正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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中国での旧日本軍兵器の行方

以下、『蒋介石秘録』より引用。

崩壊寸前となった日本に、ソ連が”分け前“を求めて
参戦を急ぐことは確実であった。
中国にとっての最大の問題は東北(満洲)であった。
東北を軍事占領したあとのソ連は、
必ず中国に難問を吹っかけてくることが予想されたからである。

8月7日、モスクワで中ソ友好同盟条約の交渉に
あたっている宋子文に次のように指示した。
『東北にある各種の工業施設および機器類は、すべてわが国の所有に帰し、
倭寇(日本)のわが国に対する戦債償還の一部分とすべきものである。
この点を(ソ連との)条約締結の際によく協議するか、
あるいは声明するように』

予想した通り、ソ連は8日夜日本に宣戦、ソ連は東北になだれこんだ。
『ソ連の対日宣戦は、投機と狡猾をきわめた行動』であった。
『モスクワでの交渉で、我々は次のように
国家権益に関して重大な譲歩をせざるをえなかった。

1、外蒙の独立自治を承認する
2、東北長春鉄路の共同経営
3、大連を自由港とし、長春鉄路によるソ連の輸出入物資は関税を免除する
4、旅順口を両国共同使用の海軍根拠地とする』

同時にソ連は、
a、国民政府に対する軍需品その他の援助、
b、中国の東北における領土と主権の完全性の承認、
c、日本投降後三ヶ月以内の完全撤去
を約束した。
しかしスターリンは、これらの約束を一切守らなかった。
中国戦区の受降典礼は、9月9日午前9時、
南京の旧中央軍校におかれた陸軍総部の大礼堂で行われ、
日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次が降伏文書に署名、
中国陸軍総司令・何応欽に提出した。

長年の苦闘を経て、ようやく勝利を手にした中華民国にとって、
ソ連と共産党は、“新たな国恥”の根源であった。

共産党が最も欲しがったのは、日本軍の持っていた武器弾薬の類である。
その狙いは、いうまでもなく国民政府に対して
武力による反乱をおこすところにあった。

日本軍の武装解除について、中国陸軍総司令部は、
全土を16の受降区にわけ、各戦区、各方面軍ごとに
日本軍の投降受け入れを実施した。

しかし、共産軍はその命令にしたがわず、
各地で勝手に日本軍を武装解除しようとし、
また輸送路を破壊して政府軍の接収地点到達を妨害した。

まず、東北でソ連軍が行ったあくなき略奪ぶりを明らかにしたい。
最初の略奪は、一般兵士によるものであった。
彼らは中国人家庭や商店、工場に乱入し、
片っぱしから金目のものを奪い去った。

瀋陽、長春、ハルビンでは、列車に乗ろうとする中国人に
金や銀の装飾品の供出を強要し、拒否すると射殺した。
ソ連軍の規律は乱れに乱れ、彼らの進駐するところは、
たちまち無法地帯と化した。
そのあとにきたものは、さらに大規模な、そして組織的な略奪であった。

「九・一八事変」以来14年間、
日本は百億ドルを超える資金を東北に投下、膨大な発電設備をはじめ、
銅、鉄、石炭の採掘、セメント、紡績、石油、化学工業など
最新設備の工場を建設し、三千五百万人の東北同胞の血と汗のうえに、
一大軍事工業システムをつくりあげていた。

国民政府は、これら東北にある日本の鉱工業資産は、
すべて中国に対する現物賠償に当てることをソ連に通知していた。

しかし、ソ連側は、これに一切耳をかさず、
東北の鉱工業はソ連の“戦利品”だと言い張り、
そっくり取り外して盗み去ったのである。

電力関係では、東北の総発電量の65%に相当する
電力供給設備が持ち去られた。
鞍山、宮原、本渓などの製鉄工場は、設備の80%が盗み去られた。
撫順、本渓、阜新、北票などの炭鉱も、略奪の被害は甚大であった。

米国国務省が現地調査の結果として、
1946年12月に発表した数字によれば、
ソ連軍の占領中、東北の工業がこうむった損失は20億ドルに達した。

ソ連の略奪は、生産設備にとどまらなかった。
日本の関東軍の武器、装備も大量にのぼる。
その量は、関東軍がかつて「十年間の戦争を維持できる」
と豪語したものであった。

これらの武器を、ソ連は共産軍にそっくりそのまま引き渡した。
すでにマーシャル三人委員会の停戦、軍隊の移動禁止命令が出てから、
一ヶ月を経過していた。
共産党は、みずからの約束を平気で破り、
東北へ兵を集中させていたのである。
軍隊の移動禁止令では、政府軍の東北進駐だけは例外とされていた。

しかし、ソ連は、政府軍の進駐に妨害のかぎりをつくした。
その間に、共産軍がやすやすと進駐したのは、
ソ連の“手引き”があったからである。

はたして、共産軍が配置についたのを見とどけると、
ソ連軍はこっそり共産軍にあとを引き継いで撤退しはじめたのである。
ソ連から“事後通告”を受けた政府軍が一足遅れて接収に向かうところを、
待ち伏せていた共産軍が攻撃するという筋書きである。

ソ連軍は、日本の関東軍から押収した武器を共産軍に与えた。
近代兵器にうとい共産軍の兵士たちは、はじめ、
それらの武器の扱い方を知らなかったが、
ソ連軍は軍事教官を派遣し、使用法を訓練した。

この結果、1946年の暮れには、
共産軍は“精鋭部隊”に生まれかわるのである。

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731部隊
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2009/05/09 09:00|年表リンク用資料
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