正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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GHQの一員だった女性の手記

『アメリカの鏡・日本』 ヘレン・ミアーズ著 1948年 より引用

著者のミアーズは、1946年2月、GHQの一員として来日した。
1949年8月6日付のマッカーサー書簡で、
「占領が終わるまで、日本人はこの本を日本語で読むことはできない」
と日本では発禁の書となっていたが、1995年、やっと日本語版が出版された。

―――――――――――――――――

日本の地理的条件、市場と原材料の対外依存性を考えるなら、
日本の不安の方がアメリカより大きいと思う。

私たちの指導者が自分たちの警告を本当に信じているのなら、
日本の指導者もまた自分たちの警告を本当に信じているだろう。
私たちはその可能性を認めなければならない。
日本の指導者が自分たちの行動はあくまで
「防衛的」なものだと信じている可能性を認める必要がある。

私たちの「生命線」が国境から何千キロも離れたライン川とダカールと
パールハーバーなら、日本人が現実にすぐ近くにあるアムール川、揚子江を
自分たちの生命線と考えて当然である。

日本がこういう状況に立ち至ったのは、
生来侵略的な指導部のせいでも、とりわけ従順な国民のせいでもない。
危機感をあおり戦争を安易に信じ込ませる内外情勢に原因がある、
ということが見えてくるにつれ、問題の焦点が移り始めた。

日米双方で悪を演じているのは「危機的事態」なるものなのだ。

・・・略・・・

私たち自身の国家的危機から考えてみても、
日本国民が自分たちの指導者をコントロールできないのは当然である。

そして指導者は、パニックに目を塞がれているか、危険でダイナミックな力が
作り出す推進気流を制御することが出来ないでいる。
それは、乗客が力で落下する飛行機を制御できないのと同じだ。

・・・略・・・

パールハーバー直前までの出来事に関しては、
グルー大使が日本に滞在した十年間にルーズベルト大統領と交わした書簡、
さまざまな立場の政府関係者と半官半民の人々の意見、
政治評論家の記述など、膨大な量の公式記録によって明確になっている。

たとえば、議会調査委員会の公聴会記録によれば、
ルーズベルト政権は1941年11月3日の段階で、
「我々があそこ(極東)で日本を叩けば、国民は支持してくれる」
という確信がもてるまでに、
戦争の緊張は高まっているという結論に達していた。

大統領、ハル長官、ノックス海軍長官、スチィムソン陸軍長官、
マーシャル将軍、スターク提督の会議記録もある。

この会議で論議されたのは
「我々がさしたる損害を受けない範囲で、
彼ら(日本)に第一撃を仕掛けさせる作戦」であった。

・・略・・・

アメリカ側のさまざまな公式声明から考えるならば、
「卑劣な攻撃」「屈辱の日」は違う言葉で考え直す必要があるようだ。
これは「世界征服」を企む野蛮人による
「一方的」で裏切りの攻撃だったのか。
あるいは圧倒的に強い国との力のゲームに引きずり込まれたと
思っている国が、経済封鎖に対して挑んだ攻撃だったのか。
この違いはきわめて大きい。

どうやらパールハーバーは戦争の原因ではなく、
アメリカと日本がすでに始めていた戦争の一行動にすぎないようだ。

したがって「なぜ日本は我々を攻撃したか」を考えるなら、
「なぜ我々は、すでに日本との戦争を始めていたか」
について考えなければならない。
そうでなければ、パールハーバーという難問を解くことはできないのだ。

1932年からパールハーバーまでの十年間、
駐日大使だったグルー氏から米戦略爆撃調査団のメンバーにいたる公的立場の
アメリカ人はすべて、日本の指導部は終始
「国家の存亡にかかわる利益」のために戦っていると考えていた、
と証言するのだ。

グルー大使は、1932年9月3日、東京で自分の日記に次のように書いている。

「日本は・・・(満州における)全行動を国の存亡にかかわる至上命令、
あるいは自衛手段の一つ、と考えている。
彼らはこの考えに立って、戦争も辞さない覚悟を固めている」

