●正統史観年表 戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳 |
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すばらしい日本
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他サイトの内容を100%支持している わけではありません。完全に意見が 一致する人など存在していません。 ならば、なぜリンク紹介しているの かというと、大東亜戦争後、日本国 内が、あまりにも、いわゆる左巻き の論調に偏ってしまっているので、 全体的に見ると少数ながら存在して いる保守側の意見を、いろいろな 角度から知ってほしいからです。 ブログ記事の右下の日付について
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簡単に作れそうだったのでブログで この正統史観年表を作成しました。 ブログなので各記事の一番右下に 日付が表示されてしまいますので、 適当な日付を指定しながら記事を 作成していきました。つまり各記事 の一番右下の日付はブログを書いた 日付ではなく、適当な日付です。 まぎらわしくて申し訳ありません。 |
フィリピン少年が見たカミカゼ
『フィリピン少年が見たカミカゼ』より引用 ダニエル・H・ディソン著(フィリピン人) ――――――― 白人のフィリピン蹂躙 スペイン植民地統治と革命 16世紀半ば、フィリピン全土の人口は60万人程度で 国家という意識もまだ発達していない状態だった。 そこにスペインが侵略し、マニラを拠点にして 各地を次々と武力によって制圧。 さらにキリスト教の布教を行い、植民地体制を確立。 以後300年以上もフィリピンを支配した。 マニラとメキシコ間を船で往復する「ガレオン貿易」が始まり、 資本家たちは莫大な利益を上げ、19世紀初頭まで続いた。 しかしフィリピンはこの貿易の通過地点に過ぎず、 支配者達はフィリピンの発展には目もくれず、 近代化の基礎となる家内工業などの発展は全く見られなかった。 植民地支配の柱である教会は、 広大な土地を所有し、聖俗両者において絶対的な力をふるった。 フィリピン人は負担しきれない税を課せられて奴隷化し、 さらに、強制労働に駆り出された。 このため、かつては肥沃で作物が豊富だったフィリピンで 飢餓が生じるようになった。 このような中で16世紀末から抵抗運動が起るようになり、 19世紀末までに反乱の数は100回以上もあったと言われるが、 多くは10日以内に鎮圧されている。 18世紀後半から、たばこなどの輸出が増加し、 中国系メスティーソ(混血)が中産階級として台頭、 そこから民族主義に目覚める者が出てきた。 1880年代終わりに民族主義的運動が起り、 1892年に革命集団「カティプナン」が成立、 1896年8月に最初の革命の蜂起が起り、各地でスペイン軍と衝突。 スペインは本国の力が衰えていたこともあり、 フィリピン側と和平交渉を持ち、その結果スペイン側が賠償金を支払い、 革命の指導者アギナルドは国外追放となった。 そこにキューバを巡ってスペインと戦争中のアメリカが、 フィリピンを狙い、革命軍に協力すると持ちかけた。 アギナルドは米艦に乗って帰還、1898年6月12日に独立宣言を行った。 しかし同年8月にアメリカがマニラを占領した際、 革命軍はマニラから閉め出された。 アメリカとスペインの間で裏取引が進められていたのであり、 アメリカはスペインに2000万ドル支払い、フィリピンを領有した。 アメリカの同化政策 マニラから閉め出されたフィリピン人のアギナルド率いる革命軍は 1899年2月にアメリカ軍と衝突し米比戦争が勃発。 アギナルドは日本に援助を仰いだ。 それを受けて有志の義勇軍が出発、武器弾薬は布引丸に乗せたが、 途中台風に遭って沈み、革命も潰えてしまった。 1901年3月アギナルドが逮捕され、 7月にアメリカは軍政を廃止し植民地政治を始めた。 この時まで軍政長官だったのがアーサー・マッカーサーで、 ダグラス・マッカーサーの父である。 スペインが教会で植民地支配をしていったのに対し、 アメリカは教育を用いて支配していった。 独立運動のくすぶりは徹底的に弾圧し、 拷問・虐殺によって消し尽していく反面、「友愛的同化」政策を掲げて、 フィリピン人に英語によるアメリカ式教育を徹底していった。 これにより、アメリカ精神を吹き込んでアメリカ化を進め、 親米感情を植え付けていった。 また、フィリピン議会を発足させ、間接的な支配体制を作っていった。 1916年には独立の基礎となる フィリピン自治法であるジョーンズ法がアメリカで成立した。 この後、英語が公的に使われるようになり、人々はアメリカにあこがれ、 まさにフィリピン人はアメリカ文化に急激に同化していった。 しかしジョーンズ法成立後、 15年以上もアメリカは独立の明確な時期などを示さずにいた。 40数年に亘るアメリカ時代の経済は、 アメリカが要求するものを作りアメリカに輸出して行くという 完全な依存体制で、この時代もフィリピンの経済・産業の発展はなかった。 1930年代、大農園では換金産物を大量生産し 営利主義的経営を進め、それが小作人達を圧迫していった。 一方、アメリカにとってフィリピンは 安い労働力や農産物の流入で厄介な存在となった。 これを背景にして、 フィリピン独立は自治政府成立後10年という時期がようやく示された。 