●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言受諾
1945年(昭和20年)7月17日よりアメリカ、イギリス、ソ連の首脳 (トルーマン、チャーチル、スターリン)がドイツ・ベルリン郊外にある ポツダムに集い、7月26日、日本に降伏を勧める宣言が発表され、 日本政府に7月27日、この宣言が届いた。 この「ポツダム宣言」を日本が受諾すれば降伏、 受諾しないならば戦闘続行ということとなった。 この宣言はアメリカ、イギリス、支那の3ヵ国の共同声明として発表された。 ソ連は日本と日ソ中立条約を結び、 まだ対日戦に参戦してなかったので共同声明からは外されていた。 実際にこの宣言に署名したのはトルーマンだけで、 チャーチルは本国での選挙敗退で帰国し、 支那(アメリカが支援していた重慶政府)の蒋介石は ポツダムに来てさえもいなかった。 要するにアメリカが自分で作って自分で署名したというだけの話である。 この点も反日歴史家は明らかにしようとしない。 日本政府は同年6月22日、ソ連参戦防止の意味もあり、 ソ連大使を通じて終戦のための仲介をソ連に依頼しており、 ソ連からの仲介の返事を待っていたため発表されたポツダム宣言を黙殺した。 なかなかソ連から返事が来ないので、 7月10日、特使として近衛文麿をモスクワに派遣することにした。 しかし、ソ連は7月18日に近衛の訪問を拒否してきた。 そしてその約1週間後の7月26日にポツダム宣言が発表された。 実はそのときソ連は既に同年2月4日~11日にクリミア半島で行なわれた米英ソ のヤルタ会談の密約において、アメリカのルーズヴェルト大統領から、 千島列島をソ連に引き渡す事を条件に、日ソ中立条約を一方的に破棄して 対日参戦する事を提案され、そう決めていたのだが、それを知らない日本は ムダな依頼をしていた事になり、来るはずもない返事を待っていたのである。 しかし、8月6日に広島に、8月9日に長崎にそれぞれ原爆が投下され、 同じ日には日ソ中立条約を一方的に侵犯してソ連軍が満州に進攻したため、 8月10日に「天皇の国法上の地位を変更しないこと」 を条件にポツダム宣言を受諾する回答を発した。 8月12日、アメリカの国務長官バーンズより回答があり、 「日本国の政治形態は日本国民の意思で決まる。 国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に"subject to"する」 とあった。 ("subject to"とは「占領下におかれる」「隷属する」という意味)。 この語が「制限下に置かれる」なのか「隷属する」なのかの解釈をめぐって 紛糾したが、8月14日午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達した。 そして、8月15日、ラジオの玉音放送で日本の降伏を国民に知らせた。 そして9月2日の降伏文書調印となる。 「ポツダム宣言」は日本国軍隊の無条件降伏であり 日本国の無条件降伏ではない。 ポツダム宣言が要求しているのは、 「日本国政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、 日本政府がそれを保障すること」 である。 日本はポツダム宣言の諸条件のもとに降伏したのであって、 日本の「主権」まで占領軍に差し出したわけではない。 しかし、降伏文書にもバーンズが8月12日に回答したのと同じ 「国家統治の権限は、連合国軍最高司令官に"subject to"があり、 日本が「無条件降伏」したかのような誤った考えを日本国民に信じ込ませた。 日本は一切の反論を許されず、あたかも「無条件降伏」したかのごとく、 占領統治に徹底的に服従させられたのである。 マッカーサーはまるで日本が無条件降伏したかのような占領政策を行なった。 この重大な部分の原文は以下の通り。 "We hereby proclaim the unconditional surrender to the Allied Powers of the Japanese Imperial General Headquarters and of all Japanese armed forces and all armed forces under Japanese control wherever situated." ドイツと日本は降伏の仕方が決定的に異なる。 ドイツは最後まで抵抗してヒトラーが自殺し、ゲーリングも戦列を離れ、 ついに崩壊してまったく文字通りの無条件降伏をした。 ドイツには政府もなく交渉相手がない状態だった。 それに対して、日本はまだ連合国が日本本土に上陸しない間に、 ポツダム宣言が発せられ、それを受諾したのである。 日本は交渉相手として政府が残っていた。 これを勘違いしている人が多い(勘違いさせようとしている輩が多い)。 広島原爆投下、ソ連参戦後の8月9日、 宮中で最高戦争指導会議が6人の構成員だけで開かれた。 黙殺し続けたポツダム宣言を受諾するかどうかが議題であった。 