正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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大東亜戦争と共産主義

『大東亜戦争とスターリンの謀略』 三田村武夫 著 より引用

著者の三田村氏は、昭和3年(1928)から7年まで、内務省警保局に勤務、
社会主義運動取締の立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に
調査研究する事務に携わった。同7年から10年(1935)まで、
拓務省管理局に勤務し、国際共産党の活動に関する研究に没頭。
11年(1936)には衆議院議員選挙に立候補、爾来10年間、
こんどは逆に反政府、反軍部的政治闘争に専念し、
遂には巣鴨までいった方です。

―――引用はじめ―――――

◆尾崎秀実の手記

コミンテルン即ち国際共産党はロシア革命の成功に伴い誕生したもので、

・・・略・・・

世界各国の共産主義者の参加を得て1919年3月モスコーにおいて
第三インターナショナルを結成しこれが現在のコミンテルンであり、
その本部をモスコーに置き、
各国の共産党を支部として傘下に収めております。

コミンテルンは世界革命を遂行して世界共産主義社会の実現を目的とする
共産主義者の国際的組織であります。

・・・略・・・

現にその日本支部たる日本共産党に対しても昭和二年の
いわゆる二十七年「テーゼ」、昭和七年のいわゆる三十二年「テーゼ」
などその他をもって日本に到来すべき革命の性質を規定し
日本に来るべき革命はブルジョア民主主義革命で
その革命は急速にプロレタリア革命に転化するものとし
あるいは革命の性質は急速にプロレタリア革命に
成長するブルジョア民主主義革命なりとして、
天皇制の打倒をスローガンとすることを規定しております。

従ってコミンテルンは世界革命の一環として我が国においても
共産主義革命を遂行してわが国体を変革し、
私有財産制度を廃止しプロレタリア独裁を樹立し
この過程を通じて共産主義社会を実現せんと
するものであることは勿論であります。

・・・略・・・

コミンテルンの政策はソ連政府の国際政策に強く支配されているばかりでなく
自主的にもその世界革命完成の目的のためにその中心をなす
唯一の現有勢力たるソ連国家を守り
その存在を維持するための政策をとらざるを得ないのであります。

・・・略・・・

吾々のグループの目的任務は特にゾルゲから聞いた訳ではありませぬが
私の理解する所では広義にコミンテルンの目指す
世界共産主義革命遂行のため日本における革命情勢の進展と
これに対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報
ならびにこれに関する正確なる意見をモスコーに諜報することにあり、
狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして
その支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため
日本の国内情勢特に政治経済外交軍事等の諸情勢を
正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、
ソ連防衛の資料たらしめるにあるのであります。

従ってこの目的のためにはあらゆる国家の秘密をも
探知しなければならないのでありまして、
政治外交等に関する国家の重大な秘密を探り出すことは
最も重要な任務として課せられているのであります。

・・・略・・・
 
昭和九年の晩春、奈良公園内の指定の場所でゾルゲと再会したのであります。
その際ゾルゲから日本における諜報活動に協力方を依頼されたので
私は再びゾルゲと共に諜報活動をなす決意をし同人の申込みを快諾して
爾来検挙に至るまでの間諜報任務に従事してきた次第であります。

◆ロボットにされた近衛

昭和十八年(1943)四月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、
戦局、政局の諸問題につき率直な意見を述べて懇談した際、

「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。
日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」
と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、
第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、

「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。
ことここに至って静かに考えてみると、
何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする・・・」

と述懐したことがある。
彼はこの経験と反省を昭和二十年(1945)二月十四日
天皇に提出した上奏文の中で、

「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった
左翼分子の暗躍によって、
日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、
この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を
充分看取することの出来なかったのは、自分の不明の致すところだ」

と言うのである。言いかえれば、自分はこれら革命主義者のロボットとして
踊らされたのだと告白しているのだ。

・・・略・・・

資本主義国家の権力的支柱をなすものはその国の武力即ち軍隊である。
したがって、この資本主義国家の武力、軍隊を如何にして崩壊せしめるかが、
共産主義革命の戦略的、戦術的第一目標とされる。

