正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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『日本への遺書』 田形竹尾 著 より引用

著者の田形竹尾氏は陸軍戦闘機隊のパイロットとして、
支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、
そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。

―――――――

◆無電「特攻突入す」 ~ 「決死隊」と「特攻隊」の死生観

まず、決死隊の死生観について述べてみる。
作戦任務を命ぜられて第一線に出征する軍人は、
みんな死を覚悟して出征した。その覚悟「悟り」の土台は――

第一は、愛する親兄弟姉妹妻子を守るため、
軍人は死を覚悟して第一線に出征した。

第二は、生まれ育った懐かしい我が家と故郷を守るため、
死を覚悟して出征した。

第三は、わが祖国日本の平和を願い、
お国のためにと死を覚悟して出征し戦った。

第四は、「死」を覚悟して第一線に出征しているが、
「死にたくない」「怖い」という戦場心理が誰にも働く。
そして、自分は助かるかも知れないと思う。
しかし、怖い、死にたくない、という不安と恐怖心をもちつつも、
自分がいつどのように死を迎えるか、誰にもわからない。

第五は、だから軍人は「愛国心」と「使命感」と「誇り」によって、
死の恐怖を克服する。そして勇敢に戦い、多くの人が戦死した。

だから「通常作戦」に参加する殆どの軍人の写真には、
厳しさと殺気が感じられた。

では「特攻隊」の死生観はどうか。

第一、特攻隊員は、特攻命令を受けて、長い人は半年、短い人は即時出撃、
戦死して任務を達成するので、死は確実であり、時間の問題であった。
特攻隊員は,自分がどのようにして死ぬかを納得していた。

第二、特攻出撃命令を受け、出撃すると、
1、運よく敵艦に体当り成功して死ぬか
2、運悪く敵戦闘機に撃墜されて死ぬか
3、敵の対空砲火器に撃墜されて死ぬか

このことを特攻隊員は最初から承知しているから、
出撃までの時間を大切に生きていた。
これで「助かるかも知れない決死隊」と、「死んで任務を達成する特攻隊」
の悟りの次元が全く異なることを理解出来ると思う。

「決死隊」と「特攻隊」の悟りの次元が異なることは、
出撃前の写真にはっきりと出ている。
「決死隊」の写真は、厳しい殺気を感ずる表情をしている。

「特攻隊」の出撃前の写真には厳しさと殺気がなく、
「観音菩薩」の如く聖らかで温かい穏やかな表情をしている。
これが「決死隊」と「特攻隊」の決意と悟りの違いであった。

※「我、突入す」の無電

沖縄の、陸、海,空の激しい攻防戦が開始されて三週間、
戦況は一進一退、勝敗の予測は全くつかない。
陸海軍航空特攻の闘魂が火の玉となって、沖縄の空と海で爆発した。
沖縄防衛の陸海軍部隊も、死闘を展開している。
戦う特攻基地・台湾も、殺気よりも厳しい、
不気味な、嵐の前の静けさともいうべき空気が全島を覆っている。

このような戦況下に、台北の師団司令部に、連絡のため出頭した。
要件を終わって、師団無線室を訪ねた。
師団参謀や高級将校が、緊張した重苦しい表情で、
何かを期待するかの如く、待機していた。

「何か変わったことでもありますか?」と、通信班の中尉に尋ねた。
「誠三十九飛行隊の六機が、間もなく沖縄に突入する・・・」
「そうですか」

私は、言葉にならない言葉を発した。
間もなく消えて行く六名の特攻隊の成功を、神仏に祈った。
そして急いでその名簿を調べた。・・・・・

この六名の中に、屏東と北港で半年間、
同じ中隊で勤務した、教え子の松岡巳義伍長の名前があった。
私は思わず「松岡伍長・・・」。あとは、言葉にならなかった。・・・・

