正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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開国 

開国

『ヤング ジャパン1』ジョン・レディ・ブラック著

著者のジョン・レディ・ブラックはは1827年スコットランドに生まれ、
海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、
友人から聞かされていた美しい景色と人情の国、日本訪問を考えていた。
事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に
結局10年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行した。
本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治13年)に出版されている。

―――――――

◆ペリーの威嚇による開国要求

日米間の最初の条約は、1854年に結ばれた。
この時、米海軍提督ペリーがアメリカ合衆国の全権使節であった。
横浜が交渉の行われた場所であって、
このことだけで、横浜は日本歴史において、いつも有名になるに違いない。

ペリー遠征隊は、三隻の蒸気船と六隻の帆船、計九隻から成っていた。
この艦隊は横浜沖に戦列をしいて錨をおろした。

日本側は提督をむかえ、会談をひらく準備をした。
広い木造の建物が大急ぎで建てられ、
あらゆる点で、外国人に心地よいように用意されていた。

ペリーは前年浦賀沖へ始めて到着して以来、
あらゆる機会に、高飛車で尊大な態度を取っていたが、
今度も条約を譲歩ではなく、権利として要求した。

多くの反対意見が出たが、ペリーはこれになんの考慮も払わないと、
きっぱり拒絶して、目的を達した。
協定は調印された、それによると、日本人は、
沿岸で難破したアメリカ国民に好意と援助の手を差しのべ、
アメリカ船が要求した時には、食糧薪水を供給し、
さらにアメリカとの貿易のために、
下田、箱館、琉球の那覇を開港せねばならなくなった。

ペリー提督が立ち去って数カ月すると、
かわって英国東インドシナ艦隊司令長官スターリングがあらわれ、
イギリスを代表して同様の条約を締結した。

ドンケル・クルチウス氏は、
長崎におけるオランダ人の状態を改良する協定を取り決めた。
1857年(安政四年)に、
プチャーチン伯爵はロシアのための条約を結んだ。
しかしこれらの条約は、すべて前奏曲にすぎなかった。
一層完全な通商条約が1858年に米国全権ハリス氏と、
大君(徳川将軍)との間に結ばれた。

続いてただちに日英間に同様の条約が結ばれ、
すこし後にフランス,オランダ、ロシアが続いた。
これらの条約によると、神奈川、長崎、箱館が
1859年(安政六年)七月一日に、
また江戸、大阪、兵庫、新潟が
1863年(文久三年)一月一日に開港されることになっていた。

◆平和裡ではあるが、威嚇によって結ばれた条約

ペリー提督は、目的達成のために取った方法と、
日本と結んだ条約とで、非常に称賛された。

しかし、もし理論家と人道主義者の原理が正しいとすれば、
ペリーが1853年(嘉永六年)に条約申し入れのために到着した時から、
1854年(安政元年)に条約をたずさえて
退去した時までに取った「威張る」というやり方が、
全然まちがっていたことは、まったく確かだ。

事実は、彼が確かに自分の使命の目的を達成し、
世界は彼の取った方針を是認しただけだ。
しかしながら、厳密にいえば、彼がこの国の法律にそむいて江戸湾に侵入し、
幕府役人の抗議を無視して勝手に碇泊地を選んだ行為は、
もっとも非難されるべきだった。

かりに日本船がアメリカの港で、港湾規定に反したやり方で、
または場所に碇泊したとしたら、
これに対しては素早い処置が取られるだろう。

ペリー提督とタウンゼント・ハリス氏が平和裡に
条約を締結したことは承認されるが、
いずれの場合も、権利に対する力の勝利であった。

ペリーは、おとなしい人々をおどかすのに十分な武力をもってやって来た。
おとなしい人々は、いわば
「あのいまいましいドルを欲しがる外国人によって、
やむを得ず開国させられた」のだ、そしてその武力は彼らをおどかした。

ハリスは、上述のおとなしい人々に対して、最近の英仏艦隊の中国における
勝利の結果から気づかわれる恐怖を描いて見せて――
すなわち両国艦隊は両国君主の使者を乗せて、日本に迫っており、
中国で行ったように日本にも条約を押付ける――目的を達した。

「平和裡の勝利」とはこんなものだ。どっこい!
ペリー提督自身がこんなに勇ましく公言しているではないか! 

「この極めて利口で、ウソつきの国民と交渉する場合には、
以前に文明諸国および未開国の住民との数限りない接触で得た経験を
援用するのが有益だ、ということを知った。
この経験は、儀礼的な国民と交渉する際には、あらゆる儀式を排除するか、
さもなければ、頭から、こけおどしをかけて、ヘロデ王(注)以上に、
暴虐に振舞う必要があることを、私に教えている」と。

(注)ヘロデ王(西紀前七十三?-四年)ユダヤの王。
幼児のキリストを殺すために、
ベツレヘムの幼児全部の虐殺を命じたといわれる王。

これは「浦賀か鎌倉に碇泊せよ」という日本の催促を彼が拒絶し、
あくまで両地よりも江戸に近い地点で、
交渉を強行しようとした態度の言訳だ。

彼は主張を通し、横浜が名誉ある場所となった。
もっとも、どんな利点が浦賀よりも横浜にあったかは、
いいにくいだろうけれども。
「平和裡の勝利」の側に、一点を加える利点の他には。

◆エルギン卿の使節団

同様にして、エルギン卿のすばらしい経験を見ようではないか。
それは「日英双方における数多くの友愛の表明」のうちに終った。

この経験は「比類のない面白さと珍しさと、
政治的にはほとんど予想もしなかった成功とを特徴」としていた。

日本に到着するとすぐに、ペリー同様、幕府を無視して、
江戸以外の場所における交渉を拒否した。
そして幕府役人の極めて強硬な反対を押切って、
江戸へ行くことを主張している。

江戸まで来て、幕府にほとんど選択の余地のないことを、
はっきりとわからせる言葉で「自分が条約を結びに来た」ことを発表した。
英女王から日本皇帝への贈物として、ヨットを持参したというのが、
江戸訪問の口実とされた。私設秘書オリファント氏はこう書いている。

「エルギン卿は、出来るならば皇帝(将軍のこと)自身にヨットを
引渡す必要があるということを、江戸に進む口実としていたので、
奉行(長崎の)に、江戸以外の場所で、
このヨットを手ばなす権限は、自分にないと主張した」と。

◆中国の悲惨さで恐怖を煽る

日本人は生来社交好きだ、だから彼らと仲良くしようと思えば、
難しいことではない。
それに二十一年前のこの国民の生活は、
現代のヨーロッパに知られている以上に違っていたし、
しかもヨーロッパの過去の時代
(つまりヨーロッパの物語時代、「古き良き時代」とわれわれが
特徴付けている時代)のものとして、
知悉されているものをたくさん持っていたから、
これを学ぶことは、珍しくもあり、また本当に楽しかった。

今日まで、日本滞在中、日本人の中で暮らすことに
満足している外国人が非常にたくさんいる。
彼らには「隠とん者の生活」とか、孤立しようという考えは全然起らない。

そしてこの国の人々の友情と信頼を得ようと
努めたハリス氏のやり方からみると、
彼がこうした生活に気をくさらせていなかったことが、納得出来る。

当時はまだ、後になって外交団を緊張させたような
事件は起らなかったからだ。
ハリス氏には、取り決めねばならない多少重要な事柄があるにはあった。

例えば、貿易のために米国人が下田に居住する権利――。
しかしこれらは空気のように微々たるもので、ほとんど苦労させなかった。
天津条約(注)をもたらした英仏軍の成功は、
ハリスが条約を結ぶのに、事実助けとなった。

彼は、中国で横暴なやり方をしているこの二国の使節が、
同じ行動を日本でも必ず取る、と主張して、幕府の恐怖をあおりたてた。

こうして、二つの強国と日本との間における調停者として、
必要ならば、出来るだけ尽力しようと約束をして、
彼は執拗に求めていたものを獲得した。もちろんその必要はなかった。

オリファント氏はハリス氏の条約の実体を簡潔に、
だが面白く、こう片づけている――
「ハリス氏は最近江戸から帰ったばかりだ。江戸で彼は、セーリス艦長

(注)時代に結ばれたものよりも有利な条約を幕府と
交渉するのに成功したばかりだった。

ハリス氏は江戸で数カ月過ごしたが、
その間、氏とドンケル・クルチウス氏とは、
幕府に交渉に応ずるように勧める程度の、
成果のあがらない努力を続けていた。

1855年に、クルチウスは通商協約を結んでいた、
これによると、若干の利権が外国人に許されたが、
まだわずらわしいゲルトカンマー(勘定所の意味か―訳者)の
機構が残っていて、
貿易独占は種々の条件のもとに幕府に保留されていた。

開化した原理にもとづいて貿易に従事する国々に対して、
これらの条件は、さきの利権を役に立たないものにした。

他方では、ハリス氏は、自分が代表している先進国民にとって、
価値のある条約を結ぼうと決意していた。
ドンケル・クルチウス氏は、ハリスがそうしているのを知ると、
再び江戸へ行き、出来ることなら、先を越されまいと決心した。
だがこの用心が役に立たないことが起った」。

「日本の政府を動かすことが出来ないことを知ると、二人は絶望した。
ドンケル・クルチウス氏は長崎に向って陸路二ヶ月の長旅にのぼり、
ハリス氏も下田に帰った。
ところが、下田に着くか着かぬうちに、
ポーハタン号が天津条約の知らせを持って到着した。
ハリス氏はただちにこのニューズを江戸へもたらした。
ドンケル・クルチウス氏が、重大事件の起ったことも知らずに、
長崎へ向って苦しい旅をしている間に、
ライバルのハリスは条約に調印し、下田に帰って自分の勝利を楽しんだ」と。

(注)セーリス艦長
英国の東インド会社貿易船隊司令官。
1613年に平戸に入港し、徳川家康に会い、平戸に商館を建てて帰国した。
同行したアダムスが日本に残った。

(注)天津条約
1856年、フランス人宣教師が清国官憲に殺され、
また英船アロー号が官憲に臨検を受け、
中国人船員が捕われたため英公使パークスは謝罪を要求した。
清国が拒絶したため、英国はエルギン卿、
仏国はグロー男爵を広東に送り武力によって条約の改訂を企てた。
これに露米二国が加わった。

1857年12月、英仏軍は広東を占領し、さらに天津を占領するに及んで、
清国は降伏し、英仏の主張どおりに、天津条約を結んだ。

キリスト教の信仰と布教の自由、内地旅行と貿易の自由、
外国使節の北京駐在、領事の開港場駐在、
開港場の増加、軍費の賠償が定められ、関税も外国に有利に定められた。

下田におけるハリス氏の生活を記述したものが、
出版されているかどうか私は知らない。
ここにある彼の住居の絵を見ると、環境は美しい。

この住居は、下田の町から約一マイル半か、
あるいはもう少し離れた柿崎村にあって、
美しい下田湾から歩いて五分とはかからない。

◆威嚇による条約締結

英艦フューリアス号は、エルギン卿を乗せて、(以下オリファント氏の描写)
「海岸から約三マイル、この帝国の首都から約五マイルの距離にあって、
日本艦隊からほど遠からぬ」江戸沖の碇泊地へ、首尾よく来ていた。
もちろんただちに一団の役人が訪ねて来て
「『神奈川へ帰れ』という文句を繰り返した」。