そしてこの目標の前に二つの方法があるとレーニンは言う。
その一つは、ブルジョア国家の軍隊をプロレタリアの同盟軍として
味方に引き入れ革命の前衛軍たらしめること、
第二は軍隊そのものの組織、機構を内部崩壊せしめることである。
つまりブルジョア国家の軍隊を自滅せしめる方向に導くことである。

また、レーニンの戦略論から、戦争そのものについて言えば、
共産主義者が戦争に反対する場合は帝国主義国家(資本主義国家)が、
世界革命の支柱たるソ連邦を攻撃する場合と、
資本主義国家が植民地民族の独立戦争を武力で弾圧する場合の二つだけで、
帝国主義国家と帝国主義国家が相互に噛み合いの
戦争をする場合は反対すべきではない。
いな、この戦争をして資本主義国家と
その軍隊の自己崩壊に導けと教えている。

レーニンのこの教義を日華事変と太平洋戦争に当てはめてみると、
共産主義者の態度は明瞭となる。
即ち、日華事変は、日本帝国主義と蒋介石軍閥政権の噛み合い戦争であり、
太平洋戦争は、日本帝国主義と、アメリカ帝国主義及びイギリス帝国主義の
噛み合い戦争と見ることが、
レーニン主義の立場であり共産主義者の認識論である。

したがって、日華事変及び太平洋戦争に反対することは
非レーニン主義的で共産主義者の取るべき態度ではない、と言うことになる。
事実日本の忠実なるマルクス・レーニン主義者は、
日華事変にも太平洋戦争にも反対していない。

◆資本主義国家の共産主義者がとるべき態度

第一次大戦勃発直後の1914、5年頃レーニンは頻りに敗戦主義を説き、
同じボルシェビキ(ロシア共産党)の同志をすら驚かせたが、
彼の最も軽蔑したのは、いい加減で、戦争を終わらせ、
革命の有望な前途をブチ壊す平和論者と良心的な反戦主義者であった。

「われわれ革命的マルクス主義者にとっては
どちらが勝とうが大した違いはないのだ。
いたる所で帝国主義戦争を内乱に転化するよう努力することが、
われわれの仕事なのだ」

「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、
ソ連及革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、
プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、
各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することは
プロレタリアートのその戦争に対する態度決定に重要なことである。

上の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるがゆえに
勿論断固反対しなければならない。
また第三の戦争は世界革命の一環として
その正当性を支持し帝国主義国家の武力行使に反対しなければならないが、
第一の帝国主義国家相互間の戦争に際しては、
その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、
この戦争を反ブルジョア的内乱戦たらしめることを
活動の主要目的としなければならない」

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1)自国政府の敗北を助成すること。
(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、
戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
である。
 
「現在の帝国主義国家の軍隊はブルジョア国家機関の一部ではあるが、
最近の傾向は第二次大戦の危機を前にして
各国共に人民の全部を軍隊化する傾向が増大してきている。

この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、
大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えば、
ブルジョアの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。
この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に
反対すべきにあらずして進んで入隊し、
これを内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」

・・・略・・・

レーニンが最も熱心に、精魂を打ち込んで指導してきた
コミンテルン第一回大会及び第二回大会に際し、
自ら筆をとった綱領草案その他党幹部に与えた指示、
一般の共産主義者に示した文書などから特に注目すべき点を拾ってみよう。

彼は先ず、革命家の道徳的体系を説いて、
「政治闘争においては逃口上や嘘言も必要である」ことを公然と主張し、
「共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。

あらゆる種類の詐術、手管、及び策略を用いて非合法的方法を活用し、
真実をごまかし且つ隠蔽しても差し支えない」

「共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。
公然たる組織と並んで、
革命の際非常に役立つ秘密の機関を到る所に作らねばならない」

「われわれは即時二重の性格をもつ措置を構ずる必要がある。
党は合法的活動と非合法的活動を結びつけねばならない。・・」

と言っている。
要するに「革命」という目的のためには、
ブルジョア社会に存在する一切の道徳的規範を無視して、
逃げ口上も、嘘も、あらゆる種類の詐術も、手練手管も、策略も用いよ、
また真実をごまかすことも、隠蔽することも、
悪魔とその祖母と妥協することも必要だ・・・と言うのである。

