正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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ハミルトン・フィッシュ(1919年~1945年まで米国下院議員を努めた人物)

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『FDR: The Other Side of the Coin.』ハミルトン・フィッシュ著 1976年
(「正論」渡辺惣樹訳 2014年1月号より )

私たちは、日本が、和平交渉の真っ最中に
わが国を攻撃したものだと思い込んでいた。
1941年11月26日の午後に日本の野村大使に国務省で最後通牒が手交された。
それはハル国務長官が渡したものである。
ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。
民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない。

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『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』 より抜粋
ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳(1992年12月)
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『Tragic Deception: FDR and America’s Involvement in World War II.』
Hamilton Fish (原著)(1983年)
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私はルーズベルトを許すことができない。  
彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。

日本の指導者が開戦の決断をすることになった最後通牒ハル・ノートは
ルーズベルトが真珠湾攻撃を「恥ずべき行いの日」と呼んだことにちなみ、
「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切と思われる。

日本は、面積がカリフォルニアにも満たない
人口八千万人の比較的小国であった。  
天然資源はほとんど保有せず、
また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。

天皇は名誉と平和を重んずる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を
制止するために、できるかぎりのことを行っていた。

日本はフィリピンおよび
その他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。  
しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行
および海軍のための石油なしには存立できなかった。

日本は、コメおよび石油の購入を平和的に保証されたならば
どのような条約にでも署名し、
南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。  
ただ、自由貿易を認めるだけでよかったのだ。

どうしてイギリスが極東における数多くの領土を
保有する絶対的な権利を持つべきであり、
その一方で日本が近隣諸国からコメ、石油、ゴム、錫
その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を
米国によって課せられなければならないのか。  
こんな理不尽な話はあり得ない。

米国の最後通牒を受け取った時点の日本は、四年にわたる戦争の結果、
中国のほとんどの海岸線、大都市、かつ広範な領土および満州全土を掌握し、
極東最大の勢力となっていた。  
このような強力な国家に対し、米国はこれ以上何を要求できると言うのか。

天皇および近衛首相は、平和を維持するために
信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。  
非常に平和愛好者である首相の近衛公爵は、
ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。

在日米国大使であったジョセフ・グルーは、
日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたか承知しており
首脳会談を強く要請した。

日本は米国との開戦を避けるためならば何でもする用意があったであろう。  
しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを
決意していたというだけの理由で日本首相との話し合いを拒否した。

日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。  
これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。

我々は、戦争から何も得るところがなかったばかりか、
友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。  
イギリスは、それ以上に多くのものを失った。  
イギリスは中国に対して特別の利益と特権を失い、
マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。

日本人は、高度な忠誠心、愛国心に満ちた、
非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。  
このような民族に『恥ずべき最後通牒ハル・ノート』を突きつければ、
必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。

私はルーズベルトを許すことができない。  
この大戦は米国に三十万人の死亡者と七十万人の負傷者、
そして五千億ドルの出費を米国にもたらした。

日本には軍人、民間人合わせて三百万人以上の死亡者をもたらした。
日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。

その責任はルーズベルトが負っているのだ。

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『日米・開戦の悲劇―誰が第二次大戦を招いたのか』 より抜粋
ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳(1992年12月)
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『Tragic Deception: FDR and America’s Involvement in World War II.』
Hamilton Fish (原著)(1983年)
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◆日米開戦の企て

フランクリン・ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って、
ついに米国を日本との戦争にまきこむことに成功した。
そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという
ルーズベルトの最終目的を達成させることであった。
ルーズベルトはわれわれをだまし、
いわば裏口からわれわれをドイツとの戦争にまきこんだのである。

米国民の85%は、第二次世界大戦はもとより、いかなる外国における戦争に
対しても米軍を派遣することに反対していたという現実にもかかわらず、
ルーズベルトは、欧州戦争の開始当初から、
米国は同戦争に参戦すべきであると確信していた。

この大戦は、結果として、30万人の死亡者と70万人の負傷者、
そして5000億ドルの出費を米国にもたらしたのである。

今われわれが教科書で教わっているところによれば、
われわれが第二次大戦に参戦した理由は、
日本によるパールハーバーへの攻撃である。

しかし、その後明らかになった諸事実によれば、これは現実的ではない。
ルーズベルト大統領およびコーデル・ハル国務長官は、
パールハーバーの10日前に、日本に対し、意図的に最後通牒を送っている。
そのメッセージは、