エルギン卿は応じないで、同日午後首席老中あてに陸路手紙を送り、
訪問の目的を詳述した。
すなわち「条約を結び、帝王にヨットを贈呈したい」と。

さらに「陸上に適当な住居を提供してもらいたい」と要求した。
日本艦隊は、「オランダ政府から購入した二隻の大型横帆船と、
かなり小型の外輪船一隻と、
三本マストのスクーナー船一隻からなっている」といわれていた。

翌々日、陸上の住居に関する申し出に対して高位のる回答が来て、
一行は八月十七日上陸した。

オリファント氏は書いている。――
「当日の朝、儀式を盛大に行うために、大準備がされた。
数名の日本の役人が来て、使節に従って上陸する手筈をととのえた。
われわれが日本側のボートで上陸する、と彼らは明らかに思っていたらしい。

だから、自分達が、大勢の正装した艦隊員とともに、リー号に乗せられ、
またスマートな乗組員を乗せて、軍艦旗をはためかせて、整然として、
陽気に見える十三隻のボートをひきいていった時、彼らは少なからず驚いた。
レトリビューション号、フューリアス号、
そしてヨットはみな飾り立てられた。

砲台を通過する時、小さなリー号が荒々しく蒸気をたて、
かなたのジャンクの間をぬって走った時、
われわれが浅瀬や砂州を全く無視しているのを見て、
日本人達は呆然としていた」。

「ついに水深測量が七フィートに達すると、
リー号でさえも船底が砂地についたことを知り、
われわれは錨をおろしてボートに移った。
そうしている時、各艦は礼砲をとどろかせ、
レトリビューション号の軍楽隊は外輪船の中で、『英国国歌』を奏し始めた。

他のボートは、船首に真鍮製の大砲をつけた四隻の外輪船の間に、
エルギン卿の長官艇を中心にして船列をつくった。
この隊列で、われわれは岸に沿って三マイルばかり進んだ。

この光景は、これまで日本人が見たこともないものなので、
われわれが迅速着実に進むにつれて、もの珍しさから、
たくさんの小舟が押し寄せてきて、われわれを近くで見ようとした。
上陸地点はほぼ市の中心にあり、海面に沿って緑色の砲台で守られていた。

ところどころ形のよい木の植えてある草原の斜面は、
人口稠密な都市の中でも、最も人口の密集した所を訪れるどころか、
むしろ公園に近づいて行くような気分を起させた。

われわれは湾から、橋のかかった、小さな入江に入っていった。
ところが非常に浅くて、小さなボートでも、
石段の下まで進むのはかなり困難だった。

われわれは、ここは、この国の最高の役人だけが使うことに
なっている上陸場所だ、と教えられたので、この不便さを慰められた」と。

一行は、これに先立つ二週間ばかりの間、プチャーチン伯爵がこの首都に、
ロシア皇帝の代理として滞在していたことを知った。
しかしロシア艦隊は神奈川沖にとまっていた。
私はこの点を心に留めた。

というのは、ペリー提督にしろ、ハリス氏にしろ、エルギン卿にしろ、
外国の交渉者はすべて、条約を獲得するためには、この国の法律を無視し、
友情と見せかけて、実際には、威嚇で目的を達したことを忘れてはならない。

日本の役人は、1853年(嘉永六年)にペリー提督の乗って来た艦隊が、
1854年(安政元年)に約束に従って再びやって来た時、
不気味なほど増加されているのを知った。

そして軍艦を強力に誇示して、この断固たる海軍軍人外交官が、
表面上いかにも優雅であるが、
実質は極めて厳然と威力を行使していることを、彼らは知った。

ペリーの言葉は密よりも甘かったが、そのやり口や、
軍艦が目前にいるということは、あらゆることを大成功させた。
ハリス氏には、自分を力づける艦隊がなかった。
それであるから、中国における英仏軍勝利という成功の噂を巧みに利用した。

すなわち中国で銃剣を突きつけて条約をかちとった外交官は、
同じ目的を達するために必ず日本に来る、と指摘した。

そこで、もし米国と条約を結んでおけば、
日本とこの強大な西欧両国との間に紛争が起った場合は、
大統領が調停者になると約束した。

エルギン卿は強力な艦隊を伴っていなかったが、
彼は自身に「輝く名誉」をおびてやって来た。
英国の外交官の中で、最も公正で、良心的な一人である彼でさえも、
ためらうことなく、成功の見込みのある唯一の手段を使用した。

多くのことについて語って来たが、もう一つだけつけ加えよう。
日本政府はいかんともしがたいことを知り、またはそれを予想したので、
快く譲歩し、短い英国使節の訪問を、この上なく完全に楽しいものとした。
条約は八月二十六日に調印された。

横浜の外国人居留地
横浜の外国人居留地

◆清潔な日本人の生活

多分、住民の身体の清潔なことが、伝染病を防いでいたのだろう。
というのは、毎日熱い湯に入浴をしない人はほとんどなかったし、
少なくとも一日おきに入浴しない人はめったになかった。

開港初期の日本における体験談を出版した人々は、
江戸で目にとまった婦人の、人前でする行水の話をしている。

さらに本書を書いている現在(1874年)から五年とさかのぼらない頃でも、
こんな光景を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。
私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、
また周りの村でも何度も見た。

1862年頃までの、またもっと後までの日本人町の一つの特徴は、
公衆浴場(銭湯)がたくさんあったことだ。
ここでは、男女が一緒に入浴していた。

当時、ここに住んでいた数人の外国人が示したような世論の力によって、
ようやく次第に改められた。
横浜でなくなった後でも、江戸では数年続いた。

しかし現在では、男女が多くの場合に、
今なお一つの浴場を使用してはいるが、
概して仕切りで分けられるようになった。
中には何軒かは、男女の別が一層完全なものとなっている。

ところが今日でも、ほとんどの浴場では、男が女の仕切りの中にまで入り、
女客の求めに応じて、水をかけたり、
あるいは身体を洗う手伝いを仕事としている(三助のこと――訳者)
そんなことをしない浴場は、実際あったとしても、一軒位だ。

日本の農村生活の素朴さは、他国に見られるものと全く同じようだ。
ヨーロッパと同様に、日本でも、多くは自給自足の生活である。
村はたくさんあるが、村民たちはほとんど、
分業をいとなむ程度には発達していない。
というのは、仕事の規模が、大変小さいからだ。

各村には、一種の雑貨屋があって、ごく普通の簡単な、
安い必需品を買うことが出来るが、この店とて、
少しばかりの土地を自分で耕している家がしばしば経営しており、
供給する品物の多くは、この屋敷で用意する。

村人のすることは、すべて極めて原始的だ。
彼らは太陽とともに起きるか、時には日の出前に起き、すぐに労働を始める。
大ざっぱではあるが、都合のつく時には、身づくろいをする。
ある時は起きると、すぐするし、昼休みにも、ちょいちょいするが、
夕方仕事の終った時も、よくする。

どの農家にも風呂おけがあって、一日の仕事が終ると、
その中で半ゆでになって、身体を洗い、生気を取り戻す。
浴場の温度は、非常に高く、風呂から上がった者は、
ほとんどアメリカ・インディアンのような赤色をしている。

1872年(明治五年)に東京で布告が出された、それは銭湯は適温、
すなわち血液の温度(白人の習慣では、入浴の温度は非常に低い――訳者)
よりちょっと低目以上に、熱くしてはならない、というものだ。

男は決して自分で髪をいじらない。
いつでも近くに床屋があって、農民や農村労働者の頭は、
資力相応に一週間に一度か、あるいはもっと少ない割で、
床屋の手にかかれるようになっている。

女についても、ほぼ同様だが、彼女達は毎日少しは手をふれねばならない。
これとは別に、髪結さんの訪問を待ち受ける日があって、
彼女達が定期的に来る前に、髪をおろし、よく洗っておく。

化粧用品とみなされるものの二、三個もないのは、非常な貧乏人に違いない。
金持の間では、化粧用品は、特に美しいものが、
常に花嫁のためにととのえられ、嫁入道具の重要なものとなっている。

何事も全くおおっぴらだから、貧しい人々、
あるいは労働者階級の間では、普通の身づくろいは毎日見られる。

もちろん彼らにとって、その化粧用品は数が少なく、ありふれた品だ。
ヨーロッパ人の目には、まるでおもちゃのようだが、
小さく、簡単であっても、ヨーロッパのひときわ勿体ぶった鏡台同様に、
持主にとっては有用であり、大切なものと考えられている。

引出しつきの小さな用ダンスで十分であり、付属品一切が入っている。
鏡はよく磨いた金属の円盤であって、目的を十分果している。
そして必要な時には、使えるようにわけなく組み立てられ、
終ると、片づけられる。
この簡単な使い方は、最高の階級においても、ほとんど違わなかった。

いつの時代でも、家具に凝ることはなかった。
この点で上層階級と百姓の間の主な違いは、品物にほどこす贅沢なうるし、
あるいは、あらゆる種類の芸術的な細工にある。
日本から外国に輸出される美しい小ダンス、小間物は、
二十年前には決しておもちゃではなかったし、
現在でも、多くの人々の間では、実際おもちゃやではない。

二十年位前には、江戸の職人の間で
一番誇りとした仕事は、金蒔絵師の仕事であった。
大名の娘が結婚する時には、黒か、ほかのうるし地の上に、
黄金で家紋をほどこした駕籠と、
たくさんの化粧道具や箱を娘に持たせてやるのが習慣だった。

嫁入り支度のうちで、漆器は極めて重要と思われていたため、
金蒔絵師は自宅で仕事をすることを許されないで
邸に出向いて仕事をしなければならなかった。

その代金は、どんなに法外であっても拒んではならないというきまりだった。
職人たちはそれなりに立派な人間で、
邸へ行く時には、いつも絹物を着ていた。

ところが維新以来、もはやこういった高価な品の注文はなくなり、
この職業はすっかり衰退してしまった。
この衰退はいちじるしいもので、事実数年前には、
この仕事で収入の多い生活をもくろんでいた者が、
今では人力車を引いているほどだ。

当時の床屋。F・ベアト写真集より
当時の床屋。F・ベアト写真集より

◆維新当時の日本の魅力

この国の美しさと一般に健康な気候と、日本人の気持のよい誠実さとは
(公然と敵意を示す者は別として)、強い誘因となっていた。
すべてが珍しく、他国で見るものとは全く違っていて、
強い好奇心を呼び起した。

訪問者たちは、読んだり聞いたりした知識があって、
どんなに大きな期待をかけていた場合でも、決して失望しなかった。
現在でさえ、遠くから来る外国人は、この国土と人間とが気に入っている。

この国土は、少なくともその一般的な特徴には、大した変化はないようだが、
人間は、外国人と十分接触するようになったところではどこでも、
特に開港場では、その身だしなみや態度が大変変って来た。

一民族として、日本人はみな柔和で、礼儀正しく、
かなりの独立心を持っている。
この独立心は、外国人の無愛想で、ぞんざいな振舞いに触れ、
刺戟されると、すぐに表面にあらわれた。

彼らが外国人から親しみ――これは日本人同士の間の習慣とは全く違っていた
――をもって扱われると、この独立心は一層強められた。

私は日本に上陸した最初の夜、
一つの光景を見て、驚いたことを忘れられない。
長崎のことだった。独身の友人達の家で食事をした後、
テーブルが片づけられ、みんなは夕方涼むために広いベランダに席を移した。
しばらく坐って、しゃべっていたので、若い仲間には、拳闘をするか、
木刀で一勝負するのが、時間つぶしには一番よかった。

やがて給仕をした「ボーイ」達が来て、見物した。
明らかにその楽しみに加わりたいようだった――
この望みはすぐにみたされた。
彼らの見せた技から判断して、すでに初心者でないことは明らかだった。

最初彼らは主人に真向から立ち向かい、ついでお互いに取り組んだ。
このような影響下にあっては確かにすべての身分的差別がすぐに消え失せた。

しかし、いたるところで、外国人との交際の結果は、
日本人の行状に害をおよぼしていた。
始めて会った時、日本人の挨拶には明らかに
へつらいがあったとしても、すぐに消えた。

彼らの無邪気、素直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、
自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、
われわれを気持よくした。

一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され
「おはよう」という気持ちのよい挨拶を受けた。

この挨拶は、道で会う人、野良で働く人、
あるいは村民からたえず受けるものだった。

なぜなら、こういう人達は、外国人になんら敵意を示さないし、
粗暴な振舞いや侮辱を加えて、怒らせることも、しなかった。

◆東海道の大変化、横浜・江戸間に鉄道敷設の結果

現在、横浜・東京間には鉄道があり、旧道、
すなわち有名な東海道はさびれている。
しかし、昔は、なんという光景を呈していたことか!

