正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『日本人が知ってはならない歴史』 若狭和朋 著 より引用

◆だれが、何を知られては困るのか?

「知ってはならない歴史」というのは、
知られては困る歴史という意味である。
私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。
だれが困るのだろうか。

ずばり言えば、日本人のなかでは日本のメルトダウン(融けて倒れる・融倒)
を期待する劣情を秘めている反日的日本人である。
ならんで、中国・韓国・朝鮮・ロシア、ひいてはアメリカである。

中華人民共和国を支配する中国共産党の正統性は、
日本帝国主義の侵略から中国人民を解放したという
「歴史」を土台にしている。

朝鮮民主主義人民共和国についても、事情は同じである。
「抗日・解放」が朝鮮労働党支配の正統性の根拠である。

しかし、心ある歴史家なら、
これらの抗日解放の「歴史」は史実に反する偽史であることを知っている。
早い話が、抗日パルチザンで「英雄」だった金日成と、
ソ連軍に担がれて北朝鮮の支配者になった「金日成」は、
まったくの別人であることは公然の事実なのに、
この事実は「知ってはならない」のである。

これを知らない人が本当にいるのなら、
その人は単に無知であるにすぎないか、
あるいは「知ってはならない」政策の犠牲者にほかならない。
金聖柱ソ連軍大尉が、突如、金日成となり本人を知る人々は仰天した。

日本が中国を侵略したというが、
日本と中国の戦争は日本が始めたものではない。
盧溝橋事件だけのことを言っているのではない。
今日では、同事件での日本軍への射撃は
共産党の工作であることが明らかになっている。
私は単に共産党の工作のみを指摘しているのではない。

現地解決の和平をぶち壊した「通州事件」の工作を言うだけでもない。
昭和十二年の上海事変は蒋介石の主力十個師団余が二十万の兵力を集中し、
五千余の日本海軍陸戦隊と十万余日本人(女性・子供を含む)を
全滅させようと企図した事件である。

蒋介石はドイツの元参謀総長ゼークト
(第一次世界大戦の名参謀総長とうたわれた)
と彼のスタッフを顧問団に招き、軍の編成、
訓練ならびに実戦の指導を依頼していたが、
これはソ連とドイツのラッパロ条約を背景にしている。
(ラッパロ条約・・1922年4月26日、
ソ連とドイツの間で結ばれた秘密条約。
ドイツ国防軍もソ連赤軍も密かにドイツ主導のもとで進められた。
蒋介石はソ連の仲介でゼークトたちを受け入れていた。)

第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、この密約により、
列強の包囲下にあったソ連軍建設の指導に当るとともに、
密かにドイツ国防軍の再建の骨格を準備していた。

空軍や機甲師団建設の準備はソ連国内で進められていたのであった。
これも今では周知の事実である。
国共合作により蒋介石軍の中にソ連の影響力が一気に広まっていった。
上海事変はこのような国際的背景をもっている。

救援の日本軍と激戦ののち、蒋介石軍主力は撃破され、首都南京に敗走した。
やがて南京も陥落するわけだが、
「南京大虐殺」のウソが蒋介石の工作で宣伝された。

ラーベやティンパリーらは、工作費を受領して蒋介石の工作に
従事した者たちであることを近日の学的研究は明らかにしている。
彼らは工作員なのである。

今ここで私たちが「知ってはならない」
中国人のささやかな「常識」について触れておこう。

日本人は、奈良と聞けば大仏とか古都とかを連想する。
中国人は、南京と聞けば中国史の「大虐殺」を連想する。
日本軍とかは無関係に、南京と聞けば「南京=大虐殺」なのである。

清末の太平天国の天京(南京)陥落の際の湘軍(「官軍」)
による大虐殺は凄惨を極めた。
古くは隋の虐殺、侯景の乱での「南京大虐殺」は『資治通鑑』を読む者をして
絶望的な気分に陥らせる箇所である。
中国人にとって南京とは虐殺の都なのである。

中国人には虐殺のない戦争というものが念頭に浮かばない。
虐殺はなかったと聞かされても信じることができない。
日本軍が虐殺しなかったとは信じられないのである。
これが中国人の思考の制度なのである。

また支配者=中国共産党は、
人民がこのことを信じたら絶対的に困ることなのだ。
虐殺の存在は支配の正統性を保持するための絶対的必要条件だからである。

中華人民共和国には日本の「戦争責任」などを口にする資格は、
全然、ない。逆である。

日本が交戦したのは「中華民国」である。
当時の共産党「軍」は交戦団体として、
何らの資格要件を具備しない単なる匪賊にすぎなかったのである。

どうもわれわれ日本人は共産党「軍」が当時は匪賊(共匪といった)
の群にすぎなかった事実を、そして匪賊がソ連その他の援助をバックに、
民国政府が日本との戦争で疲れ果てたときに
背後から襲いかかり政権を奪取した事実を、ともに忘れつつあるようだ。

それは「知ってはならない歴史」だからであり、
日本人のなかの劣情日本人が、劣情イデオロギーで日本の教育とメディアを
占拠した戦後の時期に「知ってはならない歴史」を編んだ、からである。

劣情日本人の背後にはアメリカの権力が控えていた。
アメリカは占領当時は非常にバイアス(偏向)のかかった認識を抱いていた。

日本を打倒したことにより、
瞬時にして支那・満洲・朝鮮・その他東南アジア諸国が
ソ連と共産主義に席巻される事態が現出するさまを見て、
そして朝鮮戦争で脳天をしたたかに殴られたのちに、
初めて理解できたのである。

日本が満洲・朝鮮・支那で頑張っていた「意味」を
アメリカはようやく理解したのである。

しかし、「理解」に達する前の「誤解」による
日本解体の遺産は日本に深刻な後遺症を残した。
昭和二十年九月二日の降伏から、
日本は昭和二十七年四月二十八日(昭和天皇の誕生日の前日)に
「独立」を回復するまで、
七年間の占領という追撃戦をしかけられていたのである。

日本人の多くが追撃戦を知らないのは、
「知ってはならない歴史」だからである。

朝鮮戦争においてマッカーサーは、満洲を敵の勝手にさせていたのでは
朝鮮の戦局の挽回が不可能なことを理解したが、
この理解は彼の解任という結果を招いた。

帰国した彼は上院の外交軍事両委員会で日本が戦争をしたのは
正当防衛(自衛戦争)であったと述べるが、
この重大なニュースを報道した日本のメディアはない。

劣情日本人のイデオロギーが戦後日本の言語空間を壟断していたからであり、
彼らの劣情からすれば、この事実は国民が
「知ってはならない歴史」にほかならないからである。

◆日本人が「知ってはならない」戦後の追撃戦

支那事変は日本の侵略という。
しかし、支那事変を始めたのは日本ではない。
盧溝橋事件は、中国共産党軍の日支両軍への発砲により始まったものであり、
そして、その背後にはコミンテルンの世界革命の戦略が深く関わっていた。

民国政府・軍部も日本も盧溝橋事件の拡大を避けようとした。
しかし、停戦協定がなるたびにテロが繰り返された。
これらのテロは、コミンテルンの指示・支持を受けた
中国共産党が実行したものである。

大陸の日本人へのテロに憤激した軍部が、戦火を拡大していったという話は、
非常に不正確なハナシである。事態はそんなに単純ではない。
陸軍の参謀本部、海軍の軍令部もともに不拡大・収拾の方針であった。
ただ陸軍省・海軍省が一撃後和平と割れていた。
問題は日本政府の内部にあった。

昭和に入ると、日本の政官界の内部には多数の共産主義者が
要路に潜伏するようになっていた。
コミンテルンの人民戦線戦術によるものである。
先に書いたように、日本には一撃後和平論者はいたが、
日本には支那事変拡大派はいなかった。
ただし、二人だけいた。尾崎秀実と、工作された近衛文麿である。

表の共産党は当局の取り締まりで、ほぼ壊滅させられたまま終戦にいたる。
獄中十八年とかの「英雄的闘士」は、表の部分の残党にすぎない。
獄中とは、生命と三度の食事が保証された世界である。

善良な国民は職域に殉じ、戦陣に倒れていった。
獄中での拷問を口にする人がいるが、内務班の辛さと戦地の地獄を思えば、
獄中など天国だと吐き捨てるように言う多数の元兵士たちを、
私は知っている。

コミンテルンは、主戦力は潜り込ませたのである。
尾崎・ゾルゲ事件は露頭部の一部にすぎない。
これは捜査が中途で終っているからである。

北進してソ連と対峙する路線が、
なぜか米英と対決する南進に転換していった過程は
充分に研究されなければならない。
今や資料の類は続々と明らかになりつつある。

中国大陸での泥沼の戦線に日本の大軍を貼り付け、ソ連への脅威を減じ、
そして列強同士を噛み合わせるというコミンテルンの政策について、
ひとり日本や中国にとどまらず米国の政策決定に関わる研究が急がれている。
ルーズベルト政権内部にコミンテルンの影響の痕跡が歴然としている。
日本、米国、中国(民国)ともにコミンテルンには存分にやられたのである。

朝鮮戦争の勃発とともに、マッカーサーは自分がかつての日本が歩んだのと
同じ道を進んでいることを知り、愕然となった。
日本がマットに沈んだら、たちまち中国、朝鮮、ベトナム、カンボジアは
共産主義の制するところとなったからである。

解任されて帰国したマッカーサーは、上院に喚問され有名な演説を行う。
この聴聞演説は「老兵は死なず」のフレーズだけが知られているが、
中心は「米国の自己批判」とも言うべき告白録の部分である。

日本の戦いは「正当防衛(自衛戦争)」であった、という趣旨だが、
演説を終え降壇する寸前の言葉が先出の「老兵」のフレーズである。

日本人のほとんどはマッカーサーの演説は知らされていない。
戦後日本の言語空間を支配した反日本的劣情日本人は徹底的に隠蔽している。
戦いの当の本人が、日本の戦いは正当防衛だったと言っているのである。
もっともマッカーサーの演説は勝手な与太ではある。

なぜかと言えば、マッカーサーは
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)
の作戦実施を命じた当の本人だからである。

WGIPというのは、今度の戦争は日本人が引き起したのだという
犯罪意識・贖罪意識・反省意識を徹底的に日本人に抱かせる作戦の事である。
日本は、足かけ七年間、軍事占領されていた。
七年間の軍事占領とは換言すれば、
七年間の追撃戦を仕掛けられたということである。
日本人はこのことを「知ってはならない」のである。

昭和二十七年四月二十八日に日本は独立を回復するが、
日本人の精神はみごとに骨を抜かれていた。
日本を再び「強国」にさせないというWGIP作戦は
みごとに勝利したのである。
日本はみごとに解体させられ、今やメルトダウンの寸前にある。

東京軍事裁判とは、法廷に名を借りた作戦であることに思いをいたせば、
軍事作戦であることを知るのに造作はないはずである。
しかも、作戦勝利とは「知らない」という戦果である。

四年間の激戦は「それで終った」のではないのだ。
七年間の追撃戦を日本人は「知ってはならない」し、
知ってはいないのである。完璧な敗北である。

「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」などのハナシは、
追撃戦敗北の破片にすぎない。

私の老母(九十四歳)は南支那派遣軍広東第一陸軍病院の
初代の総婦長を命じられ、三年間の戦地勤務を経験している。
老母は「従軍慰安婦」の語を嘆いてやまない。

従軍記者、従軍カメラマン、従軍技師・・・これらは軍属である。
当時には「従軍慰安婦」などバカげた言葉は存在しなかった、
と老母は今日の日本人の無知を嘆く。

高校教師の私には「生徒さんには正確に教えよ」と訓戒する。
ついでに言えば、老母の弟は二十五歳を最後に、
マーシャル群島のルオット島で玉砕している。

「妻もなく子供も残さず国のために死んだ」国民をまともに弔わないで、
「なにごとぞ」と老母は小泉首相たちの背信を嘆いている。
首相たるものが、「なにごとぞ」と言うのだ。

日本はこの程度までに、追撃戦に完敗しているのである。
政治家、官僚、財界・経済人たちのあいつぐ不祥事、
ひいては少女の売春などの道義の崩壊・・・深まりゆく不況・・・
これらは総じて、
事態に対処する知性と気力を喪失した追撃戦敗北の現象形態にすぎない。

◆韓国併合で知ってはならない歴史1

幕末から明治の日本を支配していた空気は、ロシアへの恐怖である。
露国や列強に支配され、ひいては滅ぼされるのではないかという恐怖感は、
なまなましい現実感を帯びていた。

黒船の脅しに始まり、不平等条約を無理矢理に呑まされる過程で
思い知らされた彼我の武力の絶対的な格差は、
「富国強兵」・「殖産興業」の道を猛烈な勢いで日本を進ませることになる。
エネルギーは「追いつける」という感覚である。

当初、日本の描いた構想は、
日本・清国・朝鮮(李氏朝鮮)の三国の連衡であった。
この連衡の構想は、橋本左内・吉田松陰・横井小楠たちも
考えたものであったが、根はもっと深い。

西郷隆盛のことを「征韓論」の武断主義者のように言う人もいるが、
誤解である。
明治六年の西郷隆盛の下野を、「征韓論」否決の抗議と書く歴史書
(例えば、高校教科書)は例外なく史実を曲げている。

高校の教科書の例に、
『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍 日A553)をあげておく。
この教科書は西郷のみならず木戸、大久保たちも
みな征韓論者として描いている(四十五頁)。