日本の戦争指導部から事情を聴取した米戦略爆撃調査団が1946年7月、
大統領に提出した報告は次のように言う。

「日本の指導部が国家の存亡にかかわる利益のために戦っていると
固く信じて、戦争を始めたことは明らかである。
これに対して、アメリカは単に自分たちの経済的優位と主義主張を
押し付けようとしているのであって、国家の存亡にかかわる安全保障の
ために戦ったのではない、と彼等は信じていた」

・・・略・・・

1941年5月28日、ルーズベルト大統領は次のように言っている。

「・・・『攻撃』という言葉を使うときは、現実的でなければならない。
・・・・『敵が我々の海岸に上陸するまでは、自衛のための戦争はしない』
というのは愚かな考えである。
われわれがアメリカ諸国の独立と国家の存在を尊重するなら、
そのために戦うだけの決意が必要である。
それは、本土の海岸を守るのと同様、重要なことである」

同年9月11日には、

「・・・われわれが自衛上死活の重要性をもつと考える水域に、
枢軸国の潜水艦ないし爆撃機が存在すれば、そのこと自体が攻撃である」

と言っている。
アメリカの「存亡にかかわる利益が脅かされた」と判断したら、
大統領は世界のどこであれ、
その国あるいは国々を攻撃する権利をもつというのだ。
日本にとってはその点が肝心なのだ。

米大統領は、アメリカの存亡にかかわる利益とその侵犯者を決める権利を
持っているというが、自国の国益を定義し、それを誰が脅かしているかを
決める権利がアメリカにあるなら、日本にも同じ権利があるはずだ。

もしないなら、なぜないのか。
しかもアメリカは「敵が自国の海岸に上陸してくるまで」待つつもりはない
といっている。それなら、日本が「国家の存立」を守るために、
どこで、いつ、誰と戦うかを決める権利も許されると、
日本が考えてもおかしくないだろう。

蒋介石のオーストラリア人顧問、W・H・ドナルドが
ルソンの日本軍捕虜収容所から解放されたあとの
インタビューで語ったところによれば、
日本は1938年から1941年の間に「12の和平案」を行っている。
日本側の条件は中国側に「有利」なものだった、という。

つまり、日本の要求は、

●満州国の独立の承認

●華北の経済と開発に関する何らかの権利

●外蒙古から及ぶロシアの影響力の伸長を
阻止するための内蒙古の政治的調整

だけだった。

ドナルドは、
「日本はこれらの提案の中で、領土的要求はいっさいしていない」
と語っている。

・・・略・・・

どちらが戦争を始めたかはともかく、私たちの戦争目的は、
日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。

戦前、戦中を通じて、日本が帝国の一部として、
あるいは委任統治領として支配する地域に攻め入り、
アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を
占領することがアメリカの目的だった。

そしてついには日本の本土を占領することが私たちの目的だったのだが、
ふくれあがった軍国主義日本の虚像が
この事実から私たちの注意をそらしてしまった。

・・略・・

日本の戦争機関は一度も「アメリカの安全を脅かした」ことはなかったのだ。
日本が実際にやったことと言えば、
私たちの海岸線から3700キロも離れた軍港にいる艦船を爆撃したことである。

彼らが私たちの大陸に最も近づいたのは、
3000キロ離れたアリューシャン列島の島の二つを占領した時である。
それも攻撃の先鋒としてではなく、
アメリカの攻撃を遅らせるための自衛手段だった。

スチムソンは、日本が降伏しない場合は
11月1日に本土上陸することを決定していたと述べている。
そしてこの作戦では「米軍だけで百万の死傷者」を覚悟していたというが、
これは恐ろしい決定である。

これだけの命が懸かっているのに、私たちは降伏するつもりの
(同年3月以降のこと)日本のスポークスマンを受け入れて、
降伏の用意があるかないかを確かめようともしなかった。

私たちは勝手に、日本は降伏しないと決め付けていた。
米戦略爆撃調査の報告を読むと、
もし私たちがポツダム会議で日本の意向を聴取していたら、
ポツダム宣言も、原子爆弾も、本土上陸作戦も必要なく、
降伏を準備できたように思われる。