私の脳裏には、別れた一ヶ月前の彼の姿が、鮮やかに蘇ってきた。
無性に悲しく、涙が溢れて、どうしようもなかった。

待ちに待った、最後の無電が入った。
「敵機発見!」「敵機動部隊発見!」と続いて、
第一信、第二信が受信された。

無線室の将校は、自分が特攻隊で突入しているような真剣な表情で、
文字通り、手に汗握るような緊張した空気の中で、
誰一人咳する者もない死の静寂の中に時を待った。

一分、二分、三分、四分、五分。
何日にも、何年にも思えるような、長い沈黙の六分間の時が流れた。

「六機―敵機動部隊に突入する―天皇陛下万歳―さようなら・・・」

この無電を最後に、六人の若い清純な魂は、
「日本民族の、不滅の永遠の生命の中に生きる」と、
その肉体は敵艦と共に散っていった。

最後の無電を聞いた瞬間、全身に強い電流を受け、
心臓が停止し、全身の血が逆流するような強い衝撃を感じた。

どの顔も蒼白な表情で、涙で顔がくしゃくしゃになっていた。

誰が命ずるともなく、沖縄の空に向って静かに頭を垂れて合掌し、
健闘を感謝、六名の勇敢な戦士の冥福を心から祈った。

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◆教え子たちの遺言

四月二十七日午後十一時三十六分、胴体に300キロの爆弾を抱いて、
九七戦の操縦桿を握り、特攻三機編隊が暗黒の沖縄の空に向って、
宮古島を離陸した。

敵戦闘機の攻撃を受け、一機不時着、一機敵弾を受け、宮古島に不時着、
大橋伍長は単機で進攻、二十八日午前一時過ぎ、
熾烈な対空砲火を巧みにぬって、慶良間列島付近の輸送船に体当たり、
瞬間、大爆発を起こした。十八歳の若い生命を散らした。

屏東、北港での訓練、初の特攻命令、嘉義駅での別れと、
過ぎ去った思い出が脳裏をよぎって、
自爆のニュースで胸が張り裂ける思いであった。

★最後の便り(台湾より)
謹啓、初春の候と相成り、その後、
御両親様には、お変りなくお暮しのことと思います。

お父さん、お母さん、喜んで下さい。
祖国日本興亡のとき、茂も待望の大命を拝しました。

心身ともに健康で、任務につく日を楽しみに、日本男児と、大橋家に、
父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、
戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、
文化国家を再建してくれる事を信じて、茂は、たくましく死んで行きます。

男に生まれた以上は、立派な死に場所を得て大空の御盾となり、
好きな飛行機を、我が墓標と散る覚悟であります。
親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。
お父さん、お母さん、長生きして下さい。
お世話になった皆様方に、宜敷お伝え下さい。

この便りが最後になります。

昭和二十年三月二十四日 遠き台湾の特攻基地より

父上様 母上様

身はたとえ南の空で果つるとも とどめおかまし神鷲の道

大命を拝して十八歳 茂

―――――――

「祖国の栄光と、不滅の歴史に後に続く者を信ず。
日本男児の本懐として、一死をもって必中轟沈を期す」

五味少尉は、慌ただしい出撃直前に書いて、戦友に託した。

「では征きます。さようなら」

ニッコリ笑って、戦友の頬を軽く叩き、
九七戦の操縦桿を握り、闇に包まれた飛行場を飛び立った。
再び爆撃に出撃する新保大尉に誘導され、
慶良間列島付近の輸送船団を捕らえて突入した。

―――――――

※平和日本の再建を信じて

辻少尉は、四月十二日、第一回の出撃において、敵機動部隊を発見し得ず、
無念の涙をのんで花連港に帰還したが、
五月十三日、第二回の出撃の命令を受け、今度こそは必ずやるぞと誓い、
出撃一時間前のあわただしい中、この便りを書いて戦友に託した。