歩行者、乗物(上流階級の乗り物)と供揃い、
駕籠(下層階級用の竹で作った粗末な交通機関)、
あらゆる種類の商品を運んで、
江戸や東海道沿いの繁華な町村に出入りした荷馬、大名行列、
大名よりは低い身分で、供をつれて旅をする資格のある者、
男女、子供連れの徒歩の平民、これらの人々で、大変な賑わいだった。

平民達は歩きやすいように、着物を端折り、
大部分の者はかなり容易に旅していた。
そして道ばたに数えきれないほど、たくさんの茶店や休憩所で、
たびたび立ち止り、一杯のうすい茶を飲み、自分と同様に、
ひと休みに立ち寄った者と、誰かれ構わずに、
陽気にしゃべって、元気を取り戻していた。

彼にとっては、道のりなど考えになかったようだった。
好きなように時間をかけ、自分なりの速さで、
行けさえすれば(大体できたのだが)、来る日も来る日も、一日中歩いた。
時間の価値など全く念頭になかった。

商取引の場合でさえ、ヨーロッパ商人の最大の当惑は、
時間どおりに契約を実行させるのが難しいことであった。
いや、不可能だったといった方がよいかも知れない。

◆1863年当時の東海道風景

大勢の武士の行列が往復するのは、もっとも印象的な光景だった。
この時は、家から外へ出る人は、どの方向に行こうと、必ず武士に出会った。

また東海道でも、江戸市中でも、武士の方が平民よりも多いようであった。
今話しているこの時代には、東海道や、江戸の主要道路の群衆は、
ロンドンの一番賑やかな道路の群衆にも匹敵するぐらい
多かったことを理解して頂きたい。

それは、いやでもヨーロッパの封建時代にわれわれを連れ戻す。
当時は、貴族や地主は、
武装した供を連れないで外出することは、考えられなかった。

これに加えて、そこには一種の古代を思わせる雰囲気があり、
この光景に魅力を与えていた。
古いオランダ人の著作家がずっと以前に、東海道について書いているが、
その当時でさえ、われわれがいた時代とまさに同じだった。

きれいな、砂利をしきつめた舗道が、人口の多い村を通り抜けていた。
村と村の間は、ほんの少し離れているだけで、
美しい老木が道路の両側に立っており、これが田んぼと道路の境であった。

大名の江戸強制居住を終らせた布告は、
こうしたすべてのことに終止符をうち、
その後の事件は、東海道らしい外観を完全に一掃してしまった。

◆二世紀前にケムペルが描いた東海道の記事

ここで、ケムペルを引用して見よう。
これを読めば、この国の状態が二百年間、
かわらなかったことが理解されるだろう。

さらに維新以前に日本に住んでいたわれわれは見たが、今後は似たものでも、
二度と見られないないものを記録しておくのもよかろうと思う。

当時の長崎寺町F・ベアト写真集より
当時の長崎寺町F・ベアト写真集より

◆江戸湾横断旅行

われわれは甲板のないボートで、江戸湾を横切って、
房州地方のある村に上陸した。一行は三人だった。
二人は、獲物をたくさん見つけたがっている熱心なスポーツマンで、
三人目の男は、『九十九谷』という名前から、
読者にも想像のつきそうな眺望を見おろせるという岡に
たどりつこうと一所懸命だった。

残念なことに望みの地点近くの場所に上陸しなかったので、
われわれが話しかけた人々は、そんな所のことは何も知らなかった――
実際にわれわれのひどい横浜なまりのわかるものは、ほとんどいなかった。

◆外国人を見た日本人の最初の反応

まずボートが岸に着いた時、その土地の人はみんな、
われわれと言葉をかわすのに、気乗りがしないらしかった。
彼らは明らかにおびえていた。
だが好奇心から、逃げ出すのを押さえてはいたが。
われわれの間で集められる限りの最上の日本語で、
われわれは『茶店に案内してくれ』と頼んだ。

ところが誰一人答えようとしない。
もし汚い顔をした腕白小僧がいなかったら、
われわれは打ち解けるのは、相当に難しかったと思われる。
この子供は大胆にも、銃にさわってみて、無作法を叱られなかったとなると、
一層大胆になって、銃の持主のまん前に立って、
顔中を口にして、ニタニタと笑った。

そんな次第でこの腕白小僧は、次に好奇心にまかせて、
一行の一人が腕にかけていた防水マントの布地を、
行儀もわきまえずに、さすってみた。
それでマントの持主は、この子供の肩にマントをかけてやり、
旅行カバンを運んで行くうに、と差し出した。

そして『村で一番立派な家に案内せよ』と話しかけ、
『この仕事をすれば駄賃がもらえる』ということをわからせた。
これで十分だった。子供は小走りした、われわれは彼について行った。
これまで外国人が足を踏み入れたことのなかった土地に、
三人の外国人がいる珍しい光景を見に集った人達も、
そろって、彼について行った。

しばらく歩いて行くと、ほかの家から、少し離れていて、
他の家よりは小奇麗に見える家を通りかかったので、
われわれは立ち止まり、戸口のところへ行った。

たちまち中にいた者はみな、奥へ逃げ込み、
一人の老女だけが障子を閉めようとして、残っていた。
だが、われわれがこの家に着くまでに、閉めることが出来ず、
中途でやめて、やはり逃げ込んでしまった。もうほとんど夕方だった。

屋根の下で一夜の宿を借りられるかどうかは、
好印象を与えるかどうかによる、ということがわかった。
そこで、その子供に荷物をおろすようにいって、心付けをやった。
これは彼を驚かせたばかりでなく、
当分の間村中で、一番の人気者となったし、
また一番好ましいわれわれの道連れとなった。

彼が一分銀をもらうと、居合わせた子供がヨーロッパの子供と同様に、
みんな彼の周りに集ったのを見て、われわれは、ほほ笑んだ。
この少年は大喜びで笑った。
そして六回われわれにお辞儀をして、礼をいった。

そのうえ、彼はわれわれの番をしていて、
頼まれた以上に、多くの仕事をしようとしているように見えた。

しかし家の外でわれわれは即座に人気者になったが、
家の中の人にはそうはゆかなかった。
それで、繰返し家人に声をかけた。
それでも誰も出て来ないので、
われわれは静かに食物の包みを開いて、腹ごしらえを始めた。
これは、家の者には、我慢出来ないような好奇心をそそったに違いない。

とうとう最後にこの老婆の娘であり、
子供達の母親であるとわかる中年の婦人が入って来て、恐れるふうもなく、
自然な態度で、われわれに近づいて来た。
彼女は膝をつき、日本人の普通のやり方で、
頭を地面に下げて、挨拶した。

そして、『自分と夫は留守にしていたが、あなた方が来たことを聞いて、
急いで家に戻って来た、夫もすぐに戻るだろう』といった。

食事が終る頃までにはすっかり暗くなった。
家の戸締りが終ると、われわれは出来るだけ愛想よくしよう、とつとめた。
仲間の一人は紙を折りまげて、いろいろな物の形を作るのが上手だった。

これは日本人の間でもお気に入りの遊びだったが、
彼は家族の誰よりも倍も多く折ることができた。
そこで『夫が夜分に戻って来た』時には、
その主人がわれわれに話したとおり、始めて異国人に会ったのであるが、
家族がまるでずっと前から親密であったかのように、
家の者と楽しげに畳の上に坐っているのを、主人は見たのである。

われわれの決心を見て取って、主人はそれ以上に頑張ろうとはしなかった。
しかし村役人のところへ使いを出したに相違なかった。

われわれは弁当の中に、ビールを二、三本、
ブランディを一本、二本の発泡モーゼル酒を持って来ていた。
このモーゼル酒は、日本人が発泡酒が好きだということを知っていて、
必要な時には、日本人の機嫌を取り結ぶために用意していた。

そして役人がやっきになってわれわれを尋問して、
役人と『同行しなければならない』といっている時に、
かの冷静な仲間は、静かにその場を離れ、飲物の入っている箱を開いて、
外から見えるようにし、それからモーゼル酒を取り出して、茶碗を所望した。

役人は栓の音を聞きつけ、
何か楽しそうなことが始まろうとしているのを見ると、
彼らは他の二人から向きを変えて、畳の上にいる人々方に近づいて来た。
当然の礼儀として、わが仲間は異国の酒を彼らに提供することとなった。
彼らはすっかり酒がまわって、面倒なことをみな解消してしまった。

とうとう別れの時間が来ると、主人は、気持ちのよい蒲団、
すなわち寝具(一種の大きな化粧着で、毛が厚く入っていた)を、
きれいな畳の上に、みなのために、敷いてある、と知らせた。

長火鉢を囲む女性たち F・ベアト写真集より
長火鉢を囲む女性たち F・ベアト写真集より

◆維新期と大変違った新年の祝い方

日本の一年のうちで一番、陽気な季節の一つ――正月、
すなわち新年について、私はまだ話していない。

今では、1864年の正月とは、祝い方が大変違っている。
それは想像出来る限り、一番楽しく祝う祭日の一つだった。
数日前から、たいへんな準備を行った。
金持ちの家、役人の邸宅、商店、最もみじめな貧乏人の家でも、
すっかり掃除して、清められた。

たたみ替えがされ、毎日使うすりへった古い品物――
お鉢、米びつ、種々の台所用具、そのほかたくさんの家庭用品――
を修理し、新しいものと取り替える。

餅という、特別な米菓子を用意する。
すべてのものが「新しいピンのように」きれいにされた。
最上等の着物を用意し、家庭の守り神を掃除して、礼拝し、親友とか、
世話になっている人へ贈物を届けた。
家の外側は、クリスマスの時のキリスト教国の風習と
まったく同じように、飾り立てる。

なかんずく主な勘定を集金したり、支払ったりして、始末をつけた。
こうして人々は新年を十分に楽しもうと、準備した。
去り行く年の最後の三、四日間は、毎晩この正月用の各種の商品を売る出店