高豪外相、米内海相の無条件受諾の意見に対し、 阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀総長の三人は、 【1】国体維持 【2】戦争犯罪人の処罰 【3】武装解除方法 【4】占領軍進駐問題等四条件付受諾の堅持 で、意見がまとまらなかった。 陸軍軍部からすれば、内地にはなお戦わざる300万の軍隊があり、 外地には200余万の軍隊があった。 戦局も五分五分の互角であり、負けとは見ていない。 ましてや本土決戦の準備も着々と進んでいる。 戦うところ死中に活を求めてこそ勝機があるとも考えている、とした。 陸軍上層部は、負けているのは海軍であり、 陸軍はまだ戦えると主張し、ポツダム宣言受諾に反対した。 しかし、この会議の最中、長崎に第二の原爆が投下された。 受諾の可否の決定については、一人でも異論があれば 内閣意見の不統一ということで総辞職という事態をも招きかねない。 最も恐れられているのは、もし総辞職にでもなったら、 陸軍がそれを機に、戦争継続内閣を組織することである。 しかし、宣言受諾は一刻の遅延も許されなかった。 ポツダム宣言を受諾するか否かで意見が分かれた8月9日の御前会議で、 鈴木貫太郎首相は「私ではまとめようがありません」といって逃げた。 本当はこんなことは絶対にやってはいけないことであった。 立憲君主制度では責任は必ず大臣が負わなければならないからだ。 ところが、鈴木内閣は決断を放り出して天皇に丸投げした。 すると昭和天皇が 「それならば私の意見を言おう。 私は外務大臣(東郷茂徳)の意見に賛成である。」 と述べられ、これでポツダム宣言受諾が決まった。 それまで憲法上、沈黙を御守りにならざるを得なかった 天皇陛下が、ついに御発言なされた。 その決断は一般市民を狙った残虐な爆撃をするアメリカ軍を非難されながら、 日本人、そして世界全体を深く御思いになられる心情ゆえのことだった。 ポツダム宣言受諾は、スイスを通じてアメリカと支那へ、 スウェーデンを通じてイギリスとソ連へ通達した。 この間、陸軍内部には終戦を阻止する宮城占領事件など、 しきりに不穏な動きがあり、 クーデター計画の策動もあったが大事に至らなかった。 阿南陸相は最後の最後まで陸軍を代表して終戦に反対したが、 過去一切の計画を捨て、聖断に従って全閣僚とともに詔書に署名した。 14日の夜、外務省と首相官邸をまわり丁重に詫び、 その深夜、陸相官邸で切腹してはてた。 遺書には「一死以て大罪を誤し奉る」とあった。 ――――――――――――――――― ●玉音放送(終戦の詔勅) 昭和20年(1945年)8月15日 ポツダム宣言受諾を連合国に通達した次の日、8月15日の正午、 ラジオ放送にて昭和天皇による終戦の詔書が流され、 大東亜戦争でのポツダム宣言受諾(日本の降伏)が日本国民に伝えられた。 昭和20年(1945年)8月15日 正午 『終戦の詔勅』 玉音放送 【口語訳】 http://homepage1.nifty.com/tukahara/manshu/syusensyousyo.htm 私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、 非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、 ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。 私は、日本国政府からアメリカ、イギリス、支那、ソ連の4ヶ国に対して、 それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。 そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、 代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。 先に米英二国に対して宣戦した理由も、 本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、 他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、 もとから私の望むところではない。 ところが交戦はもう4年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、 我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、 それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、 世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。 それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、 しきりに無実の人々までをも殺傷しており、 惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。 