日本政府の頑迷派に圧力をかけるためなら、女子供の命を蒸発させることも
「優れて適切な」手段であるというスチムソン元陸軍長官の言明が、
戦争の熱いさなかだけでなく、日本の降伏から一年半も経ったというのに、
いまだに記事になり、広く容認されている。

この事実は、私たちの選んだ社会理念が、
私たちが思っていたほどには明確でなかったことを物語っている。
私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名の下に犯した罪は
自動的に免責されると思っているのだろうか。

疑問はもう一つある。それは対日戦争の最終段階にかかわる疑問である。
私たちは最後の最後になぜあれほど焦ったのか。
日本が少なくとも3ヵ月間にわたって、
降伏への道を模索してきたことを知りながら、
なぜ決断までに11日しか待ってやれなかったのか。

この疑問に対する答えは、
アメリカと日本の関係ではなく、アメリカとソ連のやりとりにある。
1945年2月7日のヤルタ会談における「最高秘密」合意で、
ソ連は中国領内の一定領土及び財産を確保することを条件に、
対日戦への参戦を約束した。

ソ連としては、彼らが参戦して「合法的」に戦利品を要求できるまでは、
日本に降伏して欲しくなかったのだろう。

一方、私たちは、もし日本が即時無条件で降伏してしまったら、
ソ連は参戦しようがすまいが、日本に侵入してくると見ていたから、
日本がソ連に和平条約を提示することを望んでいなかった。

そして、日本が無条件降伏をしない場合は、
満州と朝鮮に駐留する関東軍をソ連に抑えさせようとし、
同時に、ソ連が来る前に日本本土を占領しようとしていたのだ。

もし、この分析が正しく、これ以外に事実を説明できる分析がなければ、
わたしたちは日本の一般市民十数万を大量虐殺してでも、
早急に結論を出そうとしていたということができる。

もしこれに失敗したら、数十万の米兵を犠牲にしてでも、
計画通り日本上陸作戦を敢行しようとしていた。
私たちが日本人に対してつかった原子爆弾は、
日本に対して使ったのではない。

なぜなら、日本はすでに完全に敗北していたからだ。
原爆はソ連との政治戦争に使用されたといえる。
占領は私たち自身の政治・経済目的を達成するための装置だ。
この目的に日本人が関係してくるのは、
たまたま日本人が戦略的に重要な島に住んでいるからにすぎないのだ。

私たちの占領はどう見ても
日本の軍事力に対する防衛的軍事行動とはいえない。

もし対日戦争の目的が日本の戦争機関、軍事生産、軍事生産能力を破壊し、
その台頭を許した国民を罰することであったなら、占領は必要なかった。

なぜなら、私たちが日本に上陸する前に、その目的は達成されていたからだ。
戦争それ自体の結果として、
日本は「二度と侵略戦争が出来ない状態に置かれていた」。
軍事的にいえば、占領は単に警察官の役割を果たしているにすぎない。
日本軍の武装解除と残存する軍事装備、貯蔵物資の解体を
監視するだけのことなのだ。この仕事は二ヶ月で終わった。・・略・・

それならば、なぜ、と問いかけたい。
日本は完全に無防備であり、文字通り一隻の軍艦、一機の戦闘機、
いかなる種類の飛行機ももっていないのだ。
武装解除され、非武装化され、産業は戦前のほぼ三分の一にまで縮小され、
国民は日常の食べ物に事欠き飢餓状態にあるというのに、
どうしてこの国を軍事占領し続ける必要があるのか?

西洋列強はいま、日本を厳しく糾弾している。

・・略・・

日本の本当の罪は、
西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。

それがよくわかっていたアジアの人々は、
日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。

日本と他のアジア諸国の地位の違いは、
人間としても国家としても、はっきりしていた。

日本は「有色」人種の中でただひとり、
ほぼ完全平等の地位を与えられていた。

中国人は自分の国にいながらクラブや租界に入れなかったのに、
日本人は事実上「白人」として受け入れられていた。

開港地の中国人苦力は蔑まれていたが、
日本人の召使は「ボーイさん」と呼ばれていた。

インドシナの住民登録簿には、
日本人は「ヨーロッパ人」として記載されたが、中国人は「原住民」だった。

国家としての日本は西洋の基準をよく守り、よく報われた。
小さい日本が大国として認められ、中国では白人の特権を分け与えられた。
不平等条約の恩恵にもあずかっていた。
そうでなければ、満州と華北で行動できなかったろう。