江華島事件を
「日本軍艦の徴発によって砲撃事件(江華島事件)がおこるや、
大久保らとともに(木戸も)朝鮮に対する強硬策を主張している。
その結果、欧米からおしつけられた不平等条約を、
逆に朝鮮におしつけたのである(日朝修好条規)」
と書くのであるが(同頁)、
こんなところが日本人に「おしつけられた」歴史の一端である。

西郷、大久保、木戸・・・・とまるで日本の政府は侵略主義者の巣窟である。
まともな感覚の文章とは思えないが、
わが国の高校生はこのように教育されているのである。

日本の開国と朝鮮(李氏朝鮮)の出会いの不幸は、
その精神世界の舞台が「衛正斥邪」と「尊王攘夷」意識の
大きな隔たりにあった。

1868年、日本は明治元年である。
十二月、対馬藩の代表たちが釜山に到着した。
明治新政府の派遣した使節たちである。

この使節たちの持参した国書の受け取りを朝鮮が拒否した、
理由は日本の国書は「皇上」「奏勅」「朝廷」の文字を用いていることや、
印璽や署名が伝統と異なる、などがその理由である。

まさに「衛正斥邪」である。
中華秩序と儒教が正義であり、これに服さない者を邪とする精神世界からは、
日本ごとき島夷が僭上にも「皇上」とか「朝廷」の言葉をちりばめた国書を
朝鮮にもたらすなど、絶対に許されることではないのである。

李氏朝鮮からすれば、「皇」や「勅」の文字は
中国皇帝にのみ許される言葉であって、
李朝は日本の臣下ではないという怒りは、
「衛正斥邪」からすれば当然の反応であった。

「王朝外交」からの離脱、つまり華夷秩序からの脱却と
朝鮮の独立・近代化は日本の安全の前提となる大問題と
意識されていたのが日本の状況であった。
つまり、ロシアの南下の脅威との関連である。

列強と交戦を重ね、神父を殺害し八千人のキリスト教徒を虐殺するなど
常軌を逸しているとしか言えない朝鮮の存在は、
日本の国家防衛上大きな危険要因として浮上していたのである。

この「日朝修好条規」のことを、
「(江華島事件の結果)・・・欧米からおしつけられた不平等条約を、
朝鮮におしつけたのである」と高校の教科書は書いている。

史実を吟味してみよう。

第一条
『朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり』

と、朝鮮(李氏朝鮮)の独立を確認したつもりの日本は、
実はひとり合点のミスを犯していた。
李朝はこの条文について「別に議論すべきほどのことはない」
という態度ですんなりと合意している。

日本の「つもり」は、朝鮮は独立国の意味であるのが、
李朝には「日本と平等」の意味にしか理解されていなかったのである。

第四条、第五条は釜山他二港の開港と、
第十条は朝鮮の開港場での日本の領事裁判権を取り決めている。
この場合の領事裁判権とは、朝鮮の開港場で罪を犯した日本人を
日本の領事が裁判するという、いわゆる治外法権のことである。

この治外法権をもって、日朝修好条規を不平等条約と書くのは、
ウソを書くのでなければ無知の自己暴露である。
次のように、この場合はウソが故意に書かれている。

明治四年に結ばれた日清修好条規は、
互いに治外法権と領事裁判権を規定している。
この条規をだれも不平等条約とは言わないのはなぜか。
それは領事裁判権が双務規定だからである。

これが片務規定のとき、不平等条約となる可能性が生ずる。
日本が列強諸国と結ばされた不平等条約は、
例えばアメリカ人が日本人に対して犯した犯罪を
アメリカのみが裁判権をもつという片務規定であり、
まさに不平等条約と呼ばれるものである。

日清修好条規では、
江戸時代以来の慣習をふまえて双務規定としたものである。
長崎で日本人に対して罪を犯した清国人は、
清国の責任において清国が処断していたのである。

この慣習を法定したものが、日清修好条規の領事裁判権の治外法権である。
これを、当然に誰も不平等条約とは言わない。
日朝修好条規も同じことなのである。

江戸時代に釜山で罪を犯した日本人は、
対馬藩が責任をもって処断するのが当然の慣習とされていた。
これを継承したのが日朝修好条規であり、李朝側は何の異議も唱えていない。
当然と考えられた、にすぎない。

いずれにしても、治外法権がすなわち不平等条約という連想は
粗雑でウソが過ぎる。日朝修好条規は不平等条約ではない。
当然に、当時はだれもそんなことは言わなかった。

◆韓国併合で知ってはならない歴史2

李朝では清国の干渉を逃れるために、
密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。
1885年(明治十七年)一月に甲申事変の後始末のための
漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。
策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。

メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、
滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。
メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる
第三国にロシアを当てようとしたのである。

彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、
清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。
それは清国へのロシアの圧力を
朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。
メレンドルフの提案をスペールは受諾した。

ところが、四月十八日に天津条約が締結され
日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、
李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、
外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。

こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
【1】金玉均がウラジオストックに来れば、
ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
【2】日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
【3】外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
【4】朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。

外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。
ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。
甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、
もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする
別の事大主義が力を得ていた。

朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。
果然、イギリスが動いた。
明治十八(1885)年四月、
イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。
朝鮮海峡を扼するこの島は、
ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。

ロシアはイギリスに抗議して、
巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。
イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。

英露交渉は二年間にわたったが、
清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、
そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。

この事件は、日本に深刻な影響を残した。
朝鮮へのロシアの南下がすぐに列強間の緊張を
もたらす現実を日本は直視した。

そして、李朝政府がいかに無力であるか、を改めて認識させられたのである。
自国の運命が、外国勢力に好きなように左右されるのを見た朝鮮国民
のなかに、当然に危機意識を深める国民(志士)が増えた。

しかし、李朝の親露政策は強まる一方であった。
明治二十一(1888)年、露韓陸路通商条約が結ばれ、
半島北東部の慶興にロシアの租借地が造られた。
ついで、豆満江(現在の北朝鮮とロシアの国境)の航行権を李朝はロシアに与えた。

やがてロシアは鴨緑江の航行権を手に入れ、森林の伐採権を手に入れ、
河口の港・竜岩浦をポートニコラエスクと改め、
軍港工事を進める時点で日露の開戦に至るのだが、十六年後のことである。

福沢諭吉が「脱亜論」を「時事新報」紙上に書いたのは、
甲申事変のすぐあとの明治十八年三月のことであった。
もともと彼は多くの日本人と同じく、
日本・清・朝鮮・三国連衡で国難に対処しようという連衡論者であった。

しかし、中華主義から朝鮮支配を変えない清国と、内紛の絶えない朝鮮、
しかも表裏常でない朝鮮の外交、加えて迫るロシアの脅威の中で
福沢諭吉たちは「脱亜論」に立つにいたった。
これは、視点を変えれば、朝鮮の志士たちの心情でもあった。

朝鮮近代化の熱情に燃えた愛国の志士たちは少数ではない。
志士と言えば金玉均の名があがるであろうが、
彼の墓は東京本郷の真浄寺にある。

彼は甲申事変に敗れると、
朴泳孝らとともに日本に逃れてきたことは先にも触れた。
身柄引き渡しを朝鮮政府は要求してきたが、日本政府は拒否している。
日本での生活費用として日本政府は金玉均に「月給」五十円を支給している。
彼は同志の裏切りにより、上海に連れ出され殺される。
死体は清国軍艦で朝鮮に運ばれ、
六支の刑(頭、手足をバラバラにする極刑)に処せられ
朝鮮各地にさらされた。
父は死刑、母は自殺、弟は獄死という悲惨な結末で一家は全滅している。

金玉均たちこそは、歴史の渦のなかで、
祖国を清国やロシアの爪牙から守ろうとして志半ばで倒れた志士である。
彼たちは朝鮮の安全保障・開化・近代化のために、
清国やロシアに対抗するためのパートナーに日本を選んだ政治家である。

日清戦争の後大韓帝国が成立したが、ロシア帝国の爪牙に組み敷かれた。
そのとき、日露戦争に勝利した日本と組むしかないと理解していたのが、
韓国内の強力な世論であった。
韓国内に日本との連携を考える強力な世論が存在しないまま、
韓国は日本から赤子の手をひねるように
一方的に併呑されたというのだろうか。

今、日韓の歴史はそのように捏造されている。
これは形を変えた蔑韓論である。
言うまでもないが、これは歴史の事実に反する。
歴史を知る日本人は、
例えば特攻隊で散った朝鮮出身の若者のことを決して忘れてはいない。

◆韓国併合で知ってはならない歴史3

当時の日本でも(朝鮮との)合併に対して異論がなかったわけではない。
伊藤博文は保護国論に近い立場にあった。
強硬な合併論者はいても、いわゆる植民地化論者は皆無であった。
これが事実である。

当時の朝鮮は極度に貧しく、
李朝の苛斂誅求によって国は衰亡したも同然であった。
朝鮮の前には、独立の選択肢は存在していなかった。
滅亡か、日本との連衡による滅亡回避かの二択しかなく、
他の道はあり得なかった。
これが歴史の事実である。

当時の日本に朝鮮植民地論者は皆無であった、と書いた。
植民地という以上は、コロニーとしての「うま味」がなければならない。
例えば収奪の対象になり得る財貨・物産が、当時の朝鮮に存したのだろうか。
そんな物はありはしない。

収奪した物を運ぶ道路はない。鉄道はない。港湾はない。橋はない。
破壊されたハゲ山、堤防のない河川と、洪水の危機に曝され、
野放しの農地と破壊された自然というのが、
李朝支配五百年余の惨たる風景であった。

李朝の国是は「衛正斥邪」だが、
この中華従属イデオロギーの自家中毒が李氏朝鮮滅亡の根本原因である。

半島が独立したのは日清戦争での清国の敗北の結果であり、
下関条約第一条で朝鮮の独立が規定されてからである。
にもかかわらず、朝鮮の独立を奪ったのは日本だという
韓国人、朝鮮人がいることを、私は奇観だと思う。

同時に、
私は合併は日本の現代史上、最大の過誤であったと言わざるを得ない。

元の時代、高麗朝の貴族は競って「創氏改名」して、
モンゴル式の名を名乗った。

元が明に代わると、
高麗の武将の李成桂は高麗朝を滅ぼし、朝鮮の国号を頂戴した。
そしてさらに「創氏改名」して中華風の名乗りに変えた。

清の時代になると、清朝は満州族の王朝だから、
朝鮮は明に殉じて小中華をもって任じ「衛正斥邪」を国是とした。
だから、明に忠節を尽そうとした宋時烈たちの義挙もあった。

だが、清軍に撃破(丙子胡乱、1636年など)されると
清の忠良なる属国となった。

日本と合併ののちは、「創氏改名」を希望する者が多く、
朝鮮総督府は申告制で対応した。
日本式の名乗りが多くの利便を韓国人に与えたことは事実である。
支那でも、アジアでも欧米ででも、
日本人として振る舞うことの利便は大きかったし、
日本式の名乗りを好んだ韓国人は少なくはなかった。
(台湾では許可制であった)。
特に支那では、ほとんどの韓国人が日本式の名乗りを用いた。

人種差別が当然とされていた当時に、パリやロンドンで、
白人専用のホテルに宿泊できた有色人は日本人だけであった。
合併は植民地化とは違うというのは、韓国人は日本人になったという、
ささやかな一つの例証となるであろう。
インド人はイギリス人になれたのではない。

総督府は戸籍を編成した。
村(面)によっては人口の半分近くを占める奴婢身分には
「戸籍」はなかったが、総督府は戸籍を認めた。
このとき多くの日本人名が誕生した。

総督府の進める堤防工事や灌漑工事によって多くの農地が生れていた。
1911(明治四十四)年に246万町歩の水田が、
20年後の1932年(昭和七)年には449万町歩に倍増している。
増加した農地については、日本人地主も増えたが、
新たに日本人式の名前になったもと奴婢身分の「地主」も増加した。
そこは彼らの「住所地」だったのである。

新しく造られた「金融組合」などは、仔牛を貸し付けて、
成長すればそのうち一部を農家のものとするなどの方法で、
牛を飼う農家を増やしていった。日本の教科書ではこう書いている。

「すでに10年代から、日本人が朝鮮において広大な土地を所有し・・・
日本への米の大量積み出しが強行された」
(山川出版社 世界の歴史 世B576 287頁)
歪曲とはこういうことを言うが、
日本の高校生はこうして教育されているのである。
「近隣条項」は、近隣関係破壊の元凶というしかない。

学校教育についてはどうか。
総督府の当初(明治三十八年、1905年)には
朝鮮全土で四校にすぎなかった小学校は、
一面(一村)一校を目標に設置が進められ、
1923年には2500面で達成され、
36(昭和十一)年には全面(全村)に小学校が設置された。

小学校ではハングルが教えられた。
ほとんどの日韓人が知らなくなっているが、これが事実である。

朝鮮では漢文が真書とされ、ハングルは・諺文(卑しい語)と呼ばれ、
長い間忘却されていた言葉であった。
総督府がハングルを「発見」し、小学校教育で普及させたものである。
これが事実である。

言うまでもないが、私は自説を主張しているのではない。
ハングルは、李朝四代の世宗が学者を集めて、
庶民生活に使える文字をという目的のもとに
二十八文字を創造したものである。(1443年の頃)。

だが「尊清事大」の「北学」至上主義は、
日本や蒙古などは蛮族だから自分たちの文字などを用いていると、
その蛮風を笑っている(例 漢学者・崔万里)。
事大主義も極まれりなのだが、
これが「衛正斥邪」という国是の一面なのであった。