なのにまだ戦争を継続するならば、 ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、 ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。 このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、 代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。 これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾するよう 下命するに至った理由なのである。 私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に 協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。 日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、 さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、 我が身を引き裂かれる思いである。 また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、 私が深く心を痛めているところである。 考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。 あなたがた国民の本心も私はよく理解している。 しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、 堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、 未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。 私は、ここに国としての形を維持し得れば、 善良なあなたがた国民の真心を拠所として、 常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。 もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、 あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、 そのために進むべき正しい道を誤って 世界の国々から信頼を失うようなことは、 私が最も強く警戒するところである。 ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、 誇るべき自国の不滅を確信し、 責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、 総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、 誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、 世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。 あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。 それまで憲法上、沈黙を御守りにならざるを得なかった 天皇陛下が、ついに御発言なされました。 その決断は一般市民を狙った残虐な爆撃をするアメリカ軍を非難されながら、 日本人、そして世界全体を深く御思いになられる御心情ゆえのことでした。 一応、この日が一般には「終戦の日」とされていますが、正確な言葉では ありません。この日以降、アメリカの占領政策が始まり、徹底的な検閲と、 情報操作による洗脳が東京裁判と共に行なわれ、 日本人の精神性の解体が7年間も続きました。 ――――――――――――――――― 日本は無条件降伏したのだから、 「戦勝国には何をされても逆らったり文句を言ったりしてはいけない」 などという馬鹿が日本人の中にもいるが、 それは奴隷根性を刷り込むためのデマである。 完全に洗脳されて、 連合国の戦後処理こそが戦後日本の繁栄を築いた出発点だとか、 相手国の同意なしには東京裁判の見直しはできない (いかなる条約にも東京裁判を正当化する拘束力はないにもかかわらず) などと主張する新聞は、もはや自虐史観を通り越して奴隷史観に陥っている。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 日本のポツダム宣言受諾を知った ニューヨークタイムズ1945年(昭和20年)8月14日付は、 「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に、 「われわれは初めて、ペリー以来の野望を達した。 もはや太平洋には邪魔者はいない。 