正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い人=軍民分割統治=団結させない個人主義の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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米英仏の教科書にみる日本

『世界に生きる日本の心』 名越 二荒之助 著 より引用

アメリカの社会科教科書(中等教育用)1978年 発行

『アジア・アフリカ世界―その文化的理解』
(The Afro-Asian World―A CULTURAL UNDERSTANDING)

◆日いづる国 Land of the Rising Sun

「ジャパン」という国名は、
太陽の出る所という意味の、「漢語」から来ている。

この国名を使うことによって、
シナ人は、日本列島がシナの東に位置することを言ったものである。

このために、日本はしばしば「日いづる国」と呼称されてきた。

それに日本人は、
自分たちの国名を「ニホン」または「ニッポン」と発音する。

そのためアメリカ人は、
時に日本人のことを「ニッポニーズ(Nippo-nese)と呼ぶことがある。

◆神々の国 Land of the Gods

日本の子供たちは、学校で次のように学んでいる。
イザナギという権威ある神が、
その妻イザナミと共に「天の浮橋」(Floating Bridge of Heaven)
の上に立った。

イザナギは、眼下に横たわる海面を見降した。
やがて彼は暗い海の中に、宝石を散りばめた槍をおろした。
その槍をひき戻すと、槍の先から汐のしずくが落ちた。
しずくが落ちると、次々に固まって、島となった。
このようにして日本誕生の伝説が生まれた。

またこの伝説によると、イザナギは多くの神々を生んだ。
その中の一人に太陽の女神があった。

女神は孫のニニギノミコトを地上に降りたたせ
新しい国土を統治することを命じた。

ニニギノミコトは大きな勾玉と、神聖な剣と、
青銅の鏡の三つを持って、九州に来た。
これらはすべて、彼の祖母から贈られたものであった。
これら三つの品物は、今日もなお、天皇の地位の象徴となっている。

ニニギノミコトにはジンムという孫があって、
この孫が日本の初代の統治者となった。
それは、キリスト紀元前660年の2月11日のことであった。

何百年もの間、日本人はこの神話を語りついできた。
この神話は、日本人もその統治者も、国土も、
神々の御心によって作られたということの証明に使われた。

現在のヒロヒト天皇は、ジンム天皇の直系(Direct Line)で、
第124代に当たるといわれる。
かくして日本の王朝は、世界で最も古い王朝(dynasty)ということになる。

■解説引用

戦後の日本の教科書では触れていないことばかりが、
アメリカの教科書にはしっかり記述されています。
神話から三種の神器、天孫降臨や神武天皇から124代にわたる万世一系、
世界最古の王朝など、これならアメリカ人の方が、
今の日本人よりよく日本のことを知っているでしょう。

■本文引用開始

◆氏族形成の時代 The Age of the Clans

日本に関して最初の記録をまとめたのはシナ人である。
彼らはほぼ二世紀頃、日本を旅行した。
また考古学者たちは、遺跡を調べて、日本の古代の生活を知ろうと努力した。
それによって、5世紀頃までのおよその歴史が明らかになっている。

少なくとも今から1万年前に、北アジアから来た民族が、朝鮮に到達した。
彼らはその後、海を渡って日本へやってきた。

また他の集団は、多分南シナや東南アジアからやってきた。
その両集団は本州に定住した。

日本の北方の島、北海道には、現在もアイヌ民族が住んでいる。
そのアイヌの祖先たちも、非常に古い時代に日本に住みついたのである。

◆日本人の生活様式 Their Ways of Living

これらの日本に最初に定住した民族は、
主に狩猟や漁撈によって生活をたてていた。
彼らは、全体を統轄する支配者を持たなかった。
その代わりに多くの家族群、即ち氏族が存在した。

それぞれの氏族には、支配者たる首長がいた。
それら首長の下に農業を営む者や、
衣類や陶器などを作る職人があり、その下に賎民がいた。

◆神道の起源 The Beginning of Shinto

各地の氏族たちは、主として自然を崇拝する信仰を持っていた。
彼らは自然界のあらゆるものに生命があると考えた。
即ち木や山や川や、また太陽や月にも、生命があると考えた。

それらすべての事物が「神」と呼ばれ、英語では「ゴッド」と翻訳された。
これらの自然界の事物は深い敬虔の念をもって扱われた。

その後に祖先崇拝の思想が日本の宗教の一部となった。

やがてこれら二つの古代の宗教的信仰――自然崇拝と祖先信仰――が
神道と呼ぶ宗教の始まりとなった。
この一貫した信仰心は、
今日の日本にあっても、なお重要な役割を持っている。

―――――――――――――――――

1984年発行の教科書 第17章

『歴史と生活――世界とその国民』
(HISTORY AND LIFE―THE WORLD AND ITS PEOPLE)より

■導入部

三島由紀夫は、日本の最も高名な作家の一人であった。
彼の輝かしい小説、劇、短編物語は、国際的にも評価が高かった。
彼の作品の一つである「潮騒」は、
漁村における生活を題材にした受賞作品であった。

三島は、日本の古い習慣と伝統、
特に封建時代以来の武士道精神ともいうべき生き方を愛した。

第二次大戦後の日本は、むやみに欧米の真似をしており、
欧米的様式が国民を堕落させていると考えた。
彼は家族内の連帯が崩壊し、素朴な田園生活が衰え、
現代の若者の間に非日本的行動が流行することを慨嘆した。

三島はこのような堕落を阻止するために、
「盾の会(Society of the Shield)」という愛国的グループを作った。
そのメンバーは、天皇への不動の忠誠、
古い伝統の尊重、ボディビル、戦闘術等を学んだ。

三島は現下日本のこのような風潮に、
劇的な方法で注意を喚起させたいと決意した。
彼は数人の部下を従え、
自衛隊東京駐屯地の総監室に乱入(Broke into)した。

彼らはまず総監を縛りあげ、
つづいて三島は総監室を出て外のバルコニーに立ち、
下に集まった自衛隊員に対し(檄文)を訴えた。

彼の訴えは、政府を打倒し、日本を古きよき時代に立ち還らせる、
という趣旨であった。

しかし、隊員たちからは何の反応もなかった。
三島は屈辱と失敗の念に耐えられず、
かねてから自ら賛美する武士道の様式に則って行動した。
彼は短刀を腹につき刺し、切腹、
一般にはハラキリといわれる名誉ある死を遂げた。
三島は常々、日本の古く美しい伝統のために、
自分自身を捧げると言っていた。