――たとえば装飾用の常緑樹や、お飾り、小さなお宮、
すなわち木製の小さな神殿、エビやしだ類、その他いろいろな物を売る店
――で、ごった返していた街路は、正月となると、
つい今しがたの活気にみちた場面とは思えないほど、
新年の昼間は、シーンとして人気がなくなる。

家の戸は閉められ、正月前数日間の骨折りと騒ぎの
うずにまかれて来た人々は、これから先の仕事と娯楽に入る前に、
ゆっくりと休んでいる。

私が、こんなふうに、ひと通り述べて来たことを知るためには、
日本人町を散歩する価値はある。
飾りは、見た目に美しいというばかりでなく、ある明白な意味――
ありふれた興味以上のもの――を持っている。

われわれのクリスマスの飾りは、かつては特殊な意味を持っていたとしても、
今では、特別の祭の季節を表す常緑樹の飾りに過ぎないが、
日本の飾りはそんなものではない。

昔もそうであり、今でもそうだが、家の表玄関の両側には、
松の木と竹を立て、奇妙により合わせたわらなわでそれを結ぶ。
このわらなわにはシメカザリというものが下げてある。
これは主として茹でエビとみかん、干柿、しだの枝、柏の葉、
海草(コブ)で出来ており、そのぜんぶの上に、紙に包んだ炭がのせてある。

松の木と竹は長寿のしるしであり、みかんもそうだ。
エビは元気だが、腰は曲がっても、丈夫で元気な老年をあらわす。
干柿は、スミルナ(トルコの地中海岸にある港)
いちじくと形がよく似ており、同様に甘い。

これは貞潔な結婚生活の甘美さを表徴している。しだはいつまでも緑色だ。
柏の葉は、若葉がつぼみからもえ出すまで、落ちない。
そして炭はさらに永久に安定が続くことを示している。

竹と松を束ねたしんには普通薪の束がある。
そして通常七日目まで、飾りには手をつけられず、
七日目に、神のお供えとしてシメカザリを焼く。

元日、夜が明けるにつれ、家の戸は順次正面からはずされ、
家族の者は盛装して訪問者を待つ。
ある場合には、年始廻りに出かける用意をする。

しかしながら、元旦には、たいして年始廻りをしない。
訪問は一般に二日目にまわされる。
役人たちは家来を連れて、三々五々年始廻りに往来している――

というのは、これは厳しくお上から申し渡されているからだ――
役目を持つある階級の家臣達は、礼装をして、
上役の所に行き、新年の祝賀を述べることになっている。

これは格別面白く、絵のような光景だ。
豪華な絹の服装と、肩の上に面白い翼のようなものをつけた衣は、
この光景に美しさと奇抜さを添えている。

時日がたつにつれて、街路はますます人が混んで来る。――
だが、いつも見られるような、せかせかと不安げな群衆ではない。
それどころか、天気のいい時には、なんと愉快な光景となることだろう!
男の群、女の群、子供の群が、みんなタコをあげたり、羽根をついたりする。
タコの形はいろいろで、大きさも違い、老いも若きも一所懸命あげている。

だが面白くて、愉快なのは羽根つきだ。
六人か八人で一組になって、羽根をつく。みんな一張羅を着ている。
髪は黒く、つややかで、女の場合は、色のついたちりめんのきれとか、
サンゴのこうがいや、鼈甲の櫛をさしている。
みんな、明るくて楽しそうだ。

しばらく羽根をやり取りしたあげく、羽根が地面に落ちると、
しくじった方は罰としてみんなから背中をピシャリとたたかれたり、
時には墨で顔に印をつけられるという有難くない罰を受けねばならない――
こんな時、ドッと笑いがわき起る!

しかし、みんな順々にこれを我慢しなければならなかった。
そこにはただ喜びと陽気があるばかり。
笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、
ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。

彼らは非常に情愛深く、親切な性質で、そういった善良な人達は、
自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても、うれしがる。

この市民達は、確かに外国人に対しても、
不親切な顔をしたり、そんな言葉を投げつけたりしない。
喜んで外国人をもてなし、心から家で歓迎する。
彼らの歓待を受けて、その明るい心や、気前のよさ、
礼儀正さにチャームされなかった人を、私は聞いたことがない。

◆横浜の出初式モース100年前の日本より
横浜の出初式モース100年前の日本より

■以下、『ヤング ジャパン2』より引用

◆維新当時に見た日本の国民性

日本人は、他の性質にもまして、常に一つの特性――せんさく好きで有名だ。
彼らは静かに外国人の家の中に入って来て、
「部屋を見せてもらいたい」と頼む。

これは必ずしも気持のいいことではないが、断る人はめったにいない。
確かに、こんな機会にめぐまれた人々は、見たこと――部屋の大きさ、
優美な家具、輝いた鏡、高価な皿、デラックスな寝室、
すべてにゆきわたっている清潔と心地よさなど――をなんでも報告した。

このようにして、次第に日本の紳士は自宅の中に一室は
西洋式に設備する習慣を作り始めた――立派な畳の上の真ん中に、
みごとな正方形の絨毯や毛布を敷いたり、
絨毯の真ん中に豪華な織物をかけたテーブルをおき、
そのまわりを椅子で囲んだり、障子一枚には少なくともガラス窓をはめ、
時には部屋の壁に絵や鏡をかける。

肉を食べ始め、好きだという者が多くなった。
誰でも、いくらでも、シャンパンを飲み、
このようにして、すっかりお気に召したところを見せた。

だが、まだ公然と洋服を着て、歩く者はなかった。
そんなことをするものは、確かにこっぴどく、やっつけられたろう。
たが間もなく、彼らは心配なく洋服を着た。
なるほど、種々さまざまではあったが、
大なり小なり、前向きの動きが現れた。

もう一つ目に付いたことを話そう。
ヨーロッパの子供がよい肉屋の肉で育っている年になるまで、
日本の子供は、まだ母親の乳を飲んでいるが、
日本の大人は最近まで(現在でも多くの者は)、牛乳を嫌った。

これは度し難い。
外国人がこの国に出現して以来、いく年もたった後になって、
やっとよい牛乳が外国人の日常の需要をみたすようになったにすぎない。

手に入るわずかな牛乳も、
ほとんどみなヨーロッパ人の肉屋の好意で売ってもらうわけで、
その肉屋も、日本のよい牛を数頭飼っていて、
おとくいに供給するために骨を折ったのである。

◆下関戦争以後に起った変化

これまで書いて来たことが、
今からほんの数年前に起ったことだ、とは信じられない。

下関砲撃以来、わずか十五年しかたっていない、
などということがあり得るだろうか。
その戦いに参加した人々は、みなどこにいるだろうか。
その直前のすべての交渉の主役たちは、どこにいるだろうか。

ラザフォード・オールコック卿は、
その後北京駐在の英国公使として、めざましかった。
引退してからも、絶えず世間に顔を出し、
中国や日本に有益な学界とか、なんらかの企画に関係している。

1864年の同僚もまた引退生活に入り、もはやその消息を聞かない。
だが将軍はどうなっているか。
老中は? 長州候と息子は? 七卿は?
教育を受けるためにスコットランドに行った若者達は?
そしてミカドはどうなのか? 浪人はどこに行ったか?
浪人を押さえるために雇われた警備兵達はどこに? 大名もどこに?旗本は?

われわれが危険な階級といい慣わしていた二本差しの家臣らは?
幕府、すなわち将軍の政府はどこに行ったか?
内裏―ミカドの宮廷はどこへ? 
将軍はいない、老中もいない。

長門の老候はおそらく死んだろう、
というのは、噂を、絶えて聞かないからだ。
その息子は、品川郊外の快適な洋館で貴族として住んでいる。
七卿のうち、三条実美は太政大臣、
すなわち総理大臣であり、1868年以来そうである。

スコットランドに行った青年はいずれも、この国の重要な地位についている。
主君に警告するため帰国した二人のうち――
伊藤は内務大臣となり、井上聞多は外務大臣である。

ミカドはもはや単なる主権者ではなく――統治している!
浪人はもういない――彼らと警備者達は、商人の階級か、
その他の産業の勤労者に吸収された。

ごく少数の者が、今でも剣をぶらさげているか、軍務に従事している。
大名は貴族の位を得て、官職を持たない紳士となっている。
旗本ももはや地位も特権もない。ただ信望と能力に応じた地位にいる。

二本差しの人々が、殺人的武器を捨ててから久しくなる。
そして「危険な階級」は、過去の思い出として語られるにすぎない。
幕府はあたかも存在しなかったようだ。

そして京都で世にも珍しく神秘的な奥まった生活をしていた内裏は、
東京の宮廷に移り、その活動と個人的な威光(特に皇后の威光)は、
全国土に祝福を投げている。

これほどの変化が、私がまだ扱わねばならない十五年間に起ったのだ。
これらの変化が、どんなふうに行われたかが、これからの私の主題である。

鹿児島砲撃の結果についてはすでに述べた。
それが、薩摩藩の外国人に対する評価を改善させたことは明らかだ。
同藩はただちに、軍事と貿易の両面にわたって、
外国の機械類を入手する最善の方法に目を向けた。

長州に対する下関戦争の結果は、同藩が内海に入ってくる艦船に対して、
新しい攻撃が出来ないほど無力になったということが、
具体的な事実として、外国人にわかっただけだ。

この事実のほかには、
同藩と外国人の相互認識をもたらしたものはなかったが、
同藩にとって不幸なことに、幕府と紛争を起していたので、
外国艦隊が退去しても、その紛争は終らなかった。

◆パークス卿とキング提督の薩摩候訪問

この訪問に関係の記事は、プリンセス・ローヤル号に乗艦していた一士官が、
横浜に到着した際に、私によこしたものだ。

「1866年7月27日、太陽は晴れた空に輝き、海は穏やかで美しかった。
この日、英艦プリンセス・ローヤル号は、サーペント号とサラミス号を率い、
蒸気をたてて、鹿児島港に入っていった。
海は荒れ、風は激しく、左右の厳然たる砲台から
砲弾の雨が降ったあの時(鹿児島戦争)に、この湾にいた者もいく人かいた。
今ではその砲台は静まっていた、ただ一基の砲台を除いて。
この砲台の砲手は提督旗に礼砲を発する準備をしていた。

鹿児島戦争の時の戦闘のための訪問と、
今回の友好訪問とを、われわれは比較せざるをえなかった。
今回の訪問は、薩摩候松平修理大夫が長崎にいる出向役人を通して、
ハリー・パークス卿に伝えた招待によるものだった。

正午少し過ぎ、堂々たる順序で、三隻の軍艦は、蒸気をたてて港に入った。
碇が下ろされると、町近くの砲台が、十五発の礼砲をゆっくりと、
しかしみごとに間をおいて発した。

プリンセス・ローヤル号も礼砲を返した。
サラミス号に乗艦していたのは、パークス卿夫妻、
ウィリス博士、アプリン大尉であった。
プリンセス・ローヤル号には、シーボルト、ローダー、
T・B・グラバー氏、堀という日本人通訳が乗っていた。

薩摩の首席家老や、その他の役人が乗艦して来て、
日本の紳士に特有の、上品で丁寧な物腰で敬意を表した。
彼らに、これからの行動の意味を説明したあとで、
日本側の旗に対して、二十一発の礼砲が発射された。
また砲台から礼砲が答えた。