前略、五月十三日、沖縄周辺に突入する。われ心に一点の曇なし。
今までに何回か出撃するも、悪運強く、天候不良で、
敵機動部隊を発見し得ず。無念の涙をのんで、
○○特攻基地に帰還したが、今日こそ大物と差しちがえる。
最後にうれしい便り、われわれの戦果確認は、同郷の、また同じ、
富山師範出身の、福沢忠正少尉なり。
彼と同じ机を並べて勉学せし二年前、今われの戦果を確認してくれることは、
何たる喜びぞ。
母校富山師範荒鷲のため、われ、今日、空母轟沈を誓って出撃する。

また、十二日、海軍中尉河合一雄と再会、
彼もすぐ、特攻出撃すると張り切っている。
この夜は、富山師範のわれ、福沢少尉、河合中尉の三名で、宜蘭料理屋にて、
今生の別れと語るもつきず、お互いの健闘を祈り、愉快に飲み明かす。

偶然に、まったく予期せざる喜びであった。
陸海軍異なるも、祖国と民族を愛する心情に変わりはない。
ともに、米英撃滅を誓って散会、今度会うときは、靖国神社の、九段下て、
大いに飲もう、とお互いに一発必中轟沈を祈って別れた。

『俺たちは、後に続く青年を信じて、喜んで、祖国に殉じてゆく。
生き残った青年が立派な日本を再建してくれると信じ、安心して死んで行く』

これは、三人共通の、願いであり、信念であった。
それでは、もう時間がない。
ただ、今願うのは空母撃沈のみ。
お父さん、さようなら。お母さん、さようなら。
お母さんの写真を抱いて、喜んで死にます。御安心下さい。
それでは、辻家皆様のご健康とご幸福を祈って、われ出撃す。
親類、近所の皆様方に、くれぐれも、よろしくお伝え下さい。

昭和二十年五月十三日

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◆特攻隊員の父母の許へ知らされた消息

この日は突入に成功し、辻少尉、今野少尉、
白石少尉、稲葉少尉らは、ついに帰ってこなかった。
親しくつきあった、基地の特攻隊宿舎勤務の婦人より、
辻少尉の消息が父母の許に知らされた。

「若葉茂る新緑の候となりました。
皆々様には、お元気にておくらしの御事と推察致します。
私は、ふとした御縁により、ご子息俊作様とお知り合いとなり、
今度、俊作様、特攻隊として出撃遊ばされる時、
最後の事を頼まれたのでございます。

俊作様が、特攻隊として屏東から当地花連港に前進していらっしゃって、
お泊りになるところに、私は勤めております。兵站宿舎でございます。
その時は、辻少尉殿って、どういうお方なのか、
名簿のみで存じ上げませんでしたけれど、第一回出撃をなさって、
二、三日過ぎたある日、事務所にお見えになり、
色々とお話などして居るとき、沖縄へ航進中、航空帽の上からしめている、
日の丸の鉢巻を海に落した、とおっしゃりますので、
では私が作って差し上げましょうと、心をこめて作って差し上げたのが、
ご懇意にしていただく初めでございました。

その日、私の家の方に遊びにいらしていただきました。
私にも丁度、俊作様と同い年頃の弟がやはり、
航空兵として入隊して居ますので、実の弟のような気が致し、
及ばずながら母上様に代わって、
できるだけのお世話をさせていただきました。

特攻隊の皆様方は、魂の純粋な方ばかりで、
今日、明日死んで行かれる人とは思われない、朗らかな方ばかりで、
暗い顔の表情をした特攻隊員の方には、
一人もお目にかかった事はありません。

どうして同じ人間が、しかも若い青年の方が、
あのようにニコニコの笑顔で、聖人も及ばない、
偉大な心境で死んで行けるのか、不思議に思うくらいでした。

本当に、男らしい、ほれぼれするような方ばかりでありました。
皆さん方は、心のやさしい、親思い、兄弟姉妹思いの方ばかりでありました。
『魂がきれいで、心が温かい』から『祖国』のためにと、大切な生命を捧げ、
特攻隊に志願して、ニッコリ笑って出撃され、
勇敢に死んでゆかれたのだという事をわからせていただきました。」