新羅時代に入ってのち唐式の姓名を名乗るようになったが、
金、李、朴が最も多く姓の数は250くらいである。
元の支配を受けるようになると、蒙古式の姓名を名乗り、
明の時代になると、科挙・宦官・中華思想を移入し小中華を誇った。

◆劣情日本人に握られている歴史教科書

日本の歴史教科書は悲惨である。
日本の国民を育てる教育ではなく、日本の「罪悪史」をでたらめに教え込み、
日本を嫌い憎む日本人を育てるのが、今の歴史教科書である。

私は高校社会科の教師を三十八年間勤めた者である。
生徒は、近現代史になると、ため息をついて、言う。詰問口調のときもある。
「先生! また日本の悪口の時間ですか?」
「先生なら違うやろ・・・?」

歴史教育はイデオロギー教育ではない。
それなのに、生徒たちは中学校までに十分にイデオロギー教育の
洗礼を受けてきている。
経験的に間違いないのはこの二十年間、正確を期して言うと、
この十五年間に急速に生徒の詰問が増えた。

「教科書問題」の発生以来、急速に生徒のため息が増えた。
1982年の宮沢談話と近隣条項の誕生から、
露骨に変わったのは教師用の「指導書」の中身である。
生徒は教科書を持つが、
教師には教科書会社が発行する「指導書」なる虎の巻がサービスされる。
この「指導書」に「検定」はないから、簡単に言えば書きたい放題である。
私は準備中なのだが、「指導書」の研究書を上梓したい。
教師への影響という点では、「指導書」はダイレクトである。

日本の歴史教科書は、中韓に媚びる劣情日本人に握られている。
これが言い過ぎではないことは、
事態を知る人ならすぐに理解されるに違いない。
劣情日本人の大部分は「旧左翼」の人たちである。

日本を愛するなどという「ナショナリズム」は、
国際主義の思想からみれば遅れた陋劣な心情である。
日本人であること自体を反省するのを思想的課題とするのが、
左翼の良心だと、彼らは確信しているのである。

「万国のプロレタリアート、団結せよ!」
の国際主義の精神こそ高貴とするのが、左翼である。
これが人間を左翼にするパラダイムの原点である。
若者の多くが左翼になった。

だがソ連の崩壊ののち、
あからさまに左翼的発言を口にすることは憚れるムードになってきた。
だから、信条は隠すのである。隠蔽される信条は、劣情と化すしかない。
ゆえに私製語だが、劣情日本人の語を私は用いる。

祖国愛をむしりとることが国際的な正義に通じるとは、
通常の感覚では考えられない。
父母、祖父母、祖先の歩いてきた道、なしとげられた業績の数々を学び、
結果として自然に尊敬の気持が深まるように導くのが教育である。

日本を愛する者が初めて他国の人の祖国愛を共感できるのであって、
日本への愛情を滅却した者とは、
つまり他者・他国を愛する者の心に共感する心理的基盤を
喪失した者でしかないのだ。
戦前の日本人は愛国心が過剰であった、と言う人がいる。
「過剰な愛国心」とは何であろうか。
戦争中の愛国心の高まりを言うのだろうが、
だとするならば、因果関係を間違えているにすぎない。

戦争という平常ではない状況に国と自分が陥ったとき、
ごく普通に愛国心は高まるに違いないのだ。
「過剰な愛国心」の悪を言う人は「指桑罵槐」しているのである。

桑を指して、槐を罵るという中国の俗諺を借りると、
「過剰」の悪に名を籍りて愛国心を罵っているにほかならない。
国民が国を愛さなくなれば、国は腐るだけだ。

彼らは愛国心が悪とは、率直には言わないのである。
こういうのを陰険という。

だから、反日劣情日本人と私が評言する所以である。
彼らの狙いは日本が腐れて崩壊することである。総じて彼らは陰険である。
劣情は陰険なものだが、彼らは、だから劣情を隠して行動する。

外務省でも元大蔵省でも、
少なくはない反日劣情日本人が潜り込んでいると見たほうがよい。
法曹もマスコミの世界も同じである。
しかも、彼らは、中枢・要路を扼している。

いぶかる人は、尾崎・ゾルゲ事件を想起してほしい。
日米開戦の巻で詳しく書くが、
近衛首相の最も信頼した嘱託・顧問はコミンテルンの一員だったのである。

ただ情報をもらしただけ(これでも一大事だが)ではなく、
政策転換のたびにリードする尾崎たちの影が見え隠れしている。
日本軍の北進はないと知った極東ソ連軍は、
満洲正面を空にしてモスクワ救援に移動した。
極東ソ連軍はかってはドイツ指導のもとに錬成された
最精鋭の機甲軍団であった。

モスクワ防衛の成功・ドイツ軍敗退の最大の功労者は
ゾルゲ・尾崎秀実である。
尾崎秀実はソ連邦英雄だが、日本にとっては底知れない恐ろしい敵である。
第一高等学校から東京帝国大学法学部を卒業した輝かしきエリートは、
まず朝日新聞に「潜った」のである。

彼の仲間は同じような道を歩んでいる。
日本はまだこの清算をすませてはいないのだ。
この徒輩の後輩たちは、
今日、高級官僚・法曹・学問の世界の要路を扼して
日本が腐っていくのを眺めている。

朝日新聞やNHKは劣情日本人が
廊下をのし歩いているとしか思えないが、いかがなものか。
反日劣情日本人との評言は、さほどに不当な表現ではなかろう。

◆日清戦争と三国干渉

1894(明治二十七)年、いわゆる「東学党の乱」が起った。
「東学」党は「人乃(すなわち)天」の平等主義を掲げ
李朝の打倒を民衆に呼びかけた。

鎮圧に派遣された政府軍は敗北し、
全羅道は東学党の制圧するところとなった。
狼狽した李朝は清に救援を求めた。
清国の北洋軍が派遣され、日本も出兵した。日清戦争の勃発である。

開戦前、清国は日本を完全に侮っていた。
だが、結果は清国軍の連戦連敗、完敗であった。
清国は意外な敗戦に呆然自失した。

ある清国の軍人は敗因を、整然とした散兵線(戦)のできる日本軍と、
それができない清国軍との差に求めたりしている。

日本軍は国民軍だが、清国軍は王朝軍でしかなかった。
拉夫という言葉は日本人は知らないが、
清国兵の多数はこの拉夫から成っていた。
兵士にするために若い男を「拉致」して、兵隊に仕立て上げるのである。
支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあるが、
兵に良民なしとも言った。

散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなるのである。
だから、兵隊は常に団塊の状態で督戦隊の監視下で戦わされたのである。
逃げる者は射殺である。
砲撃には特に被害が大きい。だから散兵線なのにである。

日本軍の「とっかーん」の掛け声は、
清国軍には恐怖の声だったと諸書は伝えている。
「とっかーん」は突貫だが、
一方で日本兵は大陸の戦争文化に大きな衝撃を受けている。

例になく頑強に抵抗する清国軍の陣地を攻略した日本の兵士は、
足を鎖で縛られた清国兵士の戦死体を見て、思わず泣いたという。

また捕らわれた日本兵が虐殺されているのを見て、
捕虜の運命を知ったという。
日本人には食人(カニバリズム)の習慣はないが、
喰われた仲間の骸に激昂し捕虜にだけはなるまいと心に誓ったのである。

精強な日本軍というのは、脅迫観念の産物という一面がある。
日清戦争は日本人に大陸の生死の苛烈さを教えた。
人を信じることは、死に直ちに結び付くことを学び、日本人は緊張した。
日清戦争は日本人の大陸経験の始まりであった。

日本人にとって、敵の死体の内臓をえぐり、
喰うというのは埒外の所業でしかなかった。
起床をともにしていた戦友が、むごたらしく殺され喰われたという事実は
「生きて虜囚の・・・」という戒めを与えるものであった。
(この言葉は昭和のものである)

日本軍はどうしたかというと、
国際法の優等生たらんとしていた時代の要請そのままに、
清国兵士の処遇は実に懇切であった。

十年後の日露戦争ではロシア軍の捕虜たちは、
女性との交接まで求めて、さすがに拒否されている。
日本軍の捕虜優遇は、当時から世界的に知れ渡った常識であったようだ。

日清戦争は清国の敗北で終わり、下関条約の締結となった。
列強諸国の多くは日本の勝利を予想してはいなかった。
ただ英国を除いては、である。
だが戦局が日本の圧勝のうちに展開するのを見て、
列強は清の敗戦を自国の勝機(商機)と見切ったのである。

諜報にたけたロシアは、敗北した清朝が
ロシアに日本への干渉を依頼することを承知していた。
好機到来である。

一方清朝では、島夷の日本との屈辱的な下関条約への反感が強く、
列強諸国の干渉で島夷日本の災いを払うべしという、
伝統的な以夷制夷・借刀殺人の術策を用いた。
遼東半島を清国に返却せよという「三国干渉」の誘導である。
(三国は露独仏)。

日本では干渉に接して国論が沸騰したが、
「臥薪嘗胆」を合言葉に干渉に屈した。

朝鮮政府はロシア公使館に移り、朝鮮は完全にロシアの支配下に入った。
朝鮮にはロシア軍が駐屯し、
武器弾薬はウラジオストックから補給されるようになった。
ロシアは鉱山の採掘権や森林の伐採権など多くの利権を手中にした。

それだけではない。
ロシアは清国の大官・李鴻章との間に密約を交わし、
満州の「主権」を買収してしまうのである。

露清密約については、別項でとりあげる。
満州の地は、言うまでもなく清朝の故郷である。
支那人は立ち入り禁止の措置がとられていたが、
ロシアは鉄道敷設権や駐兵権を手に入れた。
李鴻章は清朝を裏切った、というわけだ。

明治三十年九月、朝鮮の国号は大韓帝国となり、
国王は皇帝と称することになった。
ロシア公使はウェーバーに代わってスペールが赴任してきた。
彼の対韓国政策の根底は、明治二十九年に結ばれていた露韓密約であった。

密約の要点は大韓帝国皇帝は希望すれば
随時にロシア公使館内に移住することができること、
軍事・財政の両面での顧問にロシア人を採用すること、
そしてロシア以外の国が大韓帝国の独立を脅かすときは
ロシアが兵力をもって援助する、といった諸点である。

これら諸点の意味するところは余りに判然としている。
大韓帝国の国号には、哀しいものがある。
ロシアは満洲を固めるとともに、旅順・大連を租借することに成功した。
ロシア帝国は念願の不凍港をようやく手にしたわけだ。
ウラジオストックは四ヶ月は氷結する。
ロシア太平洋艦隊の根拠地は旅順となり、大連は満洲最大の商港となった。
三国干渉で日本に返却させたのが、
ほかならぬこの二港であり遼東半島であった。

◆日露戦争直接の原因

日露戦争の直接の原因は、ロシアの満洲・朝鮮への侵略である。
日本はロシアの攻勢の終末点が日本にあることを知り、
朝鮮が完全にロシア支配に落ち、
満州のロシア軍の戦備完整(「完整」という日本軍の用語を用いる)
の直前に日本は開戦を決定した。

文字通り国の存亡を賭けた一戦である。
敗北したら、日本は滅びるしかないことを国民は自覚していた。
このとき、大韓帝国も清国も日本の味方ではなかった。
日本の頼みは英米の後援である。
ロシアには清国の他に、仏独の後援があった。

ところで、満州はなぜロシアの支配下になったのか。
それは露清密約の結果である。
1896年(日清戦争終結の翌年)、ロシアの新皇帝ニコライ二世の
戴冠式に出席した李鴻章は、大歓迎を受けるとともに
ウィッテから迫られ、攻守同盟を密約した。

主な内容は次の通りである

一、日本に対して、露清の相互援助
二、満洲でのロシアの鉄道敷設権の承認
三、鉄道の軍事利用権の承認
四、露清銀行の設立
五、東清(支)鉄道株式会社の設立
六、同社の土地と収入は無税、社有地内の絶対的な行政権

これは三国干渉の代価であるが、
ドイツは山東半島の租借と膠州湾の九十九年の租借権、
フランスは広州湾(広東)の租借地権(九十九年)を獲得した。
対抗してイギリスは威海衛を租借地とした。

これは清国の以夷制夷の術策が完全に裏目に出た結果であったが、
日本は露清密約の存在について、
1922年のワシントン会議で中華民国が暴露するまでは知らないでいた。

これが満洲事変の要因のひとつとなるのだが、
清国の半植民地化は自ら招いた結果と言うしかない。

別の観点から言えば、朝鮮半島の独立をめぐる日本との対立に端を発して、
日清戦争に敗北するや三国干渉を導入して、
ついには清国は独立国の実質を失うはめに陥ってしまうのである。

そして、朝鮮はロシアの支配下におかれることになり、
日露戦争を呼び込むことになるのだが、
これらの経過を見るに東アジアの風雲は朝鮮半島の動向に
左右されることを百年後の今日も教えている。

言葉を継ぐが、朝鮮半島の動向は日本には死活的である。
大陸の勢力が朝鮮半島を制圧したら、
この勢力は日本には直接の脅威となることは、
元寇の例を引くまでもなく日本人には防衛本能的な常識であった(ある)。
だから、十年前には国の運命を賭して日清戦争を戦ったのである。