フィリピンは日本の敗戦後の1946年7月4日にアメリカから独立するが、 その内情は、アメリカ市場に依存し 植民地的支配構造を温存するもので、独立とは名ばかりのものだった。 その弊害は現在も続き、 フィリピンは公的場面や学校での英語使用から抜けきれず、 また、自国の歴史もアメリカ史観に偏っている。 日本の戦争は自己防衛 戦時中、日本軍とは侵略者であり、フィリピンを支配し、 自分達の欲しいものを持っていくだけの国と教えられていました。 しかし私には、日本がただ単に、人殺しをするためや、他国を侵略するため、 日本が統治する領土を拡大するためだけに、 戦争を始めたとは思えませんでした。 そこで、それにはもっと深い意味があったのではないかと考え、 日本が何故戦争に突入していったのかについて 何年もかけて調べていきました。そして一つの結論に至りました。 それは、欲深い白人達のせいだった、ということです。 白人達というのは、正にアジアに対してテロ行為を行ったのでした。 白人達が侵入してくる以前のアジアはとても平和な世界でした。 当時すでにアジアの国同士の交流がありました。 17世紀には、日本人はルソン島に大挙して来ていたし、 マニラでも当時は戦争中とは違って友好的な交流をしていました。 タイも、スペインがやってくる前にマニラと貿易関係がありました。 また、カンボジアや中国もそうでした。 これらは、皆とても平和な共存共栄関係でした。 ところがそこに白人がやってくると事態は一変し、 全ては混乱状態に陥り、破壊されていきました。 そして、アジアの国々は互いに敵同士になってしまったのでした。 白人の欲望にはきりがありませんでした。 彼らはすでにあらゆるものを手にしていたにも拘わらず、 より多くのものを欲し、決して満足することはないようでした。 アジアの国々は皆、白人の侵略に対して身を守るようになり、 日本もそうだったということです。 これが、日本が戦争を始めざるを得なかった原因です。 つまり、それは攻撃的で侵略的な目的のものだったのではなく、 自己防衛的な目的のものだったのです。 日本がフィリピンを占領して行ったこと、 というのは戦争の表面的な議論です。 そのようなことが行われた裏には、もっと根の深い理由があったのです。 私達はそのことをもっと重要なこととして議論しなければいけません。 そうすることによって、表面的に行われたことのために、 心を痛めることはなくなるでしょう。 それらのこと全ての根本には、白人の欲深さがあるのです。 アメリカやヨーロッパは、それぞれ世界の各地に勢力圏を持ち、 そこで自国の製品を売り、原料を調達していました。 このようにして、これらの国々は力を付けてきたのです。 そのことに気付いた日本は、自分達も同じようにして力を 付けていかなければいけないと考えました。 それが出来ないということは、 欧米の列強によって植民地化されることを意味していました。 当時、中国を支配していたのは清の西太后でした。 しかし、すでに中国は様々な白人の国によって 実質的に分割され蹂躙されていました。 白人達は、自分達に伍するような力を日本が持つことを望まなかったのです。 彼らは西太后に対して、もし日本にも経済圏を与えるならば、 宮殿での豪奢な生活の保障はもうしないとしたのでした。 またその後の中国の指導者達も日本との問題を解決しませんでした。 中国の父と言われる孫文が1911年に中国の臨時大総統になった時に、 この問題を解決すべきでした。 孫文自身も日本で様々な活動をし、 日本の哲学や指導力に頼っていたこともあるではないですか。 しかし、孫文も解決しようとはしませんでした。 そのために日本は他の場所を探さなければなりませんでした。 それが、日本が生き残っていくための唯一の道だったのです。 当時、白人達に侵略されていなかったのは日本ぐらいなものという状況で、 中国が侵略されているならば、次は日本の番でした。 そんな中で、日本が自衛のために行動することを 一体誰が非難出来るのでしょうか。 日本がフィリピンを占領する以前は、 アメリカがフィリピンを支配し植民地としていましたが、 日本とアメリカの立場は全く違うものでした。 1899年にアメリカがフィリピンに侵略したのは、 より多くの利益を得ようとする意地汚い 欲望以外の何ものでもありませんでした。 アメリカは自国の中に、自分達が必要な資源を全て持っていました。 一方、日本には何もなかったのです。 以上のことが、日本が戦争に突入していった理由だったと言えます。 実際のところ、日本は戦争を始めるように仕向けられたのです。 戦争を回避するための平和交渉は全て否定され、 日本が生き残るためには戦争以外に手段はありませんでした。 日本は石油の供給を完全に止められていました。 生き残るためには、戦争によってマラヤやインドネシアの 石油を確保しなければならなかったのです。 座して待つだけでは、日本は植民地となっていたでしょう。 しかし、日本は黙って押さえつけられたままではいませんでした。 日本人は戦士達だったのです。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 米比戦争とフィリピン人虐殺 http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-199.html |
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