◆日本における謀略活動

近衛公が上奏文で言う、到達した結論とは具体的にどんなことか。
先ず第一に挙げねばならない事件は、
尾崎秀実とリヒアルト・ゾルゲ
(表面の身分はドイツ大使館員であったが実はコミンテルン本部員で、
日本に派遣された秘密機関の責任者)
によって構成されたコミンテルン直属の秘密謀略機関である。

尾崎秀実は世上伝えられている如き単純なスパイではない。
彼は自ら告白している通り、
大正十四年(1925)東大在学当時既に共産主義を信奉し、
昭和三年(1928)から七年まで上海在勤中に
中国共産党上部組織及びコミンテルン本部機関に加わり爾来引き続いて
コミンテルンの秘密活動に従事してきた真実の、
最も実践的な共産主義者であったが、

彼はその共産主義者たる正体をあくまでも秘密にし、
十数年間連れ添った最愛の妻にすら知らしめず、
「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」として
政界、言論界に重きをなし、
第一次近衛内閣以来、近衛陣営の最高政治幕僚として
軍部首脳部とも密接な関係を持ち、日華事変処理の方向、
国内政治経済体制の動向に殆ど決定的な発言と指導的な役割を
演じて来たのである。

世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、
命をかけて活躍してきたこの尾崎の正体を知ったとき、
近衛公が青くなって驚いたのは当然で、
「全く不明の致すところにして何とも申訳無之
深く責任を感ずる次第に御座候」と陛下にお詫びせざるを得なかったのだ。

第二にとりあげられるのは、いわゆる「企画院事件」の真相である。
この事件も戦後世上に喧伝された「軍閥政府弾圧の犠牲」として
簡単に片付けることは大変な間違いである。

戦時中企画院のいわゆる革新官僚が経済統制の実権を握り、
戦時国策の名において
「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」
と主張し、統制法規を濫発して、
全経済機構を半身不随の動脈硬化症に追い込んできたことは
誰でも知っているが、
その革新官僚の思想的背景が何であったかは、殆ど世間に知られていない。

ところが、この企画院事件は、昭和十年(1935)に
コミンテルン第七回大会で決定された人民戦線戦術にもとづき、
国家機構の内部に喰い入った共産主義者のフラクションで、
表面の主張は、当時国家の至上命令とされていた「戦争に勝つために」
を最高のスローガンとし、

国際資本主義体制・・即ち現状維持的世界秩序の打倒を目的とした
日華事変の歴史的意義とその進歩性を認め、
東亜新秩序建設のための諸国策を強力に推進してきたが、
その内面的意図即ち思想目的は、資本主義制度を根本的に改変し、
社会主義革命完成のための客観的、社会的条件を成熟前進せしめる
「上からの革命」を意図したものであった。

近衛公が上奏文の中で、
「軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、
およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍」
と言った頭の中には、
おそらくこの企画院事件の内容もその一部として描かれていたにちがいない。

第三に昭和研究会の正体である。昭和十一年(1936)、
「新しい政治、経済の理論を研究し、革新的な国策の推進に貢献する」
ことを目的として発足したこの会は、近衛内閣と不可分の関係に立ち、
軍部とも密接な関係を持っていわゆる革新国策の理念的裏づけをなし、
近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となり、
日本の政治形態を一国一党の軍部官僚独裁組織に持って行ったことは
周知の事実であるが、
この会の組織は尾崎秀実を中心とした一連のコムミニストと、
企画院グループのいわゆる革新官僚によって構成され、
その思想の理念的裏づけは、
全くマルクス主義を基底としたものであったのだ。

・・・略・・・

第四としては、軍部内に喰い込んだ謀略活動ですが、支那事変の中途で、
武藤章氏(尾崎とは特に緊密な連絡があった)が軍務局長となるや、
左翼の転向者が、彼の周囲にブレーンとして参加したこと。