しかし、日本のこの常識はこの時期から痴れ始めていた。
清国がもし朝鮮の独立を認め、
朝鮮の開化と近代化を認めていたなら、日清戦争はなかった。

歴史に「たら」「イフ」はないが「大陸・半島・島国」の
この原理は、今日でも生きている。
朝鮮半島をソ連が支配しようとしたとたんに、朝鮮戦争が起こった。

マッカーサーをはじめアメリカ人は、日本が日清戦争以来、
大陸で何を相手に頑張っていたのかを初めて理解したのである。

ロシアが朝鮮を支配しなかったなら、日露戦争はなかった。
朝鮮の地理的位置は、日本のわき腹を突く形に造形されている。
大勢力が朝鮮半島を支配すれば、日本は守り切れないのである。

古くは高句麗・唐・新羅の昔から、この「原理」に変わりはない。
元の大帝国が朝鮮半島を支配下におくや、
日本との関係は一気に緊迫し、破局を迎えた。

北條時宗たちの開戦決意は、日本の「常識」的な決断であったのである。
幕末の黒船ショックは、契機はアメリカによるものであったが、
日本が本当に恐れたのは、「赤蝦夷(オロシア)」の南下であった。

橋本左内・吉田松陰・西郷隆盛も、脅威の本体はオロシアと見ていた。
西郷隆盛の「征韓論」は朝鮮を敵視したものではない。
ロシアへの危機意識の発現が「征韓論」である。

日露戦辛勝の余波

戦況は海陸とも日本が優勢のうちに推移していった。
日露両軍ともに近代戦を本格的に初めて体験した。
機関銃、鉄条網、鉄筋コンクリートの要塞・陣地は
両国の将兵の血を貪欲に欲した。

悲惨な血戦を、しかも劣勢な兵力差をはねかえす日本軍将兵の勇戦敢闘を、
国民は永遠に記憶しておく義務がある。

日本勝利のニュースはアジアでは大きな興奮の渦を巻き起こし、
ネルーもボースも眠れなかったと記している。
同盟国のイギリスでもだが、
白人世界ではロシア敗北は不機嫌な雰囲気で受け止められた。
ロシア海軍消滅の報は、愉快なニュースではなかったのであり、
これが二十世紀初頭の世界の精神状況だったのである。

日本人は気付いていないのが、ロシア海軍が消滅したら、
太平洋において日本の連合艦隊に対抗できる艦隊は存在しなくなっていた、
という風景である。

アメリカは「オレンジ計画」の策定に着手している。
「オレンジ計画」というのはアメリカの対日作戦計画のコードネームである。

毛沢東も孫文も、日露戦争の日本勝利に感激していた。
そのとき同時にアメリカの対日作戦計画の策定がスタートしていた。
インテリゼンスとはこうしたものだという常識を、
我々日本人は知っていなければならない。

現在の韓国人は、併合当時の韓国人を正しく理解していないのだ。
ある意味では、先祖を粗略にしている、とさえ言える。
今の韓国人は当時の韓国人が、なすこと・考えることなくして、
ただ一方的に倭奴にやられたと考えたいようだ。

繰返すが、それは先祖への侮辱である。
これでは、まるで大韓帝国の国民はバカではないか。
当然に事実はそんなものではない。

日露の対決機運が高まるなかで、
祖国の行く手に深く考えをめぐらせた愛国者は苦悩した。
愛国者たちを、今の韓国人たちはそのように評価しないだけだ。
これはどうした訳だろう。

私はひとつには常軌を逸した反日教育の成果と考えるが、
それだけではなく日韓の離反を国益とする複数国家(アメリカを含む)の
工作の成果が大きいと判断している。
これに日本のなかの反日的劣情日本人が加勢しているのであるから、
事態はますます錯綜しているのである。

◆朝鮮植民地化のウソ

教科書(『世界の歴史』山川出版社)を引こう。
「経済的にもまだ弱い日本が、
二十世紀はじめ帝国主義諸国の仲間にはいれたのは、
日本が天皇制のもとで強力な軍備を保持し、
また当時列強の分割競争のおもな舞台であった中国にもっとも近く位置して、
ここに大兵力をすばやく送れる有利な条件をもっていたことによる。

たとえば義和団事件で列強が中国へ出兵したとき、
ここに一カ月以内に一万の大軍(連合軍総数二万弱のうち)
を送れたのは日本だけで、結局、日本は義和団鎮圧の主力になった。

こうして日本は東アジアで帝国主義列強の利益を守る「憲兵」の役割を
はたしながら軍事的・経済的大国に成長したのであった」

ここにはウソが書かれている。
義和団事件のときに、十余万の大軍を満州に駐屯させていたのは、
ロシアである。
ロシアは思惑から、満州の大軍を救援に用いなかっただけである。

動かないロシア軍の思惑を警戒していた英仏などは、
日本に球援軍の派遣を懇請したのであった。
日本は四回の正式要請に接して、第五師団の派遣を行ったものである。
連合軍二万弱は天津から北京に入城に成功した。
確かに、日本軍が半数以上を占めていたが、
ロシアは義和団事件を機に満州に大軍を送り続け、
満洲全土をほぼ占領することに成功したのであった。・・・

ロシアは北京の外交使節団全滅は秘かに期するところだったのである。
なぜなら、義和団を清朝は利用するだけでなく、
自らも国軍を動かし、排外の軍事行動に出ていたからである。
ロシアは清国の国軍との交戦を欲しなかったし、密約もあった(露清密約)。
ロシアの思惑はこの限りでは、成功した。満州の占領が成功したからである。

義和団事変議定書は、
清国は賠償金約五千万両(テール)を連合軍十一カ国に支払い、
十二箇所に外国軍隊の駐屯を認めた。
この議定書に基いて、日本は諸外国とともに
支那駐屯軍を置くにいたったのである。

議定書の成立は1901年9月である。日露戦争の三年前である。
このときからの支那駐屯軍が、盧溝橋事件に遭遇するのだが、
これが昭和十二年七月七日のことである(正確には七月八日が正しい)。
満州が占領され、朝鮮にロシアの軍事基地が構築されるにいたり、
日露戦争が勃発した。

日本を列強の「憲兵」と教科書は書くが、
日本は超大国の清国・ロシアと国の存亡を賭して
自衛の戦いを遂行したのである。

「帝国主義諸国の利益を守る『憲兵』の役割」とは、
あまりに日本の歴史を汚してはいないだろうか。
日清・日露戦争で国に殉じた日本人青年十万余の死を、
東アジアでの帝国主義列強の「憲兵(犬兵)」の死であるかのように語り、
高校の教科書に書いて恬然としておれる神経は尋常ではない。

私は高校の「社会科」の教師を三十八年間勤めて退職した。
日本史でも世界史でも、当初、多くの生徒たちは「また日本の悪口の時間」
という感覚で臨むのだ。教師たちのうち、近現代史を逃げている者は多い。

この教科書のくだりは、まだ仕掛けが単純な部類だから、
日清戦争・日露戦争と学習した生徒は、
「またか・・・!」と呟き、笑っている。
「犬兵」と私が誤記するとニヤリとする。

数年前のことだ。忠魂碑のことを話した。
ランニングをしていた野球部の生徒たちが、
忠魂碑の前で整列して「脱帽! 礼」とやって、
走り去ったことが、モンダイとなった。

喜んだ人が学校に電話してきたのだが、当時の校長は当惑気であった。
学校で私をウヨク視する人はいないが、
校長はなぜか当惑していた。自身の史観のせいだ。

教科書は、朝鮮の植民地化と平気で嘘を書く。
だから、殆どの日本人が日本は朝鮮を植民地として支配したのだ、
と思って生活している。

この生活の常識とされた「植民地」常識は、
日本人の知が痴れていることの証左なのである。

日本人は朝鮮を植民地にしたのではない。
併合して、合邦国家になったのである。
チェコ・スロバキアやイギリス、ユーゴ・スラビアと同じ
合邦国家となったのである。

合併といっても対等合併ではなかった。
これは、会社の合併でも同じことである。
現実の力関係が合併の内実を決定する。
大韓帝国という国名も、消えた。韓国も消えた。

だが、一進会に結集した韓国の先覚者たちは、
日本との併合によるしか韓民族の亡滅を
防ぐ手立てはないと分析したのである。

このまま漂流していたら、民族の消滅が待ち受けている、
と見た一進会の先覚者たちは、日本の内部で生きる道を選択した。
これが一進会の合邦決議であり、合邦の申請であった。

超大国の清国・ロシアに支配され民族消滅・亡国の
危機に瀕した現実の経験の中で、
そして日本で生活した経験をもつ志士たちの日本人との連帯の感覚が、
日本との合邦しかないと決意させたのだ。

東学党や一進会の真実を、彼らの覚悟と血涙を理解しなければならない。
例えば東学党は、「東学党の乱」からの歴史的な変遷や国民的な組織の
拡大・変様が学問的に研究されねばならない。

ロシアと戦う日本軍との共同行動や、
日本人との共同生活の経験が日本との連帯を生んだのだが、
これを乱暴にも「日本の御用団体」と片付けてしまうのは、
歴史と先祖への侮辱である。

◆歴史認識と国家の命運

1990年代の後半、アメリカで立て続けに起された訴訟での
対日本の請求総額はなんと百兆円に達していました。
(被告日本企業二十八社・・・
原告は大戦中の米元捕虜・在米中国人・韓国人・・・
戦時中の強制労働等を理由とした損害賠償請求訴訟)。

2003(平成十五)年一月、
米連邦高裁はサンフランシスコ講和条約によって
賠償問題は解決済みとの理由で、
カリフォルニア州地裁判決を破棄すると判決しました。
この判決によって、二十八社の日本企業への請求は破棄されたが、
実に危ういことでした。

私は末端の一部を支えたに過ぎませんが、
歴史認識がいかに国家の命運と深く係わっているかを
身にしみて痛感しました。

原告たちは連邦最高裁に上告しましたが、
棄却が確定しました(2006年7月)。

展開いかんでは、
日本を代表する企業群は存亡の危機にさらされていました。
百兆円もの賠償に耐えられる企業は、存在しません。
日本人は歴史認識の切実さを改めて知るべきです。

歴史偽造の一例

1914(大正三)年6月28日、
オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されました。
第一次世界大戦の発端となった有名な事件です。

高校の全ての教科書が、犯人は「セルビアの民族主義者の一青年」であり、
そしてこの事件(サラエボ事件)の銃声が
悲惨な世界大戦のきっかけになったと説明しています。

これは歴史の偽造なのです。

三人の犯人たちは共産主義者でした。
彼らのテロの目標は世界大戦の惹起であり、
「帝国主義戦争を内乱へ、内乱から革命へ」(レーニン『国家と革命』)
への実践にありました。

つまりは、1917(大正六)年のロシア革命の第一幕が
サラエボ事件だったのです。
彼らはトロツキーやレーニンらに心酔した共産主義者たちです。
三人のテロリストを背後で支援していたのは
セルビア陸軍の青年将校たちであり、
彼らはロシアの革命派と気脈を通じ合わせていました。

この軍人たちは、1903(明治三十六)年にクーデターを起し、
セルビアの国王・王妃・閣僚らを殺し権力を握っています。

だから当時のセルビアは、
ヨーロッパ世界では最も急進的な革命政権と目されていたのです。
彼らに支援されたテロリストが、オーストリアの皇太子夫妻を殺害しました。
だからオーストリア帝国はセルビアに宣戦布告をします。
セルビアを支援してロシア帝国が、オーストリア帝国に宣戦布告しました。
オーストリア帝国を支援して、ドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告しました。
ロシア帝国を支援して英仏両国が参戦し、米も日本も参戦しました。
世界大戦となるのです。大成功です。

資本主義が帝国主義の段階に達すると、
帝国主義列強は互いに「強盗戦争」(レーニン)を始めるのです。
ほら、始まった、というわけです。

そして、「帝国主義戦争を内乱へ、内乱を革命へ」というテーゼが踊ります。
日本には、
「支那事変・大東亜戦争に最後まで反対したのが共産主義者だった」
というウソの宣伝が残っています。
共産主義者は戦争に反対しません。
反対するぞと称して、戦争をこそ利用するのが、
共産主義者でありレーニン主義者なのです。

あの大スパイ尾崎秀実は、
支那事変の拡大と日米開戦に大車輪の活躍をしたではありませんか。
三百万人の日本人の死は、共産主義社会実現のための犠牲というわけです。
共産主義者にとっては、靖国神社は尊い犠牲者を祭る神聖な場所の筈です。

1905年(日露戦争さなか)のロシア革命は、1903(明治三十六)年の
セルビアのクーデターを以て序章としていたのです。
つづく第一次世界大戦の結果、
ロシア・オーストリア・ドイツの帝制はすべて打倒されました。

そして、ソ連という共産主義の国家が誕生したのです。
共産主義者が触れられるのを嫌うテーゼを紹介しましょう。
砕氷船のテーゼとして有名なものです。
「砕氷は砕氷船にやらせて、大洋に出たら砕氷船は撃沈すればよい」
というテーゼです。
蒋介石は砕氷船として中国共産党に高く評価されています。
もちろん日本も、です。

日本がサラエボ事件の示す意味を正しく理解できていたなら、
支那事変の泥沼に足を取られることはなかったでしょう。
残念なことに当時の日本には、それだけの解析力はありませんでした。

つまりは、日本のインテリゼンスの弱さへの省察の必要を言いたいのです。
インテリゼンスを知性・謀略とかさまざまに訳しますが、
私はここで解析力の意味を指摘したいのです。
さまざまな情報の中から、あるいはそれを総合して、
情報の意味するものを解析する知力の意味で、
私はインテリゼンスの語を用いています。