この日には、公式訪問はないことになっていたが、
上陸して見物したいと望む士官には、
午後には護衛がつくという準備がされた。

午後四時、ハリー・パークス卿、提督と、
多数の士官が上陸して、町を歩いた。
これまで一人のヨーロッパ人も見たことのない当地の人々が、
数千人も道の両側に並んだ、道の中央は役人によって、
まったく整然と、あけられていた。

非常に清潔で、所によっては、全く絵のように美しい町の中を通ってから、
一行はあるお寺に着いた。
そこには果物、菓子、シャンパン、酒、ビールなどの
もてなしの品が用意してあり、口のかわいた客達に丁重にすすめられた。

翌7月28日若い藩主が立派な屋形船でプリンセス・ローヤル号に来た。
キング提督とその儀仗兵が彼を迎え、
船尾に案内して、十九発の礼砲で歓迎した。

公使と提督の祝辞を受けこたえする間の、
彼のゆったりとした身のこなしは特にすぐれていた。
彼は昨日乗艦して来た人々と新納という高官を従えていた。
新納は、堀と一緒に、イギリス、
及び他のヨーロッパの主要な国をいくつか訪問したことがある。

午後には、公使と提督は多数の人員を率いて、
答礼の訪問をし、藩主と食事をした。
この饗応では、四十種の料理が出た。
イギリスのビール、日本や外国産の酒がつき、五時間も続いた。
午後の間、砲台の一つで、標的射撃の演習が行われ、
時にうまく命中したのが、いくつかあった。

7月30日(月曜日)、藩主と五人の兄弟が標的射撃を見に乗艦して来た。
近衛陸戦隊の砲兵の操作などで、百ポンド砲の一弾は、
八百ヤード離れた大きな標的の内側で爆発した。
同じ大砲からの他の二発と、他の大砲からの二発も同じ標的に命中した。
そのあと、訪問者達は艦上を歩きまわり、興味を持って武器や機械類を調べた。

31日の朝、激しい雷のあらしが通過して、大気を冷やし、
この地方一帯をすがすがしくした。
午後四時、近衛陸戦隊の軽歩兵隊長サンダース大佐の指揮の下に、
百五十名の陸戦隊と二門の野砲が、藩主の居城に近い地点に上陸した。

その地面の準備は巧みに出来ていた。
立派な観覧席が藩主の一家、家老、その他主だった人達のために設けられ、
列席するかも知れない役人達のためにも、別席がその近くに設けられていた。

藩主用の天幕の端には、それぞれ二本の結び目のついた綱がついていたが、
これは、日本の身分の低い生まれ、
かつては猟師の社会にすぎなかったことを象徴するものだった。

まもなく藩主一家が現れた。
その先頭に立ったのは、聡明で毅然とした顔つきの、
かなり背の低い、年配の人物であった。
これが先代藩主の弟で、評判の高い、現藩主の父島津三郎だ。

ハリー御夫妻は、幕僚を連れて、やがて到着し、演習が開始された。
大砲を砲車から降ろす作業が、何よりも藩主の注意をひいたようだ。
また飲食物も用意してあり、所望する者にふるまわれた。
すべては順調に運んだ。

居城のまわりの庭は、狭いが、非常に趣味がよかった。
背後は、小高い丘で、その前面には木陰の多い散歩道が数マイル続いていた。
それは日陰の多い林で、苔が敷物のように蔽い、端にはシダの生えた道、
そしてその近くを、ほとばしり、
泡をたてて流れる澄んだ小川がたえまない音楽をかなでていた。

この小川はやがて下の庭園に入って、素晴らしい小滝となり、
人工の川となり、魚の遊ぶ池を作り、
最後に、庭園の境界のすぐ外の稲田の水車をまわして、美観に加えて、
実用をもそなえていた居城の敷地に隣接して、鋳造所がある。

――極めて興味深い場所だ。
ここで日本人は、ヨーロッパ人の助けを借りないで、大砲、弾丸、
薬莢を鋳造し、蒸気で回転する旋盤を動かしている。
その構内を横切っていくと、ガラス工場がある。

そして日本人があらゆる種類の瓶や、
ガラス装飾品を吹いたり、切断していた。
そのいくつかは、かなりの技巧を要するものだ。

確かに、この人達のなかには、将来工業界において大をなす萌芽があるし、
またその作品の多くは、
今でも、国際展示会において、注目に値するであろう。
この訪問者達に対して、藩主一家のみならず、
人民の示したねんごろな感情にまさるものはないであろう」。

下関前田砲台を占拠したイギリス軍F・ベアト写真集より
下関前田砲台を占拠したイギリス軍F・ベアト写真集より

◆維新前の宇和島から富士登山

「1866年8月2日(木曜日)薩摩藩主の二番目の弟が乗艦してきて、
写真を撮ってもらった。
午後には、プリンセス・ローヤル号は、
十五発の礼砲を受けて、鹿児島を去った。

ついで航路を宇和島にとった。
提督は、その港で、ハリー・パークス卿と落ち合うつもりであった。
(伊達)遠江守が特に彼らを招待していた。
宇和島は、海図では間違ってクガマと記入されていたが、
ここには、速くて愉快な航海の後到着した。

二人の利口な日本人水先案内が、
すぐわれわれを港内へ向う水路に案内してくれた。
この土地については、乗艦者はみんな、大きな興味を見せていた。
この予期は失望に終らなかった。

長崎の美しい港を見て喜んだ者ならば、
宇和島もある程度想像がつくというものだ。
というのは、四方八方にそそり立つ険しい緑の丘と、
港内に碇を下ろす船が安全だという点で、この二つの港は非常に似ている。

しかし宇和島の方が、ところどころ、小川があったり、
入江になっていて、長崎よりも変化に富んでいる。
蒸気をたいて入りながら、われわれはみな、この美しさを喜んだ。
町と居城が高い連山の下に見え隠れしている側では、特にそうであった。

8月4日(土曜日)、午後五時、われわれは碇を下ろした。
伊達遠江守の家臣が乗艦して来た。
翌日には、藩主とその兄が六人ほどの家来を連れて、
公式訪問ではなく、おしのびで来た。

この兄は前の藩主だったが、将軍に反対した結果、
弟のために辞職するように命ぜられたことを説明しておく必要がある。
しかしながら彼が実権を握る人物で、弟の同意を得ていることは明らかだ。

この日彼らは艦上で七時間ばかり過ごした、
彼らは大変興味を持ち、帰るのを残念がるほどだった。
この人達が、単に日本の学問に通暁しているばかりでなく
外国の学問にも通じていると知って、われわれはいくぶん驚いた。
例えば、ウォーターローの戦いといった話題で、話が出来たのである。

8月7日(火曜日)、三十人ばかりの日本の婦人達が軍艦を訪問した。
見たところ彼女達はすこぶる喜んでいたようだ。

同日午後四時、陸戦隊は上陸して、大名の前で閲兵をした。
この演習が終ると、われわれは、約四十名の藩士達が訓練をするのを見たが、
その訓練の正確さと規律正しさは、実に驚くべきものであった。

銃剣術はかなり薩摩の者を驚かせたが、
ここの者達は、わが陸戦隊員と同じくらい上手にやった。

最も興味深い光景の一つは、
パークス卿夫妻のために開かれた宴会で、提督と士官数人が列席した。
いっさいが日本式に行われた。
これに妙味を加えたことは、藩主の娘や貴婦人が紹介されたことだ。

午後のうちに、二人の藩主の父が入って来た。
一人の婦人が彼の大刀を彼の前に持って来た。
彼はウィリスとトムズの両医師に、自分の病気を診て欲しいと頼んだ。

二人は、老年であることが病の原因だと診断した。
彼は七十五歳くらいであった。

夜に入ると、みごとな日本の剣道やら、音楽、歌、舞いがあった。
余興はすべて、物珍しく、楽しかった。

居城を出ると、長い行列をした人々がたくさんのあかりを持っていて、
われわれをボートまで案内するようになっていた。
これは実に絵のような効果をあげていた。

遠江候が、われわれに友情と歓待の気持を示そうとしていることは、
極めて明らかであった。そして彼は藩民に熱烈に支持されていた。
この人々は、われわれが通りを通っていく時、果物や菓子を差し出した。
11日(土曜日)、軍艦は宇和島をたって横浜へ向った」。

◆富士登山

日本の類まれな山、富士山の外国人の登山は、
今ではごくありふれたことで、ほとんど話すほどのこともない。
ラザフォード・オールコック卿は、女王の代理として、
国内旅行の権利を行使して、1860年に富士山を訪れた。

しかしそれ以来六年の期間中に、
登山の許可を得ようとする試みは、成功しなかった。
試みたとしても、おそらく許可されなかったろうし、
この六年間は、あまりにも危険だったろう。

しかし、今はそうではない。8月20日、ヨーロッパ人の一団が登山し、
頂上の小屋で一夜を過ごした。一行はちょうど八日間横浜を留守にした。
もちろん、かなりの条約圏外の旅行であった。
帰って来ると、自分達の旅行と、
あらゆる階級の日本人が親切で礼儀正しかったことを、
非常にほめそやして話した。

そしてこの事件は、日本人と外国人の関係を改善するものだ、
とほのめかした。
というのは、今度の場合、幕府の許可を申請した時、
なんら異議を示さなかったからだ。
これに反して、ラザフォード・オールコック卿が
富士山を訪れようとした時には、
卿に権利があるにもかかわらず、相当な反対が唱えられていた。

◆ナポレオン帝政の影響

ド・ヌムール公爵の息子でダランソン公爵がこの時期に日本を訪問し、
江戸の英国公使館で、パークス卿の客となった。
オルレアン家の人であったため、私的な場合を除いては、
彼はフランス公使から接待を受けなかった。

注:フランスは当時ナポレオン三世の帝政であるため、
ブルボン王家の一族であるオルレアン家を冷遇していた。

横浜の茶屋F・ベアト写真集より
横浜の茶屋F・ベアト写真集より

◆一橋(慶喜)は将軍職を受けたがらなかった

一橋は主権を握ることを固辞した。
誰も、彼以上に、はっきりと自分が遭遇しなければならない難局を
見通してはいなかった。
そこで彼はミカドに対して、
「将軍職を免じるか、さもなければ、全面的な信頼を与える、
いつでも自由に会見する、さらに内政同様、
外国人との条約維持についても自分を支持する、
また職務に忠実でなかったり、無視したりするという馬鹿げた報告が
ミカドのもとに届くかもしれないが、それに耳を貸さない」
ことなどを懇請した。

彼はさらに、
「征長戦は、有利な結果にはならないようだし、
おそらくは同様の政策へ他の大名の心をかりたてる傾向にあるから、
これを中止すべきだ」
と提議した。
ミカドは、
「すべて一橋の望むままにし、彼を全面的に支持しよう」
と約束した。

しかし諸大名からの猛反対が懸念された。
最近まで、一橋と薩摩は非常に仲が良く、
ともにこの国で改革を行いたいと望んでいる、という話だった。

こういう二人の人物が、この目的のために一緒に働けば、
かならず良い方に大影響があるというのが、一般の意見だった。

ところが、しばらく後で、一橋は、薩摩が目指しているのは、
単に政治改革ばかりでなく、将軍家の交替であることに気がついた。

かくて、両者の間は冷たくなった。

しかし、薩摩はまだ数ある大名のうちの一人にすぎなかった。
一橋は、数人の大名が最近の数年間取って来たやり方を続けたのでは、
政治をうまく運ぶことが出来ないことを、よく知っていた。

