正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観。「日本の対応に間違いがなければ すべて うまくいっていた」という妄想が自虐史観。どんなに誠意ある対応をしても相手が「ならず者国家」なら うまくいかない。完璧じゃなかった自虐エンドレスループ洗脳=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=団結させない個人主義の洗脳

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血盟団事件、5.15事件、2.26事件

・1932年(昭和7年)2月9日、血盟団事件
・1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件
・1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件

「血盟団事件 五・一五事件 二・二六事件」の大きな流れ。

■原因

1.弱腰外交、国防軽視への不満。
2.世界恐慌による不況で貧富の差が、ますます激しくなっている事への不満。

世界恐慌で国民の生活が困窮していくなか、
ソ連の五ヵ年計画が成功しているように見えて魅力的なものだった。

世界大恐慌は保護貿易思想が大きな原因だったのだが、
あたかもマルクスの「予言」が的中したかのように理解され、
マルクス主義のプレステージを高めてしまった。

日本のインテリもマルクスに傾倒した。
日本の青年将校までも支配階級、資本家、政治家が悪いから、
自分たち兵士の実家が貧乏なのだと思い込まされてしまう。

政治家は無能で私利私欲に没頭して財閥に操られ、
マスコミも財閥の支配下にあるから
何とかしなければならないという義憤にかられていく。

■目的

天皇を頂点とする社会主義的政策を目指す。

■手段

・陸軍の統制派(上層部)は合法的に目指す、いわば穏健派。
・陸軍の皇道派(中堅の青年将校ら)は非合法で目指す、いわば急進派。

■結果

皇道派がクーデターを起こして自滅したが政治家はビビってしまい、
統制派の政治的な影響力が増大し、
天皇を頂点とする社会主義を目指しやすくなった。

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●1932年(昭和7年)2月9日、血盟団事件

日本を大東亜戦争に走らせた思想の本質は社会主義でした。

世界中が1929年(昭和4年)に始まった大恐慌に苦しんでいるときに、
五ヵ年計画が成功しているように見えたソ連の政策は魅力的なものでした。

「統制経済を取り入れたい、
しかし、天皇制の廃止を唱える共産党は許せない。」

このジレンマの中で、俄然、影響力を持ち始めたのが、
「天皇をいただく社会主義」、「右翼社会主義」でした。

代表的な思想家は北一輝や大川周明であり、彼らの論旨は、

「皇室以下にある上層の諸階級、
すなわち華族、地主、資本家などの裕福層を抹殺せよ」

というもので、まさに「社会主義」だったのです。

彼らは右翼であるがために天皇を仰ぐ。
しかし、「天皇」を「スターリン」に置き換えれば、
ソ連のスターリンとまったく同じものになる。

この右翼社会主義は、特に青年将校に浸透しました。

彼らは安月給なのに、
大将や華族、地主、資本家たちは裕福な生活を送っている。

彼らの部下の兵隊たちは、世界大恐慌による不況下で、
困窮を極めていた農村出身の者が多かった。

農村の娘たちが身売りしているという話を聞いた彼ら青年将校たちは、
日本の体制に対する義憤も感じていました。

こんな不公平を野放しにしている政府は腐敗していると思いました。
そんな彼らが右翼社会主義に飛びつきました。

彼らは北一輝らの理論から昭和の社会変革「昭和維新」を夢想し、
腐敗政治の是正と上流階級の粛正を目指そうとする。

このことはやがて軍の独走態勢を決定付ける一因になります。

◆陸軍の「皇道派」と「統制派」

右翼社会主義が台頭すると、
陸軍内に皇道派と統制派という二つのグループが生まれました。
この二派は抗争を繰り返していたので誤解されやすいのですが、
一つの穴の狢でした。

両派とも、天皇の名において議会を停止し、
同時に私有財産を国有化して、
社会主義的政策を実行することを目指していました。
そうすることで、ブロック経済による大不況を解消し、
強い日本を作ろうというのです。

両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論だけでした。

皇道派は、二・二六事件を起こしたことからもわかるように、
テロ活動によって体制の転覆を狙うグループでした。

彼ら若手将校が唱えていた「昭和維新」とは、
要は「天皇の名による、そして天皇をいただく社会主義革命」でした。

これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、
合法的に社会主義体制を実現することを目指しました。