大中国は西洋の基準が守れなかったために、
自国の河川にいる外国の軍艦、主要貿易港に駐留する外国軍隊、
自国政府と財政を握る外国権力に従わなければならなかった。

・・略・・

政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功から何を学ぶべきか、
よく理解していた。
中国の革命指導者孫逸仙(孫文)は「三民主義」の中で
次のように書いている。

ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。
日本はアジア問題の代弁者だった。
他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。
白色人種にできることは日本人にもできる。
人間は肌の色で異なるが、知能には違いがない。

アジアには強い日本があるから、
白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。
日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけでなく、
アジア全民族の地位を高めた。
かつて我々はヨーロッパ人がすることは我々にはできないと考えていた。
いま我々は日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、
我々も日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。

・・略・・

私たちの現在の韓国政策は、実は日本軍国主義を免罪しているのだ。
アメリカの「安全保障」のために秩序を維持し、
ソ連を押さえ込み「共産主義の脅威と戦う」ために、
韓国に軍隊を駐留させる必要があるなら、日本が韓国だけでなく、
満州と中国に軍隊を駐留させることのほうが重要だった。

私たちは自分たちの行為なら犯罪と思わないことで日本を有罪にしている。
これは正義ではない、明らかにリンチだ。

韓国国民の幸福と言う点でいえば、私たちの政策の方が日本より悪い。
日本の韓国統治が、自由と民主主義の原則からみて悪であったにしても、
平均的国民の生活と自由という点では、状況は今よりはるかにましだった。

今日、韓国国民は一人の主人に代わって二人の主人をもっている。
韓国経済の安定は完全にくつがえった。
そして国は経済的に二つの地域に引き裂かれている。
朝鮮民族はソ連とアメリカに率いられる
二つの陣営に分けられようとしている。
朝鮮民族は解放されるどころか、事実上、
敵対するブロックの傭兵部隊にされている。

・・・略・・・

第二次世界大戦後は、
アメリカとソ連が圧倒的な力を発揮して、世界を逆戻りさせているのである。
そこで極東における国際法が改善されたかどうかを知るために、
在満鉄道と旅順をめぐる争いを簡単に振り返ってみたい。

●1896年
ロシアが満州とウラジオストクを結ぶ鉄道建設のための
租借権を清国から得た。日本を狙った秘密条約で合意が交わされた。
80年間で中国まで鉄道を延ばすというものである。
中国は共同経営者だが、運営はロシアに一任する。
これが、いわゆる東清鉄道である。

●1898年
ロシアは清国政府から中国東部と旅順港を結ぶ南満州鉄道の建設権を得た。
旅順港は、日清戦争後、ロシアが日本の介入を防ぐのを助けた見返りに、
中国から得たものである。

●1905年
日本が日露戦争の賠償として、ロシアから南満州鉄道を獲得した。
東清鉄道は引き続きロシアが保持した。

●1931年、満州事変

●1932年
満州各地区の代表が瀋陽に集まり、
「独立」国家満州の建国を宣言。日本に協力と保護を要請した。
ソ連が「事実の論理」を認め、
日本の仲介で東清鉄道の権益を満州国へ売却することを提案する。

●1935年
ソ連が東清鉄道を一億四千万日本円で満州国に売り渡した。

●1943年
「三大国」首脳がヤルタで会談し、
イギリス、アメリカ、ソ連が秘密協定を結んだ。
東清鉄道と南満州鉄道は、
「中ソ合弁会社が所有すること、ソ連に最大発言権を保証すること、
中国の主権が満州に及ぶことを確認した」。
この点について、F.D.ルーズベルトが蒋介石の承諾を得ることになった。

47年間の「進展」が、これら戦略的鉄道の環境を1896年の状態にもどした。
唯一の変化は、日本が注ぎ込んだ膨大な投資を、
ソ連がアメリカとイギリスの協力で、自分の物にしたことである。