欧米人には、日本の古い武士道の伝統を知らなければ、
このような行為を充分に理解することはむつかしい。
そして全体が商人化し、
軍人に敬意を表わさなくなった商業主義的都市生活化した戦後日本では、
この事件は奇妙にも場違い的な事件と受け止められた。

◆日本文化には自然崇拝が反映している。
Japanese culture reflects a reverence for nature

自然は日本人の生活に強い感化をもたらしてきた。
日本は高低さまざまな山々が多く、絵のような風景が開けている。

その中で最も印象的な姿は富士山である。
これは休火山で、三千六百メートル以上の高さを誇る。
冬は雪に覆われ、春には山麓一帯に桜が満開となる。

日本人はこのような自然界の不思議に対して風趣を感じ、価値を認める。
このことは日本文化のすべての面に反映している。

神道という土着の宗教(native religion)では自然を神聖なものと考える。
そして神を祀る祠は、各地にある美しい場所を選んでつくられている。
このような日本人の素朴な自然美を愛する心は、
建築や彫刻、絵画、文学等の諸芸術に見られる。

日本人は自国をニッポン、
あるいは特に詩歌において、やまとと呼ぶことがある。

詩人の一人は次のように歌っている。

“もし大和の心とは何かと訊かれたら朝日に照し出されて、
その香気を放つ山桜の花と答えるであろう”
(訳者注・本居宣長の“敷島の大和心を人問わば朝日ににほふ山桜花”)

◆シナからとり入れた初期の日本文化
Early Japanese civilization borrowed from China

日本の神話によれば、日本の国土は、
一人の男神と女神が創造し、そこに住みついたとされている。
太陽の女神の孫に当たる神が、統治者として選ばれた。

キリスト紀元前660年に、
その子孫の一人神武天皇が、初代の天皇になったと伝えられる。
この天皇が神の起源を持つという信仰は、
日本人の思想に大きな役割を演じている。

一人の日本の歴史家は、次のように書いている。

「大日本は神聖なる国家である。
神の祖先が国家の基を作ったというのは、わが国のみである。
日本のみが太陽の神の子孫によって、代々統治されて来た。
このような国がらは、他国では見られないことである」

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1982年発行の教科書

『文明の発展』(The Growth of Civilization)

◆元寇をまぬがれた文明国家

中世のアジアにおいて、中東・インド・東南アジア・シナ、
そして日本は、文明民族であった。
これら文明民族のうちの三つは、
野蛮民族の侵入によってゆさぶられ、あるいは破壊された。

しかし、その中で野蛮民族の侵入を免れた国があった。
それは島国日本であった。
野蛮なモンゴルは、シナと朝鮮を征服し、
その後1272年と1281年には二度にわたって、海を超えて日本侵攻を試みた。
しかしその侵攻は、二度とも失敗した。

◆初期の日本の宗教 Early Japanese Religion

日本の最も古い宗教は、すべて事物や場所に魂が宿っていると考える。
アニミズム(万物有霊観)であった。

アニミズムは、太古における普遍的な文化であった。
それがしばしば複数の神々を信ずるいわゆる多神教に転化していった。

日本では、自然の中に宿る霊魂崇拝が神道となった。
神道は“神々の道(the way of Gods)”を意味する。
神道には、自然界の物象のみならず、祖先に対する崇拝心も含まれていた。

この点で、我々は、シナ思想の影響も認めることができる。
この祖先崇拝は、日本人の氏族関係をより強固なものとした。
ここでは、やさしい太陽の女神・天照大神と、
性質の粗暴な嵐の神・須佐之男命(スサノオノミコト)
に関する日本の神話を読んでみよう。

◆太陽の神と剣 The Sun God and the Sword

天上界でも地上でも、
須佐之男命が乱暴な攪乱者だということは、知られていた。

須佐之男命は、特に姉の天照大神を悩ますことを好んだ。

ある日彼は、いたずらの度を少し過したことがあった。
まず大神の新しくできたばかりの庭園をこわし、稲田の畔道を踏みつぶした。
大神はそれが弟の仕業と聞いて大層悲しんだ。
彼女は一番深い岩屋の中に身をかくしてしまった。
そして「私は決して外には出ない」と宣言した。

太陽の神が岩屋の中にかくれてしまうと、地上は真暗になった。
まもなく、地上のあらゆるものが枯死し始めた。

他のすべての神々は心配して、天照大神のかくれた岩屋の外に集った。
彼らは天照に対して、岩屋から出て下さい、と懇願に懇願を重ねた。
しかし、大神は出ることを断った。そこで神々は一計を案じた。

神々は岩屋の外に大きな鏡を置き、鏡の上に宝玉をかけた。
それから、神々の一人が、ふざけた踊りを始めた。
それは神々の笑いをさそった。

神々の哄笑を聞いた天照大神は、「何事が起こったのか」と思った。
彼女はそれを見ようと、岩屋の外に顔を出した。

その時、鏡に映った自分の姿を見つけた。
「この美しい方は誰かしら」と、いぶかしく思った。
彼女はもっとよく見ようと、戸外に踏み出した。

その時、他の神がすばやく岩屋を塞いでいた大石を転がした。
かくして大神は再び岩屋に戻ることができなくなった。
その後は二度と太陽が空から消え失せることもなくなった。

そこで神々は須佐之男のいたずらを懲らしめるために、
彼を高天原から追放した。追いやられた須佐之男は、日本の島に行きついた。

ある日彼は、とある農家に出くわした。
その中には農夫と妻と美しい娘がいた。彼らは家の中で嘆き悲しんでいた。

須佐之男は「何事ですか?」と質ねた。老人は泣きながら語った。
「今晩、八つの頭を持った大蛇が来て
うちの娘を食べることになっているのです」

須佐之男はその恐ろしい怪物を退治することを約束して言った。
「八つの樽に酒を一杯につめて、残りは私に預けて置きなさい」

その晩、大蛇は大きな唸り声をたてて、森の中から出てきた。
大蛇が酒樽を見つけると、八つの頭の全部を出して酒を飲み始めた。
やがて大蛇は、すっかり酔いつぶれてぶっ倒れてしまった。

その時、須佐之男は走り出て八つの頭を切り落としてしまった。
彼が大蛇の尾を切り開いた時に、中から宝石を散りばめた剣を見つけた。

ずっと後になって、天照大神は、日本を統治するために、
その孫を降臨(sent down)させた。

その時、天照は孫に三種の神器を与えた。
その三つの中の一つは、彼女が岩戸に隠れていた時、
神々が外に設置していた鏡であり、
二つ目はその鏡の上にかけていた宝玉であり、
三つ目は須佐之男が、大蛇の尾からとった宝剣であった。