「日本の陸・海・空軍および警察を、
インドシナ(ベトナム)と満州(中国)から引き揚げよ」

というものであった。
これによって日本には、自殺するか、降伏するか、
さもなくば戦うかの選択しか残されなかった。

この“戦争”への最後通牒は、1941年11月25日に秘密裡に行われた。
ルーズベルト自身の“戦争内閣”会合の翌日に、
ルーズベルトにより送付された。

・・・略・・・

戦争内閣は、ルーズベルトの他に、次のメンバーを含んでいた。
ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、
ジョージ・マーシャル将軍、ハロルド・スターク提督、
このすべては、戦争賛成派である。

彼らの11月25日の会合の議題は、いかにして日本に戦争を押しつけ、
戦争に導き、あるいはだまして戦争に陥れるか、であった。

・・・略・・・

その2日後、大統領は、スティムソンに対して、

「どうして日本はいまだにわれわれを攻撃しないのであろうか」

と口にしている。

長年にわたって、私はほとんどの米国人と同様に、
われわれが参戦した理由に関するルーズベルト政権の
プロパガンダを信じてきた。

当時、私は外交委員会における共和党主要メンバーとして、
大統領がわれわれを戦争にまきこむことを防止するための闘いを
下院において指揮していた。
私は、共和党下院議員の90%の支持および、
おそらくは民主党側の半数の支持を得ていた。

パールハーバー翌日の12月8日、
私はラジオを通じたものとしては初めての、下院からのスピーチを行った。
このスピーチは、宣戦布告であり、
ルーズベルトの「恥ずべき行いの日」宣言を支持し、日本を、
和平交渉継続中に米国を攻撃した戦争挑発者として非難したものである。

いったん宣戦布告が行われてしまえば、たとえその時点で、
米国がいかにして戦争にまきこまれたかに関する
真実を知っている者がいたとしても、
その真実を明かすことは反逆行為となってしまったであろう。

真実が次第にもれはじめたため。
ルーズベルト政権は、米国史上始まって以来、
最大のプロパガンダ機関を動員した。
つまり彼らは、対日最後通牒発出をはじめとした種々の
事実を隠すための大がかりな作業を行ったのである。

◆ルーズベルトの嘘と偽善

1940年の大統領選挙の終盤になって、民主党首脳は、
平和支持者の票が強力であることを恐れて、
ルーズベルトに平和への強いアピールを行うことで
これに対処するよう進言した。

これがルーズベルトに歴代大統領の中で他に類を見ない、
最もショッキングで、卑劣かつ真実に反する
国民向けの発言を行わせるもととなった。

それは、大統領選挙投票の一週間前の1940年10月30日、
ボストンにおいて行われた。

「私は、母であり、あるいは父であるあなた方に話すにあたって、
いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、
今後何度でも繰り返して言うつもりである。“あなた方の子供たちは、
海外のいかなる戦争に送り込まれることもない”」

とルーズベルトは発言した。
さらに、ウェンデル・ウィルキーを破り、三期目の大統領に選出される数日前
の11月3日、ルーズベルトは次のように付け加えた。

「われわれの外交政策の第一の目的は、
米国を戦争に参加させないことである」。

米国津々浦々の市町村の選挙民は、合衆国大統領によってなされたこれらの
公然たる和平の約束と保証を信じ、これに拍手喝采を送った。

・・・略・・・

選挙前に、米国の父親と母親に対し、彼らの子供たちは、
海外のいかなる戦争に送られることもない、
という約束をしたその二ヵ月後に、
ルーズベルトは、無二の親友であるハリー・ホプキンスをロンドンに送り、
この約束とは違うことをチャーチルに伝えた。

「われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している。
これを間違わないでいただきたい。大統領はいかなる犠牲をはらっても、
あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する、
ということをあなたに伝えるために、私をここに派遣した。
大統領は人事のすべてをつくす」。

・・・略・・・

事実、駆逐艦50隻のイギリスへの貸与、アイスランドへの軍隊駐留および、
ルーズベルト自身による臨戦体制の指令発出の時点から以後の
彼の外交政策のすべては、議会の承認を得ずして遂行された。