これでアジア大陸の市場と覇権は、我が物になったのだ」 との記事を載せた。 これはアメリカ朝野の長年の願望が叶えられたことに対する 偽らざる喜びの声であった。 ――――――――――――――――― 『大東亜戦争の正体 清水馨八郎著 P82~83』 や 『抹殺された大東亜戦争 勝岡寛次著』 のなかで村松剛氏の情報として。 ――――――――――――――――― ニューヨーク・タイムズ社説「ドイツ終戦時の論調」と「日本終戦時の論調」 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-236.html 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 ポツダム宣言について多くの日本人が忘れていることは、 ポツダム宣言受諾がどのようにして行われたかということだ。 これは大日本帝国憲法の天皇大権に基づいていた。 第十三条 天皇は戦を宣し和を講し及び諸般の条約を締結す ポツダム宣言は、まさにこの大日本帝国憲法第十三条の 天皇大権の発動によって受諾したのである。 この点が重要だ。 日本は、しっかりとした政府があって、その政府が憲法に基づいて、 ポツダム宣言の有条件降伏を受諾したということだ。 これが戦後の問題を考えるうえで、きわめて重要なことである。 そして、こうしたポツダム宣言の延長線上に、東京裁判がある。 ●無条件降伏へのすり替え 日本の敗戦後日本にやってきたマッカーサーは 「日本は文明諸国に地位を占める権利を認められていない敗北した敵である から、最高司令官(自分)は日本政府に命令するが、交渉はしない」 「日本は国として、政府として無条件降伏したのだから、 私が占領軍最高司令官として出す命令には一切服さなければならない」 などとほざいた。アメリカは日本の 「有条件降伏」を「無条件降伏」にすり替えようとしたわけだ。 当時の外務省の条約局長であった荻原徹は、 「そんなことはない。日本は国際法上、条件付終戦、 せいぜい有条件降伏をしたのである。何でもかんでも マッカーサーのいうことを聞かねばならないという、 そういう国としての無条件降伏をしたわけではない」 と抗議した。するとマッカーサーは烈火のごとく怒って、 あの生意気な条約局長を左遷せよと命令し、条約局長は左遷された。 このマッカーサーの 「日本は無条件降伏した国なのだから、 何でもかんでもわしの言うとおりにしなければならない」 という姿勢に対して、 日本国民と政治家の多くはそういうものかと信じてしまった。 政治家も一般国民も無条件降伏説の前に 無力感にうちひしがれて占領権力に抵抗できなかった。 それが占領軍の押し付けた憲法(日本国憲法)でも 6・3・3制の教育制度でも、アメリカ的なものの考え方でも、 戦勝国の歴史観でも、何でも受け入れる素地をつくったのである。 この検閲にがんじがらめにされたほかに、昭和22年に発足した日教組は これにプラス・マルクス主義に色調を加えて教科書にした。 だから若い世代の間に伝統的な日本的なものの考え方が 健全に発達するはずがなかったのである。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 ●ポツダム宣言の概略 ◆第1条 アメリカ、イギリス、支那は協議して戦争を終える機会を 日本に与えることで合意した。 ◆第2条 アメリカ、イギリス、支那の3国は 日本に最後的打撃を加える態勢を整えた。 ◆第3条 我々の軍事力は日本の本土を 壊滅することができるレベルになっている。 ◆第4条 日本は決定すべき時期が来た。 ◆第5条 我々の条件は以下の通りで、それ以外の条件はない。 遅延は認めない。 ◆第6条 軍国主義、世界征服をしようとした者は永久に除去する。 ◆第7条 日本の戦争遂行能力がなくなるまで日本の諸地点を占領する。 ◆第8条 「カイロ宣言」は履行され、日本国の主権は本州、北海道、九州、 四国、そして我々が決定する島に限定される。 ◆第9条 日本軍は武装を解除された後、 各自の家庭に復帰し、平和的な生活を営む機会を与えられる。 ◆第10条 我々は日本人を奴隷にしたり滅亡させようとする意図はないが、 我々の国の捕虜を虐待した者を含む戦争犯罪人に対しては厳重に処罰する。 日本国政府は民主主義を推進しなければならない。 言論、宗教及び思想の自由、基本的人権の尊重を確立しなければならない。 ◆第11条 日本は、経済、産業を維持することを許されるが、 再軍備の産業は除く。 原料の入手は許可され、将来、世界貿易への参加も許される。 ◆第12条 前記の目的が達成され、日本国民が平和的傾向を有し、 責任ある政府が樹立されたときには、 連合国の占領軍は直ちに日本より撤収する。 ◆第13条 我々は日本政府が直ちに日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、 日本政府がそれを保障することを要求する。 そうでなければ日本はすぐに壊滅されるだけである。 ――――――――――――――― ●1943年11月22日、カイロ会談、12月1日、「カイロ宣言」発表 1943年(昭和18)年11月22日、エジプトのカイロにおいて、 フランクリン・ルーズベルト、チャーチル、蒋介石が会談した。 ここで「カイロ宣言」なるものが発表されたものとされ、 日本に対して無条件降伏を要求し、 降伏後の日本の領土を決定したと思わされている。 しかし、この「宣言」には三首脳の署名はない。 また、支那(中華民国)もイギリスも認めていないものである。 出された声明の概略は以下のとおりである。 ――――――― フランクリン・ルーズベルト大統領、蒋介石大元帥 及びチャーチル総理大臣は、 各自の軍事及び外交顧問とともに北アフリカ(カイロ)において 会議を終了し、以下の一般的声明を発した。 各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。 三大同盟国(アメリカ、イギリス、支那[重慶政府のこと])は、 海路、陸路及び空路によって、その野蛮な敵国に対し 仮借のない弾圧を加える決意を表明した。この弾圧は増大しつつある。 三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、 かつ、これを罰するために、今回の戦争をしているのである。 同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。 また、領土拡張の念を有するものではない。 同盟国の目的は、日本国から、1914年の第一次世界大戦の開始以後において 日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島しょを剥奪すること、 並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が 清国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還することにある。 日本国はまた、暴力及び貪欲により 日本国が略取した他の一切の地域から駆逐される。 三大国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、 朝鮮を自由かつ独立のものにする決意を有する。 右の目的をもって三同盟国は同盟諸国の中で日本国と交戦中の諸国と協調し、 日本国の無条件降伏をするのに必要な、重大かつ長期の行動を続行する。 ――――――― とんでもない言いがかり、単なるプロパガンダにすぎないものがあるが、 ともかくこんな文章が書かれた。 たとえこれが宣言だとしても、宣言は宣言であって、 条約でもなければ、法的拘束力をもつ法律でも規律でもなんでもない。 「大西洋憲章」の中で、領土の変更は認めないと言っている。 「カイロ宣言」自体が大西洋憲章の精神に違反しているのだ。 50年さかのぼって1895年に日清戦争で日本が得た台湾を返還せよというの なら、アメリカも47年さかのぼって1898年にアメリカが侵略したハワイを ハワイ王国に返還してから出直して来い!と言いたいのである。 ●1941年8月9日~14日、大西洋会談(大西洋宣言) 1941年8月9日から14日まで、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトと イギリス首相のチャーチルは、ニューファンドランドの港に停泊する イギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ艦上にて会談を行った。 この会談の結果として発表されたのは戦後世界の構想を謳った 「大西洋憲章」なのだが、そんなものは表向きの成果に過ぎず、 実はチャーチルが期待していた協定は 「対日戦争にアメリカを引き込むこと」だった。 このとき、日本は日米交渉打開のために 首脳会談をアメリカに申し入れつつあった。 ●1941年8月1日、日米首脳会談提案 南部仏印進駐、アメリカの日本資産凍結、対日石油禁輸などの 諸事態により日米関係は著しく険悪化した。 近衛文麿首相は危機打開に腐心していたが、 8月に入ると自らアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトと 会見する決意を固め、陸海軍の賛同も得た。 危機一髪のときにアメリカ大統領と会談し、 日本の真意を率直に語り理解を得ようとの意図からであった。 日米首脳会談の提案は1941年(昭和16年)8月8日、 野村大使よりアメリカ側に伝達されたが、 ルーズベルトはチャーチル(イギリス首相)と洋上会談(大西洋会談) のため不在で、伝達は国務長官のコーデル・ハルになされた。 ハルは、 「日本の政策に変更のない限り、これを大統領に取り次ぐ自信がない」 「首脳会談には予備会談が必要」 などと述べて冷ややかな対応を示した。 大西洋会談でイギリスへの戦争協力を決定しているため、 こんな反応しかしなかった。 近衛文麿首相は危機打開に腐心し、 危機一髪のときにアメリカ大統領と会談し、 日本の真意を率直に語り理解を得ようとしていたとき、 大西洋上でアメリカとイギリスの首脳は対日戦争の協力を協議し、 約束しあっていたのだ。 