◆日本における封建主義 Feudalism in Japan

日本人は、天皇を一人の神(a god)として尊崇してきた。
天皇は初代の天皇から常に一貫して一人の天皇が世襲してきた。
しかし天皇は、大きな力を持たなかった。それは何故か。
それは日本が特殊な封建組織を持っていたからである。

日本の封建主義というのは、組織された相互防衛的社会
(a way of organization and defending societies)であって、
中央幕府は強い力を持たなかった。

実際の力は、各大名の間に分割されていた。
それぞれの大名は、自分の土地を持ち、農民は大名のために働いた。
また大名は武士と足軽を持っており、武士は大名に対し、忠誠に生きた。

サムライは(封建社会の)力の原点であった。彼らは偉大な闘士であった。
彼らは重い兜をかぶり、徒歩でも馬上でも戦うことができた。
サムライは大名に対してきびしい忠誠を誓い、忠誠の法典を持っていた。
それが武士道と呼ばれる武士の生き方であった。

彼らは主君や家名のためには、いつでも死ぬ覚悟ができていた。
武士道は、日本文化の上で、深い特徴を留めた。
我々は「四十七人の浪人の物語」という有名な話を知ることによって、
サムライをもっと学ぶことができる。
ここで浪人というのは、主君を失ったサムライのことである。

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ワシントン大学の歴史担当教授 K.B.パイル氏が書いた教科書。1978年発行

『近代日本の形成』(THE MAKING OF JAPAN)

◆日清戦争

1894~5年の日清戦争は、国際関係史において絶大な重要性を持つが、
それはこの戦争が清国の弱体ぶりを余すところなく暴露し、
東アジアの資源と市場の支配を求めて帝国主義列強間に
激烈な競争を展開せしめることになったからである。

日本は不可避的にこの渦中に捲き込まれ、
自国権益の保護と拡張を最優先関心事とせざるを得なかった。

19世紀から20世紀への転換期に、
日本には欧米列強との平等を望む願望があり、
東アジアの原材料と市場―――
日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、
日本はそこから締め出されることになる―――
への接近の維持という経済的動機もあったが、
日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、
日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、
固陋で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、
もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、
日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。

山縣有朋と軍首脳部は、
東アジアは帝国主義列強間の激烈な競争の舞台になるであろうと結論した。
支那大陸における力の真空がこの事態を招いたのである。
ロシアのシベリア横断鉄道建設の決定は、山縣らの懸念の正しさを示した。
新鉄道は、朝鮮または南満洲に不凍港たる終点を必要としたからである。

日本列島の安全保障は朝鮮が第三国の支配下に陥るのを
防止するのにかかっているというのが、日本外交政策の基本的原則となった。

さらに参謀本部は、朝鮮の独立は、
隣接する旅順港と遼東半島の支配によってのみ確保されると結論した。

以上の戦略的目標を胸に秘めて、明治政府は陸海軍の増強を着実に進めた。

朝鮮内部の陰謀と政治的混迷は、
朝鮮への影響力を競い合う清国と日本の関係を緊張させ、
ついに日清戦争が起こり、日本軍の勝利の結果、
1895年4月17日の下関条約で、
清国は澎湖諸島・台湾・遼東半島を日本に割譲し、朝鮮の独立を認めた。

日本政府が新制度を取り入れて日清戦争に臨んだことは、
世界に広く知れ渡った。
日本国内でも民族意識を極度に昂揚させ、
その勝利は西洋文明を先進的に採用したという誇りをもたらした。

だが、4月23日の三国(独仏露)干渉の結果、
日本は遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、
日本は外交的孤立の感を深め、安全保障面の不安が増大した。

朝鮮に対するロシアの利害関係と日本の願望が対立することが明らかとなり、
日本政府は軍備の拡張に着手し、山縣は友人への書簡(1895年)中に
「日本は、間もなく遼東半島南部を押さえるであろうロシアを相手に、
10年以内に戦争することを覚悟しなければならない」と洩らした。

朝鮮半島の日本の経済的権益は急速に増大しており、
日本は、食糧輸入の見返りに綿製品を輸出し、
さらに野心的な鉄道建設計画を推進していた。

◆日露戦争

日本外交の――時間稼ぎのための日露暫定協定
(満州と朝鮮での権益の均衡を認めた)締結以上の――最も感銘的な功績は、
1902年7月30日の日英同盟の締結であった。
日英同盟は、日本の外交的孤立を解消しただけでなく、
西洋国家と非西洋国家の間で平等な条件で結ばれた最初の軍事条約を提供した。

日本が一以上の国との衝突に捲き込まれた場合に
英国の援助を約束していた同盟は、
ロシアとの抗争に際して日本の力を強めた。

朝鮮と満洲での両国の権益に関する再交渉が1904年2月に決裂すると、
日本は戦争に踏み切り、手始めにロシア艦隊を奇襲した。
日本陸軍は満洲での一連の戦争で、
ロシア軍を破ったが、完全に駆逐するにはいたらなかった。

ロシア軍を完全に粉砕するためには、日本が有する資源では不足だった。
そこで政府も軍首脳部も戦争終結の交渉の用意をしていた。
しかし、ロシア皇帝は、バルト海艦隊を派遣して、
日本海軍を圧倒することにより、戦局の逆転をはかろうとした。

東郷平八郎提督がロシア艦隊を撃滅した1905年5月の日本海海戦は、
全世界の注目を集めた。

米国大統領セオドア・ルーズベルトは、一友人に宛てた手紙の中で、
東郷の勝利について、次のように述べている。

「これは、世界が目撃した最大の驚嘆事だ。
かのトラファルガー沖海戦ですら、これに匹敵しうるものではない。
第一報が届いたとき、私自身それを信ずることができなかった。
だが、第二報、第三報が到るにおよんで、
私は、まるで自分が日本人になってしまったかのように
興奮を禁じ得なくなり、公務につくことができなかった。
私はその日丸一日を訪問客とともに
日本海海戦について語り合って過ごしてしまった。
というのも、私は、この海戦が
日本帝国の命運を決したと確信したからである」