今となってみると、ルーズベルトが1941年1月6日に議会において
行った米国国民向けの演説内容と、実際の彼の政策との間に
一貫性を見出すことはむずかしい。

ルーズベルトはその演説の中で次のように述べている。

「われわれは、われわれ自身の安全保障にコミットしており、
侵略者によって支配され、宥和主義者によって支持された形での
平和に黙従することは決してできない。他の人民の自由を犠牲にしては、
永続的平和は達成できないことを、われわれは知っている」。

ポーランド、チェコ、ハンガリー、バルカン及びバルト諸国における
自由の破壊を顧みると、いたるところで、
平和は自由をないがしろにした形で成立した。
上のルーズベルトの議会演説の中で、いま一つ理解しがたいのは、
米国自身の関与しない場所での平和に対し、われわれは黙認できない、
としている点である。

その時点では、米国は参戦にもコミットしていなかった。
議会は、それまでに参戦を支持したことは一度もなかったのである。

◆秘密裡のハルノート

1941年11月26日、ルーズベルト大統領は、日本に対し最後通牒を送り、
日本軍のインドシナおよび中国(満州)からの全面撤退を要求した。
この最後通牒により、日本を開戦に追い込んだ責任が
ルーズベルトにあるというのは、歴史的事実である。

対日懐柔策に徹底していたイギリス政府は、ヒットラーのロシア侵攻後、
またたく間にその政策を変更したが、
これは、チャーチルがルーズベルトから、
極東における英国の権益を擁護するとの約束をとりつけたことによる。

かくして、チャーチル、スターリン、オーエン・ラティモア、
スティムソン、およびロックリン・カリーは、いわば“裏口”から
米国を第二次大戦に参戦させることを促す役割を果たした。
日本に対し秘密裡に最後通牒を送ることに関与した人物の行動は、
情け容赦なく調査され、暴露のもとにさらされるべきである。

キンメル提督およびショート将軍は、職務怠慢または、
誤った判断を行ったというようないかなる責にも問われるべきではなかった。
ハルゼー提督がいみじくも述べたように、彼らは、上層部のために
「スケープ・ゴートとなった殉教者」であり、この上層部こそが、
パールハーバーの悲劇における3000名の米水兵
およびその他の米軍人の死の責任を負っている。

何年か後になって、キンメル提督は、歯に衣を着せることなく、
次のように述べている。

「ルーズベルトなどの指導者たちは、
パールハーバーにおける米軍を故意に裏切った」
(『ニューズ・ウイーク』1966年12月12日号)
「ルーズベルトがすべての計画の責任者であった。彼はおそらく
“マーシャル以外の者は日本艦隊の動きに関しパールハーバーへ
一言も連絡してはならない”旨指令したと考えられる。
その後マーシャルに対しては、いかなる連絡もしないよう命令した」
(『ニューヨーク・タイムズ』1966年12月7日号)

・・・略・・・

近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来てもよいから
ルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。

彼は戦争を避けるためには、
米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、
ルーズベルトは、すでに対日戦、およびその帰結としての
対独戦を行うことを決意していたというだけの理由で、
日本首相との話し合いを拒否した。

在日米国大使であったジョセフ・グルーは、
日本がどれだけ米国と平和関係を保ちたいと希望していたかを承知しており、
かかる首脳会談の開催を強く要請した。

しかしルーズベルトおよびその側近の介入主義者たちは、
策謀とごまかしとトリック
(これには当時、蒋介石の軍事顧問でありソ連のスパイといわれている
オーエン・ラティモアらの妨害工作があったといわれている)
を用いて、全く不必要な戦争へわれわれをまきこんだのである。

・・・略・・・

確かに日本は宣戦布告のないまま四年間にわたり中国と戦争状態にあったが、
同時にソビエト・ロシアがフィンランド、ポーランド、
およびバルト諸国を侵略していたのも事実である。
アメリカは、このソビエトの行動に対しては何ら対処しないばかりか、
その後、同国と同盟を結ぶに至った。

しかしながら、その一方で日本は、自国軍の中国(満州を除く)
およびベトナムからの撤退を約束し、
南下をしないことに合意する用意があった。

・・・略・・・

日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。
これは、お互い同士よりも共産主義の脅威を
より恐れていた日・米両国にとって、悲劇的であった。

われわれは、戦争から何も得るところがなかったばかりか、
友好的であった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。

イギリスは、それ以上に多くのものを失った。
イギリスは、中国に対しては、特別の利益と特権を有していたし、
マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。
2009/05/05 09:00|年表リンク用資料
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