後にルーズベルトは大西洋会談で 「イギリスに何も約束していない。アメリカは戦争に近づいていない」 と言っていたが、チャーチルは1942年1月27日の英下院の演説の中で 会談内容を明らかにしてしまい、ルーズベルトのウソはばれる。 アメリカはこんなことをやっていたわけだから、 日米交渉が進展しないのはあたりまえだった。 ◆ルーズベルトの思惑 アメリカ世論はヨーロッパの戦争に参加することに反対だった。 そこでルーズベルトは「絶対に参戦しない」という公約で 大統領に三度目の当選を果たしていた。 ヨーロッパではイギリスがドイツに負けそうな状態だった。 ルーズベルトはイギリスが敗戦すればアメリカが直接ドイツと対決しなければ ならなくなると考え、何とかして参戦しイギリスを支援したいと考えていた。 ◆チャーチルの思惑 ドイツには連戦連敗でもうドイツには勝てないと観念した。 唯一勝つ道はアメリカをドイツとの戦争に引きずり込むしかないと考えた。 しかし、アメリカ世論は戦争に反対し、介入してくれなかった。 そこで考え付いたのが、ドイツと同盟している日本とアメリカが戦争を することになれば必然的にアメリカはドイツと戦うことになるということ。 このためアメリカ、オランダ、支那と組んでABCD包囲陣を作り、 日本を経済的に追い詰めていく作戦を考えた。 ●ABCD包囲陣 盧溝橋事件に始まった支那事変はずるずると拡大し、 日本の外交関係も悪くなっていった。 そしていつの間にかABCD (アメリカAmerica、イギリスBritain、支那China、オランダDutch) 包囲陣に囲まれることになった。 これらの国が日本をつぶすために石油禁輸措置などを行った。 この包囲人を画策したのは、 イギリスのチャーチルであることが最近の研究で明らかになった。 第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻によって始まったわけだが、 ドイツ軍の圧倒的な強さにイギリスは風前の ともしびといったありさまであった。 チャーチルが首相になったのも、 連敗に次ぐ連敗でチェンバレンが政権を放り出したからである。 このような状況を見てチャーチルが考えたのは、 イギリスを救うためには戦争にアメリカを引きずり込むしかない、 ということだった。 しかしルーズベルトは、絶対に参戦しないという 公約を掲げてアメリカ大統領に当選していた。 チャーチルはまず日本とアメリカの間で戦争が起きるように仕向け、 日本と同盟関係にあるドイツとアメリカが戦うことに なるように仕組もうと考えた。 そしてイギリスとアメリカは日本に対する石油禁輸措置を決定する。 石油をまったく輸入できなくて困った日本は オランダ領インドネシアに打診すると、 イギリスとアメリカは、今度はオランダをそそのかし、 1941年8月、ついに日本への包囲網を完成させた。 ABCD包囲陣では日本資産の凍結、鉄鉱禁輸措置も取られたが 一番影響があったのは石油である。 石油がなければ20世紀の国家は存続できない。 無為のまま石油を枯渇させ、白旗を揚げることなど考えられなかった。 それで対米戦争に難色を示していた海軍も覚悟を決め、 御前会議で正式に戦争準備に入ることが決定された。 同年9月、つまり大東亜戦争開戦のわずか3ヶ月前のことだった。 それでも日米交渉で日本が譲歩し、 その代わり石油禁輸が解かれればアメリカと戦争をする必要はなくなる。 海軍はその点に一縷の望みをかけていたのだ。 目下の石油備蓄領は、約半年分。 海軍が日米交渉の最終期限を12月半ばに設定した根拠は、ここにある。 ルーズベルトとチャーチルの思惑が一致した結果が大西洋憲章である。 このためアメリカは、 「太平洋からヨーロッパの戦争に参加した」 と言われている。 この宣言の中で、領土の変更は認めないと言っている。 「カイロ宣言」自体が大西洋憲章の精神に違反しているのだ。 ――――――――――――――――― 昭和20年2月から硫黄島の戦闘があり、4月からは沖縄戦の決戦が行われた。 この両方の戦闘がアメリカ側にとって予想をはるかに超える 多くの死傷者をアメリカ軍にもたらした。 たまたま4月12日にフランクリン・ルーズベルトが死に、 副大統領から自動的に大統領に昇格したトルーマンは 軍部の意見を聴取して対日作戦を考えた。 そして、5月には11月を期して日本上陸作戦を敢行するという 命令がアメリカ軍に出された。 沖縄戦の一般住民の日本軍への協力を知ったトルーマンは、 日本本土上陸により多数の死傷者が出るという予測を立て、 そうなったらアメリカの世論だ黙っていない、 自己の政権の基盤が危うくなると考えた。 ルーズベルトは日本を国として、 政府として無条件降伏させたいと考えていたが、 トルーマンは、知日派の元駐日大使グルーに命じて、 日本側があまり名誉を傷つけられたと思わずに受諾できるような 終戦の条件を考案するよう命じた。 そこで有能な補佐官をつけてもらい、 グルー元大使が作り上げたものが「ポツダム宣言」の原案である。 