その後ルーズベルトは日本側に説得されて、
両交戦国間で仲介の労をとることとなった。

この戦争には、日本の資源の未曾有の動員が必要だった。
政府は軍務に成人男子人口の五分の一を動員し、百万人を第一線に送った。
死傷者は十万を越え、財政的出費も巨額であった。

きわめて英雄的な努力を維持するため、
この戦争は国民的大事業として正当化された。
日本史上、この戦争ほど国民の政治的自覚を高めたものはかつてない。

日本政府は、戦争の結果、樺太の南半分の領有、
韓国における卓越した権益の承認、遼東半島の租借権、
南満洲での鉄道敷設権を獲得した。

歴史家は通常、日露戦争を、日本に大国の地位をもたらし、
かつ日本に世界の賞賛を博せしめた出来事として記述する。
確かに、この戦争は、近代世界史における画期的事件である。

アジア全域を通じ、抑圧されていた諸民族の指導者たちは、
日本の実例からインスピレーションを受け、
彼らもまた西洋の科学と工業を輸入して、白人の支配から脱却し、
独自の民族性を保持し、工業化過程をみずから監督できるものと信じた。

例えば、インドのジャワハルラル・ネールは、その自叙伝の中で、
日本の勝利は、彼の人生の初期における記念すべき出来事であり、
彼をアジアのために献身させた一大原因であり、
彼の民族主義と「インドのために闘おう」とする決意を
燃え立たせたものだと記録している。

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同じく1978年発行のK・B・パイル教授の教科書

『近代日本の形成』(THE MAKING OF JAPAN)

◆世界の中の日本

我々は戦後の日本について、いくつかの顕著な特徴を見てきた。
その特徴というのは、異常ともいえる経済の成長ぶりであり、
それをもたらしたものは官僚機構の優秀性であり、
教育と試験制度の影響力であった。

ここで我々は最終的なテーマに到達しなければならない。
結論的に言えば、戦後の日本は、世界の中で日本が存在することの意味や、
究極の使命は何かということについて、
日本が混迷しており、不明確であるということである。

このことは本書の中で早くから見てきたことである。
日本は(敗戦という)世紀の変革に遭遇して、
国家の本質はいかにあるべきかについて、成熟した概念を確立しなかった。
そしてまた日本は、世界に対してどのような役割を果たすべきかについて、
探究し討議することもなく過ごしてきた。

◆過激なる日教組集団の登場
(歴史は民衆中心の生活史か指導者主役の栄光史か)
その例を挙げよう。
そもそも教育の内容は、
日本の本質とは何かについて深い関わりを持ってくるものである。

日本は戦後、国家主義的理念が顧みられなくなった。
その反動として、歴史は、過去の天皇の治世や日本の軍人の功績については
教えないように全部書き改められた。

その結果、歴史は事実に基づいて、
過去の制度や習慣の発達を批判的に教えねばならないと考えられた。
それは日本の教師が極左的指導者によって
支配されている強力な労働組合に組織されているからである。
(organized into a powerful trade union dominated
by radical left-wing leaders) 

そのため歴史教科書は、しばしば教師の政治的偏見を反映し、
「経済的搾取及び独裁的支配階級の圧迫から逃れるための民衆の闘争」
を教えなければならないと強調した。

例えば日露戦争の歴史的記述は、
当然取りあげなければならない海軍の英雄東郷平八郎元帥の名を避け、
その代わり戦争に反対した一握りの社会主義者、
平和論者で記述されるようになった。

そのため新しい教科書は、論争の焦点に立たされた。
即ち、歴史の中の反体制人物を大きくとりあげ、
そこに独自の民主的伝統の根拠を見出そうとした訳である。
そのため、自国の過去の栄光を讃えなくなってしまった。

日本では、左翼と右翼の間に今尚、理念的争いがある。
特に日本教職員組合の過激な指導者と、
文部省の保守的な役人との間で争いがある。

その争いというのは、
「歴史教育は民衆の過去の不幸を扱うべきか、
または過去の栄光を主にすべきか。被支配者を主にすべきか、
支配者を主にすべきか。
権威に反抗し個人の権利の確立を主とすべきか、
愛国心を尊重し、国家の発展を主とすべきか」
についてである。

◆戦後思潮への批判
(松下幸之助、石原信太郎等)

戦後の日本では国家の過去の出来事を否定的に考えることや、
伝統的・文化的価値あるものに目を向けない現象は、あちこちで見られる。

それらの考え方は、教科書にも広く採用され、
多くの日本人にとって、それが不満となっている。

日本人として戦後の改革、特に憲法と教育制度は、
もはや時代錯誤という考えがある。
京都大学のある教授は、次のように書いている。

「戦後の変革は、日本人独特の良心、洗練された習慣、
そして日本の美徳がすべて失われた。
三千年の歴史の中で、我が国が培ってきた文化・伝統が、
今や絶滅しそうである。
また日本人らしい独特の心と体を鍛える教育方法も、
もはや過去のものとなってしまった。
そして残されたことと言えば、技術力の増強と国家意識の喪失とである」

その後、日本では経済改革以外には国家としての指針が見つからず、
空虚な精神と道徳の中に生活しているという自己批判が広がり始めた。

有名な小説家であり、東京地区選出の国会議員で、
1976年に大臣になった石原慎太郎は、
小説の中で再三このテーマをとりあげた。

「日本という国家の中心部分には、精神的なものが欠如している。
この社会の流れの中では、道徳心の欠如が特徴となっている」と。

同様に、音響産業家の松下幸之助も、国家の目的と使命について、
再三次のように述べている。
「戦後、我々は、改造された戦後体制と物質的な発展ばかりに
心が奪われて“心を持った国家”について関心を示さなかった。

そもそも国としての自立性や将来への展望は、
その国の歴史と伝統の上に成り立っているのである。
現代の日本では、伝統はほとんど無視され、
外国の習慣にとって代わられつつある。
現代はこういう世代の人々が成長し、日本にもはや日本人はおらず、
自分自身と自信を持たない“人間の群”があるだけである。

◆70年代・日本回帰ブーム
(三島事件や横井・小野田の出現)

一方、日本では、経済成長にともなって、逆説的なことが起こり始めた。
日本は貿易を通じ、国際機関に関係を持ち、
海外旅行が容易になりはじめてから、世界に目を放ちはじめた。

日本は世界の中でも特殊な個性を持ち、
かけ離れた孤立した存在であることを自覚し始めた。
特に1970年代の初期から、自己回帰の徴候を見せはじめた。

日本人であることの意味は何か。日本人とは果たして何なのか。
我々はどこから来てどこへ行くのか等のいわゆる
「日本人論」と呼ばれる出版物が、相ついで出された。
この日本回帰ブームを印象づけるいくつかのことが起こった。