そこで大名会議が大坂で開かれた。
この会議には、最も重要で、有力な大名の多数が出席した。
島津三郎も含まれていて(松平大隈守という新しい称号で)、
薩摩代表として出席した。新将軍も出席し、自ら議事を始めた。

将軍は始めに
「自分が選ばれ、信任された職を受諾するのはいやだ」と素直に述べた。

また、「この地位は諸侯の積極的な協力がなければ、守ることが出来ない。
公然とした敵意と不満の徴候が現れたならば、
ただちにこの職を捨てるに躊躇しない」と。

同時に、自分を支持するために、どんな手段を諸侯に求めているか、
ということを知らせるために、彼は次のことを明らかにした。
すなわち、
「将軍として、自分は、正統であり、また責任のある幕府の統治者としての
自分に対し、諸侯の助力と忠誠を期待する、さらにその意見を自分に
聞かせたい時にはいつでも、ミカドに次いで国家の元首であり、
徳川家創設者の権現様の正統に選ばれ、承認された後継者に対するもの
として、尊重出来る、礼儀にかなった手続きをふんで、知らせてもらいたい」
と。

長州問題に関しては、出来るだけ早く、
自分の権限内での出来る限りの条件で、解決したいというのが、
彼の意向であった。

これは後には、日本の軍事力の全部を、
一つの有効な正規軍に統合しようという目的があってのことだ。
外国条約については、前任者達が合法的で、熟慮したのちに締結したもの、
と彼は考えていた。

したがって日本人が外国人と同様に、
条約上の義務を喜んで実行する決心であることを、
外国人に対して明かにする義務を、
彼は自分自身が、またひろく国全体が負うものと考えた。

◆一橋は同情に値する

この会合から、最良の結果が予想された。
この後に起ったすべての事件をわれわれが回顧する時、
われわれは一橋に対して強い同情を禁じえない。
彼が、水戸候の愛息であったことが思い出されよう。

水戸候は外国人との交際に最大の敵意を示していたし、
幕府反対派のもっとも積極的な発頭人であった。
実際に彼は一橋候の世嗣として、養子となっていたが、
極めて過激な意見を持つ大名の実子なので、
彼が人生に乗り出した時には、同じ意見を持っていた、
と考えられるかもしれない。

今日、時として、彼は遅鈍であり、後には臆病でさえあった、
という不利な申し立てを受けている。
しかし私が今述べたように、「必要な支持が得られなければ、辞任する」と、
彼ははっきり述べていた。

もともと彼は消極的でも、臆病でもなかったことは、
彼が、他の者全部の中から、若い将軍(家定)の後見役に
選ばれたという事実から推測できよう。

この地位にあって、条約締結が正しかろうと間違っていようと、
また将軍家定、もしくはその代理の大老に条約を結ぶ権限が
合法的にあろうとなかろうと、その行為は実行されたのであり、
条約は守られねばならないという、
この正しい事実を、彼がただちに認識したことは明白である。

われわれは、条約勅許を得るにあたって、
彼がいかに卓越した役割を果したかを見て来た。
最後まで、日本に課された協定に対して、彼は極めて誠実であった。
現(明治)政府がしたといわれている改革を、彼は創始した。
そして政府を現在の形にすることに、どんな利点があるにせよ――
明らかに利点は多い――彼はそれを予想し、
「漸次それを遂行したい」という希望を明らかにしていた。

もし彼が望むとおりに活動することが出来たならば、
後に起ったような革命の惨禍や、度重なる内乱の勃発もなく、
これまでなし遂げて来た程度の急速の進歩を、
日本が行ったことであったろうというのが、私の確信である。

薩摩藩の武士たちF・ベアト写真集より
薩摩藩の武士たちF・ベアト写真集より

◆将軍自身が日本人と外国人の楽しい交際を始めた人

5月2日(1867)、パークス卿とその随員は、
将軍との私的な会見を許された。
会見の終わりに、騎馬護衛隊は将軍の前で、分列式を行い、
アプリン大尉の指揮で、演習を見せた、これは将軍を大層喜ばせたようだ。

ついで英国公使と随員は、大晩餐の用意された部屋に案内された。
晩餐はフランス風の料理で提供され、
皿やグラスはすべて最高のヨーロッパ製品であった。
将軍自身が主人役をつとめた。彼が上座につき、右手にパークス卿が坐った。

食事の後、デザートがテーブルに出され、将軍は英国の女王と、
ついで公使の健康のために乾杯を提案した。
この二つの乾杯に対して、パークス卿が答礼の乾杯をした。
一行が席を立つと、別棟に会場を移し、コーヒーが供された。
将軍の役人が、将軍の贈物を持って来た。

翌日は、オランダ公使が、将軍と私的会見を行った。
あらゆる点で、英国公使の場合と同様だった。
数日後、米国公使が到着すると、彼も同じように招かれた。
最後にレオン・ロッシュ閣下が将軍の歓待を受けた――
その際には、ゲリエール号の軍楽隊が参列した。

私的会見の数日後に、同じ順序で、公式の会見が行われた。
公式会見では、日本側役人は殿中の正装で出席した――
床の上に長く、後方に引きずる長袴、上衣には、
着用者自身と将軍の紋が前側に刺繍してあった。

頭には、奇妙な小さい黒い帽子をかぶっていた。
公使団が城に着くと、外国事務総裁に迎えられ、将軍の前に導かれた。
一行は将軍にうやうやしく頭を下げて、一言、二言挨拶した。

これに対して、将軍は起立して挨拶を受け、適切な言葉で答礼した。
ついで一行は、老中筆頭の板倉伊賀守によって別室へ案内され、
将軍家の紋を縫い取りした豪華な殿中用装束を贈られた。

将軍は、前側に朱色で紋を縫い取りした袖のついている
非常に豪華な白絹の召物を着けていた――
そして幅の広い袴をはき、小さい黒帽子をかぶり、
腰にはみごとな刀を差し、もう一本は脇の刀架にかけてあった。

私的会見の際には、部屋はすべてヨーロッパの一流の
ぜいたく品で飾ってあった。
床には、豪華なブラッセル絨毯を敷き、
壁には、花鳥の描かれている金箔紙が張ってあった。

公式会見では、一切が日本ふうであった。床には、たたみが敷いてあった。
天井には、紋章や花などが美しく彫刻されたり、飾りがほどこしてあった。
これらもまた堂々としていた。

「将軍は中背で、気持ちのよい、非常に知的な顔をしていた。
眼はよく輝き、声は非常にやさしかった。
物腰には屈託がなく洗練されていた。
彼がヨーロッパふうの晩餐の席についたのは、今回が始めてであった。

将軍家の紋章を着用しない日本人は、
誰も将軍の前に出ることは許されないので、
すべての段取りや給仕は、側近が取りしきらねばならなかった。

公使団は、公式と私的の両会見のどれにも、大いに満足した。
滞在期間は主として老中との間の協議に費やされた。
英国公使の護衛として同行した第九連帯の四十名は、
将軍の前で銃剣術その他の訓練を行った。
フランス陸戦隊もまた、将軍の前で訓練を行い、
将軍は大いに満足の意を示した。

英国測量船サーペント号のサットン氏は、
将軍をモデルに写真を撮る光栄を与えられ、実にすばらしい撮影をした。
この写真は小さなものである。
というのは不幸なことに大きなレンズや化学薬品をのせたボートが転覆し、
なくなってしまったからである。

公使団の大坂滞在中、一行の夕食、朝食は将軍の費用で、
フランス人料理人の監督のもとに提供された。
あらゆるぜいたく品が供された。

一言でいえば、一切のことが、出来る限り気前よく、運ばれた。
会見の時には、各公使館から城までの全行程(約二マイル)の町の両側に、
エンフィールド銃で武装した部隊が並び、各公使が通る時、捧げ銃をした。
城内の庭や廊下にも、軍隊が並んでいた。

この記事を読めば、現在、日本高官と外国人との気持のよい交際が、
ほかならぬ将軍自身によって始められたことがわかるであろう。
私は、このことを特に読者に強調したい。

この理由は容易におわかりいただけるだろう。
つまり、事実を知らないで、現制度(明治政府)が創始したと思い込んで、
今日の進歩を賞めるだけで、
旧制度の支配者の悪口を言う人達の誤った考えを訂正したいのである。

私はこの意見を常に主張していたし、今でも持っているが、
もし一橋が思う通りに計画を遂行することが出来たとすれば、
今日までに、今われわれが見ていると
全く同じ大進歩が見られたことであろう。

そして、その進歩は、今のよりも健全で、確実なものであったろう。
血なまぐさい革命もなかったろうし、
ミカドは全権力を回復していたであろう。
このことは、すでに慶喜の計画の一部として、報じられていた。
今よりずっと前に、衆議院も開かれていただろう。

そしてこの国は、1868年(明治元年)の内乱と台湾征討に
費やした莫大な費用を課せられることもなかったろうから、
これまで経験し、現在も経験中で、
しかも今後も増加してゆくあらゆる財政難も起らなかったであろう。
佐賀の乱も西南の役もなかったはずだ。

◆ヘボンの『和英語林集成』

「宣教師は外国交際の害毒となっている」と、
常にある人々は強調してきたし、たぶん今後もそう主張し続けるだろう。
その主張とはこうだ、
「中国人と日本人とが外国人に示している憎しみは、
すべては宣教師に対する嫌悪に由来している。
したがって外国人と日本人の間に友情を拡める最善策は、
宣教師を一人残らず、どんな名目でもよいから、
船に乗せて送り帰してしまい、日本人の宗教に干渉しないことだ」と。

幸に、これはすべての人の意見ではないし、多数の意見でもないと思う。
これは、極めて誤った意見だ、と私は確信する。

宣教師が有益であるか、どうかという一般問題に立ち入るつもりはない。
教団内の個人個人の宣教師が、
日本人の間で果した善事については、多くの実例が挙げられやすい。

だが、若干の宣教師の労苦が、中国と日本の双方において、
信者以外の同胞に与えた恩恵まで、疑う人はあるまい。

神奈川が開港すると、
真っ先に日本に来た人々の中に、家族連れの二人の宣教師がいた。
S・R・ブラウン氏とヘボン博士だ。

二人は神奈川で、アメリカ領事館からほど遠からぬ寺を住居とし、
数年間ずっと住んでいた。
二人とも長い間中国で主(キリスト)の教えのために働いていた。
ブラウン氏は、その間弟子を持ったが、
そのうちの数人は今、中国を西洋文明の方向へ進ませるのに、
非常に熱心な働き手となっている。
ヘボン博士は医者で宣教師だった。
その奉仕は、特に価値のある部類のものだ。

というのは、その医術はすぐれており、
苦しんでいる多くの長い病気の患者を救うことが出来るという理由から、
他の者には出来ないことまで許されていたからだ。

◆ブラウンの『日英対話』

二人とも日本に来た時、有利なことに、中国語に通じていた。
二人は早速この利点を活用した。これは大いに日本語の学習に役立った。
1863年という早い時期に、ブラウン氏(今は博士)は、
日本語会話の文法書を出版した。

