正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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日米開戦直前のまとめ

【大西洋憲章】
1941年(昭和16年)8月14日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は
大西洋上で会談を行い、第二次世界大戦における
両国の協力を約束した「大西洋憲章」を発表しました。

アメリカの世論はヨーロッパの戦争に参加することに反対であったため、
ルーズベルトは決して参戦しないという公約を掲げて
大統領に三選しましたが、イギリスがドイツに負ければ、
アメリカが直接ドイツと対決しなければならないと
考えていたルーズベルトは、
何とか参戦してイギリスを支援したいと考えていました。

一方、チャーチルもドイツには連戦連敗で、ドイツに勝つには何とか
アメリカを戦争に引きずり込むしかないと考えていました。

しかしアメリカの世論が参戦反対、不介入であったため、
ドイツと同盟している日本とアメリカが戦争をすることになれば、
必然的にアメリカはドイツとも戦うことになるとして、
アジアで米蘭支と協力してABCD包囲陣を作り、
日本を経済的に追い詰めていきます。

結果的にアメリカは「裏口(太平洋)」から
ヨーロッパの戦争に参加することになりました。

【東条内閣】
陸軍を抑えられるのは東条英機陸相しかいないということ、
そして東条は天皇の命に厳格に従う人物であるということから、
東条が近衛の後継首相に選ばれます。
東条は首相と陸相を兼務し、外相は和平主義者の東郷茂徳でした。

そして10月上旬までに対米交渉解決の目処がつかない場合は
対米宣戦に踏み切るという、9月6日の御前会議決定は破棄し、
国策を決定するようにという天皇のお言葉が伝えられます。
その後東条は「東条の変節」といわれるほどの非戦論者になります。

【甲案・乙案】
東郷外相が提示したのが、いわゆる甲案・乙案です。
そして11月30日まで外交交渉を続けることが
11月5日の御前会議で決定されます。

甲案は、支那の門戸開放、支那・仏印からの撤兵について
アメリカに譲歩した案。乙案は、甲案不成立の場合、
日本の南部仏印撤兵とアメリカの輸出解禁により
戦争を回避するという暫定案です。

甲案は11月7日にハル国務長官に提出されましたが、
ハルは関心を示さず不成功。

11月20日には乙案を提出しますが、すでに大西洋憲章で参戦を
決意していたアメリカは、この提案に興味はなく黙殺されました。

【ハル・ノート】
11月25日、アメリカは大統領と軍関係者とで、
どうすれば日本に先制攻撃をさせることができるか討議していました。

そして11月26日運命の 「ハル・ノート」が日本側に手交されます。
内容は「支那・仏印からの無条件全面撤退であり、
汪兆銘政権を見捨てて重慶の蒋介石政権を支持すること」でした。

これはそれまでの日米交渉をすべて無視したアメリカの一方的な要求でした。
日本に、戦わずして降伏を要求するに等しいものであり、
明らかに最後通牒でした。

そしてハル国務長官は、スチムソン陸軍長官に
「私はもう交渉から手を引いたから、問題は陸軍と海軍の手に移った」
と述べました。
これはもう外交交渉は打ち切ったので、
戦争準備に入るようにという示唆です。

戦時中イギリス保守党の重鎮オリヴァー・リトルトン生産相は
「『ハル・ノート』で日本をあまりにひどく挑発したので、
日本は真珠湾攻撃に追い込まれた」と発言、

また駐日英国大使クレーギーは
「『ハル・ノート』は日本の国民感情を無視するもので
交渉決裂もやむを得ない」と述べています。

ルーズベルトのライバルと目されたハミルトン・フィッシュ下院議員は
「ハル・ノート」の存在を知ると、それを「恥ずべき最後通牒」と批判し、
「日本は自殺するか、降伏するか、戦うかししかない」と述べました。

東京裁判で、パール判事は
「現代の歴史化でさえも次のように考えることができるのである。
すなわち『ハル・ノートのような通牒を受け取ったら、
モナコやルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対し
戈をとって立ち上がったであろう』」と述べました。

この「ハル・ノート」は、ハリー・ホワイト財務次官補が起案したもので、
このホワイトが実はソ連のスパイであり、
日本がとうてい受諾できない内容を盛り込み、日米開戦を誘発したのです。
戦後ホワイトはスパイであることが発覚して自殺しています。

日本にとって満蒙・支那における権益は死活問題でしたが、
そこから日本に手を引かせることが、果たしてアメリカ国民にとって
あれだけの犠牲を払ってまで遂行すべき政策であったのか疑問です。

戦後、支那は共産化し、
アメリカが主張して止まなかった「門戸開放」どころか、
門戸を固く閉鎖してしまいました。

【真珠湾攻撃】
アメリカ側は真珠湾攻撃を事前に知っていたという説が有力です。
しかし、日本の真珠湾攻撃作戦は事前にハワイ現地には
知らされなかったにもかかわらず、
ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル海軍大将とショート陸軍中将は
責任を問われ降格罷免処分を受けました。

ところが1999年(平成11年)アメリカ議会は、
当時の政府上層部が日本軍のハワイ攻撃を暗号解読から
事前に知っていながら意図的に連絡しなかったことが、
公開された資料から明白になったとして、
二人の名誉回復の決議をしたのです。

日本の真珠湾攻撃を聞いて喜んだのはルーズベルトとチャーチルでした。
労働長官フランシス・パーキンズは「郵政長官は私に
『大統領は何週間かぶりに心底からほっとしていることと思う』
と述べた」と証言し、

チャーチル首相は後に著書に
「感激と興奮に満たされ、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた」
と書いています。

結局、アメリカは莫大な犠牲を払った上に、
執拗に求めてきた中国、満洲の権益は得られず、
中国の共産化、朝鮮での戦争と、戦争目的はことごとく失敗でしょう。
これのために戦争をしかけられた日本は、悲運というしかありません。

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『近現代史の必須知識』より抜粋
2009/05/11 09:00|年表リンク用資料
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