その一つは、1970年の11月に、
小説家の三島由紀夫が劇的な自殺を遂げたことであった。

彼はそれまで国民に対して、唯物主義・魂を失った外交政策・真実にして
純粋な日本の伝統的価値からの遊離現象等、
栄光ある帝国の再建に対して意欲を喪失したもろもろの現象について、
痛烈な批判を展開していた。

また、1972年3月には、考古学上の調査によって、
奈良で高松塚古墳が発見された。
この古墳は7世紀頃のものであり、これによって天皇の存在や、
日本人の文化と言葉の起源について、再び問題を提起することになった。

また他の問題提起は、太平洋の島から二人の日本人兵士
(横井庄一・小野田寛郎)が帰ってきたことであった。
彼らはそこで約30年かくれていた。

出てきた彼らの心構えと態度は、
自己献身と天皇への絶対忠誠という戦前の価値を、日本人に呼びさまさせた。
この日本人の失っていた価値は、多くの日本人に共鳴を呼ぶことになった。

―――――――――――――――――

イギリス中等教育用歴史教科書 1981年発行

『世界の近代史』(The Modern World since 1870)

◆日露戦争

ロシアの極東への拡張が続いたため、
この機会と口実とは、すぐに生じた。

たとえば、1900年には、ロシアは満洲全域に進出した。
イギリスは驚愕し、これを一つの理由として、日本との同盟に調印した。
こうして、西欧の大国との対等な協力相手として
はじめて認められた日本人にとって、この同盟は大勝利であった。

日本は、満州におけるロシアの権利のかわりに朝鮮における日本の権利を
認めさせる取り決めをロシアに要求してもよいほど、
自分たちは強大になったと感じたのである。

しかしロシア人は、『ちっぽけなサル』と呼んでいた相手と
この問題を議論することを拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した。

日本の反応は激しかった。1904年2月9日、
日本の駆逐艦が闇にまぎれて旅順港に入って行ったとき、
ロシア側は何の準備も整えていず、
まるで平時のように船には燈りがともっていた。

また岸壁の大砲には、防護カバーがかけられたままであった。
日本側は何の苦もなく、二隻の戦艦と一隻の巡洋艦とを魚雷で沈めた。
40年間の近代化の過程をへて、
日本はここに強国の一つと戦いに突入したのである。

・・・・略・・・・

ロシアの軍隊は、6週間にわたって家畜用貨車に乗せられて
アジアを横切ってやって来ており、
彼らにとって戦争とは、家庭からの別離以外の何物でもなかった。
士官の中にさえ不満をいだくものがいた。

ある士官は、
『この戦争の目的、原因、それにそのやり方までもが、
私には実にいやに思われます』と、家に書き送った。

3ヵ月ののち、勝利は日本軍に帰した。
ロシア側の最終的な惨劇は、海上で訪れた。
戦争が勃発した当初、日本よりはるかに強大だったロシアの海軍は
世界中に散らばっていた。
そのうち一艦隊はすでに日本側に敗北していたし、
黒海にいた艦隊は、ベルリン条約の取り決めで、
黒海の外には出られないことになっていた。

3つ目のバルティック艦隊は、戦場から1万7千kmも離れたところにいた。
絶望的な気分になったロシア側は、
このバルティック艦隊を、世界をぐるりと回って極東に送ることに決めた。
その途上のさまざまな地点における石炭の供給はドイツの一会社が引受けた。

この長い航海は、その出発点で危うく終わってしまいそうになった。
英仏海峡を南下中、イギリスの漁船の間を通り抜けた際、
ロシア艦隊はそれを軍艦と見誤り、発砲してしまったのである。
実際の損害は軽微で、漁船一隻が沈められ、ロシアの巡洋艦一隻が、
自国軍の砲弾に当たっただけであったが、
日本の人気が高かったイギリスでは、怒りの声があげられた。

それからしばらくの間、ロシア艦隊は、
はるかに強力なイギリス艦隊の尾行を受けた。
しかし、幸いにも一発の砲弾も撃たれることはなかった。

・・・略・・・

ロシア政府が二つ目の艦隊を送り、
先の艦隊と一緒にすることを決定したため、
マダガスカルで、最大の遅れが生じた。

全艦隊が極東の海にたどり着いたときには、
すでに1905年になっており、旅順は陥落した後であった。
したがって、海上での勝利以外に、
この長旅を報いあるものにする方法はなかったのである。

1905年5月27日、疲れ切ったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。
ロシア側の動きのにぶい船は、
日本の近代的な戦艦の敵にはまずなり得なかった。
日本側司令官東郷提督は、砲火を一杯に開きつつ、
ロシア艦隊のつくった線の頂点を横切って進むことができた。
このTの横棒をかくやり方は、蒸気船の軍艦にとって最善の攻撃形態であり、
勝利はたった一時間の間に、八隻のロシア戦艦が沈められた。

東郷は、1798年のナイルにおける
ネルソンの勝利以来最も大々的な海での勝利を勝ちとったのである。

これらの勝利が日本人におよぼした影響は、
普仏戦争における勝利がドイツ人に与えた影響に似ていた。
40年間で日本は、ヨーロッパの大国を打ち破れるところまで、
近代化を成し遂げた。

日本はたちまちのうちに海外領土を持つ帝国主義となり、
西欧に対するアジアの人々の明らかなチャンピオンとなったのである。
日本人は偉大な未来を夢見はじめた。
彼らは、これほどまでに成功をおさめた軍隊を崇拝した。
日本は、危険なムードで、20世紀に直面したといえよう。
ヨーロッパが目覚めさせたのは、美女ではなく、巨人だったのである。

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フランスの中等教育用歴史教科書 1967年発行

『歴史・現代の世界』

◆日本文化の独創的特徴

日本文化は、中国と西洋から受容れた借物の文化と言われるが、
その奥底には依然として独創的なものがある。
その偉大な伝統は、常に非常に強靭なものである。

その伝統とは、『大臣下』に補佐された
天皇という一人の皇帝に代表されるもの、
さらには自然に対する深遠な感情を映した詩と芸術等である。

その後、貧しく人口過剰の日本は、国の運命に立ち向かってきた。
その間、激しい競争の渦巻く世界の中で、身を守るために戦争に訴えた。
しかし、その後はそう思っていないし、
日本は再び平和を愛するようになった。