米英両国代表団がこの取り決めから、
何を日本に教えようと考えていたかは定かでない。

しかし、彼らが、この取り決めは民主主義と自由を愛する心の表れ
であるとか、国際関係の「新路線」の表れである、と考えていたとしたら、
そのわけを知りたいものである。

◆もう一つの逆戻り

渤海湾への入り口と天津、北平(北京)への道を制する
遼東半島先端の戦略的港湾、旅順港をめぐる状況はどうだったろうか。

●1895年
日清戦争。日本が勝つ。
中国は旅順港と遼東半島の先端部を割譲することになったが、
フランス、ドイツが後押しするロシアが抗議。
日本は極東平和のために要求を撤回した。

●1898年
ロシアが旅順と遼東半島約1300平方マイルについて25年間の租借権を得る。

●1945年
再びヤルタ。ルーズベルト米大統領、チャーチル英大統領、
スターリン・ソ連首相が会談。旅順は再度ソ連に移譲されることになった。
このほか、ヤルタは次の諸事項をソ連に保証している。

【1】外モンゴルの現状維持。

【2】南樺太の割譲。大連港の国際化。
「同港におけるソ連の最大発言権・・・」を保証する。

(3)千島列島(どう見ても日本列島の一部である小島郡)のソ連への割譲。

ヤルタ協定には次のような文章が入っている。

「三大国首脳は、ソ連の主張は日本の降伏後、
異論なく完全に達成されることで合意した」

「外モンゴル、港湾、鉄道に関する合意には・・・
蒋介石総統の承諾を求めるものとする。米大統領はスターリン元帥の
勧告を入れ、この承諾を得るための措置を講じる」

アメリカの政治家たちはいまだにこうしたことを「合法的に」やっている。
国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細に見る必要がある。

ヤルタ協定を考える場合、
①満州の歴史

②私たちがパワーポリティクスと、「暴力と貪欲」を否定するに際して、
イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言

③ヤルタの取り決めにおける中国の立場

④国際関係における「合法性」の概念

の諸点から見ると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の
教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がってくる。

たとえば、「合法性」についての考え方である。
在満鉄道の移譲を要求するソ連の法的根拠は何であろうか。

彼らは中国東部を二回にわたって「法的に」手放したのだ。
一回目は、中国のために要求を放棄した。これは見事だった。
二回目は、満州国に売却した。

したがって、ソ連への割譲は、
対日戦争に協力する見返りであったことは、一目瞭然である。

・・・略・・・

もう一つ「合法性」にかかわる問題がある。
ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。
そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。
イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、
ソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしたのだが、
両国代表団はそれを「違法」とは考えていないのだ。

その結果として、アメリカは8月6日原爆を投下し、
ソ連は8月8日宣戦を布告、翌9日に参戦した。

ソ連はこの行為によって、
英米両国政府から日本の領土と財産、満州つまり中国の財産を贈られた。

イタリアがフランスに対して、全く同じことをした時は、
両国から「裏切り行為」として激しく非難された。

アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの
最もひどい見本と思っているはずだ。
アメリカ人に、それがわからないなら自己欺瞞である。
ソ連が日本などの領土と財産を得ることができたのはなぜか、
政治意識を持つアジア人には、やがてはっきりするだろう。

つまり、ソ連は、たまたまいいとき
(強大国が敵との戦いで味方を探しているとき)に、
いい国(強大国)として友邦(つまり、いい国の側に立って戦うこと)
になっただけのことなのだ。

今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅威」であり、
日本を支援(日露戦争時代)した、かつての米英両国の政策担当者が
正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、
中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、
満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の
米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったことになる。

そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、
その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、
極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、
犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。

わたしたちの政策担当者は、パールハーバー以前の政策と現在の政策を
どう整合させようとしているのか。
何百万の生命と何十億ドルに相当する物量と人力をかけて、
わたしたち自身の民主主義をぶち壊してしまう前に、
政策担当者は「脅威」の実体について、
もっと透徹した思索をめぐらし、揺るぎない決断を下すべきなのだ。
2009/05/06 09:00|年表リンク用資料
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