をやったが、
ソ連は裁かれず、ドイツだけが「平和に対する罪」で告発された)

・連合国軍(おもにアメリカとアメリカから爆撃機、爆弾を
供与されたイギリス)によるドイツへの無差別爆撃。
少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった(ドレスデン虐殺がその代表)

・ドイツのソ連占領地区で起きたソ連兵による想像を絶する
数多くの強姦・暴行・殺人。

・終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死。

・戦争集結直前の、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓により、
膨大な数のドイツの男女、子供がフランスの収容所で死んだ。
(その数は90万以上といわれる)

・連合軍とソ連は戦時国際法に
違反したレジスタンス(パルチザン)活動を積極的に支援していた。

―――――――

こうしてみると、ニュルンベルク裁判も東京裁判同様、
単なる茶番劇だったことがわかる。

東京裁判が「東京裁判条例」に基づいて行われたのと同様、
ニュルンベルク裁判は8月8日の戦争犯罪会議で勝手に作った
「ニュルンベルグ裁判のチャーター」に基づいて実施された。

◆1945年8月8日、戦争犯罪会議

1945年5月7日にドイツが降伏し、この時から戦後処理に向かって、
連合国は動きはじめるが、具体的な内容が決まったのは、
日本が降伏するわずか一週間前の8月8日だった。

この日、ロンドンで英米仏ソの4ヵ国外相会談が催され、
この4ヶ国はヨーロッパ枢軸国の

「重大戦争犯罪人の審理と処罰のための裁判所を
設置するために国際軍事裁判条例を定めること」

にはじめて合意した。

現行の国際法や習慣法や条約などでは、
ドイツの指導者を裁くことはできない。

そこで4ヶ国はこの戦争犯罪会議で、
戦犯の意義を勝手に拡張することを決めた。

もちろんこれは事後法であり、文明社会では絶対に許されないことである。
東京裁判でも戦勝国は日本に対して同じことをやっている。

これに基づき、ドイツの首脳を裁いたニュルンベルグ国際軍事裁判起訴状が
10月に発布される。これが「ニュルンベルグ裁判条例(チャーター)」である。
2009/05/13 09:00|年表リンク用資料
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