ここで私は、
アメリカのインテリゼンスの優越を賞賛しようとしているのではありません。
アメリカのインテリゼンスの狂いこそが、
スターリンの火事場強盗を呼び込み、世界の運命を大きく狂わせたのです。

だから、ブッシュ大統領は2005(平成十七)年5月、
ラトビアの首都リガでヤルタの「過ち」をモスクワ入りの前日に
「謝罪」しなければならなかったのです。・・・・

◆歴史の敗北者と国の衰滅

私は高校教師の時、世界史の授業は「大航海時代」から始めました。
古代から始めるよりも、
現代に関係事項の多いこの時代から始める方が便利だったからです。

同類はいろいろあるようですが、ヨーロッパ人の冗談を紹介しました。
「イギリスを自慢しているやつはイギリス人だ。
ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。
スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」
この冗談の主役はスペイン人です。

あのスペイン(イスパニア)大帝国はなぜ衰弱・没落したのか。
それは、スペイン人が自国を悪く言うようになったからです。
悪く言う、つまり自国を悪く考えるようになってから
イスパニア大帝国は衰滅に至りました。

誰がスペインを悪く言ったのでしょうか。

イギリスやオランダです。この両国はスペインの後輩国です。
イギリスやオランダが植民地でいかに酷いことをしたかは、
今では広く知られています。
殺されたアメリカ原住民やインドネシア人のその数を知る人はいません。

同じことをスペインもやった「だけ」です。
しかし、スペインは敗けました。
悪口合戦に敗けたスペインは、歴史の敗北者になり果てました。

つまりスペイン人たちは、
スペインの歴史に自信が持てなくなっていったのです。
悪逆非道の国・虐殺の国・異端虐殺の国・暗黒の帝国・狂言の支配する国
・・・無数の悪口がスペインに浴びせられました。

プロパガンダ(宣伝)合戦に敗北したスペイン人は、
国民的に元気を失い歴史の敗北者にさせられました。
自信を喪失し自己嫌悪に苦しみ、自虐に親しみ、
寂しく自国を嘲笑する国民には衰滅しか道はありません。

スペイン衰滅に大きな力を発揮した一冊のパンフレットがあります。
司教のバルトロス・デ・ラス・カロスの書いた
『インディアスの破壊について簡素な報告』というのがそれです。
岩波文庫にもあります。こんな調子です。

「・・・彼ら(スペイン人)は村々に押し入り・・・
老いも若きも身重の女もことごとく捕え・・・引き裂きずたずたにした」

「彼らは誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、
誰が一撃のもとで首を斬り落とせるかとか賭けをした」

「ようやく足が地に着く程度の絞首台をつくり、
十三人ずつ吊るし・・・生きたまま火をつけた・・・」

念のために言い添えますが、
これは例の「南京大虐殺」の一節ではありません。
このカロスのパンフレットは、敵に徹底的に利用されました。

空想で描いた残虐な場面の銅版画とともに流布されました。
この銅版画は日本の高校生の持たされる
教科書・参考書にも載せられています。

イギリスが大英帝国として興隆していく過程で、
スペイン帝国が衰滅していきました。
科学技術や人文地理的分野からの考察はむろん必要ですが、
国民国家の発展・衰滅の土台にはエトス(国民精神)の盛衰が基盤なのです。

スペイン帝国の衰滅は、
スペイン人のイスパノフォビア(スペイン嫌悪)とともに進行しました。
日本人のジパノフォビア(日本嫌い・仮称)は
相当に深刻ですが、大丈夫でしょうか。

スペイン帝国の衰滅の原因はスペイン人のイスパノフォビアであり、
1588年の「無敵艦隊」の敗北ではありません。
一敗地にまみれても、国民に元気(正気)が健在なら、
一会戦(海戦)の敗北で国が滅びたりはしません。

自国は犯罪国家だとの自意識が精神の基盤(エトス)に組み入れられると、
その国は衰弱し、やがては滅亡します。
イスパノフォビアを日本人は真剣に教訓としなければなりません。
インカ帝国を滅ぼし、インディオを虐殺し尽くしたのが
スペインだとのイスパノフォビアは、今でも公然と語られています。

それに反して、イギリス人はオーストラリアの原住民を
殺し尽くしたではないかとは言われません。
アメリカ人による原住民虐殺も語られません。
ユーラシア大陸内部についても同様です。
シベリアの住民はどこに消えたのでしょうか。
満州族も消えようとしています。チベットの運命はどうなるのでしょうか。

イスパノフォビアの古典が、
あの『インディアスの破壊についての簡素な報告』です。
ジパノフォビアを植え付けるべく、
日本の教科書は盛大に日本の悪口を書きまくっています。
「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」のウソ宣伝は、
中国の遠大な国家戦略なのです。

これはナショナル・アイデンティティ・ウォーという戦争なのです。

スペインを衰滅させたのは誰か。
この設問の答は、イギリスを興隆させたのは誰かという回答と
一致せざるを得ないようです。
イギリス(と象徴的に言います)を興隆させたのはユダヤ人たちです。
スペインはユダヤ人を迫害し、追放してしまいました。
ユダヤ社会の金融・通商・信用・決済・産業技術は
「産業革命」を支えるものでした。

フランスはフランス革命などで、ユダヤ人社会をかなり解放してきました。
東・中ヨーロッパはそうはいきませんでした。
ルソーという思想家を日本人の多数は誤解しています。
ユダヤ人のルソーは、迫害される自分たちを
解放する思想・思考回路を創造したのです。
「自然に帰れ」という彼の言葉は有名ですが、
歴史・民族・伝統・文化・習俗を捨てろというのが、この言葉の意味です。

つまり伝統・文化の束縛のない社会に帰れということですれ。
なぜなら伝統・文化・国民性こそが、
ユダヤ人迫害の元凶とルソーは考えたからです。

学校教科書にこれほどルソーを登場させる国は日本くらいだと思います。
彼は人間解放の名の中にユダヤ人のそれを見たのです。
次のマルクスにしても同じなのです。
マルクスは周知のようにユダヤ人ですが、
イギリスに亡命してからはユダヤ社会のスポンサーに支えられて
ユダヤ解放の理論構築に精進したのでした。
スポンサーの一人の名はレィビーと言います。大富豪です。

◆日本嫌悪と村山談話

村山富市という社会党委員長、そして首相がいました。
土井たか子という元社会党委員長が当時の衆議院議長でした。
このご両人が主役になって、
1995年(平成七・終戦五十年目)の6月9日(金)、
衆議院では「国会での謝罪決議」がなされようとしていました。

提案者は村山首相、議長は土井です。議場は緊迫していたようです。
与野党とも分裂投票になる模様で、
そして多くの議員は、決議は採択されないだろうと思っていたようです。

折から本日は採択しないとの「通知」があり、多くの議員が退席しました。
金曜日ですから選挙区に帰る議員が多かったのです。

ところが反対派の議員が退席したのを見計らったかのように、
土井議長は会議再開のベルを鳴らしました。

午後七時五十三分、山崎拓氏らが提案し、
アッと言う間に「可決」し、五十九分に散会しています。
二百六十五名の欠席者を出したまま、
賛成二百三十名で「謝罪決議」は「採択」されました。
議員数は五百九名だったので、
定足数に満たないままの強行「採択」でした。

首相や議長が日本国家を謝罪させようとした政策は、
定足数にすら満たない議場での「採択」でした。
そこで次に首相は、日本国総理大臣が謝罪するという挙に出ました。

大学の談話室でのことです。中国人の教授が私に話しかけてきました。
「日本の裁判所は『南京大虐殺』を認めているのに、
なぜ先生は否定するのか」と言うのです。

彼は1999年(平成十一)年9月22日の判決で東京地裁は
「南京大虐殺」を認めていると言い張り、私に食らいつくわけです。
少し解説が要るかもしれません。

これは「南京大虐殺」事件の被害者を名乗る十余名の中国人が、
総額十億円余の損害賠償を求めて
日本政府を被告として請求していた事件です。
裁判所は「国際法上、個人が直接に外国に対して
戦争被害の損害賠償を請求することはできない」と判示した、
ごく常識的なものです。
つまり、原告敗訴の判決でした。

しかし、判決の「主文」は原告敗訴を言い渡したのですが、
裁判官は「傍論」として自分の意見を言いました。聞きましょう。

「『南京大虐殺』と言うべき事象があったこと自体はほぼ間違いない
と言うべきであり、原告(人名)はその際に日本兵
による刺傷を受けたものである・・・」

つまり判決は原告の請求は斥けたけれど、
「南京大虐殺」は事実として認めたわけなのです。
これは日本の民事訴訟の判決にいたるシステムを、
巧妙に利用した奸謀と言わなければなりません。
つまりは中国に味方する日本人が網を敷いているということです。

1993年8月、当時の河野洋平官房長官(現衆議院議長)は、
「従軍慰安婦」の「強制連行」を認めた談話を発表しました。
いわゆる「河野談話」です。
政治家が政治的配慮のつもりで歴史的事実を無視した談話などを発すると、
それがいかに日本の国益を損なうかということについて、
最低の自覚は確保しておかねばなりません。
日本の政治家にこれが欠けた言動が多いのは、
ずばり直言すれば、外国の「工作」の結果です。
河野洋平議長たちは国賊と呼ばれて、
身に刃物を入れなくてもすむ日本の平和に感謝すべきです。

さて先出の「南京大虐殺」の裁判の話です。
判決文を読んでも被告(日本政府)は、事実関係については
まったく争っていないことがはっきりしています。
裁判所の判決といえば、精密な証拠調べに立って事実判断がなされていると
考えられがちですが、それは民事裁判への誤解です。

訴訟提起が「損害賠償請求」だから事実判断は義務的ではないので、
「国際条約上、個人が直接に外国政府に対し戦争被害の損害請求を
求める権利はない」として賠償請求を斥けたものです。
原告敗訴の判決なのですが、判決文の中で「『南京大虐殺』というべき事象が
あったことはほぼ間違いない・・・・」と言いました。

この文言をとらえて『朝日新聞』などは裁判所が「南京大虐殺」を認定した
と報じましたが、これはタチの悪いデマゴギーと言うべきであり、
理由は次の如しです。

民事訴訟の当事者主義では、原告が一方的に主張し
被告(国)が反論しなければ一方的な主張が
そのまま事実として仮定されるのであって、
刑事裁判の事実認定であるかのような誤解を
利用したものだからデマゴキーと言うのです。

ならば日本政府は断固として反論すればよいのですが、
原告敗訴が見えていることもあってか、国は反論しなかったのです。
これは日本国の性癖であり悪い性癖です。
日本国は、このような事案では事実認識の
公的主張を回避して反論しないのです。
私はこれを性癖と呼んでいるのです。再度言いますが、悪い性癖です。

日本国政府は戦時の「悪事」については、
国をあげて公的に反論しない時代が続きました。
GHQの時代から始まります。

日本国政府のこうした事案での政治的スタンスは「曖昧」なのです。
この曖昧なスタンスを、日本国の裁判所が「南京大虐殺」を認定したと
報道した『朝日新聞』などはタチが悪い、と言うしかありません。
先出の中国人の教授もこの間の事情を熟知しています。
知って、笑って、私に食らいつくのです。
しかし、もうこうしたGHQに遠慮した曖昧さは断つべきです。

◆支那事変の発端は「西安事件」

1937(昭和十二)年7月7日に響いた一発の銃声が
あの支那事変を引き起した、という戦争理解が日本人の常識化しています。
まことに困った知性の混乱と言わねばなりません。

支那事変の発端は西安事件にほかなりません。
当時から日本人はこの事件を軽視はしなかったものの、
おそるべき意味については無理解だったというしかありません。
今日までこの無理解は尾を引いています。
囲碁に例えれば、この一手の意味が理解できずに
へぼな手を連発して敗けたようなものです。
支那事変は西安事件こそが開戦の起点なのです。

西安事件は1936(昭和十一)年12月12日に起きました。
部下の張学良が蒋介石を監禁し、共産党に引き渡したという事件でした。
毛沢東たちは狂喜し処刑しようとしますが、スターリンは許しませんでした。

要するにコミンテルンの方針に従い
蒋介石をして対日戦争遂行の駒にしたのです。
コミンテルンと中国共産党は蒋介石と日本の戦争の実現を希求し、
1932(昭和七)年4月26日には中国共産党と中国ソビエト政府は
「対日戦線布告文」を、そして重ねて1934(昭和九)年には
「対日作戦宣言」「対日作戦基本綱領」を発表していました。

中国共産党は盧溝橋事件の五年も前から、日中の戦争を宣言していたのです。
日中両国の運命に深く関わるのが1928(昭和三)年の
コミンテルン第六回大会の決定でした。主な方針は次の三つです。

一、自国の敗北を助成すること。
二、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
三、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

次の1935(昭和十)年のコミンテルン第七回大会は
さらに「人民戦線戦術」を決議し、共産党は表に出ないで
「民主勢力を利用して反ファシズム人民戦線(フロント)を結成する」
という戦術に全力をあげていたのでした。

このコミンテルン決議以来、共産主義者は一斉にフロントに潜りました。
共産主義者の姿は消えました。
自由主義者か共産主義者かの区別がつかなくなりました。

尾崎秀実とゾルゲ・グループの結成も1934(昭和九)年です。
日本にも一斉に各種のフロントが作られました。

盧溝橋事件発生の時の首相は近衛文麿でしたが、
近衛文麿の顧問は首相官邸に一室を構えた尾崎秀実でした。

さて西安事件です。
12日の蒋介石逮捕の後、スターリンは殺すなと厳命し、周恩来が飛来し、
張学良・蒋介石との間に第二次国共合作(人民戦線そのもの)の秘密協定が
成立しました。