このあと、アメリカの特使が、スターリンに会いに行き、 このことを説明した。 スターリンは、 「ルーズベルトが言っていたように日本を国として、 政府として無条件降伏させたい。 しかし、日本本土決戦をすると大変な数の犠牲者を出すなら、仕方ない。 しかし、いったん有条件降伏(条件付降伏)という形であれ、 日本に降伏を受諾させたら、徹底して日本の非武装化をやろう。 わわわれの思うとおりに日本を改造して、 結果として日本が国として無条件降伏をしたのと 同じ結果を実現できるだろう」 と言った。 草案では「天皇制の維持」を保証する文章があった。 これは国務次官であったグルー(駐日大使を長く務めた知日派) が考え出した案で、 天皇の地位を保証すれば日本は講和に応じることを知っており、 ドイツ降伏後の昭和20年5月末から何度もトルーマンにそれを進言していた。 陸軍長官のスチムソンや他の政府高官たちも同じ認識を持ち、 トルーマンに働きかけていた。 しかし、トルーマンは草案にあった天皇の 地位保全に関する部分をわざわざ削除した。 日本がポツダム宣言を受諾できないようにするためである。 トルーマンは原爆投下前に日本に降伏させたくなかったのである。 ポツダム宣言発表のおよそ2ヵ月後に広島、長崎に原爆が投下され、 ソ連は日ソ中立条約を一方的に侵犯し、満州に進攻した。 上記の通り、ポツダム宣言の第5条には 「我々の条件は以下の通り」として種々の降伏条件が記されている。 つまり、ポツダム宣言の受諾とは、 そこに盛り込まれた条件を日本が受け取った、という意味である。 これは有条件降伏であるという意味であって決して無条件降伏などではない。 ところが、日本は無条件降伏したと誤解している者が多い。 それはポツダム宣言の第13条に書かれている内容が 誤って解釈されているからである。 (誤って解釈させようとしている悪質な輩がいるのも大きな原因) ここで述べられている「無条件降伏」とは、 「全日本国軍隊の無条件降伏」であり、 それを「日本国政府が宣言する」ことが要求されている。 日本国政府の無条件降伏が要求されているわけではない。 日本軍に無条件降伏させることを、日本政府に要求しているのである。 つまり、支那大陸、東南アジアなどで、支那軍とかイギリス軍とか、 アメリカ軍を相手に、それぞれの指揮官の下で戦っている日本の軍隊は、 おのおのが一々相手側と直接交渉して、 ああだこうだといいながら条件を決めて武装解除を受けたり、 復員したりするのではなしに、黙って武装解除を受けろ、ということである。 したがって、軍隊は無条件で降伏する、 しかし、国家としては有条件で終戦したというのが 国際法上の正しい解釈である。 さらにポツダム宣言の第9条には 「日本軍は武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、 平和的な生活を営む機会を与えられる」と、 日本軍が完全に武装解除することは、条件として確かに掲げられている。 現在、国際法学者の間では、戦争をして勝っているほうと負けているほうとが 降伏についての取り決めをする場合に、 お互いに何らかのお約束をしあった場合には、 決して無条件降伏なるものはあり得ない、というのが通説である。 ポツダム宣言を読めばわかるが、個々の戦争犯罪人に対して、 なにか裁判を行うとか、もしくは処刑をするというようなことを 示唆するものは、どこにも発見することができない。 日本はポツダム宣言を受諾したのであり、 そこに書かれた条件は連合国側も束縛するものとなっているはずだ、 と後の東京裁判で清瀬弁護人が主張している。 ソ連のシベリア抑留という蛮行は 紛れもなくポツダム宣言第9条に違反している。 ――――――――――――――――― スターリンは2月のヤルタ会談での密約により 既に対日参戦を決めたわけだが、狡猾なソ連はすぐに参戦しなかった。 しかしスターリンは当初満州・南樺太侵攻の予定を8月下旬にしていたが、 アメリカの原爆開発成功の話を聞いて8月15日にし、さらに8月11日に早めた。 しかし広島に原爆が投下されたことを知ると ソ連は8月8日に日本に宣戦布告し、 9日午前零時に、ソ連の大軍が日ソ中立条約を一方的に破って 満州と南樺太の国境を侵犯してきた。 ソ連が攻撃を開始したのは、 スターリンが日本の反撃はもう絶対に不可能だと確信した後だったのである。 関東軍は8月17日に天皇の命令により武器を置いたが、 ソ連は日本のポツダム宣言受諾(8月14日後も狂ったような猛攻撃を続けた。 日ソ中立条約を一方的に破棄し、 その有効期間中に侵略するという極悪非道な行為を行なったわけだ。 このソ連の火事場泥棒行為を、 勝てばどんなに卑劣なことをやっても かまわないと考えるアメリカ、イギリスは黙認した。 第二次欧州大戦初期のソ連の侵略のときとまったく同じである。 満州、樺太に侵略したソ連軍は、各地で殺戮、略奪、強姦の限りを尽くした。 また、シベリア抑留をはじめ数々の極悪非道の行為を繰り返した。 |
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