この本は、日本語で正確に日本人と話すことを
学ぼうとする多くの外国人に、非常に役立った。
日本語には、特有の難しさが多い。文章の言葉と会話の差異が大きい。

紳士の言葉と、私が「俗語」と呼んでいる言葉
(これは庶民の言葉という意味だが)とは、これまた相違が著しい。
男と女とは、別々の言葉を使う。

だから、日本語を少しでも知っている者なら誰でも、
話し手が日本語を女の言葉から学んだか、それとも召使いからか、
紳士からか、あるいは大げさな古典学者の会話から学んだかを、
すぐに簡単にいい当てることが出来る。

外国人の中にはわずか、ごくわずかではあるが、日本人同様に自然に、
こうした別々の話し方を全部使い分ける者がいる。

だが、一番日常の用事に役立たせにくいのは、最後にあげた、
あの高尚で非常に正確ではあるが、無学の者には、
ほとんど理解出来ない古典的な日本語だ。

ブラウン博士の本は、もっぱら会話体を取り扱い、
したがって非常に実用的なものとして評価された。

◆ヘボンの『和英語林集成』

ところが、1867年の夏、ヘボン博士が一冊の本を著した。
それは、来日以来、注意深く研究心を集中して来たもので、
日本人にとっても、外国人にとっても、
これ以上に有益なものはないほどの仕事だった。

『ヘボン辞書』(『和英語林集成』)は、
日本語を、ローマ字と片仮名と漢字で記していたので、
日本語を学ぼうとする外国人にも、英語を学ぼうとする日本人にも、
最大の助けとなった。さらにその両方の学習者を増すことにもなった。

この本の編集にあたって、
もちろんヘボン博士は有能な一日本人の助けを借りた。
本書の売行きが、一番楽観的な予想をも、たちまち実現してしまった、
ということを聞くのは、喜ばしいことだ。
今日にいたるまで、これほど包括的な本が出版されたことはない。

もしアメリカが、日本に関して行ったことで、
「信頼に値する」と主張するものがあるとすれば、
ペリー、またはハリスがそれぞれの条約を結ぶために果した仕事ではない。

この条約は、もっぱら日本の支配者の恐怖心を利用して、
かちとったことは、すでに述べたところだ。
そしてこの事実は、二人から一切の光輝を取り去っている。

だが「是非とも」というのであれば、アメリカの光栄は、
国民の一人ヘボンが、誰にも増して日本人に知識の門戸を開き、
そして遠い国から日本へ来た人々に日本語を修得しやすくした、
という事実に認められよう。

◆維新の将軍慶喜に仕えた小姓

殿中における一橋(徳川慶喜)の日常生活を一瞥することは、
すべての読者に、特に興味のあることであろう。

以下は、将軍の就任時から大坂退去に至るまでの間、
小姓として勤めた一紳士が、私に書いてくれた一文だ。
これは数年前、雑誌『ファー・イースト』にも載せたが、
もう一度掲載する価値が十分あろう。

◆彼の登城、家茂の親切

私は1853年(嘉永六年)越前の国の福井市の近くの村に生れた。
父は同藩のサムライ、剣術の指南役として有名であり、
この道では、私も幼少から、かなり上達していた。

十歳で、私はある人の養子となり、京都に連れていかれた。
その人は将軍家に勤めていた。

家茂が京都に来た時、私の養父に、時折私を遊びに、
城内に連れて来るように命じた。これが私の城中へのお目見えでした。
私は将軍の小姓役を命じられたことはなかったが、
しばらくの間、その役を勤めた。

家茂の死去から幕府の崩壊までの期間に、
私は外国人読者にとって、多分興味深いと思われる多くのことを見聞した。

家茂が、1858年(安政五年)に前将軍の死後、
将軍職に任ぜられた時、まだほんの青年だった。
前将軍は、ペリー提督のもたらした米国大統領の親書を受け取ったのち、
間もなく死去した。

家茂は御三家の一つ、紀州候の子息であった。
御三家とは、水戸、尾張、紀伊という将軍家の一族で、
この三家だけから、将軍が選ばれる。

家茂は、ミカドの妹で、
非常に可愛らしい和宮(年は彼とほぼ同じ)と結婚した。
私が始めて将軍にお目にかかったのは、1866年(慶応二年)だった。
私の養父は御側御用人、すなわち、小姓の頭であった。

これは、城内の全部署を監督すると同時に、
将軍の身のまわりの世話や御老中の文書を
すべて将軍に伝える役を含んだ職務であって、重要な仕事だった。

当時はまた、全大名が毎年一定期間江戸居住を強制されていて、
彼らが江戸に着くと、登城して将軍に祝賀の言葉を述べ、
例外なく国許から持参した贈物を献上することになっていた。

この身分の高い来客の案内をするのが、
養父の仕事であって、もちろん非常に重く見られていた。
私は江戸には行ったことはない。
私が始めて京都の城――有名な二条城――に連れて行かれたのは、
将軍が上京した時だった。

私が登城したのは、将軍が、『会ってみたいから、連れて来るように』と、
養父に命じた結果だった。
当時十三歳位だった私は、大奥に通じる勝手口から入れられた。
登城した時に経験した最初の感動を、決して私は忘れない。
私は大勢の、若くて美しい侍女に出迎えられ、
大奥にある御前に連れて行かれた。当時和宮は到着していなかった。

家茂は少しも勿体ぶったところがなく、
豪華なぬいとりのある絹蒲団に坐っていた。
そのお部屋は、すべての他の部屋と同様に、家具は大してなかったが、
子供の私の目には、すべてのものが富と権威として見えた。

将軍は驚くほど穏やかで親切だったし、
私を大層丁寧に扱って下さったので、私は命を捧げて仕え、
決してお傍を離れまいと思ったほどだった。

将軍は親しく私に話しかけ、私に満足したようだった。
というのは、「好きな時に城中に来て、余と遊ぶように」といい、
父にそのようにお命じになったからだ。このお招きは命令と考えられた。
従わなければ、無礼であり、無作法となったであろう。
私は何度も登城したが、いつでも将軍に会えたわけではない。

例外なく、大奥で迎えられ、日本の慣習にしたがって、
茶菓のもてなしを受けたが、将軍の御前では、そうではなかった。

しばらくののち、家茂は長州藩との紛争のために同地へ赴かれた。
将軍は安芸の国へ向って出発し、
私は京都に残ったので、二度と将軍に会えなかった。

というのは将軍は途中で病気になり、
大坂に進み、そこで亡くなったからである。
死ぬ前に、私は京都を離れ、江戸へ向った。

江戸では、実父と兄弟が大層私に会いたがっていた。
数カ月滞在したのち、私は京都に戻り、養父から将軍慶喜に紹介された。
公は、外国人には一橋という名の方がよく知られており、
日本人には「ケイキ」として有名であった。

当時は、私は将軍についても、
または将軍に話しかける時でも、名前をお呼びしなかった。
もっとも普通に使われた言葉は「御前」であって、
食物を意味する同じ言葉「御膳」とまったく同じ発音である。

この時から、前将軍の住む二条城から
四丁ばかり離れた若狭屋敷という御殿に、私はよく伺った。
いよいよ私は、将軍の小姓の任務を教え込まれたが、
正式に任命されたのではなく、
実際に城内に自分の部署を持ったわけでもなかった。

私の任務は、将軍の、また将軍からの伝言をすべて伝えること、
お茶(お茶は必須の作法だが、熟練の域に達する者はほとんどない)
をたてて、差上げることであって、
一般に五十人の小姓と交替で、勤仕することだった。

私が始めて将軍にお目通りの光栄に浴した時は、
私と同年輩の友人が一緒だった。
私は以前と同様に、大奥に連れて行かれた、そこには将軍が坐っていた。

驚いたことに、また喜んだことには、
将軍はお手ずから、私に酒をついでくれた。
十人ばかりの侍女が同席していたが、他の侍女はめいめいの室にいた。
みんな美しく上品な顔をしており、
二条城以外で、私がこれまでに見た婦人とは、違っていた。

私が立ち去ろうとした時、御前は私に、
「大きな漢字で詩の一節を書いてみよ」と仰せられた。
侍女の一人がしとやかに硯や筆などを持って来て、私に渡した。
私は五、六節したためた。

しかし、御前はすぐに私の帰宅を許さず、
気晴らしのために使う小舟のある池へ、みずから連れて行って下さった。
しばらくの間、御前は舟を漕いだ。
また網で魚をとり、網の投げ方を教えてくれた。
そのあとで彼は、一羽の鷹が空に美しい輪を描いているのを見て、
短銃を取り、発砲して殺した。

これを見て、私は、将軍が射撃に非凡な腕を持っているという噂が、
本当であることを知った。
その後将軍が射撃するのをしばしば見たが、
滅多に的をはずしたことはなかった。

将軍は非常に親切だったので、その善良を強調したいと思う。
私が辞去する前に、将軍は私に外国のオルゴールと数枚の洋紙――
当時日本人の間では比較的珍しかった――と鉄砲、射止めた鷹を下さった。
文字どおり、私は将軍の恩を身に受けて帰宅した。
これが私の慶喜様についての最初の体験だった。

帰宅すると、養父は、私が非常に光栄に浴したことを知って、
非常に喜び、のちのちまで長い間、語り草となった。
その後しばしば御殿に出向き、いつも将軍から、同じように厚遇され、
侍女や、その他御殿のすべての人からも厚遇を受けた。

この頃は、私にとって平穏な日々だった。
私は、すぐれた漢学者から教えを受け、
上達と勤勉を賞められるのが好きだった。
私はこの首都で、美しさと古さと、
歴史的な由緒で有名なものはすべて見に行き、
人生は全く晴天であるかのように見えた。

特にその頃を振り返ってみる時、輝く広い光の道がこの時期を照らしていて、
そのために、それ以前のものも、それ以後のものも、
すべて一層暗い闇に投げ込んでしまう、と思われた。
養父は限りなく愛してくれ、私の未来は、輝かしく、幸福な生涯となると、
定まっているように思われたが、永久には続かず、
これについては、説明する機会が別にあるであろう。

登城する回数が多くなるにつれて、自分が次第に、
ほとんど無意識のうちに、小姓役をつとめていることがわかった。
この職務がどんなか、日本の慣習を知らない人間に説明することは、難しい。

だが、殿中における日常生活について述べれば、わかりやすいであろう。
将軍は概して、朝八時頃起き、すぐ身づくろいをする。
小姓の一人が毎日将軍の髪を結う。
将軍の髪を結ぶ元結は、もちろん毎朝新しいもので、
どんなものでも、二度と身につけることはなかった。

はっきりと理解していただきたいことは、私のいっているのは、
将軍の下着だけが新しいのではなく、衣服のあらゆる部分――
主として最上の絹でした――が新しかったということだ。

むろん将軍の寝所は大奥にあった。
身づくろいがすむと、簡単な朝食。七膳か八膳が、将軍の前に置かれ、
各膳には、魚とか、薬味が盛ってあった。
全国各地から届けられるあらゆる種類の食物が盛られ、
通例将軍は朝食を一人でとった。

不幸なことに、正妻は京都にはいなくて、
将軍が家茂に従って南下した時は、江戸に残っていた。
十時に将軍は表御殿に行かれ、御老中に会い、政務を執る。
午後には、小姓室に行って遊んだ。
将軍は馬術にすぐれていると同様に、巧みなスポーツマンで、
次の二、三時間は、スポーツや馬術に熱中した。
鉄砲射撃と同様に、弓術を好み、第一級の鷹匠でもあった。