西安で蒋介石は日本との即時全面戦争を約束させられたのです。
そして釈放されました。
盧溝橋などの小競り合いを約束したのではありません。

二十九軍という中国軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は、
北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。
盧溝橋事件はその一部です。
この攻撃の作戦計画案が、日本軍によって後日になって没収されています。

フロントとして潜入した共産党員たちは、
通州事件などのあらゆるテロを日本人に加えました。
通州事件の酸鼻を極める犠牲者の様は、
死者の無念を思うと記すことができません。劉少奇が指揮していたようです。
テロの続発は反面では蒋介石への約束履行の督促でもありました。

盧溝橋事件は支那事変の真因ではありません。盧溝橋事件は結果です。
リンゴが落ちたから引力があるのではないように、
盧溝橋事件はコミンテルンの第六・七回大会の決定の結果です。

コミンテルンの意を体してコミンテルン・中国共産党のなした
戦争拡大の共犯者は確実に日本の中にいたのです。
日本人の中にはこの戦争を奇貨として、
まさに日本「革命」(当時は「革新」と称した)を企図した勢力がいたのです。

この勢力の今日の特徴は盧溝橋事件を支那事変の発端と言い、
西安事件には触れないことです。
西安事件についての研究が日本でなぜ行われないのか。
それは日本の言論世界の一大利権構造に関わることだからです。

西安事件の解明こそが、大東亜戦争のみならず
第二次大戦の本質に関わる歴史の解明に欠かせぬ営為だと私は確信します。

この勢力は支那事変を太平洋戦争に繋ぎ、
「大東亜戦争」の実現も遂行したけれど、
目的の「日本革命・日本のソ連化」には失敗しました。
日本がポツダム宣言を受け入れて降伏したのは、この勢力には誤算でした。

戦後の日本には、西安事件や盧溝橋事件の真相が明らかにされることを
恐れる大きな勢力が存在しました。
存在したという過去形ではなくて、存在するし、
現に彼らは今日も日本の言論界と思考制度を支配し続けているのです。
戦後日本を支配している思考制度の例です。

*日本は中国を侵略した。
*あの侵略戦争は日本の軍閥と軍国主義のせいだ。
*日本人民は軍国主義の被害者だ。

こう語る人がいるなら、その人物は大きな勢力の一員であるか、
彼らのなしている言論支配の被害者に違いないのです。借問したいものです。

盧溝橋事件の直後に、
戦火の拡大を望んだ日本軍人の名を挙げてみてください。
数人の軽薄な放言は別にして誰もいません。
当時の日本軍部は、現地和平の方針でした。すぐに消火せよ、だったのです。

世界大戦を企画したのは、ヒトラーや日本軍国主義という思考制度が
採用されています。この「制度」の裏でするりと抜けるのが、
スターリンやルーズベルトたちの責任です。
戦争責任を敗者にすべて負わせるという思考制度を組み立てていますが、
数千万が死んだ世界大戦の道徳的な基礎は、
そんな制度で支えることは不可能だと考えるのが普通ではないでしょうか。

スターリンやルーズベルトの戦争責任を言う人が、なぜ「いない」のか。
それは現在の巨大な利権構造の基礎だからです。
具体的に言います。
日本のマスコミ界・言論社会を支えている道徳的基礎は何でしょうか。
それは自己の立場を戦争反対だった・そして今も平和主義とすることです。

◆日本の国家分裂と敗亡の道。

日露戦争が日本勝利の形で終わりました。
日本将兵の勇戦はもとよりですが、勝利は米英の日本支援の賜物でした。

帝国主義の当時にあって、戦争に国際的な干渉はつきものです。
十年前の日清戦争の時に、日本の指導者たちは予期以上の三国干渉に
慌てふためき、そして臥薪嘗胆を合言葉に、干渉に膝を屈しました。

日露戦争に干渉する列強はいないと、日本の指導者たちは考えたようです。
なぜなら、日本の背後には米英がついていたからです。
本当に伊藤博文たちがそのように考えたとしたなら、
伊藤老いたりと言うしかないのが残念です。

重ねて言いますがこうした時、干渉は米英から来るものです。
ポーツマス講和条約が成立しそうになったと同時にハリマンが来日しました。
そして、桂・ハリマン協定が明治天皇の内意を得て成立したのです。

しかし、小村寿太郎外相はこの協定という仮条約を一方的に破棄しました。
日本の仕打ちにアメリカ国内には怒りの声が充満しました。
日本の仕打ちはそれだけではありませんでした。
アメリカは満洲問題について、日本に特別の立場を認めるという
「対日不干渉誓約」を取り付けられたのです。(1908・明治四十一年)。
そして、怒りを秘めたアメリカが計画した鉄道建設計画(錦州~愛琿間)を、
なんとロシアと協調して中止させたのでした(1909・明治四十二年)。

すでに見てきたように、このような日本の行動は、
米英と世界のユダヤ社会の深い不信感を買うものでした。

これは権威をかるつもりはありませんが、
知遇を得ていた杉原千畝氏の慨嘆に拠っています。
杉原千畝氏は1941(昭和十六)年5月、
ドイツにあって独ソ開戦近しとの情報を日本外務省に入れるものの、
当時の外務省主流の忌避に触れ、リストラの形で外務省を追われたお方です。
終戦の後にユダヤ人へのビザ発給を咎められたというのは誤解です。

桂・ハリマン協定の日本の裏切りが日本の運命の狂いの岐路だったと、
述懐されたことがありました。
同席者は亀山一二氏でした。
氏は日米開戦時の外務省大臣官房電信課長でした。
不意討ちだったのか、と聞く若輩の私に
「国策に騙し討ちはない・・・陛下の前だよ・・・」
と笑っておられたものです。・・・・

ロシア帝国にすれば一敗地にはまみれたが、
ここは米英を満州に入れないことが肝要であり、
国力を養い米英抜きで日本とのリベンジラウンドを期すことだ、
と考えたのは当然です。

このようなロシアの意図で出発した日露協商路線は、
1905(明治38)年より1917(大正6)年のロシア革命まで続きます。

そして、共産主義革命に干渉したシベリア出兵の後日本は、
ニコライエフ港における日本人数百人の虐殺の損害賠償を放棄して
日ソ基本条約を締結しました。1925(大正14)年のことです。

しかしながら日本は、治安維持法を同年に制定しています。
共産主義ロシアと諸国に先駆けて国交を結びながらなのですから、
やはり日本は分裂症(シゾフレニー)でした。
保障占領していた北樺太から撤兵して基本条約を締結した余波により、
アメリカのシンクレア社が有していた北樺太の石油開発利権が
放棄させられました。
日本はそれを認めたのです。ワシントン会議の後のことです。

1921(大正11)年に終結したこの会議は、
明らかに米国の日本「敵視」の第一ラウンドでした。

しかし、アメリカは中国大陸への資本参入の意図はあっても、
それはあくまで日本と協調の下での、それであったのは明らかです。
イギリスも同じでした。
東アジアで日本を排除する意図はアメリカにはなく、
日本の一人占めは警戒され始めていました。
ポーツマス講和条約で日本は南樺太を割譲させますが、
これは本来からすれば日本の錯誤にすぎません。
なぜなら樺太は、江戸時代には日本人しか住んでいなかった日本の領土に
ほかならなかったのです。・・・

幕府の役人はロシア流に欺かれて樺太を「雑居の地」と認めてしまい、
揚げ句はこの地も日本人の住む千島(ロシアは自領と称していた)と
「交換」するのでした(1875・明治八年)。
ロシア流はいつもこの伝です。

まず半分分けして、あとで全部盗るのです。
満州も沿海州もこの伝で清国は盗られました。日本は全部盗られました。

南樺太とか南満洲とか、
日露共同出資とかいったらこの伝を思い出すべきです。
1941年の日ソ不可侵条約などは、この伝を忘れたか、
あるいは売国の意図を秘めた日本人の祖国裏切りなのです。

日本はソ連と組んで米英を排除する路線に迷いこんでいましたから、
日ソ中立条約は三国同盟と併せて四国同盟として
米英に対抗するつもりだったのです。

日本の一人合点は、結局はソ連に全部盗られて、
日清戦争以前よりひどい状態に日本を追い込んだのでした。

アメリカに石油を止められて日本は開戦します。
米英と協調し、北に備える路線が日本の進む道であることに
あまりに盲目でした。「当然の結果」の結果論なのです。

これは平成19年の今日も変わりません。
ロシアのプーチン政権の周囲に群がろうとする
「経済界」とは何なのでしょうか。
日本人は大日本帝国の血まみれの教訓を大切にすべきです。

◆桂・ハリマン協定破棄は日本の錯誤

日露戦争の講和会議は1905(明治三十六)年6月9日、
ポーツマスで開始されました。

講和気運の高まる8月10日、
アメリカの鉄道王ハリマンがニューヨークを発ち日本に向かいました。
ハリマンは日本の戦時外債に協力した最も有力な人物だったことから
政府・大蔵省・財界あげて大歓迎しました。

ハリマンは南満洲鉄道を、
自分の経営する会社と共同経営したいと提案しました。
日本側は戦後の経営を考えて、ここはアメリカの力を満州に
引き入れた方が今後の対ロシアとの対抗にも有利と判断し、
首相桂太郎は明治天皇の内諾も得て、
桂・ハリマン協定として知られる仮条約(覚え書き)に調印しました。

ハリマンと入れ違いに帰国した小村寿太郎外相は激怒し、
この仮条約を破棄しました。
そして清国との条約で
「南満洲鉄道経営については両国以外に関与すべからず」
との一条を入れさせたのです。
ハリマンは激怒し「日米両国は十年もしないうちに戦争するであろう」
とまで言いました。

1909(明治四十二)年、ハリマンは急逝しました。
そして小村寿太郎も、
この仮条約に尽力した伊藤博文も前後して率然と急死します。
ここでは小村寿太郎外相たち、
つまり日本の犯した誤ちの省察を記しましょう。

アメリカの排日移民問題の悪化について触れておきます。
それは、日本人移民の増大を諜報との関係で
警戒するようになっていたということです。

日本人にはピンとこないことですが、
移民とか亡命とかは、諜報と直結なのが常識です。
ここではアメリカ軍部の視線をトレースしましょう。

日本は下関条約で台湾を領有しました。
台湾領有の戦略的な意味について、日本は深く解析した痕跡がありません。

第一は、中国の沿岸部の交通路は琉球弧とあいまって、
日本の支配化におかれたということです。

これは今日でも重要なポイントなのです。
台湾、沖縄は、中国の太平洋への出口を扼している、
つまり封鎖しているのです。

二つ目はアメリカの隣国は日本となったことです。
バシー海峡を挟んで、アメリカと日本は隣国同士になりました。
フィリピン総督であったタフト陸軍長官は、
ポーツマス講和会議が進行中の7月27日に来日して桂首相と会談し、
「桂・タフト覚書」として知られる協定を結びました。

会談の席でタフトは、
「アメリカ国内ではロシアに好意的な人々がいて、
フィリピンはこの次は日本の目標だと言う」と発言しました。
桂首相は、「日本はフィリピンに野心をもつようなことはない」
と当然にも明確に答えています。
するとタフトは、「朝鮮は現状のままでは左右に揺れて、
日露戦争の原因になったが、ここは日本が断固とした措置を取る
必要がある」と述べました。

さらに、「朝鮮が日本の同意なしに他国と条約を結ばないように、
日本が軍隊を駐留させ保護国にすることが極東の平和に貢献すると考える。
大統領も私と同じ考えだ」と付け足しました。

ポーツマス講和会議の席でルーズベルトは小村寿太郎全権に、
「朝鮮の外交的不道徳が日露戦争の最大の原因だ」と言い、
「朝鮮を日本の保護領にすることを要請する」と明言しています。
「外交的不道徳」とは、大韓帝国とロシアとの秘密同盟などのことを
指しています。
朝鮮がまさにロシアの手に落ちようとした直前に日露戦争となりました。

日清戦争の日本の勝利の後に、朝鮮は大韓帝国として独立しました。
とたんにロシアが南下して、国王はロシア公使館に監禁され、
露韓密約が結ばれロシアは朝鮮各地に軍事基地を構築するに及び、
日露は開戦したのです。

こうした向背常なき朝鮮の外交を「不道徳」と米英は言ったのです。
アメリカは、自国がフィリピンを保護国化したことについての
追認・保証を、日本に要求してきました。

そして朝鮮の保護国化をアメリカは要請し、同意・保証を与えたのです。
日本はこうした過程で、日露戦争後の米英の中国・満洲政策の方向を
解析することに大きな錯誤を犯したのです。

そのはしりが桂・ハリマン協定の破棄です。
ルーズベルトは朝鮮の外交を「不道徳」と非難しましたが、
日本の協定破棄こそ「不道徳」ではなかったでしょうか。
日本必死の戦時国債を引き受け、のみならずロシア国債の暴落に
協力してくれた世界のユダヤ人社会・メディア社会・米英の各界の支援を、
勝ち逃げで一方的に破棄するというのは、
あまりに「不道徳」だと思われるのは当然です。
底冷えのするような日本不信が確実にユダヤ人世界に広がりました。