これ以外は、ほとんど皇道派と変わりません。

●1932年(昭和7年)2月9日、前蔵相・井上準之助が、
続いて3月5日には三井財閥の団琢磨(だんたくま)が射殺されました。

捜査の結果、組織的な暗殺計画が明らかになりました。
盟主の井上は日蓮宗の僧侶でした。

ブロック経済によって日本はますます窮地に立たされる中、
右翼社会主義に心酔した青年たちや
陸軍青年将校たちの動きも激しくなっていました。

「世の中が不況で苦しんでいるのに、
財閥だけが為替相場で儲けているのはけしからん」

ということで団琢磨は暗殺されました。

社会主義者の目から見れば、
まったく合法的な自由経済活動ですら、腐敗に見えました。
彼らにとっては、自由主義経済そのものが悪に見えたのであり、
それを攻撃するための生贄として、
まず財閥首脳を選んだにすぎませんでした。

それは、支那事変ののち、
彼ら右翼社会主義者たちが政権を取るようになったとき、
財閥のみならず、すべての商業活動が制限されたのを見ればわかります。

この動きは、
1932年(昭和7年)5月15日の五・十五事件、
1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件へと続きます。

●1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件

1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結への不満、
そして世界のブロック経済により、ますます日本が窮地に立たされる中、
右翼社会主義に心酔した青年たちや
陸軍青年将校たちの動きが激しくなっていました。

血盟団事件に続き、1932年(昭和7年)5月15日には、
満州問題を話し合いで解決しようとしていた政友会の
犬養毅首相が海軍青年将校の一団によって暗殺されました。

これで8年間続いた政党内閣の時代は終わり、
その後しばらくは軍人や官僚出身者が首相に任命されるようになりました。

このテロは1936年(昭和11年)2月26日の二・二六事件へと続きます。

●1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件

1932年(昭和7年)の血盟団事件や五・一五事件に
引き続いて起こった重大事件で、
この事件を契機に軍部の政治的発言権が強固になりました。

陸軍には皇道派と統制派という派閥がありました。

軍部を中心とした右翼社会主義政権を樹立するために
皇道派がクーデターを起こそうとしました。

その目的は、軍部を中心とした
「天皇をいただく社会主義政権」を作ることでした。

●1936年(昭和11年)2月26日朝、
1400人の兵士が首相官邸や警視庁などを襲撃し、内大臣の斉藤実、
大蔵大臣の高橋是清などを殺害し、永田町一帯を占拠しました。

岡田啓介首相は殺されたという知らせが入りました(実際には生きていた)。

このため政府がなくなったという事態なので、昭和天皇は断を下しました。

本来、軍隊を動かすのは天皇の許可がないといけないし、
平時編成から戦時編成へのの切り替えは天皇だけができるのに、
青年将校たちはそれにそむいて軍を動かし、
しかも天皇の重臣たちを殺しました。

そこで天皇が「彼ら青年将校は叛乱軍である」とご発言になり、
反乱分子を許さない断固たる決意を示されました。
このため反乱は3日間で鎮圧され、
首謀者の青年将校と思想的指導者の北一輝は逮捕、処刑されました。

これによって皇道派は自滅し、統制派が主導権を握り、
彼らの意思は陸軍の意思であるかのような状態になりました。

その弊害は、早くも次の組閣に現れました。

広田弘毅内閣の顔ぶれに自由主義的な思想を持つ者や、
軍部に対立する者が見られたため陸軍大臣が反発したのです。

山本権兵衛内閣のときに
軍部大臣現役武官制(現役の軍人が軍部大臣になる)は
廃止されていましたから、
広田首相は他の者に打診すればいいことでした。

しかし、広田は二・二六事件の再現を恐れてできませんでした。
反乱軍が首府の一部を占拠するという未曾有の事件は、
それほど大きな後遺症を残しました。

その後、同じく広田内閣で軍部大臣現役武官制が復活し、
陸軍内に政治外交を担当する部署までできてしまいます。
陸軍の意思に反して組閣はできなくなってしまいました。

こうして統制派の意思は陸軍の意思となり、
それがついに政府をコントロールするという事態が生じました。
すでに統帥権干犯問題によって軍に干渉できないとされていた政府は、
いまや陸軍の傀儡政権になってしまったのです。

ロシア革命
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マルクス主義、共産主義
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2009/04/21 09:00|年表リンク用資料
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