◆日本世界とその偉大な伝統

日本はまず輸入したものを模倣し、ついで自分のものにし、
それに自国の特性を与えて同化する。
それ故、これは単なる受身的な“消化”といったものでなく、
自発的能動的な適応である。

中国文化に対してもその通りで、日本はそれを輸入した後で、
自国自身の伝統に順応させた。それは西洋文化についても同様であった。

◆天皇朝永続性の秘密

西暦5世紀頃、日本には国の南部に局限された数多くの
貴族制氏族が存在していた。
これらの氏族の一つ、大和の氏族の頭が、他の頭の上に立った。

彼は自分を、アマテラスノカミ――『天を照らす大きな神』という
国の創造者・太陽の後裔と認めさせた。
かくして、アマテラスの後継者はすべて『天皇』という称号を持ち、
神聖な性格を示すようになった。
天皇はこのように始めから『神』の印を押されていた。

続く2・3世紀の間に、別の要素が協力して、政治的伝統を完成した。
6世紀に輸入された儒教思想と、唐帝国に存在するものに従って、
階層化された統治の形態が確立した。

天皇は日本の有歴時代の初めに生まれ、それが日本の主な伝統となり、
非常な重要性を持って今も生き続けている。

その関係は、天皇と『大臣下』と名づけられた人たちとの間に
打ち立てられた権力の分立であった。
国を創設した諸氏族の頭達の目から見ると、
天皇は豊作を保証することができる唯一の国の守護神である『カミ』
という霊の一種の代理人でしかなかった。
権力は実際は『大臣下』によって所有され、
大臣下はいかなる神聖な性格も持たず、
そのため野心や反乱によって変わり得た。対立しながらまた中立になりながら。

◆神道の起源と仏教との共存

自然界の至る所に、精霊や神という優越した存在を見るアニミズムは、
日本の信仰の最も古い基調をなしている。

この神は、すべての尊敬に値した。
なぜなら、この神は心に随って有害にもなり、有益にもなった。
各人は何よりもまず、氏族を創立した祖先の魂を守護神として崇めた。

この信仰は歴史時代を通して、さまざまな外的な影響を受けながらも、
変質することなく発展した。
神の数は無限に増大した。
なぜなら、沢山の歴史上の人物が古代型の英雄として
神格化されていったからである。

そのため、日本は何万という神を数えることになった。
他方国が創建されて以来、崩御された天皇の魂は独自の地位を占め、
国全体の守護神として特別の尊崇を受けるようになった。

かくして信仰の根幹は「神道」という名を受け、
礼拝場、祭式、宮司をもった一種の宗教となった。

日本の国教、確かにそれは浮き沈みがあったが、
1868年の明治時代の宣言(明治元年・五箇条の御誓文)の後に、
皇室の利益のため、新しい輝きを放った。

第二次大戦の荒廃を経た後の今日、
神道は少なくとも未だかつてなかったほどの生き生きしたものになった。
そしてそれは、日本民族全体の熱情をかり立て続けるであろう。
そもそも極東の国日本は、諸教混淆の国である。
それは、神道自体が寛容な性質を持っていて、
いかなる神も排斥しなかったからである。

日本では神道に並んで、何世紀も前から別の宗教が、
多かれ少なかれ繁栄している。
若干のものは儒教のように昔から深く影響を及ぼし、
キリスト教は一時期厚遇を受けたが、次第に消えていった。
仏教はすぐには問題にならなかったが、
やがて採用され、一時期国教にさえなった。

西暦500年から550年にかけて、仏教は「大乗」の形で、
中国や朝鮮を通して到来した。
直ちにその成功があり、数世紀にわたって厚遇された。
そのため神道は長い間霞んだ存在であった。
しかしこの二つの宗教が共存を実現し、
今日では(共存は)完璧なものである。

日本人は、生まれた時は神道の形式に従い、
死んだ時は、仏教の祭式で葬儀を行う。
現在、仏教は数百の宗派に達しているが、
その中で最も興味深いものの一つが、13世紀に現れた“禅”である。

禅は他の宗派と反対に、偶像崇拝的な面を避けた。
原始仏教の精神を再発見するため瞑想の必要と解脱を追及する。
それは『生命の芸術』を生み、『日本的礼儀』を作り出した。

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フランスの中等教育用歴史教科書 1961年発行

『現代史――1848~1914』

◆日本の変革 明治時代

1869年、東京に遷都したムツヒト天皇は、
数年にわたって、日本を改革することとなる。

【政治】

帝国憲法が発布された1889年までは、天皇が唯一の主人であった。
この時まで、天皇が憲法そのものであった。
しかし憲法が制定されてから、天皇は各種大臣の輔弼と、
貴族院ならびに多額納税者による選挙によって
選出された衆議院の協賛をもって統治した。

しかし、現実は、各種大臣が天皇に対してだけ責任を負って政治を行い、
予算は自動的に「成立」可能であった。
天皇は権力の根元を保持していたが、
国家の長老(憲法によって何の明記もされていない制度・元老)の助言が
天皇の帷幄(いあく)にあって主要な役割を果たした。

結局、日本を「列強と全く平等の立場に置く」為に制定された憲法は、
現実的には単なる衝立にすぎなかった。

【社会】

日本は激動した。天皇は封建体制を一掃した。
法の前での平等が宣言され、幕藩体制は廃止され、
農民は自らの土地の所有者となり、大名は城を明け渡し、造幣権を失った。
日本は今や、郡県の行政区画に分割された。士族の激しい反乱が鎮圧された。
1884年にはヨーロッパから
輸入された世襲貴族制(公・候・伯)が創設された。

【経済】

その飛躍は驚異的なものがあった。
それは特に、たびかさなる英・米からの借款にささえられて行われた。
1900年には、鉄道は7000キロメートルにのび、
1906年には、日本は負債を返済した。

商船隊は当初オランダ人技師を師として、そのおかげで発展していった。
電信・電話局が政府のてこ入れで、急速に発達をとげていった。

産業革命は通信手段の激変をもたらした。
日本政府は官営工場を創設し、民間企業に補助金を与え、
外国人技師を招聘した。

炭鉱や鉱山を開発し、
1891年からは、京都の近郊にある琵琶湖の水力発電を利用した。
一番に近代化された繊維工業は各地に工場の林立をみることになった。

1898年になると、日本は綿の国内需要を満たすようになり、
その輸出国となった。
その当時まで、未加工のままで売られていた絹が
フランスの技術によって製糸工場で製品として生産されるようになった。
製鉄業は資源不足という不利益によって発展を妨害されていたけれども、
政府は、1892年に、北九州の地に日本帝国製鉄所を設立し、
そして海軍造船所を各地に創立していった。
正しい意味での工業地帯が建設されていった。