この頃から陸軍省の部局に転向共産主義者が召集将校として起用され、
統制派政治軍人の理念はこれがために
さらに大東亜共栄圏の理念へと飛躍したということです。
この点に関し、近衛公は上奏文の中で
「軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、
これを取巻く一部官僚及び民間有志
(これを右翼というも可、左翼と言うも可なり、
右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)
は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しおり、
無知単純なる軍人これに躍らされたりと見て大過なしと存候」と言っている。

◆中国の抗日人民戦線と日華事変

昭和五年(1930)八月十四日付の「中国共産党当面の任務に関する宣言」
の一節に、「今や帝国主義諸国家相互の矛盾は尖鋭化し、
各国は各々戦争を準備し、植民地を強奪せんとする空気が充満している。

かかる国際的政治情勢は既に明らかに資本主義の暫定的安定を破壊し、
正に新たなる帝国主義世界戦争と、
新たなる全世界の革命闘争を促進すると共に、
一切の帝国主義制度の死滅を促進しつつある。

かかる状勢の下にあって、
中国革命は全世界革命の中において頗る重要な地位を占めている。
中国の広大な勤労大衆の反帝国主義闘争は
必ずや世界革命の普遍的爆発を促進し、
各国無産階級の武装暴動を誘起するであろう。

吾らは、ソヴィエト連邦擁護、帝国主義戦争反対、
植民地革命完成のスローガンの下に、中国革命を世界革命と合体せしめ、
共同して帝国主義に対する戦勝を闘い取らねばならぬ」
と言っているが、この主張は言うまでもなく、
コミンテルンの基本的立場であって、
今次の大戦を経て中共政権確立へと貫かれてきたものである。

しかして、この基本的立場は、
日華事変を通じ中共政権確立への過程において
如何なる戦略戦術となって現れたであろうか。

・・・略・・・

コミンテルン第七回大会で中国当面の敵は日本であると決定し、
この日本に対抗するために中国共産党及び中共軍に対する援助を決議し、
更に「中共」に対し、日本帝国主義打倒のために、
民族革命闘争をスローガンとして
抗日人民戦線運動を巻き起こすべしと指令したのである。

そこで「中共」はこの新方針に従い、
抗日人民戦線運動の具体的方策を決定し、
昭和十一年(1936)八月一日付けで「抗日救国宣言」を発表し、
全中国に亘って「統一国民防府及抗日連合軍の創設」を呼びかけたのである。

・・・略・・・

この抗日救国宣言は全中国に非常な衝撃を与え、
抗日戦線統一への世論が高まりつつあったとき、
同年十二月突如として起こったのが
西安事件(張学良の蒋介石監禁事件)である。

この西安事件によって蒋介石は永年自己政権(国民党政権)の
敵として討伐を続けてきた「中共」と妥協しここに「国共合作」が実現した。

即ち蒋介石は「中共」の要求を全面的に容認して、
「容共抗日政策」を採用し、
抗日即時開戦を提唱して抗日人民戦線の結成を促進し、
遂に日華事変勃発拡大の口実を日本側に与え、
その一面の条件をつくり出したのである。

日華事変に関してコミンテルンが「中共」
及び中国民衆に与えた文書は無数にあるが、
その中で「日華事変は、中国全土に非常な波動を起こし、
事変の帰結如何にかかわらずコミンテルンは
極東に勢力を確保することが可能であり、

また中国におけると同様日本にも騒乱を惹起して
終局の勝利を得ることを確信している」と言っている。

コミンテルンの世界革命綱領実現の見地から言えば、
極東の安定勢力として強大なる日本帝国が存在することは
何としても大きな障害である。
極東革命完成のため一度は日本と戦わねばならぬであろう。
とすれば、中国と日本を噛み合わせて全面戦争に追い込み、
日本の実力を試すことは重要なことだ、
と同時に、日本の実力を消耗させればさせるだけ
コミンテルンの革命勢力にとって有利である。