勝利した時こそ大局を見なければなりません。
日露戦争勝利という過度の安心の中で、
日本は桂・ハリマン協定の破棄という錯誤の第一歩を踏み出しました。

第二歩は何か。満洲から日本はロシアと結んで米英を排除したことです。
反米親露というこの転舵に反対していた伊藤博文が死んだのです。
野に涙あれ、です。

◆ハル・ノートはコミンテルン製

ハルノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。

ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた
「一般案」(原則論だから強硬です)と、

コーデル・ハル国務長官の記したもの
(暫定案だから妥協的です・・・例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内
とかいうように日本の乙案に対応したものでした)
と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、
この書(ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』)
でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。

ハル長官の記したものは日本に通告されていません。
通告されたのはホワイト作成のものです。

ハル作成のものは極めて融和的なものであり、
提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。

それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない
「ハル・ノート」を日本にだけ通告したのです。
英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。

牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、
解読した日本政府は絶望したのです。
11月26日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、
東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。
日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。

だから機動部隊は一日前の25日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。
ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが
確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。

コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです
(戦後に彼は「自殺」します)。
ルーズベルトは何を考えていたのでしょうか。
1941(昭和十六)年に入ると彼は外交的解決を考えなくなっていました。
外交的解決ではなく経済制裁を強め「最悪の事態」「日本の明白な戦争行為」
を促進させることに集中するようになっていました。

特に、八月のチャーチルとの洋上会談で「バック・ドアー・ツー・ウォー」
(裏口からの参戦)を密約して以来は、
マッカラムの「八項目」のエスカレーションの実行に移っていたのです。

七月になると日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、
八月には石油。金属等の全面禁輸に踏み切ります。

ルーズベルトの最大の「敵」は共和党です。
三選目の時にルーズベルトの絶対の公約は「不戦」でした。
「あなたたちの息子や夫を戦場に送らないことを誓う。
重ねて、重ねて、重ねて誓う」と彼は誓って当選していたのです。

日本に政治家がいたなら、日本の窮状をアメリカ国民に、
「石油の全面禁輸など宣戦布告だ」と訴えるべきでした。
現に、ケロッグ元国務長官はブリアン仏外相との協定(不戦条約)
締結にあたり、全く同じことを宣言しているのです。

そして日本はハル・ノートを公表して、アメリカ国民に訴えるべきでした。
アメリカ国民はどのように反応したのでしょうか。
12月2日、首脳会談の道を断たれた時に、
これは戦争への謀略だと考えた日本の政治家はいなかった模様です。

「ハル・ノート」に接した時に二つのハル・ノートの存在は知らなくても、
これは謀略ではと疑うか判断する政治家を、日本は欠いていました。
やに涙あれ、です。
チャーチルも蒋介石も知らないハル・ノートが、
日本には手交されていたのです。
チャーチルや蒋介石が見たのはハル国務長官の書いたハル・ノートなのです。
これの甘さに彼らは怒り、ルーズベルトはこれを撤回し別のホワイト筆の
原則論のみの「強硬な」ハル・ノートを日本のみが見たという
奸智の前の日本が哀しい。

しかもバレている暗号で東京のアメリカ大使館に打電しているのです。
奸謀の巧技に息を呑みます。

東条英機首相兼陸軍大臣は、真珠湾攻撃を翌朝のニュースで知ったのです。
(直前に告げられたという説もありますが、どちらにしても同じです)。
ミッドウェーの敗戦については、東条英機は敗北の半年後に知ったのです。
首相東条英機は統帥権の独立により統帥から疎外され、
陸軍大臣 東条英機は国務大臣のゆえに同じく作戦から疎外され、
陸軍大臣東条英機は真珠湾攻撃をニュースで知るのです。

ルーズベルトの部下は、日本機動部隊の通路の北太平洋を「真空海域」
と指定しました。
日本艦隊がヒトカップ湾を出航した11月25日(ワシントン時間)の
約一時間後に、この指定を行っています(同書)。
つまり日本艦隊は発見されないようにアメリカから手厚く保護されながら、
奇襲への航海を続けたのです。

日本艦隊は、厳重な無電封鎖をしていたというのは嘘です。
同書の第十二章は「無線封止神話の崩壊」であり、
日本艦隊の交信が実に克明に記されています。

日本艦隊はガラガラ蛇のように、
「沈黙」の「艦隊行動」を続けていたわけです。
ハワイのアメリカ軍は、実は情報操作のもとにおかれていました。
ハワイにアメリカ海軍の基地をおくことに反対したアメリカ艦隊司令官
リチャードソン大将はクビになり、ルーズベルト腹心の
ウォルター・アンダーソン大佐が少将に抜擢されて
「戦艦部隊」の司令官となりました。
これは何のためでしょうか。

そして太平洋艦隊の司令官にはキンメル大将が任命され、
日本軍の攻撃により全滅に近い被害を被った責任を問われて、
キンメル大将は降格の上解任されたのです。

1999年にはキンメル大将と陸軍司令官のショーター中将の遺族が
名誉回復の宣告を受けているので、その審議の記録を読みたいものの、
公開されていないため望みは果せないでいます。
同書の第七章は「奇襲受け入れ準備完了」。
193ページ以下を精読するべきです。

◆マッカーサーの悔悟

マッカーサーの米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会の証言(抄)です。
「・・・・(日本が)もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、
一千万人から・・・・失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。
したがって、彼らが、戦争に駆り立てられた動機は
大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ・・・」
(1951・昭和26年5月3日・米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会証言)

有名なマッカーサーの証言ですが、彼は日本の開戦責任について
「安全保障の必要に迫られてのことだった」、
つまり日本の正当防衛だったと述べているのです。

終戦五年を経てマッカーサーは日米開戦の秘密・機微を
知るに至っていたのです。彼はつぎのようにも証言しています。
「太平洋でこの百年の最大の政治的な誤りは中国において共産主義に権力を
握らせたということだと、全く個人的な見解ながら私はそう考えるのです」
(同日・ウイレー議員への回答)

1950(昭和二十五)年10月15日、
ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談でもマッカーサーは
「東京裁判は誤りだった」と告白しています。
これも同委員会会議録に収められています。朝鮮戦争のさ中です。

日米戦は痛恨の誤りであったとの彼の悔悟の念が行間に溢れているのは、
開戦にいたるまでの秘密・機微を知るに至った経緯を
抜きには理解できません。
このように解するのは、筆者だけではないでしょう。

私がここで指摘したいのは、裁判開始を命じた当の本人、
マッカーサーが米上院において、

「・・・日本が戦争に駆り立てられた動機は、
大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」

と述べていることです。
いわゆる自衛戦争・正当防衛戦争証言です。
日本と戦った連合国軍の最高司令官が「日本の戦争は自衛の戦いだった」
と言っていることを日本人は、
いや日本のメディアは語ろうとはしないのです。

書いたようにウェーキ島でトルーマン大統領にも、
東京裁判は誤りだったと告白しています。
日本のメディアは完全に黙殺しているのです。

マッカーサーとは、連合国軍総司令部最高司令官であり、
1945(昭和二十)年12月25日のモスクワ会議によって、
極東軍事裁判について全面的権限を付与されたところの、
該裁判全体についての最高責任者が当の彼にほかなりません。

被告人を指名し、判決・処刑を管理した最高責任者が
「あの裁判は間違っていた」と米大統領に告白しているのです。

ついでに言えば、真珠湾の「無通告攻撃」は外交上の手落ちによる
事故のようなものだったと判決文の中で認定している事実についても、
日本のメディアは黙して語りません。

だから真珠湾の「騙まし討ち」の責任者として
処刑された戦犯は存在しません。

マッカーサー証言をなぜ無視するのかということについて続けます。

これは小さなことではないのです。
四年間の日米の死闘は日本側にも言い分があったと、
最高司令官が証言しているのです。

そして、この最高司令官は共和党の大統領候補にも擬せられていたのです。
(後に彼は元副官・アイゼンハワーにその座を奪われます)。
満洲・朝鮮・中国から日本人を追い出したら、
これらの国々はたちまち共産主義者の支配するところとなりました。
この司令官のお膝もとで、中国は共産主義者の支配下に落ちたのです
(1949・昭和二十四年十月)。
そして、これを「百年の最大の誤り」だと上院で証言しています。

満州は中国の一部でないことも、そして満洲建国の意味も彼は学習しました。
満州をロシアが制圧したら朝鮮半島は彼らの自由になることも、
彼は賢明にも学習しました。
さらには日本の朝鮮併合の意味も、
すべてを朝鮮戦争に直面する中で「学習」し尽くしました。

彼の学習を助けた教師の一人は、
アメリカ国務省政策企画部長として来日したジョージ・ケナンです。
彼は1948(昭和二十三)年4月から数回来日しています。
マッカーサーの占領行政について、主として民生局を占拠している
「ピンカーズ(赤いやつ)」の危険性について強く警告しています。

そして、米本国でのこの種の危惧の高まりについて、
レクチュアーしているのです。
それからしばらくしてGHQ内部での「ピンカーズ・パージ」が始まります。

さらにマッカーサーに反省を迫った女性がいました。
かの『アメリカの鏡・日本』の著者・へレン・ミアーズ女史です。
1900(明治三十三)年生まれの彼女は戦前には
二度にわたる日本滞在を経験し、著書もありました。

彼女の三度目の来日は、1946(昭和二十一)年2月。
GHQの委嘱により「労働政策十一人委員会」の一員として活動しながら、
折から進行中の東京裁判を観察しています。
マッカーサーは女史の著書を読み、
書簡の交換を通じてある種の認識を持っていたようです。
これは『アメリカの鏡・日本』のまえがきに詳しく説明されています。

そして最大の教師は1950(昭和二十五年)6月、朝鮮半島に現れました。
朝鮮戦争の勃発です。
朝鮮半島が大陸の大勢力に制圧されたら日本の防衛は
たちまち危機に陥ることを知った彼は、
満洲爆撃などを主張し、そして解任されました。

◆フランクフルト学派

歴史の運命の一変は1917年のロシア革命以降です。
ロシア革命と言うのは、
プロレタリアート主導の社会主義革命だったとの誤解が世を覆っています。
当時はロシア・ユダヤクーデターと呼ばれた事件でした。
マルクスがユダヤ人なのは周知ですが、
レーニン、トロツキー、ジュノビエフ、カメーネフ・・・など
指導者の殆どはユダヤ人なのです。先のルーズベルト大統領もユダヤ人です。

第一次大戦の敗戦国ドイツは「社会主義革命」の危機に陥りました。
有名な指導者、ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトたちも
ユダヤ人です。
敗戦国ドイツはワイマール共和国となりますが、
主要な指導者をユダヤ人とするユダヤ・ドイツと目されていたのです。
これらへの激烈な反動がナチズムですが、
ナチを逃れて多数のマルクス主義者がアメリカに亡命しました。

コロンビア大学やハーバード大学を拠点にしたフランクフルト学派は
つとに有名です。
ルーズベルト政権を支えたニューディーラーと呼ばれる一群の人々は
マルクス主義者なのです。
この中には当然に、ソ連やコミンテルンの要員が含まれていたことが
『ビェノナ文書』等により明らかになっています。
このことは現在の問題に直結していることなのです。
マルクス主義を古臭いと感じる向きは、
ちょっと認識を改めていただきたいものです。

1917年のロシア革命の成功は当時の言葉でいえば、
ユダヤクーデターの成功なのです。
マルクス主義の勝利と錯覚されたにすぎません。

さて、マッカーサーです。
彼は総司令部(GHQ)の最高司令官ですが、
部下の多数のニューディーラーたちの跋扈と、
その正体を知り衝撃を受けたようです。

農地改革も財閥解体、
そして日本国憲法などはニューディーラーたちの「遺産」なのです。

安倍政権が教育改革や憲法改正に意欲を見せましたが、根は深いのです。
戦前の日本も深い部分には、マルクス主義者の潜伏を抱えていました。
ゾルゲ・尾崎の事件が有名ですが、この事件は露頭部の一部に過ぎません。

ニューディーラーたちの改革によって、戦後の日本の言語空間は
マルクス主義者たちの支配するところとなったのです。
日本の大学やマスコミ世界の現状は、
敗戦日本の戦後利得者の利権構造にほかならないのです。
日本で有名なフランクフルト学派の人物の名をあげておきましょう。
都留重人氏です。
アメリカ共産党のポール・スウィージーとの親交も知られています。
都留氏の同志がノイマン(日本国憲法制定工作で名の出る人物)です。

ちなみに都留重人氏の岳父は和田小六であり、
和田氏は東工大の学長にもなりますが、彼は木戸幸一内府の実弟です。
昭和天皇のすぐ側までコミンテルンの影が見え隠れしています。
日本の大学の人事に通じている人なら、
巨大な左翼支配の利権構造が直ちに理解できることと思います。

高校教師の世界も同じです。殆どの都道府県で教育委員会の最高幹部の中に
「隠れキリシタン」ならぬ、隠れマルキストがいます。
現に文部省の最高幹部(事務次官)は
「カクメイをやるには入るしかない」と若き日には公言していました。

彼は今日の「ゆとり教育」なる教育破壊の責任者のひとりです。
名など知る人ぞ知るです。
彼は文部省(旧)のキャリアとして入省していきました。
彼らの生き方のモデルは騙しも可のマルクーゼです。
彼はライヒやフロムを引きながら父権の確立した家族、
つまりは権威主義的家族は全体主義や軍国主義の基盤になるから、
家族ではなく個人の人格を尊重する家庭に
ならねばならないのだと言っています。