「私は、多くの特攻隊員の方をお世話させていただき、
『祖国に殉ずる』『他のためにつくす』
このような清純な魂の青年の方から学ばせて頂いたのは、私の宝であります。

特攻隊の方々は、後に続く青年を信じておられました。
それは、
「自分たちは戦争で死んでゆくが、
平和になったら生き残った青年が、世界から尊敬される、立派な、
平和国家日本を再建してくれる」
と信じて、安心して死んでゆかれたと思います。

私は、『平和日本』『文化日本』の再建こそ、
この、『理性と、知性と、勇気』を持たれた特攻隊の青年の方々に、
生きてもらわねばならないと、惜しみと、悲しみの涙で一杯でございます。

この偉大な、すばらしい男性を育てられたのは、歴史と伝統につちかわれた、
『日本精神』の心を持つ『日本の母』の皆さま方、『母上様』方と、
心から敬意をささげます。

私は、特攻隊の方々のお世話をさせていただき、
悲しい、淋しい思いもさせていただきましたが、気がついてみると、
『祖国に殉ずる』『他のためにつくす』『犠牲的奉仕の精神』の尊さ、
すばらしさを学ばせていただきました。
これは私の『宝』です。一人でも多くの方々に語りつぎたいと思っています。

初めてお出でになった時、母と二人で、うどんを作って差し上げました。
とても喜ばれ、
『自分の好物はうどんだ。屏東にいる時、
兵隊を買いにやったが、どこにもなかった。
花連港にきて、うどんを食べられようとは、夢のようだ。
これで満足して死んで行ける』
と、それはそれは、とてもお喜びになりまして、
その時は丼に三杯も召し上がりになりました。
私たち家族一同はこんなに喜んでいただけるとは思って居ませんでしたので、
本当にうれしゅうございました。

『美枝さん、辻少尉の最後の頼みがあるんだ。おれの戦死が確定したら、
内地に知らせてくれ。好きなうどんを腹一杯食べて、喜んで征った事を、
なあ。最後に気になるのは、親のことなんだ。
おれの最後を知らせてやったら、どんなに喜ぶかも知れない』
と、しんみりした口調でおっしゃりました。

『ええ、必ずお母さんにお知らせしますよ。その事は決して心配なく、
後々の事はきっと引き受けますから安心して下さい』
と申し上げると、ほろりと涙を流され、にっこり笑って、
『これで思い残す事はない。安心して死ねる』
と、大変喜んでいただきました。

何時間の後には『靖国の神』となられる、最後の頼みをどんな事があっても、
果たして差し上げたい。安心して征かせたい。
というのが、私の気持でありました。

本日(五月十七日)午後五時離陸、永遠に帰らぬ攻撃に征かれました。
今尚、にこにこ笑いながら、宿舎を出てゆかれたお姿が浮かんで参ります。

体当たり攻撃の時間は、『午後七時四十分から、八時までの間』
その時間に見事体当たりを成功するようにと、
妹と二人で神社にお参りして祈らせていただきました。
今朝(十八日)出勤して、戦果をお伺いしましたところ、
見事、輸送船に体当たりされた由、
今更ながら、俊作様の面影をしのんでいます。

戦果確認の目的で、一緒にゆかれた中尉のお話では、編隊長として、
見事な編隊を指揮され、終始、ニコニコされ、最後には、
お互いに翼を振って別れ、従容として輸送船に突入してゆかれた、
との事であります。

軍刀と、軍帽は、特攻隊の遺品係に渡してあります。
同封の手紙は、最後(十七日)にお書きになった、俊作様の絶筆であります。

大切な事を忘れていました。
体当たりの時間は、五月十七日十九時三十五分だそうです。
つきぬ思い出を、長々と書かせていただきました。
では、皆さま方お元気でおくらし下さるよう、はるか台湾の果てより、
皆さま方の幸福をお祈りして、ペンをおきます。

昭和二十年五月十八日

台湾花連港市営盤通一八

湯橋美枝」
2009/05/01 09:00|年表リンク用資料
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