午後三時か四時頃大奥に帰り、夜まで休息する。
暖かい気候の時には、気楽にくつろいでいる間、侍女が扇であおぐ。
六時頃夕食。この食事に並べられる食物は、
実に豊富で、素晴らしい盛り付けであった。

ここで慶喜様が、日本の貴族の間に、外国の慣習と同様に、
外国の食物を紹介した最初の人だ、ということを話しておいてもよかろう。
将軍は一人で食事をとり、侍女がかしずくが、
その数は時には二十人か、それ以上になる。

夕食は普通十時か十一時まで続き、そのあと、まもなくお寝みになる。
頻繁ではないが、ときどき将軍は音楽を楽しんだ。
しかし、三味線は、つまらない下品なものと思われていたので、
殿中では、弾くことを許されなかった。
琴やその他の多くの楽器が使われた。
楽器の二、三は、外国人は日本人ほどには評価していないと思う。

しかし、大部分の日本人は、外国の楽隊について、
外国人が日本音楽について考えると同様のことを考えていた。
すなわち外国人の音楽は騒々しい雑音だ、と。この意見に私は賛成ではない。
毎日の殿中の生活は、こんなものでした。

以上の話から、殿中に行った時の私の勤務が、
かなりよくおわかりになったことであろう。

私は、丈夫な身体ではないが、幼い時から父に剣術を教えられていた。
それで、剣術では、相手として人から軽蔑されることは決してなかった。
また槍と弓術の使い手だったが、特に所望されないかぎり、
殿中では自分の力量を見せたことはなかった。

将軍の一番のお気に入りの競技で、
また非常にすぐれていたのが打球(馬上ホッケー)で、
小姓達に競技に加わるように命じるのが常だった。
また時には、一緒に射撃をするように命じることもあったが、
これは、めったになかった。
私は馬術では上達していなかったが、
少しは心得があり、これは将軍が教えて下さった。

以上が殿中における表面の生活だったが、
私どもはみな、主人の心に重荷がかかっていることを知っていた。
この重荷に堪えるには、毅然とした人物が必要だった。

私どもは始終、将軍の傍にいたが、
幕府内部で起っている事柄を聞くことはなかった。
将軍が普段よりも落ち着かなく見える時もあったが、
概してもの静かで、無口だった。

今となっては、将軍の生活が幸福だったというわけには
ゆかなかったと思う。というのは、友人がいなかったからだ。
大名でも、将軍とははかり知れないほど、
身分の低い者と見なされていたので、彼らと交際することは不可能だった。

将軍の前に出る大名は、床まで頭をすりつけて、
会見の間中この姿勢でいなければならなかった。
したがって、将軍との食事に招かれることはなかった。
将軍が大名や他の人と会うのは、
厳密に政治に限られていて、それも作法ずくめだった。

大坂と兵庫を外国人に開港する時期が迫って来た頃の京都の興奮状態を、
私はよく覚えている。
当時十五歳にすぎなかったが、それでも、私の外国人に対する偏見が、
他の日本人同様に、強かったことを十分覚えている。

将軍が、外国人について何かいわれるのを聞いたことはなかった。
しかし、大坂で仏国公使が将軍を訪れ、
公使は、贈物として徳川家の紋入りの刀を授けられ、
早速それを革帯にさして、城を辞去した時、私はお傍にいた。

一隻の英国の軍艦から一人の写真師が、
将軍の肖像を写すために招かれた時にも、お傍にいた。

光栄にも、私は養父と一緒に、その写真を一枚いただいた。
今でもそれを持っている。
英国公使接見の時のことを覚えてはいるが、同席はしていなかったと思う。

1867年の終わり頃、私どもみんなが、
諸港の開港日を待ち受けていた時に、
事態は極めて注目すべき様相を取り始めた。

使者が絶えず城中に出入りし、
諸侯とか家老に対する接見は時間を選ばず、行われた。
事態が危険な形をとっていたことはわかっていたが、
しかしそれでも、将軍の支配を覆す陰謀がありえよう、とは思わなかった。

これは、将軍がなんの心配も示していなかった、ということではない。
というのは、将軍はたしかに一再ならず、
自分が抱いている苦しい疑惑を示していたから。
だが、将軍が実際に力による滅亡を感知していたと思うことはできない。
それらの事件を回顧し、私の周囲の動向について、
当時よりももっと多くのことを今知ってみると、
将軍自身がこれまでの変局を導き出した機関となったとしても、
将軍は残念に感じていなかったろう、と思う。

しかし、正直のところ、当時は事態について、私はあまり考えてみなかった。
開戦前の二、三日間の京都は、非常に異常な静けさがみなぎっていた。
すべての人々は、大戦闘が切迫しているのを予想して、
家を締め、商売をしようとしなかった。

1868年1月に、慶喜は、自分の居所にしていた
京都の二条城をひそかに離れて、大坂へ下った。
馬に乗り、同様にわずかの騎馬の従者を率いて立ち去った。
翌朝早く、無事に大坂城に着き、今後の最善策について、幕臣会議を開いた。

ある人は、『将軍は大権をミカドに返還すべし』と主張し
(私の思うところでは、将軍は先にそうしたが、
ミカドが将軍の辞意を承認しなかった)、
他の人は、『将軍に忠誠を尽す多数の藩の首長として、
反旗をひるがえす藩と戦うべきだ』と忠告した。

薩、長、土の三藩が離反者の首領だった。
薩摩の野心こそ、将軍に対して、
はなはだ強力に反抗させたものであることを、私でも知っていた。
将軍が大坂に来て何日もたたないうちに、
京都に帰るように、という勅命を受けた。
そこで強力な大軍を率いて、帰京する準備がととのえられた。
先陣は出発したが、全軍が大阪城を出発するまでには四日かかり、
将軍は最後の部隊と同行する予定だった。

先陣が伏見に着くと、三藩の前衛部隊とぶつかり、
敵は先陣が町を通過するのを妨害した。
交渉が行われている最中に、すさまじい小銃の一斉射撃が聞え、
両側の竹林から弾丸が雨あられと飛んで来た。
これが内乱の始まりだった。この日多くの死傷者が出た。

戦闘の知らせは、たちまちひろがり、もちろん将軍の耳にも入った。
この日、御前は、後になって官軍と知られる側に
加わっていた主な一大名の家老に謁見を許した。

この家老は、将軍に毅然とした態度を取るように促し、
そうすれば、刀一本たりとも、将軍に向って抜かせないと保証した。
突然、使者が駆け込んで来て、
伏見の戦闘が始まったことを告げた、ただちに混乱状態が起った。

戦闘は三藩に有利だった。その最中に、極めて嘆かわしい裏切りが起った。
伏見に布陣していた津藩が敵方に投じて、友軍に刃向かって来た。
この大名の偉大な祖先は、家康の最も忠実な部下の一人だったし、
誰も、こんな卑劣な戦場放棄が起ろうとは、考えても見なかった。
養父が将軍に従って大坂に行った時、私も同行した。
それで、私は事態の進展を目撃していた。

戦闘と幕軍の敗退を聞くと、慶喜はただちに江戸への出発準備を命じた。
そこで養父は急いで、心斎橋近くの舟小屋から小舟を手に入れ、
将軍はこれに乗って、在港中の汽船へ急いだ。

将軍と数人の御老中と役人は、無事に開陽丸に着いた。
ただちに蒸気があげられ、進路を江戸に向けたそうだ。
今や、あらゆる困難が始まった。
私自身についていえば、どうやって逃げたのかわからない。

養父は御前と同行し、私は一人城内に残された。
大部分の兵士が恐怖にとらわれた。
たくさんの千両箱を見たが、誰も最初は、
それを持ち出そうとは思わなかった。みんな自分の命のことだけ考えていた。

ついに、ほかの者よりも冷静だった一人の役人が全兵士に、全力を尽して、
紀州へ向うように命じ、千両箱はその路銀にあてるために持ち出された。
奥女中は、開戦の数日前に、海路から江戸へ行った者もあったので、
そこは、すでに人気がなかった。

三藩の兵士は素早く大坂に着き、徳川軍が放火していた城を占領した。
そしてくまなく捜索した。
その間にある者は外国公使館へ向った。ここでも人気はなかった。

私は堺へ逃れ、親類の家に行った。
十五歳の少年には、『誰も注意しまい』と思われたが、
私はその家にも長くいなかった。

その後ほどなく、土佐兵士が堺に着き探索を始めた。
私は逃げて、燈台の近くの漁船にもぐり込んだ。
猟師達は、たまたま舟のいけすを空にしていたので、
この中に数人のサムライと私とが、身体をぎゅうぎゅう押し込み、
疑われないように、上の板をしめた。

私は着のみ着のままで大阪を去った。
持物すべてを残して来たが、お金はいつも豊富に用意していて、
腰にまいていた腹巻の中にしまっておいた。
堺から約二百三十里の、今は豊橋と呼ばれているが、
吉田まで私達を連れて行くように猟師達を承諾させた。

この小舟で、私達がどんなに辛い目を忍ばねばならなかったは、
いうまでもない。海は大層荒れ、みんな濡れてしまった。
そして私達のうち、
誰かが絶えず手桶で水を汲み出していなければならなかった。

目的地に着いた時、
徳川軍が敵方から虐殺されたという恐ろしい知らせを聞いた。
知らせの多くは本当だった。
しかし私は比較的安全で、私自身については、これ以上話す必要はない。

将軍は江戸に到着し、閣老と相談したのち、
ミカドに対する絶対の恭順と上野へ隠退することを決心した。
上野には、先祖の墓が彼を取りまいている。

徳川方のすべての者に、
『自分にならってミカドに服従するように』という命令を下した。
この命令は、いろいろの人から、いろいろなふうに判断されたが、
この命令は、将軍と将軍の大義のために
最後の血の一滴を流そうという多くの人々からは、強い非難を受けた。

将軍は江戸を去り、水戸に留まるように命令を受けた。
そこでただちに水戸へ赴いた。
それ以来、彼は完全に隠遁生活をして来た。

これまでのところ、彼が公的生活に戻るかどうかという見込みは全くない。
政府は彼にいろいろな申し出をしたということを、
何度も聞いたが、政府がそういうことをしたという話は、疑わしいと思う。

そして万一にも、政治生活に戻るように進められたたとしても、
彼が断わり続けて欲しい、と私は思う。
彼は今駿河(静岡)にひきこもっているが、
まだ数千人の旗本やサムライに囲まれている。

彼は日本に非常に忠誠を尽しているから、
現在の平穏を乱すようなことはないと私は確信しているが、
彼の合図さえあれば、非常に恐ろしい部下達が、彼の旗の下に集るであろう。

これまでに起った変革の中で、徳川家の家来の衣食を考える必要から、
『有能で、政治に役立ちたいと望む者は、忠節を東京府に勤めかえてもよい』
という指示があった。

そこで多くの者が新制度に忠実な臣民となっている。
しかし、全国には今なお、徳川家以外に奉公することを拒んでいる者もいる。

慶喜の引退で、田安家の養子で、
亀之助という八歳の少年が、徳川家の家長に指名された。
しかし、古い身分はすべて廃止されたので、
彼は他の大名と同様に、今はただの華族――
一貴族にすぎない。慶喜さまの現在の名はイチド―という。
2009/04/24 09:00|年表リンク用資料
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