そして次官君は、民主教育の理論を体した者こそが、
教育界を指導しなければならないとルカーチを賞賛していました。
「俺は国家の中枢に入るつもりだ。プロレタリアートなんぞ、いまは幻想だ。
二・二六(事件)で、俺は一個中隊を指揮したかった。
諸君もこれからどんどん国家の中枢に入れよ。
総評(当時)なんかにいくら説教しても革命は来ない。
中からそして上から知力と権力で革命はやるのだ。
マルクスも『ドイツ・イデオロギー』あたりではそう言えばよかったのだ。
マックス・ウェーバーはマルクスの裏を取ったのだ。
ルカーチはそれを知ったのだ。だから潜るさ・・・」。

二十三歳当時の会話でした。彼は文部省に入りました。
そして彼は、ジェンダーフリーやゆとり教育の旗手でいます。
同類の一人が外務大臣になった時には、
私はさすがにささやかな義憤を感じたものです。

私は法学の徒ですが、東大法学部憲法学(元)教授宮沢俊義氏
(この先生はフランクフルト・シューレとして令名が高い)門下の
イデオローグたちが何を考えているかぐらいは想像できるつもりです。

GHQ御用達のフランクフルト・シューレの牙城は
簡単には揺るがないでしょう。
皇室典範改定の「クーデター」(未遂)騒ぎは確信犯たちの所業なのです。
小泉首相が危うく「拉致」を逃れることができたのは、
ただ秋篠宮家の親王御誕生のお陰にほかなりません。

我妻栄(この先生もフランクフルト・シューレの令名が高い)教授の
民法学のイデオロギー構造を克服しないことには、
日本の民族的消滅を回避することはできません。

何か大袈裟なことを言うつもりはありません。
現民法を流れるイデオロギーは、家族制度否定のそれです。
高校教師を定年まで勤めた私には「婦女子」という言葉が
「腐女子」に聞こえたのは哀しかった。

生徒指導部長という「非行」指導の責任者を十五年間勤めたから、
中高生たちの「性の乱れ」には多少は通じている部類だと思います。
特殊出生率が1.2を割り、
このままでは2050年には日本人が三千万人減るといいます。
人口が半分になる日は遠くはないと思います。
私は五十年を待たなくても、
この十年の間に日本の「生存」の危機が来るのではないかと恐れます。

2005(平成十七)年は愛知万博の年でした。
ドイツ民謡の歌舞団の一団(約四十人)が、
岐阜の私たちの田舎町に民宿しました。
通訳にと、私の貧しいドイツ語が狩り出されました。
団長のドイツ人が言いました。
「日本とは奇蹟の国です。来日以来、犯罪に遭いません・・・
アーバー(しかし)女子高校生たちの不道徳な格好は理解に苦しみます。」

◆崇高な理想に秘められた悪意

私はイデオロギーという語を「虚偽意識」として注記していますが、
それには意味があります。
マルクス主義には必ず虚偽・悪意が仕組まれています。
なぜか。立派な国民性・民族性はユダヤ解放の敵だからです。
歴史・伝統・文化に培われた国民性・民族性(ナショナルなもの)は
ナショナルホームを喪失したユダヤの民には抑圧でしかなかったのです。
搾取に苦しむプロレタリアートには祖国はないとされます。
万国のプロレタリアートは団結しなければなりません。

女性の解放も、ユダヤ人の解放も、
階級社会の全体的解放と共に成し遂げられるとされます。
民族ではなくインターナショナルこそが、
そして国民ではなく個人・人権の確立こそが、
教育の目的でなければなりません。個人を家族制度の奴隷としてはなりません。
秘められた悪意は、こうして崇高な理想の旋律で歌われるのです。

マルクス主義というのは社会科学でもなければ、経済学でもなく、
せいぜい社会学のイデオロギー(虚偽意識)にすぎないのです。
ある仮説(ハイポネシス)に基いて社会改革を志向する社会学の一分野が
ありますが、それに近いのがマルクス主義です。

仮説を通り越して虚偽意識というのは、
「マルクス主義」なるものはユダヤ人の解放を願望する思想体系が
「人間解放」の仮面をかぶっているにすぎないからです。

マルクス主義に漂う、どこか黙示録的な雰囲気は偶然ではないのです。
共産主義社会とは千年王国であり、
プロレタリアートとはモーゼに率いられたユダヤの民でしょうか。
ブルジョアジーとは異邦人のことです。・・・・
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は
モーゼの再来とユダヤ人世界では囁かれたものです。

彼の先祖は十七世紀にオランダから移住したユダヤ人社会の名門です。
ルーズベルトたちが、ユダヤ人のホロコースト(抹殺)を進める
ナチス・ドイツを許す筈がないのです。

三国同盟の愚を、日本人はまるで知らなかったのです。
マッカーサーは「真っ赤さ!」と言われた時代がありました。
GHQのピンカーズ(赤いやつ)が持ち込んだマルクス主義の
虚偽意識(イデオロギー)を条文化したものが「日本国憲法」です。
これらは、民法・教育基本法・男女共同参画法・家族・相続・扶養・・・税制
に至るまで、敗戦日本の骨格・血肉となっています。

安倍内閣が「戦後レジューム」の改革を標榜しましたが、挫折しました。
安倍氏に向けられた凄まじい敵意は
利権とイデオロギー構造の深部から発しています。・・・・

日本国憲法や教育基本法・日本民法・等々を構成している価値群は、
マルクス主義にインプットされた
悪意のイデオロギーであることを知らねばなりません。

もともと日本にはユダヤ人はいないし、反ユダヤの感情もないのです。
ところで、東ヨーロッパではあまり進みませんでしたが、
西ヨーロッパは徐々にユダヤ人を解放してきました。
最もユダヤ人が多く住み、
一番酷くユダヤ人を迫害したのが帝政ロシアでした。・・・・

日米は共同でシベリア出兵をしたと、例えば高校教科書はすべて書きます。
しかし、アメリカのシベリア出兵の目的は
レーニンやトロツキーたちへの側面支援なのです。
日本は逆に反共産主義の干渉なのです。
だから、日本軍はアメリカ軍から、散々な仕打ちを受けたのです。

その後、ロシアでは反ユダヤの高まりが共産主義と化合し、レーニンの死後、
トロツキーたちユダヤ人は、
反ユダヤのスターリンから粛清されていきますが、
日本帝国は事態の意味が全然理解できていませんでした。
ヒトラーとスターリンはともに社会主義者なのです。
だから近親憎悪の虜になりました。
日本の過激派同志の内ゲバを想い出しましょう。

欧米に留学した日本人たちは、少なくない者たちがマルクス主義を
誤解したままマルキストになりました。
彼らはイデオロギーという言葉は知っていても、
虚偽意識・悪意の意味が理解できなかったのです。

ユダヤ人のポグロム(皆殺し)を繰返すツアリー(帝政)に対する
本気の敵意を、うかつに誤解した日本人は国際社会の痴者と化していきます。

つまらぬ私事ですが、私たちの世代は「真っ赤サー!」が去っても、
高校でも大学でも教師たちはピンコが多くいました。

工学部の某学科は、某左翼政党の党員でなければスタッフにはなれない
と聞いて、ショックを受けました。
工学技術にマルクスもレーニンもあるかと腹が立ったものです。
中には大学上げて全学真っ赤という大学もありました。
当時は国立は一期校と二期校に分かれていましたが、
ある二期校の学芸大学は全学真っ赤と聞いていました。
教員採用試験もピンコでないと合格しないと聞いていました。

教師になると共産党系の高教組との論争が絶えませんでした。
四千人を呼号していましたが、いまでは残党の域と聞きます。

今、日本は生存の危機に立っています。
十年ほど前に中国の李鵬首相が「日本なんてニ十年後に存在しているか」
と嘲弄したことがあります。
私はこの報を聞いた時に心から戦慄しました。その通りだと思いました。

◆国民か人民か

次の言葉は誰の発言でしょうか。1917年のロシア革命を評した発言です。

「・・・ここに数週間ロシアで起っている素晴らしい、
心わきたたせるような事態は、将来の世界平和に対するわれわれの希望を、
さらに確かなものにしたと、すべてのアメリカ人は感じないであろうか。
(中略)専制政治が長期にわたってロシア政治機構に君臨し、
その実態は恐怖政治であった。
しかし・・・・・いまや、この専制政治は排除され、
それに代わって寛大なロシア国民が・・・・・世界の自由、正義、平和の
ための戦列に加わったのである。
われわれはここに誉れ高き同盟にふさわしい盟友を得たのである」
(『レーニン、スターリンと西方世界』ジョージ・F・ケナン)

発言の主は当時のアメリカ大統領ウィルソンです。
共産主義者をデモクラシーの仲間と考えていたアメリカ人は、
ウィルソン大統領ひとりに限りません。
多くのアメリカ人は、君主政治を専制政治と考えていました。
日本の皇室も専制政治の担い手と考えられていた一面があります。

これはアメリカ建国の歴史に照らしてみれば、理解もできます。
フランス革命は国王夫妻をギロチンで斬首し、
数百万人の血を「供犠」しましたが、
革命党派ジャコバンは独立アメリカと熱く連帯しようとしたのでした。

私は皇室と書きました。
普通は「天皇制」と書く人が多いのですが、
私はこの言葉は使わないようにしています。
「天皇制度」という語はコミンテルン用語であり、
打倒天皇制度の悪意に発する言葉ですから、私は使う気持になりません。

1927(昭和二)年のコミンテルン第六回大会製造の
「二十七年テーゼ」に起源を持ったものです。
制度という語がどうしても必要なときは皇室制度で充分ではないでしょうか。

ロシア革命の後、反対派や自営農民の虐殺・「抹殺」などが、
アメリカ人の耳目に達しなかったのは、歴史の悲劇というしかないものです。

しかし、四選目のルーズベルト大統領が第二次世界大戦中に至っても、
ウィルソン大統領なみのソ連・共産主義観しか持っていなかったという事実
を、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。

彼は政治的にはスターリンの親友だったのです。
ただし、ルーズベルトとコミンテルンの関わりについて、
史書は沈黙しています。

ルーズベルトはスターリンを
「共産主義者と考えるのは馬鹿げている。
彼はただロシアの愛国者であるだけだ」と公言していました。

中華人民共和国や北朝鮮の「人民」は
飢えと人間的悲惨の中でのたうちまわっています。
「人民」とは悲惨なものです。
「人民」という日本語に一言加えないわけにはいきません。

「人民」とは何なのでしょうか。
ピープルを「人民」と訳すのは、底意を秘めた誤訳なのです。
有名なリンカーンのゲティスバーグ演説にも、
この底意を秘めたトリックが使われています。
「人民の政府(政治)、人民のための政府、人民による政府」
という全ての学校教科書に登場するこの演説の欺瞞に言及した政治学者は、
寡聞にして私は知りません。

宇宙船「ディスカバリー」の日本語訳は「発見」でしょうか。
「発見」は文法的には、言うまでもありませんが名詞です。
ディスカバリーの動詞形はディスカバーです。
ディスカバーアメリカは「アメリカを発見」となります。
「アメリカの発見」と表現したい時には
「ディスカバリーオブアメリカ」となります。

この「の」がトリックの鍵なのです。
オブはもちろん of なのですが、
この些細な言葉の手品が、日本人を大きく誤解に誘導するのです。
「~の」は日本語ではまず所有の意味に使われます。
「私の本」といったら所有を意味します。
「人民の政府」といえば、所有の感覚が作動します。
所有権は、処分権の感覚を帯同しますから、
「人民」は政府の所有者であり政府の処分権(革命権)を持つのだ、
との感覚連鎖が機能するのです。

民主主義(デモクラシー)という観念の欺瞞にも、これは痛底しています。
デモスというのは民衆であり、クラシーは政治制度の意味ですから、
デモクラシーというのはせいぜい民衆参加の政治制度
といった意味に過ぎません。
アリストクラシーは貴族政治制度というように、です。

デモクラシーに民主主義と主義(イズム・思想)の意味を潜ませたのは、
誰なのでしょうか。くり返しますがデモクラシーとは、
民衆の政治参加の制度の意味であり、それ以上でも以下でもありません。

労働者階級は自分の力では社会主義の理解に到達できないから、
それを理解した革命的な知識人(インテリゲンチュア)に指導されて、
プロレタリア(労働者)はプロレタリアートに「自己形成」できて
革命を担うことができる、というのがレーニン主義のエッセンスです。

北朝鮮の人民や、中国の人民が悲惨な運命を享受しているのは、
それは彼らが「人民」だからです。
共産党・労働党が「指導」という名の独裁権力を手放さないのは、
こうした「深遠な」「哲学的な基礎」があるからにほかなりません。

「人民」という語ほど、呪いにみちた言葉はありません。
「主権」も自由もないから、「人民」なのです。・・・・
イギリスには、憲法典はありません。イギリスの「主権者」は誰か、
などということを規定した法典も存在しません。

それではイギリスの「主権者」は誰かといえば沈黙があるのみです。
イギリスは民主主義の国ではありません。
もちろん、イギリスはデモクラシーの国です。
つまり民衆の政治参加の国家です。つまりそういう政体なのです。

アメリカの憲法のどこを見ても、「主権」者を規定した文言はありません。
それでも、アメリカがデモクラシーの国であることには間違いはありません。

では、アメリカの主権者は誰なのかという問に、
「人民」だと答える人は誰もいないはずです。
つまり、それはアメリカ国民(ナショナルピープル)と答える人はいても
people(人民)だと答える人はいません。
2009/05/07 09:00|年表リンク用資料
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