日華事変によって蒋介石政府がもし負けても
コミンテルンの立場は何等の痛痒も感じない。
否むしろ望むところで、敗戦の後に来るものは赤化革命の前進である。

更に日本についても同様で、戦局の進展如何によっては、
一挙に日本を撃破崩壊せしめることも可能である。
と見るのは当然である。

日本においては、
「英米帝国主義の傀儡蒋介石軍閥政権打倒」東亜解放の聖戦」を叫んで
軍閥戦争を理念づける共産主義者があり、
中国においては、「抗日救国」「日本帝国主義打倒」を叫んで
日華全面戦争を強力に指導する「中共」の人民戦線戦術があり、
両者激突してコミンテルンの希望通りに
日本帝国政府と蒋介石政権を崩壊せしめたのだ。

「中共の勝利と新政権」の確立はこの謀略の成功を
実証するものと言えるであろう。

◆アメリカにおける秘密活動

1948年2月号の『カソリック・ダイジェスト』(日本版)に
「アメリカを蝕むもの」
「モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」
と題する注目すべき記事がある。

この記事の筆者はエドナ・ロニガンと言う女の人で
1933年から35年まで農業金融局に、
35年から40年まで財務省に勤務し、

・・・略・・・

この記事の内容は、
アメリカ連邦政府内における共産主義者の活動を極めて大胆に述べたもので、
ロニガンは先ずアメリカの国会委員会がこの問題を取り上げた意義を述べ、

「国会は今、ソ連秘密警察のアメリカにおける目的と活動は何か?
という実際問題を検討している・・・事実はこうである。
ソ連秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、
その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事に
たずさわらせているのだ」

「ソ連秘密警察は1933年以来、連邦政府に浸透しようと努力してきた。
その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。
要員は大学の細胞から出た。
スターリンは、1929年という遥か以前から、
即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、
彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。
このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告に
証明されている。

各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。
ソ連秘密警察の指導者たちは、連邦政府内部の『機構図表』を持っており、
党員を次から次と重要な地位に移したのである」
「網状組織によって地位につけられた人々のうち、
ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。

しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに
昇進できることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった」

「有能なソヴィエトの手先がなすべき事は、スパイではなく、
政治指導者の信頼を博することであった。
彼らの仕事は、高官や、その夫人達と親しくなることであり、
友好的に、魅力的に、敏捷に、理智的に、同情的になることであり、
昼夜にわたって、一層大きな責任を引き受ける用意をすることであったのだ。

そして、やがて、そのような責任ある地位が彼らに与えられたのである。
・・・略・・・」

「この網状組織によって選ばれた人々は、
意見が分かれているあらゆる問題においてアメリカの政策を指導し始めた。
ファーレィ(民主党領袖)が落伍した後、
彼らは重要産業地方の投票を得る仕事を引き継ぎ、
その報酬として戦争の政治的指導権をにぎったのである。

連戦連勝の米軍は、スターリンの希望通りの処で停止した。
彼らは満州と北朝鮮を共産党に与えた。・・」と言っている。
解説によると
「アルジャー・ヒスは・・・・ルーズベルトが大統領になって
思い切ったニュー・ディール政策を開始すると直ぐ、政府の仕事に関係し、
1936年には連邦検察局から国務省に移り、
敏腕を買われ、37,38年頃にはセイヤー国務次官の右腕として活躍、
その後幾多の国際会議に出席し、
1945年ヤルタで開かれたルーズベルト、チャーチル、スターリンの
三巨頭会議には顧問として参加した」

・・・略・・・

「・・・1948年の春、下院の非米活動調査委員会で、
当時タイム誌の編集幹部をしていたウィテカー・チェンバースが、
自分はかつて共産党の情報伝達係をしていたことを告白すると同時に、
米国政府上層部にも共産分子が喰込んでいると指摘してヒスの名を挙げた。
チェンバースの言うところによると、
1934年の初夏、ワシントンのあるレストランで、
ピータースと呼ばれている人物と会った。

ピータースというのはソ連のスパイの総責任者でバイコフ大佐の別名である。
大佐のそばに背の高い男が立っていた。それがヒスであった。
チェンバースはそれ以来ヒスと直接連絡して
ヒスの手から政府の機密書類を手に入れていた」というのである。

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日本人に謝りたい
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2009/04/29 09:00|年表リンク用資料
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