【軍事】

1872年、海軍の建設が決定され、1873年には兵役の義務が法制化された。
しかし、ごく少数の兵が召集されたにすぎなかった。

その後、陸軍は着実に兵員を増やしつづけて、
1873年に3万1千名であったものが、1911年には、12万1千名となった。

特に、海軍は政府の庇護の対象となっていた。
1869年、日本政府はイギリスに、若い将校からなる軍事使節団を派遣した。
明日の提督東郷はその時から7年間、留学することになったのである。
フランス人エミール・ベルタンは1893年、
33隻の大型艦と22隻の小型艦を持っていた日本海軍の再編成をした。

◆日本帝国主義

日本は、数年にして、列強の水準に伍すことになった。
ヨーロッパは、日本の努力の重要性を理解していなかった。
ただイギリスだけが1894年以来、「不平等条約」の改正を受け入れていた。
日本は数々の成功に力を得て、膨張政策に乗り出していくことになった。

【戦略的要因】

日本は長い海岸線を持っており、海からの攻撃にもろいものがあった。
そのため「攻撃による国土防衛」の戦略的基地を大陸に占める必要があった。

【経済的要因】

きわめて急速な出生率が農村人口の限界点を突破した。
移民に適しているとは言えない日本人は、
暖かい気候の国にだけ、移住が可能であった。
他面、工業の発展は製品販売市場と原料獲得を不可欠のものとした。

【最後に心理的要因】

伝統的精神、すなわち、
「優秀民族感情、皇室に対する忠誠心、祖国に対する犠牲心」
は教育によって助長されていった。
その驚異的変化にもかかわらず、魂だけは不変であったのである。
やがて日本は、次の三つの局面において、
その力と壮大な野望を現していくことになるのである。

◆日清戦争(1894~1895)

日本と中国の争地である朝鮮王国をめぐって、1894年に日清戦争が勃発した。
この戦争は電撃的なものであった。
すなわち、それは、18隻の木造艦対、33隻の近代的軍艦。
火縄銃と槍そして扇と傘をさした兵士対、
犠牲の覚悟を定めたよく訓練された近代装備軍の戦いであった。

9月以降、日本艦隊は海上権を掌握していた。
1895年3月、台湾が占拠された。陸上ではすべての上陸が成功した。

中国は講和を決定し、下関条約が調印された。(1895年4月)朝鮮は独立した。
清国は日本に台湾、澎湖島・遼東半島を割譲した。
また、清国は7年間にわたって重い賠償金を払い、
日本はこの支払いの担保として威海衛を保証占領し、
清国に通商の特権を与えることを同意させた。

しかし、これは唐突になされたので、列国の干渉が起こった。
ロシアはトランスシベリア鉄道の終点として旅順を渇望していた。
軍事的に行動できないロシアは他のヨーロッパ政府に呼びかけた。
ロシアが極東にかかわりを持つことを
自分にとって幸福なことだと見たドイツはこれに激励を与え、
フランスは同盟に対する単なる忠義だてから、
心ならずも、これを是認した。

イギリスも、ローズベリー卿が
「日本は将来の大国である」と宣して、これに同意を与えた。

露・仏・独の三国は、
日本に征服による権益を放棄するよう友好的助言をなした。
日本の苦渋は大きかった。
日本は直ちに抵抗を思ったが、それは不可能だった。

ついに1895年11月、日本政府は「列国の友人の忠実なる助言を考慮する」
と宣言して、清国に三億テール(両)と引き換えに遼東半島を返還し、
三国に「三国の好意ある助言に対する感謝」の意を表した。

日清戦争は日本の価値をあらわにし、清国の弱体を証明することとなり、
清国は列強の餌食となっていくのである。
しかし、三国の干渉、特に、ロシアの干渉は、日露戦争発生の
原因の一つとなる苦い気持ちを、日本人の心に生み出すことになった。

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アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争

『The American People Creating a Nation and a Society』の2000年版より

しかし、アメリカは1939年7月、
1911年の日米通商航海条約を6ヵ月以内に破棄すると通告することで、
経済的圧力をかけた。

さらに、1940年9月には航空機用燃料や屑鉄の日本への輸出を停止、
さらに1941年春までにその他の品目の対日禁輸を次々と追加していった。
アメリカ政府としては、日本がこうした重要な資源を
カットされることで交渉を余儀なくされ、
危機を回避できると考えたが、話し合いは進展しなかった。

日本は中国から撤退はしなかったし、
1940年から1941年には仏領インドシナを占領した。

ルーズベルトは対日交渉で有利な立場に立っていた。
なぜなら、アメリカは日本の極秘外交電報を解読していたからだ。

しかし日本の意図は盗聴、解読した電文だけではわからなかった。
アメリカの指導者たちは日本が攻撃を計画していることは知っていたが、
どこに攻撃を仕掛けるかはわからなかった。
1941年9月、日本はアメリカがまともな譲歩をせぬ限り
11月以降対米攻撃を行うことを決定していた。
そして12月7日、空母から発進した日本軍の爆撃機は
ハワイ・真珠湾に停泊中のアメリカ艦船を攻撃した。

日本による奇襲(Surprise attack)で戦艦5隻を含む
19隻が沈没あるいは破壊され、150機の航空機が壊され、
兵士、水兵2335人と民間人68人が殺された。

同日、日本軍はフィリピン、グアム、ミッドウェー、
英領香港、マニラに侵入した。
翌日、アメリカ議会は宣戦布告を承認した。

ルーズベルトは議会で1941年12月7日を「屈辱の日」と呼び、
宣戦布告を認めるように議会と国民に求めた。
この日は米外交政策およびアメリカ国民の
世界観全般に強烈な衝撃を与えた。

奇襲によって、孤立主義を唱える者たちやアメリカ第一主義を
主張する者たちを含むすべてのアメリカ国民が団結した。
これ以上のものはなかった。

ショックと憤りが醒めるや、アメリカ国民は悪者探しを始めた。
真珠湾奇襲を事前に知りながらアメリカ国民を
対独戦争で一致団結させるために、
わざとアメリカ軍への警戒警報を出さなかったとして
ルーズベルトを悪者扱いする神話が依然として存在している。

だがルーズベルトは本当に知らなかった。
日本軍が真珠湾を攻撃するという事前の警報はまったくなかった。
確かにアメリカ軍は日本軍の暗号を解読していたが、
真珠湾奇襲については役に立たなかった。
なぜなら日本海軍は作戦行動中、すべての交信を途絶していたからだ。

アメリカ人は確かに日本人を過小評価していた。
その理由の一つは人種的な偏見からだった。
つまり、アメリカは攻撃以前の多くのシグナルを無視していた。
なぜなら、まさか日本人が遠く離れたハワイの標的を
攻撃できるような能力は持ち合わせていないと思っていたからだ。
ルーズベルトや軍部指導者たちは、
日本がフィリピンやタイを攻撃することは予想していた。
多くは不注意からしくじったが、そこには共同謀議などはなかった。

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日本の教科書『詳説世界史B』山川出版

日中戦争の短期解決の思惑は中華民国の抵抗によってはずれ、
日本軍はとくに中国共産党軍(八路軍)のゲリラ戦に苦しめられた。

巨額の軍事費と兵員の必要は、日本の経済を強く圧迫した。
この状況を打開するために、日本は南方への進出を企て、
フランスの敗北に乗じて1940(昭和15)年9月、
フランス領インドシナ北部に進駐するとともに、
三国防共協定を日独伊三国同盟へと発展させた。

これに対してアメリカは日本への石油供給を停止し、
イギリス・中国・オランダと提携して、
いわゆる「ABCDライン」を形成して対抗した。

1941年初めから行われていた日米交渉は、ほとんど進展を見ないまま、
同年12月8日、日本軍はまずハワイの真珠湾にある米海軍基地を奇襲して、
アメリカ・イギリスに宣戦し、太平洋戦争に突入した。

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第二次大戦後の中国共産党政権成立に対しての日米教科書の比較

◆アメリカの教科書

戦後の日本がアメリカにとって成功物語だとすれば、
国民政府軍と共産軍との間に繰り広げられた激しい内戦が
長く続いた中国はまさに好対照だった。

ワシントンは毛沢東の共産軍に立ち向かう蒋介石率いる国府軍を
物心両面から支援した。
が、蒋介石は政権内部の腐敗と不適当な言動から、
大衆の信頼を失ってしまった。

共産軍は南部を制圧、蒋介石は1949年後半には
最後の生き残りを台湾にかけて、中国大陸を逃れざるを得なくなった。

国民政府の崩壊は、
冷戦下でのアメリカおよび同盟国にとっては手痛い敗北だった。
全世界人口の4分の1近くの人類、
5億という人々が共産主義陣営に組み込まれることになってしまった。

「中国を失った」責任者を追及する共和党は、
トルーマン大統領と口ひげをたくわえて
イギリス紳士然としたアチソン国務長官を激しく攻撃した。

共和党はさらに、共産主義者が侵食している民主党の諸機関が
蒋介石に対する援助を意図的に抑えたために国府軍は崩壊してしまった、
と批判した。

これに対して民主党は、
蒋介石が倒れたのは中国国内の大衆の支援がなかったためで、
いかに外部からの援助があっても救うことはできなかった、
トルーマンが中国を失ったというが、
トルーマンにはもともと失うべき中国などなかった、
蒋介石自身、中国全土を支配したことなどなかったからだ、と反論した。

◆アメリカの他の教科書

蒋介石を支援してきたアメリカとしては、
中国が共産主義国家になるのを見たくなかった。

第二次大戦中、アメリカは中国が国民党の下で統一するよう、
兵隊派遣を含む軍事援助や経済援助を行ってきた。
トルーマン大統領は1946年ジョージ・マーシャルを中国に送り、
国府軍と共産軍とに停戦に応じるよう交渉したが、
双方ともに妥協しようとしなかった。

蒋介石は鉄道、道路、工場などを建設して中国の近代化を助けたが、
政権は急速に大衆の間では不人気となっていった。
日本との戦争は経済を破綻させ、インフレに見舞われた。

蒋介石はこうした経済問題にほとんど対処できなかった。
また貧農を救うための土地改革にはいっさい手をつけなかった。
 
さらに政権内部の汚職腐敗やすべての反対政党の結社を禁ずる独裁政治から、
国民党は急速に大衆の支持を失っていった。
蒋介石に対する反対勢力は日増しに力を強め、
毛沢東率いる共産軍は1949年までには中国のほぼ全土を掌握した。

敗色濃しとみた蒋介石と国府軍は台湾に逃れた。
そして中国共産党は中華人民共和国を建国した。

共産軍の勝利にがっくりしたアメリカは、
その後国府を中国の合法政権と認め続けた。
国連安保理常任理事国の「中国」の議席は、
第二次大戦後も1971年まで蒋介石の台湾政府に与えられた。

―――――――

日本の『詳説世界史B 改訂版』

中国は、日本の侵略に耐え抜き、
戦後五大国の一員として重要な地位を認められた。
しかし、国内では大戦末期から再燃した国共両党の対決が続いた。

蒋介石は、1947年には新憲法を発布して、翌年総統となったが、
国民党の支配は内部の腐敗や汚職がめだち、
経済も悪化したため、民衆の批判をあびた。

一方、中国共産党は毛沢東の指導のもとに新民主主義論をとなえ、
農村部で土地改革を指導して支持をかため、
47年なかばから人民解放軍によって反攻にでた。

国民党軍は敗退をかさね、49年12月蒋介石は大陸から追われて台湾にのがれ、
ここで中華民国政府を維持した。

中国本土を掌握した中国共産党は、
1949年9月国民党をのぞく民主勢力を北京に召集して
人民政治協商会議を開き、10月1日毛沢東を主席とし、
周恩来を首相とする中華人民共和国の成立を宣言した。

新国家の首都は北京と定められた。
人民共和国は50年に土地改革法を公布して農民に土地を分配し、
さらに財閥所有の企業を国営に移し、伝統的な家族制度の打破を実行した。

第二次世界大戦後、アジアで最初の社会主義大国となった中国は、
反植民地運動や民族独立運動にとって一つの手本となった。
新中国は、社会主義諸国をはじめ、インド、イギリスなどから承認されたが、
アメリカ合衆国は台湾の中華民国政府を正式の中国代表とする立場をとった。
2009/04/22 09:00|年表リンク用資料
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